第16話『新しい神々』
※
アルブスは王前会議の進行を見守る。
王前会議は城の議場で行われている。
マグナス国王は長机の上座に、『神殿』はマグナス国王の左手側に、イグニスを含めた将軍はマグナス国王の右手側に座っている。
随分と老け込みましたね、とアルブスはマグナス国王を視界の隅に捉える。
マグナス国王の髪も、髭も白く染まっている。
瞳は理知的な光を湛えているが、かつてのような鋭さはない。
いかなる英雄も、賢者も老いには敵わない。
二年前、マグナス国王は老いを自覚していたからこそ、ケフェウス帝国に侵攻した。
もし、マグナス国王が能力を十分に発揮していれば、レグルス王太子は強い発言権を得ていただろう。
どんな組織でも実績がない者の言葉は軽んじられ、実績がある者の言葉は重く受け止められる傾向にある。
それは国家であっても変わらない。
敵国に勝利し、一部であろうとも領土を占領した事実は大神官を黙らせるだけの実績になり得た。
しかし、レグルス王太子は敗北した。
一万の兵を率いながら、たった千人の敵に敗れたのだ。
アルブスはレグルス王太子の敗因がマグナス国王にあると考えていた。
残された時間が少ないという焦燥が、レグルス王太子とイグニスに対する信頼がマグナス国王の判断を誤らせたのだと。
今はマグナス国王よりもイグニス将軍に注意を払うべきでしょう、とアルブスはイグニスの言動に意識を傾ける。
今回の王前会議はイグニスの牽制を目的としていた。
今は違う。
アルブスの目的はイグニスを通してクロノの動向を探ることに切り替わっている。
アルブスはカリナの街で起きた事件とその後の出来事を概ね把握していた。
情報は信徒や若い神官の話に耳を傾けていれば得られるものだ。
『神殿』に対する不満がカリナの街周辺で高まっていると聞きます。
不満で済めば良いのですが、最悪、『神殿』が焼き討ちされる可能性も考慮しなければなりませんね、とアルブスは穏やかな笑みを保つ。
アルブスは視界の隅に『蒼神殿』の大神官レウムを捉える。
レウムは議場に来てから一度も口を開いていない。
余計なことをしてくれた。
それがレウムを除く大神官に共通する思いだろう。
レウムは功を焦りすぎた。
アクア将軍はスパイに専念させるべきだったのだ。
そうすればクロノの意図を掴めていたかも知れない。
『神殿』を批判する版画を撒いた以上、クロノの目的は王国の混乱で間違いないでしょう。
しかし、民衆の不満を煽っても、焼き討ちが行われる地域は限定されるはずです、とアルブスは目を伏せた。
『神殿』に対する焼き討ちは過去に何度も行われている。
いずれも神官の横暴に耐えきれなくなった民衆によるものだ。
しかし、被害の規模は大きくない。
横暴な神官が吊し上げられ、巻き添えになった神殿が燃えたくらいだ。
確かに混乱はするでしょう。しかし、落とし所を探るのは難しくない、とアルブスはそう分析しながら、本当に正しいのか自信がなかった。
いや、不安だった。
もう一度、考え直してみましょう。イグニス将軍、交易路、炊き出し……、とアルブスは今回の件に関係すると思われる要素から導き出した結論に戦慄した。
もし、許されるのなら、アルブスはレウムを罵倒していただろう。
レウムはクロノに動き出す切っ掛けを与えたのだから。
「私は亜人の虐殺を止め、国外に追放するべきだと考えている。アルブス殿はどのようにお考えか?」
アルブスはイグニスに質問され、顔を上げた。
思いも寄らぬ助け船だった。
もしかしたら、イグニスはクロノの真意を理解できていないのかも知れない。
アルブスは必死に思考を巡らせた。
イグニスの言葉に頷くしかない。
だが、イグニスの提案がクロノの指図だとしたら、何を意図しているのか。
読めない。
読めないが、頷かなければアルブスは破滅する。
「……イグニス将軍の提案に賛成します」
アルブスが言うと、イグニスは意外そうに目を見開いた。
イグニスに構う余裕はアルブスになかった。
一刻も早く会議を終わらせ、東西街道の盗賊を排除するよう、審問官に命じなければならない。
今から動いて、どれほどの意味があるのか? だが、盗賊を排除し、『神殿』の価値を示さなければならない。
静観するという選択肢はすでに失われていた。
※
やけにあっさりと提案を呑んだな? とイグニスはアルブスの態度を訝しみながら、城壁の階段を登る。
イグニスが階段を登り切ると、強い風が湖から吹き寄せてきた。
しばらく歩くと、人影が見えた。
人影の正体はレグルス王太子だった。
レグルス王太子は今年で十八になる。
背は平均的な男性よりも高いが、体の線は細い。
髪は肩に触れるほど伸び、瞳は穏やかながらも聡明さを感じさせる光を宿している。
レグルス王太子の風貌は王太子としては申し分ない。
学者、あるいは神官でも問題はないだろう。
だが、次代の王としては頼りないと言わざるを得ない。
レグルス王太子の才能を知るイグニスから見ても、だ。
レグルス王太子は城壁に寄り掛かり、湖を見つめていた。
イグニスは何度も城壁の上は危険だ、体に障ると訴えたが、レグルス王太子は聞き入れなかった。
やがて、イグニスはレグルス王太子の説得を諦めた。
イグニスは足を止め、レグルス王太子の横顔を見つめた。
レグルス王太子の肌は病的に青白い。
二年前に負った心の傷と部下を死なせた自責の念が今もレグルス王太子を苛んでいるのだろう。
口さがない者はレグルス王太子を軟弱者だと言う。
たった一度の敗北で戦意を喪失した臆病者だとも。
だが、イグニスはレグルス王太子が成長したと感じていた。
二年前のレグルス王太子にはわずかながら慢心があった。
二年前の敗北はレグルス王太子の心に潜んでいた慢心を取り除いた。
レグルス王太子はイグニスに気付いたらしく、ゆっくりと振り返った。
「やあ、イグニス」
「殿下、湖の風は体に障ります」
イグニスは昔のことを思い出しながら言うと、何が楽しいのか、レグルス王太子はクスクスと笑った。
レグルス王太子は笑い終えると、城壁に寄り掛かった。
「イグニス、交易は順調みたいだね」
「……」
イグニスは押し黙った。
今回の作戦はマグナス国王と限られた人間しか知らない。
レグルス王太子はその限られた人間に含まれていない。
そのはずだ。
「そんなに驚かなくても良い。余にも耳はある。耳を澄ませば、大抵の噂は聞こえてくるものだ」
レグルス王太子は耳を摘まみ、芝居がかった口調で言った。
驚かない方がおかしい。
レグルス王太子は城から出ない。
一体、どのようにして情報を収集しているのか。
「もちろん、手もある。イグニス、この版画に見覚えは?」
「……いえ」
イグニスはレグルス王太子から版画を受け取り、頭を振った。
巨大な神官が人々を食べている版画だ。
神官が人々を食い物にしていると非難しているのだろう。
「見覚えはありませんが、心当たりはあります」
「イグニス、会議はどうだった?」
何故、レグルス王太子はそんな質問をするのか、とイグニスは戸惑った。
「こちらの要求は一つ呑ませましたが、実のある会議ではありませんでした。ただの嫌がらせです」
「本当かい?」
イグニスは頷きかけ、すぐに思い直した。
アルブスは妙にイグニスを警戒していたように思う。
イグニスの提案をあっさりと呑んだのも、会議が終わると挨拶もせずに議場から出て行ったのもおかしい。
「アルブスは帝国の、クロノの真意に気付いたようだね」
「クロノの真意とは?」
帝国の真意はイグニスにも分かる。
帝国は王国を混乱させようとしている。
それはマグナス国王も織り込み済みだ。
だから、マグナス国王は『神殿』に対抗できるようになった時点でクロノ達を追い返そうとしていた。
「クロノは神を作ろうとしているんだ」
「正気ですか?」
イグニスの言葉はレグルス王太子に向けたものだ。
レグルス王太子は苦り切った笑みを浮かべた。
「誤解があるね。クロノが作ろうとしているのは新しい神だよ。そう、人々が大地の恵みを分け合うことを望む、そんな神さ。この新しい神は追い出せない。人々が望んでいる限りね」
「……っ!」
イグニスはレグルス王太子の言葉に息を呑んだ。
古い神々と新しい神々の陣営に分かれて争う王国の未来を想像してしまったからだ。
「それが分かっているのならば!」
「言ったさ。余は父上に何度も進言した」
マグナス国王は聞く耳を持たなかったと言うことか。
それとも、クロノにもたらされた混乱を収める自信があるのか。
「なんて、男だ」
イグニスは吐き捨てた。
クロノは常識の外にいる。
帝国が侵攻してきた時もそうだ。
クロノは平然と夜襲を行い、一騎打ちと称しながら、騙し討ちを仕掛けてきた。
「まだ、余達には手が残されている」
「手とは?」
「イグニス、お前がクロノよりも早く、新しい神々を望む人々を纏め上げるんだ」
「……しかし、ヤツがそれを許すでしょうか?」
レグルス王太子はイグニスの問いに頷いた。
「余はクロノが迷っていると思う」
「迷っている?」
イグニスは問い返した。
「迷っているからこそ、亜人を自分の領地に招き入れるんだよ。版画を撒くタイミングも早すぎる」
レグルス王太子はイグニスを見つめた。
「さあ、行くんだ。今なら、間に合う」
「御意」
イグニスはレグルス王太子に背を向け、走り出した。
※
「野郎ども、準備はオッケイ? みたいな!」
「イェェェェェェッ!」
デュランはアリデッドの音頭に喉に痛みを覚えるほどの大声で応えた。
恥ずかしくはない。
アリデッドの部下は恥ずかしがっていないし、ブルーノも恥ずかしがっていない。
小さな声で応じることを恥じるべきだ、とデュランは考えていた。
まあ、場に染まったとも言うが。
なんつーか、まあ、すげーんだよな、とデュランは愛馬の首筋を撫でながら、アリデッドを盗み見る。
アリデッドは……妹のデネブも、彼女達の部下も凄いヤツらだ。
アリデッドとデネブは指揮官として申し分ない能力を備えているし、兵士としての経験からか、細やかな配慮ができる。
アリデッドとデネブは商人から荷を奪う時、優先的に食料を奪い、部下に振る舞う。
酒もだ。
強いてアリデッドとデネブの問題点を上げるとすれば、余った酒から謎の液体を採取している点だろうか。
彼女の部下達はデュランが指揮官になった時に部下として迎えたいと思わせるほどの実力者揃いだ。
それだけじゃねーよな、とデュランは思う。
彼らは全員が悲惨な過去を持っている。
だと言うのに彼らは前向きだ。
ハーフエルフの騎兵はアリデッドとデネブに師事し、勉強をしていた。
勉強は将来に向けての投資だ、とデュランは思っている。
つまり、クロノは自分の部下に将来に向けての努力が無駄にならないと信じさせているのだ。
クロノは武術じゃなくて、そういう教育を受けてたってことか? 親父が英雄だってのは知ってたけどよ。だとしたら、クロノの親父は桁違いのバケモノじゃねーか、とデュランは会ったこともないクロノの父親に畏敬の念を抱いた。
剣術だけじゃねーよな。何もかも足りねーんだ、とデュランは自分の手を見下ろした。
「今回も殺さず、犯さず、少しばかり荷物とお金を頂くみたいな!」
アリデッドが馬首を巡らせ、デュランは馬を走らせる。
デュラン達は間道から東西街道に入り、荷馬車を追い立てた。
デュラン達が荷馬車を追い立て、デネブの率いる別働隊が荷馬車の行く手を塞ぐ。
単純な作戦だが、驚くほど効果があった。
商人の抵抗も少ない。
犯さず、殺さず、少しばかり荷物と金を頂くという方針のお陰だ。
「何だ?」
デュランは目を細めた。
純白の服に身を包んだ人物……多分、『純白神殿』の神官だろう……が街道の中央に立っていたのだ。
荷馬車が神官の脇を通り過ぎる。
「マズい! 散れ、みたいな!」
アリデッドが叫んだ。
アリデッドと彼女の部下達は迷うことなく、左右に散った。
街道の両隣は腰ほどの高さの草で覆われた荒れ地だ。
馬が脚を痛めるかも知れない。
そんな思いがデュラン達の行動を遅らせた。
何かがデュランの顔を濡らした。
デュランが慌てて顔を拭うと、手は赤く染まっていた。
血だ。
前を走っていた男が馬の上で仰け反っていた。
顔はない。
いや、あるのかも知れないが、顔は潰れてしまったようにグチャグチャだった。
デュランは悲鳴を飲み込み、手綱を強く引いた。
白い光がデュランの耳元を通り過ぎる。
次の瞬間、悲鳴が上がった。
何かが落ちる重々しい音もだ。
「お……おおおおおっ!」
デュランは絶叫した。
光だ。
白い光が視界を塗り潰している。
光弾が横殴りの雨のようにデュラン達に降り注いだ。
浮遊感がデュランを包んだ。
馬から振り下ろされたのだ。
ああ、畜生、アンジェ、とアンジェの思い出がデュランの脳裏を過ぎる。
何故か、脳裏を過ぎるのはベッドでの出来事ばかりだ。
衝撃がデュランを襲う。
デュランは何度も地面を転がり、ようやく止まった。
デュランは吐き気を堪えながら体を起こし、反射的に振り返った。
仲間達が死んでいた。
人数的に言えば、生きている仲間の方が多い。
だが、デュランは死んだ仲間から目を離せなかった。
顔を潰されて死んだ仲間がいる。
落馬して動かなくなっている仲間も、馬に押し潰された仲間もいる。
デュランは信じられなかった。
デュランは死を覚悟していた。
仲間も死を覚悟して今回の作戦に参加したはずだが、こんなに簡単に死ぬとは思っていなかったはずだ。
英雄的な死が自分の最期を彩ってくれると信じていたはずだ。
デュランの視界が翳る。
呼吸が恐怖で荒くなる。
デュランが振り返ると、神官がデュランを見下ろしていた。
神官は笑っていた。
射精の瞬間でさえ、こうも恍惚とした笑みを浮かべたりしない。
そんな笑みだ。
ああ、畜生、とデュランは絶望的な気分で呻いた。
神官は勃起していた。
デュランの最期を彩るのは英雄としての死ではないようだ。
殺された後に犯されるかも知れない。
そうならない可能性に期待するのは間違いのような気がした。
「ぶ、おぉぉぉぉぉっっ!」
雄叫びが上がる。
ブルーノだった。
ブルーノは神官との距離を詰めると、鞘に収められた剣をフルスイング。
油断していたのか、神官は弾き飛ばされた。
神官の足が街道に二本の筋を刻む。
神官は左腕を上げた。
左腕は前腕……手首と肘の半ばで折れていた。
神官が笑みを深めると、白い光が神官の腕を包んだ。
神威術だ。
骨折が瞬く間に治癒し、神官は具合を確かめるように手を握ったり、開いたりした。
光弾が神官の周囲に浮かび上がる。
数は十余り、それだけでもデュランとブルーノを殺すのに十分な数だ。
「炎弾乱舞!」
炎弾が神官に降り注ぐ。
だが、炎弾は見えない壁に阻まれた。
矢が飛来する。
矢が見えない壁に触れた……デュランがそう感じた瞬間、爆発した。
神官が大きく揺らぐ。
衝撃は見えない壁でも防げないようだ。
デュランは荒れ地に引き摺り込まれた。
ブルーノは自分から反対側の荒れ地に飛び込んでいた。
「すぐに隠れるし! 死にたいの、みたいな!」
「……」
アリデッドはデュランを地面に押しつけた。
どうするんだよ、とデュランは叫び出したい気持ちをグッと堪えた。
どうやら、アリデッドと彼女の部下達は馬を捨て、荒れ地に身を隠しているようだ。
「……デネブに応援を頼んでるし」
デュランの不安を察したのか、アリデッドは通信用のマジック・アイテムをデュランに見せる。
「デネブが来たら、援護を受けて、森まで退避みたいな」
敵が援護を物ともしなかったら? 敵が白兵戦闘も得意としていたら? とそんな疑問が喉元まで迫り上がる。
デュランは草の隙間から神官を睨み付けた。
神官の周囲に浮かんでいた光弾が一斉に上昇し、一気に降り注いだ。
デュランは頭を抱え、必死で悲鳴を噛み殺した。
地面がズン、ズンと揺れる。
デュランの股間は地面が揺れるたびに疼きとも、痺れとも取れる感覚に襲われた。
「走れ、みたいな!」
デュランはアリデッドに引っ張り上げられ、グェェェッ! と潰された蛙のような声を漏らした。
「走れ、走れ! 走らないと死ぬぞみたいな!」
デュランはアリデッドに尻を蹴り上げられ、森に向かって走った。
生き残った仲間もアリデッドの部下に先導され、森を目指す。
神官の姿が一瞬だけ見えた。
神官は集中攻撃を受けていた。
矢は神官が展開する見えない壁に触れた瞬間、爆炎や衝撃波、雷を撒き散らす。
マジック・アイテムによる攻撃だろう。
デュランが森に飛び込むと、アリデッドはデュランの襟首を掴み、自分の方へと引き寄せた。
次の瞬間、砂や石の混じった爆風が押し寄せてきた。
「……っ!」
デュランは悲鳴を上げたつもりだったが、悲鳴はデュランの耳に届かなかった。
「走れ、走るし、走る時……とにかく、走るみたいな!」
アリデッドはデュランの襟首を掴み、走り出した。
デュランは涙と鼻水を垂れ流しながら、走った。
デュランは木の陰に隠れ、頭を抱えた。
股間が冷たい。
小便を漏らしたのだ。
どれほどの闘志を秘めているのか、アリデッドと彼女の部下である弓兵は爆風が収まった隙を突き、矢を放っていた。
「チィィィィッ! これだから、神威術は!」
アリデッドが悔しげに叫ぶ。
攻撃の成果は芳しくないようだ。
「……畜生、あんなの反則だろ」
泣き言がデュランの口から漏れる。
こちらの攻撃は通じないのに、相手の攻撃はこちらに通じるのだ。
弓兵が完璧な防御手段を備えているようなものだ。
どうやって、そんなヤツを倒せと言うのか。
「神威術の弱点は時間と回数だし! 攻撃! 攻撃! 時々、退避みたいな!」
え? とデュランは信じられない思いでアリデッドを見上げた。
デュランの視線に気付いたのか、アリデッドは引き攣った笑みを浮かべる。
アリデッドの手はわずかに震えていた。
アリデッドも怖いのだ。
それでも、アリデッドは指揮官として振る舞っている。
「諦めたら、そこで終わりみたいな。いい人が国で待ってるなら、勝つしかないし」
「……」
ディランはアンジェの髪で編まれたリングを握り締め、大きく頷いた。
いつの間にか、震えは止まっていた。
※
「炎弾乱舞!」
アリデッドが木の陰から飛び出し、神官に向けて魔術を放つ。
無数の炎弾は神官の展開する見えない壁に阻まれたが、炎が地面の葉や草に燃え移る。
神官は服の袖で口元を覆った。
「炎弾乱舞!」
エルフの弓兵が魔術を放つ。
炎弾はアリデッドの時と同じように神官の展開する見えない壁に阻まれたが、足下の炎を広げる。
デュランを含め、魔術を使えない連中も黙って見ている訳ではない。
石や木……ダメージを与えられそうな物は何でも投げた。
あの神官は無敵でも、最強でもねーんだ、とデュランは石を握り締めた。
こちらの攻撃は確かに届かない。
だが、煙は有効だ。
もしかしたら、神官は反射的に口元を覆っただけかも知れないが、攻撃の精度は下がっている。
デュランは石を投げ、すぐに木の陰に身を隠した。
直後、衝撃が木を揺らした。
神官の放った光弾が木に当たったのだ。
デュランは冷静さを取り戻していた。
アリデッドが森に逃げた理由も分かる。
木を遮蔽物として利用するためだ。
街道のように遮蔽物がなく、進行方向が分かっている場所ならば神官は最悪の相手だ。
しかし、遮蔽物のある場所であれば最悪ではない。
もちろん、光弾の直撃を喰らえば重傷は免れないし、爆風も油断できない。
それでも、抵抗できる相手なのだ。
もし、アリデッドが諦めていたら、デュランは抵抗できると気付かずに殺されていただろう。
「走るし!」
デュランはアリデッドの指示に従い、木の陰から飛び出した。
小石や木の破片の混じった爆風がデュランの背を打つ。
デュランは神官を適度に引き離すと、木の陰に飛び込んだ。
アリデッドと彼女の部下は実戦経験が豊富なだけあり、待避の仕方も洗練されていた。
待避をしながら、陣形を組み直した点を賞賛すべきかも知れない。
デュラン達は神官を中心に弧を描くように陣形を組んでいた。
弧は複数の層から成っていて、神官に近い……この内側にいる連中が待避する時は中間、外側にいる連中が援護をする。
これを繰り返して移動して神官と距離を取るのだ。
デュランは石を握り締め、木の陰から飛び出した。
その時だ。
ブルーノの投げた石が神官の頭を直撃した。
神官は後退る。
矢が神官の肩に突き刺さる。
今だ! 今しかない! とデュランは石を投げ捨て、神官に向かって走った。
デュランは走りながら、剣を抜く。
「ば、馬鹿!」
アリデッドの罵倒がデュランの耳に届いた。
冷や汗がデュランの背筋を伝う。
デュラン以外にも木の陰から飛び出した仲間がいる。
ブルーノもその一人だ。
ブルーノはデュランの先を走っている。
神官が光弾を放つ。
光弾の数は少ない。
仲間が光弾の直撃を喰らって倒れた。
デュランは恐怖を払拭しようと雄叫びを上げた。
ブルーノが剣を振り下ろすが、神官が手の平に展開した光の盾で防がれる。
神官はすかさず光弾を放った。
ブルーノが光弾を腹部に受け、崩れ落ちる。
神官がデュランに手の平を向けた。
時間の流れが緩やかなものに変わる。
死だ。
死が近づいている。
白い光が神官の手に集まる。
白く輝く粒子が集まり、光弾を形成する。
光弾が放たれ、土が噴き上がった。
デュランは傷一つ負っていない。
ブルーノが神官の足首を掴み、狙いを外させたのだ。
「おおおおおおおっ!」
デュランは体当たりをするように切っ先を神官の胸に突き立てた。
デュランが勝利を確信した次の瞬間、光が炸裂した。
デュランとブルーノは光に弾き飛ばされ、地面を転がった。
体が痺れて動かない。
神官はデュランを一瞥し、身を翻した。
「追わなくて良いみたいな!」
デュランは遠ざかっていく神官の背を見つめ、大きく息を吐き出した。
※
審問官は街道を西に進む。
足取りはしっかりしているが、それは神威術『活性』の効果だった。
審問官は本来ならば歩くことさえできない。
それほど消耗した体を神威術で無理に動かしているのだ。
神の御心に添えなかった悔しさはある。
劣等種たる亜人にしてやられた怒りもある。
だが、審問官は傷を癒し、次の機会を待つべきだと考えていた。
審問官は倒れた。
矢が太股を貫いていたのだ。
審問官は矢を引き抜き、神威術で傷を癒した。
頭が割れるように痛んだ。
矢が肩を、脇腹を貫く。
審問官は神威術で矢を防ごうとしたが、消耗しすぎていた。
審問官は街道を外れ、荒れ地を逃げる。
矢が容赦なく審問官に突き刺さる。
審問官は自分に次の機会がないことを悟り、狂ったように笑った。
次の機会がないのならばやることは一つだ。
審問官は神に祈りを捧げた。
矢が審問官を貫くが、審問官は痛みを感じなかった。
かつてないほど深く神と交感する。
おおっ! と審問官は涙を流した。
審問官は意識が何処までも広がっていくような感覚に酔いしれ……審問官は服を残し、空気に溶けるように消えた。
※
イグニスは数日に及ぶ強行軍の末、カリナの街に辿り着いた。
街は何も変わっていなかった。
目に見える変化はないが、街の雰囲気は明らかに異なっていた。
まるで軍隊が睨み合っているような危うさを感じる。
イグニスはゆっくりと馬を進ませ、大勢の人が広場に集まっていることに気付いた。
広場に集まっている人々はみすぼらしい格好をしていた。
「イグニス様!」
誰かが叫ぶと、視線がイグニスに集中した。
イグニスが馬から下りると、一人の男がイグニスの足下に跪いた。
「何の集まりだ?」
「はい、神様の、本当の声を聞くために集まっていました」
イグニスは目眩を覚えた。
レグルス王太子の言葉の正しさとクロノの恐ろしさを思い知ったからだ。
「『黄土にして豊穣を司る母神』様は人々が大地の恵みを分かち合うことを望んでいると聞きました」
イグニスを見上げる男の目は涙で潤んでいた。
もしかしたら、飢えが原因で大切な人を失ったのかも知れない。
男は真摯に神を求めている。
王国の『神殿』が奉じる神ではなく、新しい神を求めているのだ。
イグニスは広場に集まる人々を見つめ、唇を噛み締めた。
これほど多くの人々が新しい神を求めている。
新しい神による救済を求めているのだ。
イグニスはマグナス国王に忠誠を捧げ、王国のために戦ってきた。
そうすることで民を守れると信じていたのだ。
だが、実際はどうだろうか。
これほど多くの人々が苦しんでいることにも、幼馴染みのアクアの苦しみに気付くことさえできなかった。
「イグニス将軍、神様の言葉をお聞かせ下さい」
男は祈りを捧げるように手を組んだ。
今の俺に何が言える、とイグニスは黙り込んだ。
ふとババアのことを思い出した。
いつだったか、神の役割は存在の承認だとも言っていた。
では、存在の承認とは何か。
どのように伝えれば良いのか。
アクア、お前なら……お前は何を、いや、そうじゃないな、とイグニスは自嘲した。
きっと、アクアはイグニスに愛して欲しかったのだ。
イグニスの傍にいたかったのだ。
そうか、とイグニスは納得する。
ここにいる人々は居場所が欲しいのだ。
ここにいても良い。
その一言が欲しいのだ。
存在の承認とは愛されることだ。
神の役割とは愛を与えることなのだ。
人間は親子、恋人、友人……人間は関係性の中でしか他人を愛せない。
だが、神は違う。
神は信仰を通して人を愛せるのだ。
人々が求める新しい神は愛を与える存在だ。
そして、愛を与える神に仕える者はその方法を模索しなければならない。
そのために帝国の神官……シオンは炊き出しを行っていたのではないか。
イグニスはその場に跪き、男の手を握り締めた。
「神はお前達を愛している」
「……イグニス様」
男は涙を溢れさせた。
※
イグニスが自分の領地に戻ると、日が暮れていた。
イグニスは神威術『活性』で疲労を誤魔化し、自分の屋敷に急いだ。
屋敷は不気味な静寂に包まれていた。
イグニスの足はアクアの部屋に向いていた。
アクアを守らなければならないという想いがイグニスを突き動かしていた。
イグニスがアクアの部屋に入ると、クロノがギョッと振り向いた。
クロノはイスに座るアクアに話し掛けていたようだ。
やはり、アクアを利用するつもりだったのか、と怒りが込み上げた。
イグニスは気が付くと、クロノの首を掴み、壁に叩き付けていた。
「イグニス小父さん、痛いよ」
「クロノ、お前は! お前というヤツは!」
イグニスが指に力を込めると、クロノは笑った。
まるで亀裂のような、底知れぬ悪意を感じさせる笑みだ。
「あ~、気付いたんだ?」
「ああ、お前が新しい神を作ろうとしていたことにようやく気付けた」
「どういうことなの?」
アクアが顔面蒼白でイスから立ち上がった。
アクアは自分が利用されようとしていたことに気付いたのだろう。
「こいつは、この男は新しい神を作り上げ、内乱を起こそうとしていたんだ。交易も、炊き出しも、あの寸劇も、その布石だ」
「新しい神? はははっ、そんな大それたことしてないよ」
クロノは笑った。
「何だと?」
「僕がやろうとしていたのは思想汚染だよ」
イグニスはようやくクロノの本質に触れられたような気がした。
クロノにとって、神とは思想なのだ。
こいつはここで殺しておくべきだ、とイグニスは神威術で身体能力を引き上げる。
武器が使えなくても、クロノの首を握り潰すことはできる。
「クロノ様から手を離して欲しいであります」
刃がイグニスの首筋に触れた。
イグニスが肩越しに背後を見ると、剣を構えたフェイが立っていた。
「クロノ様を離さないと、死ぬであります」
「やってみろ。首を斬られても、クロノを殺す時間は十分ある」
「止めて! イグニスを殺さないで!」
アクアはフェイに手の平を向けた。
氷の矢がアクアの手から数センチ離れた場所に浮かび上がる。
「むむ、三竦みでありますね」
「そうでもないさ」
「ここで神官殿に乱入されたら、私達の負けだがね」
リオとレオンハルトがフェイに答える。
イグニスは敗北を悟った。
ババアはいない。
シオンがイグニス達の味方をすることも考えられない。
「レオンハルト殿、どうしよう?」
レオンハルトは苦笑いを浮かべた。
「頼りにされるのは光栄だが、私は今の状況が飲み込めていなくてね」
「貴様ら、これだけのことをしておいて」
「私達はマグナス国王の要請を受け、協力しただけだよ」
よくもぬけぬけと! とイグニスが振り返ると、フェイは慌てて刃を退いた。
「交易で国王派の経済的基盤を強化し、我が国の『神殿』に触れさせることで王国の民に自分の国の『神殿』が絶対ではないと知らしめた。流石にナイトレンジャーはやり過ぎたと思うがね」
イグニスは歯噛みした。
国王派が『神殿』に対抗するためには帝国の、クロノの協力が欠かせない。
最悪の事態こそ避けられたが、王国の命運は帝国に握られたのだ。
せめてもの救いは『神殿』の影響を排除する可能性が残されていること。
だが、それには何年、何十年という歳月が必要だ。
イグニスはクロノから手を離した。
「イグニス小父さん、これからも友好的な関係を維持したいな」
「……ああ」
イグニスはクロノが差し出した手を握り返した。
※
数日後、王前会議が再び開かれた。
前回は大神官どもがイグニスを呼び出したが、今回はイグニスが神官どもを呼び出した。
イグニスはマグナス国王よりも遅れてやって来た大神官どもを睨み付けた。
『蒼神殿』の大神官レウムの姿はない。
レウムは痴情の縺れで刺されたらしい。
「イグニス、落ち着きなさいよ」
「そうじゃ、そうじゃ」
「性分だ」
イグニスはアクアとババアに短く答えた。
アルブスはイグニスの対面に、他の大神官は適度に距離を置いて座った。
「さて、イグニス将軍。何故、私達を呼び出したのですか?」
「挨拶だ」
挨拶? とアルブスは柔らかな笑みを浮かべ、問い返してきた。
「俺はここにいる二人と共に新しい『神殿』を立ち上げる」
「『漆黒神殿』の大神官殿?」
アルブスはババアに問い掛けた。
「ワシは新しいことをするつもりはないんじゃが、正直、お前らと一緒くたに扱われるのも迷惑なんでな」
ババアは髪を指に巻き付けながら答えた。
「神は人間を愛している。神の愛とは存在の肯定だ。新しい『神殿』は愛を与えることを目的とする」
「個性的な見解ですが、それは異端です」
「異端?」
イグニスは嘲笑し、心の中で神に祈りを捧げた。
すると、赤く輝く粒子がイグニスから放たれた。
「俺が異端ならば、神威術を使えなくなるはずだ。逆に聞くが、お前達は神威術を使えるのか? もし、俺よりも弱い神威術しか使えないのなら、どうして、神はお前達が異端だと言う俺に多くの力を貸すんだ?」
アルブスの笑みが引き攣る。
もちろん、イグニスは大神官どもが大した神威術を使えないと知っている。
ババアは腹を抱え、ゲラゲラと笑った。
イグニスは舌打ちを堪える。
クロノから教わった屁理屈は予想以上に効果を発揮した。
「それから王権に対する俺の意見を述べさせて貰う。王権は神が与え、王の徳と民の意思によって保たれると考える」
「王権の正当性を保証するのは『神殿』です」
「まあ、ワシらが王国の黎明期にそうしようと決めたんじゃけどな」
アルブスはババアを睨み付けた。
どれだけ、アルブスが『神殿』の役割を訴えても、ババアの前では意味をなさない。
「『漆黒神殿』の大神官殿、何のつもりですか?」
「鎮まれ」
アルブスの質問に答えたのはババアではなく、マグナス国王だ。
マグナス国王は静かに口を開いた。
「イグニス、余はお前が新しい『神殿』を組織することに反対せぬ。だが、お前に協力しようとも思わぬ」
アルブスが笑みを浮かべる。
マグナス国王がイグニスではなく、自分達を選んだと考えたからだ。
「だが、余は迷っている。どちらが神意を反映しているのかと。よって、余はどちらにも便宜を図るべきではないと考える」
「そ、それは!」
アルブスは立ち上がった。
「神はイグニスにも力を与えている。神意を問うのは不遜と言うものだ」
「まあ、どちらかの意見を政治に反映させる訳にもいかんと言うことじゃな」
ババアは頬杖を突き、ニヤリと笑った。
※
「シオンさん、よろしく」
「はい! 『黄土にして豊穣を司る母神』よ!」
クロノが言うと、シオンは跪き、地面に触れた。
黄色の光がシオンの手から一瞬だけ放たれた。
「どう?」
「はい、この下にいます。神よ!」
地面がシオンの祈りに応えるように揺れた。
地面の一部が柔らかくなり、大量の骨が現れる。
イグニスとアクアは少し離れた場所からクロノ達……クロノ、シオン、レオンハルト、リオ、フェイ、普段は商人を守る二十人の傭兵を見つめていた。
三人の亜人はいない。
先に帝国に戻ったようだ。
イグニスがいるのは東西街道の一角だ。
去年、イグニスは疫病を防ぐために敵兵の亡骸を焼き、地面に埋めた。
「イグニス、何を考えているの?」
「……ああ」
イグニスは曖昧に答えた。
一体、クロノは何を考えていたのか。
クロノの策略は全て途中で頓挫した。
イグニスが頓挫させた。
だが、クロノはあまり気にしている様子がなかった。
もしかしたら、クロノは死んだ部下を迎えに来ただけなのかも知れない。
「クロノに何を言われたんだ?」
「貴方が心配しているようなことは言われてないわ。ただ、協力して欲しいって言われただけ。もし、逃げるつもりなら自分の領地に来いとも言ってたわね」
そうか、とイグニスは頷き、クロノを見つめた。
クロノは部下の骨を慈しむように撫でていた。




