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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第6部

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第6話『裏』後編


 クロノは円を描くように侯爵邸の玄関を歩いていた。

 叙爵式に利用したことのある侯爵邸の玄関はエントランスホールと呼べるほどの広さだが、一周するのにさほど時間は掛からない。


「クロノ、あと何周するつもりだ?」


 ティリアは階段の手摺りに寄り掛かり、うんざりしたような口調で言った。

 実際にうんざりしているのだろう。


「だって、セシリーのお父さんと会うんだよ? 落ち着かなくて当然じゃない」


 クロノは足を止め、ティリアに言い返した。

 だが、ティリアは理解に苦しむとでも言うようにこめかみを押さえた。


「その割に軍礼服なんだな?」

「ティリアだって」


 クロノは黒を基調とした軍礼服、ティリアは白を基調とした軍礼服である。

 ボンド・前ハマル子爵は贅沢を好まないらしいので、普段の姿を見て貰おうと考えたのだが、二人揃って判断を間違えたような気がする。


「……そう言えば」


 ティリアはクロノに視線を向けた。


「怒らないから、正直に言え。お前はセシリーに何をしたんだ?」

「そ、それは」


 クロノは口籠もった。

 あんなご奉仕をさせました。

 こんなご奉仕をさせました。

 そんなことまでみたいなご奉仕もさせました。

 だが、正直に答えたらティリアは怒るに決まっているのだ。

 ふむ、とティリアはクロノに歩み寄り、両肩に優しく触れた。


「クロノ、正直に言え。私は怒らないぞ?」

「そ、それはですね」


 ティリアの声は優しかった。

 微笑みさえ浮かべている。

 だが、目は笑っていない。

 返答次第では久しぶりに殴られるかも知れない。


「……クロノ」

「そ、それはですね」


 クロノは同じ言葉を繰り返した。

 優しさはすでにティリアの手から失われている。

 肩から這い上がる痛みは無言の脅迫だ。


「……実は」

「お前は何をしてるんだ!」


 クロノが正直に告白すると、やっぱり、ティリアは怒った。


「この会談のために私がどれだけ労力を費やしたと思っているんだ」

「ああ、そこは心配しなくても大丈夫」

「一応、聞いておくが、何が大丈夫なんだ?」


 ティリアはクロノを睨み付けた。


「昨夜、お父さんにこんなことしているなん……ひぃぃぃぃっ!」


 クロノは反射的に仰け反った。

 ティリアが無言で拳を突き出したのだ。

 チッ、とティリアは舌打ちし、そのまま拳を振り下ろす。

 鉄槌打ちと呼ばれる打撃だ。

 クロノはティリアの拳を払い除けつつ反転、転びそうになりながら壁際に逃れた。


「クロノ、腕を上げたな」

「伊達に戦闘訓練を積んでないからね」

「クロノが頑張っているのは分かっている。だが、私のプライドはちょっとだけ傷付いたぞ?」


 ティリアはゴキゴキと指の関節を鳴らしながら近づいてきた。

 白い光が煙のように立ち上る演出付きだ。

 一子相伝の暗殺拳を伝承してそうな勢いだ。


「少し本気で行くぞ?」


 ティリアは拳を構え、わずかに体を沈めた。

 まるで獲物に跳びかかろうとする肉食獣のようだ。

 ティリアが動いた次の瞬間、


「前ハマル子爵が到着されたであります!」


 フェイが扉を開け、大声で報告した。

 ティリアは完全に虚を突かれたらしく、たたらを踏んだ。


「くっ、余計な邪魔が入った」


 ティリアは悔しそうだったが、クロノは胸を撫で下ろした。

 お客様を迎えるのにホストがケガをしているのは宜しくない。


「よし! 前ハマル子爵をお迎えしよう!」

「ぐぬ、命拾いしたな」


 クロノはティリアの剣呑な発言を無視して外に出た。

 太陽は中天にあったが、外の空気は冷たかった。

 しばらくすると、騎兵に守られた馬車が侯爵邸の庭に入ってきた。

 贅沢を好まないという割に立派な二頭引きの箱馬車だ。

 御者も仕立ての良さそうな服を着ている。

 恐らく、前ハマル子爵は自分から贅沢をする質ではないが、必要な部分に投資できる人物なのだろう。

 奥さんの意向という可能性も捨てきれないが、そうだとしても自分の考えに固執するタイプではなさそうだ。

 馬車が玄関の近くに止まる。

 セシリーの父親か、とクロノは生唾を飲み込んだ。

 セシリーに対する行為の数々を思い出しているのだ。

 露見すれば流血沙汰もあり得る。

 正に後悔先に立たず。

 落ち着くんだ。僕は曲がりなりにも現役の軍人、三十年以上前に引退した騎士に一方的にやられることはないはず、とクロノは自分に言い聞かせたが、不安を払拭することはできなかった。

 南辺境にいる養父の姿が脳裏を過ぎったのだ。

 箱馬車の扉が開き、クロノは後退りした。

 だが、箱馬車から下りてきた前ハマル子爵を見て、緊張感が一気に和らいだ。

 人の良さそうなおじさん……それが前ハマル子爵の第一印象だった。

 背丈はクロノと同じくらいか。

 どちらかと言えばスマートな体型だ。

 髪は白髪が多い。

 口髭は整えられ、紳士然とした印象を前ハマル子爵に与えている。

 前ハマル子爵は軽く一礼すると、クロノに歩み寄ってきた。


「エラキス侯爵、この度はお招き頂き、ありがとうございます」

「……」

「エラキス侯爵?」

「……はっ! いえいえ、こちらこそ、お越し頂き、ありがとうございます!」


 クロノは勢いよく頭を下げた。

 前ハマル子爵の対応があまりにもまともだったので、思考が停止してしまったのだ。


「私のことはクロノで結構です」

「分かりました。では、私もボンドで結構です」


 クロノと前ハマル子爵……ボンドは握手を交わした。


「よく来たな、ボンド」


 振り向くと、ティリアがやや離れた場所に立っていた。


「おお、ティリア皇女」


 ボンドは大きく目を見開き、その場に跪いた。


「……お体の調子が良くないと聞いておりましたが」

「うん? ああ、もう大丈夫だ。きっと、こちらの水が性に合ったのだろう」


 皇族の権威って大きいんだな、とクロノは二人の遣り取りを見ながら、そんな感想を抱いた。

 交渉は楽かも、とクロノはほくそ笑んだ。



 交渉は楽かもと考えていた時期が僕にもありました、とクロノは応接間のソファーにもたれ掛かった。

 視線を傾けると、窓の外は黄昏に染まっている。

 何処か気怠く、郷愁を誘う光景だ。

 対応を間違えたかな? とクロノは頭を捻った。

 あの後、アリッサにボンドを、他のメイドに護衛を客室に案内させた。

 昼食は変に趣向を凝らしたりせずに普段から食べているものを振る舞った。

 アリッサによればボンドは客室にも、昼食にも満足していたようだ。

 クロノも昼食中の雑談や二つの工房を案内している時に違和感を覚えなかったので、決定的なミスは犯していないはずだ。

 違和感を覚えたのは交渉を開始してしばらく経った頃だ。

 ボンドは雑談や馬の話は積極的に乗ってくるが、本題……周辺領主に領地間の通行税を撤廃させ、露店制度を導入させる根回しに協力して欲しい……に入ろうとした途端、露骨に話題を逸らしたのだ。

 クロノは何度も軌道修正を行い、市場が拡大するメリットを語ったが、はぐらかされるばかりだった。

 ようやく引き出した回答は『一人では決められない。妻と息子と相談したい』というものだった。


「流石の貴方もぐったりしてますわね」

「嫌みでも言いに来たの?」


 声のした方を見ると、トレイを持ったセシリーが立っていた。

 トレイの上にはティーポットとカップが載っている。

 セシリーは危うげな所作でトレイをテーブルに置き、ティーポットの中身をカップに注いだ。

 得体の知れない臭いが応接間に広がる。


「毒?」

「疲労に効く薬草を煎じたものですわ」


 クロノはカップを手に取り、黒々とした液体を見下ろした。

 意を決して液体を口に含むと、強烈な苦みと渋みが口中に広がった。


「マズい」


 クロノは液体を飲み干し、カップをテーブルに置いた。


「で、何の用?」

「ぐったりしている貴方を見物しに来ましたの」


 セシリーは意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「お父さんのこと、もう少し詳しく教えてくれても良かったんじゃない?」

「そんなことを言われても困りますわ」


 セシリーは悪びれることなく言った。


「わたくしのお父様と話した感想は如何?」

「う~ん、どうなんだろうね?」


 クロノは首を傾げた。

 ボンドが穏やかな気性の持ち主であることは間違いない。

 よく言えば慎重、悪く言えば優柔不断という印象を受けたが、ボンドの経歴を考えると自分が間違っているような気がする。

 奥さんに仕事を丸投げして趣味に勤しんでいるって聞くと、ダメ人間にしか思えないんだけど、とクロノは頬杖を突き、あることに気付いた。


「あ~、なるほどね」


 ボンドは親から受け継いだ領地を維持することはできても発展させたり、新しい施策を考えたりすることができないのだ。

 だから、自分より能力とやる気のある奥さんに仕事を任せた。

 自分の立場に置き換えてみるとよく分かる。

 クロノだって、部下に仕事を任せている時は慎重になる。

 仕事を丸投げしている以上、勝手な約束はできない。

 ボンドはそう考えているのだろう。

 無難に領地を案内して、仕事の話は控えるべきかな? とクロノは腕を組んだ。

 その時、タイガの声がポケットに入れた通信用マジック・アイテムから響いた。


『クロノ様! 事件でござる!』

「すぐに行く。セシリー、僕の剣とマントを」


 そう言って、クロノは立ち上がった。



 クロノは城門に向かって走る。

 夕方とは言え、人通りは少なくない。

 クロノのお粗末な騎乗スキルでは人が死にかねない。

 『刻印術』は制限時間のせいで使えない。

 だから、走るのだ。

 見えた! とクロノは目を細めた。

 箱馬車が城門の近くに留まっていた。

 部下達は箱馬車を取り囲み、六人の男女と戦っている。

 女が一人、男が五人という構成だ。

 全員がスティレットと呼ばれる刺突用の武器を手にしている。

 敵はそれなりに手強そうだが、数の差を覆せるほどではないように見える。

 にもかかわらず、部下達は攻めあぐねているようだ。

 タイガは最前線で敵と斬り結んでいるが、いつもの大胆さが欠けている。


「タイガ!」

『クロノ様、これ以上は!』(がう!)


 クロノが駆け寄ろうとすると、黒豹の獣人が行く手を阻んだ。


「どうして?」

『毒です』


 黒豹の獣人がチラリと横を見る。

 そこには民家の壁に背を預け、ぐったりとしている部下達の姿があった。


「伝令! そこの二人、シオンさんと神官さんを呼んで来て!」


 クロノは近くにいた獣人に命令した。

 二人は顔を見合わせ、すぐに駆け出した。


『……クロノ様、神威術による解毒は』(くぅぅん)

「寄付金は僕が出す。お金より部下の命の方が大事だからね」


 黒豹の獣人が目を見開いた。


『各々方! 安心して攻めるでござるよ!』(がう、がう!)


 クロノの言葉が聞こえたのだろう。

 タイガは大きく踏み出し、大剣を振り下ろした。

 男は大剣を横に躱し、スティレットを突き出す。


『炎でござる!』(がう!)


 炎が大剣から噴き上がった。

 男は炎に巻き込まれまいと身を翻した。

 そこへ敵を取り囲んでいた兵士の一人が槍を突き出す。

 男は体を捻り、槍から逃れる。

 だが、次の瞬間、糸が切れたように膝から崩れ落ちた。

 突如、飛来した矢が首筋を貫いたのだ。

 見上げると、レイラが民家の屋根に立っていた。

 レイラだけではなく、他の弓兵も一緒だ。


「クロノ様!」

「ワシは仕事中だったんじゃが、そうも言ってられんか」


 クロノが振り返ると、シオンと神官さんが猛スピードで近づいてきた。

 神威術で身体能力を底上げしているのだろう。


「二人とも解毒を!」

「分かりました!」

「分かっとるわい!」


 シオンと神官さんは毒に冒された部下の前に跪いた。


「『黄土にして豊穣を司る母神』よ、解毒の奇跡を!」

「解毒、ついでに活性じゃ!」


 温かな光がシオンの手から放たれ、ドロリとした闇が神官さんの体から立ち上る。

 神官さんに解毒を受けた部下はすぐに意識を取り戻し、自分の置かれた状況を確かめるかのように視線を巡らせた。


「休んでて良いよ」


 クロノは立ち上がろうとする部下を手で制した。

 勝敗は決した。

 毒さえ無力化できれば敵はそれなりの手練れに過ぎない。

 敵もそれを理解していたのだろう。

 敵……二人の男が囲いの一角に突っ込んだ。

 二人の男は槍に貫かれるが、よほど強い意志の持ち主だったのか、薬でも使っているのか、槍が深く食い込むのも構わずに突破口を開こうとする。

 わずかに隙間ができる。

 その時、女が動いた。

 女は握り拳大の革袋を取り出すと、真上に放り投げた。


「『死』よ!」


 革袋が爆発した。

 大量の煙が周囲を包み込んだ。

 クロノは煙を吸い込み、激しく咳き込んだ。

 喉が、鼻が、目が焼け付くように痛んだ。

 部下の症状はクロノより深刻だった。

 泡を吹いて、痙攣を繰り返している者までいる。

 毒ガス? いや、催涙ガスか? とクロノはマントで口元を覆い、『刻印』を起動させる。

 漆黒の光が蛮族の戦化粧のようにクロノの体を彩る。

 薬草の煙だって避けられたんだから、とクロノは『場』を形成、煙だけを排出する。

 馬車の方を見ると、敵の姿はなかった。

 この煙を何とかしなくちゃ、とクロノは視線を巡らせた。


疾風舞はやてまい!」

霞舞かすみまい!」


 アリデッドとデネブの声が響き、霧が押し寄せてきた。

 霧は一瞬で通り過ぎ、催涙ガスも消えていた。

 クロノは息を吐き、『刻印』を消した。


「クロノ様!」

「ああ、心配ないよ」


 レイラはクロノに駆け寄り、安堵したかのように小さく息を吐いた。


「クロノ様、まずはあたしらの機転を誉めて欲しいみたいな!」

「魔術について説明を求めるのが礼儀みたいな!」


 アリデッドとデネブが割って入ってきた。

 割り込まれたことが面白くないのか、レイラの表情はいつもより硬かった。

 クロノは改めて周囲を見渡した。

 タイガは至近距離で催涙ガスを浴びたはずだが、すでに立ち上がり、指示を出している。


「タイガ! 症状が重い人はシオンさんと神官さんに見て貰って!」

『分かったでござる』(がう)


 クロノはアリデッドとデネブに向き直った。


「じゃあ、説明を」

疾風舞はやてまいは横向きの突風を起こす、風の下位魔術みたいな!」

霞舞かすみまいは霧を発生させる、水の下位魔術だし!」


 アリデッドとデネブは自慢気に胸を張った。


「今更だけど、下位魔術ってさ」

「威力が微妙とか言われなくても分かってるし!」

「けど、あった方が便利みたいな!」


 何故か、アリデッドとデネブは必死だった。


「威力が微妙な下位魔術だけど、組み合わせ次第で無限の可能性が!」

「実験内容はきちんと記録してるし!」

「二人とも妙な所でマメだなぁ」


 クロノは感心した。



 城門近くにある兵士詰め所は殺気立っていた。

 死者こそ出なかったが、それは幸運の産物だ。

 シオンと神官さんがいなかったら、毒が即効性のものだったら、死者が出ても不思議ではなかった。

 加えて、敵を取り逃がしている。

 このままでは領民が犠牲になるかも知れない。

 その思いが部下を殺気立たせているのだ。


『……と言う訳でござる」(……がう)

「なるほどね」


 クロノはタイガから顛末を聞き終え、溜息を吐いた。

 事件の発端は門番を担当していた兵士が違和感……今にして思えば毒と催涙ガスの臭いを嗅ぎ取ったのだろう……を覚えたことらしい。

 ハシェルは人や物の出入りが激しいため、城門を通過する全ての荷を確認することは現実的ではない。

 そこで優れた嗅覚を持つ獣人を門番にしたのだ。

 犬扱いしているようで申し訳ないが、これも適材適所だ。

 タイガが荷を確認するよう部下に命令した所、彼らは賄賂を差し出してきた。

 当然、タイガは賄賂を受け取らなかった。

 激しい口論の末、男の一人が武器を抜き、戦闘に突入したとのこと。


「で、状況は?」

『敵は獣人の追跡を逃れる術を心得ているようでござる』(ぐるるる)


 タイガは悔しげに唸った。


「人海戦術しかないか」


 クロノは頬杖を突いた。


「警備の人員を増やして、不審者には職務質問、あとは領民に声かけかな?」

『すでに手配済みでござる』(がう)

「話が早くて助かるよ」


 そう言いながら、クロノは内心驚いていた。

 タイガは警備が苦手だと思い込んでいたからだ。

 ともすれば危険地帯にクロノが金よりも部下の命を重んじるとアピールするために通信を入れたのかも知れないという気さえしてくる。


「目的は、まあ、暗殺なんだろうね」


 クロノは溜息を吐いた。


『クロノ様、気を付けるでござる』(がう)

「た、タイミング的に狙われてるのはボンドさんじゃないかと」

『拙者はクロノ様が狙われても不思議ではないと考えているでござる』(がうがう)

「う、否定して欲しかった」


 クロノは頭を抱えた。

 タイガの言う通り、クロノは帝国の内外で起きた出来事に関わっている。

 内戦が終わってから馬の飼育に没頭していたボンドよりも命を狙われる理由は多いのだ。


「でも、僕を狙ってるんだとしたら、手際が悪すぎない?」

『警戒して損はないでござるよ』(がう)

「そうなんだけどさ」


 クロノは腕を組み、手際が悪かった理由を考える。

 幾つか可能性は考えられたが、どれも想像の域を出ない。

 これなら暗殺者の襲撃に備えた方がマシだろう。


「じゃあ、僕は屋敷に戻るよ。夜勤のメイドに通信用マジック・アイテムを預けるから、急ぎの用があればいつでも連絡して」

『……護衛を頼むでござる』(がう)


 黒豹の獣人に先導されて外に出ると、レイラ、アリデッド、デネブの三人が外で待っていた。


「三人とも待っててくれたの?」

「あたしらはすぐに帰ろうと思ったんだけど」

「レイラの付き合いみたいな」

「……アリデッド、デネブ」


 アリデッドとデネブが軽口を叩くと、レイラはいつもより低く感じられる声で二人を窘めた。

 正面を黒豹の獣人、右をレイラ、左をアリデッド、後ろをデネブに守られ、侯爵邸に戻る。


「クロノ様、お体の具合は?」

「解毒を掛けて貰ったから大丈夫だよ」


 あの状況で毒を使うとは思えないが、念のための処置だ。

 敵が特定の毒物に対する耐性を身に付けている可能性は否定できないのだから。

 どんな毒を使ってるのか分からなくても解毒できちゃうんだから、神威術はチートすぎる、とクロノはそんな風に思う。

 会話はそこで途切れた。

 幸いと言うべきか、暗殺者の襲撃はなく、クロノは無事に侯爵邸に辿り着いた。



 クロノが侯爵邸に戻ると、アリッサが玄関で待っていた。


「旦那様、お帰りなさいませ」

「ボンドさんは?」


 クロノはマントを脱ぎながらアリッサに尋ねた。


「ボンド様はティリア皇女と会食を済ませ、現在は応接間でアーサー様と旧交を温めていらっしゃいます」

「ワイズマン先生と?」


 クロノは思わず、手を止めた。


「はい、アーサー様から内戦期に共に戦った仲と」

「……そうなんだ。まあ、でも、内戦期と今は軍の制度自体が違うから、意外でもないのかな?」

「旦那様、マントを」

「ん? ああ、マントね」


 クロノはマントを脱ぎ、アリッサに手渡した。


「皆、食事はどうする?」

「クロノ様、申し訳ありません。まだ、仕事が残っていますから」

「ブーブー、ちょっとくらい良いじゃん!」

「ブヒブヒ、少しくらい役得があっても良いみたいな!」


 レイラが断ると、アリデッドとデネブはブーイングした。


『……私は仕事に戻ります』(……ぐるる)


 冷たい風がアリデッドとデネブの間をピュ~ルリと通り抜けた、ような気がした。


「し、仕事は大事みたいな?」

「き、きちんと仕事をしないと、部下に示しがつかないし」


 二人とも驚くべき変わり身の早さだった。

 これは僕が浅はかだったな、とクロノは反省する。

 黒豹の獣人は仕事として護衛に付いてくれたのだ。

 クロノはレイラを見つめた。


「クロノ様?」

「何でもないよ」


 クロノは微笑んだ。

 レイラが黒豹の獣人のことを考えた上で断ってくれたのなら、上司として喜ぶべき変化だ。


「じゃあ、頼んだよ」


 はっ! と四人はクロノに敬礼して外に出て行った。



 翌日、クロノはきちんと身なりを整えて食堂に向かった。

 普段はベッドを抜け出してそのまま食堂に向かうか、湯浴みをしてから食堂に向かうかのどちらかなのだが、ボンドがいる間は自堕落な所を見せられない。

 そのつもりだったのだが、食堂に入ると、ボンドは席に着いていた。


「クロノ殿、おはようございます」

「あ、すみません。お待たせして」


 あれ? 僕が先に到着する予定だったんだけど、とクロノは疑問に思いながら、軽く頭を下げた。


「待たせすぎだぞ、クロノ」

「……」


 クロノは無言でティリアを見つめた。


「なるほど」

「何を勝手に納得してるんだ?」

「いや、こっちのこと」


 ティリアは訝しげな顔をしているが、クロノは自分の席に座った。

 昨日の様子から察するにボンドは皇族に敬意か、忠誠心のようなものを抱いている。

 ティリアを待たせないように行動しても不思議ではない。


「昨日は忙しそうでしたが、何かありましたか?」

「……あ、それは、その」


 正直に言うべきか、言わざるべきか、クロノは迷った。

 嘘も百回言えば真実になると言うが、嘘を百回も言い続ける根気などない。


「実は城門で毒物を持ち込もうとした集団と戦闘になりまして」

「毒ッ?」


 ボンドは驚いたように目を見開き、腰を浮かせかけた。


「被害は?」

「神威術の使い手が近くにいたので、こちらの死者は出ていません」

「それは不幸中の幸いでしたね。若い頃、私は暗殺者に部下を何人も再起不能にされましてね。若い兵士が特に多かった」


 ボンドは居住まいを正した。


「そんなことが?」

「ええ、敵は戦場以外にもいると思い知らされました。たとえば、木製のカップを……」


 ボンドは一瞬だけティリアに視線を向け、気まずそうに咳払いをした。

 どうやら、女性の前では話しにくい内容だったようだ。


「暗殺者の方は?」

「部下が追跡中です。今日は露店区や商業区を案内したかったんですが……」

「予定の変更は仕方がありません」

「そう言って頂けると助かります」


 クロノは深々と頭を下げた。



 クロノは温くなった香茶を飲み、深々と溜息を吐いた。

 目の前ではボンドとワイズマン先生が昔話に花を咲かせている。

 今日は良いとこなしだったな、と夕陽を眺める。

 今日は学校を案内したのだが、説明する内容を忘れたり、ボンドの質問を聞き逃したり、石に躓いたりと散々だった。

 アリッサがワイズマン先生を交えた茶会を提案してきたくらいだから、クロノが自覚している以上に酷い有様だったのだろう。

 注意力が散漫になっている理由は分かっている。

 犯人が捕まっていないからだ。

 獣人の追跡から逃れる方法を熟知しているのか、犯罪者を庇うような組織がハシェルに存在しているのか、どちらにしても頭の痛い問題だ。

 でも、な~んか、アンバランスなんだよな。どうしてだろう? と自分の思考に埋没しかけたその時、


「……クロノ君」

「あ、はい!」


 ワイズマン先生に名前を呼ばれ、顔を上げた。


「気持ちは分かるけれど、焦りは禁物だよ」

「はい、すみません」


 クロノは頭を下げた。

 ボンドは微笑ましいものでも見るような目でクロノを見ている。

 もしかしたら、過去の自分とクロノを重ねているのかも知れない。

 ボンドは静かに口を開いた。


「クロノ殿、今日は授業風景を見学させて頂きましたが、どのような意図で兵士に教育を施しているのですか?」

「……私は」


 クロノはボンドの意図を読めずに口籠もった。

 部下の学力を底上げすれば命令に対する理解力が増して戦術に幅ができると考えたから、文官が足りないから自分で育てようと考えたから、どちらも嘘ではないが……。


「私は部下に幸せになって欲しいと考えています」

「無用な知識を与えることで絶望が増すと考えないのですか?」

「確かに知識を得れば自分の置かれている状況に絶望するかも知れません」


 帝国の亜人に対する処遇は周辺国家に比べれば寛容だが、それは相対的なものに過ぎない。

 ボンドは正しい。

 きっと、知識を得た部下達は人と亜人の間にある隔たりを思い知らされる。

 ふと二年前の出来事を思い出した。

 レイラに二度目の交わりを求められ、拒否した記憶だ。

 あの夜、レイラの将来を慮ることも愛だと思った。

 あれは痩せ我慢……いや、レイラの全てを背負うことを恐れていた。

 それでも、とクロノは思う。

 今のレイラは大隊に欠かせない存在になった。

 クロノの権力を背景にしているとは言え、ピクス商会との折衝を立派にこなし、大隊の運営に貢献している。

 臆病さの発露でも、偽善でも、結果論でも構わない。

 あの選択は正しかったのだ。

 だから、胸を張って言える。


「ですが、同時に打開策も考えられるようになるはずです」

「知識を得ればクロノ殿の下を去って行くかも知れません。それでは教育を施した意味がないのでは?」

「いいえ、逆です。私の下を去る時にこそ、知識が必要になるのです」


 クロノは死ぬ。

 戦場で、病気で、事故で、寿命でいつか必ず死ぬ。

 部下達も同じ……兵士以外の生き方を選ぶ者も出てくるだろう。


「それに……彼らが私の下を去った後、貧困と無縁でいられたならばそれだけで私の利益に繋がります」

「なるほど、クロノ殿は技術、交易、教育を軸として領地を豊かにしようと考えているのですね。ああ、公共事業も忘れてはいけませんね」


 ボンドは感心しているかのように言った。


「教育についてですが、どのような展望を抱いているのですか?」

「農閑期の農村に教師を派遣したいと考えています」


 農地を広げることよりも教育を優先してくれれば良いんだけど、とクロノは心の中で付け加えた。

 農村の村長達から千歯扱きのお陰で農地を広げられるようになったと聞いたばかりだ。


「農閑期に派遣するためだけに教師を雇うのは効率が悪いと思いますが?」

「そこは事務員を兼任して貰おうと」


 事務員を増員して欲しいって言われてるし、とこれも心の中で付け加える。


『クロノ様、事件発生みたいな!』


 ポケットの通信用マジック・アイテムから声が響いた。

 クロノは立ち上がりかけたが、深呼吸して気分を落ち着かせた。


「こちら、クロノ。何が起きたの?」

『行商人組合の組合員が賄賂を使って、列に割り込もうとしたみたいな』


 ふぅぅぅ、とクロノは溜息を吐いた。


「で、どうするつもり?」

『見せしめのために軽く説教みたいな』

「分かった。僕は行商人組合に抗議しておくから」


 クロノはイスに座り直し、話を続けた。



「つ、疲れた~」


 ケイン経由で行商人組合に抗議を入れ、ボンドと会食をこなし……クロノは自分の部屋に戻るなり、ベッドに倒れ込んだ。


「疲れたよ、疲れたよ」

「それは残念でありますね!」


 顔を上げると、フェイが満面の笑みを浮かべていた。


「何が残念なの?」

「夜伽を務められなくて残念であります!」


 フェイは満面の笑みを浮かべたままだ。

 ちっとも残念そうに見えない。


「す、少し休めば……」

「ダメであります! クロノ様は命を狙われている身であります! このフェイ・ムリファイン……命を賭して、クロノ様を守る所存であります!」


 フェイは拳を握り締めて言った。


「僕が命を狙われていると決まった訳じゃ」

「希望的観測は死を招くであります!」


 フェイは断言した。そんなに夜伽が嫌なのだろうか。


「そんなに夜伽が嫌ですか?」

「クロノ様は真っ裸で死にたいでありますか?」


 フェイは真顔で問い返してきた。


「いや、それは、ちょっと」

「だったら、今日の夜伽はなしであります!」


 はい、とクロノは頷き、ベッドに潜り込んだ。



 翌日、クロノは屋敷の玄関でボンドと向き合っていた。


「……色々と申し訳ありませんでした」

「いやいや、私の方こそ、お土産まで頂いて」


 そう言って、ボンドはマフラーに触れた。

 神聖アルゴ王国との交易で手に入れた羊毛で作ったマフラーだ。

 正規ルート……自由都市国家群を経由すれば大貴族や大商人でなければ手にできないそれはクロノの領地であれば格安で手に入る。


「妻と息子にはありのままを伝えます」

「宜しくお願いします」


 クロノは深々と頭を垂れた。

 顔を上げると、シロとハイイロが侯爵邸に入ってくる所だった。

 子どもを二人連れている。

 一人は少年、もう一人は少女だろうか。

 突然、少女がこちらに向かって駆け出した。

 シロとハイイロは動かない。

 少なくとも武装解除はしているのだろう。


「……ああ、君は」

「ティナです! ティナ・シェラタンです!」


 ボンドの知り合いなのだろうか。

 少女……ティナ・シェラタンは大声で名乗った。


「今日はボンド様にお願いがあって参りました!」


 ティナは自分の窮状を切々と語った。

 要約すると……叔父さんが横暴で困っているということらしい。


「あの時の約束を! 私の後ろ盾になって下さい!」

「ああ、それは大変だね」

「だから! 是非!」

「妻と相談の上で返事をさせてもらうよ」


 取りつく島もないとはこのことか。

 ボンドは凍り付く少女を無視して箱馬車に乗り込んだ。


「そんな対応、あんまりです!」


 ティナはその場で泣き崩れた。


「クロノ、お前の知り合いか?」

「ボンドさんの知り合いだったみたいだけど、どうだろ?」


 いつの間にか背後に立っていたティリアに答える。


「クロノ!」


 ティナは顔を上げた。

 彼女の瞳はギラギラと輝いていた。

 何と言うか、クロノを利用する気満々の目だ。



 お家騒動ってヤツかな? とクロノは応接間のソファーの隅でティリアとティナの遣り取りを聞いていた。

 部下の報告によれば、ティナ・シェラタンは街の外縁部で襲われていたらしい。

 ティナを襲ったのは三人組の男女……一昨日起きた事件の犯人のようだ。

 またしても取り逃してしまった訳だが、犯人の目的がティナであることは分かった。

 本命はティナの叔父であるリード、対抗は執事のセバス、大穴はリードとセバスの共犯と言った所か。

 ボンド殿がダメなら僕か。

 まあ、なりふり構わずに自分の目的を達成しようとする姿勢は立派と言えば立派かな。

 利用されて終わるつもりはないけどね、とクロノはティナの利用方法に思いを巡らせる。

 幾つかティナの利用方法を思い付いたその時、


「自分の領地で起きている問題くらい自分で解決しろ、以上だ」


 ティリアはティナを思いっきり突き放した。


「……ティリア、ティリア、それはあんまりな対応じゃない?」


 クロノは慌ててフォローに入った。

 ボンドがこちらのお願いに応じてくれなかった時のために利用できないかと考えていたのに台無しだ。


「……クロノ様」


 ティナが潤んだ瞳でクロノを見つめていた。


「クロノ、領主は領地で起きた問題を自分で解決するから、国から干渉されずに済んでいるんだぞ」

「確かに、口出しはせずに援助だけしろって言うのはムシが良すぎるね。じゃあ、自分で解決できない時は?」


 んなこと分かってるよ、という言葉をぐっと堪え、ティリアに問い返した。


「程度に拠るな。帝国の利益に繋がるなら援助するし、援助の名目で少しずつ権限を削いで領地を乗っ取ることもあるぞ」

「あ、その辺は割とシビアなんだ。でも、こんな女の子が遠路はるばる助けを求めに来たんだから、追い返すのはどうかと思うよ?」


 ティリアはクロノの本心を見透かそうとするかのように目を細めた。

 いや、見透かされていると考えるべきだ。


「いやさ、隣の隣、つまり、ご近所さんな訳で、僕としては近所付き合いを大切にしたいと思うんだよ」

「……」


 あ、墓穴を掘ったかな? とクロノは直感した。


「助けを求める人を見捨てるのは人としてどうかと」

「それは本心か?」

「本心だよ」

「目が泳いでいるぞ」


 チッ、とクロノは舌打ちしそうになった。


「クロノ、後ろ暗い所がないなら目を合わせろ」

「いえいえ、後ろ暗い所はないですよ?」


 クロノは微妙にティリアから視線を逸らした。


「……降参。そりゃさ、下心はあるよ」


 クロノは諸手を挙げ、捲し立てるように自分と組む利点を語った。

 そこにほんの少しだけ毒を混ぜる。

 ハマル子爵領とシェラタン子爵領の通行税を撤廃するのはクロノとティナの個人的な約束にして欲しい、と。


「はい、それくらいなら」


 掛かった、とクロノが口角を吊り上げた瞬間、ティナはコールの方を見つめ、あ! と声を上げた。

 どうやら、こちらの意図に気付いたようだ。

 いや、気付いたのはコールか。

 駆け出しの行商人と侮りすぎたようだ。

 だが、後ろ盾になることを条件に通行税の撤廃と露店制度を導入してくれるのなら、悪い取引ではない。

 クロノはフェイを護衛に付け、二人を送り出した。



 数日後――。


「……という訳であります」

「へ~」


 クロノはベッドに寝そべり、フェイの話を聞いていた。

 怪しげな暗殺集団が関わっていたのは驚きだが、それ以外は想定の範囲内だ。

 誰が犯人でも対応できるようにフェイを護衛に付けたのだから。

 ついでに言うと、フェイなら一度や二度追い払われても任務を遂行するまで戻ってこないだろうと考えていた。


「フェイ、今夜は如何なものですか? こ、こ、こうお風呂で」

「水着を用意してくるであります」


 なんですと! とクロノは立ち上がった。


「水着はこういう時にこそ、役立てるべきであります! では、水着を取りに行ってくるであります!」


 違うんだ、違うんだよ、フェイ、とクロノは手を伸ばしたが、フェイを止められなかった。

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