第4.5話【レイラ】修正版
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クロノの部屋を訪れた時、レイラは恐怖を押し殺すのに必死だった。
拒絶されるかも知れない。
失望されてしまうかも知れない。
力ずくで犯されるかも知れない。
そんな考えばかりが渦巻いていた。
行為に至るまでに長い時間を費やした。
少しずつ距離を埋め――そこから先は何もかも初めての経験だった。
恋人に抱かれている時が一番幸せ、とは死んだ戦友の言葉だ。
その意味をレイラは実感として理解できるようになったのだが、
昨夜も、クロノ様は愛して下さらなかった。
そんな不満を抱きながら、レイラは次々と矢を放った。
こんな状況でも血が滲むような修練の果てに身に付けた技術は鈍ることなく、矢は確実に的を射抜く。
同衾を許可して下さるのだから、避けられてはいないはずです。
私に魅力が欠けていることも、クロノ様の性欲が減退されていることもないはず。
矢を放ち終え、レイラは部下の様子を確認した。
三百人いたエルフとハーフエルフの弓兵は昏き森の戦闘で五十人にまで数を減らしていた。
恐ろしい死者の数だが、平地で戦っていたら、千人では数時間と保たずに壊滅していただろう。
『勉強』が大きな負担になっているのは間違いありません。
しかし、クロノ様は私が『勉強』を止めることを望んでいらっしゃらないようです。
果たして、クロノ様の仰る愛とは何なのでしょうか?
「五十人隊長様はクロノ様が恋しくて仕方がない御様子」
「毎晩、毎ば~ん、激しく求め合っているのにぃ」
レイラが深い溜息を吐くと、隣にいた二人のエルフが茶化すように言った。
二人ともエルフの平均的な特徴である金髪・碧眼の持ち主で、鏡に映したようにそっくりな容姿をしている。
それもそのはず、二人……デネブとアリデッドは双子の姉妹なのである。
二人は今となっては数少ない配属当時からの友人なのだが、だからといって、激しく求めて下さらないから悩んでいるんです! と言い返す訳にもいかない。
「あたし達も呼んでくれないかな、クロノ様」
「クロノ様の愛人になったら、かなり楽できそうだよね」
「……愛人になっても、楽はできないと思います。愛人になったからといって、同僚に偉そうな態度を取るなと厳命されていますから」
レイラが言うと、デネブとアリデッドは不思議そうに目を瞬かせた。
「イメージと違~う」
「そうそう、昼と夜は立場が逆転するみたいな感じだもんね」
デネブとアリデッドは顔を見合わせ、
「「で、実際の所はどうなのよ!」」
興味津々という感じでレイラに詰め寄った。
「どうなのよ、とは?」
「「だ~から、毎晩、毎晩、兵舎を抜け出して、朝になってから帰ってくるんだから、クロノ様って、激しいの? ねちっこいの? それとも、顔に似合わず、ハードに攻めてくる感じ?」」
「え、あの、クロノ様は……とても、優しく、丁寧に扱って下さります」
二人の剣幕に気圧され、レイラは口籠もりながら答えた。
「……優しく?」
「……丁寧?」
レイラの言葉が意外だったらしく、二人は顔を見合わせた。
「やっぱ、クロノ様の愛人になりたいわ」
「そうよね」
二人は今までの男性遍歴を窺わせるようにしみじみと呟いた。
※
「最近、胸とお尻の辺りがきつくってさ」
「あたしも。他の連中も似たようなこと言ってるけど、五十人隊長は?」
「……私は、別に」
午前の訓練を終えて宿舎に帰る途中、そんなことをデネブとアリデッドは口にした。
二人とも革製の鎧を着ているから分かりにくいし、レイラも胸が大きくなった自覚はないのだが、思い当たる節はあった。
なるほど、クロノ様が胸を見つめていたのも、お尻に触りたがったのも、それが理由なのですね。
「やっぱ、一日三食食べられるようになったからかな?」
「今まで二食だったもんね。未払い分の給料とかも支払われたし、いきなり待遇が良くなったよね」
待遇が良くなった、とそれは全ての兵士が感じていることだろう。
エラキス侯爵が健在だった頃は亜人と人間の兵士には明確な差があった。
もっとも、人間の兵士も今のレイラ達ほど優遇されていなかったようだが。
「ドワーフの百人隊長も自分の工房が持てたって喜んでたし」
「あれって、クロノ様が自腹を切ったらしいよ。何のために作ったのか、五十人隊長は何か知ってる?」
「新型の弓を作るために建てたはずですが……クロノ様が考えていることは、私には分かりません」
レイラはピクス商会のニコラに言ったように答えた。
クロノ様が何を考えていらっしゃるのか、私には分かりません。
このまま『勉強』を続ければ、私にもクロノ様の考えが分かるようになるのでしょうか? クロノ様なりに愛しているというその意味も……。
「あれって、ピクス商会の人じゃない?」
「何してるんだろ?」
兵舎の近くに止められた馬車を見て、二人が言った。
見た所、食料を納めに来たようだ。
今までは商人が食料を置いていくだけだったが、ピクス商会に変わってから実数を確認するようになった。
確認するといっても、兵士は文字を読めないし、初歩の算術さえできないので、クロノが行っているのだが。
「レイラ様、クロノ様はどちらに?」
「申し訳ありませんが、少々お待ち下さい」
ニコラに尋ねられ、レイラは通信用の水晶を取り出した。
全ての水晶……副官と百人隊長に話が筒抜けになってしまうが、個人的な話ではないので問題ない。
『レイラ、僕の代わりにやってくれない?』
「はっ?」
『納入書と実際の数字が合っているか確認するだけだから。ああ、簡単に説明もして貰うからニコラさんに代わって』
水晶を手渡すと、ニコラは二言、三言、クロノと言葉を交わしたようだった。
「では、レイラ様……私が説明をしますので数の確認をお願いします」
「ちょっと、五十人隊長ぉ」
アリデッドが情けない声を出すが、レイラも似たような気持ちだ。
「こちらを」
ニコラに納入書を手渡され、レイラは胸を撫で下ろした。
納入書に書かれているのは品名とその数だけだったからだ。
「では、最初に麦から」
「真ん中のこれですね」
思っていたよりも確認作業は難しくなかったのだが、クロノが確認する倍以上も時間が掛かってしまった。
「全て、間違いなくあります」
「では、こちらにレイラ様のお名前を」
「ちょ、ちょっとぉ!」
デネブ、いや、アリデッドか? が悲痛な悲鳴を上げる。
レイラがサインを終えると、ニコラは満足そうに頷いた。
「ちょ、ちょ、ちょっと、五十人隊長!」
「な、何ですか?」
今にも泣きそうな顔でアリデッドがレイラに詰め寄った。
「いつから文字を読んだり、算術とかできるようになったの?」
「あたしも興味ある」
どうやら、デネブは助け船を出すつもりがないらしく、アリデッドと一緒になってレイラに詰め寄った。
「……クロノ様に教えて頂きました」
「は? はぁ? クロノ様って忙しいじゃん! アンタだって、昼間は訓練してるし、そんな時間が何処にあるの?」
「そ、その、毎晩、クロノ様のお部屋で」
レイラは恥ずかしさのあまり頬が紅潮するのを感じた。
「毎晩、ヤりにいってたんじゃないの?」
「そ、その、私はそのつもりで、そのつもりだったんですけど、クロノ様が」
レイラはしどろもどろになって答えた。
「何回ヤったの? 屋敷に忍び込んで、文字を教わっただけって訳じゃないんでしょ?」
「あの、そ、その、二週間で……二回だけ」
肩を落とし、レイラは人差し指と中指を立てた。
「「少なっ! アンタ、ちゃんと誘ったの?」」
「さ、誘うだなんて」
「「良いから、ちゃんと答える!」」
「ちゃんとお願いしたつもりなのですが……『勉強』を教えて頂くことになって、十年後の私や、百年後の私達に必要と……それでも、か、かなり、強引にお誘いした時は、応じて下さって」
ぽか~ん、と二人は呆れ顔だ。
「変わった人だと思ってたけど、何か、こう、想像の斜め上を突っ切られた感じ」
「五十人隊長……ホントに愛されてる?」
「クロノ様は自分なりに愛していると仰って、けれど、私は馬鹿なので……クロノ様の愛がよく分からないんです」
じわりと視界が涙で滲んだ。
「レイラ様はクロノ様に深く愛されているのですね」
「「はぁ? 今の話を聞いて、何で、そんな感想が出て来るのよ!」」
「クロノ様の真意が分かるのですか! 教えて下さい! クロノ様の愛は、一体?」
三人に詰め寄られ、ニコラは咳払いをした。
「あくまで推測の域を出ませんが、宜しいですか?」
レイラは素直に、デネブとアリデッドは渋々、ニコラから離れた。
「私が思うに、クロノ様はレイラ様の五年後、十年後のことも考えていらっしゃるようです」
「「何で?」」
いきなり話の腰を折られ、ニコラは咳払いをした。
「例えば……これはあくまで例え話ですが、例えば、レイラ様が軍を辞め、別の仕事を探すとします」
「はぁ? あたしら亜人が、そんな簡単に別の仕事なんて探せる訳ないじゃん」
「無学なままならば難しいと言わざるを得ないでしょう。しかし、読み書きと算術ができれば話は変わってきます。もし、最低限の学力が備わっているならば、私の預かるエラキス侯爵領支店で見習い商会員として採用することができます」
アリデッドの責めるような言葉に、ニコラは毅然と答えた。
「最初は苦労するでしょうが、実績を上げれば誰も文句は言えなくなります。支店を任されることも、独立して自分の商会を起ち上げることも不可能ではありません。また、私塾を開くという選択肢もあります」
デネブとアリデッドは呆気に取られたようにニコラの話を聞いていた。
まるで夢のような選択肢が現実の問題として提示されたのだ。
「百年後の私達とは?」
「……かなり私見を交えているのですが、クロノ様は亜人の地位向上を目指しているのではないでしょうか?」
え? とレイラ、デネブ、アリデッドの三人は聞き返すのがやっとだった。
「商売で成功すれば自然と影響力が大きくなりますし、私塾を開いたレイラ様の教え子が様々な分野で活躍するかも知れません。十年では不可能かも知れませんが、五十年、百年後は? もしかしたら、百年後は、亜人と人間が対等な関係になっているかも知れませんね」
「そこまでして、クロノ様に、どんなメリットが?」
「利益を求めないから、愛なのでしょう」
レイラが掠れた声で問い掛けると、ニコラは真剣な顔で答えた。
ガクガクと膝が震えた。
レイラは壮大すぎるクロノの愛に恐怖さえ抱いた。
けれど、胸が熱い。
きっと、これがクロノ様の愛なのですね。
レイラは胸に拳を当て、小さく微笑んだ。
※
食料事情が改善され、懐具合も温かくなったとはいえ、貧乏生活が長かったせいで兵舎の夜は早い。
夜間は原則として禁止されていないが、基本的に外出はしない。
酒場で金を出して店主に嫌味を言われたり、他の客に絡まれるくらいなら、部屋で安酒を飲んだ方がマシだからだ。
いつものようにレイラは鮮やかな手際で兵舎を抜け出し、エラキス侯爵邸の高い塀を乗り越えた。
胸とお尻が大きくなったようですが、身体能力そのものは以前よりも上がったような気がします。
これも食料事情が改善したせいでしょうか?
拳を形作り、レイラは塀に沿ってエラキス侯爵邸の庭園を走る。
「誰だ!」
「……っ!」
今日に限って、勘が鋭いですね。
二週間も追い駆けっこをしていたので当然といえば当然ですが、一度も戦場に出たことのない兵士に捕まる私ではありません。
レイラは扉の開いていた塔に滑り込み、兵士をやり過ごそうとした。
「おお、今夜もですかな?」
「兵士に気付かれるので静かにして下さい」
話しかけられ、レイラはドワーフの百人隊長を睨んだ。
「彼らは実戦経験がありませんからな。きっと、気付かずに行ってしまいますぞ」
「万が一ということがあります」
ドワーフの百人隊長が言った通り、見回りの兵士はレイラに気付かずに見当違いの方向に行ってしまった。
「やはり、ティリア皇女の家臣団は実戦経験がないようですね。そういえば……何故、兵舎に戻らないのですか?」
「合成弓に、新しい鎧……紙を作るために時間を無駄にしたくないのです」
「紙?」
レイラが視線を向けると、ドワーフの百人隊長は嬉しそうに木の枝と根を木桶に漬けていた。
木桶は一つではなく、十以上ある。
「紙は……動物の皮から作るのでは?」
「クロノ様は植物からも作れると仰ってましたぞ。何でも……植物の煮汁を、木枠でじゃぶじゃぶすると、紙のようなものが残るとか、残らないとか。クロノ様自身もうろ覚えらしいので、その分は試行錯誤で」
「よく分かりませんが、頑張って下さい」
ドワーフの百人隊長と別れたレイラは木をよじ登り、窓から城に侵入した。
適当に兵士を誘導しても良いのだが、その都度、潜入方法を変えるのが忍び込むコツだ。
城内は足音が響くので発見される可能性も上がるが、こちらも気配を読み易い。
「ちょっと、何してるんだい?」
「……っ!」
振り向き様に裏拳を放つと、その人物は軽々とレイラの拳を受け止めた。
「女将……何故、貴方が?」
「そりゃ、今夜から雇われてるからさ」
「その格好は?」
ふふふ、と女将は女の子のように笑い、丈の短いスカートを軽く持ち上げた。
ついでにいうと胸元は大きく開いていて、相当なボリュームの胸が三分の一くらい見えている。
「久しぶりの城仕えだから、気合いを入れちまってね。この格好でクロノ様に夜這いを仕掛けようと思うんだけど、イケルかね?」
「女将、貴方は幾つですか?」
ぽこん! と返事の代わりに叩かれた。
かなり警戒していたのだが、この女将はティリア皇女の家臣よりも練度が高いらしい。
「あたしゃ……これでも三十を超えたばかりだよ」
「声が年齢の所で小さくなるのは何故ですか?」
「良いだろ、別に」
むぅ、とレイラは女将を睨んだ。
「けど、一号さんが来てるんじゃ、今日は止めようかね」
「何故、それを?」
「クロノ様から聞いたに決まってるだろ」
女将は欠伸を噛み殺し、あっさりと引き下がった。
そう簡単にクロノ様が落ちるとは思いませんが……いえ、落ちますね。
根拠はありませんが、クロノ様の防御力は布の服以下と判断します。
気を取り直して、レイラはクロノの部屋を目指す。
ようやく見えてきたクロノの部屋……すぐに入る愚を犯さず、レイラは扉越しに気配を窺った。
どうやら、ティリア皇女はいないようです。
同じ学校で学んだと聞きましたが、それだけの間柄で皇女が一貴族の部屋を訪れるものでしょうか? 今にして思えば、裸のクロノ様と私を見た時の反応はおかしいです。
ふ、とレイラは笑みを浮かべた。
仮にティリア皇女がクロノ様に特別な感情を抱いていたとしても、あまりに立場が違いすぎます。
クロノ様が立身出世を遂げたとしてもそれは先の話……。
するりとレイラはクロノの部屋に忍び込み、安堵の息を吐いた。
「今夜も始めようか?」
「……はい」
イスに座り、レイラはクロノの言葉を聞きながら、本に書かれた文字を視線のみで追い掛ける。
この本に書かれているのは六柱神の神話だ。
昔々……神代の時代について書かれた物語。
長く読み続けたせいか、クロノはカップに手を伸ばした。
「あの、クロノ様は……百年後について、どうお考えですか?」
「今よりも亜人の待遇が良くなっていればと思うよ。僕がいた世界の歴史を考えればそれが困難な道のりだって分かるんだけど、あの世界でできたことが、この世界でできないはずがない……よね、多分」
自信なさそうに付け足したのは彼自身も確信がないからだろう。
「……あの、クロノ様」
ぎゅっとレイラは膝の上で拳を固く握り締めた。
「あの、私……ようやく、クロノ様の仰った愛の意味が分かりました。ずっと、意味が分からなくて、求められていないんじゃないかと不安で、でも、ピクス商会の方に教えて頂いて、本当は自分で気付かなければいけないのに」
レイラは自分の拙さに泣きそうになりながら、言葉を紡いだ。
「クロノ様は、私に、私達に未来を与えて下さったのですね」
「最低限の学力を身に付ければ選択肢を増やせるんじゃないかって、そう思ったんだ」
「クロノ様!」
立ち上がり、レイラはクロノの胸に飛び込んだ。
「……私、浅ましいです。クロノ様は百年先のことも考えていらっしゃるのに、私はクロノ様が愛して下さらないことを不満に思って」
「ご、御不満でしたか?」
レイラが呟くと、クロノは丁寧な言葉遣いで言った。
「あのさ……領主だから、将来のことは真剣に考えてるけど、レイラが思ってるほど僕は立派じゃないよ。卑小というか、今日もピクス商会で」
「ドワーフの百人隊長から、紙を作るように指示されたと」
「ニコラさんが輸入品だって言うから、エラキス侯爵領で作れば儲かると思ってさ。上手くいけば、浮浪者を減らせるし……でも、そういうことを考えてるだけじゃなくて……だからさ、僕が間違えたら、間違えようとしていたら、遠慮なく指摘して欲しいんだ」
謙遜するクロノの姿が面白くて、レイラは吹き出しそうだった。