第7話『南辺境』修正版
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アレオス山地と南辺境の境には原生林が広がっている。
ケフェウス帝国の北にある昏き森のような不吉な名も、神代の魔物が棲むという伝説すらないが、領民は森に近づこうとしない。
不吉な名も、伝説も人を傷つけない。
それらは勇気ある若者か、欲に凝り固まった商人がその気になれば単なる迷信に成り果てる。
この原生林に人が近づかないのは狼や熊以上の現実的な脅威として蛮族が住んでいるからだ。
夜……三月に大隊長として任命されたばかりのガウルは原生林と対峙するように陣を敷いていた。
本陣は百の重装騎兵に守られ、正面には重装歩兵と歩兵が七百、その左右を二百の歩兵が固めている。
無数の篝火を焚いたことで視野は確保できている。
今夜こそ、今夜こそ血祭りに上げてやる、とガウルは槍を持つ手に力を込めた。
力が全身に漲っている。
父譲りの巨躯は大型亜人を圧倒する筋力を秘め、幼少からの訓練によって近衛騎士団長に匹敵する技さえ身に付けている。
ここで戦功を立てれば、自分の力を決して認めようとしなかった父親も認めざるを得ないだろう。
「貴様ら、準備は良いか!」
ガウルが声を張り上げると、部下どもは武器を高く掲げて叫んだ。
部下の士気は高い。
「来るぞ!」
原生林の奥に光が灯る。
赤、翠、白……三色の光が闇を切り裂き、複雑な軌跡を描きながら、本陣に迫る。
光が分離する。
赤、翠、白の小さな光の粒は瞬く間に大きくなり、篝火を貫いた。
光の正体は槍だった。
黒光りする石を割り砕き、棒の先端に括り付けた蛮族の槍だ。
光に包まれた槍が警告するかのように激しく明滅する。
「離れろ!」
ガウルが叫んだ瞬間、光が弾けた。
槍を起点に炎が、風が、光が渦巻き、無防備に近づいた部下を吹き飛ばした。
あっという間に隊列が乱れ、そこに蛮族が飛び込んだ。
浅黒い肌の女が三人……わずかばかりの布とリザードマンから剥ぎ取ったとしか思えない鱗状の鎧で体を覆っている。
蛮族の女が舞う。
まるで体重を感じさせない優雅な舞いだが、どれほど美しくても魅了されてはならない。
死だ。美しさを秘めた死の舞踏だ。
女達が動くたびに炎で、風で、光で、部下が吹き飛ばされる。
決死の覚悟で戦いを挑む者もいたが、彼らは太いとは言えない蛮族の腕で殴り飛ばされた。
「おおおっ!」
ガウルは部下の間を駆け抜け、蛮族の女に向けて槍を突き出した。
幼い頃から数え切れないほど繰り返した突きはわずかに女の鎧を掠めただけだった。
女は赤い光を身に纏っていた。
赤い光は全身に絡み付き、強烈な光ではないのに布と鎧を透過している。
刻印術……蛮族どもが崇める精霊と同化するための邪法だ。
女が腕を広げると、左右の手に炎が宿る。
幻覚ではない。ガウルは焼け付くような熱を感じている。
だと言うのに女の手も、身に纏った布と衣服でさえ焦げ目一つない。
女が腕を振り上げ、ガウルは反射的に横に躱していた。
刹那、地面から炎が吹き出した。
防戦に徹したら負ける、とガウルは炎で炙られながら槍を繰り出した。
だが、女は軽やかなステップで槍を躱し、ガウルの懐に跳び込んだ。
「舐めるな!」
ガウルは強く踏み込み、槍を投げ捨てて拳を突き出した。
まるで鉄の塊を殴りつけたような手応え。
だが、ガウルは拳を振り切った。
女が吹っ飛ぶ。
どうやら、体重は変わらないらしい。
女は地面を転がり、勢いを利用して立ち上がった。
「突撃ですわ!」
ドドドッ! と重装騎兵が白と翠の女に向かって突撃する。
何人か、歩兵が巻き込まれたようだが、殺されるよりマシだろう。
「形勢逆転だな?」
『……』
ガウルが言うと、女は艶然と微笑んだ。
そして、ピギィィィィ! ピギィィィィッ! ブモ~、ブモ~という家畜の鳴き声が遠くから響いた。
陽動と気づいた時には全てが手遅れだった。
光が弾ける。
強烈な閃光が目を焼き、ガウルが視力を取り戻した時、そこには誰もいなかった。
※
ケフェウス帝国の南端、アレオス山地の裾野に広がる地域は南辺境と呼ばれている。
クロノが治めるエラキス侯爵領も、カド伯爵領も辺境には違いないのだが、北辺境とは呼ばれていない。
その原因は新旧貴族の対立にあるんじゃないかとクロノは睨んでいるのだが、名前の由来はさておき、自己紹介の時に南辺境出身と言えば、大抵の貴族は田舎者とか、成り上がり者の息子と思い込んでくれたので、軍学校時代は役立ってくれた。
クロノの経歴は嘘で塗り固められている。
下手に興味を持たれると、嘘を吐く羽目になるし、一つ嘘を吐くと、次から次へと嘘を吐く悪循環に陥りかねない。
その点で南辺境出身という肩書きは言い訳として便利だった。
軍学校を卒業して一年、このベッドで眠るのは三年ぶりだね、とクロノは寝返りを打った。
カツーン、カツーンと木剣を打ち合わせる音が聞こえる。
養父とフェイが剣術の稽古でもしているのだろう。
エルナト伯爵の息子……ガウル大隊長と顔合わせしなきゃならない。
他の領主にも挨拶しにいかなきゃならないかな、とクロノは体を起こした。
隣を見てもレイラはいない。
一ヶ月の長旅で疲れているだろうし、副官の代理をこなして貰わなければならないので……我慢したのだ。
「……独り寝の夜は寂しいね」
「宜しければ私が夜伽を勤めますが?」
冗談めかして言うと、すぐ隣から声が聞こえた。
「……マイラ」
「坊ちゃまを起こすのは私の仕事ですので」
ノックもせずに部屋に入るのは如何なものか? と視線を向けると、マイラは悪びれもせずに答えた。
そうなんだけどさ、とクロノはベッドから出た。
顔を洗い、軍服に着替える。
リザドの牙で作った首飾りを身に付ける。
「坊ちゃまは男らしくなられましたね」
「まあ、こっちの世界に来た頃に比べれば多少はね」
こちらの世界に来た頃は小太りだったが、今では立派な細マッチョである。
黒野久光は武道はおろか、スポーツに打ち込んだことさえなかったのだ。
学校や進学塾ではそれなりの成績をキープしていたが、体力で劣る分、成績を重視する嫌なヤツになっていたと思う。
母親は体力で劣るのならば勉強で見返してやれば良いみたいなことを言っていて、黒野久光はそれを信じていたけれど、それは違うんじゃないかとクロノは思う。
自分の苦手なフィールドで成果を出す。
例えば体力測定で目も当てられないような酷い結果を出して馬鹿にされて、その屈辱をバネに次の体力測定で順位を上げる。
きっと、馬鹿にしたヤツは覚えていないだろうけど、自分の苦手なフィールドで努力して、結果を出したことは自信に繋がる。
僕は出来たんだぞ! って、自信だ。
軍学校では凄い勢いで落ち零れたし、馬鹿にされもしたけれど、プライドの在り方を学んだような気がする。
「部下達は?」
「坊ちゃまの指示通り、客室を利用して頂いております。ベッドの数は足りませんでしたが、野営に比べれば体を休められたのではないかと。坊ちゃまの愛人に関してはお一人で部屋を使って頂いたので、ご心配なく」
「ありがとう、マイラ」
「いえ、これも仕事ですので」
「部下の様子を見てから食事にするよ」
「かしこまりました」
恭しく頭を垂れるマイラを残し、クロノは自分の部屋を後にした。
築十一年のクロフォード邸は建築当時の最先端の技術と流行を投入して造られた三階建ての城館である。
上から見ると、アルファベッドのHを太らせたような構造で、自然石造りの城っぽく見えるが、居住性を優先して造られているため、それほど頑丈ではないらしい。
居住性を優先して造ったと言う割に調度品はあまりなく、家具も装飾の少ない実用本位の物が多い。
これは養父の趣味ではなく、養父の妻……エルア・フロンドの趣味であるらしい。
見てくれよりも実用重視と彼女が言ったかは定かではないが、彼女の言によってインフラ最優先、それが整ってからは領民優先で領地が運営されたそうだ。
そう考えると、殺風景な廊下にも故人を偲ぶ……亡き妻への養父の想いが込められているようで、温かな気持ちになる。
屋敷の中央にある階段を下り、玄関から外に出ると、庭園では朝食の準備中だった。
携帯竃が十個置かれ、その周りに部下達が座っている。
更にメイド達が忙しく歩き回っている。
「レイラとスノウは?」
視線を巡らせると、庭園の片隅にある家……ちょっと立派な小屋という感じの旧クロフォード邸……の近くにレイラとスノウを発見した。
「そろそろ、朝食ができるよ」
「クロノ様」
「クロノ様、これって何かな?」
スノウが見ているのは金属製のフレームに車輪の付いた……自転車である。
それもマウンテンバイクやロードレーサーではなく、学校指定の鉄塊のように重い自転車だ。
四年も放置していたので、タイヤから空気は抜け、少し錆びている。
「何かの道具でしょうか?」
「ここの取っ手をグルグル回すのかな?」
スノウは不思議そうに首を傾げ、ペダルを回すが、後輪が動くだけである。
クロノがブレーキを握ると、後輪が止まる。
「これはジテンシャって言う乗り物だよ」
「「乗り物?」」
ニヤリと笑みを浮かべ、クロノは自転車に跨り、スタンドを上げると、力強くペダルをこいだ。
座席の位置が低く感じられ、最初はフラフラしたが、転倒することもなく部下達の周りを一周する。
「す、凄い、凄~い! ねえ、それってボクも乗れるかな?」
「スノウ!」
クロノは自転車のスタンドを下げる。
「少しコツはいるけど、すぐに覚えられるんじゃないかな? まあ、練習は朝食の後で」
「クロノ様、スノウにも仕事はあります」
「ああ、そうだね」
レイラに指摘され、クロノは頭を掻いた。
「じゃあ、仕事が終わったら自由に使っても良いよ」
「お母さん?」
「クロノ様がそう仰るのなら……ただし、仕事は真面目にして下さい」
スノウが上目遣いで問い掛けると、レイラは仕方がないと言わんばかりの態度で許可した。
「私はクロノ様に話があるので、先に食事を取って下さい」
「うん!」
スノウを見送り、レイラは深々と溜息を吐いた。
「女将は?」
「実家が近くにあるらしく、朝早くに馬に乗って出掛けられました」
女将って馬に乗れたんだ、とクロノは自分の乗馬スキルの低さに凹んだ。
「副官の仕事はどう?」
「……正直に言えば、大変です」
おおおっ! と部下達が歓声を上げる。
行軍中は女将が飽きさせないように工夫して料理を作っていたが、部下達は新鮮な肉や野菜に飢えていたらしい。
「スノウとはそれなりに長い付き合いなので、年長者として振る舞うべきか、部下として扱うべきか判断に迷います」
「まあ、そうだよね」
一兵士であれば仲間感覚でも問題はないが、命令する立場になれば何処かで一線を引かなければならない。けれど、付き合いが長くなればなるほど割り切れないものは増えていく。
「クロノ様はどうしているのですか?」
「僕は上手く線引きできてない方かな」
去年の五月……もう少し早くレイラと知り合っていたら、死んだ部下の人となりを知っていたら、あそこまで冷徹な命令は下せなかったかも知れない。
そもそも、上手く線引きができるヤツは部下を愛人にしたりしないだろうし、とクロノは心の中で付け足した。
「自分なりの方法を模索するしかないんじゃないかな。まあ、言えるのはこれくらいかな?」
「……文字を読めるようになり、様々な書物に目を通しましたが、私は成長できていないのかも知れません」
レイラは悲しそうに目を伏せて呟いた。
「そんなことないと思うけどな」
「そうでしょうか?」
例えば……夜伽の時に恥じらうようになりました。
いや、そんなことじゃなく、とクロノは自分に突っ込みを入れた。
「新兵の訓練だけじゃなくて、ミノさんと一緒にピクス商会と折衝してくれたり、必要な糧秣の試算してくれたり、レイラのお陰でかなり負担が減ってるんだよ」
「……ありがとうございます、クロノ様」
クロノが耳を撫でると、うっとりとレイラは目を細めた。
※
部下と同じメニューの食事を終え、クロノはフェイとレイラ、スノウを伴ってクロフォード男爵領の南の方にある前線基地に向かった。
元々、前線基地はクロフォード男爵領の北端にあったのだが、開拓が成功したために押し出されたような形だ。
「危うく朝食を食べ損なう所だったであります」
ポクポクと黒毛の馬を進ませ、フェイは緊張感に欠ける声音で言った。
「時間を守るのも兵士の務めです」
「申し訳ないであります」
クロノを挟み、レイラは赤毛の馬を進ませながらフェイを窘めた。
僕も格好良く馬に乗りたいんだけどね、とクロノは幌馬車の御者席……その隣に座って手綱を操るスノウを眺めた。
「クロノ様って、貴族なのに馬に乗れないの?」
「乗れるけど、戦闘は無理かな」
クロノは背中を丸め、スノウの無邪気な質問に答えた。
「お母さんはすぐに乗れるようになったよ」
「僕も努力はしたんだよ」
才能の違いか、覚悟の差か、レイラは一週間で馬に乗れるようになり、一ヶ月の旅で騎射術を体得、単騎で盗賊を追い払うまでに成長している。
「クロノ様もそうなんだ。ボクも弓の練習をしているんだけど、ちっとも上手くならないんだ。すぐに短剣は上達したのに……エルフなのに弓の扱いが下手なのはボクがハーフエルフだからかな?」
スノウは腰から提げた短剣に視線を落とし、わずかに震える声音で言った。
「どうかな。でも、エルフは接近戦に持ち込まれると、押し切られちゃうから、接近戦にも対応できる弓兵は貴重だよ」
「えへへ、そうかな?」
「うん、貴重貴重」
クロノは照れ臭そうにするスノウの頭を撫でた。
「クロノ様!」
「何かあったの?」
レイラが叫んだので、クロノは長剣の柄を握り締めた。
「夜盗らしき一団が前線基地を取り囲んでいます」
「うん、何か旗みたいなのを掲げて、グルグル回ってるよ」
「あれはエクロン家の家紋でありますね」
スノウとフェイがレイラの言葉を補足する。
目を細めてもクロノには何も見えないのだが、
「フェイ、そんなに視力が良かったの?」
「神威術『活性』であります。色々と試した結果、視力も向上させられると発見したのであります」
エヘンとフェイは胸を張った。
「クロノ様、エクロン家とは?」
「エクロン家は隣の新貴族だよ」
ちなみに南辺境にある領地は八つあり、いずれも新貴族であるクロフォード男爵家、リパイオス男爵家、カガチ男爵家、ジラント男爵家、ベオル男爵家、ゲンノウ男爵家、エクロン男爵家、レヴィ男爵家によって治められている。
「まさか、反逆を?」
「それはないんじゃないかな」
実戦経験がある領主と領民は五十代、六十代のはずだし、自警団レベルの戦力で反逆を起こすのは自殺行為だ。
「……警戒は怠らずに、危ないと判断したら逃げるよ」
「あれくらいなら蹴散らせるでありますよ?」
「過信は禁物、合い言葉は『命大事に』で」
いつでも戦えるようにクロノは剣の柄を握り締めたが、囲まれている前線基地とエクロン家の兵士を見て、『ガンガン行こうぜ』に作戦を切り替えるべきか悩んだ。
エクロン家の旗を掲げる人数は五十人ばかり、武装をしているのは二十人ほどで、装備は皮の鎧が精々、手にしている武器も棒の先端にナイフを紐で結んだレベルだ。
前線基地の方も酷い。
蹴ったら壊れそうな柵の内側に、小屋が立ち並んでいるだけである。
中央にある小屋はそれなりに立派なのだが、それも周囲の小屋に比べてと但し書きが付く。
「命を大事にしながらでも、勝てそうでありますね」
「相手の命も大事にしようよ」
「どうして?」
クロノが力なく呟くと、スノウは不思議そうに首を傾げた。
「いや、人を殺すのはダメじゃないかな?」
「どうして、ダメなの? 相手だって武器を持ってるし、中途半端にケガをさせたら仕返しに来るよ」
価値観が違いすぎる、とクロノはその場に跪きそうだった。
レイラはハーフエルフというだけでスラムで何度も暴行を受けているのだ。
それだけ治安が悪ければ殺人に対する認識も異なるのだろう。
「……スノウが人を殺している所は見たくないから、かな」
「でも、ボクは兵士だよ?」
「そうなんだけど、何と言うか、感情的に」
我ながら説得力がないな、とクロノは思う。
人を殺させたくないのなら兵士を辞めさせれば良いし、そもそも、命の大事さを口にするクロノ自身が多くのヒトを死に追いやっているのだ。
「何か、間違ってるような気がするんだよね」
「……クロノ様がそう言うなら殺さないようにするけど」
「自分や仲間を守ったり、戦争だったら仕方がないけど、それ以外の時は殺さずに済む方法を考えて欲しいな」
スノウは不承不承と言う感じで頷いた。
柵の外に幌馬車を止め、フェイとレイラが軽やかに馬から下りる。
柵の内側にはいると、前線基地の周りを走り回っていた騎兵が止まり、エクロン家の兵士……チンピラにしか見えない……の視線が集中する。
空気を読んだのか、一人の若者がクロノに近づいてくる。
年齢はクロノより一つ、二つ下だろうか。
本業は農夫なのか、肌は日に焼け、引き締まった体つきをしている。
目付きは悪く、髪の毛は逆立っている。
「俺の名はジョニー、エクロン男爵領一の短剣使いだ」
空気を読んでいなかった。
おまけに名前がジョニー。
「ヘッ、姐さんに用があるのなら俺を倒してから行きな!」
ジョニーは短剣を抜き、お手玉でもするみたいに右から左、左から右へと短剣を持ち替える。
ギュッとスノウがクロノの腰にしがみついた。
あんなことを言ってたけど、と視線を落とすと、スノウの目は獲物を見つけた猟犬のようにギラギラと輝いていた。
え? ええっ? とクロノは救いを求めて視線を彷徨わせたが、フェイも、レイラも武器を構えていた。
「……僕が行くからね」
三人を制し、クロノはジョニーに近づいた。
「ガウル大隊長に会いに来たんだけど?」
「そいつは姐さんがナシを付けてるって言っただろうが? 行きたけりゃ、俺を倒してから行きな!」
「……でも、倒したら、他の連中に襲わせるつもりじゃないの?」
「カッ、そんなマネするかよ!」
う~ん、とクロノは腕を組んだ。
普通に戦っても勝てそうなのだが、小物臭を漂わせながら、実は……みたいな展開もあり得る。
「あ?」
「あん?」
クロノが視線を泳がせて呟くと、ジョニーも釣られるように視線を動かした。
短剣はジョニーの手をすっぽ抜け、地面に突き刺さった。
「……っ!」
ジョニーが地面に突き刺さった短剣に気を取られている隙を突き、クロノは距離を詰めて拳を振り上げた。
殴られると思ったのか、ジョニーが腕を交差させる。
その反応は悪くないが……クロノはジョニーの股間を蹴り上げた。
時が止まる。
クロノが足を引いても、ジョニーは動かない。
ジワジワジワと脂汗が滲み、股間を押さえて、ジョニーは声もなく地面に倒れた。
「ジョ、ジョニー!」
「ち、畜生! よくもジョニーを!」
「な、何てことをしやがるんだ!」
クロノを口々に非難しながらエクロン男爵領のチンピラは襲い掛かって来ない。
ジョニーの言葉を守っているのか、ジョニーは口先ばかりではなく、本当にエクロン男爵領一の短剣使いだったのか、判断に迷う所だ。
クロノが踏み出すと、エクロン男爵領のチンピラはジョニーを抱えて後退った。
レイラとスノウがクロノの左右を、フェイが剣の柄に手を掛けながら背後を固める。
「どう思う?」
「……クロノ様には申し訳ないのですが、彼らは弱いです」
「あ、やっぱり」
幾度かの実戦を経験し、それなりに成長しているつもりだが、クロノはエルフやドワーフの新兵になら勝てる程度の実力しか持ち合わせていない。
ついでに言うと、同じ新兵でも獣人や大型亜人には敵わず、レイラには組み手で締め落とされ、フェイには手も足も出ないレベルだ。
「ハッ、蛮族を退治してやるとか偉そうに嘯きながら一匹も捕まえられないのかい! そのくせ、詫びの一つも入れないなんて良いご身分だね!」
「あれ?」
女将の声が聞こえたような気がして、クロノは小屋を覗き込んだ。
小屋の中央にあるテーブルを挟んで、白い軍服を着た男と皮鎧を着た女が睨み合っていた。
男は……エルナト伯爵の息子ガウルだ。
ブラウンの髪を短く刈り込み、以前と同じように不機嫌そうに口を結んでいる。
女は二十代半ばだろうか。
髪はブラウン、ちょっと垂れ目で、顔立ちと声は女将と似ているけれど、残念ながら胸はない。
小屋にはガウルと女将のそっくりさん以外にも二人の人間がいた。
一人は第十二騎士団の副官だったセシリー、もう一人は唇に傷のある男だった。
男の年齢は三十歳くらいだろうか。
野性的でありながら何処となく気品を感じさせる顔立ちで、立ち振る舞いにも隙がない。
「だんまりを決め込むつもりかい? あたしらはね、迷惑してるんだよ。我が物顔で領地に居座って何様のつもりだい?」
ガウルが睨み付けても、女将のそっくりさんは怯んだ様子がない。
自殺願望でもあるんだろうか? とクロノは女将のそっくりさんの無神経さに呆れるしかなかった。
「姉さん!」
クロノが声を掛けると、女将のそっくりさんが驚いたように振り返った。
「は? アンタ、誰だい?」
「いやだな、姉さん。クロフォード男爵の息子でクロノだよ。何年も顔を合わせてなかったから忘れちゃったのかな?」
「は? クロフォード男爵に息子なんて……」
女将のそっくりさんは台詞を中断した。
唇に傷のある男が近づいて耳打ちしたからだ。
「ああ、いたね。カナン姉さんとしたことが、ついつい、うっかり、大切な弟分の顔を忘れちまったよ」
「小さい頃はカナン姉さんにお世話になったね。もう少しカナン姉さんと話をしたいんだけど、ここには仕事で来たんだよ。ガウル大隊長と話したいから、今日の所は帰ってくれないかな?」
死にたくなければ早く帰れ! とクロノは祈るような気分で言った。
「仕方がないね。可愛い弟分の頼みだ。帰るよ!」
「へい、姐さん」
女将のそっくりさんと唇に傷のある男が外に出ると、
「姐さんがナシを付けてきたぜ!」
「流石、姐さん!」
とか囃し立てる声が聞こえてきた。
ガウルの顔は赤黒く染まり、今にも剣を抜いて斬りかかりそうだ。
「帰るよ、お前達!」
走り去っていくエクロン男爵家のチンピラ一行を見送り、クロノは胸を撫で下ろした。
「……エラキス侯爵、何の用だ?」
「軍務局からガウル大隊長の補佐をするように頼まれたんです」
「補佐など要らん。帰れ!」
とりつく島もなかった。
「エルナト伯爵からも依頼されているので」
クロノがエルナト伯爵からの手紙を取り出すと、ガウルはそれを乱暴に奪い取った。
地雷を踏んだかな? とクロノは俯き肩を震わせるガウルを眺めながら思った。
「くっ……何処までも俺を認めないつもりかっ!」
グシャリとガウルは手紙を握り潰した。
なるほど、とクロノはすぐに事情を理解した。
ガウルは蛮族討伐に成功すれば父親が認めてくれると信じて南辺境に来たのだろう。
それなのに息子の至らなさを知っているエルナト伯爵はクロノに応援を頼んでしまったのだ。
つまり、僕は親子の不和に巻き込まれたのか。
いや、エルナト伯爵には謁見の間で止めて貰ったし、その恩を返すために期待された役割を果たすべきだ、とクロノは自身を鼓舞した。
「エルナト伯爵に恩返しをする意味でも補佐をさせて欲しいんですけど?」
「……」
ギリギリと悔しそうに歯軋りをしながら、ガウルはクロノを睨んだ。
「お返事は?」
「勝手にしろっ!」
ガウルが拳をテーブルに叩きつけると、衝撃で小屋が揺れた。
「俺は蛮族の夜襲に備えて寝る!」
クロノは黙ってガウルを見送り、セシリーに視線を移した。
「あら、馬糞の臭いがすると思えば馬糞女じゃありませんの? エラキス侯爵領でも厩舎の掃除をしてますの?」
セシリーはクロノから視線を逸らすと、陰険な笑みを浮かべて嫌みを言った。
「馬と鎧を頂いて、きちんと働いているであります」
「フェイは立派に騎兵隊で働いてるよ」
フェイがムスッとした感じで言うと、スノウが援護射撃を試みる。
セシリーは虫でも見るような視線をスノウに向け、剣を抜いた。
「あら、虫の羽音が聞こえますわね?」
「ボクは虫じゃない!」
セシリーが軽く腕を動かすと、フェイはスノウを庇うように歩み出て、剣の柄に手を掛けた。
「セシリーさん、剣を納めて欲しいであります」
「馬糞女がやる気ですの?」
「スノウさんは私の友人であります」
薄く、フェイの体と剣から闇が立ち上る。
神威術『神衣』、『祝聖刃』だ。
「ストップ!」
クロノは今にも斬り合いを始めそうなフェイとセシリーの間に割って入った。
フェイはともかく、セシリーは信用できないので、命懸けだ。
「そうやって無駄に部下を挑発するの止めてくれないかな?」
「私は事実を言っただけですわ」
「セシリー、蹴りくらいなら許してあげるけど、一線を越えた人間を許してあげられるほど寛大じゃないよ? 君が望むなら、あの時の捕虜以上に悲惨な目に合わせることだってできるんだよ?」
クロノが笑みを浮かべると、セシリーは恐怖と嫌悪感が入り混じった表情を浮かべて後退った。
「脅しのつもりですの?」
「まさか、事実を言っているだけだよ」
クロノは肩を竦めた。
「じゃあ、帰るよ」
クロノがフェイとスノウを促して外に出ると、レイラは安堵したように息を吐き、構えていた弓を地面に向けた。
「心臓が止まるかと思いました」
矢を矢筒にしまい、レイラは胸を押さえた。
「僕もだよ」
「あ、兄貴!」
小屋を出て、十歩も歩かない内にジョニーがクロノの足下に跪いた。
「……帰ったんじゃなかったの? と言うか、兄貴って何?」
「俺を兄貴の舎弟にして欲しいッス!」
え? と訳が分からずに視線を彷徨わせると、ジョニーは捲し立てるようにクロノを賞賛した。
「お願いするッス!」
「まあ、良いけど」
エクロン男爵家の情報も知っておきたいし、とクロノは頷いた。
「じゃ、御者を宜しく」
「了解ッス!」
ジョニーは嬉しそうに幌馬車に向かって走った。
※
こっちの世界で生きていこうと決めたはずだったのに、あっちの世界に帰りたいと思うことがある。
夕暮れ時、今みたいに麦畑を進んでいると、胸が締め付けられるように痛くなる。
もう二度と家族に会えない。
中学生の時に思い描いた人生に決して辿り着くことはできないと思い知らされる。
「兄貴、小便を我慢してるんなら止めるッスよ。それとも、大ッスか?」
「台無しだ」
ジョニーの話によると、あのチンピラ連中はエクロン男爵領の自警団員らしい。
エクロン男爵領の人間と言っても前身である傭兵団員を親族に持つのは唇に傷があるロバートだけだそうだ。
チンピラ連中は実戦経験もなければ、軍に所属していた経験もない。
普段は家業を手伝ったり、任務と称して逃げた家畜を追い掛けたり、喧嘩の仲裁をしたり……意外にも本当の自警団なのだ。
「後は……兵隊どもが失敗こいたり、悪さをしたら文句を言いに行くくらいッス」
「目眩がしてきた」
今までよく斬り殺されなかったと感心する。
今までは領民の不満を解消するためにとか言って根回しをしていたのかも知れないが、クロノが見る限り、ガウルは本気で怒っていた。
「新しい大隊長が……つっても、アイツが南辺境を仕切ってる訳じゃないッスよ。他にも六人の大隊長がいて、アイツはクロフォード男爵領とエクロン男爵領の間を担当してるだけッス」
「と言うことは各領地の間に駐屯地があるんだ。う~ん、蛮族を警戒するだけならそれで十分なのかな」
蛮族にも拠点はあるだろうし、侵攻ルートもあるだろう。
「兄貴の屋敷が見えてきたッスよ」
「そうだね」
屋敷に入ると、部下達は組み手の真っ最中だった。
クロノは幌馬車から降りる。
「じゃ、馬を厩舎に連れて行って……それから、ちょっと訓練をしよう」
「了解ッス!」
パシリっぽいな~、とクロノは馬を厩舎に連れて行くジョニーを見つめた。
「行ってきたッス!」
「じゃあ、組み手に混ざって」
「アイツらを締めろってことッスね? 短剣使いのジョニーの敵じゃないッスよ」
大股開きのチンピラウォークを披露し、ジョニーはタイガを挑発した。
シメんぞ、掛かってこいや的な台詞だ。
「無理だよ」
「僕もそう思う」
結果的に言えばジョニーはボロ負けした。
タイガに一発で倒され、フェイに投げられ、レイラに締め落とされた。
あれだけボコボコにされて臆病風に吹かれないのは凄い。
「……最後はスノウが相手をして」
「え~、ボクなの?」
渋々と言った感じでスノウはジョニーに近づき、拳を構えた。
ちょっとだけジョニーは元気を取り戻した。
どうやら、スノウになら勝てると思ったようだ。
でも、ジョニーはスノウに負けた。
「い、一度も勝てなかったッス」
「だから、嫌だったのに」
ジョニーは涙で顔をグショグショにして、殺人に忌避感のないスノウも流石にバツが悪そうだった。
「……ジョニー」
クロノはジョニーの肩を叩き、優しく声を掛けた。
「君は弱いんだよ」
「そんな、でも、俺……自警団の中じゃ」
「言い直すよ。君達は弱いんだ」
ジョニーは驚いたように目を見開いた。
もう少し言葉を選んであげれば良かったかな、とクロノは今更ながら後悔した。
ほんの数時間の付き合いだが、ジョニーは悪いヤツじゃないのだ。
根が純朴と言うか、出来の悪い弟みたいなヤツだ。
「無意味に正規兵を挑発するようなマネはしない方が良いよ」
「俺達が弱いからッスか?」
「君達が……君達が自分で命の使い所を決めるのは問題ないよ。けど、正規兵に手を出して話がこじれたら厄介なことになるんだ。最悪、エクロン男爵家が断絶するよ」
エクロン男爵家の旗を掲げて、その血縁者まで出張ってきているのだ。
言い逃れはできないし、自警団員の一族郎党が処刑されることもあり得る。
そこまで考えていなかったのか、ジョニーは震えだした。
「今から君に任務を与える。これは重要な任務だから、心して聞くように」
「分かったッス、兄貴」
ジョニーは絶望の中に希望を見出したかのように目を輝かせた。
「君は何事もなかったように戻って、自警団の連中が暴走しないようにするんだ。やり方は任せる。僕が言ったことをそれとなく伝えても良いし、正規兵は強いって教えるだけでも構わない。カナン姉さんに泣きつくのもありだ」
「分かったッス! 俺がエクロン男爵領を守るッス!」
固く拳を握り締め、ジョニーはクロフォード邸を飛び出した。
「クロノ様、彼は大丈夫でしょうか?」
「失敗したら報告に来てくれるでしょ」
クロノはレイラに軽く答えた。
正直、そこまでジョニーに期待していない。
「……それにしてもエルナト伯爵に恩返しするだけのつもりだったのに、予想以上に面倒なことになってるね」
状況を整理するためにも養父に話を聞いてみるか、とクロノは遠ざかっていくジョニーを眺めた。
※
時折、女将がホットドッグのような驚きのメニューを繰り出すのに対し、マイラはオーソドックスながらも完成度の高い料理を作る。
一見すると、単なるスープなのだが、その芳醇な香りや味の深さに良い意味で期待を裏切られる。
それはマイラの料理に共通する特徴なのだが、残念ながら養父であるクロードは美食家ではなく、クロノも同じだ。
二人して美味い美味いと言いながら食べ、食後の香茶を飲みながら、幸せな気分に浸るのである。
香茶を口に含み、クロノはカップをテーブルに置いた。
「父さん、聞きたいことがあるんだけど?」
「食事が終わったばかりだってのに仕事の話かよ」
文句を言いつつも、養父は真正面からクロノの視線を受け止めた。
「前線基地のことなんだけど、最前線なのに手抜き過ぎない?」
「今の蛮族どもにならアレで十分なんだよ。ああ、誤解するなよ? 今でも蛮族のヤツらはアホみたいに強い。そこは変わっちゃいねぇが、今のアイツらに攻め込んでくる力はねーんだよ」
「どういうこと?」
クロノが尋ねると、養父は面倒臭そうに頭を掻いた。
「……つまり、アレオス山地の蛮族は動乱期と開拓期に受けたダメージから、立ち直れていないのです」
養父の斜め後ろに立っていたマイラが説明を付け加える。
「でも、被害が出てるんでしょ?」
「昔は俺らも必死になって追っ払ってたもんだが」
「帝国軍の駐屯を認める代わりに正規兵がトラブルを起こした時や蛮族によって損害を被った時は相応の金額で穴埋めするように、と交渉しましたので。もちろん、クロフォード男爵領だけではなく、他の七家も同じ条件で帝国軍の駐屯を認めていますが」
う~ん、とクロノは唸った。必死に追っ払うとか、損害の穴埋めとか、切実感が感じられない。
「もしかして、大した被害って受けてないの?」
「馬鹿野郎! 開拓初期に牛や豚を奪われるのは死活問題だぞ!」
「あの時は牛を盗まれて、旦那様が有輪犂を引いていらっしゃいましたね」
養父は凄まじい剣幕で立ち上がり、マイラは遠くを見るような目で言った。
「途端に話が小さくなった」
「そうでもねーよ。蛮族どもは家畜泥棒みたいなマネをしてやがるが、それでも、並の兵士じゃ相手にならねーくらい強いんだよ。壊滅させりゃ、出世コースくらいにゃ乗れるんじゃねーか?」
被害は少ないけれど、脅威は脅威ってことか、とクロノは腕を組んだ。
「でも、帝国が損害を補償するんなら、エクロン男爵家が抗議する必要なんてないんじゃないの?」
「ありゃ、ポーズだ」
「毅然と抗議することで領民の不満を解消しているのです」
「アレはやり過ぎだと思うけど」
あの場にいた面々はジョニーを筆頭に分かってない感じだったし、あのノリで抗議を続けていたら、いつかは一線を越えるような気がする。
「エクロン男爵家の自警団は弱そうだったけど、うちはどうなの?」
「俺の所はマイラ以外にも付き合いの長いエルフがいるからな。足りない分は軍隊経験者を自警団員として雇って、ざっと五十人くらいか」
エクロン男爵家に比べれば頼もしいが、クロフォード男爵家も自警団のレベルを超えていない。
「ガウル大隊長をサポートしつつ、エクロン男爵家の自警団を抑えつつ、蛮族の討伐」
う~ん、とクロノは再び唸った。
「あのさ、父さん。こっちに攻め込んでくる余力がないんなら蛮族と交渉とかできないかな?」
「そりゃあ、無理だろ」
馬鹿なことを、と言わんばかりに養父は首を横に振った。
「俺らも蛮族を殺してるが、蛮族どもも同じことをしてやがるからな」
クロノは養父に何も言い返せなかった。
※
「明日も見回りの仕事があるんだから、あんまりハメを外すんじゃないよ!」
「分かってますぜ、姐さん!」
「姐さんが新人大隊長にカマしたぜ!」
「おう、ビビって何も言えねーでやんの!」
村で唯一の酒場で自警団員と別れ、カナンはロバートを伴って屋敷に向かった。
声を掛けてくる領民に強気な発言を繰り返し、馬の世話を使用人に任せて屋敷に入る。
エクロン邸はアルデミラン宮殿のように煉瓦造りの建物を中心に建て増しを繰り返して造られている。
開拓時に使用していた小屋は庭園に埋もれるように残されていて、隠居した父が友人を招いてティーパティーの真似事をしている。
屋敷に入るなり、カナンは皮鎧を脱ぎ捨て、
「もう嫌! あんな下品な話し方! 馬糞の山に突っ込んだ気分よ!」
日中の振る舞いを思い出して泣き崩れた。
「お嬢様、帝国が被害を補償すると言っても領民の不満は高まるばかりです」
「分かってるわ! でも、もっと、礼儀正しく抗議に行けばいいじゃない! あの、新しい大隊長は、とても怖い目で私を見ていたわ!」
「礼儀正しいと、舐められます」
ロバートは背筋を真っ直ぐに伸ばし、礼儀正しさの見本のような態度で言った。
「でも、でも、あんなマネしていたら、ただでさえ婚期が遅れているのに」
二十五歳になって縁談の話がないのだ。
男は怖がって近づいても来ない。
「これも姉さんが駆け落ちしちゃうから!」
「久しぶりに家に帰ってきたってのに恨み言を聞かされるなんてね」
「姉さん!」
「シェーラお嬢様」
階段を下りてきた人物を見て、カナンは驚きに目を見開き、ロバートは執事らしく一礼した。
カナンは十年ぶりに再会した姉……シェーラ・エクロンを見上げた。
「姉さん、今まで何処で何をしてたんですかっ?」
「あれからエラキス侯爵領で結婚してね。小さな食堂を経営してたんだよ。ま、旦那が死んじまったり、金貨百枚の借金を背負っちまったりで、今はエラキス侯爵の料理人兼愛人って所かね」
エラキス侯爵? とカナンは聞き慣れない名前に首を傾げた。
「クロフォード男爵の御子息のことです」
ロバートに説明され、ようやくカナンは駐屯地で出会った青年を思い出した。
「って愛人? 姉さん! あんな若い子を誑かすなんて何を考えているんですか!」
「人聞きの悪いことを言わないでおくれよ!」
シェーラは恥ずかしそうに顔を赤らめ、カナンから顔を背けた。
「ちょいと慰めてやるつもりだったんだよ、最初はね。そりゃ、だ、旦那にゃ、申し訳ないって気持ちはあるんだよ」
シェーラは顔を真っ赤にして、もじもじと恥ずかしそうに太股を擦り合わせた。
「それが、こう、勢いでね。勢いが、悪かったのかね。ふふふ、必死になっちまって可愛いねとか思ってたら、その気になっちまって、ズブズブと深みに嵌っちまったみたいな感じでね」
惚気られてる? 私は姉さんが出奔しちゃったせいで婚期が順調に遅れて、あんなチンピラみたいな連中に囲まれてるのに、あんな、あんな若い子を弄んで……、と今度こそカナンは泣き崩れた。




