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第12話『盤上』


 帝国暦四百三十一年一月下旬、例年通りであれば雪が降ってもおかしくないのだが、今年は数年ぶりの乾いた冬だった。

 風が吹くたびに枯れ草が潮騒のような音を奏で、半ば氷に閉ざされた人工池の水面が波打つ。

 神威術『活性』を使えば荒涼とした庭園を生命力溢れる姿に変えることも不可能ではない。

 一部の貴族や商人は財力を誇るために『神殿』に多額の寄付を行い、冬場に花を咲き乱れさせているらしい。

 冬に花を愛でるのも悪くないが、これはこれで趣のあるものだ、とレオンハルトはパラティウム邸の庭園を一人で歩いていた。

 一人で無為に時間を過ごす。

 それは第一近衛騎士団の団長として重責を担うレオンハルトにとって贅沢な時間の使い方である。


「ったく、こっただ所にいただか!」

「……」


 厚着でもしているのか、記憶よりもふっくらしたリーラはエプロンドレスの裾をたくし上げ、ズカズカとレオンハルトに歩み寄った。


「薄着してっから、冷えきってるだよ」

「……」


 リーラは爪先立ちになり、温めようとしているのか、レオンハルトの頬を左右から擦った。

 家事で酷使されている指先はお世辞にも心地よい感触を伝えてこなかったが、不快ではなかった。


「ったく、レオンハルト様は爺むせぇだ。折角の休暇なんだから屋敷に引き籠もってねぇで、遊びに出りゃええでねぇか」

「リーラは休みの日に外出しているのかね?」

「二、三日前に新市街で息抜きしてきたばかりだ。旅芸人が芝居をやってて、レオンハルト様が出てただよ」

「私は芝居になど出ていないが?」

「オラが言っているのは芝居の……役? 役でええんか? 役にレオンハルト様がいたってことだ」


 レオンハルトが尋ねると、リーラは自慢げに胸を張った。


「どんな風にレオンハルト様が戦ったか知らなかったからびっくりしちまっただ。アルフォート様を守るために、大軍に立ち向かう所なんて泣きそうになっちまっただよ」

「……なるほど」


 どうやら、戦争の顛末は誰かに都合の良いようにアレンジされた上で芝居になっているようだ。


「……早すぎるな」


 旅芸人が実際の事件を芝居として上演するのは珍しくないのだが、レオンハルトが帝都に帰還してから一週間と経っていない。

 そんな短期間で一介の旅芸人が台本を書き、稽古を積み、上演できるレベルに到達できるはずがない。

 となれば軍務局か、アルコル宰相の策だろう。

 極一部の例外を除き、帝国の臣民は政治に直接的な影響力を持たないが、民が不安を抱けば経済は混乱し、帝国兵を弱兵と判断すれば治安は悪化する。

 人間は不思議な生き物で、どんなに勇敢な騎士や兵士でも周囲の雰囲気に流されてしまう性質がある。

 不安が伝播すれば弱兵に、戦意が高揚していれば強兵に、軍規が緩んでいればそれに応じた行動を取ってしまう。

 要するに雰囲気作り……芝居という分かり易い方法で民を安心させようとしているのだ。

 もちろん、自分にとって都合の良い情報を織り交ぜて。

 アルコル宰相が民を安心させようとしているだけならば私も楽なのだがね、とレオンハルトは目を細めた。


「……リーラ、その芝居の中にクロノという男はいたか?」

「クロノ?」


 リーラは不思議そうに首を傾げた。

 芝居がアルコル宰相の策だ、とレオンハルトは確信を抱いた。

 一介の旅芸人が演じるのならばクロノを選ぶはずだ。

 観客は貴族ではなく、平民なのだから。



 何故、リザドは死地に向かっていったのだろう? クロノは天井を見上げ、そんなことを考える。

 脳裏を過ぎるのはリザドの最期だ。

 数え切れないほどの槍を受けながら、リザドは歩みを止めなかった。


『……形見』


 最期の言葉はリザドの胸中を察するためには短すぎた。

 数多の死が脳裏を過ぎる。

 槍で頭を吹き飛ばされたレオ。

 焼き殺された女エルフ。

 槍で、神威術で殺されたエルフと獣人達。

 目を見開いたまま死んだホルス。


「ぐ……ぅぅぅぅっ」


 次々と戦場の光景がフラッシュバックし、クロノは拳を握り締めて荒れ狂う感情の波に耐える。


「「クロノ様!」」


 部屋の扉を開け、デネブとアリデッドがベッドで苦しむクロノにダイブした。


「ほらほら、起きて起きて」

「そうそう! クロノ様が起きてくれないと、あたしらの仕事が片付かないし」


 エプロンドレス姿のデネブとアリデッドにベッドから叩き落とされ、クロノはのそのそと立ち上がった。

 クロノがいるのは帝都アルフィルクの第四街区にあるクロフォード邸の自室である。

 色々と手続きをしなければならないので、エラキス侯爵領に戻るのを先延ばしにしているのだ。

 今日、アルフィルク城で行われる論功行賞は欠席する訳にはいかなかった。


「……デネブ、アリデッド」

「「何?」」


 デネブとアリデッドは手を休め、クロノを見つめた。


 どうして、リザドは……。


 そんな疑問を投げかけようとしたが、二人に見つめられている内に何も言えなくなってしまった。


「いや、何でもないよ」


 そう言い残してクロノは部屋を出て食堂に向かった。

 食堂に入ると、副官と養父が向かい合って食事をしていた。

 副官はクロノの護衛としてクロフォード邸に滞在している。

 あっしは厩舎で、と副官は言っていたのだが、養父は彼の意見を突っぱね、客人として部屋を用意したのだった。


『大将、体調は宜しいんで?』(ぶも?)

「あんまり部下に心配を掛けるんじゃねえぞ」


 テーブルに近づくと、副官と養父はクロノに声を掛けた。


「坊ちゃま、食事は如何なさいますか?」

「……軽く」


 かしこまりました、とマイラは恭しく一礼して厨房に戻った。


「まだ、食欲が戻らねえのか?」


 うん、とクロノは小さく頷いた。

 食欲がないし、無理に食べると、吐いてしまうのだ。


「論功行賞の途中でぶっ倒れるんじゃねぇぞ」

「それは大丈夫だと思う」

「坊ちゃま、スープです」


 マイラに差し出されたスープを口に含むと、鉄臭い味が広がった。

 まるで血のような味と臭い。

 錯覚だ、と自分に言い聞かせてクロノはスープを胃に流し込んだ。


「坊ちゃま、登城の準備を」

「……分かった」


 自室に戻ると、デネブとアリデッドの姿はなかった。


「あの二人でしたら厩舎の掃除をさせております」

「二人の調子はどう?」


 ふぅぅぅぅ……とマイラは長い長い溜息を吐いた。


「長らくメイドの育成に取り組んで参りましたが、あそこまで劣悪なメイドは見たことがございません。掃除をすれば桶をひっくり返し、料理をすれば摘み食いし、買い物をさせれば釣り銭を誤魔化し、夜になれば坊ちゃまのベッドに忍び込もうとする」


 マイラは頭痛を堪えるようにこめかみを指で押さえた。


「あ、あまつさえ、私を、ば、ば、ばババアと!」

「……」


 人間の感覚からすれば立派にお婆ちゃんなのだが、その辺は女性特有の心理みたいなものが働いているのだろう。


「ええ、そりゃあ、私は六十歳のお婆ちゃんですよ! こ、ここ二十年ばっかり日照ってますよ! 知り合いとか孫が出来ちゃってますよっ! で、でも、南辺境の開拓で忙しかったんだから、仕方がないじゃないですか!」

「マイラって結婚願望が強い方?」

「いえ、別に」


 クロノが問い掛けると、マイラは一転して真顔になった。


「念のため聞きたいんだけど、結婚の条件は?」

「年齢はこだわりませんが、年間の収入が金貨二千五百枚あれば助かります」


 何気にハードルが高い。

 年収金貨二千五百枚と言ったら、土地持ちの下級貴族レベルである。


「そう言えば坊ちゃまも」


 ぎらりとマイラの瞳が飢えた獣の如き光を放つ。


「……チッ」


 クロノが慌てて軍礼服を着ると、マイラは露骨に顔を顰めて舌打ちをした。



 アルフォートの使者である第十二騎士団は二頭立ての箱馬車でクロノを迎えに来た。

 皇室所有の馬車が第四街区を走るのは初のことであり、クロフォード邸の周囲は野次馬で溢れた。

 デネブとアリデッドは嬉しそうに見送ってくれたが、クロノは誇らしい気分になれなかった。

 馬車がアルフィルク城に着くと、そこから先の案内は女官の仕事だった。

 ツンと澄ました感じの女官に先導され、ようやくクロノは謁見の間に辿り着いたのだった。

 謁見の間、その扉の前にはレオンハルト、エルナト伯爵、リオ、ピスケ伯爵、生き残った大隊長が立っていた。


「やあ、クロノ」

「おおっ、エラキス侯爵!」


 歩み寄ろうとしたリオを押し退け、ピスケ伯爵はクロノの手を握り締めた。


「ピスケ伯爵、その節はどうも」

「いやいや、私はエラキス侯爵と交わした約束を守ったに過ぎんよ」

「いえ、お陰で助かりました」


 これは偽らざる気持ちだった。

 約束の範疇に含まれていなかったにも関わらず、ピスケ伯爵がノウジ帝国直轄領の前線基地に医師と薬草を手配してくれたお陰で部下は適切な治療を受けられたのだ。


「ピスケ伯爵、恋人同士の逢瀬を邪魔しないでくれないかな?」

「こ、恋人っ!」


 リオがクロノにしな垂れかかると、ピスケ伯爵は両手でお尻を押さえて後退った。


「人の恋路を邪魔するつもりはないが、少しは場を弁えるべきではないかね?」

「分かってるさ」


 レオンハルトが指摘すると、リオは不満そうに唇を尖らせてクロノから離れた。


「クロノ殿、顔色が悪いようだが?」

「食欲がなくて」

「ふむ、良ければ私の愛飲している香茶を届けさせるが? 鎮静効果があってね。気分を落ち着けるのに最適だ」

「気持ちだけで」


 レオンハルトは労うようにクロノの肩を叩き、元の位置に戻った。


「エルナト伯爵」

「クロノ殿」


 クロノが敬礼すると、エルナト伯爵は敬礼で応じた。


「あの時はありがとうございます」

「礼には及ばんよ」


 エルナト伯爵はクロノの頭を撫で、穏やかな笑みを浮かべた。


「宜しいですか?」


 ピスケ伯爵が頷くと、衛兵は謁見の間の扉を押した。

 重々しい音と共に扉が開く。

 謁見の間は殺風景だった。

 第四街区にあるクロフォード邸が収まるほど広いのにあるのは一直線に伸びる真紅の絨毯と一段高くなった場所に置かれた玉座のみである。

 ただ、床は鏡のように磨き上げられ、玉座はそれだけで一財産になるのではないかと思うほど精緻な細工が施されているため貧乏臭さはない。

 絨毯の両脇には宮廷貴族が立ち並び、玉座の周囲には帝国のトップと思しき六人……四人は順当に考えて皇軍長、財務長、尚書長、宮内長だろう。

 残る二人は玉座の左右を固めている。

 一人は女将と同い年くらいの女性、もう一人は禿頭の老人だった。

 これも予想に過ぎないが、女性はアルフォートの母親、禿頭の老人はアルコル宰相だろう。

 帝国の重鎮に囲まれたアルフォートは玉座に深く腰を下ろし、引き攣った笑みを浮かべていた。

 張り子の虎という言葉が容易に思い浮かぶ。

 まあ、中身を期待して担ぎ上げた訳ではないだろうが。

 絨毯の上を進み、アルフォートから適度に離れた場所で片膝を突く。


「ピスケ伯爵、報告を」

「はっ、アルコル宰相」


 禿頭の老人……アルコル宰相に促され、ピスケ伯爵は今回の戦闘……アルフォートの親征を報告した。

 流石にアルフォートが篝火にビビったせいで壊滅的なダメージを受けましたと報告できないので、かなり事実が歪曲されている。

 それでも、突っ込まれないのは根回しが済んでいるからだろう。

 領地運営をしていると思い知らされるのだが、この根回し……事前に関係各所に話を通しておく……は物事をスムーズに進めるために重要だったりする。


「うむ、格別に功のあった者には報いなければならんな」


 アルコル宰相はクロノを見つめ、目を細めた。


「……エラキス侯爵は此度の戦において殿を務め、その働きによりアルフォート殿下は無事に帝都に帰還された。よってカド伯爵領を授ける」

「はっ、ありがたき幸せ」


 カド伯爵領はエラキス侯爵領の西……面積はエラキス侯爵領の半分以下、三十年前の南辺境ほどではないが、小さな漁村が点在するだけの僻地である。

 負け戦で大盤振る舞いする訳にもいかず、さりとて報償を授けない訳にもいかない。

 そんな本心が透けて見えるようだった。


「……さて、戦を終えたばかりだが」


 次の戦争の話か、とクロノは体を強張らせた。


「この度、神聖アルゴ王国と講和条約が締結された」


 アルコル宰相の言葉にクロノは頭の中が真っ白になった。


 何ヲ、言ッテルンダ?


「皆も知っての通り、神聖アルゴ王国とは国境付近で数え切れないほど小競り合いを繰り返してきた。此度の戦はそれに対する不快感を示した物と言っても良かろう」


 二週間も経っていないのに講和条約が結ばれるなんてありえない。

 けれど、クロノ達の知らない所で交渉が進められていたとしたら、戦場で抱いた違和感の正体に説明がつく。

 戦争は地味な嫌がらせの積み重ねだ。

 他にも兵士の数を揃えたり、鍛錬したり、やるべきことは数え切れないほどあるのに一ヶ月程度の準備期間しか与えられなかった。

 積み重ねの要素がなさ過ぎたのだ。

 今だからこそ分かるが、最初からマルカブの街を占領するつもりなどなかったのだ。

 仮にマルカブの街を占領しても適当な口実を設けて補給を断ち、撤退せざるを得ない状況を作り出していたことだろう。

 何故なら、アルコル宰相の目的は神聖アルゴ王国との講和であり、泥沼の戦争ではなかったのだから。加えて、講和条約を締結させることでアルフォートが皇位を継ぐのに必要な実績までも作った。

 何もかも、この老人の思惑通りだった。

 僕らは自分が盤上の駒であることも知らずに必死に戦っていたんだ。

 恐怖を押し殺して、罪悪感に蓋をして、部下を死なせたくない一心で策を練った。

 それでも、及ばずに部下を死なせ続けた。

 絨毯を握り締める爪が剥がれ、血のように赤い涙が流れた。


 殺そう、こいつらを殺そう。


 立ち上がろうとしたクロノの頭を大きな手が押さえつけた。

 エルナト伯爵の手だった。


「耐えるのだ、クロノ殿」

「……っ!」


 クロノの脳裏を過ぎったのはクロフォード邸にいる、領地でクロノの帰りを待っている部下達の姿だった。


「……え、エラキス侯爵、こ、今回の講和をどう思う?」


 クロノは静かにアルフォートを見上げ、必死に、笑みを浮かべた。


「し、臣民はアルフォート様の英断に感謝することでしょう」


 茶番だ。

 こんな茶番のために部下は死んだのだ。


「わ、私の部下も平和の礎となれたことを誇らしく思っているに違いありません」


 そんなはずない。

 生きていたかったはずだ。

 死にたくなかったはずだ。

 あんな風に使い捨てられて、どうして誇りに思える。

 クロノは頭を垂れ、肩を震わせ続けた。



 クロフォード邸に戻るまでの記憶は曖昧だった。

 気がつくと、クロフォード邸の前庭に立っていたというのがクロノの実感だった。

 どれくらい呆けていたのだろうか?


「「クロノ様、お帰りなさい!」」


 デネブとアリデッドに抱きつかれ、クロノは蹌踉めいた。


「クロノ様、元気ないし」

「ずっと、元気なかったもんね」


 二人は体を離し、クロノを見上げた。


「あのさ、クロノ様が……みんなが死んだのを気に病んでるのは分かってるけどさ」

「新しく部下になった連中は分からないけど、あたしらはクロノ様のために」


 聞いちゃダメだ、と何かが頭の片隅で囁いていた。

 きっと、聞いたら戻れなくなる。


「クロノ様のためになら死ねるし」

「つか、クロノ様なら『セカイジンケンセンゲン』をしてくれるから」


 ヒッ! と小さく悲鳴を上げ、クロノはデネブとアリデッドを突き飛ばした。


「痛っ! あにすんの!」

「折角、あたしらが格好良く決めたのに」


 ああ、そうだ。

 ずっと、目を逸らし続けていた。

 あの時、レイラを引き留めるために言った『セカイジンケンセンゲン』が持つ影響力から目を逸らし続けてきた。


 何故、リザドは死地に向かったのか?


 そんなの簡単だ。

 僕が理想……誰もが分け隔てなく暮らせる世界なんてものを教えてしまったからだ。

 たった一度、吐いた言葉が部下を死地に向かわせた。

 いや、デネブとアリデッドに死を決意させてしまってさえいる。

 ティリアが言った通り、クロノ……この世界に紛れ込んだ黒野久光は毒だった。

 他人の思考を汚染して死に向かわせる病毒だ。


「「クロノ様?」」

「ひぃ……ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 クロノは奇声を上げてデネブとアリデッドから逃げ出した。



 何処をどう走ったのか覚えていない。

 走って、走って、この悪夢のような現実から逃れたい一心で走って、チンピラに捕まり、ボコボコに殴られた挙げ句に路地裏に投げ捨てられた。

 財布まで盗まれた。

 悪夢から逃げるどころか、帝都から出ることもできなかった。

 自分の矮小さがおかしくてクロノは笑った。

 こんな自分のために部下は死んだのだ、と涙が止まらなかった。

 笑いながら泣いた。

 このまま寝転がっていれば死ねるだろうか? と空を見上げると、誰かがクロノを見下ろしていた。

 少年、いや、少女だろうか。

 多分、年齢は十五に満たない。

 浅黒い肌の持ち主で目付きは鋭いを通り越して藪睨み気味だった。

 ダークブラウンの髪は少年のように短く、着ている服はボロボロで、ボディーラインはシャープだった。

 跪き、少女はクロノの服を探った。


「……財布を盗まれたばかりで金目のものなんてないよ」

「何だ、生きてたのかよ」


 少女は舌打ちをしてクロノから離れ、忘れ物を取りに来たように戻ってきた。


「どうして、こんな所で寝てるんだ?」

「……現実から逃げ損ねた」

「訳が分からねーよ」


 少女はクロノを背もたれ代わりに地面に座った。


「まあ、逃げたいって気持ちは分からなくもねーけど」


 少女は舌打ちをした。


「アンタ、軍人か?」

「……そうだよ」


 クロノは答えると、自分から聞いてきたくせに少女は興味なさそうに頷いた。


「君は?」

「孤児だよ、孤児」


 少女は黙って空を見上げた。


「同情はしなくて良いぜ。あたしみたいなガキは帝都を探せば幾らでもいるし、同情されたって何かが変わるって訳でもねーし」


 少女は髪を掻き上げ、溜息を吐いた。


「財布を盗まれなければお金を渡せたんだけど」

「……」


 少女は無言でクロノを殴りつけた。


「同情はするなって言っただろうが! これでもあたしは自分の食い扶持を自分で稼いでるんだよ!」

「ごめん」

「わ、分かってくれりゃ良いんだよ」


 クロノが素直に謝ると思っていなかったのか、少女は口籠もった。


「なあ、アンタの逃げ出したかった現実って何だよ? ああ、答えにくけりゃ、答えなくて良いぜ」

「部下が死んだんだ」


 ふ~ん、と少女は興味なさそうに頷いた。


「それって、アンタが気にするようなことなのか?」

「……っ!」


 頭の中が真っ白になり、気がつくと、クロノは少女の胸ぐらを掴んでいた。


「僕が、僕が殺したんだ! 何も考えずに、理想を……この世界に存在しない価値観を口にしたせいで部下が死んだんだ!」


 クロノは少女から手を離した。


「……生き残った部下も僕のために死ねるって言うんだ」

「よく分からねーけど、それはアンタが気にすることじゃないんじゃねーの?」


 少女は乱れた服装を正しながら、憮然とした口調で言った。


「別にアンタは俺のために死ねって言った訳じゃねーんだろ? だったら、アンタの部下は自分の意思でアンタのために死んだんじゃねーか」

「僕が理想を口にしなければ死ななかったかも知れない。死なずに済んで、結婚して、子どもとか……生きていれば」

「……アンタは部下のことが好きだったんだな」


 クロノは少女の言葉に顔を上げた。


「違うのか?」

「違わない」


 僕は……レオやホルス、リザドのことが好きだったんだ。

 亜人という理由で差別されているのが許せない?

 そうじゃない。

 僕の好きな人達が差別されているのが嫌だったんだ。

 ああ、そうだ。

 あの時、悲しげに微笑むレイラを見て、止めなきゃいけないと思った。

 世界人権宣言はその口実じゃなかったんじゃないのか?

 涙が零れた。

 レオに、ホルスに、リザドに会いたかった。

 死んでいった部下に会いたかった。

 会って、好きだと伝えたかった。

 けれど、彼らはいない。

 死んでしまったのだ。

 心が痛かった。

 クロノは髪を髪毟り、大声で泣いた。


 どれくらい泣いていただろうか?


 クロノが顔を上げると、少女は目を真っ赤にしていた。


「あたしはもらい泣きなんてしてねーからな!」

「分かってるよ」


 クロノは袖で乱暴に目元を拭い、ゆっくりと立ち上がった。


「何を言えば良いのか、あたしは馬鹿だから分からねーけど」

「うん、何となく分かるよ」


 大好きな彼らのために何ができるのか?

 彼らは誰もが分け隔てなく暮らせる世界を望んだ。

 それはクロノの望みでもある。

 だったら、答えは一つしかない。

 クロノは痛む体を引きずるように歩き出し、


「僕の名前はクロノ。君は?」

「あたしはヴェルナ、ただのヴェルナさ」


 また、会おうとは言わなかった。

 クロノは体を引きずるように歩き、ゆっくりとスピードを上げていく。

 体が痛い。

 けれど、体の奥から力が、熱が溢れてくる。

 薄汚れた街が美しく見える。

 饐えた臭いを孕んだ空気が新鮮に感じられた。



 クロフォード邸に戻ると、デネブとアリデッドがしょぼくれた感じで門の前に立っていた。


「デネブ、アリデッド!」

「「く、クロノ様!」」


 クロノは力一杯抱き締めると、デネブとアリデッドは驚いたように目を見開き、恐る恐ると言った感じでクロノの背に手を回した。


「さっきはごめん」

「謝らなくても良いから」

「傷の手当てをさせて欲しいみたいな」

「ようやく気づいたんだ。僕は……僕は君達が好きなんだって」

「「うはっ!」」


 デネブとアリデッドは奇妙な声を上げてクロノから離れた。


「つ、遂に、こ、この時が!」

「……っ!」


 アリデッドはだらしなく相貌を崩し、デネブは今にも泣き出しそうな表情でクロノを見つめた。


『大将、戻ったんで?』(ぶも?)

「坊ちゃま、お帰りなさいませ」

「ミノさん、マイラ、好きだっ!」

「「えっ?」」


 クロノは叫びながら扉の前に立つ副官とマイラに抱きつこうとした。

 ブモォッ! と副官はマジック・アイテムでも変換不能な悲鳴を上げて飛び退いた。

 えっ? はデネブとアリデッドの声である。


「……こ、これほど情熱的に抱き締められたのは二十年ぶりではないかと。歳の差はありますが、坊ちゃまに求められたら私は拒む術を持ちません。旦那様、お許し下さい。マイラは弱い女です」

「んなことを言わなくても咎めねぇよ」


 疚しい所でもあるのか、外に出てきた養父はマイラから目を逸らしつつ言った。


「父さん!」

「……俺にまで抱きつく必要はねえぜ」


 マイラから離れ、クロノは養父を見上げた。


「立ち直ったみたいだな」

「多分……けど、これからも悩み続けると思う」


 養父は昔を懐かしむような目でクロノを見つめた。


「そりゃあ、何かを成し遂げようって時はそれなりに悩むもんだ。自分以外の命も関わってりゃ尚更だ」


 養父はクロノの頭を乱暴に撫でた。


「正直に言えば、俺はお前が逃げ出すと思ってたぜ。何しろ、お前は部下を何処かで仲間みたいに思ってやがるからな。部下の死を受け止められねえと思ってた。お前がお前の世界で培った価値観は……この世界じゃ、疫病みてぇなもんだ。周りにいるヤツらだけじゃなく、お前自身を蝕んじまう」

「クロノ様は病気じゃないし!」

「クロノ様のために死ぬのも、あたしらが自分で決めたことだし!」


 デネブとアリデッドが叫ぶと、養父は参ったとでも言うように頭を掻いた。


「おまけに本人に自覚がねえんだから、始末に負えねえ。良いか? 俺の息子は自分の価値観に従ってるだけなんだよ。理想なんかじゃねえ。そもそも、こいつは今の今まで突き詰めて考えていやがらなかったんだからな」

「「……っ!」」


 デネブとアリデッドが縋るようにクロノを見つめた。


「今なら引き返せるぜ?」

「……」


 クロノの答えは決まっていた。



 帝国暦四百三十一年二月、ハシェルの街……レイラは門の前でクロノを待っていた。

 いつ戻ってくるか知らされている訳ではない。

 待っていると約束した訳でもない。

 それなのに気が付くと、レイラの足は街の門に向いていて、日が暮れて門が閉ざされるまで待ち続けている。


「……雪?」


 降り積もったらクロノ様が帰られるのが遅くなってしまう、とレイラは鉛色の空を見上げた。

 だが、雪は次から次へと降り積もり……薄く地面を覆った頃、レイラの目は一台の箱馬車を捉えた。

 ドクンと心臓の鼓動が跳ね上がる。

 馬車に走り寄りたい衝動をグッと堪え、レイラはその時を待った。

 門の前で馬車が止まり、ゆっくりと、ゆっくりとクロノが地面に降りる。

 黒を基調とした軍礼服に裾の擦り切れたマントを羽織っている。


「クロノ様!」

「レイラ?」


 レイラが抱きつくと、クロノは戸惑いながらも抱き返してくれた。


「……心配、していました」

「ごめん。もう少し早く帰って来たかったんだけど」


 クロノが視線を向けると、箱馬車は侯爵邸に向かって走り出した。


「少し歩こうか?」

「はい」


 寄り添うレイラの肩にゆっくりとクロノの腕が回される。

 それだけでレイラの心臓は早鐘のように鼓動を早める。

 レオ、ホルス、リザド……他にも大勢の仲間が死に、悲しみに暮れる仲間がいると知りながら自分はクロノの帰還を喜んでいる。

 浅ましいと思うけれど、レイラは喜びを抑えられなかった。


「……レイラに謝らなきゃいけないことがあるんだ」

「何を、でしょうか?」


 レイラはクロノの手が震えていることに気づいた。


「初めて会った時のこと、覚えてる?」

「はい」

「あの時、僕は……君達に、君に責任を押しつけようとしたんだ」

「……はい、気づいていました」


 あの時のクロノは暗い喜びに満ち溢れた目をしていた。

 それが弱者が自分よりも弱い者を見つけた時の安堵にも似た感情だとレイラは気づいていた。

 だから、謝ってしまえば済むと咄嗟に判断したのだ。


「気づいていたのなら、どうして?」

「あの時に向けられた視線が何かの間違いだったのではないかと思うくらいクロノ様は私を愛して下さったので」


 いえ、とレイラは頭を振った。


「単に怖かっただけかも知れません」


 恋愛には駆け引きが存在するらしいが、これは駆け引きでさえない。


「クロノ様は私を試していらっしゃるのですか?」

「違うよ。多分、僕も怖かったんだ」


 何が? とは問わない。

 今の関係は自分がクロノの気持ちを考えずに突っ走った結果なのだ、とレイラは気づいている。

 自分も、クロノも臆病で、自分達に不都合な事実から目を逸らしていた。


「ごめん、レイラ。愛してる」

「はい、私もクロノ様を愛しています」


 カーン、カーンと鎚を打つ音が侯爵邸に響き渡る。


「レイラ、傍にいてくれないかな?」

「もちろんです」


 侯爵邸のホールには副官、デネブ、アリデッド、ゴルディ、タイガ、シロ、ハイイロ、ケイン、フェイ、女将、エレナ、シオンが立っていた。

 クロノは彼らの前に立ち、深呼吸を繰り返した。


「……みんなに伝えたいことがあるんだ」


 じっとりと汗ばんだ手の平からクロノの緊張が伝わってくるようだった。


「僕はケフェウス帝国を愛しているけれど、憎んでもいる」


 ただでさえ静まりかえっていたホールが更なる静寂に支配される。


「僕はね、嫌いなんだ。亜人だから、平民だからって蔑ろにする帝国が大嫌いだ。奴隷制度ってのも好きじゃないね」


 だから、とクロノは続けた。


「この国を変えてやろうと思う。亜人も、平民も、貴族も分け隔てない、同じだけの価値と意味を持つ国にしてやろうと思う」

「正気かよ?」

「残念ながら」


 ケインの問いにクロノは苦笑いを浮かべて答えた。


「この国を変えるって簡単に言うけど、どうするつもり?」

「基本路線はそのままだよ。農業改革と交易で領地を豊かにする。産業が活性化すれば雇用が生まれるし、生活の基盤を安定させれば亜人と平民の地位は向上する」

「そう言われると、簡単にできそうな気がしちまうね」

「そんな訳ないでしょ! 簡単に言うけど、辺境の一領主に過ぎないアンタがどんなに努力したって、この国を変えるなんてできっこない! 仮に上手くいっても、アンタの孫の代には元の木阿弥よ!」


 エレナは偉そうに腕を組み、クロノから顔を背けた。


「……この国を本気で変えるつもりなら、皇帝になるしかないじゃない」

「うん、皇帝を目指すのもありだと思う」


 クロノは普段と変わらない口調で言った。


「これから色々な手を打っていく。その中には戦争に参加して武功を積むのも含まれる」


 再びホールは静まりかえった。

 命を捧げても帝国が変わる保証など何一つない。たった一つしかない命を戦場で散らすくらいならば、クロノの庇護の元で安楽に暮らすべきだ。

 けれど、と思う。

 もし、そんな国を作れたのならば、どんなに素晴らしいだろう。


「……クロノ様」


 レイラはクロノから離れ、片膝を突いた。


「どんな時でも私は貴方の傍にいてみせます」

「先を越されたであります!」


 フェイがその場で片膝を突くと、副官、デネブ、アリデッド、タイガ、シロ、ハイイロが続いた。


「……ああ、クソ。こんな話を聞かされるんなら寝坊しときゃ良かったぜ。ああ、クソッタレ」

「愚痴りたいのか、笑いたいのか、はっきりしなさいよ」


 ケインが何かを罵倒しながら片膝を突くと、エレナは嫌悪感を滲ませた声音で言った。


「で、お前はどうするんだよ?」

「この国を変えるなんて世迷い言に興味はないわ。けど、今のあたしはアイツの所有物だし、途中で仕事を投げ出すのも面白くないし、最初から選択肢なんてないのよ。アンタ風に言えば、クソッタレってヤツね」

「あたしゃ、借金を完済するまでって所かね」

「……私は」


 エレナと女将は現状維持、シオンは明確な答えを出せなかった。


「これから始めるのは先の見えない戦いだよ。どれくらい労力を費やせばいいのかも、どれほどの犠牲を積み上げればいいのか見当もつかない。報われるかだって分からない。神の加護だって期待できない」


 ないない尽くしの戦いだ。そもそも、一般的な意味での戦いなのかさえ定かではないのだ。

 レイラはクロノを見上げながら思う。

 私達はクロノ様に庇護され、その庇護から離れるために戦うのですねと。

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