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第4話『三人寄れば……』


 エリル・サルドメリクの朝は早い。

 夜が白々と明ける頃に目を覚ます。

 それは習慣のようなもので、ティリア皇女を監視しなければならないという義務感から生まれた行動ではない。

 この習慣がどのように始まったのか、エリルは覚えていない。

 そういうものだと思う一方で、発端となった出来事は思い出せないのに、結果が習慣として残っていることを不思議に思う。

 不思議に思うだけで不安や恐怖は感じない。

 忘却は人間にとって当たり前の現象だからだ。

 忘却が当たり前の現象ならば、忘却されない記憶は良い意味でも、悪い意味でも価値を持つのだろう。

 サルドメリク子爵の屋敷に引き取られた日、両親は着飾らせてくれた。

 罪悪感を誤魔化すためだったのか、貴族の娘として恥ずかしくないようにという配慮だったのかは分からない。

 まるでお姫様みたいよ、と母は言った。

 もちろん、そんなはずない。

 平民が買える程度の服と髪飾りだ。

 あくまで比喩だ。

 平民である両親はティリア皇女を間近で見たことなどないのだから。

 平民の子が貴族の養子として迎えられる。

 夢のような話だ。

 そして、いつだって夢のような話には裏がある。

 両親だって貴族が何の下心もなく平民の娘を養女に迎えるはずがないと分かっていたはずだ。

 事実、宮廷学者であるサルドメリク子爵はエリルを養子として迎える本当の理由を隠していた。

 サルドメリク子爵の目的は実験体の確保だった。

 だが、わざわざ平民であるエリルを養子として迎えた理由はよく分からない。

 実験体を確保するだけならば奴隷を購入した方が効率的なはずだが、サルドメリク子爵には彼なりの思惑があったのだろう。

 本当の理由を隠していると薄々感じながらも、両親は貴族の元で暮らした方がマシな生活ができると考えたはずだ。

 もちろん、それは推測……エリルの願望でしかない。

 極限まで意味を還元すればサルドメリク子爵はエリルを買ったのだし、両親はエリルを売ったのだ。

 それだけの話に終始してしまう。

 今となっては両親の本心が何処にあったのかは分からないが、取り敢えず、サルドメリク子爵の目的は達成された。

 彼は人為的な属性付加と仮想人格の実験を成功させたのだから。

 その後、サルドメリク子爵はエリルに教育を施した。

 理由はよく分からないが、そこには一種の侮りが含まれていたように思う。

 エリルは乾いた砂が水を吸うように知識を吸収し、状況に応じて威力や範囲を変えられるように魔術式と仮想人格を改良した。

 結果、サルドメリク子爵は自ら命を絶った。

 やはり、理由はよく分からない。

 いや、分からないと言うのならばエリルがサルドメリク子爵を理解できたことなど一度もなかったのだ。

 立場、年齢、才能……それらはある種の断絶として機能していて、それを乗り越える気力がエリルにはなかった。


「……」


 のろのろとエリルは体を起こす。

 特別な記憶が失われるのは恐ろしいが、生きるためには金が必要で、金を得るためには働かなければならないのだ。

 エリルは服を着替え、手櫛で髪を整える。

 ボロボロの袋を背負い、ティリア皇女の部屋に向かう。

 昨夜の夜伽はティリア皇女ではなく、褐色のハーフエルフが務めていたはずだ。

 レイラと呼ばれるハーフエルフは最古参の愛人であり、ティリア皇女は何かと彼女を意識しているようだ。

 仮にも一国の皇女がハーフエルフに対抗心を抱くのは如何なものかと思うのだが、ケイロン伯爵によればティリア皇女はハーフエルフにエラキス侯爵を寝取られたと感じているらしい。

 では、ティリア皇女はハーフエルフのレイラだけを意識しているのかと言えばそうではないと断言できる。

 まず、ケイロン伯爵には明らかな敵愾心を抱いている。

 最近はフェイ・ムリファインのことも警戒しているようである。

 スーと同レベルで張り合うこともしばしばだ。

 エラキス侯爵が奴隷であるエレナと関係を持っていることに関しては不満を抱きつつも、あまり表だって文句を言わない。

 どのような選考基準によるものか、侯爵邸の料理人である女将と双子のエルフは意識の埒外にあるようである。

 料理人である女将はティリア皇女に劣らぬ胸の持ち主であり、双子のエルフは……何だかよく分からないが、馬鹿っぽく、その馬鹿っぽさ故に、エラキス侯爵と親しいように思える。


「……基準がよく分からない」


 群れで暮らす動物のように上下関係が存在し、ティリア皇女は自分より格上の相手に敵愾心を抱いているのかも知れない。


「双子のエルフは納得、女将は試す必要がある」


 あの胸はティリア皇女のそれに劣っているのか、検証し、誤っていたのならば認識を改めさせる必要がある。

 エリルは開け放たれた扉の前で立ち止まり、そっと部屋を覗き込む。

 部屋の中央には円錐形のテントが張られていた。


『何ダ?』

「用はない」


 エリルが答えると、スーは具合を確かめるように槍を振り回した。


『オレ、薬草、取ル』

「分かった。昼頃までに戻ると、エラキス侯爵に伝える」


 スーが真上を指差したので、エリルは昼頃と推測した。

 彼女は昏き森に分け入り、採取した薬草を売って現金収入を得ている。

 何故、エラキス侯爵はスーに手を出さないのか? とエリルはスーを見つめた。

 少年のような体つきだが、目を凝らしてみると、わずかな起伏があることに気づく。

 しかも、パンツを履いていない。

 エラキス侯爵が手を出す基準とは何か? とエリルは内心首を傾げる。


『オレ、行ク。良イカ?』

「構わない」


 スーは手製の槍を担ぎ、窓から外に出る。

 エリルは廊下を通り、階段を上り、ティリア皇女の部屋……その前に置かれたイスに腰を下ろした。

 イスはエラキス侯爵が使用人に命令し、用意させた物だ。

 エラキス侯爵の使用人は元兵士で、去年の五月に起きた神聖アルゴ王国の侵攻で兵士を続けられなくなった者が殆どだと言う。

 彼女達はそれなりにエラキス侯爵に恩義を感じているようで、かなり真面目に仕事をしている。

 エリルはボロボロの袋から紙と板、羽ペン、インクを取り出して報告書を作成する。

 紙はエラキス侯爵の領地で作られた……正確には使用済みの紙を再生した物で、新品より質は落ちるが、エリルの懐には優しい。

 報告書を作成するのは手間の掛かる作業だ。

 ティリア皇女は遊んでばかりなので、書く内容に苦労させられる。

 晴れの日は剣術の稽古と視察の名目で露店巡り、雨の日は侯爵邸に引き籠もって読書三昧だ。

 ティリア皇女の監視役は自分に相応しい閑職である、とエリルは報告書を書きながら結論づける。

 独学で軍事的な知識は得たが、それが実戦で通じるかは分からない。

 組織運営のノウハウもなく、一軍を率いる将としては不適格、一兵士としても魔術に特化し過ぎているため運用が難しいという欠点を抱えている。

 魔術式の開発やマジック・アイテムの製造ならば結果を出せると思うのだが、名ばかりの貴族であるエリルには望む職場に異動することさえ難しい。

 アルコル宰相の命令に従っておけば、いつかは機会が巡ってくるはず、とエリルは手を休める。

 いや、アルコル宰相の命令に従いつつ、エラキス侯爵から援助を受けられるように恩を売っておくべきだ。


「……打てる手は打っておくべき」


 身の振り方を考えるのは間違えていないはず、多分。



 幽閉を解かれ、エラキス侯爵領に来るまでティリア皇女は気分が鬱ぎがちだったように思う。

 エラキス侯爵領に来てからは情緒不安定で、夜伽を務めた翌日は顔を真っ赤にして身悶えしていた。

 食堂に向かうティリア皇女の足取りは軽やかだ。

 気分が鬱ぎがちだった頃の姿を思い出せないほどに。

 エリルは無言で食堂に入り、給仕を待つ。

 時折、突拍子のない料理を作るが、それも含めて女将の料理は美味しい。

 女将は最初にティリア皇女、次にエリルに給仕する。

 今日のメニューはスープとパン、白身魚のムニエルだ。

 カド伯爵領が領地と加わってから、魚介類がメニューに加わった。


「嫌いなもんでも入ってたかい?」

「……女将の料理は美味しい」

「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。それに比べて」


 女将はティリア皇女に視線を向け、これ見よがしに溜息を吐いた。


「む、女将の料理は野趣に富んでいて新鮮だぞ」

「そりゃあ、どうも」


 女将は不機嫌そうに唇をひん曲げた。


「女将、少し屈んで欲しい」

「?」


 女将は不思議そうに首を傾げつつ、膝を屈める。

 エリルは無言で女将の胸に顔を埋め、目を閉じる。


「ど、どうしちまったんだい?」

「……確かめている」


 顔を埋め、エリルは女将の胸を持ち上げる。

 まるでパン生地のような重量感だ。

 調理場が暑いからだろう。

 肌はやや湿っぽく、ちょっと汗の臭いがする。


「……理解した」

「何を理解したか分からないけど、急に抱きつかれると困っちまうね」


 エリルは女将から離れ、


「大丈夫、もうしない」

「騎士団長様も母親が恋しい年頃なのかね」


 女将は乱暴にエリルの頭を撫でると、厨房に戻った。

 エリルはティリア皇女を盗み見ながら、食事を口に運ぶ。

 ティリア皇女は野趣に富んだと評したが、女将の料理は何処か懐かしい感じがする。

 エリルが食事を終えると、ティリア皇女は席を立った。


「……ティリア皇女」

「何だ。私は忙しいんだ」

「少し屈んで欲しい」


 ティリア皇女は理解不能な物を見るような視線をエリルに向けた。


「私の胸にしがみつくつもりか?」

「これはとても大切なこと」


 む、とティリア皇女は呻いた。


「だが、断る!」

「……残念」


 エラキス侯爵を引き合いに出せば良かっただろうか、とエリルは荒々しい足取りのティリア皇女を追う。

 ティリア皇女の胸を触れなかったのは残念だが、エラキス侯爵が女性の胸に関心を抱いていると情報を得ている。

 騎士団長様も母親が恋しい年頃なのかね、と女将は言った。

 答えは明白だ。


「……ティリア皇女」

「何だ?」

「ティリア皇女の胸には母性が足りない」


 ティリア皇女は立ち止まり、ギギギギギィと蝶番が軋む音を連想させる動作で振り向いた。


「な、な、何を言うかと思えば……わ、私の方がサイズは上だ。そ、それに若いぞ」

「ティリア皇女が女将より若い点は同意するが、サイズは同じと判断する。胸が経年劣化し、価値が損なわれるのだとしたら、エラキス侯爵が女将を愛人とし、今も夜伽を務めさせる理由が分からない」


 ティリア皇女は丘に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた。


「エラキス侯爵が女将を愛人としているのは……女将が経年劣化しても損なわれない価値を持つからと判断する。即ち、母性」

「……お、女将に、こ、子どもはいないぞ?」

「それは問題ではない。ティリア皇女は認識を改めるべき」


 ティリア皇女は驚愕に目を見開く。


「ど、どういう意味だ?」

「ティリア皇女の胸は大きい以外に価値が存在しない」


 ガン! とティリア皇女は鈍器で殴られたように仰け反った。


「胸は大きければ良い訳ではない、とエラキス侯爵の行動からも分かる」


 ティリア皇女は打ちのめされたような表情を浮かべ、覚束ない足取りで上の階に向かった。


「……」


 エリルは視界からティリア皇女が消えるのを見届け、元来た道を戻る。

 食堂に入ると、女将が食器を片付けていた。


「もう腹が減ったのかい? ちょっと待ってておくれよ。食器を片付けたら、適当な物を作ってやるからね」

「空腹は感じていない。少し話がある」


 エリルはイスに腰掛け、女将を待った。


「待たせちまったね」

「別に構わない」


 女将はイスを移動させると、エリルの隣に座った。


「……エラキス侯爵のことで質問がある」

「あたしに答えられる範囲なら答えさせて貰うけどね」

「何故、エラキス侯爵はスーに手を出していないのか?」


 女将は意表を突かれたとでも言うように目を丸くする。


「あたしにゃ、分からないね」

「では、質問を変える。エラキス侯爵はスノウにも手を出していない。それは何故か?」

「そりゃあ、女と認識してないからじゃないかね」


 エリルは首を傾げた。

 スーも、スノウも女性らしい体格ではないが、エラキス侯爵を受け容れることはできるはずだ。

 つまり、エラキス侯爵には何らかの基準があり、その条件を満たすと女と認識するようになると言うことだろうか。

 だが、リオ・ケイロン伯爵は男である。

 と言うことは条件さえ満たせば男女を問わないと考えられるのではないだろうか。


「……とても参考になった。礼を言う」

「エリル嬢ちゃんはクロノ様が好きなのかい?」


 女将に問い掛けられ、エリルはエラキス侯爵をどう思っているのか考える。

 すぐに答えは出た。


「どうとも思っていない。将来のことを考えるに当たり、エラキス侯爵を利用できればと考えている。そのために情報を集めている」

「何と言うか、難儀なもんだね」

「当然、生きることは難しい」


 エリルは席を立ち、食堂を後にした。

 エラキス侯爵の好みが分かれば恩を売りやすくなると考えたが、そう簡単にはいかないようだ。

 だが、収穫もあった。

 エラキス侯爵は男にも手を出すが、スーやスノウに手を出すつもりがないらしい。

 恐らく、エリルもエラキス侯爵の好みに含まれていない。

 近づいた途端、襲われる可能性は低いはずだ。

 エリルは階段を上り、侯爵邸の最上階にあるエラキス侯爵の執務室に向かう。

 執務室に入ると、エラキス侯爵は書類と睨めっこしていた。

 執務室を見渡すと、皿や壺など調度品が飾られていた。

 他にも大小の木箱、服、靴などが壁際に積み上げられている。


「何か用?」

「スーから伝言がある。昏き森に薬草を採りに出掛けるが、昼までに戻ると」

「ありがとう」


 エリルが伝言を伝えると、エラキス侯爵は再び書類と睨めっこを開始した。


「……エラキス侯爵は調度品に興味がないと考えていた」

「ん~、それは……港が完成した時に職人希望の部下の作品を見て、気に入ったのがあれば出資するみたいな約束をして」


 律儀に約束を守ろうとした結果が、今の執務室のようだ。


「エラキス侯爵はスーやスノウに手を出していない。何故?」


 エリルは近くにあった壺を手に取り、それとなく尋ねてみた。

 ゆっくりとエラキス侯爵は顔を上げ、


「手を出す以前に、スノウは僕に恋愛感情を抱いてないんじゃないかな?」

「……」


 エリルはスノウの行動を思い出す。

 確かにスノウはエラキス侯爵に好意を抱いているようだが、恋愛感情はないように思える。


「スーはエラキス侯爵の嫁と聞いている」

「お嫁さんなんだけど、スーは嫁ってのを理解してないような感じがするんだよね。どっちを無視しても後味が悪そうだし」


 エラキス侯爵は頬杖を突いた。


「……理解した」


 手を出す条件は相手がエラキス侯爵に恋愛感情を抱いていること、相手が自分の置かれている状況を理解していることらしい。

 一応、相手のことも考えているようだが、後味の悪い想いをしたくないと言うのが本音だろう。


「……私はエラキス侯爵に恋愛感情を抱いていない。手を出すと、とても後味の悪い想いをすることになる」

「まあ、それは言われなくても」


 念のために釘を刺すと、エラキス侯爵は苦笑いを浮かべた。

 エリルは壺を元の位置に戻し、


「私はマジック・アイテムを作れる。利益になると判断されれば私も援助を受けることは可能?」

「援助はしたいけど、ね」


 エラキス侯爵は意味ありげに目配せする。


「……エラキス侯爵は工作をされることを懸念している、と判断する」

「援助するだけ援助した後で帝都に帰られると困るかな?」


 言葉通りに受け取るならばエラキス侯爵は帝国を仮想敵とまでは認識していないようだ。


「将来のことを考えるに当たり、私はエラキス侯爵と協力的な関係を築きたいと考えている。これは偽りではない」

「信じたいね」


 エラキス侯爵は頬杖を突いたままだ。

 エラキス侯爵は何を警戒しているのか、とエリルは思考する。


「……私はアルコル宰相からティリア皇女を監視し、定期的に報告するように命令されている」

「知ってるよ」


 当然だ、と思う。


「それ以外の命令は受けていない」

「アルコル宰相は何を考えているのかな?」


 エラキス侯爵は溜息を吐くように言った。


「私には分からない。けれど、推測することはできる」


 内戦終了後、アルコル宰相が打った手の中には意味のあったものも、無意味だったものも、未だに判断のつかないものもある。


「ティリア皇女はアルフォート次期皇帝が暴走した時の備えとも考えられる」

「自分でティリアから第一皇位継承権を奪ったくせに?」

「利用価値があるのならば利用する。それだけの話」


 エラキス侯爵は背もたれに寄り掛かり、腹の上で手を組んだ。


「……盤上の駒か。面白くないね」

「利用できるものを利用する。それが政治というもの」


 アルフォート次期皇帝が暴走した時の備えと言うのなら、アルコル宰相はエラキス侯爵と友好的な関係を築く必要がある。

 少なくとも、エラキス侯爵の利益を損ねるようなマネを目に見える形では行わないだろう。


「どうして、エリルは僕と仲良くしたいのかな?」

「選択肢を限定するのは愚か者」


 なるほど、なるほどね、とエラキス侯爵は小さく呟いた。


「分かった。信じるよ」

「感謝する」


 そう言いながら、エリルはエラキス侯爵の言葉を鵜呑みにしない。

 エラキス侯爵もエリルを信用していないはずだ。


「試験……まあ、試験だね。援助する条件として通信用のマジック・アイテムを作って欲しいんだけど。ああ、材料費はエリルが都合してね」

「了解した。最初から言葉だけで信じて貰えるとは考えていない」

「期日は設けないから気長にね」


 小さく頷き、エリルは執務室を後にした。



「……仮想人格起動、術式目録展開」


 エリルの呟きに応じ、仮想人格が起動、術式目録が展開する。


「術式選択……術式編集」


 術式を選択すると、通信用のマジック・アイテムを製造する時に使う魔術式が視界を埋める。

 薬物を用いて魔術式を記憶した場合、魔術式を編集することはできないが、仮想人格があれば可能となる。


「術式編集、術式目録展開終了……仮想人格休眠状態に移行」


 魔術式の編集を終了し、仮想人格を休眠状態に移行させる。


「……問題は」


 エリルは机の上にある貨幣を見つめる。

 エラキス侯爵邸のお陰で食費と住居費は節約できているのだが、手元に残っているお金は少ない。

 チラリと本棚を見る。

 部屋を宛がわれた時は一冊も本がなかったが、今は隙間の方が少なくなっている。


「知識は必要なので、浪費ではない」


 エラキス侯爵は期日は設けないと言ったが、それを鵜呑みにするほどエリルは子どもではないのだ。

 エリルは貨幣を小さな袋に収める。


「……私にも権利はあるはず」


 ボロボロの袋を背負って外に出ると、ティリア皇女が侯爵邸の庭で木剣を振り回していた。

 鬼気迫る表情だ。

 命が惜しいのか、誰も声を掛けない。


「ティリア皇女」

「何だ!」


 ぶん! と木剣を振り下ろし、ティリア皇女はエリルを睨んだ。


「私は忙しいんだ!」

「分け前を貰いに来た」

「分け前?」


 ティリア皇女は不機嫌そうに肩眉を跳ね上げる。


蛮刀狼バンデッド・ウルフを倒すのに協力した」

「断る!」


 ちょっとムッとしたが、ティリア皇女がこういう女だと心得ている。


「もちろん、ただでとは言わない。私には知識がある」

「ほぅ、どんな知識だ?」

「宮廷恋愛についての知識。恋愛には駆け引きが不可欠」

「ふんふん、それで?」


 思い当たる節でもあったのか、ティリア皇女は興味深そうに頷く。


「初めから全てを与えてはならない。全てを差し出すと、男は調子に乗る」

「……す、全てを与えた後は、ど、どうすれば?」


 ティリア皇女は気まずそうに視線を逸らした。


「何もかも思い通りになる訳ではない、と認識させれば良い。不機嫌な素振りや冷淡な態度を取るのが効果的とされる」

「そうか」


 ティリア皇女は何度も頷き、だらしなく笑った。


「……分け前を」

「確かめてからだ」


 そう言って、ティリア皇女はエリルに背を向けて歩き出した。

 エラキス侯爵の所に行くつもりなのだろう。

 仕方がないので、エリルはマジック・アイテムの素材になる物がないか、ドワーフの工房を覗く。

 工房の印象は雑多に尽きる。

 エラキス侯爵から資金援助を受けているとは言え、ガラスや宝石の類は扱っていないようだ。


「何のようですかな?」

「マジック・アイテムの素材を探している。ガラスや宝石があれば理想的」


 話し掛けてきたドワーフ……ゴルディは太い腕を組んで唸った。


「今の所、ガラスや宝石は取り扱っておりませんな」

「理解した」


 商人は腕の良い職人を囲い込もうとする。

 これは利益だけではなく、技術や知識を独占するという側面がある。


「……商業区に行く」

「分かりましたぞ」


 何か見落としているような気がしたが、エリルは商業区に向かう。

 シルバ港が開港して以来、ハシェルの街は日が経つごとに活気を増している。

 その中でも露店の並ぶ辺りは混沌とした活気に溢れている。

 スーの店……地面に敷いた毛皮に薬草を置いただけ……は隅の方にある。


「エラキス侯爵には言伝した」

『分カッタ』


 エリルはスーの邪魔にならないように近くにあった木箱に腰を下ろした。


『用カ?』

「二人とも何してるの?」


 顔を上げると、スノウがスーの店の前に立っていた。


『ソコ、退ク』

「ごめんね」


 スーが睨み付けると、スノウはエリルの座る木箱の前にしゃがみ込み、手にしていたソーセージを頬張った。


「今日はハーフ……レイラと一緒ではない?」

「う~、お母さんは忙しいみたい。あっ! お母さんだけじゃなくてフェイもだよ。えっと、ほら、麦の収穫も終わって、そろそろ税金を納める時期でしょ? けど、ケイン隊長があちこちに行ってるから」

「理解した」


 エリルはスノウの言葉を遮った。

 徴税官が七月初旬に農村を巡って収穫高を見積もり、八月に再び村々を巡って定められた割合の作物を徴収し、最後に商人が徴収された作物を買い取り、現金化されるという流れだ。

 騎兵隊長であるケインが未だに領地を巡回しているのは作物の徴収に時間が掛かっているからだ。

 よくよく考えてみれば騎兵隊長のケインは八月にエラキス侯爵が戻ってくるまで領主代行として働いていたのだ。

 通常よりも時間が掛かって当然だ。

 もちろん、エラキス侯爵はそれを理解しているだろうし、徴税官が見積もりをベースに作物を徴収しないようにケインのような監督者が必要なことも理解しているはずだ。


「エリルは何をしてるの?」

「マジック・アイテムの材料になるガラスや宝石を探している。マジック・アイテムを作ればエラキス侯爵から援助して貰える」

「そうなんだ」


 スノウはソーセージを食べ終え、


「ガラスや宝石って高いんでしょ? エリルって無駄遣いばかりしてるからお金ないんじゃないの?」

「無駄遣いではない。知識はとても大切」


 心外だ、と思う。


「……少しならお金を貸すけど? あ、返済は気にしなくても良いよ。もう戻ってこないつもりで貸すから」


 エリルはスノウを見つめた。


「何故?」

「う~ん、ボクはお金って大事だと思う。ボクの住んでた所だと、お金の貸し借りで生き死にの喧嘩になることもあったから。でも、友達とそういうことしたくないし、グチグチ言うのも嫌だし、だから、お金を貸す時は戻ってこないつもりで貸すことにしてるんだ」

「気持ちだけ受け取る」


 自分でもよく分からないが、ここでお金を借りるのはダメなような気がした。


「そう? じゃ、アイディアだけでも出すよ。ほらほら、スーも自分は関係ないなんて顔してないでアイディアを出してよ」

『……』


 スーは渋々と言った感じでエリルとスノウと向かい合うように座り直した。


「……」

「……」

『……話セ』


 スーが突っ込むと、スノウは照れ臭そうに頭を掻いた。


「えへへ、お店の手伝いをするとかどうかな?」

「効率が悪い」


 ちょっとした小遣い稼ぎならそれもありだろうが、ガラスや宝石を買うには効率が悪すぎる。


「けれど、アイディアは問題ないと考える。効率よく稼げる店を探せば良い」

「効率よく稼げる店って……だ、ダメだよ! そういうお店は絶対にダメ!」


 スノウは顔を真っ青にして叫んだ。

 そういうお店とは娼館やそれに類する店のことだろう、と何となく察しが付いた。


『狩リ、スル。獲物、多イ』


 スーは捕食者のような目で周囲の人々を見る。


「それもダメ」

『弱イ奴、悪イ』

「クロノ様の領地じゃ、そういう理屈は通らないよ。そういうことして捕まると、もの凄く殴られるし」


 スノウは今にも泣き出しそうな顔で言った。


「ティリア皇女に倣い、昏き森で動物を狩る」

『オレ、獲物ノ場所、知ッテル』

「ボク達だけで大丈夫かな?」


 スノウは心配性だ、とエリルは思う。

 スーは毎日のように昏き森に分け入って薬草を採取しているし、エリルとスノウだって魔術を使えるのだ。

 しかし、杞憂と切り捨てられないのも事実だ。

 スーはともかく、エリルとスノウは森の素人だ。

 スノウは兵士として鍛えているので何とかなるだろうが、エリルは体力に自信が全くない。

 冷静になって考えてみると、冒険を通り越して自殺行為に近いような気がする。


「……一度、考え直す必要がある」


 手伝いをしてお金を稼ぐというアイディアは悪くないが、効率が悪い。

 効率の良い仕事は倫理的にダメである。

 そもそも、そういう店で効率よく稼げるか疑問が残る。


「そういう店を自分達で経営すれば良い。不特定多数が忌避されるのならば限定すればよい」

「そういう問題なのかな?」

「効率と倫理はクリアしている」


 酒は女将を通じれば安く仕入れられるし、料理の材料も露店で安く仕入れられる。


「三人でエラキス侯爵の相手をする」

「えっと、ボク……お母さんに嫌われたくないよ」

「薄着で酒と料理を提供するだけ。つまり、接待」


 何かが間違っているような気がしたが、エリルは些末事と切り捨てる。


「探したぞ!」


 声の主はティリア皇女である。

 ティリア皇女は怒り心頭と言った様子でエリルを見下ろした。


「お前の言う通りにしたら、素っ気なくされたぞ! 何が『不機嫌な素振りや冷淡な態度を取るのが効果的』だ!」

「……」

「……」

『……』


 エリル、スノウ、スーは顔を見合わせた。


「駆け引きである以上、エラキス侯爵も仕掛けてくる」


 真面目に仕事をしている所に乱入され、不機嫌な素振りや冷淡な態度を取られたら、エラキス侯爵じゃなくても素っ気ない態度を取るだろう、とエリルは今更のようにタイミングの大切さを理解する。


「何だ、その手は?」

「知識を与えたのだから、代価を要求する」


 エリルが手を差し出すと、ティリア皇女は頬を引き攣らせた。


「ぐぬぬ、面の皮が厚いにも程があるぞ」

「これは正当な権利」


 ティリア皇女は腕を組み、エリルから顔を背ける。


「分かった。で、何を買うつもりなんだ?」

「マジック・アイテムの材料となるガラスや宝石。通信用のマジック・アイテムを作れば援助して貰える」


 ふ~、とティリア皇女は深々と溜息を吐き、エリルに何かを放り投げた。

 エリルにぶつかる前にそれを掴んだのはスーだった。


『石?』

「怪しげな露店で売っていたクズ宝石だ」


 スーが手にしている石……無色透明で親指の爪ほどの大きさだ。


「この大きさで長距離の通信は不可能」

「通信距離が短くても構わないじゃないか」


 エリルは愕然とした。

 通信用のマジック・アイテムを作るように言われたが、距離は指定されていない。


「子どものくせに頭が固すぎるんじゃないか?」

「……」


 ちょっとムッとしたが、エリルは言い返さなかった。



 クロノは通信用のマジック・アイテム……ティリア皇女から貰ったクズ宝石を執務室の机に置き、エリルを見つめる。


「ちゃんと聞こえるね。約束通り、援助するよ」

「……感謝する」


 その言葉を聞き、エリルは安堵した。


「将来のことを考えるに当たりと言ってたけど、どんな援助をエリルは望んでいるのかな?」

「私は学者として働きたいと考えている。エラキス侯爵の望むマジック・アイテムを製造するので……」


 ふとエリルは言葉を句切る。

 果たして自分は本当に学者として働きたいと考えているのだろうか? と今更のように疑問が生じたからだ。

 騎士として働いても先がないと判断したから、魔術の研究やマジック・アイテムの製造する部署に異動したいと考えただけで、それほど学者として働きたいと感じている訳ではないのだ。


「私は騎士以外の生き方を模索したいと考えている。マジック・アイテムの製造を請け負うので、それに見合うだけの金銭を要求する」

「マジック・アイテムの相場って今一つ分からないんだよね」


 エラキス侯爵の言いたいことは分かる。

 照明用のマジック・アイテムでさえ金貨十枚するのだ。

 どれくらいの金額が労働の代価として妥当か悩んでいるのだろう。


「月当たり金貨三枚」

「それは働いていない時も?」


 エリルは頷き、


「また、私が本を購入する時、代金の支払いを要求する」


 要求を上乗せする。


「……金貨三枚ね」


 エラキス侯爵は頬杖を突き、エリルから視線を逸らした。


「食事や住居も提供してるんだし、金貨一枚くらいにならない?」


 エラキス侯爵が値切ってくるのは想定済みだ。

 だから、金貨三枚と言ったのだが、金貨二枚も値切ってくると思わなかった。

 しかし、本の代金を支払って貰えるのは大きい。

 この条件を呑んで貰えるのならば大きく譲歩しても良いとさえ思う。


「金貨二枚」


 エリルは人差し指と中指を立てる。


「間を取って金貨一枚と銀貨十枚」

「……」


 エリルは俯き、エラキス侯爵を見つめた。


「衣食住の提供と本の代金を支払ってくれると約束してくれるのならば、その金額で手を打つ」

「何気に条件が追加されているような気が?」


 う~ん、とエラキス侯爵はわざとらしく唸る。


「分かった」

「感謝する」


 何を作らせるつもりなのか、とエリルはその場でエラキス侯爵の指示を待つ。


「……通信用のマジック・アイテムを作って欲しいんだけど」

「その指示は漠然とし過ぎている」


 だよね、とクロノは苦笑いを浮かべた。


「じゃあ、通信用のマジック・アイテムを作るとして、どんな物なら作れるかを教えてくれないかな?」

「了解した。明日には提出する」


 エリルはエラキス侯爵に背を向けて歩き出した。

 執務室から退出する瞬間、自分は時間を持て余す日々に不安を抱いていただけではないか? と疑問が過ぎった。


「……きっと、それも当たり前のこと」


 小さく呟き、エリルは執務室を後にした。

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