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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第5部:神聖アルゴ王国編(仮)

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第7話『流民』前編 修正版


 エルフが森の民だなんて、誰が言い始めたんだ? とディノは心の中で吐き捨て、藪を掻き分けた。

 森に住むエルフは多い。

 だが、それはエルフが森を好んでいるからではなく、森に追いやられたからだ。

 エルフは脆弱な種族だ。

 視力は獣人に勝るが、筋力は人間に劣る。

 まるでウサギのような生き方だ、とディノは心の中で吐き捨てた。

 脅威に立ち向かう術を持たず、逃げることしかできない。

 いや、ウサギならば、逃げても何も感じないだろう。

 だが、エルフは違う。

 エルフは意志を、感情を持っている。

 ディノは左耳を押さえた。

 ディノの左耳は半ばから途切れている。

 耳だけではない。

 腕にも、体にも古傷がある。

 幼い頃、神聖アルゴ王国の兵士にやられたのだ。

 それでも、ディノは生きるために耐えた。

 仮にエルフが神聖アルゴ王国に反旗を翻しても敗北は目に見えている。

 敗者の末路は悲惨だ。

 どれほど、人間が惨たらしく亜人種を殺したのか、ディノは父母から教わった。

 だから、ディノは耐えた。

 集落の仲間も耐えた。

 耐えていれば命だけは助かる。

 それが甘い考えだった、とディノは思い知らされた。

 神聖アルゴ王国が亜人狩りに乗り出したのだ。

 ディノは悩んだ。

 これまでも神聖アルゴ王国による亜人狩りはあった。

 亜人狩りはすぐに終わるかも知れない。

 集落の長として皆を危険に晒す訳にはいかなかった。

 ディノは足を止め、肩越しに背後を見た。

 そこには大勢の仲間がいる。

 皆、長旅で疲弊しきっていた。

 特に女子どもは倒れてしまってもおかしくない。

 その中で一人だけ元気な女がいる。

 黒衣を身に纏った人間の女だ。

 集落に留まれば死ぬ、と女は言った。

 逃げる先があるのならば、そこまで護衛をしてやろうとも。

 ディノは女の言葉に乗った。

 そして、女は約束を守った。

 女は強かった。

 凶悪な蛮刀狼バンデッド・ウルフを容易く追い払った。

 また、昏き森の地理にも詳しかった。

 女の指示に従って、昏き森を進んだ。

 不意に腕が軽くなった。

 森を抜けたのだ。

 ディノ達は最後の力を振り絞り、街道に辿り着き、その場に座り込んだ。

 もう少しだと安堵したのも束の間、ディノは土煙……馬に乗った兵士が近づいてきていることに気付いた。


「見慣れないヤツらだし!」

「お仲間だけど、それはそれで容赦しないみたいな!」


 馬に乗った兵士達を率いているのは双子のエルフだった。

 ディノは胸を撫で下ろした。

 双子のエルフは気付いていないようだが、ディノは二人の顔を覚えていた。

 ディノは懐から指輪を取り出し、双子のエルフに突き出した。


「……エラキス侯爵に会わせて欲しい」

「クロノ様に伝令!」

「約束を果たす時が来た、みたいな!」


 双子のエルフが命令すると、兵士の一人が馬首を巡らせた。



 湯浴みを終えたクロノが食堂に行くと、険悪な空気が食堂に漂っていた。

 その発生源はティリアだ。

 ティリアは歯ぎしりでも始めそうな表情をしていた。

 ティリアの視線の先にいるのはリオだ。

 リオは上着の第一、第二ボタンを外し、襟で顔を仰いでいる。

 大して熱くもないのに、だ。


「ふぅ、熱いね?」

「……ぐぬ」


 ティリアはリオに質問に答える代わりに唸った。

 リオはティリアの反応を愉しんでいるかのように笑った。

 意地の悪い笑みだ。


「やれやれ、春なのに熱くて大変さ。昨夜も寝室に巨大な蚊が現れてね。あちこち吸われてしまったよ」


 リオは襟で顔を仰ぐのを止め、ティリアに何かを見せつけるように襟を捲った。

 クロノはリオがティリアに何を見せつけているのか知っていた。

 当然だ。

 昨夜、クロノがしたことなのだから。


「さ、さて、朝食、朝食」


 ティリアはバンッとテーブルを叩き、立ち上がった。


「ぐぬぬぬ! そんなわざとらしいことをしなくても、昨夜、お前が夜伽を務めたのは百も承知だ! ケイロン伯爵! 私への当て付けのつもりか!」

「おや? 確かにボクはクロノとマイルドに愛し合ったけれど、それの何処が当て付けなんだい?」


 はい、それは僕がティリアとマイルドに愛し合ってないからです、とクロノは肩を窄めた。

 ティリアとは初夜からマイルドではなかった。

 あの夜、クロノは自分が捕食される側の存在であると思い知らされた。


「それとも、アレかい? ティリア皇女はクロノとマイルドに愛し合うボクが羨ましいのかい?」


 リオがティリアの胸を見つめ、嘲るような笑みを浮かべると、ティリアは背を丸め、胸を庇うように両腕を交差させた。


「ふふん、図星かい?」

「やはり、ティリア皇女の胸には何かが欠けている」


 背景の一部と化していたエリルがボソリと呟いた。


「私の胸に何が欠けていると言うんだ?」

「ったく、朝っぱらから何を騒いでるんだい? 喧嘩も良いけれど、食堂の備品を壊したりしないでおくれよ」


 ティリアがエリルに質問を投げかけたその時、女将が食堂に入って来た。

 女将はクロノの前にカップを置く。

 クロノはカップを手に取り、動きを止めた。

 カップが冷たかったのだ。


「……女将?」

「ああ、朝食はもう少し待っておくれ」

「いや、そうじゃなく」

「香茶のことかい。アリッサからクロノ様が冷たい香茶を気に入ってたって聞いたもんでね。あたしも試しに煎れてみたって訳さ」


 なるほど、とクロノは冷たい香茶を口に運んだ。

 香茶の冷たさがハーブの爽やかな香りを引き立てるようだ。


「どうだい?」

「うん、美味しいよ」

「そいつは良かった」


 女将は腕を組み、満足そうに笑った。

 エリルが女将を横目で見つめると、ティリアも女将の方を見た。


「やはり、ティリア皇女の胸には母性が欠けている」

「今の遣り取りの何処に母性があるんだ?」


 ティリアが不思議そうに首を傾げる。


「一見、女将はがさつに見えるが、エラキス侯爵を喜ばせようとしている。メイド長との会話を覚えていることがその証拠」

「それの何処が母性なんだ?」


 ティリアは苛立ったように声を荒げた。


「母性とは精神性。ティリア皇女は包容力と気遣いを欠いている。だから、付加価値がティリア皇女の胸に備わらない。ただ、大きいだけ」

「ぬぁっ!」


 ティリアはエリルの辛辣な物言いに珍妙な声を上げた。

 ティリアは自分の胸と女将の胸を交互に見比べ、否定する材料を探すかのように視線を彷徨わせる。


「プッ、ハハハッ!」


 リオは堪えきれなくなったらしく腹を抱えて笑った。


「クロノ、援護しろ!」

「ここで僕に振るの? まあ、良いけど」


 クロノはエリルを見つめた。


「エリルはティリアの胸に何かが欠けていると言うけど、そんなことないよ。ティリアの胸には……」


 ふとクロノは自分の手を見下ろした。

 軍学校時代、ティリアはクロノの手が届かない存在だった。

 過去形だ。

 今、クロノの手はティリアに届く。

 クロノはティリアの胸を好き勝手できるようになったのだ。

 だが、自分は本当に満足しているのだろうか。

 軍学校時代、遠くからティリアを眺めていた時の方が、あのオッパイは自分の手に余ると話していた頃の方が遙かに満たされていたのではないだろうか。


「夢と、浪漫が詰まってました」

「どうして、過去形なんだ! 昨日も『僕の太陽は地に墜ちた』とか言って、最近のお前は酷過ぎるぞ!」


 クロノが溜息交じりに言うと、ティリアは抗議するようにテーブルを叩いた。


「何と言うか、見えなかった物が見えてきた感じ。その代わりに夢と浪漫は失いましたが……」

「ど、ど、どどうして、夢と浪漫を失った!」

「あ~、ちょっと、お姫様に対するイメージが壊れたって言うか」


 クロノはティリアから顔を背け、頭を掻いた。


「お姫様が騎乗突撃なんて有り得ない」

「うぐぐ、あの時、もう少し雰囲気を大事にすれば」


 おろろ~ん、とティリアは打ち拉がれたようにテーブルに突っ伏した。

 初夜で騎乗突撃を敢行したこともそうだが、リオの『神器』による攻撃を真っ正面から受けて、怪我らしい怪我をしない頑丈さもお姫様っぽくない。

 クロノの勝手な意見だが、お姫様は華麗に戦うべきだ。

 『鉄壁』や『不落城塞』みたいな二つ名は相応しくない。


「でも、お陰で得た物も」

「本当か!」


 ティリアは顔を上げ、期待に瞳を輝かせた。


「あったり、なかったり」

「どっちなんだ!」

「まあ、スリルはあるよね」

「スリルっ? お前は何にスリルを感じてたんだ?」


 ティリアは驚いたように目を見開いた。


「ティリアが次の瞬間にも本性を露わにするんじゃないか。そんなスリルを感じておりました」

「あれだけ私を嬲っておきながら……うぐぐ、いっそ、殺せ!」


 夜伽の記憶がフラッシュバックでもしたのか、ティリアはテーブルに突っ伏して、身悶えした。


「……こんな風にティリアと漫才ができる。それはとても幸せなことなんだ、と最近は自分に言い聞かせてます」

「援護だ、援護! 私が求めていたのは援護だ! 誰が追い打ちを掛けろと言った!」


 クロノが締めようとすると、ティリアは見事に再起動を果たした。


「いや、だって、援護って言ってもさ」

「分かった。援護は要らない。ケイロン伯爵!」


 ティリアがリオを睨み付けたその時、足音が廊下から聞こえてきた。

 しばらくすると、エルフの男が食堂に入って来た。

 エルフの男は金属で補強した皮鎧を身に纏っていた。

 彼の名はザグ。

 古参の部下の一人だ。


「お食事中、申し訳ありません!」

「気にしなくて良いよ。トラブル?」

「はっ、東の街道を巡回中に五十人ほどのエルフの集団と遭遇しました! アリデッド隊長とデネブ副隊長は『約束を果たす時が来た』と」

「その集団は武装してる? 集団を統率してるリーダーの特徴は?」

「見た限り、武装は確認できず。片耳のエルフと黒衣の女が集団を統率しているように見えました」


 クロノは片耳のエルフに思い当たる節があった。

 片耳のエルフとは去年の親征で出会ったエルフのことだろう。


「分かった」


 クロノは太股を叩き、立ち上がった。

「……女将」

「仕事、なんだろ? あたしゃ、そのくらいで目くじらを立てやしないよ」

「悪いね、女将!」


 クロノはザグを伴い、食堂を飛び出した。



 クロノは颯爽と侯爵邸を飛び出したが、そこからの流れは割とグダグダだった。

 弓騎兵を増員したため、馬が侯爵邸の厩舎に一頭もおらず、クロノはニコラとエレインに頭を下げて、荷馬車を借りるしかなかった。

 ニコラとエレインから借りた十台の荷馬車は街道を東に進んでいる。

 クロノは馬車の荷台で丸くなり、パンを頬張った。

 パンは女将が作ったものだ。

 クロノがニコラとエレインに話を通している間に女将は簡単な弁当を作り、持ってきてくれたのだ。


「このパン、ちょっと塩っぱい」


 クロノは女将の気遣いに泣いてしまいそうだった。


「……クロノ様?」

「はいはい、馬に乗れない訳じゃありませんよ。ただ、ちょっと、頑張ったんだけど、騎乗スキルが上昇しないだけです」


 クロノが唇を尖らせて言うと、ザグは困ったように眉根を寄せた。

 ピンと張っていた耳が力なく垂れている。

 どうやら、クロノは見当違いのことを言ってしまったらしい。


「……先程、クロノ様が説明して下さった通りであれば、我々が遭遇したエルフの集団は流民です。領主であるクロノ様がわざわざ出迎える必要はないと思うのですが?」


 ザグはクロノの言葉を聞かなかったことにしたようだ。


「まあ、誘ったのは僕だからね」


 僕が出迎えに行けば恩に着てくれるかも知れないし、とクロノは心の中で付け加え、パンを飲み込んだ。


「きっと、クロノ様の御心は流民達にも伝わることでしょう」

「……」


 ザグは心の底からそう思っているかのように真剣な表情だった。

 クロノは今更、下心があると言えずに黙り込んだ。


「やはり、クロノ様は素晴らしい。例え、乗馬が苦手であっても、私はクロノ様を尊敬しております」

「そ、その、あまり、高い評価をされると、ちょっと」


 いつの間に僕の株は急上昇していたのか、とクロノは身に覚えのない高評価にドン引きした。


「いえ、クロノ様は素晴らしい方です。クロノ様は戦場で常に先頭に立ち、あの撤退戦でも我々を鼓舞して下さりました。高価な武防具だけではなく、教養を身に付ける機会までも与えて下さった。クロノ様は尊敬に値する方です」


 ザグは恋する乙女のように瞳を輝かせていた。

 接点が少ない部下からだと、僕はこんな風に思われているのか~、とクロノはパンを小さく千切って、口に運んだ。


「ザグ、命を大事に」

「分かっております。この命はクロノ様のために使わせて頂きます」


 クロノは自分の気持ちがザグに伝わっていないような気がしたが、黙っておくことにした。



 昼過ぎ、クロノは農村に到着した。

 そこは約二年前、ケインが根城にしていた砦の麓にある村だ。

 ちなみにクロノが訪れるのは二度目である。

 あの時は鄙びた村という印象を受けたが、今は二年前に比べて賑やかだ。

 子どもは村を走り回っているし、女は井戸端会議をしている。生活に余裕がある証拠だろう。

 もう少し時間があれば領内の視察をするんだけど、とクロノは荷馬車から降りた。


「うはっ! クロノ様ってば、お早いお着きだし!」

「そんなにあたしらに会いたかった、みたいな!」


 アリデッドとデネブはいつも通りのテンションでクロノに走り寄って来た。


「……アリデッド、デネブ」

「うはっ! 褒めてくれるの、みたいな?」

「耳を撫でてくれると嬉しいかも!」


 クロノは擦り寄るアリデッドにデコピン、返す刀でデネブにデコピン。


「うごっ! 何気に痛いし!」

「あ、あたしらが何をした、みたいな!」


 そんなに痛かったかな? とクロノは自分の指を見つめた。


「アリデッド、デネブ、報告は正しくするように」

「そ、そこは、長い付き合いだし、空気を読んで欲しかったみたいな」

「次から気をつけます、みたいな」


 デネブは素直に謝るべきと考えたようだ。


「またしても、裏切りを!」

「……裏切ってないし」


 デネブは拗ねたように唇を尖らせ、アリデッドから顔を背けた。


「うへへ、あたしも反省していたり」

「じゃあ、報告して」


 クロノが促すと、アリデッドとデネブは背筋を伸ばした。


「えっと、街道の警備中、エルフの集団と遭遇しました、みたいな!」

「人数は四十七人、武装はナイフと狩猟用の弓矢程度、集団を統率しているのは……親征の途中で出会った片耳のエルフみたいな!」


 うんうん、とクロノはアリデッドとデネブの報告に満足して頷いた。


「あれ? ザグから黒衣の女がいたって聞いたんだけど?」

「ワシのことじゃな!」


 クロノは声のした方を見つめた。

 すると、女がクロノ達の方に近づいて来た。

 確かに黒衣だけど、こんな服で神聖アルゴ王国から歩いてきたのかな? とクロノは内心で首を捻った。

 女が着ているのは胸の大きく開いたドレスだ。

 形状はチャイナドレスに近い。

 スタイルは露出度の高い服を着ているだけあり、かなり良い。

 不思議な女だった。

 三十代のようにも見えるし、十代のようにも見える。

 黒髪は腰まであり、緩やかなウェーブが掛かっている。

 女の口元も、目元も微笑んでいるかのように緩んでいるが、瞳は奈落のように暗い。


「お主がエラキス侯爵じゃな? ディノがぶっ倒れているものでな。ワシが代わりに挨拶に来たと言う訳じゃ」


 女はゆっくりとクロノに近づいてきた。

 冷たい汗がクロノの背筋を伝った。

 嫌な予感がした。

 理由はよく分からない。

 いや、かつて、同じような脅威に晒されたことがある。

 そのはずだ。

 いつの間にか、女はクロノの目の前に立っていた。

 逃げろ、と何かが囁いた。

 クロノは囁きに従って、全力で跳び退った。

 『刻印』を起動した状態での跳躍だ。

 クロノは着地と同時に遭遇した脅威の正体に気付いた。


「「クロノ様!」」


 アリデッドとデネブも女から距離を取り、短剣を構える。


「くふ、流石じゃな。ワシの正体に気付いたか」

「アリデッド、デネブ、気を付けて! その女は……その女から」


 女は愉快そうに笑った。


「その女から、マイラと同じ臭いがする」

「全く気付いてないのは如何なもんかのう」


 女は寂しそうに言った。


「アリデッド、デネブ、逃げるな! ザグ、ザァーグ! 助けて~!」

「「無理無理無理! あたしら無理だし!」」

「命、大事に!」

「三人ともよく分かっていらっしゃる!」


 アリデッドとデネブは民家の影に逃げ込み、ザグも民家の影に避難している。

 クロノは覚悟を決め、女に近づいた。


「ようこそ、エラキス侯爵領へ。私は領主のクロノと申します」

「無茶苦茶、腰が引け取るんじゃが?」

「いえいえ、滅相もございません」


 うへへ、とクロノは揉み手で対応する。

 本能が囁いていた。

 怒らせるな。

 伏して、やり過ごせ、と。


「まあ、良いんじゃが。うむ、ワシは『漆黒にして混沌を司る女神』に仕える大神官『……』じゃ」

「え?」


 クロノは女に問い返した。

 文脈から考えるに女は名乗ったのだろう。

 そのはずだが、クロノは女の名前を理解できなかった。


「じゃから、『……』じゃ、『……』じゃ、もう一回だけ言うぞ? 『……』じゃ」

「さっぱり、分かりません」


 クロノは首を傾げた。

 女の名前は音として聞こえているのだが、クロノは女の名前を理解できない。

 まるで脳が理解を拒んでいるかのようだ。

 不思議なこともあるんだな、とクロノは思うことにした。

 ここはミノタウルスやリザードマン、獣人、エルフ、ドワーフまでいる世界だ。

 気にしても仕方がない。


「まあ、良い。ワシのことはババアと呼べ。親しみを込めて呼ぶんじゃぞ」

「ババアと呼んでる時点で親しみからほど遠いような?」

「ならば、好きに呼べ」


 クロノは女の胸元を見つめ、見事な脚線美を見つめた。


「胸や足関連の名前は禁止じゃぞ」

「心を、読んだ?」

「あれだけ胸と足を見てりゃ、バカでも気付くわい!」


 女は柳眉を逆立てた。


「じゃあ、神官さんと言うことで」

「捻りがないのう。しかも、神官になっとるし」

「変に捻っても仕方がないし、神官さんの方が大神官さんよりも呼び易いから」


 神官さんの方がババアより可愛げがある。


「で、エラキス侯爵とやら、どうするつもりじゃ?」

「ああ、エルフ達をどうするかってことね。取り敢えず、救貧院で療養して貰って、代表の……ディノだっけ? と相談する感じかな?」


 そろそろ、紙工房の人数を増やしても良い頃だし、昏き森の開拓に従事してくれるのなら、それはそれで歓迎すべきことだ、とクロノは思う。


「流民は過酷な扱いを受けるもんじゃがな、普通は」

「僕と神官さんの普通は違うみたいだね。まあ、僕も領地経営が上手くいってるから、流民を保護する余裕があるわけだけど」


 ああ、受け入れる余裕がないから、難民が問題になるのか、とクロノは自分の言葉に納得した。

 国民に最低限の保障さえできない国が難民を支援しようとしたら、国民への支援が後回しになる。

 そんなことをすれば国民の不満が爆発するのは目に見えている。

 だから、難民問題は解決しないのだ。


「ワシも厄介になって良いかの?」

「……」

「ワシも厄介になって良いかの?」


 クロノが黙っていると、神官さんは同じ質問を繰り返した。

 どうやら、神官さんはクロノの厄介になるつもりらしい。

 クロノは救いを求め、視線を巡らせたが、アリデッドも、デネブも、ザグもアテにできない。


「……一つ約束して欲しいことが」

「うむ、寝床を提供してくれるのならば何でも約束するぞ。もちろん、ワシにできる範囲でじゃが」


 神官さんは鷹揚に頷いた。

 神官らしくない態度だ。

 もう少し神官とは奥ゆかしいものではないか、とクロノは思ったが、口にはしなかった。


「独り寝の夜が寂しくてもベッドに入って来ないで下さい」

「ワシは何だと思われとるのかの? まあ、良かろう。独り寝の夜が寂しくてもベッドに忍び込まんと約束しよう」


 クロノは胸を撫で下ろした。



 クロノは村長に謝礼として数枚の銀貨を手渡し、畑の様子について尋ねた。

 村長の話によればクローバーを植えた土地は麦の育ちが良いらしい。

 クローバーを植えた休耕地に放牧した家畜も育ちが良く、乳の出も良いそうだ。

 家畜の乳の出が良くなったため、村では去年よりも多くチーズを作ることができたとのこと。

 村長は公共事業のお陰で農閑期にも現金収入を得られるようになり、生活に余裕が出てきたと笑っていた。

 クロノは農業改革が順調に進んでいることに安堵し、エルフ達を荷馬車に乗せ、村を後にした。

 クロノ達は順調に街道を進んでいたが、保護したエルフ達は疲弊しきっていて、食事をする気力もないようだ。


「これは逆なんじゃないかと思ったり」


 そう言って、アリデッドは不満そうに唇を尖らせた。

 アリデッドは手綱を握り、ポクポクと馬を進ませてる。

 ちなみにクロノがいるのはアリデッドの後ろだ。


「実はクロノ様って馬に乗れなかったり?」

「二人乗りは自信がありません」


 クロノはアリデッドの首筋を見つめた。


「ホントに? あたしら、クロノ様が馬に乗ってる所を見たことないし」

「言われてみれば、その通りかも。むしろ、クロノ様が馬みたいな!」


 うははっ! とアリデッドとデネブは笑った。



 クロノ達がハシェルに到着したのは夕方だった。

 クロノは救貧院の前で馬から降り、救貧院の扉を開けた。

 救貧院の内部は静かだった。

 これは宿泊施設として救貧院を利用する領民が減っているためだ。

 救貧院を再開した頃にいた人々は定職に就き、救貧院を出て行った。

 今、救貧院に残っているのは病気やケガで働けなくなった者と三人の孤児だけだ。


「あ、クロノ様!」


 真っ先にクロノに気付いたのはフェイの弟子……トニーだった。

 マシューとソフィーの姿は見えない。


「シオンさんは?」

「すぐ呼んで来る」


 そう言って、トニーは走り去った。

 しばらくすると、シオンとトニーが二階から降りてきた。


「クロノ様、何か御用ですか?」

「うん、神聖アルゴ王国から避難してきたエルフ達の世話を頼みたくて……お願いできるかな?」

「もちろんです。救貧院はそのための場所ですから」


 卑怯な言い回しだったかな? とクロノは少しだけ後悔した。

 救貧院の運営費はクロノの寄付によって賄われているし、シオンが神官長に出世したのもクロノの寄付金による所が大きい。

 シオンはクロノの提案を断りにくい立場にいるのだ。

 だが、シオンは笑顔でクロノの申し出を受けてくれた。


「ところで、救貧院に入居される方は何人いらっしゃるんでしょうか?」

「……四十七、いや、一人は侯爵邸で面倒を見るから、四十六人だね。全員、放浪生活で衰弱してるみたい」

「なら、お粥を出した方が良いですね。すみません、トニーさん」

「分かってる」


 シオンが名前を呼ぶと、トニーは奥の部屋に走って行った。

 多分、トニーは厨房に粥の準備をするように伝えに行ったのだろう。


「トニーは働き者だね」

「ええ、お陰で助かってます。クロノ様、皆さんに挨拶をしたいのですが?」


 クロノはシオンを伴い、救貧院の外に出た。

 エルフ達はシオンを見るなり、怯えにも似た表情を浮かべた。


「心配するでない。神聖アルゴ王国とケフェウス帝国の『神殿』は別組織じゃ。お主らに危害を加えたりせん」


 エルフ達は神官さんの話を聞いて、安心したようだった。

 神聖アルゴ王国は亜人根絶を国是に掲げる宗教国家だ。

 エルフ達が黄土色のローブを着たシオンを警戒するのも無理からぬ話だ。


「貴方は?」

「うむ、ワシは『漆黒にして混沌を司る女神』に仕える大神官じゃ。ああ、ワシはエラキス侯爵に世話になるので、構わなくて良いぞ」


 シオンは微妙な表情だった。

 神官さんは大神官と名乗るよりも娼婦と名乗った方が納得できる服装をしているのだ。


「アリデッド、デネブ、手伝って」

「あたしら、今日は大活躍!」

「夜のお勤めまで体力が保たないみたいな!」


 アリデッドとデネブが馬から下りると、他の騎兵もアリデッドとデネブに従った。



 クロノが神官さんを連れて侯爵邸に戻ると、ティリア、リオ、フェイの三人が侯爵邸の庭で剣術の訓練に励んでいた。

 ティリアとフェイが木剣を打ち合わせ、リオが欠伸を噛み殺しつつ、見学している。

 どれくらい木剣を打ち合わせていたのか、ティリアも、フェイも汗を滴らせている。

 クロノが見る限り、フェイはティリアよりも余裕があるようだ。

 木剣を打ち合わせるたびにティリアの表情から余裕が失われていく。

 このままではティリアの敗北は必至だ。

 何とかして流れを変える必要がある。

 丁寧に立て直すのか、奇策に走るか、まあ、もしくは……、

 一際、大きな音が響く。

 ティリアが渾身の力で木剣を振り下ろしたのだ。

 フェイは木剣を落としこそしなかったが、驚いたように目を見開いている。

 ティリアはフェイから距離を取り、全身のバネを活かした突きを放つ。

 だが、ティリアの木剣は空を切った。

 フェイが体を捻り、ティリアの攻撃を躱したのだ。

 ティリアは隙だらけだ。

 だが、フェイは隙を突こうとしなかった。


「ぐぬっ!」


 ティリアは力任せに方向を変え、突きを放った。

 一回目の突きに比べ、無様としか言いようがない。

 もし、フェイがティリアの隙を突こうとしていたら、その一撃は流れを変えていただろう。

 フェイはティリアの突きをあっさりと躱し、軽く木剣を振り下ろした。

 ポコン、と軽い音が聞こえてきそうだった。

 ティリアは木剣を頭に受け、その場に崩れ落ちた。


「……ティリア皇女は力技に走りがちでありますね」

「こんな所だろうね」


 フェイは困ったように眉根を寄せ、リオは欠伸をした。


「ティリア皇女の脳は筋肉でできているんじゃないかな?」

「ぐぬぬ」


 ティリアはリオに酷評され、悔しそうに呻いた。


「ふむふむ、『白』に、『翠』に……おっ、同輩もいるではないか」


 神官さんが楽しげに言うと、ティリア、リオ、フェイの三人は一斉に神官さんを見つめた。


「く、クロノ!」


 ティリアは体を起こすと、クロノに詰め寄った。


「ぐぬぬ! また、愛人を増やすつもりか!」

「ティリア、この人は『漆黒にして混沌を司る女神』に仕える大神官なんだ」


 ティリアは神官さんに視線を向け、苦虫を噛み潰したような顔をした。


「嘘を吐くな! こんな神官が何処にいる!」

「う~む、こんなんでもワシは神官じゃぞ? 『漆黒にして混沌を司る女神』に仕える『……』じゃ」


 神官さんが名乗ると、ティリアとリオはギョッと目を剥いた。

 そして、次の瞬間、ティリアとリオはその場に跪いた。


「うむうむ、教養のある人間は違うの」

「どうして、二人とも跪いてるの?」

「クロノ、お前も跪け! この人は、いや、この方は神だ」


 神? ふ~ん、とクロノは神官さんを観察した。

 神などと言われても、クロノはよく分からない。

 神様なんだから、偉いんだろうとか、凄いんだろうくらいは分かるのだが。


「どうして、ティリアは神官さんが神だって分かるの?」

「名前を聞き取れなかっただろう!」

「クロノ!」


 リオは低い姿勢でクロノに走り寄り、神官さんに背を向けてしゃがみ込んだ。

 クロノとティリアもリオに倣う。


「クロノ、神威術の副作用は知っているだろ?」

「使いすぎると、廃人になるんだよね」

「その次の段階があるのさ」


 リオは意地の悪い笑みを浮かべた。


「神と深く交信しすぎると、神に喰われるのさ。普通は服だけを残して消滅するのだけれど、喰われかけた状態から戻ってくることがある。まあ、確率はそれこそ六柱神の思し召し次第だね」

「ただし、人間としての機能を失う。第十近衛騎士団のナム・コルヌ女男爵がそうだと言われているな。彼女は『老化』という機能を剥ぎ取られたんだ」

「神官さんは、名前を剥ぎ取られた?」

「違う。あの方は神と同化を果たした上で生還したんだ。だから、神であるあの方の名前を私達は理解できない」


 ティリアは聞き分けのない子どもに言い聞かせるような低い声で言った。


「戻って来たんだから、神様じゃないんじゃない?」

「そこは納得しろ!」

「クロノは、まあ、独特だね」


 クロノが揚げ足を取ると、ティリアは苛立たしげに髪を掻き毟り、リオは呆れたような表情を浮かべた。


「人間として思考を止めちゃ、ダメだと思うよ」

「なら、お前は何を考えてるんだ?」

「六柱神の正体について……まあ、仮説に過ぎないし、観測する方法もないから、実証できないけど」


 ティリアとリオは息を呑んだ。

 神の正体を探るという発想はティリアとリオにはなかったのだろう。


「ほぅ、面白そうじゃな」

「……仲間はずれは寂しいであります」


 神官さんとフェイがクロノの正面にしゃがみ込んだ。


「して、神とはなんじゃ?」

「六柱神は情報の集合体だと考えてます。人間の理解を超えるような規模の魔術式と考えれば分かり易いかも」


 魔術は神威術の模倣だ。

 先人は神威術がある種の式によって引き起こされていると突き止め、術式によって魔力を物理現象に変換する技術……魔術を生み出した。


「ふむ、神威術を使いすぎると、神に喰われる。それについて、お主はどのように考えてるんじゃ?」

「火や風が術式で表現できるんだから、人間も情報なんじゃないかなって。だから、老化の情報を喰われても不思議じゃないと思うんだけど?」


 六柱神は深く交感した相手を喰うらしいから、本能みたいな物を持っているのかも知れない。

 もしくは相手の情報を取り込もうとする性質を備えているか、だ。


「ワシはどうじゃ?」

「神官さんは色んな情報を抜き取られて、その分を六柱神から奪ったか、六柱神から複製して補ったりしたんじゃないかな~」


 使い手が神威術を使うたびに六柱神から情報を奪っていたら、神威術はとっくの昔に使えなくなっているはずだ。


「カカカッ! 面白いのう! その歳で、しかも、神威術も使えんのにワシと同じ結論に達するとは!」


 神官さんは笑うのを止め、クロノを見つめた。


「……ワシは人間か?」

「人間でしょ? 人間じゃないにしても、精々、亜神って感じじゃない?」


 亜神とは神と人間のハーフのことだ。


「断言してくれたら、惚れてたかも知れんのに、残念なヤツじゃな」


 良かった、とクロノは胸を撫で下ろした。

 クロノは六十歳くらいのマイラにすら手を焼いているのだ。

 絶対、神官さんはクロノの手に余る。

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