Episode19 人間の片鱗
間に合った。あと少しでも遅ければ、フィオの命はなかった。俺はナタリアの脇腹を蹴り飛ばしてフィオを庇うように前に立つ。
「簡単に諦めるなんてお前らしくないぞ、フィオ」
戦いを諦めかけていたように思えたフィオに励ましの言葉をかける。俺に戦う勇気をくれた彼女のそんな姿を見たくはない。
「助けに来てくれてありがとう、ジン。でも、君がどうしてここに?」
「話は後だ。今は目の前の相手に専念しろ」
これぐらいでくたばるほどナタリアはやわじゃない。俺は意識を彼女の方に集中させて長剣を身構えた。案の定、ナタリアは狂喜に顔を歪め、壁を思いっきり蹴って俺に飛び掛ってきた。俺は長剣を盾にして攻撃に備える。
「また会えたね、お兄さん。お話しようよ」
勢い良く振り下ろされた両腕の大鎌を俺は全身の力を使って受け止めた。以前よりもナタリアは力も速さも増している。だが、この前とは違って俺には彼女を止めるという明確な意思がある。昨夜のように簡単に吹っ飛ばされるヘマはしない。
「ナタリア。悪いが、お前と話している時間はないんだ」
「私の名前を知っているなんて……。そっか、警察から話を聞いたのね?」
不愉快そうにナタリアは眉を顰める。大鎌を振り下ろす力は更に強まり、じりじりと俺は徐々に後ろに押されていく。
「同情なんて要らない! 助けてあげたいとか、守ってやるとか、みんな嘘ばっかり!」
ナタリアは怒り狂ったように大鎌で何度も何度も切り付けてくる。あまりにも少女のその姿は哀れだった。
俺は隙を見て長剣でナタリアの体を弾き飛ばした。一瞬だけ彼女はよろけるが、すぐに体勢を立て直してまた襲い掛かってくる。しかし、冷静さを欠いた彼女の動きに以前のようなキレはない。いくら化け物染みた強さとはいえ精神的に彼女はまだ子供のままなのだ。
「もう、やめにしないか?」
「どうして!? まだ始まったばかりじゃない!」
「……俺に、泣いている少女と戦う事はできない」
ナタリアの目から涙がとめどなく溢れていた。これ以上、無益な争いをする意味はない。俺は隙だらけのナタリアの脇腹に回し蹴りを食い込ませてそのまま倒し、その首元に剣の刃先を向けた。
「今の君では俺には勝てない。大人しく降参してくれ」
「……」
唇を噛み締めてナタリアは黙り込む。彼女が正気に戻ったとはいい難いが、心に迷いがあるのは確かだ。俺と彼女の間を夜の静寂が流れる。いつの間にかナタリアは泣くのをやめていた。彼女は何も言わずに立ち上がり、俺に背を向けて路地裏を走り抜けていった。追撃はしない。ナタリアは精神を巣食う己の中の怪物と戦っている。彼女の復讐の結末がどうなるかは俺の知る限りではない。
「行っちゃった……ね」
俺の隣に歩いてきたフィオが、ナタリアの去った方を見て言った。
「ああ、そうだな」
「精神が魔物に完全に食われる前だったから、彼女は姿を消したんだろうね。次に会った時はもう彼女は人間ではないと思った方がいいよ」
フィオは深刻そうな表情でそう言うが、俺はたとえ魔物に堕ちようともナタリアを見捨てる気にはならない。
「そうだとしても、最後まで付き合うさ」
「……そっか」
フィオは何も口を挟まずに優しく微笑むだけだった。
「じゃあ、宿に戻ろうか。一週間分払っておいたからすぐに休めるよ」
「すまないな」
「大丈夫」
フィオは踵を返して宿に向かって歩き出した。彼女には迷惑をかけてばかりだ。今の所持金は銀貨二枚とあまりに少なくて、明日の朝食も食べれるかどうか心配で仕方ない。早くギルドで働いて金を稼ぎ、宿の分の金を彼女に返さなくてはいけない。やる事は山積みだった。
海神には人魚を模した美しい小さな石像がどの部屋の前にも置かれていて、その石像のとっている体勢は部屋によって異なっていた。職人の拘りが随所に見え、フィオの言っていたように他の宿よりも値が張るというのも頷けた。さすが海神の名を名乗るだけの事はある。
部屋に着いた俺とフィオは別々に部屋のシャワーを浴びてラフな格好に着替えた後、淹れた珈琲を啜っていた。部屋に置いてあったその珈琲は、何ともいえない絶妙な苦味と深い味わいがあって戦いで疲れた体に染み入るようだった。
「便利屋リリス……か。俺も名前だけなら聞いた事があるな」
俺達は今日のお互いの出来事を報告していた。フィオが襲われたという便利屋リリスには聞き覚えがある。記憶の殆どを失っているので詳しくは思い出せないが、確かそういった名前の有名な都市伝説があったような気がした。
「探っていた私を消しにきたし、その女性と刺青の男に繋がりがあるのは間違いなさそうだよ」
「だが、ナタリアに利き腕を切り落とされたんだろ? 深手の状態で襲ってくることはあり得ない」
「うん。今のところ危険はなさそうだよ。それにしても、あんなに疑われていたのによく監獄から出られたね」
「俺がナタリアを止めるとあの支部長に言ってやったからな」
「これからの彼女の動き次第では殺し合いになる可能性は大いにある。私も全力で戦うけど君もくれぐれも気を付けてね」
「わかった。……俺の我儘に付き合わせてしまってすまない」
「今更、何を言ってるの? 合成魔獣を倒すのは私達の役目だよ」
「……ありがとう」
「仲間の手助けをするのは当然でしょ?」
そう言って悪戯っぽく笑うフィオに俺は申し訳ない気持ちで一杯になった。彼女はナタリアと対峙してあれだけの恐怖を植えつけられた。だというのに、あの少女との決着を着けたいという俺の我儘に何も不平を言わずに協力してくれるのだ。本当にフィオは良い仲間だ。感謝してもしきれない。
お互いの報告を終えて、珈琲もちょうど飲み終わった頃、フィオは突然はにかみながら俺に言った。
「ねえ、ジン」
「なんだ?」
「……助けに来てくれて、ありがと」
「仲間を助けるのは当たり前だろ?」
俺がさっきのフィオのように即答すると彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものような優しげな微笑を浮かべた。
「そっか。おやすみ」
フィオはそう言って素早く自分のベッドに潜り込んだ。彼女が涙ぐんでいたのは俺の気のせいだろうか。
「目にゴミでも入ったか?」
「……馬鹿」
「何か悪口を言われた気がするんだが」
「なんでもない! ほら、早く君も寝なよ」
掛け布団を深く被るフィオに急かされて、俺はベッドに大の字に寝転んだ。高級宿のふかふかのベッドはやはり寝心地が良く、すぐに眠気が押し寄せてきて俺の意識は蕩けるように消えていった。




