第12話『騎士団』修正版
※
「全く、次から次へと問題ばかり起こしてくれる」
アルコル宰相は背もたれに寄り掛かり、溜息混じりに言った。
主語が抜けているが、彼の台詞がクロフォード男爵の息子であるクロノに対するものであることは尋ねなくても判る。
蛮族に攫われたかと思えば、その蛮族が説得に応じて和議を申し入れてきたと言うのだから、アルコル宰相でなくてもぼやきたくなるだろう。
「蛮族の申し出なんて突っぱねれば良いじゃない」
「こちらから歩み寄って置きながら、手の平を返すなど体面が悪かろう」
元々、アルコル宰相は木っ端役人である。
ラマル五世に重用され、あり得ない立身出世を遂げたが、皇帝という後ろ盾がない今は彼の地位も盤石とは言えない。
「蛮族の申し出を受け入れても同じじゃないかしら?」
「その辺りはエルナト伯爵が『派手に』根回しをしとる」
その『派手な』根回しを止めようとしないのだから、アルコル宰相はエルナト伯爵が作り出した流れに乗るつもりなのだろう。
もっとも、エルナト伯爵の真意が何処にあるのか分からないが。
「蛮族の脅威がなくなったら困るんじゃないかしら?」
「ドラド王国を仮想敵とし、アレオス山地に砦を建設することで対応する」
蛮族の脅威がなくなって困るのは南辺境の新貴族ではなく、アルコル宰相を含めた帝国の旧貴族だ。
南辺境の新貴族がドラド王国と交易をするようになれば物流の制限というカードが使えなくなってしまう。
「次期皇帝陛下の様子は?」
「あの親征以来、自分に権力があると思い込んでいるみたいなのよね」
政治に口を挟もうとするのも時間の問題じゃないかしら、とファーナは心の中で付け加えた。
「権力の怖さも理解してくれると良いのだがな」
「それとなく忠告するけれど」
陛下は、あれはあれで名君だったのかしらね、とファーナはラマル五世の顔を思い浮かべようとして失敗した。
どうにも思い出せるのは酒臭い息と死んだ弟に怯えている姿ばかりである。
有能な部下に万事丸投げという姿勢はどうかと思うが、結果だけ見ればラマル五世は穏やかに帝国を治めたと言えるのではないだろうか。
ラマル五世は知っていたのだ。
権力の恐ろしさも、ついでに言えば自分が無能であることも。
ファーナの息子であるアルフォートは違う。
アルフォートは権力の恐ろしさも、自分の限界も知らない。
息子は誰かの甘言に乗せられてアルコル宰相を排斥しかねない危うさを抱えているのだ。
ティリア皇女に皇位を継がせた方が良かったんじゃないかしら? とも思うのだが、アルコル宰相が内乱の原因を作った女の娘を信用できるかと言えばそれも難しいだろうと思う。
今までのやり方が通じなくなってきてる感じね、とファーナは難しそうに眉間に皺を寄せるアルコル宰相を眺めた。
※
部屋には煙が漂っていた。
鎮静効果のある薬草を焚いて生じるそれは今日に限って言えば本来の用途とは異なる使い方をされていた。
突然、煙が渦を巻く。
部屋の窓は閉め切られている。
人が動けば煙が動くことはあるだろうが、今のように動いたりはしないだろう。
煙の中心に立つのは刻印を起動させたスーだ。
煙はスーを中心に渦を巻き、紡錘状の無煙空間を作り出している。
『……場、言ウ。オレノ意思、場、伝ワル』
「なるほど」
どうやら、刻印術は身体能力を高める以外にも使い道があったようだ。
ララは炎を纏っていたし、リリも飛んでいたので、今更という気もするが。
クロノは首飾りを握り締め、刻印を起動させる。
ギチギチと体が軋み、その痛みに耐えながら煙が渦を巻くようにイメージする。
最初は緩やかに、糸が解れるように煙が流れる。
しばらくして完成したそれはスーと異なり、あちこちが歪んだ紡錘だった。
「相変わらず、体が痛いんだけど?」
『オマエ、力、ナイ』
ん? とクロノは首を傾げたが、すぐに納得した。
この世界に落ちてからクロノは体を鍛えた。
今まで努力をしてきた自負はあるが、過酷な自然環境に晒されて育つルー族とは鍛え方が根本的に違うのだ。
クロノ本来の筋力と刻印によって発揮できるようになる筋力に落差がありすぎて、体に負担が掛かっているのだろう。
「……楽して強くはなれないか」
『呪イ、頼ル、ダメ』
剣によって生きる者は剣によって滅ぶじゃないけど、便利な力に依存するのは良くないかもね、とクロノは剣を抜いた。
『場、保ツ』
「了解。そうしないと、実戦で使えないもんね」
そうとなれば地道に鍛えるしかない。
クロノは『場』を維持しながら素振りをし、すぐに難しさを悟った。
素振りをすると、『場』が乱れるのだ。
『場、保ツ、考エスギ』
「意識しないで『場』を維持する?」
スーに指導を受けながら、クロノは素振りを繰り返し……五十を数えると同時に疲労感でその場に座り込んだ。
『オマエ、ダメ』
「普通に素振りするよりしんどいんだけど」
クロノの刻印は不規則に明滅している。
何となく嫌な予感がしてクロノは刻印を停止させた。
大した運動量ではなかったはずだが、全身が汗で塗れ、小さく震えている。
「燃費悪いなぁ」
クロノは布で汗を拭い、イスの背もたれに置いた。
「ちょっと、換気」
クロノが窓を開けた瞬間、風が背後から押し寄せ、部屋の煙を外へと押し流した。
「……」
「ボクの名前を呼んでくれないのかい?」
振り向くと、リオが部屋の扉の近くに佇んでいた。
「リオ、どうして?」
「ここが帝都アルフィルクで、君が死にそうな目にあったと聞かされたからさ」
リオはクロノのベッドに腰を下ろし、優雅に足を組んだ。
『……オマエ、誰ダ!』
グルルとスーはリオに槍を向けて唸った。
「ボクはクロノの愛人さ。そういう君は何なんだい?」
『オレ、コイツノ嫁!』
嫁? とリオは不機嫌そうに目を細める。
「まあ、構わないさ。けれど、ボクは君よりも先にクロノと知り合っていたんだよ? 少しは敬意を持って接してくれても良いんじゃないかな?」
『……分カッタ』
スーは素直に槍を下ろした。
「素直な子どもは大好きさ」
そう言いながら、リオの目は全く笑っていない。
どう見ても子どもが大好きな人間の目じゃない。
ともすればスーは動物的な勘でリオの危うさを感じ取って引いたのかも知れない。
「ちょっと部屋から出てくれないかな?」
『ウ~、分カッタ』
「ふふふ、素直な子どもは大好きさ。これからも好きでいさせてくれると、嬉しいのだけれどね」
リオは部屋から出て行くスーを凍てついた目で見送った。
「で、何の用?」
「恋人に会うのに理由が必要なのかい?」
クロノはイスに座り、リオを見つめた。
「冗談さ。明日、城まで君をエスコートするのがボクだって報告に来たんだよ」
「ようやく自分の領地に戻れるのか」
クロノが帝都にあるクロフォード邸に滞在しているのは論功行賞のためだ。
本音を言えばアルフォートと会いたくないのだが。
「功績を立てるのは喜ばしいんだけれど、弱いくせに無鉄砲すぎるんじゃないかな?」
「自分なりに考えてるつもりなんだけど」
「……フェイに手を出したのも考えた末の結論なのかい?」
う、とクロノは言葉に詰まった。
「やっぱり、分かる?」
「立ち居振る舞いに隙がなくなった上、動きに華があるからね。前に手合わせした時も強かったけれど、もっと強くなっているだろうね」
リオは優雅に足を組み替え、自嘲するように微笑んだ。
「君も成長したんだろうと思ったけれど、変わってなくて安心したよ」
「そう簡単に成長できるんなら、何度も死にかけないよ」
「違いないね」
何が楽しいのか、リオは声を上げて笑った。
「最初の質問に戻るんだけれど、ボクがここに来たのは蛮族の処遇について伝えておきたいことがあったからさ」
「……何かあったの?」
「クロノが心配するほどのことじゃないさ。エルナト伯爵の根回しのお陰で君とガウルの主張は概ね飲んで貰えるだろうね」
ホッとクロノは胸を撫で下ろした。
「ボクが心配しているのは論功行賞で我慢できるのかさ」
「……何のことかな?」
「トボけなくてもクロノがボクを必要としてくれる限り、裏切ったりはしないさ」
ベッドから立ち上がり、リオはクロノを後ろから抱き締めた。
「君が望むのなら、殿下の首を掻き切ることも厭わないよ。ボクは尽くすタイプだからね」
「……それは、ちょっとね」
リオの気持ちは嬉しいが、それ以上に恐ろしい。
リオにとってアルフォートを殺害するのは容易いかも知れない。
けれど、そんなことをすればリオだけではなく、リオの家族や部下まで処罰されるだろう。
あらゆるものを犠牲にしてまで尽くして欲しいなんて言えるはずがない。
「時々、不安になるのさ。今の幸せが続くような気がしなくてね」
リオはクロノに体重を預け、囁くように言った。
「……リオは幸せに代償が必要だと思っているの?」
「そっちの方が分かり易いし、安心するんじゃないかと思っているよ。だって、そうじゃないか。偶々、舞踏会で目を付けた相手がボクの秘密を知っても驚かずに受け入れてくれるなんて出来すぎさ」
両性具有者よりもミノタウルスやリザードマンを見た衝撃の方が大きかったけど、とクロノは頬を掻いた。
「おまけに異世界から来たなんて冗談みたいな話さ」
「知ってたの?」
「おや、本当に異世界から来たのかい?」
カマを掛けられた、とクロノは舌打ちしたい気分になる。
「不機嫌な顔をしないでおくれよ。以前、レオンハルト殿に初代皇帝は異世界から来た黒髪の男だったと聞かされてね」
「ティリアは秘密にしろって言ってたけど?」
「そりゃあ、正気を疑われるだろうからね」
それもそうか、とクロノは頷いた。
「じゃ、ボクは帰るよ」
「食事でも一緒にどう?」
「……お言葉に甘えようかな」
※
オルトは養父が率いていた傭兵団の参謀役でマイラの戦友である。
彼の経歴や功績を語るのは難しいのだが、容姿に限定すれば一言で足りる。
執事である。
オールバックに固めた白髪が執事っぽい。
右目の片眼鏡が執事っぽい。
真っ直ぐに伸びた背筋が執事っぽい。
切れ長の目、薄い唇、冷淡そうな所が執事っぽい。
オルトは背筋を伸ばし、クロノの斜め後ろに控えている。
「何だか、混沌としているね?」
「そう?」
リオに問い掛けられ、クロノは食堂を見渡した。
レイラ、フェイ、スノウ、スー、女将がいる。
もっとも、レイラと女将は給仕に専念しているが。
「タイガ達も呼びたかったんだけど、食堂が狭くてさ」
「獣人達は兵舎かい?」
「オルトが手配した宿に泊まってるよ。宿の主人に嫌がられたから、宿を貸し切る羽目になったけど」
「……真っ当な宿は亜人に部屋を借したがりませんからな」
肩越しに見ると、オルトは軽く胸を張り、感情を感じさせない平坦な声で言った。
「こっちはお客さんだよ?」
「真っ当な宿じゃないと評判が立つ方が恐ろしいのでしょう」
「理屈は分かるんだけど、面白くないね」
クロノはテーブルに肘を突き、ソーセージを囓った。
チラリと女将に視線を向ける。
「そんな目をしなくても、あたしの店は客を選ぶ余裕なんてありゃしなかったよ。余裕がなさ過ぎて連れ込み宿みたいに使われちまったけどね」
「連れ込み宿って、そんな所にレイラを泊めてたのか」
クロノは力なく頭を垂れた。
「……当時は不満を感じなかったのですが」
「あの時の兵舎と比べるのも何だか間違っているような気がするんだけど」
兵士の給料を横領していたくらいだし、とクロノは昔の上司を思い出して深々と溜息を吐いた。
「そうかも知れませんが、当時の私達にとってはあれが自然で……いいえ、あの頃も、今もクロノ様は信じられないくらい私達を大切にされています」
そう言って、レイラは寂しそうに微笑んだ。
「どうやら、不安を感じているのはボクだけじゃないみたいだよ?」
リオは悪戯っぽく微笑んだ。
ハーフエルフであるレイラと帝国の貴族であるリオが似たような想いを抱いているのは皮肉な感じがするが。
「フェイは?」
「ふぁんでありまふゅか?」
視線を向けると、フェイは料理を口一杯に頬張り、ハムスターのように頬を膨らませていた。
「食べ終わってからで」
もきゅもきゅとフェイは料理を呑み込み、香茶を飲んで小さく息を吐いた。
「フェイは不安とか感じないの?」
「感じているであります。鎧と馬を取り上げられて厩舎の掃除係に戻されるのではないかと不安になるであります。それから夜のお勤めで……クロノ様に」
ごにょごにょとフェイは何事かを呟き、
「……気が気じゃないであります!」
バンバン! とテーブルを叩いた。
「そ、そんなに嫌がられることをしたつもりは」
アレか、お風呂プレイが嫌だったのか? そんなに泡々プレイが恥ずかしかったですか? 舐めるような視線を向けられるのは嫌でしたか? とクロノは数々の淫行を思い出して脂汗を浮かべた。
「連れ込み宿か……少しだけ好奇心を刺激されるね」
「そうかな? 良いイメージが湧かないんだけど」
薄暗い明かり、腰を下ろしただけで軋むベッド、薄汚れたベッドと身分を偽るために粗末な服に身を包んだ……、
「は、はうわっ!」
「ど、どうしたんだい?」
クロノが叫ぶと、リオは驚いたように目を見開いて言った。
「素晴らしいアイディアを思いついたんだ」
「どんなアイディアだい?」
「いかがわしい宿でリオが粗末な服を着て演技をするのはどうだろう?」
ポカ~ンとリオは呆れたように口を開け、
「つまり、娼婦と客の演技をするってことかい?」
「その通り! ご主人様とメイドも捨てがたい! 捕虜になった女騎士でも可! 夢が広がるね!」
「……君は、突き抜けてるね」
リオは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「返事は?」
「まあ、考えておくよ」
前向きに検討してくれるって意味か、とクロノは小さくガッツポーズ。
「ボクは考えておくって言っただけだよ? クロノ、聞いているかい?」
「曖昧な返事は都合の良いように解釈されるであります」
フェイの憐れむような声が聞こえたが、クロノは聞こえないふりをした。
※
翌日、第九近衛騎士団が二頭立ての馬車でクロノを迎えに来た。
白い軍礼服に身を包んだリオはうっとりするくらい凛々しかった。
皇室所有の馬車が第四街区……クロフォード邸の前に止まるのは二度目なのだが、周囲は野次馬で溢れた。
「クロノ様、ご立派です」
「立派であります」
「馬子にも衣装って所かね」
誉め言葉じゃないのが混じっているような気がしたが、クロノは突っ込まず、複雑な気分で馬車に乗った。
前回と違い、今回は誰も犠牲にしなかった。
それを考えれば少しくらい誇らしい気分になっても良さそうなものだが、アルフォートに会いたくない気持ちの方が強い。
馬車がアルフィルク城に着いた後、謁見の間までクロノを先導したのはリオだった。
クロノと適度な距離を保ち、城内を歩くリオは騎士然としていた。
「これは独り言なんだけれどね。昨日、君の部屋で告げた言葉に偽りはないよ」
「……リオの親戚に悪魔っていない?」
畜生、とクロノは胸中で罵った。
あの時と違い、今回は頼れる相手がいる。
しかも、簒奪者アルフォートからティリアに皇位継承権を取り戻すなんて大義名分まである。
帝国を二分する覚悟さえあれば仇を討てるのだ。
「貴様、顔色が悪いぞ」
「……気分が悪くて」
謁見の間の前で合流するなり、ガウルは心配そうに言った。
ぐるぐると胃が蠕動し、吐き気が込み上げる。
「開けるよ?」
心の準備が整う前に重々しい音を立てて扉が開く。
あの時と同じように謁見の間は殺風景だった。
夏だというのに寒々しささえ感じさせる謁見の間、一直線に伸びる絨毯の先にアルフォートはいた。
あの時と同じように玉座に深く腰を下ろし、引き攣ったような笑みを浮かべて。
クロノはガウルに歩調を合わせ、アルフォートから適度に離れた位置で片膝を突いた。
「ガウル大隊長、報告を」
「ハッ」
アルコル宰相に促され、ガウルは今回の顛末を説明した。
作戦中、クロノはルー族に攫われた。
だが、これはルー族を説得するためのガウルの策だった。
クロノは幾つかのアクシデントに見舞われながらも無事に任務を遂行したという嘘八百である。
「何故、蛮族を討伐しなかったのかね?」
「恐れながら、今はラマル五世陛下とアルフォート殿下の治世の過渡期にございます。長年、小競り合いを繰り返していた神聖アルゴ王国との関係が改善された今、私はアルフォート殿下の威光を示すためにもルー族と和睦すべきと考えたのです」
アルコル宰相の問いにガウルは騎士然とした態度で答えた。
「……ふむ」
アルコル宰相は謁見の間にいる宮廷貴族に視線を向けた。
エルナト伯爵の根回しのお陰か、異を唱える者はいない。
「良かろう。ドラド王国が不穏な動きを見せている今、山地での戦闘に長けた蛮族を引き入れるのは帝国にとって大きな利となる。だが、蛮族が帝国と長く敵対関係にあった事実は無視できん」
やっぱり自治は難しいか、とクロノは危うく舌打ちをしそうになった。
「ならばアレオス山地に砦を築いた後、私が蛮族とドラド王国の双方を監視しましょう」
ガウルの言葉に宮廷貴族達が目配せをする。
悪くない提案だ。
少なくともガウルは新貴族寄りの人物ではないことになっている。
これも根回し済みだったのか、アルコル宰相は驚いた素振りも見せずに頷いた。
アレオス山地を領地としてガウルに与えないのは警戒心の表れだろうか。
「その提案を受けよう。今回の功績を認め……」
「恐れながら」
ガウルはアルフォートを見つめた。
ガウルが裏切るのではないか、そんな不安がクロノの胸に渦巻く。
「今回の功績は……クロノ殿の力があってのもの。彼が命を賭して働いてくれたからこそ、ルー族が和睦に応じたのです」
「……」
アルコル宰相は答えない。
恐らく、ガウルの意見は彼にとって予想外の出来事なのだろう。
だが、黙ってばかりはいられない。
「……ほ、報償の、け、件は余が決めても、よ、良いだろうか?」
ピクンとアルコル宰相の眉が跳ね上がる。
これも予想外……あるいは予想していたよりも早く起きたと考えるべきか。
「え、エラキス侯爵は、さ、先の戦いで多大な、せ、戦功を立て、今回も、余の威光を示すために、ば、蛮族を、きょ、恭順させてくれた」
軋むほどクロノは歯を強く食い縛った。
「よ、よって、だ、第十三近衛騎士団の、だ、団長に任命したい」
「……」
アルコル宰相が目を細めると、アルフォートは小さく身動ぎした。
「殿下が仰るのならば第十三近衛騎士団を設立し、エラキス侯爵を団長に任命いたしましょう」
おおっ、と宮廷貴族がどよめく。
だが、クロノはアルフォートが浮かべた薄ら笑いを見逃さなかった。
名誉を授けてやったとか思ってるのか? それとも、将来のためにアルコル宰相と戦う手駒を手に入れたつもりか? とクロノは自分が今も盤上の駒扱いされていることに目眩を覚えた。
ふと視線を動かすと、リオと目が合った。
命令してくれ、と狂気にも似た光がリオの瞳に宿っている。
それは抗いがたいほど甘美な誘惑だった。
だが、族長ならば怒りを呑み込むべきだ、と偉そうなことを宣った自分が、どうして、誘惑に乗ることができるだろう。
今は耐えるべきなのだ。
玉座から立ち上がり、アルフォートはクロノに歩み寄った。
一歩、また、一歩とアルフォートが近づいてくるたびにクロノは湧き上がる衝動を必死で堪えなければならなかった。
アルフォートが近づけば近づくほど暗殺の成功率は上がる。
彼の爪先が視界に収まった瞬間、クロノの心臓は音が外に漏れるのではないかと思うほど激しく鼓動していた。
ぎこちない仕草でアルフォートが華美な装飾の施された刀を抜いた。
優美な反りを備えたそれは紛れもなく刀だった。
「ふ、父祖より伝わりし、宝剣を以て、な、汝を第十三近衛騎士団の団長に、に、任命する」
刀がクロノの肩に触れる。
まるで斬首を待つ罪人のようだ、とクロノは他人事のように思う。
「……誓いを、我が剣、我が鎧は殿下の御為に」
偽りの誓いを口にする。
いや、捧げよう。
剣も、鎧も、捧げる。
けれど、
「我が心、我が魂は愛すべき全ての者に捧げます」
この心と魂だけは渡せない、とクロノはアルフォートを睨み付けた。
クロノの瞳に何を見たのか、アルフォートが後退る。
「空が落ち、大地が裂け、海に呑まれようとも……我が誓い、破られることなし」
アルフォートは刀を鞘に戻し、ふらふらと玉座に戻った。
「……殿下との謁見は以上で終了とする」
アルコル宰相の宣言が謁見の間に響くと、リオは誘惑するようにクロノを見つめた。
「……リオ」
「どうかしたのかい?」
クロノが呼ぶと、リオは嬉しそうに瞳を輝かせた。
「まだ、本調子じゃなくてね。肩を貸してくれないかな?」
「構わないさ」
リオに肩を借り、クロノは震える足で立ち上がった。
謁見の間から出ると、重々しい音を立てて扉が閉まった。
「……体調が優れないのならば俺が担ぐが?」
「申し訳ないけれど、これはボクの役目なのさ」
ふむ、とガウルはクロノとリオを交互に見つめた。
「積もる話はあるが、ここで話すのは避けた方が良さそうだな」
「適当な場でも設けようか?」
ガウルは考え込むように腕を組んだ。
「止めておこう。アルコル宰相の決定は想定内の出来事だ。ならば当初の予定通り、行動するだけだ」
アレオス山地をルー族の自治区にできれば良かったのだが、それができなかった時のことも考えていた。
まあ、クロノがアルコル宰相の立場でもルー族に自治を認めたりしない。
少なくとも状況を見極めない内は。
今日、明日に結論が出るような問題でもないし、ルー族には結論が出るまで交流を通じて帝国について学んで貰うしかない。
まあ、これも『当初の予定通り』と言えば予定通りの展開である。
「……おい」
グローブのような手を見つめ、それからクロノはガウルを見上げた。
「何?」
「握手だ」
クロノはぶっきらぼうな物言いに吹き出しそうになりながらガウルの手を握った。
「……何か、今更って感じもするけど」
「握手する暇なんぞなかったからな」
そうかな? とクロノは首を傾げた。
「また、会えると良いね」
「再会できるように貴様は無茶したり、女に刺されたりしないように気をつけろ」
こ、この野郎、とクロノは渾身の力でガウルの手を握り締めた。