猫を連れて行った少年
夜明け間近の薄明かりに包まれて、『それ』はまどろみの中にいた。かすかに銀色の耳の先と透明な髭の数本を震わせながら、『それ』は冷たい大気を感じていた。
都市はまだ眠りの中にいた。なめらかな流線を描く、漏斗を逆さにしたような巨大な塔が都市の中心に君臨するようにそびえ立っている。『それ』はその塔の先端、この世でもっとも天に近い所にもうずいぶん長いこと居を構えていた。
やがて東の大地から、まばゆい曙光が幾筋もの細い腕を広げた。都市は、新たな太陽の恵みの中に今目覚めようとしていた。
塔の先端に突き出た狭いユニットへ続く長い螺旋階段を上り詰める足音が、『それ』の耳に入った。『それ』はかすかに重い瞼を開いた。
青白い肌の小さな人がそこに立っていた。瞳と髪は草の色。身には何もまとっていない。下半身にかぼそく突起する身体の一部で、まだ幼い少年と知れた。つぶらな瞳で、その少年は『それ』を見つめていた。少年は明らかに、ここに自分以外の何者かがいようとは思っていなかったようである。そしてこの場所は、もし少年以外の誰かが来ようと切望したところで、誰も入ることを許されない禁断のエリアであった。たとえ、それが「人」以外の生き物だったとしても。
少年は物怖じせずに、ゆっくりと『それ』に近づいた。光を吸い取った色をしたつややかな毛並みの一匹の大きな猫に。
少年の小さな手のひらが猫の頭に触れた。猫はちょっと首をすくめ、小さなため息をついた。
「おまえは、私が見えるんだね」
「君は、ぼくがわかるんだね」
猫と少年は同時に相手にささやいた。そのささやかな偶然を祝福するように、折しも雲の切れ目からその日の太陽が生まれたばかりの赤子のようなまばゆいオレンジの顔を見せて嗤った。
「君は、いつからここにいるの」
猫の傍らに腰掛けて、少年は尋ねた。
「さあ。いつと言って良いのやら。この世界が生まれ始めた時、私はこの世界が私を呼ぶのを感じた。そして、私はここに来た・・・ここに居た、と言う方が正しいかもしれない」
猫はけだるそうに頭を上げて、朝日を見た。瞳孔が消え入りそうに細くなる。
「君は、どこから来たの」
少年はあくことのない探求心で猫に問いかけた。
「魔法使いの邸からさ。つまり、おまえのイメージで答えるならばね。私が何か獣の姿に見えるのだろう?それは、私の存在のカテゴリーが、おまえの知っているものに例えれば、かくあろうという姿さ。そして、そのイメージに於いて、おまえは少年の姿に自分を感じている」
「君は、物知りだね」
少年は少し眉をひそめてそう言った。猫にとってはその態度や物の言い方は必ずしも適切ではなかっただろう。だが、猫は寛容な欠伸で少年の無礼を許していた。
「おまえは、今日初めて私に気づいたね。これまでずっとこの世界で私の存在をはっきりと知った者はいない。私の気配を、私の呼吸を感じて、それを何とか体系づけようと試みた者はいるにはいた。しかし、しかし、彼らも限りある一瞬の命の内に、私を『見る』ところまではたどり付けなかった。おまえをして初めて、この世界は私の存在を知ったのさ」
「君は・・・」
言いかけて、少年は唐突に、今、自分がここを去らねばならないことを感じた。
「また来るよ。君は、ずっとここにいるの?」
「ここ・・・そう、ここがいちばん住みやすいな。当分ここを離れまいよ」
猫の言葉に安心して、少年はきびすを返して長い螺旋階段を下界の自分の持ち場に向けて下っていった。
空は青く澄み渡り、都市は完全に目覚めた。
居住可能な都市は、数百に限られていた。そこに住む人間達も、もはや可能性という概念を持たず、しかしその生を平和に過ごすことは保障されていた。彼らの偉大なる統治者である、〈TERRA〉のもとに。
〈TERRA〉が誕生する前は、都市がおのおの〈MOTHER〉を持っていた。それらはまさしく母そのもので、我が子を守るためには何でも、時には他の都市の消滅でさえも、喜んで行った。
だが、やがて〈MOTHER〉たちは、真に我が子を守る術について熟考し始めた。〈MOTHER〉たちの思考はやがて一致し、唯一の統治者に全てを委ねるべく、〈TERRA〉を生んだ。
〈TERRA〉は、すべてを支配した。全ての都市を、そこに住む人々を、人類未踏の荒野を。大気圏外の無数の人工衛星や、はるか太陽系の彼方へ飛んだ探査機は、少年の愛すべき玩具、マジックハンドであり望遠鏡だった。
地球上はもはや枯渇してほとんど滅んでいたが、〈TERRA〉に守られた人類は、健やかに同じ朝を迎えていた。〈TERRA〉が永遠なら、人類も永遠だった。そして、彼の母達は、彼に永遠を与えていた。
白くきらめく〈TERRA〉の塔は、人類の統治者のまします宮殿であり、そこへ足を踏み入れる者は誰もいなかった。〈TERRA〉の塔の立つ都市が、事実上世界の中心であった。しかし、その都市は他の多くの都市と何ら変わるものを持たなかった。統治者はすべてに平等であり、自衛するには、もし彼にとって外敵が存在し、彼を危うくすることが仮に可能だとしても、自身の手足でじゅうぶんだった。彼の手足は地球上の全てはもちろんのこと、はるか宇宙の彼方へまで伸びていた。彼は万能で、永遠不滅だったのである。
〈TERRA〉の宮殿の建つ世界の中心都市〈NIELL〉は、目覚めの朝の中にいた。
その朝、生まれて初めて統治者は自分以外の意志を見た。それは確かに一個の独立した存在であり、彼の統治すべきものではなかった。
統治者、自らを人の姿になぞらえて一人の少年の姿に想像している彼は、それを猫の姿に見た。永遠に人類と相容れぬ、狡猾で誇り高い、人間を出し抜くことはあっても人間に従属することは決してない、賢く油断ならない存在。そう彼は猫について瞬時に判断を下した。猫の同類であるはずの、人類と相容れない不確かな存在たちは、少年が生まれる前にいずこともなく去ってしまった。いわゆる《科学》の範疇では掬いきれなかった、非合理の存在達のことである。死滅したように見えて、その実死滅したという証のないまま存在を消してしまったことを、少年は不可思議に思っていた。
少年の悠久の記憶の中で、猫という生き物のイメージは何故か憧れであり尊敬すべき対等な存在であった。もしくは、それに出会った説きにその姿を瞬時に猫に例えたが故に、そのイメージが生まれたのかもしれない。
少年は自らの使命である都市の管理、多くのデータの集積を点検し分析し再構築する作業にしばし没頭した。
少年が生まれた当初、それは彼の全てであり、彼はその作業の虜であった。その作業こそが彼の存在意義であり、喜びであった。そのように設計されていたからである。
しかし、彼は徐々に作業を効率化し、短縮できるようになった。今では彼は自分の座す都市〈NIELL〉の夜明けから日没までにその作業を終えることが出来た。眠ることを必要としない彼は、日没から夜明けまでの間を、自分の思惟を増殖させる彼自身の自由な時間とした。
彼の思惟はゆっくりと成長し、成長に伴って彼は彼の統治する世界の片隅に、どうしても自分の手の届かない、手に入れることの出来ない何者かが存在することを漠然と知った。それは彼のひどく身近にいるようだった。しかし、気配を感じて腕を伸ばしても、虚しく空をつかむばかりであった。長い間、彼はそれを見つけることが出来なかった。
しかし、この朝、少年は初めて一匹の銀色の毛皮を持つ猫を見つけたのである。そして、彼は猫に触れた。猫と語った。少年の思惟は、新たな段階へ到達していた。
少年の無数の腕の中で、人々は生活していた。今眠りについた都市も、やがて日の入りを迎えようとしている都市もあった。人々は、少年の目には、手のひらに収まるほどの小さなビー玉の中をかすかに流動する砂の群れに映った。少年の財産は、そのちっぽけなビー玉一個だった。そして、少年自身がそのビー玉の中にいた。
多くの都市に多くの人々が生活してはいたが、少年に目を向ける者は誰もいなかった。少年を見ることの出来る者も、一人もいなかった。少年は孤独だった。しかし生まれ落ちたときから孤独だったから、孤独の意味を知らなかった。だから、少年は幸福も知らなかった。喜びも悲しみも彼に語りかけることはなく、少年は微笑みも涙も味わったことがなかった。
少年は、世界の統治者、唯一の制御システム〈TERRA〉だった。
夜のとばりが〈NIELL〉を包み、人々は等しく眠りについていた。
少年は螺旋階段を上り、塔の先端、世界の頂上を訪れた。そしてそこに、朝と同じ場所に同じ姿勢で、猫が居た。
「やあ、来たね」
少年の足音を待っていたように、猫は首をもたげ、低い声で少年に呼びかけた。
「君は今日、何をしていたの」
少年は猫の傍らにうずくまって、その柔らかい毛皮に守られた丸いふくよかな背をなでながら尋ねた。
都市を包む薄いドーム状の膜は、塔の足元に見下ろせる。彼らの座っている先端部にはごく薄い大気しかなく、星々は彼らのすぐ近くに散らばり、時折思い出したように瞬くほかは、絶えず同じ光でぎらぎらとかがやいていた。
ここからは、世界が見渡せる。少年にとっては全て知り尽くした世界でも、猫にとってはどうだろうか。少年は少し得意げだった。猫が望むなら、この世界の全てをいくらでも惜しげなく語ってやるつもりだった。
猫は、少年の問いにしばらく答えなかった。沈黙が猫の髭の最後の一本を抜き取る直前に、猫は片目をあけ、小さな吐息と共につぶやいた。
「夢を見ていたんだ」
「夢・・・?」
少年は当惑して、猫の金色に透き通る瞳をのぞき込んだ。その底知れぬ奥深い井戸の底のような漆黒の瞳孔に、少年はすっかり眩惑されてしまった。
「話してやろう。おまえの理解の及ぶ言葉で、おまえのイメージにもっとも近い言葉で、この限りなく長い夢を」
全てを語るのは少年ではなく、猫の方だった。
猫は、ゆっくりと語り始めた。
猫は、魔法使いの邸に住んでいた。邸の回りには深い堀が廻らせてあり、堀の内側には美しく整えられた庭園があり、その外側には深い森が、さらにその彼方には切り立つ山の峰峰が取り囲んでいた。
魔法使いは邸から外へ出ることはなく、邸の外から誰かがやってくることもなかった。しかし、広い森も山々も、魔法使いの地所だったし、彼は掘りの縁にある物見の塔に上って、彼の森と山々を眺め渡すのが好きだった。
猫は魔法使いと共にいたが、どちらが先にここにいたのかは猫も魔法使いも覚えてはいなかった。もしかしたら、魔法使いは猫の主人かもしれず、しかし、猫の方が魔法使いの主人かもしれなかった。
邸の回りはいつも春の心地よさで、庭園には清らかな泉が湧き出でて、絶えることなく命の水をあふれさせていた。あらゆる力を秘めた果樹があちらこちらでいつもたわわに実をつけていたし、誰ももぎ取る者はなくても、実は決して腐らず、みずみずしいままであった。
風は、魔法使いと猫に何も語らなかったが、風の声で彼らはあらゆることを知った。風の声の多くは理を説き、真実を孕んでいた。風の声は和声であり、旋律だった。
光は絶えることなく邸に降り注いだ。邸にはだから夜がなかった。それゆえ、邸に時が満ちることは決してなかった。
邸にいたのは、魔法使いと猫だけだったのだろうか。猫は、未だにそれが思い出せずにいる。他に多くの仲間がいたような気もするが、泡沫の光の影に過ぎなかったような気もする。或いは、多くの魔法使いと、多くの猫たちが同時にさざめいていたのかもしれない。
彼らはほとんど語ることはなかったが、お互いが在ることは知っていた。或いは多くを語り合っていたのかもしれない。しかし、邸では何かが留まり、蓄積することはなかった。全てが邸から生まれては居たが、それらは邸から飛び去り、邸を省みることはなかった。
だから、そこには歴史はなく、記憶も財産も何もなかった。光の鳥、水の魚、地の虫が生まれ、どこへともなく去っていった。邸は永遠に命に満ちていた。
感情が緩慢な彼が、自身の中にある動揺を覚えたときは、すでに遅かった。はるか彼方の惑星の、声にならない望みの重力が猫の精神を虜にしてしまっていた。知らず、猫は自分自身でその惑星を想像し、細部までをことごとくイメージしていたのだった。そしてある時、ついにその惑星は存在を始めた。猫はやがて、どうしても自分がかの惑星へ旅立たねばならないことを悟った。
心を持つ者なら誰でも、自らが生み出したものに縛られずにいられない弱さを持っている。例えそれが疑惑に満ち、自分の愚かしさへの屈服によって生まれたものであっても。
惑星は、猫の切り札を持っていた。猫はそれに抗うために長い辛酸の日々を送らねばならなかった。
ついに猫は惑星の重力に屈服し、惑星の命ずるままに、魔法使いの邸を去っていった。
そして、彼は地球へやってきたのである。
「私の霊液から生まれた生命たちも、最初はゆっくりと平和な進化を遂げていた。言葉なく、心もなく、課せられた営みに従順に生まれ、分裂し、消えていった。恵みの光が彼らを透過し、時はゆるやかに彼らを乗せて彼岸へ運んだ。
しかし、私はついに災いを作り出さずにいられなかった。何故なら、災いこそが私を星から解き放ってくれるものだからだ。やがて来る滅びのために、彼らは私の手を離れ、自らの力で進化を始めた。
苦い思いをかみしめながら、私は彼らを見守ってきたよ。自らの運命を知らず、懸命に永遠を求める彼らを、私はどれだけ哀れみ、かつ愛したことだろう。
彼らには心があった。それこそが、彼らの不幸の源だったのだ。何故なら、心を持つ者に、永遠は決して与えられなかったからだ。また、それが彼らの救済でもあったのだ。失われること、無に帰すことができるのは、苦しみを知るものにとって唯一の救いであるからだ。
少しでも早く彼らの苦しみを取り除くために、私は彼らの中から度々使者を選んだ。しかし、彼らは私の指標を読み取りきることが出来ず、ことごとく失墜していった。ある者は、大いなる誤解を抱いたまま、それを多くの人々に伝え、人々はそれを後世に伝え続けた。
私は、私のこの星が、自分で思っていたよりもずっとひどく、私を蝕んでゆくのを感じていた。
私は、ここに長く居すぎた。この星の人々の種としての寿命はとうに尽きているのに、まだ彼らは生命を薄く引き延ばしている。彼らにはもう精神の影はない。それなのにまだ、さまよい続けている。もはや、自らの手で救いを得ることすら出来ぬ、無力な存在となりはてている。
それでもまだ、私は彼らを哀れみ、愛しているのだ。私はこの手で彼らを救うことが出来ない。それをなし得る力があることは解っている。だが、私は手を下すことが出来ないのだ・・・」
猫は、長い物語を終えた。
少年は、猫の語る声が途絶えても、じっと黙ったままでいた。彼は抱えた膝頭に小さな頭を乗せて、吹き寄せるかすかな風を感じていた。彼は静かに眠る都市を見つめた。薄墨色のグラデーションに包まれた都市は、少年の全てだった。そして、少年を生み出した胎内でもあった。言いしれぬ想いが少年の内から湧き起こった。
「それじゃあ、あなたが《創造主》なんだね」
永遠とも思える沈黙の後、少年は猫に向かってそっとささやいた。
「ぼくの中に、どうしても捉えきれない不確定のデータがあった。何もかも究極には、それがはっきりしないとこの世界の何一つとして確実な像を結ばない。なのに、ぼくは今までどうしても見つけられないでいた。でも、ようやっと見つけたんだ」
少年は、月光を受けて切なく銀色に浮かび上がる猫を、自分の小さな膝に抱き上げた。猫は、体を丸くしたまま、少年の手に自らを委ねた。
少年の探索端子が猫の体の解析を始めた。もう少年の、〈TERRA〉の機能は完全に猫に埋没していたから、朝日が昇ってずいぶん経つのに、〈NIELL〉の全ての窓のブラインドは固く閉ざされ、夜のままだった。
彼には、都市の人々の生活を一秒の狂いもなく永遠に回転させ続ける義務があった。しかし、この《創造主》を解析して、答えを、この星の生命がどこから来てどこへ行くのか、その答えを得なければ、人々の望む永遠もまた得られないことを少年は知っていた。猫の解析は、少年の最優先の任務だと少年は理解していた。
少年が猫の解析に没頭している間に、都市の間ではシステムの作業のずれが少しずつ広がっていた。自動制御でしばらくは保つことが出来ていたが、やがてそれは無数の警告として〈TERRA〉の中枢にフィードバックされた。少年は目の前の作業をやめるかわりに、都市に恒久的な眠りを与えた。そこで、天体の動きを無視して、都市と人々は永い眠りに入った。睡眠も活動も、全ては〈TERRA〉の生活システムに委ねられていたので、もはや人々は自ら活動することはなく、世界の全てを〈TERRA〉に差し出した、従順な家畜に過ぎなかった。
夜の帷が幾度となく塔の先端を覆い、曙光がそれに代わった。真昼のけだるい太陽も、眼下の雲海も、眠れる地上の人々とは関係なくそれぞれの営みをただ淡々と続けていた。
ようやく少年は猫を膝からおろした。小さな吐息が少年の唇から漏れた。
少年の求めていた答えは、猫の透明な心臓の奥にあった。しかし、その答えにもなお未知数が存在していた。猫自身にすら包括できない《何か》、それを見つけるには、魔法使いが必要だった。猫は、魔法使いの元へ帰らなければならない。
少年は重苦しい言葉を、しかしきっぱりと言い放った。
「ぼくが、君を解放しよう。そのかわり、ぼくも連れて行ってよ、魔法使いの邸へ」
猫はじっと少年を見上げた。その目に、感謝とも憎悪とも同情ともつかぬ感情の光が、次々とよぎり、去っていった。
「おまえは自分がなにをするのか、わかっているのかね」
猫は目を閉じて、髭を震わせてつぶやいた。
「おまえは私の毛皮を引き裂き、おまえの影を消そうというのかね。私の身の半分を失わせ、おまえの実体を消し、そのどちらも二度と取り戻すことが出来ないのがわかっているのかね。しかし」
猫は長い息を吐いた。少年は黙って、猫の言葉を待った。
「それしか術がないのかもしれない。そろそろ全てにけりをつけても良い頃なのだろう。だが、そうして何が得られるというのだ。言っておくが、邸に戻ってももう魔法使いはいないかもしれないのだよ」
「どうして?」
「私がこうして邸からいなくなったのだから、魔法使いだってその気になればいつでも出かけられるに違いないのだ」
「でも、君が戻るのだったら、魔法使いもいつかは戻ってくるのではないの?」
少年の言葉に、猫は弱々しくその長い尾を振った。
「おまえは無垢だから、絶望というものを知らぬ」
少年は、含みのある猫の言葉には応えずに、立ち上がって薄明の地平を見つめた。間もなく消失するであろう、広い世界を見渡した。そして、少年は旅立ちの支度を始めたのである。
少年の腕の中で、時を止めたまま、幾つもの都市が消えていった。人々の全ては素粒子の信号に還元された。それは、少年にとって生命の変容であって、死ではなかった。
地球は完全に一つの《もの》に統合されつつあった。少年と猫が魔法使いの邸へ向かうための《天之鳥船》に。
古来から人々は多くの神話の片鱗に、それを予言していた。海の彼方に神々の棲む《常世》があることを。多くの死者が中空の船に乗せられて、彼方の地に向けて水葬されてきた。水平線の彼方から現れた数々の聖霊たちも、中空の船を操っていた。彼ら《マレビト》たちは、人々に多くを与えた。彼らが来るたび、人々は飛躍的に進歩し、変化してきた。
そして今、神話も伝説も消え去り、地球を統べる一つの都市に神の地〈NIELL〉と名付け、自ら究極の平和のために白昼夢の生に甘んじることを選んだ人類は、今少年の意志により、神々の国へ旅立つ一艘の船に変容したのだった。
人々はようやく、遠い過去から憧れ続けていた真の旅を始めたのである。無数の自我の煩悩から覚め、一つの種としての統合を果たして、創造主の故郷への帰還を始めたのだ。
円い地平にうっすらと最後の曙光が差す。そこに、白銀の巨塔が虹色にかがやく翼を持って、先端を嘴のように天に向けて飛び立とうとしていた。
地球は、最後の進化を遂げた生命を送り出すと、ようやく完全な安息を得て長い長い吐息をついた。冷えて黒ずんだ地表に陽光が広がった。地球は誰もいない朝を迎えた。
少年と猫は、船出に際して恐ろしい痛みと苦しみを味わった。変化というものをそれまで知らなかった少年にとっては、それは死に近い体験だった。少年は猫をしっかり抱きかかえ、すすり泣きながらそれを受け入れた。後悔、と言う感情がもし彼にもあるとすれば、少年は激しい後悔の念にさいなまれた。しかし、少年の選択に後戻りの余地はなかった。
魔法使いの邸は銀河の中心にあった。至福の光が生まれる伝説の地。もはやそこを目指すことだけが、少年と猫の存在する理由だった。
長い旅路に語るべき話は何もなかった。時の流れを感じることもなく、過ぎた歳月を数えることもなかった。あるのはただ、無限の暗黒の海に浮かぶ星々のかがやきだけだった。
船は無言で幾千幾万の星々を通り過ぎ、鳥のように舞い、魚のように泳ぎ、数え切れない生命を細胞とし、少年を心臓とし、猫を脳髄とし、地球を構成した鉱物を皮膚として、《天之鳥船》は転生した地球そのものだった。
やがて船は、母なる銀河の懐へたどり着いた。
三万三千年の眠りからさめた少年は、銀色の猫と共に船を降りた。
そこは、光り輝く廃墟だった。荒れ果てた庭に朽ちた木々、涸れた泉の向こうには棲む人の誰もいない静まりかえった邸。一筋の風もなく、堀の向こうに広がる森や峰峰さえ、荒涼としてどんな命の喜びも感じられなかった。かつて猫が語ったイメージをもとにそこを見た少年の眼には、そういうふうに映った。
猫の言う魔法使いはおろか、そこに少年と語り合えるものは何もいなかった。そして、少年が光の廃墟を呆然と進む内に、少年の腕が少しずつ軽くなってゆくことに、少年はしばらくの間気づかずにいた。
それに気づいたとき、猫はすでに光に溶けきる寸前で、柔らかい毛もピンと立った耳も暖かい息の漏れるしめった鼻先も、すべて透明に近い光の色をした陽炎のようにしか形をとどめていなかった。
少年が叫ぶ間もなく、猫はけだるそうに大きなあくびをして、少年の手のひらにかすかに前足の爪の感触を残して、光の廃墟に溶けて消えた。
少年は、たった一人そこに残された。ふりかえれば、少年の分身、生きた本体であった《天之鳥船》さえも、安住の地を得て満足したかのようにゆっくり音もなく崩壊し、冷たい光に同化するように溶けてゆく。
少年だけが、光の溶媒に反応する機を失って、そのままでいた。
静かな寂寥が、少年の頬を伝ってゆっくりと流れた。
猫の言った通りだった。そこには、魔法使いはいず、猫も天之鳥船も消えてしまった。少年はもう、どんな真実もどんな答えも得ることは出来ない。ここに来た意味も、ここにいる意味も、何一つ見いだすことは出来ない。
ふと、耳を澄ますとそれまで聞こえなかったかすかなざわめきが、遙か彼方から、と思えばすぐ耳元で、絶えることなく聞こえてくることに少年は気づいた。
そして目を凝らせば、あちらこちらに無数の魔法使いが、その腕の中でまどろむ猫が、夢幻のように映っては消える。
いくつもの時空が少年の回りでゆっくりと巨大な輪を描いていた。今、巡り始めたものもあれば、間もなく始点に戻るものもある。全ての輪が少しずつずれ、少しずつ重なり合って、一個の球体を作ろうとしているのだった。だが、次から次へと輪が生まれ、閉じた古い輪は消えてゆくので、永遠に最後の一つが生まれ、球体が完成することはない。
それぞれの輪の中で、それぞれの庭園が、邸が、魔法使い、猫、惑星、そして少年が互いを求めて蠢いていた。
魔法使いは庭を耕し、邸を整え、猫は星を夢見ている。どちらにも、何の目的もあるわけではなかった。
少年が猫と共に旅立ち、輪の閉じるのが近づくと、魔法使いは自分の役目が終わりを告げることを知る。
少年と猫の乗った天之鳥船が降り立つ瞬間、輪の始点は終点となり、光の庭と邸は廃墟と化し、魔法使いは消滅する。それが輪の持つストーリーだった。
少年は光の中でまどろみ始めた。ただ一人、永遠の終わりを待つために、永遠の眠りを貪る。永遠に終わりが来ることなどないことを少年は感じていたが、少年をまどろみに誘う、気配を持たぬ絶対的な力に抵抗できなかった。
もし、少年が眠りにつく前にもう少し輪の始点と終点の境目を見れば、おそらくそこに孤独にうちしおれて膝を抱えてまどろみに入る自分自身が見えたことだろう。
やがて、長いまどろみは少年を二分し、一方は魔法使いに、もう一方は猫の姿に変容し、新しい輪がまた始まることを、少年はまだ知らない。
学生時代に書いたものを加筆訂正したものです。この頃は、世界を哲学的に見ようと自分なりに苦闘していたように思います。今となってはひたすら懐かしい、一昔前に流行った滅亡モノです。