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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第6部

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第5話『シェラタン子爵領』前編


 ティナ・シェラタン子爵はゆっくりとカップを持ち上げた。

 そのまま口元に運び、しばし香りを愉しむ。

 香茶を飲み、ホッと息を吐いた。

 仕事の疲れが吐息と共に出ていくようだった。

 午後の茶会はティナにとって安らぎの一時だった。

 それは家督を継いだ今も変わらない。

 いや、重要度は領主として重圧を担う今の方が高いかも知れない。

 領主の責務は十五歳の小娘に重すぎる。

 ましてや、覚悟をする間もなく領主になったのだ。

 せめて、覚悟をする時間があったらと思うが、時間があっても同じだったかも知れない。

 領主になって半年が過ぎた今も覚悟ができているとは言い難いのだから。

 あの日、父が鹿狩りに出かけなければ、落馬しなければ……、とそんな風に思わない日はない。

 父の死は想定外の出来事だった。

 軍隊経験のある貴族の三男坊か、四男坊を婿として迎える。

 夫が軍の指揮官を務め、ティナは父の下で領地運営を学び、頃合いを見計らって家督を継ぐ。

 そんなティナの人生設計は父の死によって失われた。

 ともあれ、重圧から解放される時間は重要だ。

それを理解してくれているのか、いつも口うるさい執事のセバスも茶会の時は静かだ。

 あまりに静かすぎて傍らに控えているのを忘れてしまうほどに。

 もっとも、午後の茶会が安らぎの一時だったのは過去の話である。

 今は祈りの時間になりつつある。

 どうか、今日は何もありませんように、と祈るための時間だ。

 ティナの耳が荒々しい足音を捉える。

 『純白にして秩序を司る神』よ、とティナは祈りを捧げたが、足音が遠ざかる様子はない。

 どうやら、神は祈りを聞き届けてくれなかったようだ。

 きっと、昼寝でもしているのだろう。

 荒々しい足音は間近まで迫っていた。

 ティナは抗う術を持たない。

 嵐が通り過ぎるのを待つのみである。

 野ネズミでも危険から身を遠ざける知恵と術を持っているのに貴族は義務から逃れられない。

 ティナがカップをテーブルに置くと同時に扉が荒々しく開いた。

 扉を開けたのはメイドである。

 本来ならばこのような不作法は許されない。

 つまり、メイドはそれだけ怒っているのだろう。

 きっと、この後の展開は、とティナは身を縮めた。


「今すぐ辞めさせて頂きます!」

「は、はひぃ」


 メイドは鬼のような形相でティナに歩み寄ると、容赦なく怒声を浴びせかけ、自分が何をされたのか捲し立てた。

 ティナは防戦一方だ。

 はい、はい、すみません、と謝罪するだけで精一杯だ。

 はぁ、と小さな溜息が背後から聞こえた。

 セバスの溜息だった。

 またか、という溜息である。

 ティナが家督を継いで以来、メイドを雇っては辞められというサイクルを繰り返している。

 原因は分かっている。

 どう対応すれば良いのかも分かっているが、ティナには対応する能力がない。

 セバスはそれを嘆いているのだ。

 メイドはひとしきり文句を言うと部屋から出ていった。

 ティナは深々と溜息を吐き、テーブルに突っ伏した。


「また、メイドが辞めたのか?」


 突然、声を掛けられた。

 低く、かすれた声だ。


「……そ、それは叔父様が」


 ティナは体を起こし、扉の方を睨んだ。

 そこには髭面の男が立っていた。

 人相は良くない。

 髭の手入れはされておらず、髪も似たようなものだ。

 目は落ち窪み、眼球の形がよく分かる。

 背はそれほど高くないが、全体的に太い。

 髭面と相俟って熊のようだ。

 男の名はリード……ティナの叔父だった。

 最近、軍を辞めて戻って来たのだ。


「あ? 文句でもあるのか?」

「……な、ないです」


 言いたいことはあった。

 何故、雇ったばかりのメイドに不埒なマネをするのか。

 そのせいでメイドは辞めてしまったではないか。

 だが、辛うじて絞り出せたのはリードの行為を認める言葉だ。

 異を唱えるどころか、目を合わせることさえできない。


「だったら、良いんだよ。俺に出て行かれたら困るだろ?」

「……」


 ティナは答えなかった。

 やがて、扉が閉まる。

 顔を上げると、そこにリードの姿はなかった。


「ティナ様が毅然と対応されないから調子に乗るのです」

「分かってます」


 そこまで言うなら助け船を出してくれても、とそんな弱音を呑み込む。

 セバスの意見は正しい。

 領主であるティナが意思を示さなければ部下は動きたくても動けない。

 けれど、ティナはリードが怖かった。

 リードに睨まれただけで汗が吹き出し、名前を呼ばれてだけで体が強張る。

 もし、リードに出て行かれたらという思いもあった。

 ティナは二つの問題を抱えている。

 一つがリードの件、もう一つがシェラタン子爵領に駐在する常備軍の存在だった。

 問題となっているのは常備軍の素行の悪さだ。

 問題を起こしているのは新しい大隊長とその取り巻きだが、どんな組織も下は上に倣うものだ。

 その影響は風紀の乱れとして表れ始めていた。

 この流れに歯止めをかけたのがリードだった。

 リードは新しい大隊長を一喝し、風紀の乱れを正したのだ。

 リードを何とかしたい。

 けれど、リードがいなくなったら新しい大隊長が再び問題を起こすかも知れない。

 そんなジレンマと自分がしっかりしていればという自責の念がティナを苛む。


「何とかしなきゃ、私は領主なんだから」


 う~、とティナは背を丸めて唸った。

 その時、ある人物の姿が脳裏を過ぎった。

 前ハマル子爵の優しげな笑みだ。

 前ハマル子爵とは何度も顔を合わせたことがある。

 困ったことがあれば力になると約束もしてくれた。


「決めました! 前ハマル子爵、いえ、ハマル子爵に後ろ盾になって頂きます!」

「ティナ様?」


 セバスの顔が曇る。


「他力本願は分かってます。ですが、問題を解決する方法は他にありません」

「……今、ティナ様が屋敷を出るのは危険です」

「どういうことですか?」

「はい、リード様には家督を奪う意図があるのではないかと」


 まさか、とティナは呟いた。

 信じたくない。

 だが、セバスの言葉が事実だとすればつじつまが合う。

 リードは家督を奪うために戻って来た。

 だが、ただ戻って来ただけでは家督を奪うどころか、屋敷に滞在することさえ難しい。

 だから、軍隊時代のコネを使った。

 大隊長に騒ぎを起こさせ、それを収拾することで自分が必要な人間だと思い込ませた。

 あとは簡単だ。

 自分の味方を増やしながら、ティナを殺す機会を待てば良いのだ。

 殺害方法は毒を飲ませても、事故を装っても構わない。

 ティナはぶるりと身を震わせた。

 リードが単なる乱暴者ではなく、狡猾な策士の面を併せ持つと気付いたからだ。


「セバス、貴方は叔父様が何らかの手を打ってくると考えているのですね?」

「その可能性が高いと考えております。そう、たとえば……」


 セバスは頷き、思案するように手で口元を覆った。


「……ティナ様の乗る馬車を襲撃させる」

「では、叔父様の裏をかきましょう」


 ティナは笑みを浮かべた。



 ティナの考えた作戦は背格好の似たメイドを乗せた箱馬車を先導させ、自分は男装……単に髪を切って、みすぼらしい格好をしただけである。

 ちなみに胸は布を巻く必要さえなかった……して後から出発するという単純なものだ。

 ティナは老いたロバに乗り、こっそりと裏口から外に出た。

 狭い路地を抜け、目抜き通りに出る。

 ティナは胸を撫で下ろした。

 街はそれなりに賑わっていた。

 シェラタン子爵領は広くないし、特産品もない。

 商人達はシェラタン子爵領をハマル子爵領への中継地点と認識しているから、目抜き通りが人々でごった返すことは滅多にない。

 ただ、露店の数が減ったように思う。

 露店の品揃えから察するに行商人の数が減ったようだ。

 行商人のことは後で考えましょう、とティナは街を出た。

 自分の作戦がリードに通じるか不安だったが、大冒険をしているような高揚感もあった。

 ティナは街道を西に進む。

 街道の脇は枯れ草に覆われている。

 枯れ草の丈はティナの腰まであり、風が吹くたびに波打つように揺れた。

 緊張感は街道を進んでいる内に失われていく。

 だから、馬に乗った二人の男を見つけた時、反応が遅れた。

 二人の男は腰から剣を提げていた。

 子どもが剣の絵を描いたら、二人が腰から提げているような剣を描くだろう。

 そういう無骨な剣だ。

 二人の男はゆっくりと近づいてきた。

 何もない街道に突っ立っていた二人がティナを見るなり近づいてきた。

 つまり、二人はリードの手下だ。

 ティナはロバから飛び降りた。

 そのまま街道脇の藪に飛び込んだ。


「おい、待て!」


 ティナは呼び止める声を無視して走り続ける。

 振り向きもしない。

 二人の男が間近に迫っているのではないか。

 追いつかれたら殺される。

 そんな恐怖から振り向くことができなかった。

 何度も転び、地面を這うようにして倒木の陰に身を潜める。

 倒木周辺は地面は泥濘んでいた。今が冬でなければ蚊の大群に襲われていただろう。

 ティナは両手で口を押さえる。

 二人の男は藪を掻き分けて進み、ティナからそれほど離れていない場所で立ち止まった。


「おい、いたか?」

「……いや」


 問い掛けられた男は頭を振った。

 どうやら、二人の追跡能力は高くないようだ。

 とは言え、安心はできない。

 追跡能力が低くてもティナくらい簡単に殺せるだろう。

 だが、脅威は二人の男だけではない。

 寒い、とティナは体を震わせた。

 凍てついた泥濘が容赦なくティナの体温を奪う。

 体温の低下は体力の消耗と同義だ。

 もし、体力が消耗しきった所を見つかったら?

 見つからなくても何時間もこの場に潜むことになったら?

 ティナは護身用の短剣を握り締めた。

 どちらにしても死ぬのならば生き残る可能性に賭けるべきではないか。


「チッ、帰ろうぜ」

「帰ってどうするんだよ? ヤバい仕事なんだろ?」

「まあ、な。勢いで受けちまったけど、口封じされるかもだろ? だったら、前金を受け取ったまま、逃げた方が利口なんじゃねーの?」

「それもそうだな」


 二人の男は思慮が浅く、職業倫理も欠いているようだ。

 だが、今は二人のいい加減さがありがたい。


「ついでにロバの荷物を貰ってくか」

「そうだな」


 泥棒! とティナは自分の立場を忘れて叫びそうになった。

 ロバには旅に必要な荷物が積んである。

 草を掻き分ける音が遠ざかるが、しばらくは隠れている方が賢明だろう。

 二人の会話がティナをおびき出す演技という可能性もあるのだから。

 ティナは寒さに震えながら、倒木の陰に潜み続けた。



 結局、荷物は二人の男に盗まれてしまったが、連れて行くのが面倒臭かったのか、ロバは無事だった。

 ティナは今度こそ慎重に進んだ。

 追っ手と待ち伏せを避けるために支道を使い、水と食べ物を購入する時だけ村に寄った。

 支道は途切れているものも多く、見当違いの方向に伸びているものも多かった。

 そのたびに引き返し、何倍もの時間を掛けて西に進んだ。

 路銀は途中で尽きた。

 村人の言い値で水と食べ物を買ったからだ。

 足下を見られていることは分かっていたが、揉め事を起こして追っ手に見つかりたくなかった。

 路銀が尽き、旅の仲間が増えた。

 そいつの名前は空腹と言う。

 これほどの空腹は生まれて初めての経験だった。

 道ばたの草を食べるロバを羨ましいと感じたほどだ。

 領地の間にある関所は夜を待ち、夜陰に紛れて突破した。

 ティナは犯罪を犯した罪悪感と刑罰に対する恐怖から走った。

 なけなしの体力を総動員した全速力だ。

 そして、ティナは倒れた。



 ゴン、ゴンと衝撃と痛みが断続的に生じた。

 正直、目を開けるのも億劫だったが、ティナは薄く目を開けた。

 すると、少年がティナを見下ろしていた。

 歳はティナと同じくらいだろうか。

 ブラウンの髪は短く、敵を威嚇する猫か、ハリネズミのように逆立っている。

 愛嬌のある顔立ちなのだが、口角を吊り上げている。

 多分、本人は悪ぶった表情を浮かべているつもりなのだろうが、子どもが大人ぶっているようで微笑ましい。


「大丈夫か?」

「……」


 ティナは答えなかった。

 衝撃と痛みを感じて目を開けた時、少年はティナを見下ろしていた。

 心配そうに覗き込んでも、その場に跪いてもいなかった。

 つまり、少年はティナの頭を蹴ったのだ。


「み、水と、食べ物をください」

「そうくると思ったぜ」


 少年は革製の水筒と袋を突き出した。

 ティナは勢いよく体を起こし、少年の手から水筒を奪い取った。

 ティナは一滴たりともこぼすまいと水筒の水を飲んだ。

 温い。

 温いが、美味い。

 今まで飲んだ飲み物の中で一番美味しく感じられた。

 震える手で袋を開けると、そこにはパンがあった。

 ボソボソとした食感だが、これも美味い。

 ティナは久しぶりの食事を終え、ハッと少年を見つめた。


「あ、ありがとうございます」

「気紛れで助けただけだから、気にすんな」


 少年は踵を返した。

 荷馬車が少し離れた場所に止まっていた。

 かなり年期の入った荷馬車だ。

 少年は足を止め、振り返った。


「なあ、行き先は?」

「えっと、前ハマル子爵の所に」


 あ~、と少年は天を仰いだ。


「前ハマル子爵の所ってことはリノルの街だろ?」


 リノルは前ハマル子爵の屋敷がある街だ。


「俺もそこで仕事をする予定だから、一緒に行かねーか?」

「え? えっと」


 ティナは即答できなかった。

 少年が厚意で言っているのは分かった。

 そんな彼を巻き込んで良いものか迷ったのだ。


「無理にとは言わねーけど」

「分かりました。お願いします」


 ティナは悩んだ末に少年の申し出を受けることにした。

 理由は三つあった。

 まずは体力を消耗しきっていること。

 次に路銀がないこと。

 最後に少年と一緒にいれば追っ手の目を欺けるのではないかと考えたからだ。


「短い付き合いになるだろうけど、名乗っておくぜ。俺はコール、行商人だ」

「私はティ……ボクはティム、旅人です」


 ティナはわずかな罪悪感を覚えながら、偽名を名乗った。


「旅人、な」


 コールは胡散臭そうにティナを見た。

 説得力のある経歴を考えておけば良かったと後悔したが、後の祭りだ。

 コールはしばらく黙っていたが、小さく息を吐いた。

 突っ込まない方が無難だと判断したのかも知れない。


「で、そっちのロバはどうするんだ? 言っておくけど、ロバを積む余裕なんてないぜ」

「勝手に付いてくると思います、多分」

「まあ、倒れてるアンタから離れようとしなかったからな」


 そう言いながら、コールは納得し切れていないようだった。


「じゃあ、後ろに乗ってくれ」

「はい」


 ティナは荷台に乗り、荷の隙間に体を滑り込ませた。

 それだけ沢山の荷が荷台に積まれていたのだ。

 乗り心地は良くなかったが、ティナはいつの間にか深い眠りに落ちていた。

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