Episode0 出会い
気が付くと俺は見知らぬ森の中に倒れていた。陽の光が茂る木々の隙間から差し込んでいるものの、森は薄暗くて奥が見えない。
どうして、俺はこんな場所にいるのだろうか。それが、全く思い出せなかった。名前や生い立ちすらも思い出せない。俗にいう記憶喪失といものか。自分が何者であるのかわからない感覚に眩暈がする。
だが、こんな不気味な森にいつまでも長居するわけにもいかない。日が落ちれば森は魔物の巣窟と化す。無闇に夜の森に足を踏み入れた旅人共は彼らの晩餐となるのだ。俺は体の節々が痛むのを感じながら、微かな陽の光を頼りに真っ暗な森の中を歩き始めた。
どれほどの時間を歩き続けただろうか。陽が落ちて辺りが真っ暗になり、前後もわからなくなって、ようやく俺は一本の大木の根元に腰を下ろした。
結局、昼中の内に森を抜ける事はできなかった。森は非常に入りくんでいて出口は見つからなかった。けれど、少しずつではあるが確実に外に近付いているような気がする。明日には出られるだろうか。ともあれ、一晩は夜の危険な森の中で過ごさねばならない。
そう言えば、目を覚ましてから何も口にしていない。幸い、俺のものらしきずた袋が目覚めた時に近くに落ちていたので回収している。暗くてよくは見えないが、ずた袋の中を漁ってみると干し肉が四切れと少量の水が入った水筒があった。
干し肉を一切れ口に放り込み、水筒に残った水でいっきに喉の奥に流し込む。歩き続けて疲労困憊した体に染み渡った。食料はあと三日は保つぐらい入っているが、水はなるべく早く確保しなければなるまい。
夜になって森の獣達の気配は更に強まった。俺はそれらに腰に差したナイフ一本で立ち向かわなくてはならないのだ。森という獣の住み慣れた地形、彼らの狩場。鳥目の人間が満足に戦える筈もない暗闇。圧倒的にこちらが不利な状況では一瞬の隙が命取りとなる。今宵はどうやら眠れそうにない。
突然、背後の木々の葉が激しく揺れ動いた。直後、獣の微かな息遣いと忍び寄る気配を感じた。俺はナイフを引き抜いてすぐに立ち上がり後方を確認する。暗闇でその姿の詳細は分からなかったものの、巨大な一つの影を視界に捉えた。夜を切り裂くような真紅の双眸。向けられた殺意にこちらから動くのは危険だと身構えた刹那、先ほどまで俺の寄りかかっていた大木が、獣の鋭利な鉤爪にいとも容易く両断された。地面を強く蹴って倒れてくる大木を回避したが、少しでも反応が遅ければ自分まで体が真っ二つになっていたのかと思うとぞっとする。
大木が倒れた事で開けた空から月明かりが差し込んで獣の姿を照らし出し、予想を遥かに超える獣のその風貌に絶句した。その姿はまるで禍々しい悪魔のようだった。上半身は蝙蝠、下半身は蜘蛛に似た全長四メートルを越す化け物。気色の悪い六本の足で異形の羽を羽ばたかせ這い寄るその姿はもはやこの世のものとは思えなかった。
この森に感じていた薄ら寒さの正体をようやく理解し、全身の血の気が引いていくのを感じながら俺は怪物に背を向けて走り出した。一刻も早く逃げなくてはならないと、本能がけたたましく警鐘を鳴らしていた。
あれは、何だ?
あの生き物は常軌を逸している。既存の生物を組み合わせたような姿はこの世の理から外れているような異常性を感じた。
俺は夜闇の中を脇目も振らず必死で走り抜けた。ただ、相手が悪すぎた。人が全力で逃げたところで森を熟知し高い身体能力を持つ生物にとっては赤子の手を捻るのと同じくらい容易い。一瞬で追いついた化け物が放った蜘蛛糸に俺はたちまち拘束され、地面に倒れ込んだ。抵抗の余地など微塵もない。
化け物は音もなく忍び寄り、俺を真上から見下ろすと、ずらりと並んだ大牙を覗かせる。月に照らされて鮮やかに光るそれは、人の首を食い千切るのには十分な鋭さと頑丈さを持ち合わせていた。
このまま俺は訳もわからず死ぬのか?
俺の心などお構いなしに化け物の鋭牙は首筋を噛み切ろうと冷酷に迫る。死への恐怖からか俺は咄嗟に両の目を閉じてしまった。二度と、この目が光を見る事は叶わないのだろう。どうして、こんな目に遭わなければならないのか。自分が何者であるのかも分からないというのに。
しかし、不思議な事にいつまで経っても怪物の牙が俺の首を食い切ることはなかった。もう、俺は死んだのか? 恐る恐る閉じていた瞼を少し開いてみると、俺を地面に縛り付けていた蜘蛛糸は千切られていて化け物の姿はなかった。
「危ないところだったね、君」
頭の上から女の声が聞こえる。うつ伏せになっていた頭を上に擡げると、そこには一人の少女が立っていた。どうやらこの少女が助けてくれたらしい。よろけながらも俺はなんとか立ち上がって彼女に尋ねた。
「君が助けてくれたのか?」
暗闇でよく顔は見えないが口調や言動から友好的なのは確かだ。彼女は軽く頷いた。
「そうだよ。アレを仕留めるのは私の仕事のようなものだからさ」
彼女の体躯は戦士然とした強靭なものには見えず、あの怪物を一瞬で倒せるとは到底思えなかった。一体、あれほどの化け物を彼女はどうやって仕留めたというのだろうか。
「君は一体?」
彼女は間髪入れず答えた。
「私はフィオ。考古学者だよ」
学者が高い戦闘能力を持っているなど初耳だ。
「考古学者は化け物退治をするのか?」
「その辺は事情があってね。それよりも、君は旅人も近付かない迷いの森で何をしていたのかな?」
俺は言葉に詰まった。正直に話して信じてもらえるだろうか。第一、彼女を信用してもよいのだろうか。短い間考えた末に俺は正直に自分の身に起こったことを彼女に話すことに決めた。彼女はあの怪物について何か知っているようだし記憶を取り戻す力になってくれるかもしれない。
「俺には記憶がない。だから、君の質問には答えられないんだ。目が覚めたときには、この森に倒れていた。わかるのはそれだけだ」
「……やっぱりね」
そう言うとフィオは不敵な笑みを浮かべた。予想を遥かに上回る彼女の反応に俺は驚きを隠せない。普通ならば信じてもらえる話ではないのに、彼女はまるで最初からわかっていたかのようだった。そして、次に発した彼女の言葉で俺は更に驚愕することになる。
「君の記憶を奪った者を私は知っている」
不敵な笑みを崩さないままフィオは言った。月明かりに照らし出された彼女の顔は実に美しく、そして妖しかった。