第6話『ヴァイオレット』
※
去年より少し多いくらいか、とケインは穀物庫に麦袋を運ぶ人夫……多くはクロノの部下だが、臨時で雇われた者もいる……を見つめながら顎を撫でた。
ジョリジョリと無精髭が親指を刺激する。
傭兵時代はそこそこ身なりに気を使ったものだが、エラキス侯爵領で働くようになってからは髭にまで気を使わなくなった。
上司に理解力がありすぎるのも問題だ。
クロノと出会った時も無精髭を生やしていたから、そういうヤツだと思われているだけなのかも知れないが。
にしても思い付きを実行するか、普通? とケインは手を休める。
騎兵は金の掛かる兵科だ。
馬を維持するにも、装備を揃えるにも金が掛かる。
今更だな、とケインは苦笑する。
クロノは盗賊団を騎兵隊として迎え入れるような人間なのだ。
そんな人間を相手に普通を論じても仕方がない。
「アンタって、何気に真面目よね」
口の悪い経理担当者……エレナが呟くように言った。
「……元盗賊のくせに」
喧嘩を売られているのかと思ったが、ケインは薄ら笑いを浮かべて顎を撫でる。
エレナの気持ちは分かる。
家族が盗賊か、盗賊を装った傭兵に殺されているのだ。
ケインのような経歴の人間に対する評価はどうしても辛くなるだろう。
それを甘んじて受ける覚悟はある。
いや、罵倒されて当然だと自覚している。
幼い頃、家族を失ったケインは傭兵団に拾われたが、そこでの生活は苦痛だった。
傭兵の仕事は生きるためと割り切れたが、どうしても盗賊の仕事に馴染めず、自分と似たような境遇の連中を集めて独立した。
自由都市国家群に行き、傭兵ギルドに所属してからは真っ当な傭兵として過ごした。
真っ当な傭兵……誠実な詐欺師と同じくらい有り得ない組み合わせだ。
少なくともケフェウス帝国では。
帝国における傭兵の地位は低い。
金のためなら人殺しも、略奪も厭わない犯罪者というのが傭兵に対する評価だ。
だが、自由都市国家群において傭兵は正業とされる。
需要が高いことも傭兵の地位を押し上げる要因の一つだが、最大の理由は傭兵ギルドの管理が徹底しているからだ。
傭兵ギルドの役割は仕事の斡旋である。
もちろん、無償ではない。
ギルドに所属する傭兵や傭兵団に仕事を斡旋して仲介料を得ている。
汚いと言うつもりはない。
傭兵ギルドがバックに付いていれば個人の力では会うことさえできない大商人の仕事を引き受けられる。
そこで気に入られれば次も指名して貰えるし、無難に仕事をこなせばギルドから相応に評価される。
逆にまともに仕事をこなせなければ仕事を干されるし、傭兵ギルドのルールを破れば粛正されることもある。
「誉めてるのよ」
「まあ、これでも農村出身だからな。真面目って言うんなら、その辺が影響してるんじゃねーか?」
爺さん、曾爺さん、曾々爺さん……多分、自分の一族は代々農民のはずだ。
ケインだって何もなければ畑仕事に精を出していたはずである。
今の生活に不満はねーんだよな、とケインは顎を撫でる。
不満はないが、あの時に何も起きなければと夢想することはある。
「そう言えばクロノ様は?」
「アイツならカド伯爵領から帰ってきたばかりよ」
「何をしに行ったんだ?」
「そんなのあたしに分かる訳ないじゃない」
エレナは不機嫌そうに言った。
八つ当たりも良い所だ。
「……エレイン・シナーがいるってのが心配だな」
「あの女と知り合いなの?」
「一方的に知っているのは知り合いって言わねーよ」
傭兵は金があれば酒を飲むか、娼婦を買う。
酔っ払って話題に上るのは何処の娼館の娘が可愛いとか、上手いとか……そういう類の話だ。
そんな中でエレインが経営する娼館は別格とされていた。
「……真面目なヤツほど嵌るって話だからな」
「その心配は要らないわよ」
どうして、そんなことが……、とすぐに疑問は氷解した。
「あ~、悪ィ」
「そういう態度を取られる方がむかつくんだけど?」
こいつってクロノ様の愛人も兼任してたんだよな、とケインは頭を掻いた。
「つーことは港の視察か?」
「いや、珍しい野菜でもないかなって思って」
覚えのある声を聞いて振り向くと、クロノが挨拶をするように軽く手を挙げた。
「そんなことのためにカド伯爵領に行ったの?」
「大事なことだと思うけど」
エレナが声を裏返らせていると、クロノは言い訳をするように言った。
「で、何か見つかったの?」
「ん~、ジャガイモとトウモロコシはなかったね。あとカボチャも。それなのに米とソバはある不思議」
ジャガイモ、トウモロコシ、カボチャ……聞いたことのない野菜だ。
「トウモロコシはアメリカっぽいけど、ジャガイモとカボチャってヨーロッパ原産じゃなかった?」
「アメリカ? ヨーロッパ?」
またしても聞き覚えのない名前だ。
「ジャガイモはロシア、カボチャはヨーロッパのイメージがあったから」
ケインは腕を組んで首を傾げることしかできなかった。
「分かるか?」
「異世界の知識までカバーしてないわよ」
だよな、とケインは頷いた。
以前ならば妄言で済ませられたのだが、クロノが南辺境から持ち帰った自転車や本は異世界の存在を証明するのに十分な説得力を持っていた。
「ジャガイモってのは何なんだ?」
「地面の下にできる丸い野菜だよ。寒さに強くて、荒れた土地でも栽培できて、バターを付けて食べると美味しいんだ」
根菜みたいなもんか、とケインは自分の知識からそれらしいものを想像する。
「カボチャは?」
「これくらいの大きさで、外側は黒っぽい緑だけど、中は濃い黄色って感じ」
クロノは何かを抱えるような仕草で大きさを示した。
「よく分からねーが、珍しい野菜があったら見せに行けば良いのか?」
「エレインさんにも頼んでるけど、あまり借りを作りたくないんだよね」
クロノは力なく肩を落とした。
※
ジャガイモとカボチャ、あとはトウモロコシだったか? とケインは野菜の名前を心の中で唱えながらハシェルの街を歩く。
関心の大半を占めているのはジャガイモだ。
寒くても育ち、荒れた土地でも収穫できるというのが興味深い。
クロノの話が本当ならば……労働力の確保は別としても、耕作地を飛躍的に増やせるはずだ。
だからこそ、クロノもエレインに借り作ってもジャガイモを手に入れようとしているのだろう。
「まさか、独占はしねーよな? って、できるもんでもねーか」
異世界の知識……断片的なそれは魅力的だ。
ちょっと触れただけならば分不相応な望みを抱きかねないほどだ。
だが、クロノと少し突っ込んだ話をすると、途端に鍍金が剥がれる。
クロノの知識は穴だらけなのだ。
穴だらけの知識を補完して実用化するまでに、どれくらいの時間と金を要するのか、見当も付かない。
考えても仕方がねーな、とケインはその通りに足を踏み入れる。
鼻の奥が安い化粧の臭いに痛みを訴える。
薄ら笑いを浮かべ、ケインは歓楽街を歩く。
色目を使ってくる娼婦に軽く手を振り、客になった時にサービスしてくれよ、と擦り寄ってくる娼婦を躱す。
「……人が増えたな」
ポツリと呟く。
ハシェルの街は賑わっている。
大商人だけではなく、行商人も、粗末な荷馬車しか持っていない平民でさえ上手くやれば儲けられるのだ。
懐が温かくなれば美味い飯と酒が欲しくなる。
これだけ儲けたのだからと娼婦を買う気にもなる。
見知らぬ街で娼婦を買うのは勇気……ある種の無謀さがいるものだが、ハシェルの娼館は許可制で、娼婦は定期的に検診を受けている。
娼婦が定期検診を受けていても病気を感染される時は感染されるのだが、心理的抵抗はぐっと減る。
病気持ちじゃない娼婦を買いたければエラキス侯爵領に行け、とまことしやかに囁かれているのもハシェルの歓楽街が賑わう理由の一つだろう。
ある娼館の前でケインは立ち止まり、二階を見上げる。
窓際に女が立っているのを確認し、娼館に入る。
「これは、これはケイン様」
「勝手に上がるぜ」
銀貨を数枚手渡して二階に上がる。
時間が早いこともあってか、他の客と擦れ違うようなことはなかった。
どうにも慣れねーんだよな、とケインは首筋を掻いた。
身を持ち崩さない程度に女遊びはこなしているが、他の客と擦れ違ったり、目が合ってしまった瞬間に流れる空気にどうも慣れないのだ。
根っこが農夫の小倅ってことか、とケインは苦笑いを浮かべる。
「開けるぜ?」
「もう扉を開けてるじゃない」
ノックもせずに部屋に入ると、女……ヴァイオレットは細い目を更に細めて言った。
ヴァイオレット……ただのヴァイオレットだ。
年齢は三十前後だ。
このランクの娼館に雇われている娼婦にしてはスタイルが良い。
顔立ちもそれなりだ。
いつも目を細めているので、視力が悪いのかも知れないが、問い質したことはない。
相手の事情を知れば情が湧く。
ヴァイオレットはそれを利用するかも知れない。
余裕がない時ならば突き放せるが、残念ながら今のケインは懐具合に余裕がある。
騎兵隊の宿舎は家賃が無料だ。
食事も、酒も無料だ。
装備も高品質のものが支給されている。
趣味らしい趣味のないケインは金が貯まっていく一方だ。
いつもながら殺風景な部屋だよな、とケインは部屋を見渡す。
部屋にあるのはベッドが一つ、イスが二つ、テーブルが一つだ。
ケインはテーブルに銀貨を一枚置き、イスに腰を下ろした。
「安くない金額を払ってるんだから、遊んでいけば良いじゃない」
「悪ぃが、仕事のつもりでな」
ヴァイオレットはテーブルに置いた銀貨に目もくれず、イスに座ると、頬杖を突いた。
「今日も情報収集なの?」
「まあ、な」
ヴァイオレットは面白がるような微笑みを浮かべて娼館で見聞きした情報……多くは裏付けのない噂話だ……を語り出す。
ケインは銀貨一枚で得られる情報にそれほど期待していないが、どんな噂が流れているのか知ることは大事だ。
ついでに言えば、どんな噂を教えてくれるかでヴァイオレットという人間を知ることができる。
ヴァイオレットは娼婦らしくない女だ。
ヴァイオレットが教えてくれる噂話は広く、手が届きそうで届かない曖昧さを残している。
テーブルに置いた銀貨に興味を示さない所もケインの警戒心を刺激する。
「……と、こんな感じかしら?」
「ああ、十分だ」
ケインが立ち上がろうとすると、ヴァイオレットはそれよりも早く立ち上がった。
ヴァイオレットは悠然と歩み寄り、ケインの太股に腰を下ろす。
「遊んでいかないの?」
「ここには仕事のつもりで来てるんだよ」
正直、遊んでいきたい。
「仕事の一環じゃダメかしら?」
「萎えるだろ、逆に」
ふぅ、とヴァイオレットは息を吐き、ケインから離れた。
「真面目なのね」
「それだけが取り柄だからな」
「皮肉よ、皮肉」
そうだろうよ、とケインは首筋を掻いた。
※
カウンター席に座る。
店はやや手狭、内装は場末と表しても違和感がないほどに薄汚れている。
二階は宿……休憩と宿泊を選択できるタイプの宿になっていて、やはり場末の食堂兼宿屋という印象を拭いきれない。
そんな店をケインが選ぶのは落ち着いて食事ができ、店主も、客も適度に無関心を貫いてくれるからだ。
ケインの評価は高い。
騎兵隊の隊長を務め、収穫期は徴税官の監査を、クロノが不在の際は領主代行までこなしているため、領民からクロノの右腕的なポジションだと思われているのだ。
だから、他の店では落ち着いて食事ができない。
店主が必要以上に気を使い、給仕の女が寄って来るのだ。
顔見知りの商人と出会ったが最後、同席された挙げ句に延々と話を聞かされ、賄賂までねじ込まれそうになる。
若い頃であれば浮かれて馬鹿なマネをしたかも知れないが、今のケインは歳相応の分別を身に付けている。
もっとも、気に食わない依頼主から積み荷である奴隷を強奪してしまう程度の分別だが。
最初は情報収集も兼ねているからと我慢していたのだが、ヴァイオレットと知り合ってからは頻度が減った。
狙いは『俺』じゃなく、クロノ様なんだろうがな、とケインは運ばれてきた大麦酒を呷る。
クロノは歳相応の未熟さを備えた青年である。
女に言い寄られて悪い気はしないだろうし、海千山千の商人にいい気にさせられてしまう可能性も否定できない。
俺が……俺達がしっかりしねーとな、ケインはパンを囓る。
クロノを守り、未熟さを補う。
命を救われた恩はある。
クロノの領地に愛着が湧いたのも確か。
だが、それ以上にケインはクロノを弟のように感じていた。
妹を守りきれなかった代償行為に過ぎないかも知れないが、とにかくこいつを守ってやらなきゃならねー、と感じている。
「うほ~、ケイン隊長じゃん!」
「今日は宿舎で食べないの?」
双子のエルフ……デネブとアリデッドは左右に座り、ケインの背中を叩いた。
「よお、出来上がってんな」
「うへへ、ケイン隊長も飲みなよ」
「注ぐし、じゃんじゃん注ぐし」
先程の決意が萎んでいくのを感じながら、ケインは手渡された酒らしきものを見る。
口に含むと、酸味と甘みが口一杯に広がる。
「こりゃあ、リンゴか?」
「でへへ、アルコールに果汁を混ぜるのが」
「あたしらの流行みたいな」
二人ともぐでんぐでんに酔っている。
「燃えるだけじゃねーんだな」
「これだと、葡萄酒や大麦酒よりも」
「早く酔えるみたいな!」
うひひひ、とデネブとアリデッドはカウンターに突っ伏して笑った。
「武器への転用は目処が立ってねーのにな」
アルコールの入った容器を投擲し、着弾の衝撃で容器が割れると炎が広がる。
そんな武器を副官のミノは目指しているらしいのだが、容器が割れなかったり、火が点かなかったりで成果は今一つだ。
リンゴ酒を飲み干すと、デネブとアリデッドがアルコールとリンゴの果汁を注ごうとする。
「おいおい、それくらいにしてくれよ」
「え~、折角、汗水鼻水垂らして作ったのに」
「幸せ、お裾分けみたいな」
気持ちはありがたいが、ケインはそれほど酒に強くない。
「俺は明日も仕事なんだよ」
「「あたしらは休み!」」
知ってるよ、とケインはハイペースで酒を飲む二人を横目に食事を再開する。
パン、スープ、筋だらけの肉を食べ終える頃、デネブとアリデッドはカウンターに突っ伏して動かなくなっていた。
「こいつらの世話を頼むぜ」
「まあ、腐れ縁なんでね」
カウンターの向こうでエルフの店主が苦笑いを浮かべた。
店主の外見年齢は二十歳くらい。
優男という言葉がぴったりだが、腕や胸に残る古傷が見た目ほど平穏な人生を送ってきた訳ではないと物語る。
事実、店主は……いや、店主だけではなく、給仕の女エルフも元帝国兵だ。
つまり、デネブとアリデッドの同僚である。
彼は神聖アルゴ王国がエラキス侯爵領に侵攻してきた時の戦いで後遺症が残るほどの重傷を負った。
貴族であれば名誉の負傷と賞賛されるのだろうが、戦えなくなった兵士の未来は悲惨の一言に尽きる。
店主が自分の未来に絶望しなかったのは手元に纏まった金……突然、支給された未払い分の給与……があったからだ。
その後、彼は亜人が不快な想いをせずに来られる食堂、酒場、宿屋を兼ねる店を立ち上げたのである。
宿屋も兼ねているのはそういうことをできる場所がなくて不便だ、と感じていたためである。
「……空気が冷たくなって来やがったな」
店から出たケインは小さく身を震わせ、真っ直ぐに宿舎に向かった。
昼間の賑やかさを知っているからか、余計に空気が冷たく感じられる。
通りを歩いていると、夜警をする二人組の兵士と擦れ違う。
獣人の表情は読み取りにくいが、ケインが近づいても歩調に変化がないので、警戒していないのだろう。
昔はもう少しピリピリしてたもんだが、とケインは顎を撫でる。
ここに来たばかりの頃、ハシェルの治安は悪かった。
特に城壁近くはケインでも身の危険を感じるほどだった。
それが一年余りで治安が劇的に向上した。
もちろん、原動力となったのはクロノの施策だが、自分達も治安の向上に貢献したのだ、と誇らしい気分になる。
もう一、二杯飲んでも良かったかもな、とケインは笑みを浮かべた。
※
翌日、馬具を脇に抱えて侯爵邸の厩舎に行くと、レイラが準備を整えて待っていた。
「ケイン隊長、おはようございます」
「……おう」
レイラは休みじゃなかったか? とケインは顎を撫でる。
髭を剃ったばかりなので、つるりとした感触が伝わってくる。
動揺が伝わったのか、レイラはケインに視線を向けた。
「クロノ様から伝言です。本日は来客があるので、同席して欲しいと」
「そりゃあ、構わねーけどよ。そっちは良いのか?」
「はい、私の方は大丈夫です」
ケインが尋ねると、レイラはしっかりとした口調で答えた。
レイラの場合、しっかりとした口調が曲者なのだ。
ケインが見る限り、レイラは絵に描いたように真面目な兵士だ。
理解力があり、機転も利く。
感情を表に出さず、自己主張も控えめ。
だが、それ故に何処が限界なのか見極めづらい所があるのだ。
突然、限界に達してぶっ倒れてしまいそうな怖さがあると言うべきか。
「無理はしてねーな?」
はい、とレイラは頷く。
「客ってのはいつ頃来るんだ?」
「今日の昼と聞いてます」
突然の来客……って訳でもねーんだろうが、説明を聞く時間は十分にあるな。
まあ、レイラについても色々と聞いておくか、とケインはこれからすべきことを考える。
「俺はクロノ様の所に行くが、無理はするなよ」
「お気遣いありがとうございます」
ケインが心配する様子が面白かったのか、レイラは見過ごしてしまいそうなほど小さな笑みを浮かべた。
レイラは馬に乗ると、侯爵邸の門から出て行った。
「……さて」
まずはクロノ様に会わなきゃな、とケインはクロノの部屋を目指す。
あ、とケインは階段の途中で足を止めた。
今は早朝だ。
クロノが寝ているかは大した問題ではない。
立場的に言えば問題にすべきなのだろうが、愛人を部屋に連れ込んでたら、そっちの方が問題だ。
「おはよう、ケイン」
「……おう」
ケインが迷っていると、クロノがすっきりとした顔で階段を下りてきた。
「今から会いに行こうと思ってたんだが」
「良いタイミングだね。いつもは寝てるんだけど、今日はレイラに仕事をお願いしたからさ」
一瞬、ケインは言葉の意味が分からなかったが、すぐにクロノがレイラと同衾していたことに気づいた。
ケインはクロノから視線を逸らし、
「あ~、仕事があるのにマズいんじゃねーか? 最近は街道の警備を任せちまってるからな。ま、まあ、レイラの立場だとな」
「レイラのことを心配してくれるのは嬉しいんだけど、そこまで僕は考えなしじゃないから」
「……あんだけ女を囲って、計算尽くとか、そっちの方が怖ぇよ」
「いや、そっちは計算してないから」
ケインがドン引きして突っ込むと、クロノは否定するように手を左右に振った。
「冗談はこれくらいにしてだな」
「……もの凄い真顔だったよ」
ケインは咳払いを一つ。
「冗談はこれくらいにして……客ってのは厄介なヤツなのか?」
「う~ん、まあ、厄介と言えばね」
クロノは言いづらそうに言葉を濁す。
「食堂に移動して話すか」
「そうだね」
この時間帯にクロノは寝ているらしいので、朝食は準備されていないだろうが、今なら邪魔をされずに話せるだろう。
だが、ケインの思惑は大きく外れることになる。
クロノと共に食堂に行くと、ティリア皇女とエリル・サルドメリク子爵が香茶を飲んでいたからだ。
「クロノ、今日は早いんだな」
「ティリアこそ」
「私はいつも早起きだぞ」
ティリア皇女は香りを愉しむようにカップを傾ける。
「どうする?」
「クロノ様にお任せだ」
クロノは考え込むように唸り、
「任せて貰えるんなら、ここで話すよ」
クロノがティリア皇女の隣に座ったので、ケインはその対面……エリルの隣に座る。
「……お客さんなんだけど、傭兵ギルドのギルドマスターなんだよ」
「そいつはマズいな」
「何がマズいんだ?」
え? とクロノとケインは不思議そうに言うティリア皇女を見つめた。
「姫様、俺は……元々、自由都市国家群の傭兵ギルドに所属していた傭兵で、いけ好かない依頼主から積み荷の奴隷を盗んだんだよ」
「だから、それの何処がマズいんだ? 帝国に自由都市国家群の法は及ばないぞ。犯罪者を引き渡す条約も結んでいないのだから、何もマズいことなんてないじゃないか」
そう言って、ティリア皇女はカップをテーブルに置いた。
「そもそも、お前達が罪を犯したのはエラキス侯爵領だ。それだって、領主であるクロノが罪を問わないのだから、問題ない。あの時はどんな処置をしたんだ、クロノ?」
「奴隷商人に奴隷を引き渡して、穏便に金の力で解決しつつ、奴隷を過酷に扱うなって軽く脅した」
「じゃあ、問題ないな」
ティリア皇女は満足そうに頷いた。
「いや、道義的に問題はあるんじゃねーか?」
「道義? 今、話しているのは法の話だぞ」
ティリア皇女は腕を組み、不機嫌そうに言った。
「関係ない話を持ち出されて、私が悪かったかも知れないと思わされると、ズルズルと譲歩を引き出されてしまうんだ」
何故か、妙に説得力のある台詞だった。
「ティリア、僕は逆落としを喰らったことを今でも根に持ってるよ」
「ふはっ! あ、あれは、あれは全力を尽くした結果であって……そ、そうだ。あれは尋常な勝負だった!」
クロノがボソリと呟くと、ティリア皇女はしどろもどろになって弁解した。
「……そうだね。真っ当な防具もない下級貴族相手に完全武装で逆落としをしたね。次々と仲間が吹っ飛ばされて……多分、あれを阿鼻叫喚って言うんだろうな~」
「そ、そう言われると、少しやり過ぎたかなと思う」
「少し? 素敵な冗談だね、本当に」
クロノは頬杖を突き、笑みを浮かべた。
素敵な冗談だなんて欠片も思っていない笑みだった。
なるほど、こうしてティリア皇女は際限なく譲歩を引き出されてるって訳か、とケインは納得した。
「つまり、俺がやったことについては自分から切り出さずに、相手に突っ込まれても突っぱねりゃ良いってことか?」
「ま、まあ、そうだな。ち、違うぞ、クロノ! 私は反省しているぞ」
ティリア皇女はケインの言葉に頷きつつ、クロノに弁解する。
「逆落としの件は二人きりの時に話そうね」
「……わ、分かった」
おいおい、とケインはティリア皇女の姿に不安を抱く。
「けどよ、相手が強硬手段に出たらどうするんだよ?」
傭兵ギルドの懲罰部隊は精鋭揃いと聞く。
「強硬手段に出られたら、こっちも戦うしかないね」
「良いのか?」
ケインが問い掛けると、クロノは面白くなさそうに頬杖を突いた。
「良くはないけど、抵抗しなかったら、相手の言い分を認めたことになるし」
「悪ぃな」
本当に心からそう思う。自分の不甲斐なさに首を掻き切りたくなる。
※
正午、応接室の扉が開く。
たった一人で入ってきたのは三十代半ばの男だ。
飾り気のない服に包まれた肉体は引き締まり、隙のない身のこなしは彼が極めて優秀な戦士であることを物語る。
男の名はシフ……傭兵ギルドのギルドマスターだ。
傭兵ギルドに所属していた頃、ケインは一度だけシフと話したことがある。
他愛もない世間話だったが、シフは理性的な人物だと思った。
その時の印象は今も変わっていない。
いや、今だからこそ、シフの本質が理性にあると断言できる。
一瞬、シフと目が合う。
本当に一瞬だ。
シフは何事もなかったようにケインから視線を逸らしたのだ。
ケインは安堵に胸を撫で下ろした。
本心は分からないが、今すぐにケインをどうにかするつもりはないらしい。
「どうぞ、お掛けになって下さい」
「……感謝する」
クロノが対面のソファーに座るように促すと、シフは動揺したように硬直し、静かにソファーに座った。
素でヤってるのが怖ぇよな、とケインはクロノの背後で苦笑いしそうになるのを必死で堪える。
「エレインさんから……傭兵ギルドのギルドマスターと会って欲しいと頼まれまして、約束はしたんですけど、詳しい内容は聞いていないんですよ」
「我々は……」
シフは言葉を句切り、意図を悟られないようにか、頭を垂れる。
「……端的に言えば売り込みに来た」
「あ、それは無理です」
クロノはとりつく島もなくシフの提案を拒絶した。
「直接、僕が傭兵を雇うと、私兵を抱え込んだ……叛意があると思われるかも知れないので」
「だが、商人に護衛は必要だろう」
確かに、とクロノは頷いた。
治安維持は領主の仕事だ。
クロノは自分の領地の治安さえ守れれば責任を全うしたことになるが、クロノの目的は領地の発展だ。
そのためにクロノの領地を出た途端、盗賊に襲われるようではマズいのだ。
「ケイン、どう思う?」
「クロノ様が傭兵ギルドに活動の許可を出して、商人が自分で傭兵を雇うってのが一番現実的なんじゃねーか?」
それくらい自分で思いつくだろうにクロノはわざとらしくケインに尋ねた。
「質問その二、傭兵ギルドは信用できる?」
「末端の連中はともかく、ベテル山脈の連中は信用しても良いと思うぜ」
傭兵ギルドの母体になったのはベテル山脈に住む蛮族だ。
ベテル山脈は耕作に適した土地が少ないため、男達は傭兵として働いて金を稼ぎ、食料を購入しているのである。
身も蓋もなく言えば出稼ぎだ。
「分かった。ケインが言うのなら、傭兵ギルドに活動の許可を出すよ。ただし、税金は必ず納めること」
「感謝する。では、大まかな話を決めたいのだが?」
クロノとシフの話し合いは二時間ほどで終わった。
活動の拠点は何処にするか、何人くらい傭兵を呼ぶのか、どれくらい税金を支払うのか。
トラブルを防ぐためにカド伯爵領に代官を置き、その立ち会いの下で商人と傭兵は契約書を交わし、契約書は代官が保管する分も含めて三枚作成するなど妙に具体的な話まで決まった。
「まあ、こんな感じかな? あくまで大雑把な話だから、詳細はおいおい煮詰めていく感じで」
「異論はない」
ぐったりとクロノは背もたれに寄り掛かる。
「ケイン、見送りをお願い」
「ああ」
俺が頼りにされてるってのを印象づけたいんだろうが、とケインはシフを侯爵邸の門まで案内する。
その間、シフは一度も口を開かなかった。
無口と言うよりも侯爵邸内で情報を垂れ流すようなマネをしたくなかったのだろう。
侯爵邸の敷地から出ると、シフは振り返り、ケインを見据えた。
「……ケインだったな」
「一度しか話してねーのによく覚えてるもんだな。もしかして、全員の顔を覚えてやがるのか?」
カーン、カーンと鎚を打つ音が響き渡る。
「偶然だ。偶然、印象に残っていて、どんな風に活動しているのか、興味本位で調べていただけだ」
「俺をネタにクロノ様から譲歩を引き出そうってんなら止めておけよ」
ケインはシフを睨み返し、笑みを浮かべる。
「どうしてだ?」
「アイツの弱みになるくらいなら首を掻き切る覚悟があるからさ」
ケインは本気だ。
元々、部下の命を救って貰う代わりに死ぬつもりだった。
それが今になっただけだと笑う。
「……我々はギルドの掟を破る者を許さない」
「知ってるぜ?」
シフは無表情だ。
きっと、こいつはこんな表情を浮かべたまま人を殺すんだろう。
「それは我々が傭兵として働かなければ同胞が死ぬからだ。勇猛果敢にして、死んでも雇い主を裏切らないベテル山脈の傭兵……そう認識され続けなければならない」
だが、とシフは続ける。
「だが、何事にも例外はある。我々に利があるのならばギルドの掟を破った者を見逃すこともある」
「で、俺はどうなんだ?」
挑発したが、シフは無表情だ。
「言ったはずだ、利があるのならば見逃すと」
「ありがたくて、涙が出るぜ」
ケインの軽口に答えず、シフは背を向けた。
※
無言で扉を開けると、ヴァイオレットはいつものようにケインを迎えた。
「二日連続で来ても新しい情報はないわよ」
「ああ、今日は別件だ」
ケインはヴァイオレットに歩み寄り、優しく頬を撫でる。
「今日は仕事じゃないの?」
「悪ぃが、今日も仕事だ。なあ、エレイン・シナー?」
クスリと忍び笑い、ヴァイオレットはケインの腕を擦り抜ける。
「いつから気づいてたの?」
「本当にエレイン・シナーだったのかよ」
ヴァイオレット……エレイン・シナーは窓枠に寄り掛かり、目を開いた。
要は目を細めるのを止めただけだ。
「あら、カマを掛けたの?」
「似たようなもんだな」
ヴァイオレットは広範囲の情報を扱い過ぎた。
一介の娼婦が扱うには過ぎた量だ。
情報の取捨選択が巧すぎたのも違和感を抱く要因となった。
ある程度の教養がなければ情報の取捨選択などできない。
それだけの教養を持ちながら娼婦になるのは不自然だ。
百歩譲って教養のある女が娼婦になったとして、金に興味を示さなかったのも、ここで働いているのにそれらしい匂いがしなかったのも不自然だった。
「お前、シフとクロノ様にも情報を売ってただろ?」
エレインは交渉を有利に進める材料としてケインの情報をシフに売ったのだ。
情報を流しただけという可能性もあるが。
だから、シフはケインと顔を合わせた時に動揺しなかった。
クロノも話がこじれないと分かっていたから、応接室にケイン以外の兵を配置しなかった。
クロノ、シフ、ケインの三人と面識があるのは誰か?
ヴァイオレットが最も可能性が高いが、クロノは娼婦を買わない。
シフだって自由都市国家群からエラキス侯爵領に娼婦を買いに来るようなマネはしないだろう。
そう考えると、ヴァイオレットの正体は見えてくる。
即ち、自由都市国家群のギルドマスターにして、シナー貿易組合の組合長……エレイン・シナーである。
「確かに貴方の情報をシフに伝えたのは私だけど、その分だと使わなかったみたいね」
「判断材料くらいにゃしただろうよ」
結果、シフは何も言わなかった。
これは脅すより普通に交渉する方が利があると判断したからだろう。
「つーか、クロノ様がどんな対応をするかも知ってたんじゃねーのか?」
「あの子、意外に口が堅いのよ」
そうかもな、とケインは頭を掻いた。
「で、まあ、最後に質問だ。どうして、俺なんだ?」
「……貴方を愛してしまったから」
「寝言は寝て言え」
ケインは恥ずかしそうに顔を背けるエレインに言った。
「酒も飲まないのに酒場に行ったり、抱きもしないのに娼婦を買ってたら、貴方が情報収集していると気づくわ」
「そういう耳聡いヤツを探すのも目的だったんだよ」
それから、とエレインは艶然と微笑む。
「貴方と知り合っておくのも悪くないと判断したのよ」
「女ってのは怖ぇな」
エレインの『悪くない』は感情や気分ではなく、自分の利益になるかも知れないという意味だ。
やれやれ、とケインはエレインに背を向け、扉に向かって歩き出した。




