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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第4部:助走編

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第9話『万感』修正版



 馬で街道を進む。

 太陽は真上にあり、休憩地点と定めている村は先にある。

 ここで臨時の休憩を取るのも手だが……、


「そろそろ、休憩するべきなんじゃないかな?」

「……」


 無言で隣を見ると、リオ・ケイロン伯爵が微笑んでいた。

 貴族としての命令ではなく、あくまで提案だ。

 最終的な決定権はレイラにある。


「分かりました。ここで小休憩を取ります」


 リオ・ケイロン伯爵は私に興味を持っているのでしょうか? との行動を思い出しながら馬から下りた。

 十人の部下……軽騎兵が七で、弓騎兵が三……は皮袋を手に取り、ぬるい水を口に含む。

 ケインやフェイと違い、レイラが担当するのはハシェルを中心とした狭い範囲だ。

 範囲を決めたのはケインで、その判断に異論はない。


「昨夜はクロノと愉しんだかい?」

「ええ、御寵愛を頂きました」


 リオ・ケイロン伯爵は馬から下り、レイラに歩み寄った。


「そんなに警戒しなくても良いさ。ボクは君に興味を持っているけれど、それは同じクロノの愛人としてさ」

「それで、警備にまで付いてきたと?」

「ああ、そうさ」


 リオ・ケイロン伯爵は芝居がかった仕草で頷いた。


「けれど、何を話せば良いのか迷うね。結局の所、ボクらの共通点は同じ人を愛している点に尽きるからね」

「得意としている武器や馬に乗っていることも共通していると思いますが?」


 リオ・ケイロン伯爵は驚いたように目を見開き、子どものように笑った。


「ハハハ、ボクが思っている以上に共通点は多いのかも知れないね。じゃあ、これは同じように部下を率いている者としてのアドバイスだけど、君は自分と部下のことを把握した方が良いね」

「把握しているつもりですが?」


 だから、この先の村で休憩を取ろうと考えていたのだ。


「そうだろうね。けれど、君の仕事は街道を警備することだよ。戦闘があるかも知れないのに余力を残さないペース配分はダメさ」

「……そうかも知れません」


 近衛騎士団長という肩書きは伊達ではないらしい。


「他に何か気づいた点はありませんか?」

「実を言うと、今のアドバイスは副官の受け売りでね。ボクの副官は古いタイプの騎士なんだけれど、経験は侮れないよ。とは言え、経験しているからこそ、柔軟な対応ができなくなることもある訳で、そこは匙加減だろうね」


 レイラは小さく頷いた。ワイズマン教師の講義は紙に残しているので、その内容を注意深く読み返せば別の発見があるかも知れない。


「……で、クロノとは愉しんだかい?」

「答えたはずですが?」


 うんうん、とリオ・ケイロン伯爵は何度も頷いた。


「『御寵愛を頂いた』は答えじゃないさ。ボクが聞きたかったのは君が愉しんだかどうかだよ」

「……」


 レイラは答えない。

 確かに快楽を得たし、精神的にも満たされたが、愛人同士と言ってもリオ・ケイロン伯爵は男だ。


「そんなに怖い目で睨まないでおくれよ」

「睨んでいません」


 リオ・ケイロン伯爵は降参と言わんばかりに諸手を挙げた。


「君の方はボクに尋ねたいことはないのかい? 例えば……どんな風にクロノがボクを愛してくれるのか興味はないのかな?」

「いえ、特に」


 レイラは声を荒げることなく答えた。

 愛人の一人で構わないとクロノに言ったのはレイラ自身だ。

 独占欲はあるが、そもそも身分が違う。

 異世界から来たとは言え、この世界でクロノは貴族だ。

 それも二つの爵位と領地を持つ貴族だ。

 将来的にはクロフォード男爵領を受け継ぎ、三つの爵位と領地を持つようになる。

 レイラはスラム出身のハーフエルフだ。

 本来ならば交わるはずのない人生が交わり、レイラは愛人としてクロノの傍らにいる。

 それも貴族に匹敵する高度な教育を施されて。

 弓を扱えなくなったとしても今の自分ならば別の生き方を選べる。

 ピクス商会のニコラが言ったようにクロノは可能性を与えてくれたのだ。

 傲慢かも知れませんが、とレイラは静かに息を吐いた。

 少しでもクロノの苦悩を取り除きたい。

 それが叶わないのならば一時でも忘れさせたいと思う。

 ふとリオ・ケイロン伯爵を見る。


「何だい?」

「クロノ様から……ケイロン伯爵が推薦状を書いて下さったと伺いました」


 リオ・ケイロン伯爵は腕を組み、わずかに首を傾げた。


「礼を言われるほどのことじゃないさ」

「それでも……ありがとうございます」


 礼を言われることに慣れていないのか、リオ・ケイロン伯爵はぎこちない笑みを浮かべた。



「……明かりを」


 囁きに応じ、天井付近に取り付けたマジック・アイテムに光が灯り、レイラの部屋を照らす。

 照明用のマジック・アイテムはレイラの私物だ。

 買う時はかなり迷ったものだが、買って良かったと今は思う。

 白い光は冷たく感じるが、獣脂のように臭くないし、煤も出ない。

 講義の復習をしなければならないのですが、とレイラはノートを抱き締めたままベッドに倒れ込んだ。

 他人の目や夜伽があれば気を張っていられるのだが、どちらもなければ気を張り続けるのは難しい。

 一日の仕事を終え、士官教育を受けた後ならば尚更だ。


「……あの頃は」


 レイラは目を細め、白いシーツを撫でた。


「「レイラ、入るよ?」」

「ノックくらいして下さい」


 すでに部屋に入っているデネブとアリデッドにレイラは突っ込んだ。


「あたしらとレイラの仲じゃん」

「そうそう、配属当時からの仲だし」

「親しい間柄でも礼儀は必要だと思います」


 レイラは体を起こし、デネブとアリデッドを睨み付けた。


「何の用ですか?」

「ん~、用はないけど」

「暇だから、ダベろうと思って」


 返事もしていないのに、デネブとアリデッドは廊下からイスと壺、つまみらしき物を運び込んだ。

 どうやら、この部屋で酒盛りをするつもりらしい。


「んで、レイラは何を物思いに耽ってた訳?」

「……あの頃は、って声が聞こえたし」


 ふぅ、とレイラは溜息を吐いた。


「配属された頃のことを思い出していたんです」

「ああ、あの頃ね」

「一日二食でよく保ってたよね、あたしら」


 デネブとアリデッドは腕を組み、何度も頷いた。


「水みたいなスープと固いパンが定番メニューだったもんね。筋みたいな肉が入ってるだけで得した気分になってさ」

「今は肉と野菜がゴロゴロ入ったスープで、パンは柔らかめだし。何気に魚がメニューに加わったのが嬉しかったり」


 デネブとアリデッドは壺から透明な液体を、更に別の壺から濁った液体をカップに注いだ。


「何ですか、それは?」

「ふふふ、あたしらが地道に抽出したアルコールと」

「水で戻したドライフルーツの汁」


 レイラは手渡された酒らしき物を恐る恐る口に含んだ。

 酸味と微かな甘みが舌を刺激する。

 デネブとアリデッドはカップを打ち鳴らし、豪快に酒を煽った。


「そう言えばさ、神聖アルゴ王国との戦争でさ。ああ、去年じゃなくて今年ね、今年」

「別の隊の連中を見たんだけど、痩せてたり、毛並みが悪かったりでさ」

「去年の私達も似たようなものだったと思いますが」


 レイラはデネブとアリデッドを交互に見つめた。

 去年……待遇が劇的に変わったせいで記憶の連続性に自信が持てない。

 たった一年半前の出来事が遠い昔のように感じられる。

 記憶にある限り、一年半前のデネブとアリデッド……レイラ自身も痩せていた。


「胸とお尻の辺りがきつくてとか言ってたよね」


 襟を摘み、一年半前に比べてボリュームアップした胸を覗き込む。


「レイラはどうだった?」

「……私も、多少は」


 最初に気づいたのはクロノ様ですが、とレイラは心の中で付け加えた。

 それもデネブやアリデッドと話していなければクロノが何を考えて胸や尻を触りたがっていたのか分からなかっただろう。


「多少だよね、多少」

「大きくなったと言っても女将や姫様には敵わないし」


 デネブとアリデッドはケラケラと笑った。

 食糧事情が改善されたくらいで女将とティリア皇女の大きさに追いつけたら、そっちの方が脅威だ。

 それくらい女将とティリア皇女の胸は大きい。

 クロノの愛人の中では二人がトップ、三位以降は大きく引き離されている。

 三位以降……レイラ、フェイ、デネブ、アリデッドが第二集団を形成し、エレナ、リオ、スーで下位集団を形成している。

 ただ、リオ・ケイロン伯爵が男であり、スーに成長の余地が残されている点を考慮すると、エレナが圧倒的に最下位と言わざるを得ない。

 レイラはカップを口に運んだ。

 研究の賜物か、デネブとアリデッドの作った酒は飲みやすい。


「女将と言えば……」

「あまり積極的じゃないよね」


 夜伽の回数と順番を決める会議で女将は常に一歩引いた態度を取っている。

 亡くなった旦那に申し訳なく思う気持ちがあるからだろう、多分。

 一歩引いた態度というのならデネブとアリデッドもそうだ。

 視線に気づいたのか、デネブとアリデッドは顔を見合わせた。


「あたしらは……いや、クロノ様のことは好きなんだけど」

「ぶぅぶぅ、あたしはクロノ様の相手を一人でしても良いと思ってるし」


 クロノ基準によれば調子に乗るのがアリデッドで、少しだけ思慮深いのがデネブだ。

 とすれば先に発言したのがアリデッドで、続いたのがデネブだろう。

 配属以来の付き合いだが、レイラは二人を見分けられない。

 軽そうに見えてデネブとアリデッドは他人ひとを踏み込ませない所がある。


「う、裏切り者!」

「……裏切ってないし」


 アリデッドが身を乗り出して叫ぶと、デネブは不満そうに唇を尖らせて言った。


「デネブとアリデッドが仲違いしている所を初めて見たような気がします」

「二人だけの時は喧嘩するし」

「あたしらにも面倒な事情があったり」


 デネブとアリデッドはカップに酒を注いだ。


「あたしらの生まれた所は国境近くの集落で、まあ、後はお察しの通りみたいな」

「そういう所で、そういう目に遭う中で、互いのフリをして……何が変わる訳でもないんだけど」


 少し楽になったかな、とデネブとアリデッドはカップに視線を落とした。

 アリデッドはデネブのフリを、デネブはアリデッドのフリをすることで、酷い目に遭ったのは自分じゃないと言い聞かせて来たのだろう。


「今はそういうのないし。クロノ様はエロいけど」

「そだね。男って、す~ぐ調子に乗るけど……クロノ様の、あのブレないバカっぽさは才能みたいな」


 デネブとアリデッドの経験を聞くのは初めてだが、まともな男性との付き合いは少ないようだ。


「レイラは……クロノ様以外にいなかった?」

「あ、恋人って意味だからね」

「いません」


 レイラが即答すると、デネブとアリデッドは微妙な表情を浮かべて酒を煽った。


「う~、盛り上がりに欠けるし」

「今やあたしらもクロノ様のお手つきな訳で、恋話こいばなで今一つ盛り上がれないみたいな」


 デネブとアリデッドはバリバリと固パンを噛み砕いた。


「つーと、仕事の話?」

「あたしらはいつも通りだったけど、レイラは?」

「ケイロン伯爵から自分と部下の状態を把握するように指摘を受けました」

「「ん~、意外」」


 デネブとアリデッドは口を揃えて言った。


「それと古参兵の話はよく聞くように、と」


 これも自分達の思い描くリオ・ケイロン伯爵像と合わなかったのだろう。

 デネブとアリデッドは考え込むように唸った。


「意外と言えば意外だけど」

「古参兵の知識と経験は大切みたいな」

「なので、ノートを読み直そうと考えています」


 レイラはベッドに上にあるノートを見つめた。


「ああ、レイラってば勉強好きになっちゃって」

「うんうん、クロノ様に御寵愛を頂けなかったとか泣きべそ掻いてた頃が懐かしいね」

「それは……私がクロノ様の愛を理解できなかったからです」


 うへへ、とデネブとアリデッドは笑った。



 叙爵式当日……侯爵邸の玄関に入ると、クロノが軍服姿で待っていた。

 いや、待っていたのはクロノだけではない。

 クロノの左右を固めるようにティリア皇女、フェイ、リオ・ケイロン伯爵、ブラッド・ハマル子爵が立っている。

 どうして、俺がここにいるんだ? という表情を浮かべ、ケインも少し離れた所に立っている。


「遅くなりました。クロノ様……その服は?」

「第十三近衛騎士団長になったからね」


 クロノが羽織っているのはボロボロのマント、その下に着ている軍服はレイラの記憶にあるそれよりも意匠が凝らしてある。


「「間に合ったし!」」


 背後を見ると、デネブとアリデッドが駆け込んでくる所だった。


「「うはっ! クロノ様が新しい服を着てるし!」」

「うん、第十三近衛騎士団の団長になったからね」


 デネブとアリデッドはクロノに近づき、ジッと軍服を見つめた。


「「近衛騎士団は白い軍服って聞いたような?」」


 デネブとアリデッドはリオ・ケイロン伯爵とブラッド・ハマル子爵を見つめ、クロノに視線を戻した。


「「嫌がらせ?」」

「うん、僕もそうなんじゃないかと感じているんだけど」


 クロノは引き攣った笑みを浮かべた。


「ま、まあ、それでこそ、クロノ様みたいな?」

「クロノ様には黒の方が似合うし」

『大将、遅れやした』(ぶも~)


 一瞬、大きな人影に日差しが遮られる。


『……大将、その服は?』(ぶも?)

「ダメだし! 近衛騎士団長なのに黒いままとか禁句だし!」

「クロノ様は嫌がらせを受けて傷ついてるし!」


 デネブとアリデッドはミノにダイブした。

 もっとも、その傷に塩を擦り込むようなマネをしているのはデネブとアリデッドなのだが。


『遅くなったでござる』(がう)

『俺達、来た』(がうがう)

「一番、最後になってしまいましたぞ」


 タイガ、シロ、ハイイロ……最後にゴルディが到着し、扉が閉められた。


「さて、始めようか。全員、そこに横一列になってね」


 クロノが指差した場所にレイラ達は一列に並んだ。


「フェイ、闇を」

「神様、お願いするであります」


 祈りを捧げると、フェイの影が伸びる。

 いや、影よりも濃密なそれは闇だ。

 闇はフェイの足下から溢れ出し、あっと言う間にホール全体を包んだ。


「……ティリア」

「打ち合わせ通りに、だな。光よ」


 ティリア皇女の声と共に光が生まれる。

 光が照らし出すのはクロノだ。


「まず、ミノさんから」

『へ、へい』(ぶも~)


 光が伸びる。光はクロノからミノへと細い道を作り出した。

 その道を辿り、ミノはクロノの足下に跪いた。

 儀式、これは儀式なのだ。


「帝国暦四百三十年五月、エラキス侯爵領ハシェル北西にて指揮官を補佐し、神聖アルゴ王国の侵略を防いだ。帝国暦四百三十一年一月、神聖アルゴ王国にて指揮官を補佐し、多数の敵兵を殺傷、撤退時は別働隊を率い、敵軍の追撃を阻んだ。その功績を認め、士爵位を授ける」


 いつの間にか控えていたエリル・サルドメリク子爵から羊皮紙を受け取ると、クロノはミノにそれを差し出した。

『あ、ありがたき、幸せでさ』(ぶも~)

 ミノが羊皮紙を受け取り、元の位置に戻ると、光の道が途切れ、新しい道がクロノとゴルディの間に生まれた。

 よたよたとゴルディはクロノに近づき、足下に跪いた。


「帝国暦四百三十年五月、エラキス侯爵領ハシェル北西にて神聖アルゴ王国軍の侵攻を食い止めた。その後も戦場を工房に移し、間接的に多くの帝国兵の命を守り、多くの敵兵を殺傷した。その功績を認め、士爵位を授ける」

「もっと、もっと、優れた武器と鎧を提供しますぞ」


 ゴルディは羊皮紙を涙ながらに受け取り、元の位置に戻った。


「……シロ」


 がう! とシロが吠える。

 無口だが、パタパタと尻尾を振っているので、喜んでいるのだろう。


「帝国暦四百三十年五月、エラキス侯爵領ハシェル北西にて神聖アルゴ王国軍の侵攻を食い止めた。その功績を認め、士爵位を授ける」


 千切れんばかりに尻尾を振り、シロは羊皮紙を受け取った。


「……ハイイロ」


 無言で、ハイイロはクロノに歩み寄る。

 やはり、パタパタと尻尾を振っているので、嬉しいのだろう。


「帝国暦四百三十年五月、エラキス侯爵領ハシェル北西にて神聖アルゴ王国軍の侵攻を食い止めた。その功績を認め、士爵位を授ける」


 ハイイロはクロノを見つめ、羊皮紙を受け取った。


「タイガ」

『……』


 タイガはぎくしゃくとした動きでクロノに近づき、その足下に跪いた。


「帝国暦四百三十年五月、エラキス侯爵領ハシェル北西にて神聖アルゴ王国の侵略を防いだ。帝国暦四百三十一年一月、神聖アルゴ王国にて多数の敵兵を殺傷、撤退時は別働隊を率い、敵軍の追撃を阻んだ。その功績を認め、士爵位を授ける」


 羊皮紙を受け取った瞬間、タイガの垂れていた尻尾がピンと伸びた。


『これからも期待に応えられるように頑張るでござるよ』(がうがう)


 タイガは誇らしげに胸を張り、元の位置に戻った。


「デネブ、アリデッド」

「「い、一緒に呼ばれた!」」

「帝国暦四百三十年五月、エラキス侯爵領ハシェル北西にて敵軍の猛攻を潜り抜け、敵指揮官を守る兵士を殺傷、帝国暦四百三十一年一月、神聖アルゴ王国にて多数の敵兵を殺傷し、撤退時は敵軍の追撃を阻んだ。その功績を認め、士爵位を授ける」


 デネブとアリデッドはクロノから羊皮紙を受け取り、破顔した。


「これからもよろしく、騎士デネブ」

「こっちこそ、騎士アリデッド」


 デネブとアリデッドは顔を見合わせて言葉を交わす。

 最後に光の道がレイラとクロノを結んだ。

 クロノは微笑んでいるようだった。

 震える足で一歩を踏み出す。

 ふとスラムにいた頃を思い出した。

 いや、本当は思い出したくない。

 けれど、踏み出す。

 死んだ母を想う。

 体を売り、体を壊し……傾いた小屋で死んだ母を想う。

 踏み躙られた日々を想う。

 殴られた痛みを、力ずくで犯された苦しみを、スラムの仲間との絆を想う。

 戦いを想う。

 死んでいった仲間、クロノと共に戦場に赴き、戻ってこなかった仲間達を想う。

 クロノを想う。

 震えながらクロノの部屋を訪れた日を、結ばれた時を、クロノの愛を理解できずに怯えた日を想う。

 万感の想いを胸に、レイラはクロノの前に立つ。


「帝国暦四百三十年五月、エラキス侯爵領ハシェル北西にて敵軍の猛攻を潜り抜け、敵指揮官に接近、重傷を負わせることで敵軍を敗走せしめた。その功績を認め、士爵位を授ける」


 レイラは差し出された羊皮紙を震える手で受け取った。

 ほんの数行……ほんの数行だが、帝国はレイラを認めたのだ。


 光が消え、闇に穴が生じる。

 穴を中心に亀裂が走り、ホール全体を覆っていた闇が解ける。

 闇は強烈な風に吹かれるシーツのようにはためきながらフェイの影に吸い込まれていく。

 数秒後、今までの出来事が夢だったかのようにホールはいつもの姿を取り戻していた。

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