第5話『挨拶』修正版
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ふぁ~、と誰かが背後で声を出して欠伸をした。
誰が欠伸をしたかは分かっている。
騎兵の朝は早い。
限られた人数で街道を警備するためには早朝から動き出さなければならず、領地の端まで見回ろうとすると、それだけで数日を費やしてしまうので、拘束時間も長くなる。
馴れ合いで仕事をするつもりも、させるつもりもないが、些細なことで一々目くじらを立てていたら、部下がやる気をなくす。
かと言って、注意しなければ緊張感がなくなる。
要は程度の問題である。
今にして思えばケイン隊長はその辺りの匙加減が上手かったように思う。
「あ~、弓騎兵の仕事ってしんど~い!」
「あたしら、何気に働いてるよね」
肩越しに背後を見ると、デネブとアリデッドが疲労困憊と言った様子……実際はそこまで長く働いていないのだが……で体を傾けていた。
残る九人の部下は大して疲れているように見えない。
だが、彼女達が疲労を訴えるということは他の部下達も少なからず疲労を蓄積させていると考えるべきである。
「仕方がないでありますね。この先の村で休憩であります」
「「了解!」」
元気よく返事をしながらも隊列を乱さないのは言動ほどにいい加減な性格をしていないからだろう。
しばらくして辿り着いた村は……以前、ケイン隊長が世話になったという村である。
村人は好意的で、休憩用のイスやテーブルまで用意してくれている。
馬から下りてイスに腰を下ろすと、デネブとアリデッドの二人は固パンをガリガリと囓っていた。
固パンはいつの間にやら携帯食として採用された……パンらしきものである。
「そう言えば……東の街道から来る商人が減ったよね」
「レイラが言うには……港のせいとか」
バキ、バキ、ガリガリと固パンを噛み砕きながらデネブとアリデッドはお気楽な口調で言った。
「どうして、西の街道を」
「重点的に見回らないの?」
「警備だけが目的ではないからであります」
フェイはちょっとだけ胸を張って言った。
「「どういうこと?」」
「私達はきちんと仕事をしているので、舐めたマネをしたらぶちのめす、という意味も含んでいるであります」
「「なるほど」」
分かっているのか、いないのか、デネブとアリデッドは頷いた。
フェイが警備の意味に気づいたのは失敗をしてからなので、偉そうなことは言えないのだが、とにかく治安は地道な努力によって維持されているのだ。
「そろそろ、仕事に戻るでありますよ」
「あ~ん、もう少し!」
「ほら、固パンを食べ終えてないし!」
※
木剣が振り下ろされる。
一日の仕事を終え、士官候補として教育を受け、疲労は無視できないレベルに蓄積されているが、フェイは十分な余裕を持って木剣を横に躱す。
後ろに下がれば容易く追撃されるが、横に躱せば相手はすぐに次の攻撃に移れない。
体の向きを変えなければならないからだ。
もっとも、フェイが本気を出せば追撃されない位置に跳躍することも、相手が体の向きを変える前に反撃することも容易い。
それほどの実力差がフェイとクロノの間にはある。
わずかな、フェイにとっては必殺の一撃を放つのに十分な時間が経過し、ようやくクロノは横薙ぎの一撃を放った。
上体が泳ぐ。
フェイが一日の仕事を終えて疲労しているようにクロノも疲労を蓄積させているのだ。
クロノは弱い。
まず、体力がない。
次に技術がない。
最後に才能がない。
これだけないない尽くしなのだから、諦めても良さそうなものだが、それもしないのである。
一歩退いて木剣を躱すと、好機と踏んだのか、クロノが肩から突っ込んでくる。
ヒラリと足捌きだけでクロノの体当たりを躱す。
クロノが振り向き、軽い衝撃がフェイの腕を襲った。
クロノが振り向き様に木剣を投げたのだ。
「……っ!」
ただし、驚きに目を見開いたのはクロノだ。
フェイがクロノの木剣を自分のそれで弾いたからだ。
クロノは軽く膝を曲げ、今度は低い位置から体当たりを仕掛ける。
本命はベルトに差した短い木剣である。
クロノと戦う時に気をつけなければならないのは普通ならばやらないことを平然とやる所だ。
木剣を投げてくることもそうだし、短い木剣を隠し持っているのもそうだ。
正直、騙し討ちみたいなマネをするのはどうかと思うのだが、この姿勢だけは見習うべきだ。
フェイは軽く木剣をクロノに振り下ろした。
木剣は見事に腕を打ち据え、クロノは短い木剣を落とした。
「私の勝ちであります」
木剣の先端を向けながら、クロノに負けを認めるように促す。
油断はしない。
以前、油断していたら、クロノが殴り掛かってきたからだ。
「……降参」
「本当でありますね?」
両手を挙げたまま、クロノはその場で回転する。
武器を持っていないと示しているのだ。
「降参です」
今度こそ、フェイは警戒を解いた。
「やっぱり、勝てないか」
「誉め言葉が出てこないのが悩ましいでありますね。強いて言えば……」
フェイは言葉を句切り、
「……剣術の訓練を怠らない所は素晴らしいであります」
「随分、間が空いたね」
クロノは気分を害した様子もなく用意していた水を飲んだ。
「もう九月か」
「月日が経つのは早いでありますね」
クロノは天を仰ぐ。
「……海水浴、行きたかったな」
「水練でありますね」
「いや、水練ではなく……薄手の衣装を着て頂き、水の掛けっこをしたり、砂浜に横たわって、ダラダラしたり」
どうやら、クロノの言う海水浴とは淫猥で、退廃的で、生産性のない催しらしい。
「まあ、仕方がないね」
「仕方がないであります」
クロノは汗を拭い、フェイを見つめた。
「汗を掻いたね」
「そうでありますね。湯浴みの準備は整っているので、一日の汗を流してくると良いであります」
クロノは頭を振った。
「失礼。汗を掻きました」
「湯浴みの準備は整っているであります」
クロノはフェイの肩を掴み、
「汗を、掻き、ました」
「……汗を流して欲しいという催促でありますか?」
クロノは笑った。
満面の笑みだった。
※
フェイはクロノと一緒に湯浴みをして疲労度最大、夜伽で疲労が限界を振り切ったにも関わらず、清々しい気分で朝を迎えた。
「……複雑な気分でありますね」
「あたしが必死に仕事をしてるってのに、暢気に香茶なんて啜ってんじゃねーわよ」
フェイが香茶を啜ると、エレナは不機嫌そうに言った。
「何をしているでありますか?」
「収入報告の下準備よ」
エレナは山のように積まれた紙の束を睨み、吐き捨てるように言った。
「アイツが色々とやってくれるお陰で支出は……約三.五倍」
「そ、そんなに使ったでありますか?」
フェイは驚きのあまり声を裏返らせた。
言われてみれば新兵舎の建築や旧兵舎、城塞の修繕、戦争、港の建設など色々あったような気がする。
「収入も増えてるから、そんな顔しなくても大丈夫よ」
「驚かせないで欲しいであります」
エレナが言うのなら間違いないだろう、とフェイは胸を撫で下ろした。
「収入が増えるのなら騎兵を増やして欲しいでありますね。それから、ちょっとだけムリファイン家の再興に力を振り分けてくれると嬉しいであります」
「現金ね。ま、嫌いじゃないけど、そういう所」
自分でも図々しいかな、とフェイは思う。
「そう言えば昨夜はフェイの順番だったわよね。念願が叶った感想はどう?」
「……」
念願、確かに念願でありますね、とフェイは昨夜のことを思い出す。
「夜伽の時は……何故か、失敗ばかりしていた頃を思い出すであります」
「ああ」
エレナは分かっているような、分かっていないような微妙な表情で相づちを打った。
あの頃は上手くやれると思っていたのだ。
「帝都に行った時はデキる所をアピールしようとして盗賊にボコられたもんね」
「そうであります」
蓋を開けてみれば失敗の連続だった。真面目に仕事をしているつもりが足を引っ張っているばかりで、最後の砦だった武力も自分で思っているほどじゃなかったのだ。
夜伽だって……ギュッと目を閉じてクロノにしがみついているだけだ。
エレナのようにクロノを愉しませるような余裕なんてない。
「エレナ殿のように上手くいかなかったであります」
「あたしだって、フェイが思ってるほど上手くできた訳じゃないわよ。実務経験なんてなかった訳だし」
よ、夜伽の話じゃないでありますね、とフェイは何でもそういうことに結びつけてしまう自分に赤面する。
夜伽以外でもエレナは凄いと思う。
何もかも奪われ、奴隷として売られながら、今の地位に就いているのは尊敬に値する。
十七、八歳だった頃のフェイにはエレナやクロノのようなマネはできないような気がする。
むぅ、とフェイは下唇を突き出し、自分の手の平を見つめた。
手の皮は厚く、関節は節くれ立っている。
この手はフェイの誇りだ。
だが、
「……あたしの手も似たようなもんよ」
「心が読めるでありますか?」
「あんたの心を読めないヤツは洞察力皆無ね」
軽口を叩き、エレナはフェイにインクの汚れを見せつけるように胸の位置まで手を上げる。
「やっぱり、後悔は先に立たないのよね。今からでもとか考えて努力はしたけど、無駄だったわ。魔術も適性がなくて習得できなかったし」
何のために? とは聞かない。エレナの家族は殺されたと知っているし、仇を討つために戦う力を身に付けようとしたというのも容易く想像できたからだ。
「言っておくけど、諦めた訳じゃないわよ? あたしはあたしのやり方で仇を討つって決めたの」
フェイは香茶を飲み干し、席を立った。
エレナの仕事部屋から出ると、侯爵邸は俄に殺気立っていた。
納税のため……と言うよりも納税に伴う超過勤務のためである。
余裕がなくなると、人心は荒むのだ。
騎兵隊も忙しいが、新兵科である弓騎兵が誕生してから負担は減っている。
人数が増えたことも理由の一つだが、一番の理由はエルフとハーフエルフの優れた視力と聴力のお陰で索敵範囲が広がったからだ。
屋敷の外に出ると、カーン、カーンと鎚を打つ音が響いている。
忙しそうにしている工房のドワーフを横目にフェイはいつもの場所に移動する。
「師匠、遅いんだぜ」
「女同士の話し合いをしていたでありますよ」
ふ~ん、と弟子は興味なさそうに頷き、素振りを再開した。
フェイは近くにあった木箱に腰を下ろし、弟子の動きを確認する。
乱取りや組み手をすることもあるが、フェイは型稽古に重きを置いている。
きちんと基礎を身に付けてこそ、と考えているからだ。
そろそろ、馬術の稽古をさせたい所でありますが、馬が足りないであります。
真剣の重さに慣れさせる方が先でありますかね、とフェイは柄頭を撫でる。
馬車が侯爵邸に進入してきたのはフェイが立ち上がった時だった。
馬車はクロノが遠出に使うような箱馬車である。何故か、二十頭ばかり馬を連れている。
馬車から深窓の令嬢のように降りてきたのはセシリー……セシリー・ハマルである。
軍服姿ではなく、舞踏会に参加する時に着るようなドレス姿である。
色は白、胸の部分が開き、詰め物でも入れているのか、フェイの記憶よりも胸にボリュームがある。
髪が腰まであるのは伸びたからではなく、鬘を付けているからだろう。
「師匠、知り合いか?」
「近衛騎士団にいた頃の同僚であります」
気づいていないのか、セシリーはフェイを見もせずに従者を伴って侯爵邸に向かう。
「あまり近づかない方が良いでありますよ」
「言われなくても、初めて会う貴族になんか近づかないぜ」
初めて出会った時、声を掛けられたでありますよ、とフェイは弟子を凝視する。
「ああいう貴族らしい貴族には近づかない方が無難なんだぜ」
「私は貴族らしくなかったでありますか?」
弟子はフェイを見上げ、思案するように腕を組んだ。
「そりゃあ……けど、俺が言いたいのはそういう意味じゃないんだぜ。ああいう貴族ってのは俺らを人間としてみてない、野良犬とか、虫とか、生ゴミでも見るような視線を向けてくるヤツのこと」
うんうん、と弟子は上手く表現できたと言うように何度も頷いた。
「貴族に限らないけど、ああいうのは容赦がなくて怖いんだぜ。野良犬は抵抗あるかもだけど、虫を殺したり、生ゴミを片付けたりしても悪いと思わないだろ? むしろ、ちょっと、良いことをしてる感じ? 俺らを買おうとするヤツらの方がマシだぜ」
弟子が吐き捨て、フェイは自分の顔が強張るのを感じた。
彼らは健気に生きていると思っていたのだ。
けれど、よく考えれば分かることだ。
見捨てられた子ども。
三人で働けば何とか食べられたかも知れない。
でも、誰かが病気になったら?
働いても食料を確保できなかったら?
「……師匠、生きるってのは綺麗事じゃないんだぜ」
「クロノ様は知っているでありますか?」
弟子は大きく溜息を吐いた。
「あの人は誰かから聞いていると思うぜ」
「……っ!」
フェイは言葉に詰まった。
主君と仰ぐ青年が民のために善政を敷いていることを誇らしく思う一方で、何も知ろうとせずに師匠面していた自分に怒りすら覚えた。
弟子にとって剣術は成り上がるための手段というだけではなく、理不尽から身を守る術だったのだ。
だからこそ、弟子は他の二人を守るためにもフェイに従い、剣術の修行を続けたのだろう。
後悔は先に立たない。
いや、気づいていたとしても、ムリファイン家の再興を諦めて三人の孤児を育てる決意などできなかったに違いない。
「……師匠」
弟子は縋るようにフェイを見上げた。
「トニー。今までも、これからも、私にできるのは戦い方を教えるくらいであります。その技術で身を守るも、自分より弱い誰かをぶちのめすもトニー次第であります」
「俺の名前、覚えてたんだ」
「驚くのはそこでありますか!」
弟子……トニーが驚いたように目を丸くして言ったので、フェイは突っ込んだ。
「弟子の名前くらい覚えているでありますよ。もう一人の弟子はマシュー、女の子はソフィであります」
フェイは咳払いをする。
「私の教える技術がトニーの未来を明るく照らしてくれるのなら嬉しいであります」
「師匠」
トニーの瞳から涙が零れ落ちそうになった瞬間、屋敷の扉が吹き飛ばされんばかりの勢いで開いた。
セシリーは怒りも露わに荒々しく地面を踏み締め、ヒステリックに喚き散らしていた。
「……台無しであります」
気づいた訳ではないだろうが、セシリーは挑発的な笑みを浮かべてフェイに近づく。
危険を察知したのか、トニーはフェイの陰に隠れた。
「フェイさん、お久しぶりですわね」
「南辺境の仕事はどうしたでありますか?」
「辞めましたわ」
プイと顔を背け、セシリーは子どものように唇を尖らせた。
「山の砦に閉じこもるなんて私に相応しくない仕事ですもの。おまけに蛮族の御機嫌取りだなんて冗談じゃありませんわ」
「……そうでありますか」
思う所はあったのだが、より良い待遇を求めて異動を決めた手前、フェイは頷くに留めた。
「今日は何のようでありますか?」
師匠、とトニーはフェイの服を引っ張った。
「エラキス侯爵に挨拶をするように、とお兄様からお願いされましたの」
「ブラッド殿が?」
思わず、フェイは声を上げた。
セシリーの兄……ブラッド・ハマル子爵は第五近衛騎士団団長である。
穏和な性格で知られているのだが、クロノとの接点が見えない。
「名ばかりとは言え、近衛騎士団に加わったんですもの。これで戦力を整えるように、というお兄様からの心尽くしですわ」
「で、ありますか」
頷きながら、フェイは噂と現実の落差に戸惑っていた。
いや、セシリーを通しているから落差が生じているだけで本当に気遣ってくれているのかも知れない、とフェイは思い直す。
「折角、お兄様が気を使って下さったのに留守にしているなんて馬鹿にしているんじゃなくて?」
「クロノ様は忙しいであります」
フェイが言うと、セシリーは不愉快そうに目を細めた。
「所詮、新貴族ですものね」
「……」
どうやら、セシリーはクロノが新貴族……成り上がり者だから、常識を弁えていないという理屈で納得したらしい。
「明日、改めて来ますわ。それから、馬の世話をして下さらない?」
頼んでいるようで、馬の世話をするのが当然、もしくは馬の世話をしろという命令である。
「分かったであります」
どうするべきか悩んだ末、フェイは頷いた。
挨拶に来たのだから、客として迎えるべきだろうし、ブラッド・ハマル子爵の意図が分からない今は不興を買うべきでないと判断したのだ。
分かったであります、などと言ったものの、フェイとトニーの二人で二十頭の馬を世話するのは無理な話である。
マシューとソフィ、久しぶりにエラキス侯爵領に戻ってきたシルバの力を借りて空いていた馬房を掃除し、藁を敷く。
もちろん、それで終わりではない。
馬房に馬を移動させた後は水と秣も手配しなければならなかった。
「……休日が終わってしまったであります」
「あんな女の言うことなんて無視すりゃ良かったじゃないか。今のお前さんはクロノ様の部下なんだから」
夕日を眺めながら言うと、シルバは呆れたように言った。
「クロノ様のお客様でありますからね。無碍にできないでありますよ」
「そりゃ、まあ、俺にだってクロノ様に迷惑を掛けたくないって気持ちはある」
シルバはフォークを地面に突き、憮然とした面持ちで言った。
クロノに迷惑を掛けたくない気持ちはあるが、セシリーのために働くのは嫌なのだろう。
「師匠、俺達は救貧院に戻るぜ」
トニーはマシューとソフィと一緒に侯爵邸から出て行った。
「あの子達に服を買ってやったのか?」
「将来に向けての投資であります」
あと五年もすればトニーは立派な青年になるだろうし、マシューとソフィも立派に成長するだろう。
「……良い子達だな」
「自慢の、弟子達であります」
※
翌日、セシリーは怒っているようだった。
無理からぬ話である。
夕方まで応接室で待たされたら誰だって怒る。
怒らないまでも苛立つに違いない。
ましてセシリーは旧貴族である。
旧貴族的な感覚で言えばクロノは成り上がり者である。
セシリーの苛立ちは待たされていることだけではなく、成り上がり者の新貴族が歴史ある旧貴族である自分を蔑ろにしているという意識に起因しているのだろう。
家格……歴史や血統は旧貴族間でも重要視される。
もっとも、それを何処まで判断基準とするかは育った環境や家風によるが。
今にも斬りかかってきそうでありますね、とフェイは応接間に入ると同時に思った。
「クロノ様がお呼びであります」
「一言くらい詫びの言葉があっても宜しいのではなくて?」
「お待たせして申し訳ない、とクロノ様は仰ってたであります」
セシリーの表情が険しさを増す。
「執務室に来て欲しいであります」
フェイはセシリーを先導し、クロノの執務室に案内する。
「クロノ様、セシリー殿を連れて来たであります」
「……っ!」
扉を開けると、セシリーが一瞬だけ硬直する。
セシリーはどうにか動揺を抑え込むと、執務室に足を踏み入れた。
フェイも入室し、扉の脇で待機する。
セシリーが驚くのも無理はない。
執務室にはクロノの他に一名……ティリア皇女がいたのだ。
皇位継承権を失ったとは言え、ティリア皇女以上の格を持つ貴族はいない。
そして、クロノとティリア皇女の立ち位置だ。
執務室のイスに座っているのはクロノで、ティリア皇女は傍らに立っている。
フェイには普段通りと言っても差し支えのない光景である。
だが、セシリーはどうか?
帝国最高の格を持つティリア皇女が何らかの事情でクロノを立てている。
そう見えるはずである。
次に……何故、ティリア皇女が成り上がり者に過ぎないクロノを立てているか? と考えるはずだ。
この疑問の答えはすぐに導き出される。
港だ。
港の完成により、莫大な利益が生まれる。
ここまで思い至ればセシリーの兄……ブラッド・ハマル子爵が二十頭の馬をクロノに贈った理由にも説明がつく。
いや、説明がついてしまう。
「……兄の名代として挨拶に伺いましたの」
「うん、話は聞いているよ」
クロノはイスの背もたれに体を預け、腹の上で手を組んだ。
セシリーは顔面蒼白だ。
自分の役割が施しではなく、御機嫌伺いだったと気づけば顔面蒼白になるのも道理である。
実際はどうでありますかね? とフェイは思う。
確かにハマル子爵領方面から来る商人の数は減少傾向にあるが、カド伯爵領の港……シルバ港は開港したばかりである。
セシリーが思い違いをしていたとしても、現時点でブラッド・ハマル子爵がクロノにへりくだる必要はないように思う。
むしろ、今のタイミングならば対等な関係が築けそうなものだが。
「これから、まあ、色々と仲良くしたいね。昔のことは水に流して」
「そ、そうですわね」
「……クロノ」
水を差したのはティリア皇女である。
「どうして、お前が仲良くしてやらなければならないんだ?」
「そりゃあ、まあ、馬も貰ったし」
ティリア皇女が不思議そうに尋ねると、クロノは言葉を濁した。
ティリア皇女は考え込むようにおとがいを逸らし、
「確かに馬二十頭分は仲良くしてやらなければならないな。だが、馬二十頭分の仲の良さとはどれくらいだ?」
例えば、とティリア皇女はセシリーを見る。見据えているのでも、見つめているのでもなく、おとがいを逸らした後の挙動として見たのだ。
「例えば、だ。同盟のようなものを結ぶとして馬二十頭というのは代価として安すぎないか?」
「ティリア、そんな足元を見るようなマネをしなくても」
ティリア皇女は不満そうに唇を尖らせる。
「別に、私は足元を見ている訳じゃないぞ。対等な関係を結ぶためには適当な代価が必要だと言っているんだ。馬二十頭で対等な関係を結べると思われているなら、馬鹿にされているとしか思えないじゃないか」
クロノは頬杖を突き、思案するように右の頬を人差し指で叩く。
「ハマル子爵は、どう考えているのかな?」
「……っ!」
ここで話を振られると考えていなかったのか、セシリーは息を呑んだ。
あくまでセシリーはブラッド・ハマル子爵の代理人である。
目的を正しく把握していなかった点を鑑みるにブラッド・ハマル子爵はセシリーを言葉通り挨拶に寄越したと考えるべきだろう。
「お兄様の考えは、私には分かりませんわ」
「そう? じゃあ、今度はもう少し話を煮詰めてから来てくれると嬉しいな」
子どもの使いじゃないんだよ、とクロノは突っ込まない。
「気分が優れないので、失礼しますわ」
「フェイ、送ってあげて」
「結構ですわ」
セシリーは素早く執務室から出て行った。
気配が遠ざかるのを確認し、フェイはクロノとティリア皇女を見つめた。
あ~、とクロノは机に突っ伏した。
「あの子、気が短くて苦手なんだよね」
「それでティリア皇女をお呼びしたでありますか?」
「ああいう性格だから、権威に弱いと思って」
確かにクロノの思惑通りになった。
「打ち合わせ通りと言う訳でありますか?」
「そんなことしていないぞ」
ティリア皇女は机に寄り掛かり、豊かな胸を強調するように腕を組んだ。
「私は思ったことを口にしただけだ。同盟の件は別としても、クロノに何か頼み事をするのなら馬二十頭は安い」
「挨拶に来ただけなら、お釣りが来るくらいであります」
ティリア皇女は呆れたように溜息を吐いた。
「あそこで言質を与えたら、馬二十頭で済まされるかも知れないじゃないか」
「……なるほど、駆け引きでありますね」
そうだ、とティリア皇女は満足そうに頷いた。
これだけの機転がいつも発揮されれば、と思わないでもない。
「ハマル子爵はどう考えているのかな?」
「港が完成して物流の経路が二つに分かれたからな。多分、ハマル子爵はクロノとの関係を強化して利益を確保しようとしているんじゃないか?」
クロノは驚いたようにティリア皇女を見つめる。
「その顔は何だ。私は商業区に通い、情報収集に努めているんだぞ」
「で、ティリア先生はどんな展開があると思う?」
う~~ん、とティリア皇女は首を傾げる。
「……だ、大理石の価格が上がるぞ」
「根拠は?」
「ボウティーズ男爵領の石切場で働いていたミノタウルスがいなくなったからだ。あそこは帝国でも有数の大理石の産地だからな。何世代にも渡って働き続けた労働者がいなくなれば産出量は確実に減る」
その労働者はカド伯爵領で開拓に従事している訳だが、とティリア皇女はチラリとクロノに視線を向けた。
「むむ、今の内に大理石を購入すべきでありますね」
「海千山千の商人を相手にして勝つ自信ないから。真面目に領地運営に勤しみます」
そう言って、クロノは溜息を吐いた。




