Episode1 内に潜む怪物
森を出るまではここの地形に詳しい彼女に同行してもらうことになり、今夜は移動を止めて比較的安全な場所を見つけて野宿することにした。結局、フィオは俺の記憶を奪った者の正体については「明日話すから」とだけ言って取り合ってくれなかったので床につくのは早かった。
しかし、彼女の話が気になり目が冴えてしまって俺は寝付くことができずにいた。それに、どういうわけか嫌な汗が全身から止まらなかった。耐え切れず寄りかかっていた大木から体を起こし、近くの池に顔を洗いに行くことにした。
フィオはすぅすぅと寝息を立ててぐっすりと寝ていたので、起こさないように静かに立ち上がる。今、無邪気な寝顔を見せている彼女があの化け物を一瞬で倒すほどの実力の持ち主にはどうしても思えなかった。
俺は最初、池に映る姿が自分のものであると認知できなかった。
悪夢ではないかと顔を洗って確かめたが何度見ても変わらず、それが現実だと認めざるを得ない。池に映っていたのは人間などではなく、半身を漆黒の鱗に身を包んだ化け物だ。右の肩口からは棘状の突起物が服を突き破っており、顔半分にも鱗が侵食していた。
「どうして自分がこんな姿に? そんな顔をしているね」
声の主はフィオだった。彼女はいつの間にか起きていたらしく、音もなく俺の背後に立っていた。
「君はこの姿に驚かないのか。当人である俺ですら奇怪に思う化け物だ。人間の君ならなおさら気味が悪いだろ」
自嘲気味に俺は呟いた。恐れもせずに人外の姿をした俺に話しかけてくるフィオの考えが全くわからない。たとえ、襲われたとしても簡単に殺せるからだろうか。彼女の実力も考えも理解の到底及ばない場所にあるようだ。
「別に大丈夫だよ、君は“人間”だろ?」
「……確かに、心は人間だ。だが、いつこの精神さえも化け物に侵食されるか自分にもわからない」
「それでも、人であることを決してやめてはいけないよ。もし自分を見失いその強大な力に呑まれてしまったのなら君は魔物に墜ちてしまう」
フィオはこのような異形の存在の俺をまだ人だと思ってくれているらしかった。彼女は一体何者で何を知っているのだろう。俺が記憶がないと話したことにさして驚きもせず、俺自身、理解のできていないこの事態に大した動揺も見えない。むしろ慣れているようだった。
「君は一体、何者なんだ」
「……そろそろ頃合いだね。さっきは話しても分かってもらえなさそうだったから、君の状況が明確になった時に話そうと思っていたんだ」
「最初から君は俺がこうなることを分かっていたのか?」
フィオは真剣な表情で頷き、おもむろに話し始めた。
「君から記憶を奪いその肉体に人ならざる異形を植えつけた者、その名はデュランダル。その男のことを話すにあたって、まずはさっき君を襲った怪物、合成魔獣について説明するよ」
「合成魔獣?」
「そう。デュランダルの手によって造られた彼らは、別々の遺伝子を掛け合わせて作られたいわゆる人造生物だ。元となった複数の生物の遺伝子を同時に受け継ぐ事により、その戦闘能力は元の生物よりも遥かに高い。それに加え、彼らは非常に凶暴で野放しにすれば生態系を狂わせかねないんだ。それこそ、この森のようにね」
「だから、この森には全く小動物の気配が感じられないのか」
「そういうこと。デュランダルは私と同じ考古学者でね。彼の明確な目的は実のところ私にもまだわかってはいない。ただ、合成魔獣を造り出した彼の研究は人類を脅かすほどに危険なものとなってきている。デュランダルは作品と呼んでいたけど。到底、私には理解できなかった。全く生き方の異なる生物同士を組み合わせて合成魔獣を造りだして、それらを更に組み合わせる。その繰り返しでもう元の生物が何なのかもわからない化け物を生み出すことに何の意義があるんだろうって。話を戻すけど君も彼のいう作品の一つというわけ。これで彼の研究が狂気を孕んでいることが少しはわかるでしょ?」
驚きと怒りで言葉も出ない。顔も知らない狂った男の研究のせいで、俺は記憶の大半を失い、人であることすらも奪われたというのか。
「俺は、どうすればいい」
「もう、普通の人間として生きていけないと知って、君はそれでも生きたいと思うの?」
俺はすぐにフィオの問いに答えることができなかった。記憶もないのにやり残したことなど覚えているわけもなく、一体、俺はどうしたいのか。しかし、心の底でこの世への未練のようなものを感じ取っていた。明確に形などはない。だが、何も思い出せないまま死にたくない。
「俺はまだ……」
「君がその力を持て余し魔物に堕ちるのなら、この場で自決してくれた方がいい。自分でできないのなら私が殺ってあげるよ」
耳が痛いがおそらく彼女の言っていることは正しいのだろう。俺はもう人でなくなっている。先ほどから、精神が何か黒いものに蝕まれている気がしてならない。このままその何かに人の心さえも奪われてしまったのなら、俺には何も残らないだろう。そんな終わり方は絶対に嫌だった。
「悪いがその申し出は遠慮させてもらう。自分の尻拭いくらいは自分でする。俺はまだ、生きたいんだ。たとえ、記憶がなくてもいつかきっと取り戻す。だから、内に潜む怪物には負けない」
「そっか」
フィオは安心したように微笑を浮かべた。彼女が何を考えているかはわからないが、俺は間違ったことを言ってはいないようだ。
「少し意地悪をしてすまなかったね。私はデュランダルを追っている。君が自分の記憶を取り戻したいと言うのならあの男に直接会って問い質すといい」
「君の旅に同行してもいいのか?」
「ああ、構わないよ。今、あの男を止めることができるのはもう私だけしか残されていない。一人でも仲間が増えてくれるのは心強いからね」
「ありがとう。あと、一つ聞きたいんだが何故、君はデュランダルを追っているんだ?」
途端にフィオの表情は険しくなった。先ほどまでの優しげな微笑みは即座に消え失せ、彼女の表情は暗く口を固く結んでいる。聞いてはまずいことだったのだろうか。俺が謝ろうとすると、その前にフィオは無表情で淡々と言った。
「仲間への復讐、そして元同業者であるあの男の過ちを私自身の手で止める為、かな」
「……そうか」
フィオの言葉に暗いものを感じたので深くは聞かないことにする。化け物退治をしている時点で彼女にも深い事情があると分かる筈なのに迂闊だった。
話題を変えようと思い、俺は彼女がどうやって俺を襲った化け物を一瞬で倒したのかを尋ねた。しかし、またもや彼女は険しい顔で黙り込んでしまった。
「……あまり見せたくはないのだけど」
渋々といった様子で彼女は俺の方を向いて両腕を広げた。まるで自分の身を投げるような、そんな不吉な連想をさせる体勢だ。その次の瞬間、彼女の顔を含めた肌の見える部分全てに紫色の血管のような線が浮かび上がった。
「私はデュランダルにトリカブトの遺伝子を植えつけられた。この紫は全て毒腺で、人であろうと化け物であろう他の生物がこれに触れればすぐに猛毒が全身を蝕み死に至る。さっきの化け物もこの猛毒に触れてすぐに死んだだけの話だよ。戦闘も何もあったんじゃない。ただ、私は殺しただけ。君と違って自分で制御できるのが唯一の救いだけどね」
彼女にかけられる言葉が俺にはなかった。その紫色を彼女はため息をつくようにして消し去ると、作り笑いのような笑みを浮かべて言った。
「これでお互いに隠し事はなしだね、これからよろしく」
「あ、ああ、よろしく」
「今日はもう遅い。君も早く寝ないと明日動けないよ。半分人外とはいえ半分は人だからね。じゃあ、私は先に失礼するよ」
くるりと踵を返すとフィオは静かに森の中に消えていった。俺は彼女の寂しげな背中に何も言えず、ただ呆然と立ち尽くしていた。