第17話『鬼の霍乱』
※
帝国暦四百三十二年八月……早朝のせいか、侯爵邸に降り注ぐ太陽の光は弱かった。
「クロノ、寂しくて仕方がないさ」
「リオ、僕も寂しいよ」
クロノはリオを優しく抱き締め、子どもをあやすように背中を撫でた。
不意に怖気が走った。
クロノが肩越しに後を見ると、ティリアが仁王立ちしていた。
今にも襲い掛かってきそうだ。
「クロノ、キスして良いかい?」
「ダメに決まってるだろ!」
ティリアはあっさりとリオの挑発に乗り、襲い掛かってきた。
予想していたのか、リオはクロノを逃がし、プロレスラーのようにティリアと手を組み合った。
「私に力比べで挑むとは!」
「力比べでも格下だと思い知るが良いさ」
白い光がティリアから、緑の光がリオから立ち上る。
クロノは杖を突きながら、二人から離れた。
「早っ!」
クロノは振り向くなり叫んだ。
ティリアはクロノが少し目を離している間に敗北寸前まで追い詰められていた。
今にも膝を突きそうだ。
「ぐぬぬ! 頑張れ、私!」
「ほらほら、頑張りなよ」
ティリアが自身を鼓舞するように叫ぶと、リオはティリアを嬲るように言った。
どうやら、ティリアがリオに勝っているのは頑丈さとしつこさだけのようだ。
どうも、頭がボーッとするな、とクロノは木箱に座り、頭を軽く振った。
「二人とも喧嘩は止め給え」
レオンハルトが仲裁に入る。
レオンハルトがティリアとリオの手首に触れると、ティリアとリオは素直に手を解いた。
レオンハルトの人徳か、特殊な技を使ったのか、クロノは判断に迷った。
「本当に戻らなきゃダメかい?」
「流石に十ヶ月以上は休み過ぎと言うものだよ」
リオが未練がましく言うと、レオンハルトは窘めるように言った。
ここまで休んだリオが凄いのか、放置しているアルコル宰相が凄いのか、これも判断に迷う所だ。
リオは観念したように馬に乗った。
レオンハルトも馬に乗る。
「クロノ殿! また、会おう!」
「ティリア皇女、クロノのことは頼んだよ」
クロノは颯爽と去って行くレオンハルトとリオに手を振った。
「ぐぬぬ、またしても、またしても! な、なんだ、あの、さ、さ最後の、余裕を見せつけているつもりか!」
「ティリアは相変わらずだな」
クロノは目の前でティリアを横目に眺めた。
ティリアは何度もリオに負けているのに本気で悔しがっている。
終わったな、とクロノは空を見上げた。
それは神聖アルゴ王国に対する工作が終わったという意味でもあるし、心残りが一つ解消されたという意味でもある。
「さて、仕事仕事」
クロノは立ち上がり、首を傾げた。
柔らかい何かがクロノの顔に触れている。
クロノは柔らかい何かを掴んだ。
「こ、これはティリアの胸だ! どうして、ティリアの胸が!」
「お前が倒れ込んだからだ!」
クロノが顔を上げると、ティリアは不思議そうに首を傾げた。
ティリアはクロノの額に手の平を当てた。
「ティリアの手って、こんなに冷たかった?」
「お前が熱いんだ! 誰か、だ……ええい、まどろっこしい!」
ティリアはクロノを抱き上げた。
「ティリアってば、パワフル」
「黙っていろ!」
ティリアはクロノを抱いたまま走り出した。
※
ティリアは寝室の扉を開けるなり、クロノをベッドに投げた。
ああ、ティリアはこれだけ腕力があるのにリオに負けちゃうんだ、とクロノは浮遊感に包まれながら、そんなことを考えた。
クロノはベッドに落下し、天井を見上げた。
世界が酒を飲み過ぎた時のようにグルグルと回っている。
「医者を呼んでくるから、じっとしているんだぞ?」
「うぇ~い」
扉がバタンと閉じる。
クロノは服を脱ぎ、ベッドに潜り込んだ。
ベッドメイクはクロノが寝室を出てから一時間と経っていないのに完璧だった。
「風邪を引くなんて久しぶりだな~。こっちの世界に来てから、風邪を引いたことないから、六年ぶりくらい?」
自分じゃ賢いと思ってたんだけど、とクロノは力なく笑った。
「もう六年も経つんだ。皆、元気かな~」
クロノが思い浮かべたのはクラスメイトではなく、家族のことだ。
友達がいなかった訳じゃないけれど、親しいと呼べる友人はいなかったような気がする。
それが進学塾に通うようになってから顕著になったとも思う。
「きっと、警察に捜索願を出したり、ビラを配ったり、テレビで特集されてるかも」
突然、クロノの視界が滲んだ。
眼球の奥が痺れている。
涙が出たのだ。
クロノは枕を抱き締め、固く目を閉じた。
※
どれくらい、眠っていたのだろう。
クロノは手の甲で目元を擦った。
すると、ザリザリとした感触が手の甲に伝わってきた。
目ヤニだ。
どうやら、かなり長い時間、眠っていたらしい。
意識が朦朧としていた感じかな? とクロノは身動ぎした。
何度か、目を覚ました記憶がある。
ただ、睡眠と覚醒を繰り返したせいか、よく眠ったという感じがしない。
寝足りないとすら感じる。
時間の感覚だけではなく、記憶も曖昧だ。
目を覚ました時に誰かがいたような気もするし、誰もいなかったような気もする。
トイレに行った記憶があるのだが、自分の記憶が正しいと思えない。
背骨が痛い、とクロノは寝返りを打った。
次の瞬間、白い光が眼球を刺激した。
クロノは薄く目を開けた。
誰かがベッドの近くにいた。
アリッサだ。
アリッサがイスに座っていた。
白い光の正体はアリッサの足下に置かれた照明用のマジック・アイテムだ。
その光は普段使っているマジック・アイテムに比べると、かなり弱い。
「旦那様、起こしてしまいましたか?」
「ん、丁度、目を覚ましたとこ」
アリッサは立ち上がり、クロノの額に手を当てた。
彼女の手はティリアよりも冷たかった。
「……手が冷たい人は優しい心の持ち主なんだとか」
「私の手が冷たいのではなく、旦那様が熱いのです」
「何か、お母さんって感じ?」
「一児の母ですから」
アリッサは困ったように眉根を寄せた。
「旦那様、食事はどうされますか?」
「水」
クロノが言うと、アリッサは吸い口を差し出した。
クロノがアリッサの手に自分のそれを重ねると、アリッサは微かに震えた。
どうやら、アリッサは他人に触れられるのが苦手なようだ。
クロノはアリッサを見上げながら、水分を補給する。
苦みが口中に広がる。
吸い口の中身は薬草を煎じたものなのだろう。
アリッサは優秀なメイドだが、男に対して一線を引いているように見える。
女として見られることを避けようとしていると言うべきだろうか。
アリッサの気持ちは分からなくもない。
クロノは何がアリッサに起きたのか知っているし、考えを改めさせようとも思わない。
普段のクロノはそう考えている。
クロノが手を離すと、アリッサは安心したように息を吐いた。
クロノはベッドから離れようとするアリッサの手を掴んだ。
「……っ!」
吸い口がアリッサの手から落ちた。
「だ、旦那様、お戯れを」
アリッサは伏し目がちに言った。
「一次的接触を極端に避けるね、アリッサは。人と触れ合うのが怖いの?」
「怖くはありません」
クロノはゆっくりとアリッサから手を離した。
「寂しくない?」
「娘がいます」
「今の距離はアリッサが傷付かずに済む距離?」
アリッサはハッと息を呑み、誤魔化すように微笑んだ。
「旦那様、私には旦那様が何を仰っているか分かりかねます」
「ヤマアラシのジレンマという言葉をご存じでしょうか?」
アリッサは訳が分からないとでも言うように首を傾げた。
「ヤマアラシは! 傷つけ合いながら、傷つけ合わずに暖を取れるベストな距離を発見するとか、しないとか? 好きとか、嫌いとか、始めに言いだしたのは誰なんだろう? 届け、僕のテレパシィー!」
「旦那様、もう寝て下さい」
はい、とクロノは頷いた。
※
「ぐあぁぁぁぁぁっ!」
「な、何ですの!」
クロノが仰け反ると、セシリーはイスから立ち上がった。
クロノはガクガクと震えながら自分の体に触れた。
暗殺者に腹を刺されたのだ。
だが、傷はなかった。
荒い呼吸を繰り返し、ようやく自分が夢を見ていたことに気付いた。
「どうかなさりましたの?」
「こんな、夢を見た」
はあ? とセシリーは気のない返事をした。
「僕は夢の中でアラブの王族だったんだ」
「『あらぶ』が何処か分かりませんが、それで?」
「暗殺者に刺された」
セシリーは何も言わずにイスに座った。
こん畜生、とクロノは心の中で呟き、天井を見上げた。
アリッサと話した時は夜だったが、今は朝だ。
意識は昨夜に比べれば、しっかりしている。
「そう言えば、騎兵の仕事は良いの?」
「貴方がそれを言いますの?」
セシリーは不機嫌そうに言った。
クロノは天井を見上げつつ、記憶を漁った。
言われてみればセシリーをメイドに戻したような気がする。
セシリーは小さく溜息を吐いた。
「……貴方のことは嫌いですけれど」
「その前置きは必要なの?」
「貴方のことは嫌いですけれど、貴方の判断は間違っていないと思いますわ」
セシリーはクロノの突っ込みを華麗にスルーして言った。
「所詮、私は代理ですもの。自分から軍を辞めた人間が大きな顔して居座るのも問題ですし、ヴェルナさんや他の方々に迷惑を掛ける訳にもいきませんわ」
セシリーは髪を掻き上げ、拗ねたような口調で言った。
「どうして、私を見てますの?」
「いや、セシリーの言葉に思えなくて」
他の方々に迷惑を掛ける訳にはいかない。
軍人だった頃やメイドとして働き始めた頃のセシリーからは想像もできない言葉だ。
「これも、僕の調教の成果か」
「違いますわよ!」
セシリーは柳眉を逆立てて言った。
もちろん、クロノだって自分がセシリーの人格形成に一役買ったとは思っていない。
セシリーの人格形成に多大な影響を与えたのはヴェルナだ。
セシリーは自分よりも年下のヴェルナにフォローされながら、他人を思いやる心を育んだのだ。
まあ、この歳になるまで他人を思いやる気持ちを育てられなかったというのは人としてどうか? とも思うが。
しかし、ニートと異なる方向でダメ人間だったセシリーが人間として成長したのだ。
その点は喜ぶべきだろう。
「……もう少し寝ます」
「ええ、分かりましたわ」
※
クロノが次に目を覚ました時、部屋は薄暗かった。
アリッサは昨夜と同じようにベッドの近くに座っていた。
「……旦那様」
「お風呂に入りたい」
クロノはベッドに寝転がったまま、寝間着を摘まんだ。
寝間着は汗でぐっしょりと湿っていた。
ちょっと生臭い。
「湯浴みはご遠慮下さい」
「じゃあ、体を拭くだけ……寝間着も新しいのが欲しいです」
クロノが催促すると、アリッサは考え込むように唇に手を当てた。
「分かりました。すぐに湯を用意します」
「……よろしく」
我が儘を言っちゃっただろうか? とクロノは少しだけ反省しながら、部屋から出て行くアリッサを見送った。
しばらくすると、アリッサは洗面器と陶製のピッチャーを持ってきた。
アリッサは洗面器に湯を注ぎ、布を絞る。
「旦那様、どうぞ」
「ありがとう」
クロノは寝間着を脱ぎ、顔と体を拭いた。
「アリッサ、背中を拭いて」
「はい、旦那様」
クロノが背を向けると、アリッサは遠慮がちにクロノの背を拭き始めた。
アリッサは無言だ。
「終わりました」
「分かった」
クロノは新しい寝間着に着替え、ベッドに戻る。
アリッサはクロノが脱いだ寝間着を丁寧に畳み、洗面器とピッチャーを持って部屋から出て行った。
アリッサはすぐに戻ってきた。
多分、アリッサは夜勤のメイドに寝間着などの処理を任せているのだろう。
アリッサはイスに座り、俯いた。
「アリッサ、セシリーの様子はどう?」
「……セシリー様は」
「呼び捨てで良いんじゃない?」
「セシリーさんはメイドとして働き始めた頃に比べると、険がなくなり、他のメイドとも良好な関係を築きつつあります」
アリッサは質問の意図が分からないと言うようにクロノを盗み見た。
「実は、ヴェルナから相談を受けてて」
はい、とアリッサは頷いた。
ヴェルナの上司はアリッサなのだから、頭越しに相談を受けるのは少し気まずい。
「ヴェルナは軍に行きたいらしく」
「軍ですか?」
「ただで勉強を教わることに抵抗があるみたいで」
ああ、とアリッサは合点がいったとばかりに頷いた。
ヴェルナは筋を通そうとするタイプなのだ。
「セシリーが他のメイドと良好な関係を保っているのはヴェルナの存在が大きいと思うんだよね。だから、ヴェルナがいなくて大丈夫なのかな~って」
「……」
アリッサは考え込むように口元を手で覆った。
考え込むくらいだから、アリッサもセシリーを一人にするのは心配なのだろう。
「セシリーが心配と言っても、ヴェルナをセシリーに付き合わせるのは違うと思うんだよね」
「旦那様は良いのですか?」
「正直、軍に行って欲しくないよ」
クロノは右目を撫でる。
兵士になれば死んでしまうかも知れないし、死ぬよりも辛い目に遭うかも知れない。
「説得はしたんだけどね。流民は良くて、あたしはダメなのか? と押し切られました」
「旦那様は領主ですから」
「そうなんだよね」
クロノはしみじみと呟いた。
受け入れた流民の子どもは軍に行かせて、ヴェルナは軍に行かせないというのは領主として公平性を欠いている。
「と言う訳で、ヴェルナが立派な兵士になって戻ってくるまでセシリーをアリッサの下に付けたいと思います」
「分かりました」
アリッサは即答した。
クロノはアリッサが提案を受け入れてくれたことに安堵し、胸を撫で下ろした。
「……旦那様は」
クロノが眠ろうと目を閉じたその時、アリッサはポツリと呟いた。
アリッサを見上げた。
「申し訳ございません」
「構わないよ」
はい、とアリッサは小さく頷いた。
「旦那様はセシリーさんを心配されているのですね?」
「ん~、まあ、それなりに」
「あれだけ酷いことをされているのに?」
アリッサ、覗いてるの? とクロノは突っ込みそうになった。
まあ、クロノはアリッサの指摘通り、セシリーに酷いことしかしていない。
ヒャッハー! ご奉仕メイドだ! とクロノはセシリーにご奉仕をさせている。
あくまでご奉仕のみだ。
あの反抗的な目付きが堪らない。
「酷いことをしているけど、死ねとか、不幸になれとか考えてる訳じゃないんだよね。セシリーには他のメイドと仲良くして欲しいと思ってるし」
クロノはセシリーに蹴られたりしたが、セシリーを心の底から憎んでいる訳ではないのだ。
「僕からも質問。人と触れ合うことが怖くないんだったら、何が嫌なの?」
「私は他人を憎みたくありません」
アリッサは静かに答えた。
「旦那様は私の過去をご存じだと思います」
「噂程度に」
ハシェルは小さな街だ。
噂はクロノが調べようとしなくても耳に入ってくる。
「どのような噂を聞かれたのですか?」
「アリッサが僕の前任者……前エラキス侯爵の愛人だったことくらいかな?」
多分、アリッサの娘であるアリスンは前エラキス侯爵の娘だ。
出会った時、アリッサが体調を崩していたのは前エラキス侯爵の愛人だったことと無関係ではないだろう。
「前の旦那様は、酷いだけの方ではありませんでした。酷いこともされましたが、思い出と呼べる出来事もありました」
「……」
クロノは無言でアリッサを見つめた。
前エラキス侯爵はアリッサを弄び、体調を崩したアリッサを屋敷から追い出した。
それが客観的な事実だろう。
「小さな幸せは確かにあったはずなのに、私はそれさえも貧しさの中で否定してしまったように思います」
「……」
クロノは何も言わなかった。
普通は誰かに裏切られたら、相手を憎む。
その相手との思い出や抱いた感情さえ否定する。
だが、アリッサは思い出を否定してしまったことの方が裏切られたことよりも辛いと感じているのだ。
「アリッサは内罰的だね」
「誰かを傷つけるより良いと思います」
「そうだね」
クロノは微笑んだ。
「そういうの嫌いじゃないよ」
「ありがとうございます」
アリッサは小さく頭を垂れた。
「むしろ、好きかも」
「す、き?」
言葉の意味を理解できなかったのか、予想外の言葉だったからか、アリッサはオウム返しに呟いた。
「……っ!」
アリッサは耳まで真っ赤にして俯いた。
「旦那様、お戯れが過ぎます」
「うん、まだ、熱が高いみたい」
クロノが額に手を当てると、アリッサは安心したように胸を撫で下ろした。
「戯れじゃないけどね」
クロノはアリッサの反応を確かめずに目を閉じた。
※
クロノが目を覚ますと、朝になっていた。
頭が重く、倦怠感がある。
まだ、熱が下がっていないようだ。
交代の時間帯なのか、クロノ以外は部屋にいない。
クロノがボーッと天井を見上げていると、扉が開いた。
「おや、起こしちまったかい?」
「今、起きた所だから」
女将がイスに座った直後、クロノの腹がギュルル~と鳴った。
クロノはこの二日間、水分以外口にしていない。
「あたしゃ来たばかりなんだけどね」
女将は仕方がないねと言わんばかりに肩を竦めた。
「リクエストはあるかい?」
「……米のお粥で、卵粥にしてくれると嬉しいです」
クロノは味噌汁と答えそうになったが、グッと堪えた。
味噌汁を作って貰おうにも味噌がないのだ。
ついでに言うと、醤油もない。
「ちゃっちゃと作って来てやるから、待ってるんだよ」
「は~い」
女将は腕まくりをして部屋から出て行ったが、なかなか戻ってこなかった。
二度寝しようかな? とクロノが考えていると、女将がトレイを抱えて戻ってきた。
クロノはベッドの上で胡座を掻き、女将からトレイを受け取った。
クロノはスプーンで卵粥を掻き込んだ。
熱があるため、味はよく分からない。
それでも、クロノは美味いと思った。
「そういや、アリッサに何かしたのかい?」
「……ぶ」
クロノは口元を押さえ、
「ブピーーーッ!」
鼻から粥を勢いよく吹き出した。
「ったく、何をしてるんだい!」
女将は立ち上がり、クロノの口元に布を当てた。
クロノは布を手に取り、ブヒーと鼻をかんだ。
「女将、ありがと」
「で、何をしたんだい?」
クロノは俯き、だらだらと脂汗を流した。
「え、えっと、アリッサさんはどうかしたのでしょうか?」
「その様子だと、手を出しちまったみたいだね」
女将は眉間を押さえ、処置なしと言わんばかりに頭を振った。
「いや、出してないですよ。人聞きの悪い」
「今更、取り繕ってどうするんだい」
女将は舌打ちをした。
どうも、女将はクロノが嘘を吐いていると思っているようだ。
しかも、女将はクロノがアリッサに手を出したことよりも嘘を吐いたことに不快感を覚えている。
「女将が僕をどう思っているか分かりました。では、女将のリクエストにお応えして、今からアリッサに手を出してきます」
「ちょいとお待ち。ってことは本当に手を出してないのかい?」
「最初からそう申し上げております」
う~ん、と女将は唸った。
視線に含まれる光は猜疑心九、信用一と言った所か。
全く信用されていない、とクロノは顔を覆った。
「けど、ホントに何もしてないのかい?」
「好きかもとか言いました」
女将はビシッとクロノの頭をチョップした。
「何処が何もしてないんだい! 疑っちまって悪かったねとか反省しそうになっちまったじゃないか!」
「何もしてないんだから、反省してよ!」
「はん! 何もしてないってのは口説きもしないってことなんだよ!」
クロノは女将に圧倒され、口籠もった。
言われてみればそうかも、と思わされてしまったのだ。
と言うか、普通はそうなのだ。
「はっ! 僕は熱のせいで、とんでもないことを!」
「アンタ、ホントに良い性格してるね」
女将は呆れたように言った。
「いや、良い性格じゃなくて、本当に熱のせいで」
「そりゃ、普段と変わらないってことじゃないか」
「いやいや、普段はアリッサに手を出そうなんて考えてないんだよ。だけど、昨夜は正常な判断能力が……」
はあ、と女将は溜息を吐いた。
「あたしの時も最初は手を出すつもりがなかったんだろ? あたしの時は、その、こっちから切り出したってのもあるけどね」
女将は腕を組み、頬を朱に染めて言った。
「アンタは女のことに関しちゃ、いつも正常な判断能力が働いてないんだよ」
「そうは言うけど、言うけど……うぐぐ、言い返せない」
クロノは反論しようとしたが、よくよく思い出してみれば正常な判断能力が働くのは最初だけなのだ。
「こうなったら」
「こうなったら?」
クロノが拳を握り締めると、女将は身を乗り出した。
「このままの流れに沿って死にます! フハハッ! どっちに転んでもダメならば、とことんダメになってくれる!」
「止めやしないけどね」
「あ、すみません。調子に乗りました」
クロノは女将に突っ込まれ、少しだけ冷静さを取り戻した。
「どうしよう?」
クロノは途方に暮れたが、その夜、アリッサは現れなかった。
※
翌日、クロノは仕事に復帰した。
復帰したと言っても、すぐにバリバリ仕事をこなせる訳ではない。
ティリアから仕事の引き継ぎを行い、現在の状況を理解するためにシッターから報告を受けねばならなかった。
「う~、疲れた」
クロノは軽くストレッチし、机に突っ伏した。
普段ならば、ここでアリッサが冷たい香茶を差し出してくれるのだが。
「やっぱり、避けられてるんだろうな」
クロノは頭を掻いた。
アリッサが仕事を辞めるとは考えていない。
いや、アリッサがアリスンのために仕事を辞めないと確信している。
仕事をしてくれれば……って割り切れれば良いんだけど、とクロノは溜息を吐いた。
残念ながら、そこまで割り切る自信がない。
どうしよう? とクロノが天井を見上げた時、扉が遠慮がちに叩かれた。
「旦那様、失礼致します」
「ああ、うん」
アリッサはゆっくりと近づいてきた。
女将はアリッサがボーッとしていたと言っていたが、クロノが見る限り、アリッサはいつもと変わらない。
アリッサが机にカップを置き、クロノは慌ててカップに手を伸ばした。
クロノの指先がアリッサに触れる。
「……っ!」
アリッサは熱い物に触れたかのように手を引き、その拍子にカップが倒れた。
「ちょ、アリッサ!」
「も、申し訳ございません!」
香茶が広がる。
仕事が一段落していたので、書類は無事だ。
クロノはホッと胸を撫で下ろし、アリッサを見た。
クロノとアリッサの目が合う。
アリッサは身を乗り出していたのだ。
アリッサは耳まで真っ赤になって、顔を背けた。
「だ、旦那様、お許し下さい」
アリッサ、わざとやってない? とクロノは言葉を呑み込んだ。
「……アリッサ」
「旦那様」
クロノが肩に触れると、アリッサは切なそうに目を潤ませた。
アリッサの誤解を何とかしなきゃ、とクロノは必死で考えた。
その時、妙案が浮かんだ。
正常な判断能力が僕にないのなら、アリッサに判断を委ねれば良いのでは? とクロノは考えたのだ。
それは素晴らしいアイディアのように思えた。
何かが間違っている気がしたが、溺れている者は先のことなど考えないのだ。
「アリッサ、僕は自分からアリッサに手を出そうと考えてないんだ。分かるよね? それから、アリッサとセシリーは僕付きのメイドに変更ね」
「……は、はい、旦那様」
クロノが笑みを浮かべて言うと、アリッサは頷いた。
何故か、アリッサは耳まで真っ赤だった。
※
アリッサは脱ぎ散らかされた寝間着と下着を洗濯籠に入れる。
クロノ付きのメイドになって以来、クロノの部屋を掃除するのはアリッサの仕事だ。
アリッサはメイド長の仕事もこなさなければならないので、クロノにかかりっきりという訳にはいかない。
他のメイドの手を借りる状況も頻繁に発生する。
せめて、朝くらいは自分とセシリーでクロノの身の回りの世話をしなければならない、とアリッサは考えていた。
昨夜、旦那様は……、とアリッサはベッドの傍らに立ち、乱れたシーツを見つめた。
呼吸がわずかに乱れる。
アリッサはクロノの前任者……前エラキス侯爵の愛人だった。
いや、愛人と呼ばれるほど大層なものではなかった。
精々、お気に入りの玩具の一つくらいか。
飽きられたら捨てられる所までそっくりだ。
前エラキス侯爵は酷い男だったが、優しく接してくれることもあった。
それは気紛れの産物だったのだろうが、アリッサはそのお陰で一人目の子ども……アリスンを産むことができた。
旦那様、とアリッサはエプロンを強く握り締めた。
アリッサの理性はクロノと男女の関係になることを望んでいないが、本能は異なる望みを抱いている。
今日は理性が勝つだろう。
明日も理性が勝つだろう。
だが、アリッサは理性が本能に屈する日が来ると確信していた。




