第3話『代官所』
※
帝国暦四百三十二年三月下旬……分からねーもんだな、とケインは箱馬車に揺られながら、そんなことを考えていた。
農夫の小倅から代官になる。
それだって信じられないような出来事だが、二度までも盗賊に身を窶したことを考えると、訳の分からない人生を送っているという気分になる。
いつだって、未来はケインの予想を裏切る。
傭兵だった頃はいつか仕事の途中で殺されると思っていたし、盗賊だった頃は討伐隊に殺されるか、野垂れ死にするだろうと考えていた。
農夫の小倅だった時はあくせく働いて死んでいくとか考えていたはずだ。
まあ、こいつらも同じことを考えてるんだろうが、とケインは箱馬車に乗る二人に視線を巡らせた。
ケインの真正面に座っているのはロナ……自由都市国家群の元傭兵だ。
年齢は三十。スマートなボディーラインの持ち主だ。
傭兵だった割に粗野な雰囲気がなく、どちらかと言えば冷淡な印象を受ける。
シッターによればロナは最初こそ慣れない仕事に戸惑っていたようだが、研修期間全体で見れば可もなく、不可もなくという仕事ぶりだったらしい。
その隣に座っているウェスタはロナとは対照的に肉付きが良い。
腰や尻はそうでもないのだが、とにかく胸がデカい。
おいおいおーい! と言うくらいに胸がデカい。
まあ、言わないが。
馬車には乗っていないが、あと二名……エレインが経営する娼館で働いていた元高級娼婦……が加わる予定だ。
書類の作成はウェスタとロナに任せ、紹介された二名は受付を任せることになるだろう。
やっぱ、柄じゃねーよな、とケインは顎を撫でた。
指に伝わるのはチクチクした無精髭の感触ではなく、ツルリとした感触だ。
ケインはウェスタが視線を向けていることに気づいた。
「俺の顔に何か付いてるか?」
「髭を剃ったんですね」
「代官が無精髭を生やしてるのは流石にマズイだろ?」
ケインが首筋を掻きながら言うと、何が楽しいか、ウェスタはクスリと笑った。
「おいおい、笑う所か?」
「やっぱり、エレナちゃんが言った通り真面目な人だなって思ったんです」
少し態度が柔らかくなったか、とケインは頬杖を突いた。
あれから、ケインは暇を見つけてはウェスタに話しかけていた。
地道な努力がようやく実を結んだのだ。
今一つ分からないのがロナだった。
人見知りする質ではなさそうだが、ロナは他者と関わりを持とうとせず、時折、深い溜息を吐くのだ。
ロナにとって、奴隷という境遇は受け容れがたいのだろう。
さて、どうするか、とケインは顎を撫でた。
依存されるほど自分の器が大きくないことも、事情を知れば突き放せなくなる自分の甘さもケインは自覚している。
だから、踏み込みすぎるのはマズい。
ふと脳裏を過ぎったのは上司……クロノだった。
つーか、あいつはそこまで考えてねーだろうな。
あいつの場合、愛人に支えられてるって感じだからな。
いや、支えるとか考えてる俺がおかしいのか? とケインは腕を組んだ。
※
シルバニアに着いたケインを出迎えたのはシルバだった。
シルバは代官所を背にして自慢げに胸を張った。
「見てくれ、これが俺の最高傑作……代官所だ」
「むむ、シルバさんの最高傑作は港じゃないでありますか?」
フェイが尋ねると、シルバはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに笑みを浮かべた。
「一つ建物を造るたびに俺は進歩するんだ。古い建築に学び、新しい建物を造り出す。それが建築家なんだ」
「なるほどな~、であります」
最高傑作の割に普通だな、とケインは代官所を見上げた。
代官所はシルバニアの東端に建てられていた。
敷地面積は広く、三つも建物があるのに余裕がある。
一つは煉瓦造りの三階建て、二つ目が同じく煉瓦造りの二階建て……何処かで見たような建物で、これは横に長い。
最後の一つは厩舎だった。
どうして、こんなに離れてるんだ? とケインは代官所と港を交互に見つめた。
シルバニアは港を起点として発展しつつある町だ。
いつかは代官所と港の間を商店や住宅が埋め尽くすはずだが、今は空き地が広がっている。
「なあ、フェイ。どうして、ここにいるんだ?」
「代官所は騎兵の休憩地点を兼ねているであります」
「あ~、それで横に長いのか」
道理で何処かで見た気がするはずだ。
代官所の奥にある横長の建物はエラキス侯爵領にある騎兵隊の宿舎にそっくりなのだ。
「カド伯爵領に宿泊できる施設があると、ありがたいであります」
「村の連中に迷惑を掛けずに済むからな」
ケインはフェイの言葉に頷いた。
街道の警備は数日に及ぶことがあり、その際は途中の村に宿泊していた。
もちろん、事前に話は通していたし、代価も支払っていたが、農閑期はともかく、農繁期の村々にとって寝床や食事の準備は負担になっていたはずだ。
「……これでケイン隊長も一国一城の主でありますね」
「一国一城ってほど給料はもらってないぜ」
フェイは羨ましそうにケインを見つめた。
月給金貨四枚……もう少し金額を吊り上げられそうだったが、ケインは最初に提示された額で手を打った。
金額を吊り上げても使い道がない。
それが積極的に給料の交渉を行わなかった理由だ。
「それでも、であります」
そう言って、フェイは辛そうに目を伏せた。
フェイの気持ちは分からないでもない。
ケインだって、仲の良さそうな家族を見る時、額に汗して畑仕事をする農民を見る時、もやもやした気分になる。
他人が自分の失ってしまったもの、欲しいものを持っていることが羨ましく、悔しいのだ。
そして、そんな自分に嫌悪感を抱いてもいる。
どんな言葉を掛ければ良いのか。
「おいおい、何を言ってるんだ。少し前まで俺は蹄鉄工で、お前さんは厩舎の掃除係だったじゃないか。それが今は領主お抱えの建築家と近衛騎士団の騎兵隊長だ。俺達も随分と出世してるじゃないか」
「シルバさんの言う通りでありますね。初心忘るべからず、であります」
シルバが諭すように言うと、フェイは気を取り直したように顔を上げた。
第十二近衛騎士団に所属していた頃、フェイは厩舎の掃除係だったのだから、出世していると言えるだろう。
「……いや、まあ、お前さんの初心は少し忘れた方が」
「何故でありますか?」
「そりゃあ、お前さんの初心が生々しいからだ。大体、運が良ければ一回でお家再興なんてのは、な?」
同意を求めるようにシルバに視線を向けられ、ケインは苦笑いを浮かべた。
クロノの子どもを身籠もってムリファイン家を再興する。
これでクロノと肉体関係がなければ腹黒いで済むのだが、クロノとフェイはしっかりと男女の仲なのだ。
初心忘るべからずとか言いながら、きちんとフェイは当初の目的を達成している。
びっくりするほどブレない女だ。
「あの頃は、何も分かってなかったであります」
「それは構わねーが、その先の話は俺に振るなよ」
ケインが機先を制して言うと、フェイは不思議そうに首を傾げた。
「『何故』も、『どうして』もなしだ。お前が男だったら、相談に乗ってやるけどな。お前は女だろ。そういう話題を女に振られても困るんだよ」
「……」
フェイは黙って俯いた。
しょぼ~ん、という音が聞こえてきそうだ。
少しばかり気の毒に思うが、そういう話題を振られるよりマシだ。
「私で良ければ相談に乗るわよ?」
「遠慮するであります!」
「残念ね」
あまり残念そうでない声音に振り向くと、エレインが微笑みを浮かべて立っていた。
エレインの背後には二人の女が控えている。
二人とも年齢は三十代後半といった所か。
一人は赤毛、もう一人は栗毛だ。
二人とも肌が青白く、少し化粧が濃い。
偏見かも知れないが、二人とも高級娼婦だった割に普通の顔立ちだ。
街で擦れ違っても印象に残らないだろう。
案外、手が届きそうと思わせる顔立ちの方が需要があるのかも知れない。
「赤毛の方がメアリーで、栗毛がケイトよ。二人とも貴族並みの教養があって、掃除、洗濯、料理も得意。それから、ダンスも踊れるわ」
「……貴族な」
視線を向けると、フェイはきょとんとした顔でケインを見つめ返した。
食事をした時にも感じたが、エレインは貴族を過大評価しているんじゃないだろうか。
まあ、ケインの身近にいる貴族が規格外という可能性も高そうだが。
「フェイ、ダンスは得意か?」
「苦手であります」
「作法は?」
「苦手であります」
「勉強とか、どうだ?」
「レイラ殿の方ができるでありますね」
「得意なことは?」
「剣術や馬術が得意であります」
こいつが貴族だ、とケインはフェイの頭を掴んで、エレインに差し出したい衝動に駆られた。
もちろん、実行に移すつもりはないが。
「ケインさん!」
掃除でもしていたのか、代官所の窓からウェスタが身を乗り出して叫んだ。
「どうした?」
「クロノ様から連絡です!」
一瞬、ケインは言葉の意味を理解できなかったが、すぐに超長距離通信用マジック・アイテムが使えるようになっていることを思い出した。
超長距離通信用マジック・アイテムはエラキス侯爵領とカド伯爵領を結んでいる。
正しくはエラキス侯爵領にあるクロノの執務室とカド伯爵領の代官所を、である。
通信用マジック・アイテムは複数個がセットになっており、それぞれが送受信と中継機能を備えている。
クロノが着目したのは中継機能……通信用マジック・アイテムの数を揃えて直線上に配置すれば長距離通信も可能になるのでは? と考えたのだ。
「すぐに行く!」
ケインは代官所に向かった。
※
『もしもし、聞こえてる? もしも~し!』
ケインが代官所の二階に着くと、台座に置かれた球体からクロノの声が響いていた。
代官所の二階は……受付と待合室を兼ねている一階もそうだったが、殺風景だった。
超長距離通信用マジック・アイテムとそれを乗せる台座を除くと、三人分の机とイスくらいしかない。
「そんな大声を出さなくても聞こえてるぜ」
『良かった。マジック・アイテムは上手く機能しているみたいだね』
クロノは安堵したように言った。
技術開発や公共事業による雇用の創出も目的に含まれているとは言え、クロノは多額の投資をしている。
それが『失敗しました』では流石に困るだろう。
技術的なことは分からないが、便利なもんだ、とケインは思う。
わざわざ馬を走らせなくても一瞬で連絡が取れるのだから。
『そっちの様子は?』
「エレインが代官所で雇う女を連れて挨拶に来たぜ。すぐに呼び出されたから、何も話してねーけどな。そう言えば、代官所に兵舎を併設するなんて聞いてなかったんだが?」
『……言い忘れてたから』
「まあ、構わねーけどよ」
『それから、言い忘れていたことがもう一つ、代官所で働くメイドさんを新たに雇いました。仕事は掃除、洗濯、料理……まあ、雑役女中ってヤツだね』
そうか、とケインは適当に相槌を打った。
正直、新しくメイドを雇ったなんて言われても反応に困る。
『興味なさそうだね』
「なくはねーよ」
『ケインも気に入ると思うよ。まず……年齢は二十代半ば、未婚です』
二十代半ばで結婚してないってことは何か問題があるってことだな、とケインはイスに座り、足を組んだ。
『背は高めで、胸は大きめです』
ふんふん、とケインは顎を撫でた。
クロノの言葉からケインがイメージしたのは薄幸の美女である。
『髪は栗色、つぶらな瞳の……』
「つぶらな瞳の?」
『ミノタウルスです』
「ミノタウルスかよ!」
立ち上がり、ケインは叫んだ。
イメージした薄幸の美女がメイド服を着たミノタウルスに早変わりした。
『その発言は人種差別?』
「ちげーよ!」
『じゃあ、誰がお好み? 黒目勝ちでクールなリザ子さん? 愛らしくて人懐っこいワー子さん?』
「獣人にこだわりでもあるのかよ!」
腕を一閃させ、ケインは叫んだ。
確かにリザードマンは黒目勝ちだが、クールかと言えば違う。
『先日、リスナーの方からクロノ様の部下には獣人の女性がいないのかとお便りを頂きまして』
「リスナーって誰だ!」
『……将来的にはラジオ的なことをしたいと思うんだけど、如何なものか?』
「ラジオって何だ? ラジオって?」
クロノに訳の分からないことを言われ、ケインは自棄になって叫んだ。
『まあ、冗談はさておき……』
「ホントに冗談か?」
『ああ、いや、最後の所は冗談じゃないよ。平民でも超長距離通信用マジック・アイテムを使えるようにしたいな~、と本気で考えてる』
「難しいんじゃねーか? こっちが話したい時に相手が話せるとも限らねーし、これだけ金と手間を掛けて、使えるのは端っこにいる二人だけなんだからよ」
軍用ならあり得るか? とケインは自問した。
国境にでも設置しておけば敵国が行動を起こした時に狼煙よりも早く、正確に情報を伝達できるのだ。
その意味で投資額と効果のバランスが取れているように思える。
『う~ん、こっちで話した内容をそっちで書き留めて、手紙みたいに運ぶとか、運ばないにしても保管しておくのはどうだろう?』
軍用としては有用なはずだが、クロノはそこまで考えていないようだ。
完成形を理解しているせいで途中経過が抜け落ちているのかも知れない。
「悪かねーな」
『あまり興味がなさそうだけど……まあ、いいや』
「なあ、一つ聞きたいんだけどよ」
ケインは台座に置かれた透明な球体を見つめ、
「使わない時はどうするんだ、これ?」
『さあ?』
はぁ~、とケインは溜息を吐き、額に手を当てた。
「おいおい、会話が筒抜けってことじゃねーか」
『一気に緊張感のある職場になったね』
そんな深刻な声を出すほどじゃねーよ、と思ったが、ケインは何も言わなかった。
蛇が出てくるかも知れないのに藪を突く趣味はないのだ。
「取り敢えず、布でも被せときゃ良いんじゃねーのか?」
『じゃあ、そっちに被せて。僕は基本的に夕方まで執務室にいるし、夜でも声が聞こえればメイドが知らせてくれるから』
「おう」
適当な布がなかったので、ケインは上着を脱いで台座に被せた。
鼻から息を吐き、ケインはイスに座る。
「仲が、良いんですね」
「悪くはねーな」
視線を上げると、ロナが立っていた。
ケインが頬杖を突くと、機嫌を損ねたと考えたのか、ロナは気まずそうに顔を伏せた。
「別に怒ってる訳じゃねーよ。ただ、あのアホな会話を聞かれたのが恥ずかしかっただけだ」
「そう、ですか」
納得はしていないようだが、ロナは少しだけ安堵したようだ。
「そんなに仲が良さそうに見えたか?」
「はい、本当に仲の良い兄弟だと」
「……兄弟?」
ケインが問い返すと、ロナは驚いたように目を見開いた。
「ケイン様とクロノ様は兄弟なのでは?」
「血の繋がりなんざねーよ」
ケインは言い切った。
クロード・クロフォードの実子であれば一滴くらいは血の繋がりがあったかも知れないが、クロノは異世界から来た男だ。
この世界の誰ともクロノは血の繋がりがない。
「……異母兄弟だとばかり」
「仲の良い異母兄弟ってのは珍しいんじゃねーか?」
そう言って、ケインは苦笑いを浮かべた。
元盗賊を代官に据える領主よりも仲の良い異母兄弟の方があり得そうな気もするが。
「ケイン様は凄いですね」
「まさか。精々、それなりだろ」
ロナはケインが実力で代官に任命されたと考えたようだが、ケインはそこまで自分の実力を過大評価していない。
腕っ節の強さはそれなり、傭兵団の団長としての能力もそれなりだ。
「さて、と……さっさと仕事を片付けちまおうぜ」
ケインはゆっくりと立ち上がった。
※
さっさと仕事を片付けちまおうぜ……とは言ったものの、すでに兵舎と代官所には備品が運び込まれている。
備品の整理や保管場所の把握をしなければならないウェスタとロナと違い、ケインの仕事は決して多くない。
「……暇そうでありますね」
「まあ、な」
暇を持て余して代官所の庭……代官所、兵舎、厩舎に三方を囲まれた単なる空きスペースだ……をぶらぶら歩いていると、フェイに声を掛けられた。
どうやら、フェイも暇を持て余しているようだ。
「手合わせは、どうでありますか?」
「暇つぶしにしちゃ、疲れそうだな」
「こんな所に木剣が二振りあるでありますよ」
フェイは兵舎の壁に立てかけてあった木剣を手に取り、ケインに向けて放り投げた。
取らないという選択肢もあったが、ケインは一直線に飛んできたそれを掴んだ。
「……思えばケイン隊長と戦うのは初めてでありますね」
「そりゃあ、避けてたからな」
フェイはケインと距離を取り、ゆっくりと木剣を中段に構えた。
「何故でありますか?」
「勝っても、負けても、面倒臭そうだったからな」
むぅ、とフェイは不満そうに唇を尖らせた。
「行くであります!」
「おう!」
意気込んでみたものの、最初の一撃で腕が痺れ、そこから先は防戦一方だ。
フェイの攻撃を五回凌いで、反撃のチャンスが一回あるかどうか。
もう何度目になるか分からない衝撃がケインの腕に伝わる。
速すぎて反応が間に合わない。
クソッ! とケインは心の裡で罵った。
一応、フェイの攻撃は見えているのだが、反応しきれない。
そのため、ケインは木剣を盾として……攻撃を阻む障害物として使っていた。
嫌になるぜ、とケインは木剣を握る手に力を込める。
生きるために、家族の仇を討つために戦う術を学んだ。
そこで理解させられたのは上には上がいること、壁を乗り越えるための才能がケインにはないことだ。
フェイは強い。
出会った時でさえ、フェイの技術はケインを上回っていた。
高レベルで完成された技術とケインは感じていたが、フェイは今も成長している。
フェイントに反応しない。
ケインの持ち技を確かめるように駆け引きめいたこともしてくる。
はっきりと実力の差を理解しているだろうに油断もしない。
クロノ様の相手をしてるからか? 手を変え、品を変え、何とか勝ちを拾おうとするクロノの姿勢は好意に値する。
まあ、自分が付き合わされていたら、別の感情を抱くだろうが。
ケインはフェイの攻撃を受けてよろめいた。
チャンスと判断したのか、フェイは怒濤のように攻撃を繰り出した。
フェイの木剣がケインの腕や肩を掠める。
何とか、ケインはフェイと距離を取り、肩で呼吸を繰り返した。
「ケイン隊長が防戦一方だし!」
「いいぞ、やれやれ!」
気が付くと、双子のエルフ……弓騎兵と軽騎兵が集まっていた。
賭けの対象になっていないのが、せめてもの救いだ。
「少しは黙ってろ!」
フェイが仕掛けたのはケインが怒鳴り終えると同時だった。
怒鳴っている間に仕掛けてくればいいものを……ともあれ、チャンスには違いない。
フェイが距離を詰め、木剣を振り下ろす。
速いが、ケインの繰り出した刺突も同じくらい速い。
フェイの持つ木剣がケインの額に触れるか触れないかの所で止まっていた。
同じようにケインの木剣もフェイの首に触れるか触れないかの所で止まっている。
「ふぃぃぃ、流石に疲れるな」
「むむむ、演技でありますか?」
ケインが盛大に息を吐くと、フェイは訝しそうに眉根を寄せた。
「防戦一方だったのは演技じゃねーよ。肩で呼吸をしたりしたのは演技だけどな」
仲間の援護を期待できる状況ならば攻撃を凌ぐのに専念しても良かったのだが、残念ながら防戦に徹しても試合では勝てない。
「最高の一撃を放つ余力を残しつつ、攻撃を仕掛けるように仕向けたのでありますか?」
「そこまで大層なもんじゃねーな」
格上の相手に勝つための小細工の一つだ。
小細工とは言え、かなりの成功率の高さを誇っているのだが、そこまで説明しなくても良いだろう。
ケインが木剣を引くと、それに合わせるようにフェイも木剣を引いた。
「で、どっちの勝ち?」
「勝敗をうやむやにして終わらせるとかありえないし」
「フェイの勝ちだろ。神威術なしで引き分けなんだからな」
言わせんなよ、とケインは顔を顰めた。
「むむむ、そうでありますか?」
「納得しろよ。まあ、実力を過信されるのも困るんだが」
訓練では負けなしだったヤツがあっさりと初陣で死ぬなんて珍しくない。
フェイは実戦を経験しているので、その辺は大丈夫だと思うのだが。
※
夕刻……兵舎の食堂をマジック・アイテムの白々とした光が照らしている。
テーブルを囲むのはケイン、ウェスタ、ロナ……それと騎兵隊の連中だ。
どうして兵舎にいるかと言えば、代官所に食堂がなかったからだ。
生活の場を兵舎に定めた方が煩わしくないとか、効率が良いとか、他にも理由はあるのかも知れないが、生活に必要と思われる設備は全て兵舎にある。
文句はねーけどな、とケインはスープの具をスプーンで掬った。
いかにも田舎料理という感じだが、味は悪くない。
今まで食べた料理の中では上等な方だろう。
『お口に合いますか?』(ぷも?)
「ああ、悪くねーよ」
「美味しいでありますよ?」
「悪くないとか」
「気取りすぎだし」
アリア……クロノの副官ミノの妹らしい……の質問にケインが答えると、フェイ、デネブとアリデッドが続いた。
「じゃあ、お前らの感想は?」
「温かな御飯が食べられるだけで幸せみたいな!」
「固パンも美味いけど、それはそれみたいな!」
「美味いか、固パン?」
「超美味いし!」
「固パンを食べ尽くした時の絶望感とか!」
ケインが顔を顰めて言うと、デネブとアリデッドは身を乗り出して叫んだ。
「……お前らだけ、三食固パンで良いか?」
「何たる嫌がらせ!」
「気の弱い子なら、泣いちゃうレベルだし!」
どうやら、デネブとアリデッドも三食固パンは嫌なようだ。
その後、適当に会話を楽しみ、ケインは兵舎にある自分の部屋に向かった。
※
翌日、ケインは激しく扉を叩く音で目を覚ました。
ケイン様! と呼ぶ声はロナのもので、何やら焦っているようだ。
寝起きで思考は胡乱だったが、ケインはベッドから飛び出し、扉を開けた。
どれほど強く叩いていたのか、扉を開けると、ロナが飛び込んできた。
ケインは反射的にロナを抱き留めた。
「ケイン様!」
「仕事が始まるまで間があるはずだろ?」
「それが……シルバニアの方々がケイン様に挨拶をしたいと」
ケインが欠伸を噛み殺しながら言うと、ロナは顔を背けながら答えた。
「帰らせるのは無理か?」
「難しいと思います」
「ま、そうだよな」
わざわざ挨拶に押し掛けるくらいだから、素直に帰るはずない。
「分かった。ウェスタと協力して数字を書いた紙を配ってくれ」
「来た順番に、ですか?」
「その通りだ。多少はゴタゴタするかも知れねーが、こっちが用意できてないのに押し掛けてきたんだからな。強く文句は言ってこないだろ」
「分かりました」
ロナを見送り、ケインは顎を撫でた。
こっちの方はきちんと剃っておかないとまずいだろう。
※
午後……ケインはソファーの背もたれに体重を預け、大きく息を吐いた。
代官所に応接室があることに一抹の不安を覚えるが、今はソファーの存在がありがたい。
「あら、休憩中?」
「土産は?」
背もたれに体重を預けたまま、ケインはノックもせずに入ってきたエレインを睨み付けた。
何か基準でもあるのか、エレインは非常に地味な格好をしていた。
「手ぶらよ。お土産が欲しいのなら、すぐにでも用意させるけど?」
「いらねーよ」
「そう?」
と言って、エレインは対面にあるソファーに座った。
「それで、お土産は受け取ったのかしら?」
「受け取る訳ねーだろ。大体、俺が賄賂を受け取らないことくらい、連中も分かってるだろ」
「貴方だって、賄賂を渡しに来てることくらい分かっていたでしょうに」
ケインが吐き捨てると、エレインは呆れたように言った。
エレインに指摘されるまでもなく、ケインは連中が賄賂を渡しに来ていると予想していた。
だが、××商会の者で、●●と申します。私どもは▲▲を扱っておりまして……お近づきの印にこちらをお納め下さい、と朝から同じことを繰り返していたら、いい加減うんざりする。
「少しくらいとか、考えないの?」
「考えねーよ」
ケインは体を起こし、ガシガシと頭を掻いた。
経験上、役人の腐敗と貧困は犯罪の温床になる。
そして、悪化した治安を回復させるのは容易ではない。
「本当に真面目ね」
「性分でな」
「……あの子には貴方を真面目に働かせるだけの何かがあるということかしらね」
性分って言っただろうが、とケインは心の中で毒づいた。
だが、まあ、クロノには命を救ってもらった恩がある。
仕事を世話してもらった義理もあり、不始末の尻拭いをさせてしまった負い目もある。
「何かって言うほど、大層な物は持ってないだろ」
「良かったわ。あの子に心酔していると言われたら、正気を疑っている所よ」
「そこまで酷くねーよ、多分」
確かにクロノは他人を心酔させるようなカリスマの持ち主ではないが、
「けど、まあ、確かに……とは思ったんだよな」
「何のことかしら?」
「こっちの話だ」
去年の二月、クロノは侯爵邸のホールで一つの宣言をした。
亜人も、平民も、貴族も分け隔てない、同じだけの価値と意味を持つ国にしてやろう、と。
あの時、道を示されたと感じたのだ。
悲しみと怒りを抱えて生きるだけではなく、憎悪に支配されて破滅に突き進むような生き方でもない第三の道を。
「にやにや笑って、気持ち悪いわね」
「放っとけ」




