第6話『クロノの優雅な一日』修正版
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ちょっと、油断したな、とクロノは首を左右に捻りながら、食堂に入った。
エレナの攻撃は予想以上のダメージをクロノに与えた。
予想以上と言っても、ろくすっぽ鍛えていないエレナの攻撃だ。
首に多少の違和感があるくらいのダメージである。
クロノは自分の席に着いた。
リオとティリア、自称ティリアの監視役であるエリルの席は空席だ。
クロノがボーッとしていると、女将が近づいてきた。
女将はいつもと同じ胸の大きく開いたメイド服姿だ。
胸の谷間が眩しい、とクロノは目を細めた。
「さっき、廊下でエレナ嬢ちゃんと擦れ違ったけど……アンタ、何をやったんだい?」
「ああ、もう湯浴みが終わったんだ」
だったら、僕も湯浴みをすれば良かったかな? とクロノが考えていると、女将は呆れたような表情を浮かべ、香茶をテーブルに置いた。
クロノは爽やかな香りを楽しみ、香茶を一口飲んだ。
はぁ~、と長い溜息を吐き、カップをテーブルに置く。
香茶……要するにハーブティーだ。
こっちの世界、少なくともケフェウス帝国では茶と言えばハーブティーだ。
クロノはこの世界に来てから、紅茶を見たことがない。
紅茶だけではなく、ジャガイモ、とうもろこし、カボチャも見ていない。
ピクス商会やエレインの情報網を使って探してみたが、成果は出ていない。
ジャガイモなどの作物は別の大陸か、流通しないくらい遠くの地域が原産地なのではないか、とクロノは考えるようになった。
ケフェウス帝国には遠洋航海の技術がない。
計画が一歩目から頓挫している。
遠洋航海できるような船を作り、航海技術を発達させ……とクロノの想像力を越えている。
コロンブスは凄かったんだな~、とクロノは溜息を吐いた。
「あたしの質問に答えな」
ポコン、と女将はクロノの頭を叩いた。
「あ、あ~、エレナね。いや~、最近、マンネリ気味で」
「マンネリだって? ったく、出会った頃は純真な坊ちゃんだったのに、どうして、こんなになっちまったのかね」
「女将に色々と教わったから」
「あん? 人聞きの悪いことを言うんじゃないよ」
女将は腕を組み、クロノを睨み付けた。
「落ち込んでいる時、女将に慰めて貰ったような記憶が?」
「そ、そ、そんなこともあったかね」
クロノが指摘すると、女将は気まずそうにクロノから視線を逸らした。
「出会ったばかりの頃、『パトロンになっておくれよ』と座られた記憶も」
「そ、それは……借金の形に店を取られそうになって、テンパってたんだよ!」
「あの頃の女将はギラギラしてたのに、どうして、こんな常識人に」
「と、ところで、湯浴みはしたのかい?」
「まだだよ。エレナがもう少し入ってると思ったから」
露骨だ、とクロノは思ったが、女将の話に乗ることにした。
「そんなに臭う?」
「そりゃあ、ね。生乾きの……良いから、ちゃっちゃと体を洗ってきな!」
女将は恥ずかしそうに顔を赤らめて言った。
「むふ、欲しくなっちゃったり?」
「は? 馬鹿なことを言ってるんじゃないよ。マナーの問題だよ。分かったら、湯浴みして来な!」
クロノは女将に追い立てられ、食堂を後にした。
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クロノは誰とも擦れ違うことなく、三階の脱衣所に辿り着いた。
今日の、いや、昨晩の遅番担当者は勤勉らしく、エレナの衣類は片付けられていた。
クロノは服を脱ぎ捨て、浴室の扉を開け……脱いだ衣類を洗濯籠に入れた。
「……あ~、極楽」
体を洗い終えたクロノは浴槽に肩まで浸かり、天井を見上げた。
浴槽から腕を出し、力瘤を作ってみる。
かなり固く、贅肉は殆ど付いていない。
腹も同じだ。
こちらの世界に来た時はぽっちゃりした体型だったが、マイラの訓練によって贅肉を削ぎ落とされた。
「どうして、剣術の訓練を続けているのに太くならないんだろう? もう少し筋肉が付けば別の戦い方もできるのに」
クロノは体格にも、才能にも恵まれていない。
鍛錬に費やした時間も同世代の貴族より少ない。
ないない尽くしだ。
必然的にそれらを補うために卑怯と揶揄される戦い方をせざるを得ない。
「あ~、刻印術も命を賭けた割に使えないし」
クロノは天井を見上げて呻いた。
地道に鍛錬を続けた結果、クロノは刻印術を起動した状態で戦えるようになった。
ただし、刻印術を起動した状態で戦えるのは長くても三分程度だ。
「けど、何もないよりは」
『刻印術』のお陰で戦い方の幅が広がった。
『天枢神楽』しか使えなかった頃に比べれば格段の進歩だ。
お陰で部下に負担を掛けずに済む。
本音を言えば、部下を守って戦えるようになりたいのだが。
※
クロノが食堂に戻ると、ヴェルナが食器を片付けていた。
どうやら、ティリア達はクロノを待ってくれなかったようだ。
「おや、随分と遅かったんだね。三人とも朝食を食べ終えちまったよ」
「それは分かるんだけど、分かるんだけどさ」
クロノは何となく釈然としない想いを抱きながら、自分の席に着いた。
女将は苦笑いを浮かべ、料理と手紙をテーブルに並べる。
「手紙? 誰から?」
「エリル嬢ちゃんから預かったんだよ。読むのは食事の後にしな」
クロノはエリルの手紙を離れた場所に置き、女将の料理を食べた。
スープが冷めていたということはなく、しっかり熱い。
「あ~、女将の優しさが身に染みるなぁ」
「今更、何を言ってるんだい。あたしゃ、いつも温かい料理を出してるだろ」
女将は隣の席に座り、手を組んだ。
クロノが女将の顔を盗み見ると、女将は優しげな微笑みを浮かべていた。
「あたしの顔に何か付いてるかい?」
「何だか、お母さんって感じ」
「お母さんっ!」
女将は素っ頓狂な声を上げた。
「優しいお母さん?」
「あたしの息子にしちゃ、デカすぎるね」
女将はクロノの頭に手を伸ばし、途中で止めた。
多分、髪の毛が落ちたら、とでも考えたのだろう。
「そういや、クロノ様から昔の……家族の話を聞いたことがないね」
「泣き言になりそうだからね」
クロノはパンを千切り、手を止めた。
両親は心配しているだろう。
多分、妹も……あの妹に限ってはないな、とクロノは千切ったパンを口に放り込んだ。
「やっぱり、元の世界に未練があるのかい? 例えば、女とか」
「まさか、付き合ったこともなかったよ。でも、まあ、きちんと家族に別れを済ませたいかな」
無理だろうけど、とクロノはナプキンで口元を拭いた。
「ごちそうさま」
「はいはい、お粗末様」
女将は立ち上がり、やや前傾になって皿を重ねる。
クロノも女将の胸の谷間を確認するべく前傾になったが、女将に頭を押さえつけられてしまった。
「何処を見てるんだい、何処を?」
「もちろん、女将の胸の……痛っ! 女将、ちょっと加減して!」
クロノは必死で訴えたが、女将の力は全く緩まなかった。
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クロノはエリルの手紙をポケットに収め、侯爵邸を出た。
ハシェルの街はいつもと同じように活気がある。
港が完成して以来、商業区も活気を増している。
港だけではなく、『シナー貿易組合』の影響も大きいんじゃないか、とクロノは睨んでいる。
ハシェルにある『シナー貿易組合』二号店は服や装飾品をメインに取り扱っている。
ライン作業で作られた服は他の商会が値下げした今も破格の安さを誇っている。
フェイが新しいと感じた商品のディスプレイも注目を集めている。
それだけではなく、季節によって品揃えを大幅に変えたり、次々と新しいことにチャレンジしている。
『シナー貿易組合』二号店は停滞していたハシェルの商業区に新風を吹き込んだのだ。
『シナー貿易組合』の影で売り上げを伸ばしているのがピクス商会である。
ただし、ピクス商会は目新しいことをしていない。
好景気に浮かれることなく、誠実な対応をしているだけだ。
クロノの部下に言わせると、そこが良いらしい。
なんだかんだと亜人を差別する店は多い。
ピクス商会は老舗の看板に胡座を掻くことなく、誠実に対応し、リピーターを増やしているのである。
商業区を抜けると、そこは露店が並ぶエリアだ。
このエリアの印象を一言で表現するとすれば『混沌』になるだろうか。
食べ物関係はまともなのだが、それ以外は何でもありだ。
ちゃんとした装飾品を扱っている店があると思えば、口八丁でクズ宝石を売りつけようとする店、怪しげな精力剤を取り扱う店まである。
「む、クロノ」
「……ティリア」
クロノは名前を呼ばれ、足を止めた。
「ティリア、朝食を食べたばかりなのに買い食い?」
「ドライフルーツは別腹だ」
ティリアは恥じる必要はないと言わんばかりに胸を張った。
豊かな胸が白い軍服を押し上げる。
ティリアは結構な金額を買い食いに費やしているのだが、見事なプロポーションを維持している。
「僕の太陽は地に墜ちたよ」
「その残念そうな声は何だ?」
ティリアは心外だと言わんばかりにクロノに詰め寄った。
「だって、ティリアってば自由を満喫しすぎ。学ばず、働かず、その意思もなし。仮にも一国の皇女がそれではいけないと思います。ちなみに僕がいた世界では今のティリアみたいな人をニートと呼んでいて、ニートの存在が社会問題になってました」
「何を言うかと思えば、私は平民の生活を学んでいるじゃないか。剣術の鍛錬も怠っていないし、クロノの相手も、きち、きちんと務めているぞ」
確かに……ティリアは夜伽で自分本位に動かなくなった。
ちょっと甘えてくるようになった。
しかし、クロノは安心できない。
いつ、ティリアが本性を取り戻すか気が気じゃない。
だから、縛っているのだ。
「まあ、そうなのかも知れないけど」
「例えば、クロノは知っているか? 通行税が撤廃されてから、ハマル子爵領に行く荷馬車の数が増えているんだぞ。積んでいる品はチーズだ」
ティリアはクロノの反論を封じるように捲し立てた。
「ああ、休耕地にクローバーを植えるようになって、牛が乳を良く出すようになったって聞いたけど?」
ティリアは満足そうに頷いた。
「つまり、エラキス侯爵領で余ったチーズをハマル子爵領で売っているという訳だ。これはクロノの狙い通り、金と物の流れができつつあるということだ」
ティリアは腕を組み、ぐるぐると円を描くように歩く。
「だが、それだけではない。即ち、農民がより良い条件で収入を得られるようになったということだ。その内、ハマル子爵領から買い付けに来たり、農民が露店制度を利用してハマル子爵領に出店するようになるはずだ」
「う~ん、それだと、価格が高騰するんじゃない?」
「ある程度の所で頭打ちになるはずだ。物には相場があるし、食べ物に費やせる金には限度があるからな」
おお、とクロノは感嘆の声を上げた。
「どうだ、クロノ! 私はきちんと学んでいるぞ!」
ティリアは腰に手を当て、これでもか! と胸を張った。
もとい、胸を揺らした。
軍服のボタンが飛ばないのが不思議なほどだ。
「だから、買い食いを大目に見て欲しい」
「いや、まあ、良いけど」
どうやら、ティリアは披露する機会がないだけで色々と学んでいるようだ。
クロノはティリアに以前のような輝きを取り戻して欲しいが、今のティリアも可愛いと言えば可愛いと思う。
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「非番の時にクロノ様の肩を揉みに行くね。もちろん、ボク一人で」
「次は別の企画を考える」
『ヤル』
「ああ、ありがとう」
クロノはスーから土産を受け取り、後ろ手に扉を閉めた。
扉に背を預け、長い溜息を吐く。
楽しいと言えば楽しかったが、何だか、精神的に疲れる時間だった。
「そんな、フラフラになるまで!」
「うん、何か、疲れたよ」
クロノが覚束ない足取りで一階に降りると、ウェイトレスは驚いたように声を張り上げた。
外に出て、大きく溜息を吐いた。
「やっぱり、クロノ様だし!」
「何だか、久しぶりに会った気分みたいな!」
クロノが顔を上げると、デネブとアリデッドが馬から下りる所だった。
二人はクロノに駆け寄り……その途中で振り返った。
「あたしらはクロノ様と帰るから!」
「先に帰ってて欲しいみたいな!」
デネブとアリデッドが大声で言うと、待機していた軽騎兵と弓騎兵は進み始めた。
ケインを代官に任命した直後は軽騎兵と弓騎兵を二隊に分けて運用していたのだが、街道の警備に不安が残るということで再び三隊に分けたのだ。
弓騎兵として訓練を積んでいた二十名が実戦レベルに到達したことも理由の一つだ。
「クロノ様、ちょっと香茶でも」
「可愛い部下に奢って欲しいみたいな」
「え、あ、すみません。ちょっと、今日は勘弁して下さい」
アリデッドとデネブは不思議そうに顔を見合わせ、破顔した。
「全然問題ないし」
「侯爵邸に着くまでダベるだけで十分みたいな」
クロノは安堵に胸を撫で下ろし、ゆっくりと歩き始めた。
「デネブ、アリデッド、お疲れ様」
「その言葉だけで!」
「あたしは耳を撫でて欲しいみたいな」
「十分って、言ってくれないと困るし!」
クロノが耳を撫でると、双子の片割れは瞳を潤ませた。
姉のアリデッドはくすぐったそうにするから、クロノが耳を撫でているのは妹のデネブだ。
よくよく考えてみれば、デネブとアリデッドとの付き合いは二年……ふか~い関係になってから一年ちょいが過ぎている。
これだけ二人と付き合っていれば、どちらがデネブで、アリデッドなのか、何となく分かる。
大抵、お調子者のアリデッドが先に話し、少し思慮深いデネブが続く。
もっとも、最近のデネブはちょくちょくアリデッドを裏切るのだが。
「あたしも、あたしも撫でて欲しいし!」
「ほいほい」
「なんて、テキトーな……くぅぅ、それでも、喜んでいる自分がいるみたいな!」
アリデッドは拳を握り締め、微妙な表情を浮かべた。
「で、二人とも久しぶりの隊長職はどう?」
「余裕だし。けど、よくよく考えてみれば弓兵の百人隊長を務め、士爵にまでなったあたしらが」
「平の弓騎兵になったり、騎兵隊の分隊長になったり……役職付きじゃなくなった時はマジで報復人事の可能性を疑ったし」
「報復人事とか、難しい言葉を知ってるんだね」
報復人事とは失敗などの理由……上司に反抗的とか、そんな理由も含まれたりするのだが……で部下を降格させたり、部署を移動させたりすることである。
クロノはアリデッドとデネブが報復人事という言葉を知っていることに感心した。
「これでも、あたしらは勉強してるみたいな!」
「最近はクロノ様の下で領地の発展に尽くすのも悪くないかな、と思ってるし!」
僕も頑張らなきゃ、とクロノは微笑んだ。
※
クロノが侯爵邸の執務室に行くと、書類の束が机の上に置かれていた。
クロノは深々と溜息を吐き、イスに座った。
「書類にサインするだけの簡単なお仕事です」
クロノは自虐的なギャグを口にし、書類の処理に取りかかった。
書類の処理などと言っても、クロノの役割は報告書に目を通したり、娼館や奴隷売買の営業許可証にサインをしたりするくらいである。
クロノの仕事が許可や承認だけで済んでいるのは事務方の長であるシッターの力による所が大きい。
シッターは冴えない風貌だが、クロノのアイディアを具体化し、事務的な仕事にまで落とし込める人物なのだ。
例えば、娼館と奴隷売買を許可制にした時、シッターは許可制に切り替えると公示する方法や書類の形式、どんな手順で申請を受け付け、誰がチェックをして、クロノに回すかまで一切を取り仕切った。
クロノから見たシッターは有能な人材なのだが、以前の職場……ティリアの元では事務方の一人という扱いだったらしい。
纏め役を務める経緯もシッターが最年長だったからという身も蓋もない理由のようだ。
コンコンと扉を叩く音が響いた。
クロノが黙ってサインを続けていると、扉が静かに開いた。
扉を開けたのはアリッサだ。
失礼します、とアリッサは一礼し、クロノに歩み寄った。
「クロノ様、香茶が入りました」
「アリッサ、ありがと」
クロノはアリッサから香茶を受け取り、口に含んだ。
「お、よく冷えてる」
「はい、エルフのメイドは魔術を使えますから」
アリッサは柔らかな笑みを浮かべた。
「最近、温かくなってきたから、ありがたいね」
「クロノ様が感謝していた、と伝えておきます」
騒がしいのも良いけど、こういう居心地の良い静けさも好きなんだよね、とクロノはカップを傾けた。
クロノはゆっくりと香茶を飲み干し、カップを机に置いた。
「クロノ様、お代わりは?」
「いや、一杯で十分だよ」
はい、とアリッサは静かに頷き、執務室から出て行った。
「さて、仕事を続けるか」
気分をリフレッシュしたクロノは許可証にサインをしていく。
トラブルが報告された商人は書類の不備を理由に差し戻し、その際に改善を要求する。
トラブルが続くようなら営業許可を取り消す。
クロノはそのつもりだったが、今まで営業許可を取り消したことはない。
娼館の経営者や奴隷商人にとって領主公認で商売ができることは大きなメリットなのだろう。
再び扉が叩かれたのはクロノが書類を三分の一程度、処理した頃だった。
扉が開く。
レイラは入室を躊躇うかのように立ち止まる。
どうやら、レイラは執務室を汚すことを気にしているようだ。
「気にしないで、入って」
「はい、クロノ様」
クロノは背もたれに体重を預け、瞼を揉んだ。
レイラは机から少し離れた場所で立ち止まると、クロノに敬礼した。
離れすぎじゃないかな? と思うが、レイラは土埃や汗の臭いでクロノに不快な思いをさせたくないらしい。
情報ソースはレイラ本人である。
まあ、クロノは気にしていないと伝えているのだが。
「街道の巡回を終え、帰還いたしました」
「お疲れ様、レイラ。どうだった?」
「クロノ様の指示通り、傭兵ギルドについて聞き込みを行いましたが、好意的な意見が多数を占めていました」
「まあ、それくらいじゃないとね」
クロノは頭の後ろで手を組んだ。
「新しく編入した弓騎兵の様子は?」
「かなり緊張しているようですが、こまめに休憩を取るようにしているので、問題ないと思います」
「気長にね」
「はい、クロノ様」
レイラは気負った様子もなく答えた。
最近のレイラは良い具合に肩の力が抜けているようだ。
リオがアドバイスしているお陰だろう。
リオもリオで雰囲気が柔らかくなった。
案外、リオには田舎暮らしが性に合っているのかも知れない。
「レイラ、聞き込んだ内容は報告書にも書いてね」
「はい、分かりました」
レイラは再び敬礼すると、執務室から出て行った。
「さて、頑張らないと」
クロノは背筋を伸ばし、書類の処理に取りかかった。
※
書類の処理を終えたクロノは木剣を片手に庭園の一角……いつもフェイとトニーが剣術の訓練をしている場所に向かった。
陽は大きく傾き、工房で働くドワーフも、紙工房で働いている作業員も帰り支度を始めていた。
お疲れ様、とクロノは擦れ違うドワーフと作業員に声を掛けつつ、いつもの場所に辿り着いた。
そこではフェイとトニーが木剣を打ち合わせていた。
いや、フェイがアドバイスをしながら、トニーに打ち込ませている。
当たり前と言えば当たり前だが、フェイは危うげなくトニーの攻撃を捌いていた。
クロノは二人の邪魔をしないように離れた場所で素振りを始めた。
クロノは試行錯誤の末に敵の意表を突き、小細工を弄する変則的な戦闘スタイルに辿り着いたが、基礎がしっかりしていなければ意味がない。
「今日はここまでであります」
クロノがたっぷり汗を掻いた頃、フェイは終了を宣言した。
トニーは声もなく、その場に座り込んだ。
体を動かし続けるのは予想以上に消耗するのだ。
「むむ、クロノ様は今日もやる気満々でありますね! すぐに始めるでありますか?」
「もう少し体を動かしてから、かな」
「分かったであります!」
フェイは向かい合うようにクロノの前に立ち、素振りを始めた。
クロノはフェイの動きに合わせて木剣を振る。
フェイの技量はクロノの遙か上だ。
どれくらい努力をすれば……いや、どれだけ努力してもクロノがフェイの高みに到達することはないだろう。
それでも、努力を続ける。
亀以下の遅々とした歩みであっても、止まる訳にはいかない。
もう二度とマイラに罵られながら、ダイエットをしたくない。
「……クロノ様」
「分かった」
クロノは素振りを止め、汗を拭った。
そして、フェイと距離を取る。
フェイは油断していない。
目を見れば分かる。
クロノがフェイから一本取れる可能性は低い。
千に一か、万に一か、それほど実力差があるのにフェイは全力を尽くしてくれる。
そのことがクロノは嬉しい。
クロノが『刻印』を起動すると、フェイは応じるように神威術を行使する。
黒い光がフェイから立ち上る。
クロノは地面を蹴った。
『刻印術』によって強化された筋力で一気に距離を詰め、横薙ぎの一撃を放つ。
フェイはクロノの攻撃を木剣で迎え撃った。
フェイの『祝聖刃』とクロノの『刻印術』の力場が鬩ぎ合う。
均衡を保てたのは数秒だった。
フェイに押し切られる。
クロノは自分から後方に跳躍してフェイと距離を取ろうとした。
フェイは逃がさないと言わんばかりに追撃してきた。
クロノは『場』を広域に展開、影を伸ばす。
影がクロノの足下から、フェイの足下から、庭園の樹木から伸びる。
クロノの剣術の腕はフェイに大きく劣る。
『刻印術』で身体能力を底上げしても、フェイに『神威術』を使われたら、意味がない。
だが、『刻印術』を応用した術の威力は……何とか、数秒だけ通じてくれるのだ。
「力を貸して欲しいであります!」
フェイが木剣を地面に突き立てた次の瞬間、膨れ上がった何かが影を吹き飛ばした。
クロノが初めて見る『神威術』だった。
『神威術』は極めて汎用性の高い術だ。
と言うか、本人が全く理屈を理解していなくても、感覚で色々できちゃうチートな術だ。
今のも、色々と試してみたらできたでありますとか、フェイは言うに決まっているのだ。
「覚悟であります!」
「何の覚悟!」
フェイは掬い上げるような一撃を放ち、すぐに木剣を振り下ろした。
流れるような連続攻撃だ。
クロノは無様に地面を転げ回りながら、フェイの攻撃を躱し、小石を投げつけた。
フェイは難なく小石を木剣で弾き飛ばす。
小石は真上に弾かれ、ボンッ! と爆発した。
フェイは真上を見上げ、呆気に取られたように口を開けていた。
「喰らえ!」
「ぬはっ! それは反則であります!」
クロノは持っていた小石を全てフェイに投げつけた。
爆発が次々と起こり、黒い炎がフェイを覆い隠す。
「根性であります!」
「なにぃぃぃっ!」
フェイは黒い炎を突き破り、クロノに肉薄する。
「天誅であります!」
「ぐはっ!」
フェイの拳がクロノの鳩尾に突き刺さった。
ミチミチと体が悲鳴を上げ始めたので、クロノは『刻印』を停止させた。
クロノは何度も咳き込んだ後、顔を上げた。
「むむむ、今日のクロノ様は途中までは良かったであります、途中までは。最後に油断したのは大減点であります。残心であります!」
「今回も頑張ったんだけど、ああ、次々と対応策を練られていく」
「当然であります! クロノ様が成長しているように、私も成長しているであります!」
フェイは勝ち誇るように胸を張った。
「さあ、次は純粋に剣術の勝負でありますよ!」
「は~い」
今度は剣術の勝負をしてから、模擬戦闘にしよう、とクロノは軋む体で立ち上がった。




