短編1 小野小町転移譚
先ほどの小鬼で彼女が殺したのは三匹めであった。
もう殺す事は平気だと彼女は考えようとしたが、その体の震えは隠しようもなかった。
彼女は兄とも慕う男から別れの時に授かった、手の中の小刀をふたたびしっかりと握りなおした。
彼女は今、何処とも知れない深い森の中にいた。
数えで27という年増となっても、夫も子もおらず、支えとした男もすでにいなくなった今。都に居ずらくなり、田舎へと落ちるさなか、突然空が輝いたと思うとここに一人で居たのだった。
疲れた足を引きずりながら水を求めて暫く歩くと、彼女は突然横からの衝撃を受けてついに倒れた。
衝撃の来た方を見るとまたあの小鬼がケタケタと笑っている。
手の中の小刀は衝撃で取り落としており、ここでお終いかと思ったが、最後の時まで諦めるつもりはなかった。
痛む足に力をいれて立ち上がり、小鬼を睨みつけた。
「簡単にはやられませぬ。」
彼女はその人生で初めて出した様な大きな声で小鬼に向かって叫んだ。その声に小鬼は怯んだようだった。
突然小鬼の横から大きな物が飛び出して来たかと思うと、小鬼が吹き飛んだ。
見事、木にぶつかると小鬼は粉々に吹き飛んだ。木の方も大分太いにもかかわらず無事ではなく、中途で折れてしまっていた。
彼女はその様子に目を見開いて驚き、小鬼を吹き飛ばした大きな物のほうを、嫌な予感を感じながら見た。
そこには青黒い肌をした、彼女の身の丈の三倍はあるかという大きな大きな鬼がいた。彼女が目を合わせるとその大青鬼は、口を開いて大きな牙を光らせた。
さすがの彼女も度肝を抜かれ、疲れもあり、フラフラとその場に腰をつくと、気を失ってしまったのだった。
彼女が目を覚ますとそこは洞穴の中のようだった。起き上がろうとすると体が痛み辛かった。
かよわい彼女の身には小鬼に突き飛ばされた衝撃はあまりに大きかった。
それでもよろよろと起き上がると、近くでは、石で組まれたかまどがあり、その上では鍋で何かを煮ているようだった。
彼女は暫くそうして居たが、大青鬼の事を思い出すと、自分がどうやって生き残ったのか不思議に思った。
洞穴の様子から誰か親切な御仁に助けられたらしいことは、分かった。
お礼をしなければと思い少しその事を考えていると、急激に喉の渇きと腹の空き具合が自覚されてきた。
どうやら鍋の中身が程よく煮えてきたらしく、とても良い匂いが洞穴を満たし始めたのだ。
彼女がつい鍋から目が離せなくなっていると、洞穴の向こうから、微かに足音が近づいてきた。
彼女はやっと助けてくれた人が帰って来たのだと思い。お礼の言葉をもう一度思いかえしたが、鍋の匂いで余りに気が散り、どうにか鍋の中身を食べさせて貰えぬだろうかとばかり考えてしまっていた。
足音が一瞬止まったかと思うと、ぬっと彼女の視界に巨大な物があらわれた。
それはあの大青鬼であった。
彼女はあっと驚いて逃げようと思ったが、体が思うようには動かなかった。
大青鬼が大きな口をもごもごしたので、彼女は鍋で煮られて食われのは自分だったかと覚悟したが、それでも簡単に諦めるつもりはなく、きっと睨みつけた。
「お、起きたな。無事でよかった。み、み、水を持ってきたから、の、飲んでほしい。」
大青鬼が少し慣れない様子ながら言葉を話した事に彼女は驚いた。
そしてその言葉が自分の身を案じる物で有ることも理解した。
大青鬼は銀色の桶と木製の器を持っており、どうやら桶には沢山の水が入っている様だった。
彼女は自分を助けてくれたのがこの大青鬼だと理解して改めて、その顔を見た。
とても恐ろしげな顔をしているが、彼女を心配しているその表情は本当に可愛らしく感じられた。
大青鬼が口から大きな牙を出していたが、どうやらそれは微笑もうとしているらしい事に気づいてもいた。
彼女はその事を可笑しく思い、くすくすと笑ってしまった。
大青鬼はその間、まるで固まってしまったかの様にその場を動かなかった。
彼女は身を繕うと頭をさげた。
「貴方がわたくしを救って下さったのですね?ありがとうございます。このご恩はいつか返させていただきます。」
彼女は頭を下げていたから気づかなかったが、その姿の余りの美しさに大青鬼は呆然としており、さらりと流れた美しく長い黒髪に神の姿を見て感動し、震えていた。
彼女が顔を上げても暫く固まっていたが、手の中の器を取り落としそうになって、水の事を思いだした。
「み、水を汲んでまいりました。」
先ほどよりも丁寧な言葉使いに変えて、大青鬼は話しかけた。
「はい。有難くいただきます。」
と応えた彼女の顔を見て、顔を赤くしながら、この方は女神様に違いないので、是非お仕えして生涯助けよう、と心に決めているなどとは彼女には思いもよらない事だった。
彼はこの森の守護者のユニークモンスターで、並の者では会う事さえも難しい、この世界の最強の一角である。
そうした存在が、この時彼女の美貌にひれ伏したのだった。
桶から器に水を汲むと、桶を鍋のそばに置き、おずおずと彼女に近づき、器を置くと、さっと離れた。
彼女はその様子に少し戸惑っていたが、器を取り、ゆっくりと水を飲んだ。
暫くすると落ち着いて来て、まだ自分が名を名乗っていなかったことに思い至って、恥ずかしく思った。
「ここまでお世話になりながらまだ名を名乗ってもおらず失礼致しました。
わたくしは小野家の娘で、皆からは小町と呼ばれておりましたので、貴方様もコマチと呼んでくださいませ。」
大青鬼は暫くもごもごと口を動かすと、それに応えた。
「わかりました、コマチ様。」
小町は大青鬼が話すのが少し苦手なのだと気づいていた。
「様もいりませんし、言葉を丁寧にしていただなくて良いですよ。恩人ですもの。
ところで貴方様のお名前を教えていただけますか?」
彼は困ってしまった。彼は「森の守護者」と呼ばれているが、名前などないのだ。彼はこの森で唯一の存在であり特別に名を名乗る機会など無かったのだから仕方がなかった。
「俺に、名はありません。出来れば付けて居ただけないだろうか?」
「そうなのですか?」
小町は名が無いと聞いてそういうこともあるかと少し不思議に思ったが、良い名を考える事にした。
「では、火中、と言う名でどうでしょう?」
大青鬼は大変その名前を気に入った。
「ありがたい。生涯その名を名乗る事を誓います。」
そういうと、首をたれたのだった。
その瞬間、彼と彼女の間に光りの橋が渡り、大青鬼の首の右には「火中」の名が刻まれ、そうして小町との契約が成ったのだった。
突然の事に小町は驚いた。
彼女はまだ力強き魔物に名を付けて、それが了承される事の意味を知らなかったのだ。
そしてこの現象が、この世界では初めてである事も、知らなかったのだった。
彼女はこうして沢山の始めてをこの世界にもたらしたのだった。
(完:続きはありません)
時代考証とか設定とか極めていいかげんです。
この小説では小野篁、小野小町、異母兄妹説を取っています。篁の死によって都から離れた説を取ります。
ちなみにこの説は完全に無視されている説ですし、学者が言ってる説ではありません(笑)。
「火中」は古事記の中にある歌「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」によります。「小野」と「小野家の娘」である自らを重ね、火|(危険)の中より救ってくれた事に感謝した名前です。これは愛の歌でもあり、自らの死を覚悟した歌でもあります。