第7話『手』修正版
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ホント、お嬢様って感じの手じゃなくなったわよね、とあたし……エレナ・グラフィアスはインクで汚れた手を見つめた。
ペンだこが指にできているし、インクが爪の間に入り込んでいる。
洗えば九割方は落ちるんだけど、爪の間に入ったインクはそうもいかず、いつの間にか、これが常態化してしまった。
自分の手を見ながら、あたしはフェイの会話を思い出していた。
話した内容は……何と言うか、夜伽のことだ。
南辺境で色々あり、フェイはあいつの女になった。
何度か、夜伽をこなす内にフェイは女として劣等感を覚えたらしく、自分の手を女の子らしくないと感じているようだった。
二十歳を過ぎたフェイを『女の子』扱いするのは自分でも変だと思うんだけど、それでも、やっぱり、フェイは『女の子』だ。
これはフェイが最近になって自分を女と意識するようになったからだと思う。
だからなのか、普段の立ち居振る舞いに『女の子らしさ』を感じたり、恥じらう姿に色気を感じたりする。
多分、フェイは自分の手を問われたら誇れると即答するだろう。
あたしはどうだろうか?
このインクで汚れた手を誇れるかと問われたら……あたしは即答できないと思う。
「……仕事は大変だけど」
ふぅぅ、とあたしは長い溜息を吐いた。
座り仕事がメインでも長時間拘束されると、それなりに消耗する。
納税時期は慣れない立ち仕事もあるので、消耗の度合いが激しいような気がする。
あたしを含めた事務方の仕事は帳簿上の数字と実数に差異がないかのチェックだ。
領地の村々から集められた作物、商人から受け取った作物の代金、その他の税金や繰越金などなど。
言葉にすると簡単だけど、クロノ様のように広い領地を持つ貴族の場合、それだけのことが一苦労だ。おまけに慢性的に人手が不足しているものだから、仕事は過酷の一言に尽きる。
そのくせ、『間違っていました』は許されない。
クロノ様の下でしか働いたことがないけれど、あたしが担当している経理も含めて事務というのは無謬を求められる仕事なんだろう。
そういう仕事だけれど、あいつはかなり評価してくれているらしく去年より給料がアップした。
まあ、あたしだけじゃなくて侯爵邸で働いている全員の給料に言えることなんだけれど。
今、あたしの手元には金貨が二十七枚ある。
あいつはあたしを金貨二十枚で買ったらしいから……自由を買い戻せるはずだ、多分。
けど、その必要があるのかな? とも思う。
少なくともあいつに買い取られてから、あたしは不自由を強いられていない。
今の状況を不自由を強いられていないと思ってしまっている、畜生。
今度、聞いてみようかな? とあたしは少しだけ歩調を緩めた。
自分を買い戻しても帰る場所なんてないと思い直して。
復讐を果たそうにもクロノ様は協力してくれないだろう。
自分の手でフィリップ達を殺そうにも魔術の才能も、剣術の才能もないと分かった以上、無駄に命は張れない。
フィリップはあたしが生きていることを知っている。
性奴隷として寵愛を受けていると思い込んでいるはずだ。
クロノ様が大きな影響力を持つようになればフィリップは……叔父だって、いつ復讐されるかと怯えるだろう。
他力本願で、気に食わないって言えば気に食わないんだけど、今のあたしにできる復讐ってこれくらいなのよね。
あたしは自分の部屋に入り、ふと違和感を覚えて扉の近くに立てかけた棒を掴んだ。
そして、グルグルと円を描くように棒を振り回す。
場所を変えて何度も繰り返していると、
「痛っ!」
木の棒に衝撃が伝わり、誰かが叫んだ。
あたしは棒を振り上げ、何度も振り下ろした。
「痛っ、痛いってば!」
グニャリと空気が歪み、何もなかった空間からクロノ様が姿を現す。
開陽回廊という魔術であたしの部屋に隠れていたのだ。
「どうやって?」
「棒を振り回しただけよ」
開陽回廊は隠れている本人も周囲の様子が分からなくなるという間抜けな欠陥を持つ魔術で、フェイのような達人には『勘』の一言で居場所が看破され、今みたいに棒を適当に振り回しているだけでも当たったりする。
「素人自警団相手には使えたんだけどな~」
クロノ様はしみじみと呟いたけど、何度も同じことを繰り返されているんだから、あたしだって対抗策くらい練る。
逆に何度も繰り返さなければ対抗策を練れなかった訳で、開陽回廊の存在を知らない相手にしてみれば脅威なんじゃないだろうか。
「もう少し優しく殴ってよ」
クロノ様はわざとらしく頭をさすりながらベッドに深く腰を下ろした。
次の展開が読めたので、あたしは深々と溜息を吐いた。
「あのね、あたしは疲れてるの」
今はとにかく休みたい。
それに、と続ける。
「仕事の調子はどう?」
「順調よ、順調」
あたしは簡単に収支を報告した。
まず、収入……繰越金が金貨四万三千七百四十二枚と銀貨十枚。
収入がエラキス侯爵領から金貨六万七百五十枚、カド伯爵領から金貨五千枚。
奴隷商人の人頭税が金貨一万二千枚、港の使用料が二ヶ月で金貨二千四百枚。
合計で金貨十二万三千八百九十二枚と銀貨十枚。
支出は色々とあったけど、金貨三万七千七百五十七枚。
「割と使ってないもんだね。だったら、部下に報償とか出したいんだけど」
「それは止めた方が良いわね。貸し与えられてる兵士を私兵化してると思われたら、物理的に首が飛ぶわよ」
こいつは何人も愛人を囲っていて、あたしの嫌がる顔を見たいとか言う変態だけど、今までに立てた戦功や今の立場を考えると、多少のお目こぼしはあるかも知れない。
まあ、本格的に手が付けられなくなる前に潰しておこうと判断される可能性も否定できない。
「ケガした兵士や死んだ兵士の遺族に一時金の名目で送るのは?」
「それなら咎められないと思うわ、多分だけど」
どれくらい前だろうか。あたしはこいつが指揮官に致命的に向いてないと思った。
こいつは兵士、一人一人に家族がいて、人生があるという感覚が強すぎるのだ。
こいつが単なる領主であれば、領地運営に専念できる立場であれば、それは美徳に成り得ただろう。
けれど、こいつは領主であると同時に指揮官なのだ。
人の……部下の死を数字で割り切らなきゃならない立場だ。
それができないから、こいつは苦しむ。
少しでも部下に報いようとする。
そして、部下はこいつに更なる忠誠を誓ってしまう。
「……じゃあ、手配を宜しく」
「え?」
「疲れてるんでしょ?」
「そりゃあ、そうだけど」
「僕も疲れてるからね」
あたしが口籠もっていると、クロノ様はそう言い残して部屋を出て行った。
一人取り残されたあたしは……不貞寝した。
※
翌日の午後、あたしが三冊の報告書を携えて執務室に行くと、クロノ様は仕事を一段落させたらしく優雅に香茶を飲んでいた。
「……収支報告の正式版よ。繰越金が金貨四万三千七百四十二枚と銀貨十枚」
あたしは歩み寄り、報告書の一冊……去年の十月から今年の九月までの支出について纏めた書類を見せる。
クロノ様は香茶を机の端に寄せ、報告書を見つめる。
「戦費やエレインさんに出資したりでかなり使ったつもりなんだけど」
「奴隷の購入が抜けてるわよ」
この三つに関しては予算案にはなかったものだ。
ただ、こいつがやろうとしていたことを考えると、織り込み済みだったんじゃないかという気もする。
「収入は……エラキス侯爵領からの税収は去年より少し増えて金貨六万七百五十枚、カド伯爵領は金貨五千枚、奴隷商人から金貨一万二千枚、港の使用料が二ヶ月で金貨二千四百枚」
エレナはそこで言葉を句切る。
「繰越金と合計して金貨が十二万三千八百九十二枚と銀貨十枚。紙工房なんだけど……こっちは順調よ」
エレナは紙工房の収支報告を重ねる。
「紙は一ヶ月当たり十一万枚、売り上げは金貨五十五枚、人件費を差し引いて利益が金貨三十三枚……年だと金貨三百九十六枚の利益よ」
「あと一年もあれば出資した額を回収できるね」
「あんたが心配してた材料の方も何とかなりそうだしね」
去年の今頃、こいつは紙の原材料となる木が枯渇するんじゃないかと心配してたんだけど、カド伯爵領を手に入れたことで、しばらくは大丈夫そうだ。
そもそも、紙の材料になる木の枝は切っても生えてくる訳だし。
「……次はエラキス侯爵領とカド伯爵領を繋ぐ街道を整備して、開拓もしたいし、学校も作りたいし……夢が広がるなぁ」
「その前に事務を増やしなさいよ、事務を」
口で言うほど簡単じゃないのは分かってるんだけど、あたしは突っ込んだ。
旧貴族であれば親戚から有能で信用できる人材を集められるんだろうけど、こいつの場合、自分で育てるか、金を積んで何処からか引き抜くか、あたしみたいな奴隷を買うくらいしか選択肢がないのだ。
育てるという選択も曲者で……例えばハーフエルフのレイラ。
多分、レイラはクロノ様が言えばすぐにでも軍を辞めて、事務仕事に従事するだろう。
ただ、それをすると、治安維持に支障を来す。
「カド伯爵領に代官所も作らなきゃならないんだよね」
「今よりも忙しくなったら、流石に死人が出るわよ」
「その辺りは父さんとオルトに手紙を送って、ワイズマン先生にお願いして、ティリアにも元家臣団と連絡を取って貰おうと」
清々しいほど他力本願な台詞を吐き、クロノ様は立ち上がった。
「出掛けるの?」
「『組合』と救貧院にね。エレナにも来て欲しいんだけど?」
「きちんと他の人に説明してくれるならね。サボってると思われたくないし」
一応、あたしは経理全般を請け負っている訳だけど、他に事務担当は九人いる。
ウェスタも事務担当に数えれば十人か。
「もちろん、根回ししておくよ」
「なら、良いわよ。手を洗ってくるから待ってて」
※
「外で待ってちゃダメ?」
「ダメ」
『シナー貿易組合』二号店を見上げて尋ねると、クロノ様は即座にあたしの提案を却下した。
「あいつのこと、嫌いなのよ」
「あっちもそう思ってるよ」
だから、会いたくないんでしょうが! と心の中で叫んだけれど、クロノ様はあたしの手を取り、『シナー貿易組合』二号店に。
「……ふ~ん、繁盛してるのね」
あの女と会いたくなくて敬遠してたけど、『シナー貿易組合』二号店は繁盛しているようだった。
取り扱っているのは服飾がメインだ。
香辛料も取り扱っていると聞いた覚えがあるんだけど……香辛料とかは一号店で卸売りでもしているんだろう、きっと。
三号店はないんだから。
「あら、呼んでくれれば良かったのに」
「自分で行った方が早いかなと思って」
誰? と言うのがその女……エレイン・シナーを見た感想だった。
化粧は控えめだし、露出度は低い。
髪だって引っ詰めてるだけだし。
「その子の服でも買いに来たの?」
「……奴隷に服を売るつもりはない、とか言わないわよね?」
エレインは優しげな笑みを浮かべた。
多分、商売用。
「まさか、お金さえ払って貰えれば誰にでも売るわよ」
「じゃあ、あんたのいない日に来るわ」
「歓迎するわ、私以外の子が」
嫌みを言い終えると、クロノ様は呆れたような顔をしていた。
「所で、今日は何の用かしら?」
「カド伯爵領のことで少しね」
「上に上がりましょ」
エレインに二階にある応接室に案内される。
ソファーとテーブルがあるだけの簡素な応接室だけど、掃除が行き届いていて気分が良い。
クロノ様はソファーに深々と腰を下ろし、あたしは浅く腰を掛ける。
エレインは少しだけ目を細め、クロノ様の対面に座った。
「カド伯爵領のシルバ港に代官所を置くことにしたんだ」
「ええ、聞いてるわよ」
カド伯爵領のシルバ港に代官所を置くのは……傭兵ギルドのギルドマスターと話した時に決めたらしい。
エラキス侯爵領でないのはシルバ港が物流の拠点だからだ。
シルバ港に荷揚げして、そこから商人達はそれぞれのルートで荷を運ぶ。
「人手が必要なら、引退を考えている娼婦を紹介するわよ?」
「あのね。そんな提案を受け容れられる訳がないでしょ」
あたしが言うと、エレインは不思議そうに首を傾げた。
うわ、腹立つ。
「どうしてかしら?」
「信用できないからよ。あんたのことだから、内部の情報を仕入れて商売に利用するつもりでしょ」
「……バレた時のことを考えると、やりたくないわね」
リターンがリスクを上回ればやりそうね、こいつ。
「けど、考えて欲しいのよ」
「しつこいわね」
「責任があるもの。一回、断られたくらいで引き下がれないわ」
エレインは真剣な目であたしを見つめた。
少し、気圧される。
「独立したり、金持ちの愛人に収まったりする子もいるけど、幸運を掴めるのは一部の人間だけなのよ。歳を取れば客付きが悪くなるし、稼げなくなったら引退して貰うしかないの」
「教育係として残したり、『組合』で雇うのは難しいのかな?」
クロノ様が言うと、エレインは深々と溜息を吐いた。
「それだって限りがあるでしょ」
「まあ、確かに」
クロノ様は考え込むように腕を組んだ。
「……雇うとしたら、教師としてかな?」
「言質を取ったと思われるわよ」
けど、教師としてなら知られたり、利用されたりして困る情報に触れる機会は多くないし、侯爵邸の外に教師用の詰め所を作ればその可能性を抑えられる。
「ワイズマン先生は管理と士官教育に専念して貰って、紹介された……えっと」
「元娼婦でしょ、元娼婦」
「元娼婦の人には文字の読み書きとか、計算を教えて貰う感じで」
基礎と専門の二段階に分ける訳か、とあたしは頷いた。
「雇ってくれると考えて良いのかしら?」
「まだ、検討段階だけどね」
「十分よ」
エレインは少しだけ肩の荷が下りたとでも言うように胸を撫で下ろした。
「話を戻すけど、誰を代官に任命するか決めているの?」
「ケインに任せようと思ってる」
ちょっと、とあたしはクロノ様の脇を肘で小突いた。
「痛いよ」
どうして、フェイじゃないのか……って、これは贔屓か。
代官所は商人と傭兵のトラブルを防ぐために作るんだから、傭兵としての経験があるケインが適任だ。
「あら、そんなことを言っても良いのかしら?」
「僕は困らないからね」
そりゃあ、バレてもあんたは損しないだろうけど。
「予定があるから、これで」
「ええ、次に会う時までに学校の件が具体的に決まっていると嬉しいわ」
エレインに見送られて外に出て、今度は救貧院に向かって歩き出す。
どうして、こいつはあたしを連れて来たんだろう?
う~ん、こういうことをするから、準備しておけって意味だろうか?
そんなことを考えつつ、商業区と居住区の中間にある救貧院へ。
「シオンさんは?」
「ああ、院長なら上にいるよ」
クロノ様が尋ねると、入口の所にいた女は上を指差した。
「入っても?」
「領主様が金を出しているんだから、断る必要はないんじゃないのかね?」
「礼儀だよ、礼儀」
「そうかい」
何が面白かったのか、女はケラケラと笑った。
救貧院に入ると、去年と同じように隅々まで掃除が行き届いていた。
階段を上がり、二階の突き当たりにある院長の部屋……クロノ様は立ち止まり、扉を叩く。
「……どうぞ」
「どうも、久しぶり」
クロノ様が入ると、『黄土神殿』の神官シオンは柔らかな笑みを浮かべて出迎えた。
「クロノ様、香茶を淹れるので少々お待ち下さい」
「あんた、あたしの時は香茶を淹れてくれなかったわよね?」
あたしが突っ込むと、シオンは満面の笑みを浮かべた。
「クロノ様は……多額の寄付をして下さいますから」
「神官が金で対応を変えるなんて世知辛い世の中ね」
クロノ様は部屋の隅にあるソファーに腰を下ろし、あたしもそれに倣う。
お茶を淹れに行くと思ったんだけど、シオンは部屋の隅にあるポットからカップに香茶を注いだ。
「はい、クロノ様」
「……」
クロノ様と言ったが、一応、あたしの分も用意されていた。
おまけ扱いされているみたいで面白くない。
「救貧院の調子はどう?」
「紙工房のお陰で半数の方が出て行かれました」
クロノ様が尋ねると、シオンは満足そうに言った。
「今は体調を崩されている方や子ども達のお世話がメインですね」
働ける人は紙工房での仕事を斡旋している訳だし、そうなるわよね。
「クローバーは?」
「……何故だか、牛の成長が早いと評判で、えっと、お乳も良く出すようになったと」
「畑の地力を回復させるためだったんだけど、嬉しい誤算で良いのかな?」
クロノ様は天井を見上げ、戸惑うように呟いた。
「チーズが多く作れるようになるんだから、農村の収入アップに貢献したと思えば良いじゃない」
「畑の地力を回復させる効果を確認できたら、領地全体で休耕地にクローバーを撒くだろうから……チーズが値崩れしない?」
「別の領地に売りに行くとか、自由都市国家群に輸出すれば良いでしょ」
こいつは心配してばかりで疲れないんだろうか。
「まあ、チーズの値崩れの件は後で考えよう。ビートの方は?」
「あ、はい、ビートは収穫中です。ハシェルの南にある畑は神殿の五十倍くらい面積がありますから」
「…………砂糖が二.五トンか。末端価格で一キログラム、金貨一枚として、金貨二千五百枚か~。南の畑を広げて、安定した収入を」
こいつ、流通の方法を考えてるのかな?
「これ以上、畑を広げると、私だけでは」
そう言えば人手が不足しているのは神殿も一緒なのよね。
シオンは一人きりで農村を巡ったりしている訳だし。
「寄付金を増やせば神官も増える?」
「あ、あの金銭の問題ではなく、信仰が」
世知辛いとは思うけれど、神殿だって組織を維持しなきゃならない訳で……つか、クロノ様の前任者がケチだったせいで今のエラキス侯爵領にはシオンしか神官がいないのよね。
「幾ら出せば神官を派遣して貰えるんだろう?」
「あ、あの、クロノ様、もう少し歯に衣を着せて頂けると」
「金貨六千枚くらい?」
信仰心の欠片もない台詞にシオンは項垂れた。
しょぼ~ん、とそんな音が聞こえてきそうだった。
※
「ニヤニヤ笑って気持ち悪いわよ」
「微笑んでると言って欲しいな」
救貧院の帰り、クロノ様は口元を押さえながら答えた。
「で、何が楽しいのよ」
「楽しいと言うよりも嬉しいかな?」
は? とあたしはクロノ様に半歩遅れて付いていく。
「エレナは嬉しくない?」
「だから、何が?」
かなりの頻度で道を通る荷馬車、遠くから聞こえる客引きの声、食欲をそそる匂い。
中年女が道端で下らない会話を繰り広げ、ガキどもがすぐ隣を駆け抜けていく。
「僕が……領主になったばかりの頃は、今みたいに賑わってなかったよね」
「そりゃあ、港もなかったし、馬鹿みたいに税金を取られてたもの」
竃税とか、訳の分からない税金ばかりあったような気がする。
「細い路地の所に浮浪児とか、街娼とかいて……レイラは栄養失調気味に痩せてたし、ミノさん達は毛並みが悪い感じでさ」
レイラが栄養失調気味に痩せていた頃をあたしは知らない。
だから、こいつが望む答えを返せない。
「結果が出るのは嬉しいよ」
「あんた一人の手柄じゃないけどね」
「まあ、ね」
怒らせちゃったかな? と少し不安になりながら、あたしはクロノ様に続く。
「だから、ありがとう」
「……っ!」
優しげな声音に胸が高鳴る。
「あ、あたしだけの力でもないから」
「エレナを含めた、みんなのお陰だ」
あたしは自分の手を見た。
インクで汚れた手だ。
無謬を求められる仕事。
今の、今まで気づきもしなかった。
あたしが向き合っていた数字は領民の生活そのものだ。
数字が減れば貧しく、増えれば豊かに。
あたしが計算をミスれば領民のために使える金額が少なくなるかも知れない。
幸いにも今までミスはなくて、それが『今』に繋がっている。
そう思うと、このインクで汚れた手が少しだけ誇らしく感じられた。




