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第5話『奴隷市場』修正版


 どうして、私はこんな所にいるんだろう? とエレナ・グラフィアスは暗闇で膝を抱えた。

 闇に閉ざされたそこは両腕を広げればごつごつした壁に指先が触れ、三歩も進まない内に行く手を遮られる狭隘な空間だ。

 エレナ・グラフィアスは準貴族の娘として生を受けた。

 準貴族は地主や豪農に与えられる称号に過ぎないが、父は堅実に領地を運営し、そこらの下級貴族を上回る財産を築いていた。

 父は昔気質な人物だったが、同時に柔軟な思考の持ち主でもあった。

 そんな父であったから、十四歳になったエレナが留学を決意した時、快く送り出してくれた。

 エレナは留学先の自由都市国家群……その一つで多くを学んだ。

 異国の言葉、習慣と文化、算術も興味深い分野の一つだった。

 三年が経ち、エレナは父の死を伝えられた。

 エレナは取るものも取らずに帰国し、悲しむ間もなく事後処理に忙殺された。

 やがて、叔父が父の後釜を継いだ。

 最初は、いや、最初から最後まで何一つ問題はなかった。

 三年ぶりに再会した婚約者のフィリップは優しく接してくれたし、叔父も気遣ってくれた。

 ようやく父の死から立ち直ろうとした頃、エレナは攫われた。

 盗賊が屋敷を襲撃したのだ。

 盗賊は使用人全員を斬り殺し、奴隷商人にエレナを売り飛ばした。

 奴隷商人の元にはエレナのように攫われた少女が大勢いた。

 最初は彼女達にも人間らしい感情が残っていたように思う。

 泣き叫び、時に抵抗しさえした。

 けれど、何度も殴られて、次第に彼女達は希望を失っていった。

 エレナは最後まで抵抗した。

 何度も殴られ、棒で叩かれ、やがて、奴隷商人はエレナに対する態度を変えた。

 奴隷商人は意味もなくエレナを殴るようになった。

 暴力と痛みが常態化した頃、エレナは自分が見せしめにされていると気付いた。


「……もう、死んじゃいたい」


 体中が痛くて、何処が痛いのか分からない。

 今は商品としての価値が残っているけれど、売れ残ったら何をされるか分からない。

 強姦はされるだろう。

 体の一部を切り落とされるかも知れない。


「怖いよ、フィリップ」


 エレナは膝を抱えて、涙を流した。



「クロノ様、今日の朝食は白くて柔らかいパンと魚のスープですよん」


 甘えた声を出し、女将はテーブルの上に料理を並べた。

 何故か、女将は胸が大きく開いたメイド服を着ている。


「く、クロノ……使用人の躾がなっていないぞ」

「まだ、躾けてないからね」


 対面に座るティリアは苦虫をダース単位で噛み潰したような表情を浮かべている。

 それはティリアの侍女も似たようなもので、不愉快そうに女将を睨んでいる。


「食べさせてあげましょうか、クロノ様?」

「……自分で食べられるよ」


 クロノはパンを小さく千切り、それを口に運んだ。


「美味しいですか?」

「不思議と、味を感じないね」


 あら? と女将はクロノを後から抱き締め、愛撫するようにクロノに触れる。


「お願いがあるんですけど、聞いてくれます?」

「聞くだけなら」

「お給料を上げ「却下」」


 女将はピタリと愛撫を止め、


「お給「却下」」


 チッ、と女将は舌打ちをしてクロノから離れた。


「最後まで聞いてくれたって良いじゃないか」

「月額金貨一枚、銀貨十枚で契約したでしょ」

「そりゃそうだけど、その金額じゃ、全額借金の返済に充てても店を再開するまで五年以上掛かっちまうよ」


 頭の後で腕を組み、女将は不満そうに唇を尖らせた。


「賃金の値上げ交渉は来年の春まで待つこと、良いね?」

「クロノ様のケチ!」


 子どものような負け台詞を吐き、女将は食堂から出て行った。


「お前が甘すぎるから、平民までつけあがるんだ」

「あれで優秀なんだよ」


 何年も店を切り盛りしてきただけあり、女将は非常に優秀だ。

 算術の初歩と文字を読むくらいはできるので食材の管理も任せられるし、店を再開したいというモチベーションがあるので仕事は真面目、再開した時に備えて料理のレパートリーを増やしたりと向上心もある。

 問題は隙あらば既成事実を作ろうとしたり、それに絡めて賃上げを要求してきたりする所だろうか。


「所で、今日の予定は空いているか? もし、暇なら」

「今日はピクス商会のニコラさんと約束があるんだ」


 そうか、とティリアは残念そうに呟いた。


「だが、どんな約束を商人としているんだ?」

「奴隷の購入」

「ど、奴隷だと?」


 驚きに目を見開き、ティリアはイスから腰を浮かした。


「経理ができる人間を探してるんだけど、コネもないし、見つけるのが難しくてね。だから、ダメ元で当たって見ることにしたんだ」

「そ、そういうことか……な、なら安心だ」


 いかがわしい目的で奴隷を買うと思われたのかな、とクロノはスープを啜った。



 ニコラによれば、奴隷売買はハシェルの街で頻繁に行われていないとのこと。

 大規模な需要がないというのが理由のようだが、一定の需要があるので、月一で奴隷市が立つらしい。

 ニコラに案内され、クロノが辿り着いたのは商業区にある酒場の一つだった。

 普段はエラキス侯爵領の富裕層が紳士の社交場……要するに高級娼館だ……として利用し、日々の疲れを癒しているのだとか。

 ニコラが武装した門番と話を付け、クロノは建物の中に入った。

 高そうな絨毯が敷かれたロビーを抜けると、そこはホールだった。

 本格的なカウンターバーがあり、値の張りそうなソファーが幾つもあり、ちょっとした舞台もある。

 ニコラに促され、クロノは舞台の近くにあるソファーに腰を下ろした。


「かなり良い席だね」

「私がクロノ様と懇意にしていると知っているからでしょう」


 今まで奴隷を買ったことのないニコラが参加するのだから、クロノの存在を疑うのは当然だ。

 この娼館の経営者が真っ当な経営感覚の持ち主なら、顔を売るために準備くらいするだろう。


「そこにいらっしゃるのはクロフォード男爵では?」

「違います」


 かなり演技がかった口調で声を掛けられ、クロノは即座に否定した。


「はっはっは、隠さずとも……平民風の出で立ちですが、その右目を見て、クロノ様と分からない人間は商売人とは言えません」


 傷痕を指でなぞり、クロノは溜息を吐いた。


「彼は、この社交場の経営者で「マイルズと申します」」


 押しが強い人だな、とクロノはマイルズを見つめた。

 歳は三十代後半といった所か。

 体つきはスマートで、やや筋肉質。

 目付きは商売人には見えないほど鋭く、ブラウンの髪をオールバックにしていることもあり、その筋の人に見える。


「クロノ様は、どんな奴隷をお求めに?」

「……教養のある奴隷」

「しかし、クロノ様は初めて奴隷を購入するご様子、となれば目的を達成するのは難しいのではありませんか?」


 クロノはマイルズの露骨な売り込みに苦笑いを浮かべた。


「解説と、買う時に手伝ってくれると嬉しいのだが?」

「もちろん、全力を尽くさせて頂きます」


 力強く言い切り、マイルズはクロノの隣に腰を下ろした。


「そういえば、奴隷って何処から仕入れるの?」

「私は『場』を提供しているだけなので詳細は分かりかねますが、奴隷商人は様々なツテを使い、仕入れてくるようです。借金の形に売られた娘もいれば、そうと知らずに売られた娘も少なからずいます。しかし、他の奴隷に比べれば性奴隷はマシな部類でしょう」


 マイルズの言葉は正しいといえば正しいが、よほど悲惨な生活でもしていない限り、売られる方はそう思っていないだろう。

 クロノがニコラやマイルズと他愛のない話をしている間に席が一つ、また、一つと埋まっていく。

 奴隷のオークションは席が半分ほど埋まった頃に始まったのだが、すぐにクロノはニコラに任せるべきだったと後悔した。

 奴隷商人と思しき男に連れられ、奴隷の少女が舞台の袖から現れる。

 少女の発達具合を見せるためか、着ているのは布きれ一枚だ。

 ショーのようにも見えるが、少女の目は悲壮感と絶望に染まっている。

 それは少女が歩を進めるたびに増し、舞台で裸に剥かれた後、最高潮に達する。


「……売れ残った奴隷は?」

「見込みがあるのなら、次の市でも立つことになるでしょう。見込みがなければ……お分かりでしょう?」


 マイルズは酷薄な笑みを浮かべた。

 客は目的を果たせば帰ってしまうから、時間が経てば経つほど不利になる。


「さて、次は……残念ながら、クロノ様の期待には添えないようです」



 ……フィリップ、フィリップ、フィリップ、とエレナは何度も婚約者の名を呟き、あの扉を開けるのはフィリップだ、と確信を抱くようになった。

 小さな頃から下級貴族である彼は剣術を習っていたから、ごろつき程度なら簡単に斬り伏せられるはずだ。

 だから、あの扉を開けるのはフィリップだ。

 親が決めた婚約だったけれど、私達の間には愛があったはずだもの。

 松明の光が網膜を焼き、そこにフィリップの幻想を見たエレナは薄く微笑んだが、扉を開けたのは奴隷商人の部下だ。


「いや、来ないでよ!」


 奴隷商人の部下は面倒臭そうにエレナの頬を殴りつけた。

 鉄臭い味が舌を刺激し、エレナは殴られた意味を悟った。

 エレナに商品価値がない、と奴隷商人の部下は長年の経験から悟ったのだろう。

 排泄物で汚れた足を見て、エレナは絶望に呻いた。

 私は現実を把握していなかった。

 私は意地を張るべきじゃなかったんだ。

 奴隷として買われれば逃げ出すチャンスがあった。

 逃げ出せないまでも、事情を説明するチャンスは掴めたはずだ。

 つまらない意地を張って、自分でチャンスを潰したんだ。

 階段を上がった所に嫌らしい笑みを浮かべた奴隷商人が立っていた。


「お願い、水浴びをさせて、こんな格好じゃ誰も買ってくれないわ」

「水浴びをした所で大差ないさ、見ろ!」


 突き飛ばされ、エレナは鏡とそこに映る自分を見た。


「……こんな、酷い」


 大きな鏡に映ったエレナに、かつての面影はなかった。

 髪はボサボサ、肌はアザで黒ずみ、左目は膨れ上がった目蓋に半ば塞がれていた。


「お前は自分を賢いと思っていたようだが、他の奴隷の方が何倍も賢かったぞ」


 言うことを聞かないからそうなる、と奴隷商人は笑った。


「さあ、さっさと舞台に上がれ。もし、買い手が付かなかったら、この手で俺が縊り殺してやる」


 絶望に涙すら枯れ果てて、エレナは舞台に立った。

 終わりだ、とエレナは十人も残ってない客を虚ろな視線で眺めた。



 ん、と名簿を捲っていたマイルズの指が止まった。


「……次が最後の奴隷ですが」

「何か、おかしな所が?」


 マイルズは企業秘密であろう名簿をクロノに見せた。

 名簿には『エレナ』という名前と語学と算術に優れていると書かれているが、その他の記述がごっそりと抜け落ちている。


「奴隷商人は商人の中でも抜きん出て強欲なものです。普通の商人でも商品が少しでも高く売れるなら手間を惜しまないでしょう。その手間を惜しんでいるようなので、多少、不自然に感じただけです」


 なるほど、とクロノはマイルズに感心した。


「最後になりましたが、この奴隷ならばクロノ様の目的に添うかと……っ!」

「どうし……っ!」


 最後の奴隷を見て、クロノとマイルズは声を失った。

 それは他の客も同様だろう。

 最後の奴隷……エレナはボロボロだった。

 肌はどす黒いアザで覆われ、不気味に腫れ上がった瞼が左目を塞いでいる。

 血と埃に塗れた髪は元の色さえ判然とせず、吐き気を催すほどの悪臭がする。

 残っていた客はエレナから目を逸らし、気まずそうに席を立った。

 舞台を歩き終えたエレナは粗末な服さえ剥ぎ取られ、虚空を見つめていた。


「どうやら、エレナという娘は奴隷商人にとって良くない商品だったようですね」


 ふぅ、とマイルズは溜息を吐いた。


「買いますか? それとも、次の機会を待ちますか?」

「分かった、あの奴隷を買う。ニコラさん! すぐに馬車の準備を!」

「はい!」


 クロノは通信用の水晶を取り出し、エラキス侯爵邸に連絡を入れた。



 クロノはピクス商会の馬車でエレナをエラキス侯爵邸に運び、待機させていた医師に治療を任せた。

 医師によれば傷は見た目よりも浅く、かなり衰弱しているものの、命に別状はないらしい。

 イスに座ったまま、クロノは死んだように眠るエレナを見ていた。


「クロノさま~ん?」

「賃上げ交渉は来年の春だよ」

「あたしゃ、そこまで場を弁えない女じゃありませんよ」


 女将は不満そうに唇を尖らせ、豊かな胸を押し上げるように腕を組んだ。


「だったら、何で?」

「クロノ様が打ちのめされているみたいなんで、様子を見に来たんですよ」

「……ごめん、心配掛けて」


 はぁ~~、と女将はこれ以上ないくらい深々と溜息を吐いた。


「お優しいのも結構ですけどね、この娘のことをクロノ様が気にする必要なんてありゃしませんよ」

「責任を感じてる訳じゃないんだ。ただ……」

「ただ、何です?」


 肘を太股に乗せ、クロノは手を組んだ。


「奴隷のことを軽く考えすぎていたと思ってね。深く考えずに奴隷を買おうとして……女将が言った通り、現実に打ちのめされた感じ」

「……クロノ様」


 顔を上げると、女将の唇がクロノのそれを塞いだ。

 女将の舌がクロノの舌に絡み、口内を蹂躙する。

 クロノが息苦しさを覚えた頃、女将はようやくキスを止めた。


「賃上げ交渉には応じられないよ?」

「そんなことしやしませんよ! ただ……クロノ様が可愛らしくて、キュンと来ちまったんですよ、キュンと!」


 顔を真っ赤にして叫ぶ女将の姿があまりに子どもっぽくて、クロノは苦笑した。


「……ありがとう、女将のお陰で気分が楽になったよ」

「そんな無防備な笑顔を見せられると、本気になっちまいそうで困りますねぇ」


 最後に触れるだけのキスをして、女将は部屋から出て行った。



 覚醒は曖昧だった。

 いつから意識を取り戻していたのか判然とせず、気が付いたらエレナは見知らぬ天井を見上げていた。

 死ななかったんだよね? とエレナは生き延びたことに驚きを隠せなかった。

 舞台に立たされた時点で、エレナの商品価値は限りなくゼロに近かったはずだ。


「よかった、目を覚ましたんだね」


 エレナが声のした方を見ると、そこには一人の青年がいた。

 年齢は二十歳くらいだろうか。

 髪は黒で、瞳も黒だ。

 お人好しそうな感じはするけれど、大きな傷が右目を縦断している。


「貴方が……その、私を買ったの?」

「経理を担当してくれる人が欲しくてね」


 エレナが問い掛けると、青年は自嘲するように言った。


「けど、もう良いんだ。傷が治ったら知り合いに家まで送らせるから、君は自分のことだけを考えて、ゆっくり養生して欲しい。それと……欲しい物とか、して欲しいことがあったら、遠慮なく言ってね」

「家に、帰れるの?」

「もちろんだよ」


 青年はエレナを安心させるように微笑んだ。

 家に帰れる。

 もう一度、フィリップに会える。

 でも、とエレナはアザの浮かんだ腕を見た。

 髪の毛もごわごわだし、何日も体を洗ってない。


「お願い、水浴びをさせて」

「人を呼んで来るから、少し待ってね」


 しばらくして、青年はメイドとミノタウルスを連れて戻ってきた。


「……亜人に運ばせる気なの?」

「女将一人じゃ手に余るからね」


 この人は貴族じゃないのかな? とエレナは内心で首を傾げた。

 ミノタウルスは力仕事をさせる亜人で、貴族や準貴族に触れるべきじゃない。


『大将、普通はあっしみたいなミノタウルスじゃなくてエルフやドワーフを使うもんですぜ』

「そこまで気にすることないんじゃない?」

『まあ、大将が言うんなら』


 ミノタウルスは軽々とエレナを抱き上げ、同じ階にある浴室まで運んだ。


「ここからはあたしの仕事だね。男どもは出て行きな」

「……」


 女将と呼ばれたメイドは青年とミノタウルスを追い出し、


「ほら、立てるかい?」

「手を貸して」

「は? 子どもじゃないんだから一人で歩きな!」


 エレナは痛む体を引き摺り、ネグリジェを脱いで浴室に入った。

 浴室は実家のそれよりも広かった。

 エレナは一秒でも早く垢を落とすためにお湯の満たされた浴槽に近づき、


「待ちな! この浴槽はあたしらも使ってるんだから先に体を洗いな!」


 うぐ、とエレナが跪くと、女将は乱暴に湯を掛けた。


「い、痛いじゃない!」

「痛いのは生きてる証拠だよ!」


 うぐぐ、とエレナは屈辱に耐えた。


「……汚いね。アンタ、どれくらい水浴びをさせて貰えなかったんだい?」

「そんなの、分からないわよ」


 女将は乱暴にエレナの髪と体を洗った。

 最初はお湯が赤黒く染まったけれど、何度も繰り返している内に透明なまま流れるようになった。


「あの男の人って、何なの?」

「クロノ様かい?」


 う~ん、と女将はエレナの髪を洗いながら考え込むように唸った。


「らしくない貴族って所かね? あたしら平民にも、亜人にも気さくに接してくれる、お優しい方さ」

「それは分別が付いていないだけよ。人間ならまだしも、亜人にまで気を使う必要なんてないわ。亜人は人間より下等な生き物よ。それは歴史が証明しているわ」

「そうかい!」

「何をするのよ!」


 思いっきり水を掛けられ、エレナは叫んだ。


「良いかい、小娘? アンタが亜人を見下すのは構わないけどね、今みたいな言葉をクロノ様の前で吐くんじゃないよ!」

「分かったわよ!」


 怒鳴り返し、ゆっくりとエレナは浴槽に浸かった。



 エレナがクロノに買い取られてから一ヶ月が過ぎた。

 医者の腕が良かったのか、左目の腫れは引き、アザもかなり薄くなった。

 衰弱していた体も自由に歩き回れるまでに回復した。

 もっとも、外出をするのは誰かがが付き添うという条件付きだったが。

 たびたび女将と衝突したが、あと少しの辛抱だと思うと名残惜しい気がするから不思議だ。

 歩き回れるようになって気付いたことなのだが、この屋敷のメイドは亜人の方が楽しそうに仕事をしている。

 どちらかといえば人間の方が神経質な感じで……ちょっと偉ぶった感じがして雰囲気が悪い。

 どうやら、それは亜人と人間で雇い主が異なることに起因しているらしい。

 エレナを買ったクロノ・クロフォードは話した感じでもそうなのだが、かなりのお人好しだった。

 手紙を出したいというエレナの望みを叶えてくれたし、本を読みたいという我が侭にも快く応じてくれた。

 欠点があるとすれば、


「まさか、ハーフエルフに手を出してるなんて」


 借りた本を返しに行った時、エレナは偶然にも褐色のハーフエルフがクロノの部屋に忍び込む現場を目撃した。

 その挙げ句に押し殺したような喘ぎ声を聞いてしまった訳で、勉強ばかりしてきたエレナには全く未知の領域だった。


「起きてる?」

「……っ! ええ! 起きてるわ!」


 クロノが扉の隙間から顔を出し、エレナは体を起こした。

 何故か、女将も一緒だ。


「て、手紙は?」

「……そのことなんだけど」


 クロノは何とも気まずそうな表情を浮かべ、ベッドの横にあるイスに腰を下ろした。


「あのさ、ピクス商会って知ってる?」

「ええ、有名だし」

「ピクス商会の人に頼んで、君の手紙を届けようとしたんだけど……どうやら、君は死んだことになっているらしい」


 え? とエレナはクロノの言葉の意味を理解できなかった。


「ど、どうして、あたしは生きてるのに」

「盗賊に襲撃を受けた時、君は使用人と一緒に殺されたことになってるんだ」

「すぐに誤解を解かなくちゃ!」

「……っ!」


 ベッドから降りた途端、エレナはクロノに腕を掴まれた。


「ちょっと、離してよ! 家に帰してくれるって言ったじゃない!」

「……帰してあげたいけど、事情が変わったんだよ」


 ぞくりと悪寒がエレナの背筋を這い上がる。

 公式に死んだはずの人間。

 もしかして、この人は……あたしを性奴隷にするつもりなんじゃ?


「クロノ様、本当のことを言ってやったら良いじゃありませんか?」


 女将は面倒臭そうに髪を掻き上げた。


「本当のことって、何よ?」

「ハ~、アンタは自分で賢いと思ってるようだけど、底抜けの馬鹿だね」


 女将は呆れたように奴隷商人と同じ言葉を口にした。


「女将!」

「良いかい? アンタの手紙はアンタの叔父さんとフィアンセの所に着いたんだ。本当なら、喜ばなきゃいけない二人が、どうして、アンタの生存を否定するのさ?」

「……それは」


 エレナの明晰な頭脳はすぐに答えを導き出したが、エレナ自身はそれを口にできなかった。


「アンタが言わないんなら、あたしが言ってやるよ。アンタは「女将」」


 女将の言葉をクロノが遮った。


「そこから先は僕が言うよ」


 クロノは座り直し、深々と溜息を吐いた。


「エレナ、君は叔父さんとフィアンセに陥れられたんだ」

「どうして、二人があたしを?」

「目的はグラフィアス家の財産だ。君の叔父さんは財産管理を任されているけれど、正式な相続人は君だ」

「ふぃ、フィリップは? あたしと結婚すれば、グラフィアス家の財産は全部、彼のものになるわ! 彼にはあたしを陥れるメリットなんてない!」


 言いながら、エレナは利害を語っている自分に気付いていた。


「君は自由都市国家群に留学していたんだよね?」

「そ、それが何よ!」

「彼は、こう考えたんじゃないかな? 結婚しても、賢い君は財産の管理を自分に任せるつもりがないんじゃないか、って。もしかしたら、自分の娘と結婚すれば財産はお前の物だ、と君の叔父さんに共犯を持ちかけられたのかも知れないね」

「……そ、そんな」


 盤石だと信じていたものが砂上の楼閣に過ぎなかったと気付き、エレナは足下が崩れ去るような感覚に襲われた。


「お、お母様は!」

「死んでたよ。確証はないけど、殺されたんだろうね」


 今度こそ、エレナは言葉を失った。


「これで君がエレナ・グラフィアスだと証明してくれる人はいない。使用人は全員殺されているし、出て行った所で殺されるのがオチだよ」

「……てよ、出てって!」


 エレナはそう叫ぶのがやっとだった。



 夜になって、エレナは目を覚ました。

 どうやら、泣き疲れて眠っていたらしい。


「夕飯の時間だよ」

「いらない」


 女将は溜息を吐き、銀のトレーを机の上に置いた。


「ふー、どっこいしょ」

「トレーを置いたら、出て行きなさいよ」


 女将は億劫そうにベッドの横にあるイスに座った。


「身の振り方を少しは考えたかい?」

「こんな状況で考えられる訳ないじゃない。叔父さんとフィアンセに裏切られて、奴隷として売られて、その上、母さんまで……もう、何か、どうでも良くなっちゃった」


 エレナは枕に顔を埋め、涙声で答えた。

 心の支えにしていたフィリップまでもが敵だった。

 今にして思えば、どうして、愛があると思っていたんだろう?


「母親が殺されたってのに、随分と薄情なんだね」

「あんたに、あんたに何が分かるの! 母さんが殺されて、復讐したいに決まってるじゃない! でも、でも……今のあたしにはなにもない。準貴族の地位も、お金も、自分がエレナ・グラフィアスだって証明する術さえない! これで、どうやって、復讐しろってのよ!」


 エレナが怒りに任せて叫ぶと、女将は呆れたように溜息を吐いた。


「お前さんの頭は飾りかい? 何もないのなら、復讐する方法を考えるんだよ!」

「考える?」


 エレナは女将の言葉に光明を見たような気がした。

 全てなくしてしまったけれど、三年の留学で培った知識は健在だ。

 女将はいなくなってしまったが、じっくりとエレナは復讐の計画を練った。

 ひどく遠回りな、おまけに他人任せ、運任せな要素も大きい。

 けれど、


「叔父さん、フィリップ、あたしを裏切ったことを死ぬまで後悔させてやる」


 ぎらぎらと瞳を輝かせ、エレナはすっかり冷たくなったスープを口に含んだ。

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