絶望に差し出された愛の手
「ありがとうございましたー。またのご来店をお待ちしております」
お客様が帰っていく。俺はマニュアル通りの挨拶を放ち、お客様を見送る。
バイト先の一つであるこのコンビニは、現在経営難に陥っているのである。
先程の客は約四時間ぶりのお客様だったってわけだ。
(そろそろ、別のバイトを探した方がいいのかな……)
心の中でぽつりと思う。だが、こんなことを考えたのは初めてではない。
何度も辞めようと思った。思ったのだが、やはり、辞めなかった。
それはもう一人のバイトである『東 愛華』の存在である。
俺はこの子のことを考えると、バイトを辞めるなんて考えはすぐに吹き飛んでしまった。
「先輩、商品の補充しておきますか?」
腰まで届くほど長いポニーテール、ときどきずれる黒縁メガネ、そして一つ年下の後輩。
はっきり言って俺の好みのドストレートを射ている!
「いや、いいよ。減ったって言っても駄菓子とジュースだけだし、補充するほど減ってないし」
「そうですか。……なんだか暇ですね」
東はやることがないのか、レジの方に回って俺の隣まで来た。
当然、俺の心中なんてカーニバル状態で騒ぎまわっているのだが、それを決して顔に出したりしない。
あくまでもクールな俺を演じるのだ。だってそっちの方がかっこいいだろ?
だが、ここで無言の間が空くのは男として魅力が無いと思われかねない。俺は意を決して彼女に話しかけることにした。
「そ、そういえば、東さんはなんでここでバイトをしようと思ったの?」
「え……そ、それは……」
東は口ごもり、もじもじし始めた。
ま、まさか――地雷を踏んだか!?
「あ、ご、ごめん! 話したくないなら話さなくてもいいんだよ? ごめんね、配慮がなくて……」
ああ、これはミスったな。くそぉ、十秒前の俺を殴って黙らせてぇ。
「えっと……先輩がいたから、なんて。なんだか気持ち悪いですよね。ごめんなさい。今のは――」
「そんなことないよ! 俺は嬉しいよ!」
気づけば俺は東の両肩を掴んでいた。咄嗟のことで、何も考えずにやってしまったため、このあとどうしたらいいのか分からなくなり頭の中が真っ白だ。
顔の距離も近いし、東も目をパチクリしている。
パニック状態で思い浮かんだのは「離れなきゃ」だった。
手の力を抜きかけたその時だった。
「…………」
東は目を瞑り、唇をこちらに向けるように顔を上げた。
こ、これは――キスチャンス!?
「…………」
またしてもパニック状態になるが、これはもう答えが出ていた。
俺の方も目を瞑り、キスの体勢を整える。
二人の距離は徐々に縮まり、鼻がぶつかりそうになった瞬間。
「おーい、お前らはもう上がっていいぞ。あとは俺がやっとくから」
店長の登場により、俺たちは一瞬で離れた。
「は、はーい。上がります」
二人は背中を向け合った状態で店長に見つかり、バイトの終業を告げられた。
「……じゃ、またね、沢渡先輩。…………あともうちょっとだったのに」
そう言って東は、中の休憩室に消えていった。
俺はその場に取り残されたのだった。
最後に何か言っていたようだったが、よく聞き取れなかった。
その後、遅れて俺もバイト先を出た。
◇ ◆ ◇
無事アパートに帰宅した俺は、制服のままベッドに倒れ込んだ。
倒れたまま手探りで枕を掴むと、顔の下に持ってくる。
「うあああああああああああああああ!!! キスしたかったなあああああああああああ!!!」
健全な男子高校生の悲鳴は隣人のうるさいの一言で一蹴されてしまった。
◇ ◆ ◇
――翌日。
俺は悶々とした気持ちのまま学校に登校した。
「おうおう、幸希。今日も朝の新聞配達でお疲れかい?」
こうやって見るからに疲れている相手にも臆せず話しかけるこの男子は、俺の親友の相葉 透流だ。
もちろん、今日の疲れはバイトからではない。
「いや、今日は新聞配達の日じゃない。……昨日、バイト先でちょっとな……」
「昨日っていうとあの潰れる寸前のコンビニか?」
「そう。そこの一緒に働いてる後輩とちょっとあってな」
「なんだよ、またなんか嫌われるようなことしたのか?」
「またって言うな。初めてだよ(いろんな意味でな)。それにその逆っていうか……」
そこで透流はため息を一つ吐いた。
見るからに「やれやれ」とでも言いそうな顔で。
「まあ、何があったのかは深く聞かないけどさ。ちゃんと休みも取らないとお前が先に潰れちまうぜ」
「はは、そうかもな」
俺の口からは乾いた笑いだけが漏れた。
そして始業のチャイムが鳴り、透流は自分の席に戻っていった。
◇ ◆ ◇
――昼休み。
四時限目が終わりこれから昼食タイムだ。
貧乏人にとって食事は最も重要な出費の一つであり、どれだけの低コストで腹持ちのいい食事を摂取するかによって一ヵ月のバイトの量が決まる。
「おーし、幸希メシ食いにいこーぜ」
「ならいつもの場所だな」
そう言って透流は購買部へ、俺は裏庭の方へ足を向けた。
この学校には校庭の反対側に園芸部が所有する花壇と裏庭がある。この季節ならまだアジサイなどが咲いているだろう。
俺は花壇の脇に設置してあるベンチに腰掛ける。
一息ついていると透流もやってきた。
「おーい、幸希、メシ持ってきたぞー」
「今日は早かったな。お目当てのものは買えたのか?」
「おうよ! 今日はな、焼きそばパンとチリチーズブリトーとカメロンパンだ」
「多いな……。それに”カメロンパン”ってなんだよ」
「そりゃあ、亀みたいなメロンパンって感じかな。俗に言うスイーツパンってやつだよ」
「そうかい……」
なんだか理解できない範囲に来てしまったようで、思考をストップして会話の流れを切ることにした。
そしていざ、昼食タイムに入ろうとしたところでまたしても来客が来てしまった。
「なに、アンタたち二人なわけ?」
「あ、城倉さん」
「んげっ、城倉かよ」
やって来たのは城倉 沙織。明るい茶髪を肩まで伸ばし、雰囲気から活発そうな印象を受ける少女だ。
彼女は俺たちと同じクラスで園芸部員でもある。
「んげってなによ、相葉! アタシは園芸部の当番で来たのよ!」
「まあまあ、喧嘩はやめようよ」
睨み合っていた二人は、ぷいっとそっぽを向く。二人は顔を合わせるといつもこうやって喧嘩のようなものに発展する。でも心の底から嫌っているわけではなく、ただ気が合わないだけなのだろうと思う。
すると、城倉は俺の横まで来た。
「ねえ、沢渡、ちょっと横に詰めてくれない?」
城倉は手に小さな包みを持っており、すぐにそれが弁当なのだろうと分かった。
俺は言われた通り、相葉の方に席をずらしていった。
「お、おい! 俺の場所が無くなるだろうが」
「アンタは空気椅子で十分なのよ」
二人があまりにも揉めるので俺はじゃんけんを提案した。
結果は――
「じゃ、ありがたくご相伴にあずからせてもらおうかしら」
「ぐぬぬ」
城倉が俺の横に座り、透流が目の前で正座することになった。
「透流、席変わってあげようか?」
「ダメよ、沢渡。これはコイツが自分で『負けた方は目の前で正座して食事をとる』って言ったんだから、席を譲る必要はないのよ」
「そ、そうか……」
なんだか透流がかわいそうだな、とか思ったがそのまま食事をとることにした。
「あれ? 沢渡の食事ってそれだけ?」
城倉は俺のビニール袋から取り出すパンの耳を見てそう言った。
「うん、まあ。でも今日はいつもより多いんだよ?」
俺はビニール袋の中から紙パックを取り出して見せる。
「なんと、今日は昨日バイト先の店長から売れ残りでもらった野菜ジュースがあるのだ!」
パンの耳はパン屋バイトでもらった余り物で、野菜ジュースはコンビニからもらったこれまた余り物。総額0円! 貧乏人にはこれほどうれしいことはない。
「そんなんじゃ、栄養が偏るでしょ! ほらアタシの卵焼きあげるから」
城倉は自分の弁当箱から卵焼きを箸でつまみ、俺の口に運ぼうとした。
俺は一瞬戸惑い、視線をちらりと透流に送る。しかし透流は一人早く昼食を済ませ、横に寝転がり昼寝に耽っていた。
とりあえず、周囲の視線とかは大丈夫そうだ。いや、それでもこれは問題があるだろ。
「それだと城倉の分が減るだろ?」
「いいのよ。アタシは味見の時にも食べたから」
「味見って……。ってことはこの弁当は城倉の手作りなのか!?」
遅まきながらに気づいたことに俺は目をパチクリさせていた。
思わずゴクリと喉が鳴ったが、これは頂くほかない、と決心する。
「で、では、いただきます」
俺は城倉から卵焼きの一切れを口に入れた。
「あ……うまい! この味付け俺好みかも!」
「へー! よかった! アタシもこのくらいの味が好きでずっと作ってるのよ!」
「そーなんだ! もしかしたら俺たちって意外にも味の趣向が同じだってりしてな」
俺が軽く笑うと城倉も同調したように一緒に笑った。
確かに城倉の卵焼きはおいしい。いつものガサツな印象がひっくり返るくらいの衝撃だ。
「あ、そういえば城倉って園芸部の当番で来たんだよな?」
「そうだよ。今は夏の収穫と花の世話をしてるの」
実際俺は、園芸部がどのような活動をしているのかはっきりと分かっていない。知っているのはここの花壇で植物を育てているってことぐらいだ。
せっかくなので園芸部の城倉と仲良くなったついでにいろいろと聞いておこうと思ったのだ。
「へ~、それで収穫したものはどうしてるんだ?」
「収穫したものはね、自分たちで持って帰ったり、調理部の人たちに料理してもらったりしてるの」
「うわ~、羨ましいな」
学校で食材が手に入るなんてめちゃくちゃラッキーじゃん。あ、でも放課後はバイトとかも入ってるし、やっぱり部活はできないな。
「め、迷惑じゃなかったらアタシが作ろうか?」
「え……?」
「アタシが作った食材で沢渡のために料理を作るのっ!」
「お、俺のために……?」
半ば勢いで放ってしまった言葉に、城倉は遅まきながら照れてしまう。
そして俺も同時に嬉しさから頬が紅潮していくのを感じた。
二人の間に無言の時間が流れ、幾分が経ち、五限目の予冷が鳴った。
「あ、昼休みももう終わりか」
「そ、そうだねっ! アタシは花壇の世話をしていくから先行っててよ」
「わかった。遅れないようにね。……あと、料理もよろしく」
「うん、わかった」
俺は急いで透流をたたき起こし、教室へ向かった。
きっとこの時の俺は、すごく頬が緩んだ表情をしていただろう。
◇ ◆ ◇
――放課後。
授業の終了を告げるチャイムが鳴ると、俺は急いで帰り支度を済ませ、下足ロッカーへと向う。
すると、ちょうど下足ロッカーで透流と出くわした。
「お、幸希はこれからバイトか?」
「うん、これからコンビニのバイト」
「俺は陸上だからまた明日な」
そう言葉を交わし、俺たちは別れた。
そしてランニング中の部活生を横目に見ながら、まっすぐ校門へと向かう。
帰宅中は暇を持て余すので、イヤホンを耳に装着し、音楽を聴いている。
音楽は専ら洋楽を好むが、これには英語を日常的に聞き慣れておくという目的も含んでいるのだ。
そして現在ロック系が流れているのだが、まったく頭に入ってこない。
理由は背後から速度を落としながら迫る車のせいだ。
幸いなことにその車両が誘拐を目的としたものではないことはわかっている。
ボンネットにハイヤーを取り付けた高級車両がぴったりと俺の横につけると、後部座席の窓がウィーンと開かれる。
「ごきげんよう、幸希さん」
窓から顔を出したのは美少女であった。
端正な顔立ちで、風に流される黒髪の艶やかさからは高い気品を漂わせる。
実際この人は高貴な身分である。
『TOJO』は認知度を街頭インタビューすれば九割九分が知っていると答えるほどの世界的財閥の一つだ。内容は多岐にわたり、日常的に使われるものの一つは『TOJO』ブランドのものである可能性が高い。
そして彼女は、『TOJO』財閥の現代表取締役のご令嬢、東城 愛美お嬢様である。
「…………」
俺は気づいていないフリをして少し歩く速度を上げた。
それに追いつくようにして車の方も速度を上げる。
このままいたちごっこで競うのはこちらの疲労だけが募ることが分かり切っていたので元の速度に戻した。
「幸希さんはこれからご帰宅ですか?」
相変わらず東城のお嬢様はこちらに話しかけてくる。
いったい俺の何が気に入ってこんなに話しかけてくるのだろう、といつも思うのだが全く心当たりがない。
言ってみれば、東城と俺は月とスッポンのようなものだ。住む世界が違いすぎる。
また無言を貫いていると東城が話を続けた。
「よろしければお送りしましょうか? この後、またコンビニでバイトに勤しむのでしょう?」
突然の東城の言葉に一瞬ビクッとしてしまう。
『コンビニ』という言葉に一瞬違和感を覚えてしまう。確かに周囲の人たちには俺がいくつかバイトを掛け持ちをしていることは周知の事実となりつつある。
だが、その中でもバイトのスケジュールを知っているのは一部の人だけだ。普段から仲のいい人にしかそういうことは言っていない。少なくとも東城家のご令嬢にこんなことを話すわけがない。
どういうツテで知ったのかは分からないが、ここは墓穴を掘らないよう躱さなければいけない。
下手すればバイト先まで来そうだからだ。
「別にいいです。貧乏人に体力は必須ですのでこれもトレーニングと思えば苦にはなりません」
やんわりと断りつつも東城と俺との身分の差を見せつけることで、今後の接触を躊躇わせるいい返事だ。
金持ちってやつは大抵身分を重視し、自分よりも身分が低いものを見下す傾向がある。
俺はここで別れるつもりで小さく会釈をして足早に去ろうとした。
「お金でお困りなら、いいえ、何かお困りであればわたくしがお手伝いしますよ? なんなら我が家にお迎えしてもよろしいですわ」
その時、とうとう俺は冷静にいられなくなってしまった。
「俺は、絶対にアンタなんかに頼ったりしない!! 人を見くびるのもいい加減にしろよ!!」
それだけ言い放って俺は走って逃げた。
車に対して走って逃げるという愚策だが、車はそれ以上追ってこなかった。
「いいえ、あなたはわたくしを頼りますわ、絶対に」
◇ ◆ ◇
ここで『沢渡 幸希』という人物の生い立ちについて話そう。
彼はもともと家計的には貧しくも豊かでもない普通の家に生まれた。
その家庭が崩れたのは中学一年になってのことだ。
父の職場がとある大企業に買収され、多くの社員がリストラに遭い、父も漏れなく職を失った。
その時の父は四十も過ぎ、なかなか次の職に就くことはできなかった。
果てに父はギャンブルにハマり、家計を支えるのは母のパートだけになった。
その母も一年ともたず過労で帰らぬ人となった。そしてその後すぐ父は蒸発し、残った幸希は父の借金と共に母方の実家に引き取られる。
その後は母方の老夫婦に養ってもらい、中学を卒業し公立高校に入学するまで面倒をみてもらった。
高校入学を機に一人暮らしを決意し、バイトと学業の両立をしながら現在に至る。
無事コンビニに着いた俺は少し違和感を覚えた。
休憩室に知らない人がいたからだ。しかしコンビニの制服を着ていたので部外者というわけでないと思う。
(新しいバイトかな?)
気になったので先にコンビニ来ていた東に何か知らないかと訊ねた。
「ああ、新しい店長さんみたいです。前の店長さんは辞めちゃったみたいで」
「そ、そうなんだ」
なんだか急だなとも思ったが、あまり気にしないでおこうと決めた。
商品補充が終わると、やることが無くレジに立つだけの仕事になる。
これだけでそれなりの時給なので楽なバイトだ。
それから間もなく東も仕事がなくなりレジに移る。
これだけだと退屈な仕事でやりがいがないと思うかもしれないが、俺はそれでも東がいることで心のオアシスと思っている。
俺がそんなことを考えている間に東がほとんどぶつかりそうな位置に立っていた。
「あの、沢渡先輩」
「え、ど、どうしたの東さん」
この展開はまさか! と心中に淡い期待が込み上げてきて先日のあの場面が蘇えり頬が緩みそうになる。
しかしすぐに顔に出ないよう、平静を保とうと努めた。
「これ作って来たんですっ!」
「ん、なにこれ」
東が手に持ってるのはステンレス製の小瓶だった。
見た目は水筒だが、なぜ今ここに?
「これ、わたしが淹れた紅茶なんですけど、先輩に飲んでほしくて持ってきたんです」
「え……俺に?」
期待と違ったが、これはこれで嬉しい展開だ。
だが、あくまでこの子の前ではクールを貫くのだ。
「でも、今はバイト中だし……」
「今ならお客さんもいないし、店長さんは中にいるのでバレませんよ」
それなら断る理由はないな!
「じゃあ、いただこうかな」
「はいっ!」
東は水筒の上部を取り外し、それをコップとして扱い、中の液体を注ぐ。
まだほのかに湯気が立ち上る紅茶を手に東は俺に差し出す。
俺はそれを受け取り、そっと口づける。
「なんだか不思議な味だね。なんて言う茶葉なの?」
のどごしは良く、舌に残る甘味が強く印象に残る不思議さだ。
「これは家で栽培している特別な茶葉なんです。沢渡先輩のために、初めて淹れました……」
「初めて……」
その単語が頭にこびり付くように巡り巡る。思考がだんだん回らなくなり、纏まらなくなる。
「美味しいですか?」
「ああ、おいしい」
「まだまだおかわりがありますので、もっと飲んでください」
そしてまたコッブに紅茶を注ぐ。俺はそれを飲む。
これを何回繰り返したのだろう。途中からはっきりとした意識もなく飲んでいたようにも思える。
なんとも言えない癖になる味が止められないのだ。
辛うじて意識があったのはここまでだ。
倒れた感じもないのできっとそのままあの紅茶を飲んでいたのだろう、意識のない俺が。
◇ ◆ ◇
気づくと見慣れた部屋の天井があった。
俺は起き上がろうとしたが、身体が動かない。
まるで全身に重りを着けているかのように動作一つがとても鈍い。
これでは、朝のバイトにも行けないし、学校だってままならない。
「なんだ、これ……」
喉も押しつぶされているかのように低く小さな声しか出ない。
これは本格的にヤバイ状況かもしれない、そう悟った俺は救急車を呼ぼうとした。
だが、携帯を手に取って思いとどまった。
「救急車って呼ぶと金取られるんだろうか……」
そんな今気にするような事でもないことを延々と考えてしまい、結局何もできずに終わった。
この日は無断で――連絡ができなくて――学校を休んだ。
だが、この一日で沢渡 幸希の人生が一転するとは本人も気づかなかった。
◇ ◆ ◇
結局一日中寝たきりで過ごしてしまった。
夜のバイトにも行けず、起きたのは深夜、日を跨いだ時刻だった。
それから遅めの夜食を食べ、内職を少ししてからまた眠りについた。
――翌日。
体調はすっかり良くなり、ようやく学校に行けそうだ。
時間にも余裕がありそうだし、早めに学校に行ってみようか。
準備を済ませ、ドアを開けると、なんとそこには――
「あら、今日はお早いんですね」
東城 愛美がいた。
「なんで、あんたがここにいるんだよ……?」
「昨日はお休みになられたようなので、まだ体調も優れていないと思い、学校までお送りしようと来ましたわ」
笑顔でそう言う東城に対して、俺は不機嫌そのもので対応していた。
「別に頼んでない。いい加減俺に関わるのはやめてくれ」
「何かお困りでしたら、いつでもわたくしを頼ってくださいね。なんでも致しますわ」
俺は東城を無視して先に学校へと歩を進めた。
◇ ◆ ◇
学校に着くとすでに透流がいた。
「お、透流ってこんなに早く来てたっけ」
透流は一瞬肩をびくつかせて振り返った。
「や、やあ、幸希。お前も早かったな」
「まあな、昨日は休んでたし、提出物を終わらせないといけないし」
なんだか先ほどから透流の視線がうろうろとしているのが気になるが、何かあったのだろうか。
「ちょっと、トイレに行ってくるわ」
そう言って透流が立ち上がる。
「そうか、行ってら」
俺は透流を見送ると提出物に取り掛かる。
透流がいなくなると教室はしんと静まり、俺一人になる。
それから五分くらいして女子が来て一人ではなくなった。
透流が帰ってきたのは二十分後で、互いに何を話すわけでもなく始業のチャイムが鳴る。
――昼休み。
無事提出物を完遂し、裏庭に行こうとした時、
「なあ、今日は食堂で食わないか……?」
透流がそう提案し、俺は断る理由もないので食堂で昼食をとることにした。
食堂から帰ってくると教室が少しざわめいていた。
人だかりができており、みんなそこに集まっている。
そしてその中心にいたのは――城倉 沙織だった。
「なんで城倉が……」
よく見ると、城倉が囲まれているのは彼女が泣いているからだ。
ここからでも城倉の嗚咽の混じった声が聞こえる。
いったい何があったのか尋ねるため、その人がきに近づこうとした時、突然ドアがガラッと開かれた。
「沢渡 幸希はいるか!!」
そう叫ぶのは生徒会の腕章をつけた人たちだった。
突然自分の名前を呼ばれたことに動揺を隠せない幸希は少し上ずった声で答えた。
「はい! ……なんでしょうか」
「少しついてきてもらおう」
ここで下手に断れば状況が悪化するのは明白だ。
なので俺は素直にその生徒会の人について行った。
背後でみんなのざわめき声が聞こえる。
連れてこられたのは生徒指導室だ。
あまりこの部屋に対して良い印象を持たない俺は不安しかなかった。
「入れ」
そう言われ自分でドアを開けて中に入る。生徒会の人は中に入らないらしい。
入ると、中央に大きなテーブルが配置され、対面には二人の先生が座っていた。
一人は担任の先生だった。顔色を見るに良くない話なのだろう。
「まあ、座りなさい」
促されるまま俺は目の前の椅子に座る。
「今日、ここに呼ばれたことに思い当たりはあるか?」
「いいえ、身に覚えがありません」
先生の質問の意図が分からず、素直に今の気持ちを告げた。
「今日はだな、君に『花壇が荒らされた』件について疑いがあるから呼んだんだ」
「え、花壇って園芸部の……」
園芸部の、と同時に城倉の育てている花壇だとすぐに意識した。
「花壇のことは知ってるんだな」
「なら、これも分かるよな!」
担任の先生が話し終えると、隣のもう一人の先生がテーブルの下から取り出したビニール袋がドンッとテーブルの上に置かれる。
中身は学校指定の革靴だった。
「あ、それは俺の……」
そこまで言いかけたところですべてが理解できた。
「これは君ので合ってるんだね。――どうして花壇を荒らしたッ!!」
どうやらこの先生は園芸部の顧問の先生らしい。
しかし、俺に花壇を荒らした覚えはないし、荒らす理由がない。
「荒らしてません! 実際に俺は昨日休んでます! ……無断ですけど」
「だが現に証拠はここにあるんだ。君の靴の裏からは花壇と同じ土が付着していた」
証拠を上げられるとこちらは反論しづらい。
本当にやっていないのに。
「それで処分だが、花壇の修理費と一週間の自宅謹慎だ」
「修理費なんて払えません!! 今月バイトの量も少なかったし……」
それにやってもいない罪を被るなんて嫌だ。
「学校でも少しは保証をするから残りはどうか頑張ってくれ」
「ふんっ、大方花壇の野菜でも盗もうとしたんだろ」
最後にぼそりと呟いた園芸部顧問の先生の一言に、俺は胸が苦しくなった。
貧乏だから悪さをした、と。
そこからまた先生の話が続いていたが、俺の耳には入ってこなかった。
やがて解放された俺は教室へと戻った。
教室内はまだ騒然としていて、その集団を通り過ぎると、背後から声を掛けられる。
「ねえ、沢渡君、本当に沢渡君が花壇を荒らしたの……?」
俺はその問いにいち早く答えようとした。
それは誤解だ、と。
「いや、俺はそんなこと――」
「本当は弁当が不味くて、花壇の野菜で料理してほしくないから荒らしたんでしょ!!」
いったい何を言ってるんだ。
「だから、俺はそんなことしてな――」
「もういいよ、沢渡君は関係ない人だから……」
急に冷めた声音が胸に氷のように突き刺さった気がした。
周りからも、最低や人間のクズや貧乏人などと罵られ、一切俺の言葉を挟む余地はなかった。
ズキン、とまた胸が痛む。
苦しい。痛い。悲しい。寂しい。――逃げたい。
無我夢中で俺はその場から逃げた。逃げ先など無いのに何処か、安心できる場所を求めて走った。
いつの間にか学校から抜け出し、行く当てもなく走り続けた。
辿り着いたのはバイト先のコンビニ。
(ここなら、東さんが……)
そう思い、出入り口の自動ドアに駆け込む。
しかし、いつまで待ってもドアが開かない。
すると、ドアには張り紙があるのを見つけた。
そこには昨日付で経営破綻によりここのコンビニが閉店した旨のことが書かれている。
「ああああああああああああああ!!!!」
ついに嗚咽混じりの叫び声を上げた。
唯一と思われた安息の地さえもなくなり、もう東にも会えないと思うと、もう全身の力が抜けた。
倒れてドアの反射で映るのは涙で崩れた醜い自分の顔だった。
そして俺はそこで意識を閉じた。もうここで死んでもかまわない、と思いながら。
◇ ◆ ◇
「……せんぱい」
誰だ、この声は。
「……ください、せんぱい」
聞き覚えのある癒しの声。
「……起きてください、沢渡先輩」
この声は――東だ!
「東ッ!」
ガバッと起き上がるとそこは見慣れぬ場所だった。
手触りのいい上質なカーペット、特大のお姫様ベット、整然と揃えられた家具。
全て見慣れないものばかりだ。
「体調はどうですか、沢渡先輩」
そうだ、俺は東の声がして目を覚ましたんだ。
俺はもう分り切っている声の主に振り返った。
「東……?」
そこで戸惑ってしまった。声は東 愛華なのに、姿は――東城 愛美だったのだ。
思考が完全に停止した状態で、今何が起こっているのか理解ができなかった。
東の声のする東城で、東城の姿をした東。
「すべてを話しますわ。わたくしはずっと幸希さんのバイトで一緒に働いていましたわ」
今度は東城の声で語られた。
俺はまとまらない頭でどうにか言葉を紡ぎ出す。
「でも、東は後輩で……」
「年齢なんていくらでも誤魔化せますわ。いつだって世の中は嘘ばかり」
「声だってもっと高い……」
「んっん……この声ですか、沢渡先輩」
確かにこの声は東だ。
ということは――東城は東だったんだ。
俺の思考はそう結論を出した。
もう何も考えたくない。苦しいのは嫌だ。
「幸希さん、何かお困りですか?」
甘い言葉が耳朶を打つ。
心のどこかで俺は東城を頼ろうとしていた。
そっと首の後ろに腕が回され、俺は東城の手によって抱かれていた。
「学校に借金ができて……」
「わたくしが背負いますわ」
東城の声で何か重たい枷が外れようとした。
「みんなが俺のことを信じてくれなくて……」
「わたくしが幸希さんのことを信じますわ」
少しずつ東城に惹かれていた。
「バイト先のコンビニが潰れて……」
「わたくしが幸希さんを養いますわ」
東城なら俺を受け入れてくれるのかもしれない。
そう思考が横切った。
「俺、東城のことを頼ってもいい、かな」
「はい。わたくしは幸希さんの願いなら何でも叶えますわ」
もう、俺には東城しかいない。
「あ、幸希さん、いくつか言わなければならない事があります。許していただけますか?」
「うん、許すよ。もう俺には東城しかいないんだから」
俺は身体を東城に預け、夢心地の気分に浸っていた。
「花壇を荒らしたのはあなたの友人、相葉 透流さんです。ですが、あなたの靴を使うように指示したのはわたくしです。許していただけますか?」
「ああ、許すよ。俺にとって東城がすべてだ」
「ありがとうございます。それと、先日幸希さんに飲んでいただいた紅茶には、遅効性の薬が入っていました。翌日、身体が動かなくなるという薬です」
「許すよ。あの紅茶はおいしかったな、また飲みたいよ」
もう自分で何を答えているのか、覚えていない。
ただ分かっているのは東城が正しい、それ以外は間違っているという判断だけだ。
「コンビニについては東城グループが買い取り、経営難という理由をつけて廃業にさせてもらいました」
「仕方ないよ。でもいいんだ、ここに東城がいてくれるから」
東城の言葉が終わると、俺は安らかに眠りについた。
「幸希さん、ずっとずっと一緒にいましょう」
初めてヤンデレ作品を書いてみました。
書いてる間はとても楽しく執筆させていただきました。
好評であればまた違った作品にもチャレンジしたいと思います。
読んでくださりありがとうございました。