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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第6部

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第5話『シェラタン子爵領』後編


 最初に音を聞いた。

 麦の穂が風に揺れる音に似ている。

 大通りを進んでいくと、音は次第に大きくなっていく。

 やがて、それが喧噪であることに気付く。

 ティナはわくわくしながらコールと露店区に足を踏み入れた。

 次の瞬間、声が圧力を伴って押し寄せてきた。

 いらっしゃい、いらっしゃい!

 カド伯爵領から運んできたばかりの魚だよ!

 幸せを運んでくれる石はいかが?

 貴方の恋愛運は……。

 どいた! どいた!

 お母さん?

 紐が引っ掛かってる、引っ掛かってるって!

 あっちの店では銅貨三枚だったぞ!


「うわぁぁぁぁ……!」


 ティナは思わず、声を上げた。

 エラキス侯爵領ハシェルの露店区はそれほどの衝撃をティナに与えたのだ。

 視線を巡らせると、色々な露店が視界に飛び込んでくる。

 食料がメインだったリノルの広場とは違う。

 薬草を売っている露店、綺麗な石を取り扱っている露店、神秘的な雰囲気の占い師もいれば、人生相談なんて店もある。

 露店区から受けた印象は『混沌』……ハシェルの露店区はそれほど雑多で、猥雑で、独特の熱を持っていた。


「あんまりキョロキョロするなよ、田舎者だと思われるぞ」

「だって、珍しいんだもん」


 ティナは早足で露店区を歩き回り、足を止めた。

 美味しそうな匂い、と鼻をひくつかせる。

 よく見ると、串に刺したソーセージやパンに挟んだソーセージを食べながら歩いている人がいる。

 どうやら、料理を売っている店があるようだ。


「……ほれ」

「ありがとう、コール」


 そんなに食べたそうな顔をしているように見えたのか、コールが串に刺さったソーセージを差し出してきた。


「どうやって食べれば良いの?」

「どうって? かぶりつけばいいんだよ」


 ティナはソーセージに齧り付くコールを横目に見ながら、恐る恐るソーセージの端を囓った。

 ソーセージの皮がパリッという音と共に破れ、肉汁が飛び散る。

 味は屋敷で食べていたソーセージに及ばないが、パリッとした食感と熱々の肉汁はそれを補ってあまりある。

 ティナはあっと言う間にソーセージを食べ終え、串を持ったまま立ち尽くした。


「ゴミはゴミ箱に、な」

「……」


 コールはシニカルな……多分、本人はそう信じているはずの笑みを浮かべ、露店区の隅にある大きな木箱に串を投げ入れた。


「道にゴミを捨てると兵士にどやされるぜ」

「うん、分かった」


 ティナは串を木箱に捨て、コールを見た。


「どうして、こんなことをするの?」


 コールは甲高い声で言った。


「それ、ボクのマネ?」


 ティナがムッとして言い返すと、コールは大仰に肩を竦めた。

 こういう仕草は格好良い人がするべきだと思う。

 それ以外の人がすると、友好的な関係が崩壊しかねない。


「決まった場所にゴミを捨てる理由だろ? その方が効率が良いからじゃねーの?」

「ふ~ん」

『違ウ。くろの、病、防グ、言ッテタ』


 反射的に振り返ると、浅黒い肌の少女が地面に敷いた毛皮の上に座っていた。

 草の束が幾つも毛皮の上に置かれているが、ティナの意識は少女の服に向けられていた。

 膨らみかけた胸を覆うのは一枚の毛皮のみ、下半身も似たようなものだ。

 そして、首から提げた粘土板……、


「アレオス山地の蛮族!」


 ティナはコールの背に隠れた。


「あのな、ティム。アレオス山地の……ルー族はとっくに帝国と仲直りしてるだろ?」

「だって、蛮族だよ!」


 ティナだって、エルナト伯爵の息子ガウルがルー族を帝国に恭順させたことは知っているが、ほんの少し前まで敵同士だったのだ。

 すぐに警戒心を解いてしまうコールの方がおかしい。


「言いたいことは分かるんだけどさ。ルー族が暴れ回ってたのは俺達が生まれる前の話だろ? そんな大昔の話を持ち出してどうすんだよ」

「大昔? 三十年ちょっとしか経ってないよ!」


 ティナは大声で叫んだ。

 周囲にいた人々の動きが鈍る。

 物珍しそうに視線を向けてくる者もいたが、それも長く続かない。

 人々はすぐに興味を失い、それぞれの目的地に向かって歩き始めた。


「分かった分かった。けど、話してみたら、良いヤツらかも知れないだろ? ベテル山脈の傭兵も話してみると……いや、あまり話してないけど、真面目なヤツらだったぜ」


 むぅぅ、とティナは唸った。

 価値観が違いすぎる。

 これがコールの価値観なのか、商人の価値観なのか、判断に迷う。


『オレ、話ス、ナイ。仕事、邪魔、行ケ』

「へ~、薬草を売ってるのか」


 コールは何事もなかったようにしゃがみ、毛皮の上に並べられた薬草を見つめた。


「この薬草は見たことあるぜ。頭痛に効くんだろ?」

『頭痛、違ウ。腹痛』


 少女はぶっきらぼうな口調で言った。


「あれ? ガキの頃に飲んだ記憶があるんだけど、おかしいな」

『知識、半端、ダメ』

「じゃ、こっちが頭痛だろ?」

『違ウ』


 コールは自信満々で別の薬草を指差したが、今度も間違えた。

 どうやら、コールは薬草に詳しくないようだ。

 ティナはうんざりした気分でコールと少女の遣り取りを見ていた。

 いつの間にか、薬草の効果を当てるゲームのようになり、少女の態度は少しずつ軟化していった。

 あくまで最初の頃よりというレベルだが。

 ゲームが一段落し、コールは参ったと言うように頭を掻いた。


「生兵法はケガの元ってヤツだな」

『ダカラ、呪医、必要』

「だよな」


 よいしょ、とコールは立ち上がった。


「いつもここで薬草を売ってるのか?」

『イツモ、違ウ』

「じゃ、次の機会にな」


 コールはニッと笑った。



 コールの言うことも一理あるのかな? とティナはそんなことを考えながら、露店区を歩く。

 チラリと隣を盗み見ると、コールと目が合ってしまった。

 ティナが慌てて視線を逸らしたその時、


「そこの娘、悩んでおるな」

「……っ!」


 突然、声を掛けられ、ビクンと体を震わせた。

 妖艶な美女がいた。

 艶のある黒髪は腰まであり、肌は雪のように白い。

 よほど自分のプロポーションに自信があるのか、服の胸元は大きく開き、深い切れ込みがスカートのサイドに入っている。

 ただし、妖艶な美女でいられるのは周囲を見なかった場合だ。

 いくら美人でも露店区の隅で木箱に座っていたり、『人生相談』と書かれた看板が近くにあったりすると、第一印象を大幅に下方修正せざるを得ない。

 ぶっちゃけ、変な女だ。


「ティム、騙されるなよ。人を不安にさせる口上は悪質な辻占い師の常套手段だぜ」

「格好良い台詞だけど、反射的に言ってるでしょ?」


 コールは妖艶な美女を見つめた後、バツが悪そうに頭を掻いた。


「失礼な二人じゃのう! ワシはこれでも『漆黒神殿』の大神官なんじゃぞ! ちなみにここでは神官さんの愛称で親しまれとる」


 プッという音がした。

 妙齢の美女……神官さんの隣に店を構える占い師が笑いを堪えきれずに吹き出したのだ。


「し、失礼なヤツじゃな!」


 占い師は神官さんを無視して客の対応を始めた。


「そ、その大神官様がどうしてここに?」

「成り行きかの?」


 神官さんはしみじみと呟いた。


「そっちの方が人生相談が必要なんじゃねーの?」

「必要ないわい!」


 神官さんは机代わりの木箱を叩いて立ち上がると、偉そうに腕を組んだ。


「ワシの力を見せてやろう!」


 神官さんは片手で顔を覆い、ニヤリと笑った。

 ゴゴゴゴッという音が何処からともなく聞こえてきそうだった。

 まあ、そんな音は何処からも聞こえてこなかったが。


「こ、この後、お、お主は」

「……この後」


 緊張のせいか、コールはゴクリと唾を飲み込んだ。


「この後、お主は頭を殴られる」


 ごんっ! という音が響き、コールはその場に蹲った。

 神官さんの言葉通り、頭を殴られたのだ。

 コールを背後から殴りつけたのは禿頭の男だった。

 背は高く、髭を生やしている。

 赤焼けた肌のせいで判りにくいが、深い皺が目元に刻まれている。


「コールっ!」

「うげっ、親父!」


 コールは男に怒鳴りつけられ、驚いたように目を剥いた。


「なんで、親父が?」

「クロノ様から抗議を受けたからに決まっとるだろう」


 全く情けない、と男は顔を覆った。


「いや、これには事情があるんだよ」

「言い訳は帰り道で聞いてやる」

「いやいや、今、聞いてくれよ!」


 男は無言でコールの胸ぐらを掴んで歩き始めた。

 本気で暴れれば振り解けそうだが、そのつもりはないようだ。

 男とコールの姿は雑踏に紛れ、すぐに見えなくなった。


「ティーーームっ! 知らない人に付いていくなぁぁぁっ!」

「ボク、子どもじゃないよ!」


 ティナは顔を真っ赤にして叫び返した。


「うむうむ、去り際にナイスアドバイスじゃ。ワシからもアドバイスをしてやろう」

「ボク、お金ないよ」

「文無しにするアドバイスなどないわい!」


 これが普通の反応ですよね、とティナは背を丸めて神官さんから離れた。



 ティナは露店区を離れ、街の中心部に向かう。

 昨日、ニコラが手配してくれた宿は街の中心部付近……商業区と呼ばれる区画だったから、戻って来た形だ。

 商業区はさほど露店区から離れていないが、雰囲気が大きく異なる。

 まず、客引きの声がない。

 次に取り扱っている商品が違う。

 露店区で取り扱う商品は食料、商業区は服や装飾品がメインだ。

 街並みは洗練され、通りに面した店はどれも風格を感じさせる。

 その内の何軒かは帝国の人間ならば誰でも知っている商会の支店だ。

 他の店はそんな商会の支店と競い合い、生き残ってきたのだ。

 風格を感じて当然だ。

 特にティナの目を引いたのは『シナー貿易組合』だった。

 コールの話に出てきた店の名前だ。

 『シナー貿易組合』は服飾をメインに扱っているようだ。

 陳列の仕方は独特で、人間サイズの人形に服を着せている。

 こんな時じゃなければ寄って行きたいんですけど、とティナは『シナー貿易組合』を横目に見ながら、ゆっくりと歩を進める。

 商業区を通り過ぎれば、侯爵邸はすぐそこだ。


「……お嬢様」

「誰ですか?」


 ティナは足を止め、振り返った。

 すると、女が手招きしていた。

 見知った女だった。

 最近、セバスが雇ったばかりのメイドで、囮として箱馬車で出発させたメンバーの一人だった。


「お嬢様、こちらへ」


 ティナは一瞬だけ迷い、すぐにメイドの後を追った。

 メイドは路地を通り、人気のない方へとティナを誘う。

 メイドが足を止める。

 そこは街の外縁部だった。

 城壁が陽光を遮っているため昼間でも薄暗く、地面が濡れている。

 まさか、とティナは振り返ると、二人の男が路地裏から出てきた。

 見上げるほどの大男だ。

 腕は丸太のように太く、そこには無数の傷が暴力に慣れ親しんでいることを示すように刻まれていた。

 男の一人がティナの手首を掴む。

 振り払おうとしたが、男は小揺るぎもしない。


「どうして、どうして! こんなことを?」

「……」


 メイドは答えない。

 その代わりにニィィィッと口角を吊り上げた。

 彼女は誰の命令で動いているのか。

 単純に考えればセバスだ。

 だが、セバスには動機がない。

 だとすれば叔父に買収されたのか。

 けれど、黒幕が分かった所で何になるのか。

 ティナは捕まってしまった。

 詰みだ。

 挽回する機会は残されていない。


「だから!」


 コールの声が路地に響く。


「知らないヤツに付いていくなって言っただろうがっ!」


 ティナの手首を掴んでいた男の力が一瞬だけ緩んだ。

 コールが男に跳び蹴りを喰らわせたのだ。

 ティナは男の手を振り払い、コールに向かって走る。


「こっち……ッ!」


 コールの言葉が途切れた。

 男の裏拳がコールの顔面を捉えたのだ。

 コールは吹っ飛ばされ、ゴロゴロと地面を転がった。


「コール!」


 ティナはコールに走り寄った。


「や、やべぇ、良いの、貰っちまった」


 コールは立ち上がろうと体を浮かせたが、ぺたんと尻餅をついた。


「コール、どうして?」

「お前が狙われてるって分かってたから、親父を振り切ってきたんだよ」


 ふとハマル子爵邸での出来事を思い出した。

 あの時、コールは放って置いたら、殺されそうだと言った。


「なんで、分かったの?」

「怪しげなヤツらがお前としか思えないヤツを見なかったか聞き込みをしてたら、そりゃ、馬鹿でも分かるだろ」


 コールは体を起こし、二人の大男とメイドを睨み付けた。

 二人の大男がゆっくりと近づいてきた。


「貴方が偽の情報をばら撒いてた訳ね? お陰で苦労したわ」

「お陰でゆっくり眠れたけどな。つか、アンタらがお粗末すぎるんだよ」


 ぐっ、とメイドが言葉に詰まる。


「それと、俺が何の手も打ってないと思っているのか?」


 コールがニヤリと笑ったその時、


『あっち、臭いする!』(がうがう!)

『捕まえる!』(がうがう!)


 声と足音が近づいてきた。

 メイドは一瞬だけ躊躇う素振りを見せ、二人の大男と共に逃げ出した。


「これで俺の仕事はおしまいだな」


 そう言って、コールは力尽きたように倒れた。



「おしまいになってねーし」

「でも、今度は侯爵邸での事情聴取だから」


 ティナは歩きながら、不満を口にするコールを宥めた。

 昨夜、コールが酒場で集めた情報によればメイドと二人の大男はハシェルの城門でトラブルを起こしたらしい。

 原因は不明……と言うよりも色々な噂が飛び交っていて絞り込めなかったとのこと。


「けどよ、兵士に囲まれるのは少しな」

「なんで? 頼もしいよ」


 ティナの前を歩く獣人の尻尾が左右に揺れていた。

 どうやら、この獣人は誉められて喜んでいるようだ。

 カーン、カーンという音が聞こえてきた。

 隣を見ると、高い塀があった。

 侯爵邸を囲む塀だ。

 音は塀の向こうから響いている。

 ティナが侯爵邸の門を潜り、呆気に取られた。

 侯爵邸の庭園は庭園と呼べる代物ではなかった。

 煉瓦造りの建物が門のすぐ近くにあり、平民らしき人々が働いている。

 一応、植物は植えられているが、手入れを怠っているのは明らかだ。

 侯爵邸を取り囲むように聳え立つ四つの塔も本来と異なる用途で使われているようだった。

 ある塔ではドワーフが槌を振るい、ある塔では亜人が集まって何かをしていた。

 侯爵邸の扉が開き、ある人物……穏やかな笑みを浮かべた老紳士が出てきた。

 ハマル子爵家前当主ボンド氏だ。

 ボンド氏は黒のズボンと上着、同色の帽子を被り、布で首元を覆っていた。

 ああ、ようやく会えた、とティナは走り出した。

 取り押さえられると思ったが、誰もティナを取り押さえようとしなかった。


「……ああ、君は」

「ティナです! ティナ・シェラタンです! 今日はボンド様にお願いがあって参りました!」


 ティナは叔父の悪行を切々と語った。

 すると、ボンド氏は心の底から同情しているような表情を浮かべた。


「あの時の約束を! 私の後ろ盾になって下さい!」

「ああ、それは大変だね」

「だから! 是非!」

「妻と相談の上で返事をさせてもらうよ」


 え? とティナは凍り付いた。

 ボンド氏はいつの間にかやって来た箱馬車に乗り、そのまま帰ってしまった。


「そんな対応、あんまりです!」


 ティナはその場で泣き崩れた。


「クロノ、お前の知り合いか?」

「ボンドさんの知り合いだったみたいだけど、どうだろ?」


 クロノ! とティナは顔を上げた。



「で、ティナは前ハマル子爵に力を借りるつもりで屋敷を飛び出してきたって訳か」

「飛び出した訳じゃないよ」


 コールの態度はティナが正体を明かした後も変わらなかった。

 コールは案内された応接間のソファーに座り、テーブルに置かれた焼き菓子をもの凄いスピードで食べている。

 無理もない。クロノが用意した焼き菓子……ビスケットには砂糖が使われている。

 砂糖は高級品だ。

 貴族や大商人ならまだしも、平民が口にする機会は皆無に近いのではないだろうか。


「うぐっ!」


 ビスケットが喉に詰まったのか、コールはカップを手に取り、一気に飲み干した。

 コールはプハーと息を吐くと、再びビスケットに手を伸ばした。

 クロノがいれば遠慮したかも知れないが、準備があるらしくここにはいない。


「あのさ、いつから……ボクじゃなくて、私が女だって気付いたの?」

「誰がお前の下着を預かってると思ってるんだよ?」


 う、とティナは呻いた。

 恥ずかしさのあまり悶絶しそうだった。

 宿で洗濯した服と下着はティナの手元にない。

 つまり、そういうことだ。

 ティナが口を開いた次の瞬間、応接間の扉が開いた。

 応接間に入ってきたのはティリア皇女だった。

 心臓が大きく鼓動する。

 二年前の舞踏会で遠巻きに見つめることしかできなかったティリア皇女が目の前にいる。

 豊かな胸が白い軍服を押し上げている。

 動きやすさを優先してか、艶のある長い金髪は一つに束ねられていた。

 はぁぁ、とティナは溜息を吐いた。

 ティリア皇女は二年前と同じように、いや、二年前よりも美しかった。

 ティリア皇女はソファーに座り、優雅に足を組んだ。

 それから少し遅れてクロノがやってきた。

 イメージと違いますね、とティナはそんな感想を抱いた。

 クロノの背はティリア皇女を少し上回る程度だろうか。

 太りすぎてもいなければ痩せすぎてもいない。

 髪と瞳の色は黒だ。

 右の額から頬にかけて走る古傷がなければ人の良さそうな青年で通用するだろう。

 クロノはティリア皇女の隣にチョコンと座った。

 ティリア皇女がソファーのど真ん中に座っているので、そうせざるを得なかったのだ。


「お、お初にお目に掛かります。私は……」

「シェラタン子爵の娘だろう。舞踏会で見かけた記憶がある」


 ティナは息を呑んだ。

 ティリア皇女が自分のことを覚えている。

 それだけで天にも昇るような気持ちだった。


「何か事情があって来たのだろう。話してみろ」

「実は……」


 ティナはこれまでの経緯……半年前、父親が事故で死んだために家督を継いだこと、新しく配属された大隊長とその取り巻きの素行不良に悩まされていたこと、叔父の素行に悩まされていることを切々と語った。

 有力な貴族を後ろ盾とし、問題の解決を図ろうとしていることを正直に話した。


「どうでしょうか?」

「事情は分かった。私に言えることは一つだけだ」


 ティリア皇女は腕を組み、大きく息を吸った。


「自分の領地で起きている問題くらい自分で解決しろ、以上だ」

「え?」


 ティナは思わず、聞き返した。


「分かりにくかったか? では、端的に言うぞ?」


 ティリア皇女は咳払いし、


「他人に頼るな」


 ティナを思いっきり突き放した。

 実際、奈落に突き落とされたような気分だった。

 ダメージは期待した分だけ大きい。


「……ティリア」


 それまで黙っていたクロノが口を開いた。


「ティリア、それはあんまりな対応じゃない?」

「……クロノ様」


 ティナは泣きそうだった。

 優しさは辛い境遇にある時ほど心に染みる。


「クロノ、領主は領地で起きた問題を自分で解決するから、国から干渉されずに済んでいるんだぞ」

「確かに、口出しはせずに援助だけしろって言うのはムシが良すぎるね。じゃあ、自分で解決できない時は?」

「程度に拠るな。帝国の利益に繋がるなら援助するし、援助の名目で少しずつ権限を削いで領地を乗っ取ることもあるぞ」

「あ、その辺は割とシビアなんだ。でも、こんな女の子が遠路はるばる助けを求めに来たんだから、追い返すのはどうかと思うよ?」

「……」


 ティリア皇女は胡散臭そうな目でクロノを見ていた。

 と言うか、クロノの言葉を全く信じていない目だ。


「いやさ、隣の隣、つまり、ご近所さんな訳で、僕としては近所付き合いを大切にしたいと思うんだよ」

「……」


 やはり、ティリア皇女は無言だ。


「助けを求める人を見捨てるのは人としてどうかと」

「それは本心か?」

「本心だよ」

「目が泳いでいるぞ」


 ティリア皇女が詰め寄ると、クロノはソファーの隅に身を寄せた。

 真正面からティリア皇女の視線を受け止めているように見えるが、微妙に視線を逸らしている。


「クロノ、後ろ暗い所がないなら目を合わせろ」

「いえいえ、後ろ暗い所はないですよ?」


 無言の睨み合い……と言っても、ティリア皇女が一方的に睨んでいるだけだ……がしばらく続いた。


「……降参」


 先に折れたのはクロノだった。

 クロノは道化じみた仕草で両手を挙げた。


「そりゃさ、下心はあるよ」


 完全に開き直ったのか、クロノは堂々とした態度でソファーに座り直した。


「ティナ、後ろ盾は何もボンドさんじゃなくても良いんでしょ?」

「ええ、まあ」


 ティナは曖昧に頷きながら、クロノが後ろ盾として役に立つのかを計算する。


「案外、僕は役に立つと思うよ。第十三近衛騎士団団長の肩書きは役に立たないかも知れないけど、近衛騎士団長が知り合いにいるし」


 ティナは自分の考えを見透かしているような発言に息を呑んだ。


「でも、ただじゃないよ?」

「分かっています」

「後ろ盾になってあげるから、シェラタン子爵領でも僕の領地やハマル子爵領でやっている露店制度を導入して欲しいんだ」

「それだけですか?」


 ティナは思わず、聞き返した。

 もっと大きなことを要求されると思っていたので、拍子抜けも良い所だ。


「あとは……ハマル子爵領方面の通行税を撤廃して欲しいんだ。ただ、これはあくまで僕とティナの約束ってことで。ブラッド殿にはこっちで話を通しておくから」

「はい、それくらいなら」


 ティナは途中で言葉を止めた。

 コールの手がティナに触れたのだ。

 ふと目が合う。

 もっと考えてから決めろ、とコールは目で訴えていた。

 ティナはクロノの要求を吟味する。

 露店制度の導入は問題ない。

 通行税を撤廃しても街がリノルやハシェルのように賑わえば損失を補填できるだろう。

 どうして、クロノ様と私の約束なんでしょう? とティナは内心首を傾げた。


「あ!」


 ティナはクロノの意図に気付き、声を上げた。


「クロノ様はハマル子爵を牽制するために私を利用するつもりなんですね?」

「そんなつもりはないよ」


 クロノは大仰に肩を竦めた。

 ハマル子爵領はエラキス侯爵領とシェラタン子爵領に挟まれている。

 もし、クロノの案が実現したら、ハマル子爵は交易路を押さえられることになる。

 もちろん、それはありえない仮定だ。

 ティナがクロノの指示通りに動いても、ハマル子爵は自分にメリットのない提案を受け入れたりしないだろう。

 そして、ハマル子爵は拒絶した後でティナがクロノとの関係に重きを置いていると考えるに違いない。

 そう考えさせることこそがクロノの狙いだ。

 そう理解した瞬間、クロノが悪魔のように見えた。


「通行税の件は私とハマル子爵で協議すべきことです」


 ティナは断言した。


「じゃあ、ハマル子爵……まあ、実質的な領主代行はボンドさんじゃなくて、奥さんみたいだから」

「領主代行はボンド様ではないのですか?」


 クロノはきょとんとした表情を浮かべた。


「領主代行はあくまでボンドさんだけど、実際に仕事をしているのは奥さんらしいよ。何でも、ブラッド殿に家督を譲る前から奥さんに任せていたとか?」

「そ、そんな」


 あんまりです、とティナは泣き言を呑み込んだ。

 よくよく考えてみれば社交辞令を真に受けた自分が悪いのだ。


「誰と交渉することになるのか分からないけど、とにかく交渉は任せるよ。その後、三人で仲良く食事でもしたいね」


 うぐ、とティナは呻いた。

 厄介事を押しつけられてしまった。

 こうなってみると、クロノは厄介事を避けるために一芝居打っていたのではないかという気さえしてくる。


「通行税撤廃と露店制度を導入する件は分かりました。では、後ろ盾になって頂けると考えて宜しいんですね?」

「もちろん、誓約書が必要なら書くよ」

「お願いします」


 ティナは安堵の息を吐くのを堪えた。

 ふと隣を見ると、コールが親指を立てていた。


「まだ、話は終わってないよ」

「……っ!」


 ティナは背筋を伸ばした。


「他にも何か?」

「ティナ、自分が狙われたことを忘れてない? まあ、こっちも無関係じゃないし、話が纏まったのに殺されたりしたんじゃ困るからね」


 クロノはソファーに体重を預け、頭の後ろで手を組んだ。

 大きな溜息を吐き、数日前に起きた事件を説明し始めた。

 数日前、一台の箱馬車がハシェルを訪れた。

 箱馬車自体は珍しくなかったのだが、問題は積み荷……正しくは乗客と御者の所持品にあった。

 毒を所持していたのだ。

 門番が獣人でなければ見過ごされていたに違いない。

 言い逃れできなくなった乗客と御者は門番に襲い掛かった。

 乗客と御者は手練れだったが、詰め所にいた兵士が応援に駆けつけ、二人の優秀な神官のお陰で毒による死者は出なかった。

 もっとも、生け捕りにできず、何人かの逃亡を許してしまったが。


「あ~、クロノ様?」

「部下に賄賂を渡そうとしたコール君、発言があればどうぞ」


 クロノが嫌みを言うと、コールは苦虫を噛み潰したような顔をした。


「手練れだって話ですけど、そんなに凄いヤツらなんですか? 俺、何度かヤツらを出し抜いてますよ」

「……私も。あ、私の時は臨時雇いのゴロツキみたいな感じでした」


 ティナが控えめに手を挙げると、クロノは考え込むように顎を撫でた。


「う~ん、素人に出し抜かれる暗殺者か。ああ、暗殺者ってのは毒から連想しただけだからね。とにかく、変だね」

「変じゃないと思うぞ」

「ティリア、どういうこと?」


 分からないのか、とティリア皇女は言いながら、満更でもなさそうだ。


「クロノ、暗殺者は組織に属しているものだぞ?」

「ああ、役割分担があるってことね」

「きっと、その暗殺者は組織のバックアップを受けられない状況か、暗殺者集団の残党だったんだろう」


 ティリア皇女は我が意を得たりと言わんばかりに頷いた。


「言われてみれば、時代劇に出てくる盗賊も役割を分担してたし、暗殺者集団が役割分担しててもおかしくないね。でも、素人に出し抜かれる暗殺者って問題あるんじゃない?」

「そ、それは……分業化しすぎたんじゃないか?」


 ティリア皇女の答えは説得力を欠いていた。


「ま、まあ、暗殺者が役割分担をしているかは別として、手練れであることに間違いはない。と言う訳で護衛を用意しました」


 扉が開き、一人の女性が応接間に入ってきた。

 その女性はティリア皇女と同じ白い軍服を身に纏い、立派な剣を腰に提げている。


「フェイ・ムリファインであります!」


 女性……フェイは背筋を伸ばして立ち止まり、声を張り上げた。


「僕の部下の中で、あ~、今回みたいな事件に向いてそうな人材です」

「神威術で毒対策もバッチリであります!」

「よろしくお願いします」


 ティナは一抹の不安を覚えながら、頭を垂れた。



 ティナは今後のことについてクロノと話し合い、コールの馬車に乗ってハシェルを発った。

 往路はトラブルの連続だったが、復路は平穏そのものだった。

 暗殺者は護衛を警戒したのだろう。


「むむ、活躍しないまま目的地に到着してしまったであります」

「俺はホッとしてるけどな」


 フェイはシェラタン子爵領にあるティナの屋敷に到着するなり、無念そうに拳を振るわせた。

 コールはそんなフェイに突っ込みを入れ、大きな溜息を吐いた。


「折角、クロノ様から活躍の機会を頂いたのに私も黒王も不完全燃焼であります」

「あの、クロノ様はそういうつもりでフェイさんを護衛に付けて下さった訳ではないと思いますよ」


 残念であります、とフェイは黒王……愛馬の首筋を撫でている。

 護衛にあるまじき態度と発言だが、フェイの性格は二日の旅で把握できている。

 ティナ達が屋敷に入ると、セバスが駆け寄ってきた。


「お嬢様! よくぞ、ご無事で!」


 セバスは荷馬車のすぐ近くに跪き、ティナを見上げた。

 その目は涙で潤み、ティナの無事を心の底から喜んでいるようだった。


「お嬢様、そちらのお二人は?」

「御者がコールさんで、もうお一人はフェイ・ムリファインさんです」


 ティナは馬車から降り、セバスに二人を紹介した。


「セバス、叔父様は?」

「そ、それが……お嬢様が屋敷を発たれた頃に姿を隠されまして。お嬢様の方は如何でしたか?」

「前ハマル子爵には後ろ盾になって頂けませんでしたが、その代わりにクロノ様が後ろ盾になって下さりました」


 ティナは胸を張って答えた。

 ようやく領主として仕事を果たせた。

 そんな満足感が胸を支配している。


「な、なんと、殺戮者スロータークロードのご子息と」


 セバスは俯き、肩を震わせた。

 きっと、ティナの成長を喜んでくれているのだろう。


「セバス、お二方を客室に案内してくれませんか?」


 ティナが命令すると、セバスは年齢を感じさせない動作で立ち上がり、申し訳なさそうに頭を垂れた。


「お嬢様、申し訳ございません。現在、人手が足りず、お客様を満足にお迎えできる状況にございません。些少ながらお礼を差し上げますので、ご容赦下さい」

「人手不足では仕方がないでありますね。クロノ様から路銀を頂いているので、私のことは気にしなくて大丈夫であります」

「俺は埃の積もった部屋でも気にしねーよ」

「では、コールさんは屋敷に泊まって頂き……セバス、フェイさんにはとてもお世話になりました。だから、お食事だけでも一緒にできないでしょうか?」

「はっ、かしこまりました」


 そう言って、セバスは恭しく頭を垂れた。



 ティナが最初にしたことは湯浴み……旅の垢を落とし、お湯をたっぷり張った浴槽に浸かることだった。

 旅の垢を落とした後はメイドの手を借りてドレスに着替え、自分の部屋に戻る。

 屋敷に戻って安心したせいか、疲労感がドッと押し寄せてきた。

 貴族にあるまじき行為と自覚していたが、疲労には勝てなかった。

 ティナはベッドに横たわり、リノルとハシェルの賑わいを思い出して溜息を吐いた。

 クロノに後ろ盾になって貰った。

 冒険の末に勝ち取った成果がちっぽけなものに思えて仕方がなかった。

 情けを受けた。

 いや、情けを受けたのではなく、敗北感を与えられたと言うべきかも知れない。

 シェラタン子爵領は二人の領地に負けていないと言い張ることはできる。

 言い訳を用意することもできる。

 だが、敗北感を拭い去ることはできない。

 その切っ掛けとなったのは臭いだ。

 微かな腐敗臭がこの街の空気に混じっている。

 二人は街を発展させながら、足下を疎かにしていないのだ。

 私は悔しいのでしょうか? とティナは自分に問い掛け、眠りに落ちていった。



 ドンドンドン! と大きな音が響いた。

 どれくらい寝入っていたのか、部屋の中は真っ暗だった。


「明かりを!」


 ティナが叫ぶと、照明用マジックアイテムが白い光を放つ。

 ティナ! ティナ! とコールの声がする。

 慌てて扉に駆け寄り、扉を開けると、顔面蒼白のコールが廊下に立っていた。


「ティナ! 早く逃げるんだ!」

「コール、どうして?」

「説明しているひ……っ!」


 突然、コールが倒れた。

 血が床に広がる。

 コールの頭から流れた血だ。

 ひっ、ひっ、とティナは浅い呼吸を繰り返した。

 分からない。

 理解が追いつかない。

 コールが頭から血を流して倒れている。

 誰かに襲われたのか。

 だとしたら、誰がコールを襲ったのか。


「……お嬢様」

「セバス! 医者を呼んで下さい!」


 ああ、私は何を馬鹿なことを、とティナは胸中で毒づきながら、廊下に立つセバスに命令した。

 ポツ、ポツと雨だれのような音が聞こえる。


「セバス! 私の命令が聞けないのですか!」

「……」


 セバスは無言だ。

 その態度に苛立ちが募る。

 分かっている。

 本当は分かっている。

 どんなにヒステリックに命令しようともセバスは動かない。


「お嬢様、こちらに。私は手荒なマネをしたくないのです」


 セバスは血で濡れた鈍器を持ち上げ、薄く微笑んだ。



 ティナはメイドに囲まれ、地下に案内された。

 案内……こんな状況で奇妙な言い回しだが、セバスに先導されているのだから、案内で間違いないはずだ。

 ずる、ずるという音がする。

 セバスが動かないコールの襟首を掴んで引き摺る音だ。

 照明用のマジックアイテムは地下室にまで設置されていた。

 長い通路を抜けると、開けた空間に出た。

 ×型の磔台があり、男が拘束されていた。

 顔は倍ほどに膨れ上がり、上半身はズタズタに引き裂かれ、爪は全て剥がされ、


「お、叔父様!」


 ティナは磔台に駆け寄ろうとしたが、メイドに阻まれた。

 セバスは部屋の中央まで行くと、コールから手を離し、ゆっくりと振り向いた。


「ご安心下さい。まだ、生きています」


 ギィィィという音が背後から響いた。

 メイドの一人が扉を閉めたのだ。


「セバス、私に何をするつもりですか?」

「特に何も」


 セバスは平然と答えた。


「ただ、子を産んで頂きます。シェラタン子爵家とそれに見合う格の貴族、二つの尊い血を継ぐ子を」


 セバスは淡々と言った。その口調が不安を掻き立てる。


「子どもなら、セバスに言われなくても」

「邪魔、ですな」


 セバスはティナを睨め付けるように顎を引いた、


「訂正致します、お嬢様。子を産むのに動く手足は必要ありません。ご安心下さい。手足を切り落とすという意味ではございません。腱を切断するだけです。ああ、声も必要ありません。あとで喉を潰す薬品を調合させましょう」


 目も、耳も、必要ありません、とセバスは続けた。

 その時、磔にされていたリードが獣のように叫んだ。

 血泡がゴボゴボと溢れ出す。

 手足を動かすたびに肉が抉れ、血が飛び散った。


「なんと下品な。所詮は家督を継げなかった男ということですか」

「どうして、叔父様を」


 セバスはゆっくりと息を吐いた。


「この男はお嬢様を守っているつもりだったようです。何から守ろうとしていたのかは分かりませんが」

「ああ、叔父様」


 ティナはその場に跪いた。

 叔父はセバスから守ってくれていたのだ。

 メイドを追い出していたのもセバスの味方を増やさないためだったに違いない。


「セバス、どうして? 何が貴方にあったというのですか?」

「……そうですな」


 セバスは考え込むように手で口元を押さえ、自分の半生を語り始めた。



 セバスは先々代当主の弟として生を受けた。

 もっとも、血が繋がっているのは半分だけだ。

 セバスは先々代当主の異母兄弟……ティナの曾祖父と使用人の間に生まれた子だったのだ。

 領主が使用人に手を出すことはある。

 使用人が領主の子を孕んでしまうことも。

 堕胎させるか、生ませるかは領主の胸三寸で決まる。

 生ませた場合、その子どもは領主の優秀な補佐役となるべく高度な教育を施されることが少なくないが、セバスは違った。

 曾祖父はセバスを息子として認めず、シェラタン子爵家の血を引いていると口にすることさえ許さなかった。

 あくまで使用人として扱った。

 それでも、セバスは父親が自分を愛していると信じていた。

 この地下室で折檻を受けるまでは。

 曾祖父はことあるごとにセバスを折檻した。

 そうして十歳になる頃、セバスは真理に辿り着いた。

 自分が愛されないのは卑しい平民の血が混じっているからだ、と。

 それ以来、セバスは忠実な使用人として振る舞うようになったが、理不尽がなくなることはなかった。

 祖父の従騎士として戦争に参加した時は武勲を奪われ、初恋の相手は祖父の妻となった。

 セバスは自分に降りかかる理不尽を卑しい平民の血のせいだと考えた。

 そう考えなければ耐えられなかったのだろう。

 セバスはそんな理不尽を数え切れないほど経験し、独自の思想を醸成していく。

 人間は尊い血統と卑しい血統に分類され、卑しい血統に生まれた者は尊い血統に生まれた者に傅かなければならない。

 それは血統に対する信仰と言うべきものだった。

 セバスはティナの父が領主となってからも忠実な従者として振る舞った。

 ある事件が起きるまでは。

 ティナの父は領民のために領地運営をしようとしたのだ。

 それはセバスにとって受け入れがたいことだった。

 平民は施しを受ければそれを当然の権利と考え、時が経てば施しを受けた事実を忘れると知っていたからだ。

 そして、事件が起きる。

 ティナの父がクロノと領地運営について語り合いたいと言い始めたのだ。

 シェラタン子爵家の当主が成り上がり者の息子と話し合う。

 到底、受け入れられるものではなかった。

 セバスは入念に準備を行い、ティナの父親を殺した。

 安心したのも束の間、今度はティナが前ハマル子爵を後ろ盾にしようと考えたのだ。

 前ハマル子爵も始末しなければならなくなった。

 セバスにとって、成り上がり者の息子に屈したハマル子爵家は尊い血統ではなくなっていたのだ。



「狂ってる、貴方は狂ってます!」


 ティナは叫んだが、セバスは何も感じていないようだった。

 セバスは壊れている。

 シェラタン子爵家がセバスを壊してしまった。


「まず、右腕の腱を切りましょう」


 セバスが足を踏み出したその時、地下室の扉が吹っ飛んだ。

 扉はティナを取り囲むメイドの半数を撥ね飛ばし、壁に激突した。


「誰も迎えに来ないと思ったら、修羅場でありますね!」


 地下室の扉を吹き飛ばした張本人……フェイはゆっくりとティナに歩み寄った。


「むむ、セバス殿。何故、このようなことを」

「尊い血統を守るためです。私は……」


 セバスは先程と同じ話を口にした。


「……という訳です」

「正直、どうでも良い話でありますね」


 セバスの顔が引き攣った。


「き、きさ、こ、この……っ!」


 セバスはフェイを指差し、口をパクパクと動かした。

 こうも真っ向から自分の人生を全否定されるとは思っていなかったのだろう。


「こ、この女を殺せ!」


 セバスがヒステリックに叫ぶと、無事だったメイド達は一斉に短剣を抜いた。


「ここにいるメイドは『死の腕』の元暗殺者だ!」


 メイド達が何事かを呟く。

 すると、メイド達の姿が空気に溶けるように消えた。


「……むむむ、『開陽回廊』でありますね」


 フェイは剣の柄に触れ、視線を巡らせる。

 何かが動いている。

 姿を消したメイドがフェイに刃を突き立てようとしているのだろう。

 フェイは鞘に収めたままの剣を何もない空間に振り下ろした。

 鈍い音が響き、剣が空中で止まっていた。

 空間が揺らぎ、メイドが姿を現す。


「姿を消す所を見せたら、『開陽回廊』の効果は半減であります。気配が読める相手にも効果は薄いでありますね」


 フェイが無造作に剣を振るたびに鈍い音が響き、メイドが姿を現す。

 メイド達は一分も経たない内に全滅した。


「こ、こ、こんな、馬鹿な! 立て、立つんだ! 立って、戦え!」


 セバスは床に倒れるメイド達を叱咤したが、立ち上がれる者はいなかった。


「さあ、観念するであります」

「観念? ふ、ふはははははっ!」


 セバスは狂ったように笑っていた。

 笑いながら、泣いていた。

 そして、血が噴き出した。

 セバスが手にした刃物で自分の喉を掻き切ったのだ。



 数日後、ティナは屋敷の庭で帰り支度をするフェイとコールを見つめていた。

 叔父も一緒だ。

 叔父は酷い拷問を受けたものの、フェイの神威術のお陰で歩けるまでに回復していた。

 医者の見立てによればしばらく杖を手放せないらしいが。

 セバスは死んだ。

 地下室にいたメイド達も毒を飲んで自害した。

 屋敷に残っているのは古くから仕えている者達だけだ。

 フェイは黒王に荷を積み終えると、ティナの方を向いた。


「クロノ様からの伝言であります。通行税の撤廃と露店制度導入の件をよろしくとのことであります」

「はい、分かりました。ところで、フェイさん。クロノ様は何処まで見通していたのでしょうか?」


 領地に戻ってきた直後の遣り取りはクロノの指示によるものだった。

 クロノはセバスが犯人であることに気付いていたのだろうか。


「クロノ様は考えられる全てのケースに対応できるように私を派遣したのであります。つまり、何も見通してなかったということであります」

「そ、そうですか」

 敵わないです、でも、いつか、とティナは胸を張った。

「……俺に言うことはないのかよ?」


 コールは拗ねているかのような口調で言った。


「コールさん、ありがとうございます。露店制度を導入した時はお店を出して下さい」

「ん、まあ、こんなもんだよな」


 コールは頭を掻きながら、馬車に乗った。


「じゃ、またな」


 そう言って、コールは馬車を進ませた。

 ティナはフェイとコールの姿が見えなくなるまでその場に留まり続けた。

 ふと横を見ると、叔父は気まずそうに顔を背けた。

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