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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第6部

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第3話『運命』修正版



 帝国暦四百三十二年十一月……シオンはカップを手で包むように持ち、口に運んだ。

 すぐに口を付けず、香りを愉しむ。

 この香茶はシオンが自分でリラックス効果のあるハーブをブレンドした物だ。

 シオンは香茶を飲み、ホッと息を吐いた。

 正に至福の一時……この一杯のために仕事をしているような気さえする。


「神官長、婆臭い」

「ば、婆っ?」


 シオンは驚きに目を剥き、声のした方を見つめた。

 すると、二人の女性神官……グラネットとプラムがソファーに座っていた。

 二人の座り方は対照的だ。

 グラネットはだらしなく体を傾げて、プラムはお行儀良くちょこんと座っている。


「グラネットさん、口が過ぎるです」

「ん~、悪かったわよ」


 プラムが舌っ足らずな口調で窘めると、グラネットは悪びれた様子もなく言った。


「まあ、張り詰めた顔されるよりマシよね」

「グラネットさん!」

「あ~、はいはい、私が悪い、私が悪い。空が青いのも、太陽が西に沈むのも、私のせいよ、私のせい」


 グラネットは投げやり気味に言った。


「……そんなに張り詰めた顔でしたか?」

「プラム、あんたが答えなさいよ」

「ふぇ?」


 プラムは間の抜けた声を漏らした。


「えっと、神聖アルゴ王国に行く前は……もっと、余裕のない感じでした!」

「そうかも知れません」


 シオンは小さく頷き、カップを置いた。曖昧な返事をしてしまったが、余裕は確かになかった。

 そのことはシオンが誰よりも分かっている。

 農業改革が成功するか分からず、神威術も使えない状況だった。

 正直、不安だった。

 今にして思えば、あの頃のシオンは自分を肯定的に受け止めてくれる誰かを求めていたように思う。

 今は違う。

 農業改革に成功した。

 神威術も取り戻した。

 物事を肯定的に受け止められるようになったことが大きいかも知れない。


「そう言えば、神官長って……あっ!」

「グラネットさん、何を言おうとしたですか?」

「神官長は何歳なのかなって」

「……グラネットさん」

「はいはい、私が悪かったわよ」


 プラムが非難がましく言うと、グラネットはバツが悪そうに頭を掻いた。


「先日、二十八になりましたけど?」


 あ~、とグラネットとプラムは低い声で呻いた。

 まるで聞いてはいけないことを聞いてしまったと言わんばかりの態度だ。


「私の年齢がどうかしたんですか?」

「プラム、任せたわ」

「ふぇぇぇぇ、私が言うんですか?」


 プラムは情けない声を上げた。

 プラムはシオンを見つめ、居住まいを正した。


「……神官長様、世の中には結婚に適した年齢というものがあるです。神官長様は結婚適齢期から外れてるです」


 シオンはしばらく考え込み、ハッと顔を上げた。

 今まで精神的に余裕のない生活を送っていたせいか、すっかり忘れていた。

 でも、神官として働いていたら、出会いがないんじゃ? とシオンは疑問を抱いた。


「どうやって、結婚するんですか?」

「えっと、グラネットさん」

「仕方がないわね」


 グラネットは髪を掻き上げた。


「普通は帝都の神殿で」

「帝都の神殿は神官になるために勉強する所ですよ?」


 ぐ、とグラネットは呻いた。


「それはそうだけど、気になる男は?」

「勉強が忙しかったので」


 ぐぐっ! とグラネットは呻いた。


「せ、世話好きの上役が出会いの場を用意してくれたりするでしょ?」

「父が亡くなった時に連絡があったくらいでしたけど?」


 うぐぐっ! とグラネットは呻いた。


「富農の息子とか、金持ちのボンボンとか、知り合う機会はあったはず」

「う~ん、どうだったでしょう?」


 シオンは記憶を漁ったが、それらしい記憶はない。

 納得できなかったのか、グラネットは訝しげに眉根を寄せた。


「神官長、今までどうやって寄付金を集めてたのよ?」

「活動資金はビートを売って稼いでました」


 グラネットは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。


「謎は全て解けたわ」


 そう言って、グラネットは長い溜息を吐いた。


「神官長、普通は寄付金を集めるために努力をするのよ」

「……寄付金は無理に集めるものでは」

「寄付金は無理にでも集める物なのよ! 下っ端は寄付金を集めて、上納金を納めて、そこで初めて金額に応じた待遇を求められるんだから!」

「あ~、神官長様は上納金を納めてなかったせいで村八分に遭ってたですね」


 グラネットはもの凄い剣幕で吠え、プラムは溜息交じりに補足した。


「え、あの、すみません」


 シオンは恐縮するしかなかった。


「まあ、今は上納金を納めてる訳だし……あ、けど、出会いの場は無理ね」

「どうしてですか、グラネットさん?」


 グラネットは気まずそうに頭を掻いた。


「多分だけど、上の連中は神官長がクロノ様と良い仲だと思ってるんじゃないかしら?」

「私とクロノ様はそんな関係じゃありません」


 クロノは救貧院の運営や開拓のために寄付している。

 それ以上でも、それ以下でもないはずだ。


「分かってるわよ。けど、クロノ様って女癖が悪いでしょ?」


 うぐっ! と今度はシオンが呻く番だった。


「だから、上の連中は神官長のために出会いの場を作らないと思うのよ」

「く、クロノ様は……く、クロノ様は」


 シオンはグラネットに言い返そうとしたが、弁護の言葉が出なかった。


「グラネットさん、クロノ様は女癖が悪いのではありません」


 クロノを弁護したのはプラムだった。


「で、その心は?」

「クロノ様は『黄土にして豊穣を司る母神』に忠実なのです。『生めよ、殖えよ、地に満ちよ』なのです」

「それよ!」


 グラネットは左右の人差し指をプラムに向けた。


「……グラネットさんとプラムさんは?」

「私は無理!」

「私もです!」


 グラネットとプラムは両腕を交差して拒絶の意思を示した。


「何故?」

「やっぱり、私のことを一番に考えてくれる人じゃないと、ね」

「私は将来を約束した人がいるです」


 グラネットは言いにくそうに、プラムは恥ずかしそうに手で頬を押さえて言った。

 そうですか、とシオンはカップを見つめ、深々と溜息を吐いた。

 どうやら、シオンの悩みは尽きないらしい。



 シオンは燭台を片手に救貧院の一階を見回る。

 救貧院の一階は静寂に包まれていた。

 就寝時間が定められていることもあるが、入院者の数が少ないのだ。

 救貧院が再開した頃はブース……元はクロノが使い始めた言葉だ……が全て埋まっていたが、今は空きブースの方が多い。

 空きブースが目立つようになったのは紙工房が設立されてしばらく経ってからだ。

 全員が紙工房に雇用されたのではなく、ビートの栽培に従事している者もいる。

 小作人のような立場だ。

 だが、彼らは不満を抱いていないそうだ。

 ビートの出来に関わらず、一定の収入を得られる所が良いらしい。

 『黄土にして豊穣を司る母神』に仕える身としては釈然としない部分もあるが、彼らがいないとビートの栽培が覚束ないのも事実だ。

 どちらの仕事に携わる者も救貧院を出て行った。

 エラキス侯爵領の救貧院は余所に比べると規律が緩いが、守るべき規律は存在する。

 以前のような生活をするために救貧院を出て行くのは当然の帰結だ。

 現在、救貧院にいるのは様々な事情から自活できない者達……怪我人や病人、三人の孤児だ。

 シオンは階段を登り、トニーとマシューの部屋の前で立ち止まる。

 三人の孤児は部屋を与えられている。

 三人が特別扱いされているのはこれから何年も救貧院で暮らさなければならないからだ。

 シオンは目を閉じ、神威術『活性』を行使……聴覚を引き上げる。

 神威術で底上げされた聴覚がトニーとマシューの寝息を捉える。

 シオンはソフィの部屋に意識を向け、ソフィの寝息を確認する。

 シオンは神威術を解除し、不意に違和感を覚えた。

 こんなに上手く神威術を行使できるはずがないと考える一方で、これくらい当然と感じている自分もいる。

 シオンは疑問を棚上げし、自分の部屋に向かった。

 シオンは廊下の端にある自分の部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。


「……明かりを」


 天井にある照明用マジック・アイテムがシオンの声に反応して白い光を放つ。

 照明用マジック・アイテムが設置されている部屋は三部屋……院長室、シオン、グラネットとプラムの部屋だけだ。

 もったいないです、とシオンは蝋燭の火を吹き消し、苦笑した。

 高価な照明用マジック・アイテムを使っているくせに蝋燭の長さを気にしている。

 それがおかしく感じられたのだ。

 シオンは神官服を脱ぎ、鏡に映る自分の姿を凝視する。

 神官長様は結婚適齢期から外れてるです、というプラムの言葉が脳裏を過ぎった。

 うぐっ、とシオンは呻いた。

 シオンの肌は驚くほど白い。

 ただし、それは神官服に隠れている部分だけである。

 普段、露出している顔と腕は日に焼けている。

 グラネットさんとプラムさんはあまり日に焼けていなかったような気が、とシオンは二人のことを思い出して首を傾げた。

 もしかしたら、日焼けをしない技術があるのかも知れない。

 それにしても、私がクロノ様と? あり得ません、とシオンは頬が熱くなるのを感じながら、頭を振った。


「確かに……クロノ様は優しい方ですし、とても勇敢な方です」


 シオンは胸の前で手を組み、小さく呟く。

 危険を省みず助けに来てくれたクロノの姿がシオンの脳裏を過ぎる。


「……怖い所もあって、女性関係にだらしないです」


 シオンは鏡に映る自分の姿を凝視する。

 ティリア皇女と女将の姿が脳裏を過ぎる。

 負けてません、とシオンは小鼻を膨らませた。

 でも、少し垂れ……いえいえ、少しだけです。

 ほんの少しだけ、これだけ大きければ少しくらい、とシオンはハッと顔を上げ、プルプルと頭を振った。


「きっと、疲れているんです」


 シオンは自分に言い聞かせ、ベッドに潜り込んだ。



 翌朝、シオンは幾つかの仕事を済ませてから救貧院を出た。

 これからクロノと打ち合わせを行う予定なのだ。

 クロノと打ち合わせを行う時、シオンはいつも気が重かった。

 足取りも自然と重いものになっていたが、今は足取りが軽い。

 負担が減ったからでしょうか? とシオンはそんな風に考える。

 実際、シオンの仕事量は一時期に比べると格段に減った。

 クロノの部下に対する教育はアーサー・ワイズマン教師と彼の部下が担当することになったし、農業技術の指導は部下と手分けして行っている。


「……そこの娘」

「はい?」


 シオンが声のした方を見ると、神官さん……神聖アルゴ王国にある『漆黒神殿』の大神官が木箱に座っていた。

 『漆黒神殿・エラキス侯爵領出張所』と書かれた粗末な看板が憐れみを誘う。


「お主、悩んでおるな?」

「いえ、別に」


 シオンは即答した。


「む、何かあるじゃろ、何か」

「いえ、特には」


 シオンは再び即答し、視線を巡らせた。

 神官さんがいるのは露店が立ち並ぶエリアの隅の方である。

 エリアそのものは賑わっているのだが、神官さんの店の周辺だけ閑散としている。


「悩んでいるのは神官さんでは?」

「そうなんじゃよ!」


 神官さんは立ち上がって言った。


「ワシの悩みを聞いてくれんかの! ほれ、ここに座るんじゃ!」

「……は、はあ」


 シオンは神官さんに促されるまま、空いている木箱に座った。


「神官さんは何を悩んでいるんですか?」

「金」

「力になれません」

「待たんか!」


 シオンが立ち上がると、神官さんはシオンの手首を掴んだ。


「いきなり立ち去ろうとするとか神官として如何なものかのう!」

「いきなりお金の話をするのも神官としてどうかと思います」


 シオンは仕方なく木箱に腰を下ろした。


「借金の相談には乗れませんよ」


 シオンは先に宣言した。

 救貧院の予算はクロノから、活動資金は『黄土神殿』から出ている。

 シオンが自由に使える金はそう多くないのだ。


「分かっとる。相談に乗ってくれれば良いんじゃよ。実は……露店を出したものの、思うように金を稼げなくての」

「真面目に働けば良いと思います」

「働いたら負けかな、とワシは思っとる」


 神官さんは目を開けたまま、寝言を言った。


「冗談じゃよ。どうすれば金を稼げるかの?」

「真面目に働くしかないと思います」

「ワシはこの仕事で金を稼ぎたいんじゃ。なのに稼げん。ぶっちゃけ、怪しげな占い師の方がよほど稼いどる! やってることは大差ないのに理不尽じゃ!」


 神官さんはドンッと机代わりの木箱を叩いた。

 シオンが視線を感じて横を見ると、ローブに身を包んだ占い師がムッとした顔でこちらを睨んでいた。

 すみません、とシオンは肩を窄めた。


「人生相談だけでお金を稼ぐのは難しいのではないでしょうか?」

「需要はあると思ったんじゃがな~」


 需要はあっても、初対面の相手に相談を持ちかけるのは難しい。

 きっと、占い師は初対面の相手に相談を持ちかける抵抗感を和らげる方法を実行しているのだろう。

 シオンが隣を盗み見ると、客が占い師の所にいた。

 占い師は神官さんを一瞥し、勝ち誇った笑みを浮かべた。


「……亜人を神聖アルゴ王国から移住させる件はどうなったのでしょうか?」

「一旦、保留になった」


 そうですか、とシオンは短く返した。

 イグニス将軍とアクア将軍が新『神殿』を立ち上げたことも影響しているのだろう。


「何とかして金を稼がなければ」

「どうして、お金が必要なんですか?」


 うっ、と神官さんは呻いた。


「エラキス侯爵に飯代と酒代を請求されとるんじゃ。この間、返済期限を引き延ばして貰う代わりに……辱めを受けた」

「……辱めを」


 うむ、と神官さんは神妙な面持ちで頷いた。


「そ、それは、どのような?」

「……部屋に呼び出され」


 シオンは身を乗り出した。


「……み、水着なる卑猥な装束を着せられ」


 シオンはゴクリと生唾を呑み込んだ。


「い、言われるがままにポーズを取らされた」

「あ、それだけですか?」

「それだけとは何じゃ! ワシはあんな辱めを受けたのは初めてじゃ!」


 神官さんはバンバンッと木箱を叩いた。

 まあ、シオンも自分が神官さんの立場になれば辱めを受けたと思うだろう。


「神官さんは長生きをされているので、そういう経験も豊富だと思っていたのですが?」

「豊富じゃぞ! 若い頃は、若い頃は……はて、若い頃はどうじゃったかの?」


 神官さんは首を傾げた。

 どうやら、神官さんの経験は忘れてしまうほど大昔のことらしい。

 忘れているくらいだから、『あんな辱めを受けたのは初めて』なのか疑わしい。

 それ以前に口で言うほど経験豊富ではないという可能性も否定できない。


「ふぅ、人生相談は終了じゃな。身の振り方はこれから考えるとして……お主、本当に悩みはないんじゃな?」

「ありません」


 ほぅ、と神官さんは意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「お主、違和感を覚えておらんのか?」

「違和感、ですか?」


 シオンは神官さんの意図を理解できず、首を傾げた。

 ふと神威術が上手く使えるようになったことを思い出したが、あれくらいできて当然と思う。


「自分が喰われたことに気付いておらんのか?」

「喰われ?」


 シオンは自分の手を見下ろした。

 何かを忘れているような気がした。

 一体、何を忘れているのだろう。


「アレを見たんじゃろ?」


 あ、とシオンは小さく呟いた。

 シオンは神聖アルゴ王国で『黄土にして豊穣を司る母神』と深く交感した。

 神の正体……神の名を知った。

 あの時、『……』はシオンの何を食べたと言うのだろう。

 食べられたと言うのなら、食べられた部分は何で補填されているのか。

 シオンは自分の想像に総毛立った。


「心配せずとも良いぞ。ワシの見立てではお主は人間の範疇じゃ。まあ、なんじゃ。お主が物怖じしなくなったのは上手く神威術を使えるようになったからじゃ……多分」

「多分っ?」


 シオンは上擦った声で問い返した。


「上手く神威術を使えるようになったからじゃ」

「……」

「本当じゃぞ! できることの幅が広がって、余裕ができたんじゃ!」


 シオンが黙っていると、何故か、神官さんはムキになって言った。


「神威術を上手く使えるようになっただけではなく、未来視ヴィジョンくらい身に付いとるかも知れんぞ」


 未来視ヴィジョンは未来を見る能力と言われている。

 聖人の中には未来視の能力を持つ者が少なくない。

 ただ、能力の発現頻度は人によって大きく異なり、頻繁に未来を見た者もいれば、生涯で一度きりしか未来を見たことがない者もいる。


「……思い当たる節は」


 シオンはハッと息を呑んだ。


「どうやら、思い当たる節があるようじゃな?」


 シオンは言葉に詰まった。

 思い当たる節は確かにあった。

 夢を見たのだ。

 それは淫夢としか言いようのない夢だったが、シオンは少し安心した。

 少なくとも生涯独身という未来は避けられそうだからだ。


「……そう言えば、神官さんは未来視を身に付けているのですか?」

「身に付けとるぞ」


 神官さんは傲然と胸を張った。


「未来視を使えばお金を稼ぎやすいのでは?」

「まあ、思い通りの未来が見える訳じゃないからの」


 神官さんはしみじみと呟いた。


「……それと」

「あれ? 二人ともこんな所でどうしたの?」

「ぬぁぁぁぁぁっ! お主、こんな所まで取り立てに来たのか!」


 神官さんはクロノの声を聞くと飛び上がった。


「クロノ様。どうして、ここに?」

「いや、シオンさんがなかなか屋敷に来ないから、カド伯爵領の視察に行こうと思ったんだけど……」


 クロノは気まずそうに視線を荷馬車に向けた。

 エルフの男性が荷馬車の御者席に座っていた。

 シオンは血の気が引く音を聞いたような気がした。

 後援者との打ち合わせをすっぽかして話に興じていたなんて大失敗だ。


「わ、私も視察に同行させて下さい!」

「え? いや、別に戻って来たら、改めて打ち合わせはするし」

「私も、行きます!」

「わ、分かりました」


 シオンが断言すると、クロノは気圧されたように頷いた。



 荷馬車が街道を西に進む。

 荷馬車の乗り心地は快適だった。

 昨夜、シオンはよく眠れたのだが、心地よい振動が眠気を誘う。

 意識が一瞬だけ途切れる。

 シオンはすぐに意識を取り戻して隣を見た。

 すると、クロノは大きな欠伸をしていた。


「眠たいなら、寝て良いよ?」

「はい、いいえ……あまりに乗り心地が良くて」


 シオンは隣に座っているクロノに答えた。


「そう言えば、ゴルディがバネを取り付けたって」

「ああ、それで」


 シオンは頷いた。

 クロノの荷馬車は普通の馬車と異なり、二つのパーツから成り立っていた。

 一つが車輪……車輪を含めた土台部分、もう一つが荷台部分だ。

 土台と荷台は金属の板を束ねた物で接続されていた。

 恐らく、束ねられた金属の板が荷台に伝わる衝撃を吸収しているのだろう。


「何だか、荷馬車じゃないみたいです」

「座席もあるしね」


 そう言って、クロノは笑った。

 長いすが荷台の左右に設置されている。

 金具が荷台の外側にあったので、幌が付けられるのかも知れない。


「普通の荷馬車で良かったんだけど」

「きっと、クロノ様のために頑張ったんですよ」

「新しい技術を試したかったんじゃないかな?」


 クロノはそう言いながらも満更でもなさそうだ。

 シオンとクロノはしばらく雑談を続けたが、会話が途切れる。

 突然、クロノが寄り掛かってきた。

 シオンは反射的にクロノを見る。

 すると、クロノは気持ち良さそうに眠っていた。

 シオンはクロノの横顔……唇を見つめた。



 夕方、馬車はカド伯爵領シルバニアに到着した。

 港が完成してから一年余り、シルバニアと名付けられた港街は成長を続けている。

 港から離れるにつれて建物がみすぼらしくなっていく傾向があるものの、街は代官所に到達しようとしている。

 ただ、シオンはシルバニアの雰囲気が苦手だった。

 シルバニアの人々は自分の利益や新しさばかりを追求し、他人や古いものを省みようとしない。

 街そのものが生き急いでいるように見える所も好きになれなかった。

 けど、とシオンは目を細めた。

 けれど、今はシルバニアを愛しく思う。

 これも人の営みなのだ。

 生めよ、殖えよ、地に満ちよ、とシオンは笑みを浮かべ、トントンと手の平でこめかみを叩いた。

 これも神威術が上手く使えるようになった影響なのでしょうか? とシオンは自分の手を見下ろし、未来視のことを思い出して頬を赤らめた。

 う、う~ん、とクロノが呻いた。

 シオンが隣を見ると、クロノの睫が震えていた。

 よほど馬車の寝心地が良かったのか、クロノはシルバニアまで眠りっぱなしだった。


「……シオンさん、おはよう」

「クロノ様」


 シオンはクロノを見つめた。


「クロノ様、運命を信じますか?」

「え゛?」


 クロノはシオンから離れ、何やら考え込むように腕を組んだ。

 それから視線をさまよわせ、再びシオンを見る。


「……運命を信じますか?」

「えっと、あ~、すみません、僕は仏教徒なんで」


 何故か、クロノは謝罪してシオンから離れた。

 シオンはクロノが離れた分だけ距離を詰める。

 怯えたような表情を浮かべたクロノは御者席の方へと下がっていき、荷台の端で動きを止めた。


「ザグ、ザァーグ!」

「注意一秒、ケガ一生」


 クロノが名前を呼んでも御者は振り返ろうとしなかった。

 申し訳なさそうに背を丸めただけである。

 シオンはにっこりと微笑み、クロノににじり寄る。


「運命をどうお考えですか?」

「ひぃぃぃ、あのぉ、そのぉ……信じてないです」

「私はクロノ様に運命を感じて欲しいと思ってます」

「ひぃぃぃぃっ!」


 シオンは笑みを深めると、何故か、クロノは悲鳴を上げた。



 シオンは代官所の雑役女中アリアとメイド見習いのクアントに代官所の兵舎……その二階にある部屋に案内された。


『こちらがシオン様のお部屋になります』(ぷもぷも)

「ありがとうございます」

『いえ、シオン様は大切な方ですから。何かあったら、私か、クアントちゃんに遠慮なく仰って下さいね』(ぷもぷも、ぷも~)

「遠慮なく言え」


 クアントはアリアの影から顔を覗かせ、ぶっきらぼうな口調で言った。

 ぷも~、とアリアは溜息を吐くように鳴いた。


『クアントちゃん、貴方はメイドなんですから、礼儀正しくしないとダメですよ』(ぷも、ぷも~)

「俺は、戦士だ」


 クアントは言葉を句切って言った。

 戦士であると主張しているが、彼女が着ているのは非常に露出度の高いメイド服である。


「う~、俺は戦士なのに」


 クアントは泣き出しそうな顔でアリアにしがみついた。

 アリアはクアントの頭を優しく撫でると、階段に向かった。

 クアントが腰にしがみついたままだが、アリアは苦にする様子がなかった。

 シオンはアリアとクアントを笑顔で見送り、部屋に入った。


「……きちんと掃除しているんですね」


 シオンは部屋の中央に立ち、視線を巡らせた。

 代官所の兵舎は職員の住居としてだけではなく、騎兵隊の拠点としても使われている。

 騎兵隊が兵舎に泊まるのは精々、一日か二日だ。

 手を抜いてもバレないはずだが、アリアはその一日か二日のために兵舎の掃除をしているのだ。

 シオンはイスに座り、祈りを捧げる時のように手を組んだ。

 ただし、目的は祈りではない。

 クロノが何をしているか探るためだ。

 シオンが目を閉じると、シルバニアとそこにある全て……空と海にあるものの存在は殆ど把握できない……が脳裏に浮かぶ。

 クロノ様は、とシオンはクロノの気配を追う。

 クロノの気配は独特だ。

 いや、独特を通り越して異質ですらある。

 シオンはクロノを見つけ、笑みを浮かべた。



 クロノは傭兵ギルドにいた。

 傭兵ギルドはシルバニアの中心……港とその周辺からかなり離れた場所にあった。

 建物は煉瓦造りの二階建てだ。

 聞いた話によればシルバニアに住む傭兵の人数は二百人余り。

 傭兵ギルドの建物は二百人が住むには手狭すぎるので、傭兵達の住居は他にあるのだろう。

 見難いです、とシオンは眉根を寄せた。

 肉眼で見れば何処にでもある普通の建物のはずだが、今のシオンにはひどく見難い。

 薄手の紙が視界を遮っているような感じだ。

 シオンは障害物を強引に突破し、クロノを見る。

 クロノは傭兵ギルドの二階にある応接室らしき所にいた。

 応接室にいるのはクロノだけではない。

 傭兵ギルドのギルドマスターも一緒だった。

 クロノはソファーに座り、香茶を飲んでいた。

 カップをテーブルに置き、幸せそうな笑みを浮かべた。


「あ~、香茶が美味い」

「そうか」


 傭兵ギルドのギルドマスター……確か、シフと言ったはずだ……は仏頂面でクロノの対面に座っていた。


「ところで、何の用だ? わざわざ香茶を飲みに来た訳ではないのだろう?」

「わざわざ香茶を飲みに来ました」


 クロノは俯き、陰気な口調で言った。


「本来ならば、こちらから出向くのが筋だと思うが」


 うん? とクロノは不思議そうに首を傾げた。


「そろそろ、親族を呼ぶ許可を出して欲しい」

「この前、傭兵を百人受け入れたばかりなんだけど……そう言えばシフがカド伯爵領に来てから七、八ヶ月だっけ?」


 クロノはわざとらしく指を折りながら言った。

 シフはクロノに沈黙で答えた。

 何か要求されるのではないかと警戒しているのだろう。


「まあ、約束だしね」

「感謝する」


 シフはクロノに深々と頭を垂れた。


「……相談だが」

「まあ、聞くだけなら」


 クロノは足を組み、ソファーに寄り掛かった。


「土地を貸して欲しい」

「なんで、家じゃなくて、土地なの?」

「……」


 シフは瞑目するように目を閉じ、意を決したように目を開いた。


「農業をしたい」

「作物を輸出したいってこと? 作物を輸出されたら、人頭税を増やさなきゃだから、税金の払いすぎで日干しになるんじゃない?」


 クロノの心配はもっともだ。

 シフが税として納める分の作物を輸出するつもりなら、クロノはそれ以外の部分で税を納めさせなければならない。

 自分達の手元に残った作物を輸出するつもりだとしても、手元に何も残らなければ農業に従事する者の意欲を維持するのは難しいだろう。


「違う。我々は豊かな土地に移り住みたいのだ」

「移民として受け入れて欲しいってこと?」

「もちろん、開拓が軌道に乗るまでの費用は諸部族連合で負担する。これは悪い取引ではないはずだ」

「悪い取引じゃない、ね」


 クロノはソファーの肘掛けに肘を突き、不貞不貞しい笑みを浮かべた。


「確かに悪い取引じゃない。そっちで費用を負担して開拓してくれれば、僕はただで税収を増やすことができる。けど、受け入れるのは難しいかな?」

「何故だ? お前はすでに別の領地、別の国から移民を受け入れている。ルー族の娘を嫁として迎えたとも聞く」


 シオンはシフと同じ疑問を抱いた。


「帰る場所のない人達を受け入れるのは問題ないよ。けど……」


 クロノは言葉を句切った。


「問題は君達の心が何処にあるかなんだよ。本国……まあ、この言い方で良いのか疑問はあるんだけど、君達の心がベテル山脈にあるのなら、移民として受け入れることはできない。実効支配をされたら目も当てられないからね」

「……」


 シフは無言だ。

 だが、悔しそうには見えない。

 恐らく、クロノの回答はシフの想定範囲内だったのだろう。


「やはり、そうくるか」

「三年以上領主をしていれば凡人でもこれくらいの判断はできるよ。残念だったね」


 いや、とシフは頭を振って否定した。


「取引相手は馬鹿でない方が良い」

「その心は?」

「馬鹿との取引は長続きしない」

「手厳しい」


 クロノは戯けるように諸手を挙げた。


「……色々と話したいが」


 シフは右頬の刺青をなぞりながら、立ち上がった。

 漆黒の輝きが蛮族の戦化粧のようにシフの体を彩る。


「覗き見はここまでだ」


 シフが床を踏み締めた瞬間、シオンの意識は弾き飛ばされた。



「痛っ!」


 シオンは衝撃を受け、目を開けた。

 衝撃そのものは大したことなかったが、攻撃されるはずないという油断が衝撃を実際以上のものに感じさせたのだ。

 油断? いや、シオンは相手を侮りすぎた。

 相手が神威術に干渉できると分かっていたのに警戒を怠ってしまった。

 今度はもう少し慎重に、とシオンは目を閉じ、クロノの気配を探った。

 だが、クロノの気配を見つけることができなかった。

 何故? とシオンは意識を集中させる。

 場所は分かっている。

 傭兵ギルドだ。

 だが、傭兵ギルドを探ってもクロノとシフの姿が見えない。

 恐らく、シフが何らかの方法でシオンの邪魔をしているのだろう。

 何故、こんなことを? 私はクロノ様の様子を知りたいだけなのに、とシオンは唇を噛み締めた。

 シオンはクロノを探しに行くべきか悩んだ末に席を立った。

 かなり長い時間悩んでしまったが、探しに行くと決めればあとは実行あるのみだ。

 シオンは部屋から出ると、小走りで兵舎の玄関に向かった。

 シオンはドアノブを掴み、転びそうになった。

 扉が勝手に開いたのだ。

 誰かが転びそうになったシオンを受け止める。


「あ~、シオンさん……大丈夫?」

「もちろんです!」


 シオンが顔を上げると、クロノは気まずそうに顔を背けた。

 もう少しクロノと抱き合っていたかったが、仕方がなく離れる。

 シオンはクロノを見つめた。

 クロノの気配を探れなくなった理由があるはずだ。

 シオンは視線を上から下へ移動させ、首飾りの変化に気付いた。

 小さな木片が首飾りに追加されていたのだ。

 細かな文字が木片に刻まれている。

 どうやら、この木片がクロノの気配を掻き消しているようだ。


「クロノ様、それは?」

「これ?」


 クロノは首飾りの木片を摘まみ上げた。


「魔除けだって」

「魔除けっ?」


 シオンは驚きのあまり、声を裏返らせた。

 『黄土にして豊穣を司る母神』に仕える神官をよりにもよって厄災扱いするとは。


「悪い精霊が僕に危害を加えようとしているとか」

「悪? 危害?」


 シオンは身に覚えのない評価に混乱した。

 厄災扱いしたばかりか、悪霊扱いだ。

 クロノを見ていただけなのにあんまりな評価だった。

 

「クロノ様、それ、外しませんか?」

「え? いや、厚意でくれた物を外すのはマズいよ」

「では、少し触らせて貰えませんか?」

「まあ、それくらいなら」


 触ることができれば木片を無力化できるはずです、とシオンは木片に手を伸ばした。

 シオンの指先が木片に触れるか触れないかの所で、バチッと黒い火花が散った。


「……」

「……」


 気まずい沈黙がクロノとシオンの間に舞い降りた。


「これは何かの間違いです。恐らく、この木片は六柱神の力をも拒絶してしまうに違いありません。そうに決まってます」


 シオンは捲し立てた。


「ああ、うん、まあ、そういうこともあるかも」

「わ、私は……体調が悪いので、部屋に戻ります」


 シオンは踵を返した。



 翌日、シオンは開拓村に向かった。

 クロノは傭兵ギルドと『シナー貿易組合』に用があるらしく別行動だ。

 シオンは足を止め、開拓村を見渡した。

 家の数は八十戸に届かない。

 家は他の農村に比べて立派な造りをしている。

 家と家の間隔は広い。

 切り倒した木を運ぶために間隔を広く取っているのだ。

 切り倒した木の中で建材として使えそうなものはクロノが買い取り、それ以外は開拓村や塩田で使う薪となる。

 余った薪はシルバニアで売られていたりするのだが、クロノはあまり厳しく制限するつもりがないようだ。

 シオンはゆっくりと村を見て回る。

 人の気配はあまり感じられない。

 皆、働きに出ているのだろう。

 外で遊ぶ子どもの姿が見えないのもそのせいだ。

 開拓村では子どもも大切な労働力なのだ。

 開拓は順調に進んでいますが、順調に進み過ぎて怖いくらいです、とシオンはそんな感想を抱く。

 開拓は過酷なものだ、とシオンは学んだが、領主が全面的に支援すれば過酷さを軽減できるのかも知れない。

 シオンは村を通り抜けた所で足を止めた。

 村の北には昏き森が広がっている。

 昏き森の迫力に圧倒されそうになるが、やや視線を下げると、そこには畑が広がっている。

 横へ、横へと視線を動かしていくと、畑が不意に途切れる。

 その先は荒れ地と森だ。

 そこではエルフと獣人が木を切り倒したり、木を運んだりしている。

 シオンが神威術を使えばすぐにでも開拓を終わらせられる。

 だが、これは単なる開拓ではない。

 開拓民が自分達の存在を他の領民に認めさせるための通過儀礼なのだ。

 そう考えながら、シオンは力があるのに使わないのは怠慢ではないかという後ろめたさを感じていた。

 シオンが様子を見るために近づくと、一人のエルフが斧を振るう手を休めた。

 隻眼のエルフ……ディノだ。


「お~い、皆! 休憩だ!」


 ディノが大声で呼びかけると、全員が手を休めた。

 休憩の方法は切り株に腰を下ろしたり、水を飲むために樽に歩み寄ったりと様々だ。

 ディノは首にかけた布で汗を拭いながら、シオンに近づいてきた。

 クロノの領地に辿り着いた時、ディノはひどく痩せていた。

 今も痩せているには痩せているが、健康的な痩せ具合だった。

 だが、最も変わったのはその表情だ。

 出会った頃に比べて、険が和らいだように思う。


「……シオン様」

「調子はどうですか?」

「ミノタウルス達は親切だ……ですし、後から来た連中も気の良いヤツらです」


 ディノは辿々しい口調で言った。

 『黄土神殿』の神官長であるシオンとの距離を測りかねているのだろう。

 無理もない話だ。

 別組織とは言え、ケフェウス帝国と神聖アルゴ王国の『神殿』は同じ神を奉じているのだから。

 シオンはディノから近況を聞き、開拓村を後にした。



 シオンがシルバニア……代官所に戻ると、クロノは馬車に寄り掛かっていた。


「クロノ様、待っていてくれたんですね♪」

「そりゃ、まあ、普通は待ってるでしょ?」

「それもそうですね」


 シオンは笑い、荷馬車に乗った。

 クロノが乗ると、荷馬車はゆっくりと進み始めた。

 シオンはクロノにしなだれ掛かった。


「クロノ様、運命を信じますか?」

「いや、仏教徒なんで」


 そう言って、クロノは黙り込んだ。

 シオンはクロノの答えに不満だった。

 クロノが運命を信じていると言ってくれれば、シオンはクロノの物になれるのだ。


「……でも、偶然出会ったはずなのに、その後も関係が続いたり、偶然以上の意味があったりすると、神様を信じても良い気になるね」


 チッ、とシオンは舌打ちした。

 遠回しな否定、あるいは遠回しな肯定だ。

 逃げ道を残そうとしているのが小憎たらしい。

 それで良いです、とシオンは目を閉じた。

 焦っても仕方がない。

 シオンはクロノと結ばれる運命なのだ。

 くふふ、とシオンは笑った。



 シオンがハシェルに戻ったのはその日の夕方である。

 救貧院の前でクロノと別れる。

 すると、神官さんが物陰から姿を現した。


「どうじゃった?」

「何もありませんでした」

「まあ、そうじゃろうな」


 シオンが答えると、神官さんは意地の悪そうな笑みを浮かべながら言った。

 シオンは不意に神官さんが別れ際に何かを言いかけていたことを思いだした。


「……そう言えば別れ際に」

「うむ、未来視についてじゃな? 未来視は思い通りの未来を見られるものではない」


 それと、と神官さんは言葉を句切った。


「ぶっちゃけ、本当に未来を見ているのか、単なる白昼夢なのか区別がつかんしの!」

「なっ!」


 神官さんは愉快そうに笑った。


「あわわ、私はなんてことを」


 シオンは顔面蒼白になった。

 クロノに運命を信じるか尋ねたり、神威術でクロノの様子を探ったり……まるで痛い女だ。


「お主はもう少し人を疑うことを覚えた方が良いの」


 そう言って、神官さんは笑った。

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