第10話『篝火』修正版
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六日目の夕刻、帝国軍は戦闘によって将兵を失い、八千二百弱に規模を縮小させながらも丘陵地帯の先にある隘路に辿り着いた。
底を尽きそうになっていた糧秣は第九近衛騎士団のお陰で補充されている。
団長であるリオが仕事を放り出して夜襲に参加していたにも関わらずだ。
それくらいで動けなくなるような人間に第九近衛騎士団は務まりませんな、とは副団長を務める老騎士……髪はオールバック、髭をたっぷりと蓄えている……の弁である。
糧秣を受け取る際、クロノは老騎士と言葉を交わした。
ほんの数十分程度の会話だったが、どれくらい老騎士がリオを大切に思っているのかが伝わってきて何とも居心地が悪かった。
リオ様を裏切ったら死にますぞ、と老騎士はクロノの肩を叩いた。
柔和な笑みを浮かべていたが、ぞっとするほど凍てついた光が双眸に宿っていた。
そんな老騎士から仕入れた情報によれば、神聖アルゴ王国は王都に近づくほど高地が増え、必然的に街道はその間隙を縫うような形になるらしい。
季節が春ならばハイキングをしたくなるような風景を楽しめるのだろうが、残念ながら今は冬である。
斜面に生えた草花は枯れ果て、木々は葉を落としている。
それだけなのに大地が迫ってくるような威圧感を覚える。
そんな風に感じてしまうのは敵の奇襲を必要以上に警戒しているからだろう。
それくらい敵の歩兵や騎兵が駆け下りたり、巨大な岩が転がってくる光景をイメージし易い斜面なのである。
僕が指揮官なら隘路に誘い込んで戦列が伸びきった所を叩くんだけど、とクロノは岩に腰を下ろした。
そんなことをクロノが考えている間にも副官は指示を出し、野営陣地を設営し、手が空いた部下は女将の手伝いを始めていた。
流石に部下になったばかりの亜人は手際が悪いが、これは古参の兵士が手を貸すことで何とかなっている。
「生きて戻ったら、軍務局に申請してエラキス侯爵領に異動させないと」
「クロノ様が難しい顔をしてるし」
「また、アレをさせるつもり?」
クロノが頬杖を突いていると、デネブとアリデッドが岩に寄り掛かる。
多分、アレとは狙撃戦術のことだろう。
「アレだと少ない兵力で敵の戦力を削げるし、士気も下げられるんだよね」
「……あたしらは別に構わないんだけど」
「アレやると、こっちの士気も下がるんだよね」
うん? とクロノは首を傾げた。
「「部下が敵を嬲り殺したり、死体を切り刻んだりすることに怖じ気づいてたみたいな」」
「デネブとアリデッドは大丈夫そうだけど?」
クロノが尋ねると、デネブとアリデッドは顔を見合わせて苦笑い。
「ほら、あたしらは割と悲惨な過去を背負ってたりするわけで」
「そんなだから、気持ちを切り離して動けるんだよね」
よくよく考えてみればクロノだって人を傷つけることに抵抗があるのだから、部下だって同じだろう。
今回のように狙撃戦術や心理攻撃を実行するためにはこちらも心理的な制約を乗り越えなければならないということだろうか。
「そうは言うけど、有効な戦術ってことに変わりはないんだよね」
「だったら、あたしらみたいに割り切れるヤツらを選ぶしかないじゃん」
「こっちの士気まで下がったら元も子もないし」
デネブとアリデッドの提案は魅力的なものに思えた。
これからも狙撃戦術を続けるのであれば、全体の士気を維持するためにも適性のある部下を選んで狙撃隊を組織した方が良いだろう。
「「クロノ様が卑怯者呼ばわりされるのは変わらないけど」」
「別に構わないよ」
え~、とデネブとアリデッドは不満そうに頬を膨らませた。
「一昨日の戦いで圧勝できたのはクロノ様のお陰じゃん」
「敵の……よく分からないけど、偉そうなヤツを倒してたし」
「あれはミノさんのお陰だよ」
クロノがしたことと言えば不意打ちしてイグニスを火だるまにしたくらいである。
かなり深く脇腹に短剣を突き刺してやったが、副官がいなければあそこで死んでいたのは自分だ。
少なくともクロノはそう判断している。
「クロノ様って、出世しようとか考えてない訳?」
「あまり……と言うか、これ以上は出世しようがないんじゃないかな」
仮に出世できるとしても、クロノは自分と部下の命を危険に晒すよりも地道に領地経営をする方を選ぶだろう。
「……エラキス侯爵!」
「ピスケ伯爵」
突然、名前を呼ばれて立ち上がろうとしたが、ピスケ伯爵はクロノを手で制した。
ピスケ伯爵は副官も連れずにクロノに歩み寄ると、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「あ~、エラキス侯爵?」
「何でしょう?」
「……実は一昨日、アルフォート様に呼び出されてな」
「はぁ」
クロノが生返事をすると、ピスケ伯爵は気まずそうに咳払いをした。
「先日の件で領地を下さるという話になってだな。ありがたい申し出だったのだが、断腸の想いで……エラキス侯爵を推薦させてもらった」
「「クロノ様の領地が増えるってこと?」」
デネブとアリデッドが身を乗り出すと、ピスケ伯爵は不愉快そうに顔を顰めた。
「あくまで推薦しただけだが、そう思ってもらって良いだろう。とにかく、これで約束の一つは果たしたはずだ」
「え?」
「な、領地では不満だと言うのか?」
「いえ、ありがとうございます」
ぶっちゃけ、ピスケ伯爵は約束を守らないタイプだと思っていたので、クロノは驚きながらも礼を言った。
フェイに対して粘着質な嫌がらせをしたり、軍規を維持するためにデネブとアリデッドを殺そうとしたりで、クロノはピスケ伯爵に良い印象を抱いていなかったのだが、悪人という訳ではなさそうである。
「いや、礼には及ばん。今後とも、せめて、この戦の間だけでも良好な関係を維持したいものだ」
「ええ、良好なお付き合いをしたいですね」
「全くだ」
握手を交わすと、ピスケ伯爵は何処となく軽い足取りで自分の天幕に戻っていった。
「クロノ様、いつの間に仲良くなったの?」
「あたしらだけじゃなく、クロノ様まで殺そうとしたのに」
「夜襲の提案をした時に色々あったんだよ」
多分、ピスケ伯爵はクロノに利用価値を見出したのだろう。
クロノとしても便宜を図ってくれるのであれば利用されるのもやぶさかではない。
「夕食まで少しだけ間があるから」
「つ、遂に、クロノ様の天幕にお呼ばれする時が!」
「えへへ、優しくしてくれると嬉しいかな?」
にへらと笑い、デネブとアリデッドはクロノに擦り寄った。
「夕食まで間があるから会議を」
「もう、こっちは身も心も捧げる覚悟ができてるのに!」
「どうすればクロノ様が落ちるか分からないし!」
デネブとアリデッドは悔しそうに地団駄を踏んだ。
※
吐息が血生臭い、とイグニスは肩で呼吸を繰り返しながら斜面に背を預けた。
神威術の使い手……イグニスが信仰する『真紅にして破壊を司る神』はその名が示すように破壊を司る神である。
六柱神の中で最高の威力を誇るが、治癒の力は『黄土にして豊穣を司る母神』や『蒼にして生命を司る女神』に比べて格段に劣る。
命に関わる傷を優先して塞ぐだけで精一杯だ。
もっとも、あれだけの傷を負って死ななかったのだから、神の加護があったということなのかも知れないが。
苦痛に顔を歪めながら視線を巡らせると、部下達も同じように地面に座り込んでいた。
数は……生き残った部下の数は二千にも満たないだろう。
誰もが傷を負い、疲労の極みにある。
何故?
そんなのは分かりきっている。
夜襲を受けたからだ。
あの夜襲で流れが変わってしまったのだ。
たった一晩で五百人以上の兵士が殺され、生き残った兵士も敵の卑劣な戦術によって戦意を挫かれた。
翌日の戦闘で戦列は瞬く間に瓦解し、戦闘とも呼べない殺戮が行われたと生き残った兵士は恐怖に震えながら語った。
イグニスが重傷を負いさえしなければ、せめて、気を失いさえしなければ、こうも無惨な敗走をする羽目になっていなかったかも知れない。
逃げ切れるか? とイグニスは満身創痍の部下を見つめた。
マルカブの街から丘陵地帯まで三日も掛かった。
負傷兵を抱えている今はそれ以上の時間が掛かると考えて良いだろう。
「イグニス将軍!」
神祇官が悲鳴じみた声を上げながらイグニスに歩み寄る。
夜襲を受け、大敗北を喫しながら、神祇官は少しばかり服が汚れているだけで全くの無傷だった。
答えは明白だ。
この男は夜襲を受けた際に誰よりも速く逃げ出し、翌日の戦闘でも真っ先に逃げ出したのだ。
「な、何故、国境の砦から、いや、マルカブの街からも援軍が来ないのだ!」
「……分かりません」
国境の砦から援軍が来ないのは街道が封鎖されているから、マルカブの街から援軍が来ないのは誰かが神祇官の失脚を狙っているか、糧秣も、農民も近隣の村々から集められない事態に陥っているからだろう。
「一旦、マルカブの街に退いて態勢を立て直さなければ」
「恐らく、私達がマルカブの街に辿り着くまでに敵に追いつかれます」
「ならば、どうしろと言うのだ!」
神祇官はヒステリックに喚き散らし、項垂れる部下達を見つめた。
その瞳に卑しい光が宿っていることにイグニスは気づけなかった。
※
七日目の早朝、帝国軍はマルカブの街を目指して進軍を再開した。
糧秣が補給されたばかりなので、それまでに比べて食事の量と鮮度が改善……少しだけマシになったような気がした。
鮮度は望めないにしても食事の量は重要だ、とクロノは思う。
『腹が減っては戦はできぬ』は当然だが、食事の量から戦況を想像してしまって不安になるのだ。
少なくとも物事を悪い方に考えるクロノはそうである。
固パンは新しい部下にも支給したし、とクロノはポーチに触れた。
前回と同じように女将に頼んだのだが、大量の金貨を所持していることを知られていることもあり、結構な手間賃を要求された。
体で支払いますと交渉してみたのだが、それで割り引いたらあたしが大損だよ! と女将に一蹴された。
どうして、あんなにしっかりしてるのに金貨百枚も借金を抱えたんだろう? と足を踏み出した瞬間、クロノは倒れそうになった。
石に躓いたのである。
『大将、大丈夫ですかい?』(ぶも?)
「お陰様で」
クロノは宙に浮いた状態で副官に答えた。
副官がベルトを掴んでくれなければ転んでいただろう。
もちろん、副官も転びそうになったくらいで手を貸さない。
「石だね」
『まあ、その通りで』(ぶも)
クロノは自分の足で立ち、石……一つや二つではなく、街道全体に広がっている……を睨んだ。
正直、クロノの視力では何処まで石が転がっているのか分からない。
「誰かが行軍を遅らせるためにやったんだろうね」
『イグニスですかい?』(ぶも)
視線を上げると、斜面の一部が焼け焦げ、大きく抉れていた。
「そうじゃないことを願いたいよ。脇腹に短剣を突き刺して、全身を切り刻んでやったのに生きてるなんて非常識だ」
『火だるまが抜けてやすぜ。まあ、神威術の使い手だけに神の加護を受けているんじゃありやせんか?』(ぶもぶも?)
「こっちは身一つで戦ってるのに卑怯者め」
クロノが吐き捨てると、副官は呆れたように鼻から息を漏らした。
「……相手が何を考えているか分からないけど、とにかく用心して進もう」
『分かりやした』(ぶもぶも)
副官は頷き、通信用のマジック・アイテムを取り出した。
クロノは立ち止まり、視線を巡らせた。
帝国軍は隘路を二列縦隊で進んでいるのだが、そのために全体の状況が把握しにくくなってしまっている。
「マメに連絡を取り合うしか……っ!」
側頭部に衝撃を受け、一瞬だけ視界が真っ白になった。
まともに立っていられず、クロノは片膝を突いた。
ぼたぼたと血が溢れる。
三日前に受けた傷が開いたのだ。
「あら、何処かで見た光景ですわね?」
傷を抑えながら見上げると、ピスケ伯爵の副官……セシリーが嘲るような笑みを浮かべてクロノを見下ろしていた。
わざわざ鐙から足を外してクロノを蹴ったのだろう。
「……陰険なマネを」
「私は普通に馬を進ませていただけですわ。そもそも、貴族たる者が徒歩で行軍することこそあり得ないのですから、私に非はありませんわ。あら、失礼……貴方は卑しい傭兵の息子でしたわね」
セシリーの流れるような屁理屈と嫌みにクロノは怒るのを通り越して呆れ果ててしまった。
「僕が貴族でないんなら、歩いていても不思議じゃないじゃないか。それで、卑しい傭兵の息子を蹴飛ばしたことに対する謝罪は?」
「貴方が貴族でないのなら、尚更、謝る必要はありませんわ。私の足を汚した罪で斬り捨てるだけですもの」
すらりと剣を抜き放ち、セシリーは笑みを深めた。
どうしようかな? とクロノはセシリーを見つめた。
「……決めた」
「一騎打ちの覚悟でも決めましたの?」
「女の人に死なれるのは寝覚めが悪いと思っただけ」
クロノはセシリーの手首を掴み、力任せに引き寄せた。
「な、何をなさいますの!」
瞬間、矢がセシリーの首筋を掠め、地面に突き立った。
「敵襲だ!」
クロノは呆然とするセシリーを馬から引きずり下ろし、二人して近くの斜面に飛び込んだ。
いや、近くの斜面にセシリーを押し倒したと言うべきか。
「け、ケダモノ!」
「助けてやったのに何たる言い草! 見捨てておけば良かった!」
暴れるセシリーに覆い被さり、クロノは通信用のマジック・アイテムに叫んだ。
「敵襲! ミノさん、デネブ、アリデッド、タイガは部下と一緒に斜面に伏せろ! リザド、ホルス隊も荷車から離れて斜面に待避! それから近くにいるヤツは女将と医者を死ぬ気で守れ!」
クロノが叫んだ直後、矢の雨が街道に降り注いだ。
降り注ぐ矢に貫かれた兵士が倒れ、矢を受けた馬が後ろ足を跳ね上げる。
不運にも近くにいた兵士が顔を蹴られ、斜面に叩きつけられた。
「……げ、ご」
「ヒッ!」
顎の骨を蹴り砕かれ、血の泡を吹き出す兵士の顔をまともに見てしまったらしく、セシリーが悲鳴を上げた。
「みんな、無事か!」
『あっしの方は大丈夫でさ!』(ぶも!)
『『あたしら……つか、女将と医者も大丈夫!』』
『オラも無事だ』(ぶも)
『……無事』(シュー)
『大丈夫でござる』(がう!)
よし、僕の部下は大丈夫、とクロノはセシリーに覆い被さりながら安堵した。
その間にも矢の雨が断続的に降り注ぎ、一部の兵士はパニックに陥って前へと突っ走った。
誰かが石に躓いたのか、走って逃げ出した兵士が将棋倒しになる。
もちろん、敵はそれを見逃してくれない。
集中攻撃を受けた兵士は血の海に沈んだ。
沈んだだけで、溺死できていないのが最悪だ。
『大将! どうするんで!』(ぶも~!)
「敵が矢を撃ち尽くしたら、デネブとアリデッドは焔舞いを空に向けて放て! 全員、焔舞いを目印に集合! とにかく、円陣を組んで備える!」
ぱったりと矢が止まり、耳が痛くなるような静寂が周囲を支配する。
静寂を破ったのは敵の声とデネブとアリデッドが放った焔舞いの爆音だ。
赤々とした炎が爆発的に膨れ上がる。
クロノのいる場所から百メートルくらい離れた位置だ。
「ほら、呆けてないで走るよ!」
「い、卑しい傭兵の息子風情が私に触れないで下さらない!」
「とにかく走れ!」
怒鳴りつけ、クロノはセシリーの手を掴んで走り出した。
肩越しに背後を見ると、敵の集団が斜面を駆け下りる所だった。
数は百人に届かないくらいか。
近くにいた兵士が矢を放って応戦するが、敵兵を全て仕留めるには数が少なすぎた。
敵兵は街道に降り立つと、声を上げて帝国軍に襲い掛かる。
『大将、無事で』(ぶも)
「何とかね。女将も元気そうだ」
クロノは首尾良く部下と合流を果たし、女将達の無事な姿を見て息を吐いた。
「元気そうだじゃありませんわ! 早く助けにいかなくては!」
「必要ないと思うよ」
セシリーは手を振り払おうとしたが、クロノはそれを許さなかった。
「気合いを入れて暴れてるけど、すぐに気力も、体力も尽きる」
「「おおっ、指揮官らしい台詞!」」
クロノの言葉通り、敵兵の奮闘は長く続かなかった。
拍子抜けするくらいあっさりと敵兵は全滅した。
※
「……貴様、何を考えている」
「わ、私は指揮官としての務めを果たしただけだ!」
イグニスが胸ぐらを掴むと、神祇官は声を裏返らせて抗弁した。
「貴様の言う指揮官の務めとは兵を無駄死にさせることか?」
「そ、そうだ! 大を生かすために小を切り捨てることが指揮官の務めだ!」
そうだ、と神祇官の瞳に卑しい光が宿る。
「彼らは他の兵士よりも深い傷を負っていたのだ。彼らを庇いながら進んでいては他の兵士が犠牲になってしまう。私は身を切るような想いで彼らを犠牲にした。それを彼らは理解していたはずだ」
神祇官が自分に言い聞かせるように呟いたので、イグニスは呆れ果てて手を離した。
ある意味で彼の言葉は正しい。
一人の犠牲も出さずに勝つことができない以上、一人でも多くの部下が生き延びられるように力を尽くし、必要とあらば犠牲を覚悟しなければならない。
イグニスは斜面を爆破し、石の破片で街道を覆うことによって帝国軍の進行スピードを鈍らせた。
それを神祇官は知っていたにも関わらず、斜面に必要以上の兵士を潜ませたのだ。
神祇官は五カ所に六百人の兵士を配置したようだが、イグニスから見れば無意味としか言いようがない。
地理に明るいか、山道に慣れた兵士を選抜し、一撃離脱を繰り返す方がより効果的で、兵士が生き延びられる可能性も高かったはずだ。
だが、神祇官はイグニスの真意を理解していない。
恐らく、一生を費やしても理解できないだろう。
イグニスは彼らの死を無駄にしないためにも……マルカブの街に辿り着き、早急に体勢を立て直すことを選んだ。
※
奇襲から二時間ほど掛けて、帝国軍は隊列を変更した。
先行するのはクロノが率いるリザードマンの重装歩兵二十、タイガが率いる獣人の歩兵五十、エルフの弓兵百の混成部隊だ。
弓兵を率いるのはエルフの古参兵でナスルという男だ。
外見年齢は二十歳に届かないくらいだが、実年齢は三十五くらいらしい。
髪は収穫間際の麦のような色合いで、貴公子然とした顔立ちをしているのだが、偏屈な職人のように無口で愛想がない。
これまでの戦歴を物語るように手は傷だらけで、腕にも刃物によると思われる古傷が幾つも走っている。
ちなみに『くらい』というのは亜人に年齢を尋ねると、必ずと言って良いほど付いてくる言葉だ。
彼らは学がなかったり、軍に所属するまで戸籍がなかったりで年齢を正確に把握していないのである。
もし、質問形式で年齢調査を行ったら、キリの良い年齢のオンパレードで非常に偏ったグラフになるだろう。
「くっ、この私が歩いて行軍するなんて屈辱ですわ」
「デネブ、アリデッド、敵は?」
行軍が再開されてから愚痴を言い続けるセシリーを無視し、クロノはデネブとアリデッドに話しかけた。
『……いるよ』
『こっちも』
「生け捕りにできそう?」
デネブとアリデッドが押し殺したような声音で答える。
二人……正確にはデネブとアリデッドに率いられたエルフの弓兵と獣人の混成部隊……がいるのは斜面の上だ。
『厳しいけど、命令なら』
『あたしも』
「無理をせずに敵の数が適度に減ったら生け捕りにすれば良いよ」
『『了解』』
マジック・アイテムから音……呻き声、剣戟、鋼鉄が肉と骨を切り裂く音、悲鳴……が響く。
やがて、猟犬に追い立てられた獣のように敵兵が左右の斜面を駆け下りる。
人数は合わせて五、六十人。
「いつでも動けるように重装歩兵、歩兵は準備を整えて……ナスル」
ナスルは小さく頷くと、部下を伴ってクロノの前に出た。
ナスルは前列と後列が重ならないように二列横隊で戦列を組み、
「……てぇっ!」
ナスルの号令と共に矢が放たれた。
ばたばたと敵兵が倒れ、斜面を転がり落ちる。
だが、無力化できたのは十人くらいだ。
敵は倒れた仲間の仇を取ろうと、必死に走った。
あるいはナスルが凡庸な指揮官であれば少なくない損害を被ったかも知れない。
「後列……てぇっ!」
後列の弓兵が一斉に矢を放ち、前列が再び矢を番えて放つ。
恐らく、ナスルが前列と後列で矢を放つタイミングを変えさせたのは次の矢を放つまでのタイムラグを減らすためだろう。
ナスルの狙い通り、間断なく放たれる矢によって敵兵は距離も詰めることも、逃げ出すこともできずに倒れていく。
全ての敵兵が倒れると、ナスルは自ら弓を取り、倒れた敵兵の手足を射貫いた。
動いたのは五人……いずれも軽傷のようだが、ナスルに射貫かれたことで戦闘力を失った。
「……捕獲を」
「タイガは敵兵を捕獲、武装を解除させて……とにかく縄で縛れ! 油断しない! 追い詰められたネズミは猫だって殺すよ!」
タイガ達、獣人は木の棒を構え、じりじりと敵兵に近づいていく。
もちろん、敵兵は抵抗したが、抵抗しきれるものではない。
複数の獣人に木の棒で殴られ、動けなくなった所で捕縛された。
「……デネブ、アリデッド、被害は?」
『負傷者、死者なし』
『あたしの方は軽傷が十人だけど、同じく死者なし』
「……捕まえた敵の扱いを決めなきゃならないから、二人はそこで待機。タイガは僕に付いてきて」
『御意でござる』(ぐるる)
捕まえたら捕まえたで時間が掛かるんだよね、とクロノは敵兵を一瞥した。
「君、名前は?」
「……カイル」
少年と呼ぶには低く、青年と呼ぶには高く硬質な声だった。
薄汚れているので分かりにくいが、クロノより年下かも知れない。
「年齢は?」
「……十五」
予想が的中し、クロノは呻いた。
「正規兵かい?」
「違う。お前らと戦うために村から連れてこられたんだ。友達も一緒だった。けれど、最後の生き残りも……今、殺された」
敵兵と話すもんじゃないね、とクロノは天を仰いだ。
「どうして、攻めて、きたんだよ」
瞳を潤ませ、カイルは声を詰まらせながら言った。
「何を仰ってますの! 貴方達が何度も、何度も、攻めてくるから、こちらは仕方なく攻め返しただけですわ!」
「俺は、俺達は何もしてない!」
セシリーは剣に手を掛けたが、縛られている相手を斬るのは恥だと考えたのか、取り繕うように腕を組んだ。
「さっさと捕虜を連れておいきなさい! 不愉快ですわ!」
セシリーがヒステリックに喚き散らすと、タイガ達は逆らうつもりがないと言わんばかりに耳と尻尾を垂れ、第十二近衛騎士団にカイルを含めた五名の捕虜を引き渡した。
「……何ですの、あれは!」
「卑しい傭兵の息子に聞かないでよ」
「貴方になんて聞いていませんわ! 私は……この胸に渦巻く怒りを言葉に、独り言ですわ! ひ、と、り、ご、と!」
言い訳を考えるのが面倒臭くなったのか、セシリーは顔を真っ赤にして叫んだ。
「……あの子、どうなるのかな?」
「勇敢に戦ったのですから、名誉ある扱いを受けられるはずですわ」
「拷問とかしないんだ」
「貴方は帝国の貴族を何だと思っていらっしゃるの?」
思わず口にすると、セシリーは不機嫌そうに柳眉を逆立てた。
「まあ、しないんなら良いけどね」
「するはずがありませんわ!」
肩を竦め、クロノは先頭に戻った。
三度目の伏撃を未然に防ぎ、その日の行軍は終わった。
※
翌朝、五人の捕虜は死んでいた。
捕虜を見張っていた兵士が言うには傷の具合が悪化したらしいのだが、傷の具合が悪化して爪が剥がれ落ちたり、歯が抜け落ちたり、指が折れたりしないだろう。
その上、あの片腕を吊った大隊長が志願して先頭を進むとなれば、どんな馬鹿でも何が起きたのか想像できる。
野営陣地の撤収が進められる中、セシリーは青ざめた顔で死体が埋葬される様子を眺めていた。
「拷問はしないんじゃなかったの?」
「……ひっ!」
クロノが声を掛けると、セシリーは小さく悲鳴を上げた。
「こ、これは、な、何かの間違いですわ!」
「何かの間違いで拷問した? ちょっとした手違いで責め殺しちゃった? この卑しい傭兵の息子に分かるように説明してくれないかな? それとも、僕の口から説明してあげようか?」
セシリーは俯いたままだ。
「大隊長の誰かが……見張りの兵士に金貨を握らせて拷問したんだろうね。何故? そんなの決まってる。伏兵の位置を聞き出して、昨日の僕のように戦功を得るためさ。それだけ柔軟に対応できるんなら、是非とも夜襲に賛同して欲しかったよ」
「お、おだまりなさい!」
セシリーの平手打ちは空を切った。
これだけショックを受けていれば避けるのは容易い。
いや、避ける必要さえなかったかも知れない。
「エラキス侯爵、そこまでにして頂けないかな?」
「ピスケ伯爵、おはようございます」
ピスケ伯爵が一瞥すると、セシリーは打ちのめされたように頭を垂れ、その場から立ち去った。
「やっぱり、拷問ですか?」
「分かりきったことを言わんでくれ。レオンハルト殿にも同じことを聞かれ、私が責任を以て調査すると約束して、ようやく退いてもらった所だ」
パラティウム公爵家の嫡男を邪険にする訳にもいかず、かと言って行軍を遅らせる訳にもいかず……これが中間管理職の悲哀ってヤツか。
「戦争後に捕虜を殺した事実が分かって、戦功と相殺されるみたいな感じですか?」
「それが分かっていて、私の副官を責め立てたのか?」
「卑しい傭兵の息子と何度も馬鹿にされたので、イジメてやろうと」
ピスケ伯爵は呆れ果てたように頭を振った。
「それにしても貴族の誇りと言っていた割にえげつないことをしますね」
「貴族の誇りなんぞ方便に過ぎんよ。それを声高に叫ぶ者は恥を知らんか、世間を知らないかのどちらかだ」
ピスケ伯爵は溜息混じりに呟いた。
※
結果から言えば、片腕を吊った大隊長は恙なく任務を終え、続く二人も大きな損害を出すことなく任務を終えた。
ノウジ帝国直轄領の前線基地を出立してから十日目の夕刻、帝国軍はマルカブの街に到達した。
正しくは隘路を抜けた先にある丘で、昼ならばそこからマルカブの街を一望できるはずだ。
「……」
クロノは部下が野営陣地を設営する様子を眺めながら、不安で仕方がなかった。
軍務局と近衛騎士団の計画では四日でマルカブの街に辿り着かなければならないのに倍以上の時間を掛けてしまったからだ。
『大将、難しい顔をしてどうしたんで?』(ぶも?)
「不安なんだよ。計画通りに進んでないのに経過だけを見れば上手くいっているように見えるから」
戦争とはそういうものだ、と言われてしまえばそれまでである。
クロノは髪を掻き、
「ごめん! 野営陣地を隘路付近に変更する!」
「ええっ! 草の上で眠れると思ったのに!」
「もう、あそこだと石が転がってるから寝にくいのに!」
デネブとアリデッドは不満そうに唇を尖らせたが、すぐにテントを畳み始めた。
他の部下も多少の不満はありそうだが、クロノの指示に従ってくれた。
「街の様子を見てくるよ」
『分かりやした。こっちはあっしが監督しておきやす』(ぶもぶも)
クロノは月明かりを頼りに丘の頂上を目指した。
「……お待ちなさい!」
背後から聞き覚えのある声が響いたが、クロノは無視した。
しばらくすると、ガシャガシャと音が近づいてきた。
音……セシリーはクロノを追い抜くと、優雅な仕草で反転した。
「どうして、無視しますの?」
「卑しい傭兵の息子風情と罵られたくないから」
「わ、私が呼び止めたのだから止まりなさい!」
何となく理不尽なものを感じたが、セシリーの気持ちは分からなくもない。
自分と同じように貴族の誇りを主張していた連中があるまじき蛮行を行ったのだ。
「まあ、不安にもなるよね」
「何を仰ってますの?」
気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。
貴族の誇りが意味をなさないのであれば、貴族の威光も意味をなさない。
要するに自分が女で、身を守らなきゃならないと自覚したんだろう。
丘の頂上には三人……レオンハルト、ピスケ伯爵、アルフォートが立っていた。
丘の頂上に立ってもマルカブの様子はよく分からなかった。
「あ、明日はあそこを攻め落とすんだね」
「はっ、早急にマルカブを攻め落とし、帝国の力を見せつけてやりましょう」
アルフォートが興奮したような声音で尋ねると、ピスケ伯爵は意気軒昂と言わんばかりに答えた。
異変が起きたのはアルフォートがピスケ伯爵からマルカブの街に視線を戻した時だった。
影絵のようなマルカブの街の外縁部に小さな、小さな火が灯ったのだ。
火は花が綻ぶように広がり、街の周辺を埋め尽くした。
それは数えるのも馬鹿らしいほど沢山の篝火だった。
不安が的中した、とクロノは舌打ちした。
神聖アルゴ王国は伏撃を警戒させることで時間を稼ぎ、態勢を立て直したのだ。
いや、そう考えるのは早計かも知れない。
態勢を立て直したのならば、何故、帝国軍に警戒心を抱かせるようなマネをするのか。
ブブブッと異音が響き、鼻を突くようなアンモニア臭と便臭が漂う。
「あーっ!」
「お待ち下さい、アルフォート様!」
アルフォートが斜面を転がり落ちるように逃げ出すと、ピスケ伯爵は彼を追って斜面を駆け下りた。
「……クロノ殿、どう見る?」
「篝火の数はハッタリじゃないかな」
レオンハルトに問い掛けられ、クロノは正直な感想を伝えた。
「何故、そう判断する?」
「これだけ兵がいるぞ! って知らせるのは下策だと思うから」
少なくともクロノなら抵抗する兵力がないふりをして全力で襲い掛かる。
「だからと言って、ハッタリで済ませる訳にもいかんよ」
「まあ、確かにね」
「私は先に行くよ」
レオンハルトはいつもと変わらぬ足取りで丘を下った。
僕も行きたかったんだけど、とクロノは呆然とするセシリーを見つめた。
「ほら、呆けてないで戦術会議に急ぐよ」
「呆けてなんていませんわ!」
クロノが声を掛けると、セシリーは一人でさっさと丘を下り始めた。
「ミノさん、風向きが変わったみたいだから敵襲に備えて」
『……分かりやした』(ぶも)
通信用のマジック・アイテムで指示を出しておく。
戦術会議用の天幕に入ると、前回と同じように大隊長と副官がテーブルを囲んで立っていた。
前回との違いはアルフォートが参加していることだった。
彼は今にも気絶してしまいそうなほど顔色が悪く、イスに座ったまま不安そうに体を前後に揺らしている。
会議は中盤まで神聖アルゴ王国軍を迎え撃つ方向で進んでいた。
そこにはアルフォートに勇ましさをアピールしたいという思惑もあるはずだが、丘陵地帯で圧勝したことも理由の一つだろう。
これなら勝てるんじゃないか、とクロノが思えるほど士気が上がり、戦意が高揚していたのである。
だが、アルフォートの一言で会議の方向性が変わった。
「て、て、撤退だ! 逃げるんだ! みんなはマルカブの街を囲む篝火の数を見ていないから勝てるとか言うんだ!」
「アルフォート殿、敵が我々を圧倒する兵力を備えているのであれば篝火を焚く必要などありません。あれは時間稼ぎの類でしょう。仮に撤退するとしても敵に損害を与えてから撤退すべきです」
レオンハルトは苦り切った顔でアルフォートを諫めた。
篝火をハッタリで済ませる訳にもいかないが、アルフォートのように真に受けるのも問題だった。
最悪なのは素人であるアルフォートが軍団の総司令であることだった。
どんな計画を立ててもアルフォートの承認がなければ動けないのだ。
せめて、ここにアルフォートがいなければ口八丁で騙す手もあったのだが。
「う、うるさい! 余に逆らうな! パラティウム家の嫡男でも今は余の部下だ! 余に逆らった者の末路を忘れたとは言わさないぞ!」
「お待ち下さい! レオンハルト殿を欠いては御身を守りきれません!」
ピスケ伯爵は身を乗り出してレオンハルトを庇った。
今となってはジョゼフを処刑したこともマイナスに働いている。
あの一件でアルフォートは権力の大きさだけを理解したのだ。
「……あのマルカブは監視しなくて良いんですか? 戦うにしても、逃げるにしても敵の監視をしておかないと」
「そ、そうだ! 監視だ! こうしている間にも敵が迫っているかも知れない!」
クロノが指摘すると、アルフォートは名案だと言わんばかりに叫んだ。
「私の部下に見張らせましょう」
名乗りを上げたのは腕を吊った大隊長だった。
「……分かりました。兵の命を無駄にしないためにも撤退しましょう」
「わ、分かれば良いんだ」
説得する愚を悟ったのか、あっさりとレオンハルトは折れた。
アルフォートが天幕の外に出てからクロノは外に出た。
思わず口元が綻ぶ。
「……気持ち悪いですわよ」
「喜びを噛み締めてるんだよ」
セシリーはクロノを押し退けて外に出るなり溜息を吐いた。
「あら、怖いんですの?」
「怖いよ」
クロノが正直に答えると、セシリーは驚いたように目を剥いた。
「私は怖くありませんわ」
「僕は自分が死ぬのも、部下が死ぬのも怖くて堪らないよ」
クロノは頭を振った。
「まあ、今晩は早く寝なよ」
「……言われなくても」
下品なジョークの一つも飛ばしてやろうと思ったが、クロノは思い直した。
『大将、どうだったんで?』(ぶも?)
「風向きが悪いのは相変わらずだけど、お陰で侯爵領に帰れそうだよ。まあ、最後まで油断はできないけどさ」
そうだ。ノウジ皇帝直轄領の基地に戻るまで、いや、エラキス侯爵領に戻るまで気を緩めちゃダメだ、とクロノは自分に言い聞かせた。
※
翌日、クロノは馬蹄の響きと大勢の悲鳴で目を覚ました。
短剣と長剣を手に慌てて天幕から飛び出すと、神聖アルゴ王国軍の騎兵が丘を駆け下りる所だった。
奇襲ではない。
昨夜から敵は篝火を焚いて存在を知らせていたし、帝国軍も見張りを立てていたのだ。
敵騎兵の数は……優に五百を超える。
『大将、敵襲でさ!』(ぶも~!)
「分かってる! リザド、ホルス隊は盾を手に隘路を塞げ! タイガ隊は抜かれた時に備えて槍を! デネブ、アリデッド、ナスル隊は敵騎兵を狙い撃て!」
野営陣地を隘路に変えたのがクロノにとって幸いした。
「でも、どうして? 昨夜はマルカブの街を見張っていたはずなのに……デネブ、アリデッド! 丘の上に倒れているのはエルフか!」
「って、あたしら手一杯なのに!」
「人間、人間だよ、クロノ様!」
「ああっ、もう大馬鹿!」
左右の斜面に展開し、デネブとアリデッドは騎兵を狙い撃ちながら叫んだ。
腕を吊った大隊長は監視役にエルフを使わなかったのだ。
全てが悪い方向に噛み合っていた。
隘路に逃げてくる兵士は丘の途中で次々と討ち取られ、抵抗する兵士は斜面を下りてくる騎兵に為す術もなく吹き飛ばされた。
「打って出るしかないか」
敵騎兵を撤退に追い込まなければ全滅必至なのだが、そんな簡単に騎兵を追っ払えるのなら世話はない。
圧倒的に不利な状況を覆したのは……やはりと言うべきか、レオンハルトだった。
白銀の鎧に身を包んだレオンハルトは長剣で騎兵に挑み、打ち倒したのである。
十騎の敵騎兵が襲い掛かるが、レオンハルトはいつかのフェイのように刃を伸ばして一刀の元に斬り捨てる。
十一人の敵騎兵を瞬く間に死体に変えたレオンハルトに恐れを抱いたのか、敵騎兵の動きが鈍る。
「今だ! 狙い撃て!」
「「うわっ、卑怯臭い!」」
「……」
デネブとアリデッドは文句を言いつつ、ナスルは淡々と矢を放つ。
他のエルフは三人よりも腕が劣るようだが、味方を射貫くようなヘマはしない。
帝国軍の七割近くが隘路に避難した頃、敵騎兵は馬首を巡らせた。
深追いして痛い目に遭うよりも本隊と合流する方を選んだのだろう。
斜面に転がる死体の殆どは帝国軍の兵士だ。
「だ、だから、余は早く撤退しようと言ったのだ」
「そのようなことを言っている暇はありません。臨時の戦術会議を開く! 各大隊長と副官はここに!」
寝間着姿のアルフォートを近くの岩に座らせ、ピスケ伯爵は隘路全体に響き渡る大声で言った。
「生きてたんだ」
「い、生きていてはいけませんの!」
板金鎧を着る暇がなかったらしく、セシリーは近衛騎士の証である白い軍服を着ている。
ボタンを掛け違えている点から察するに、かなりの薄着で逃げてきたに違いない。
戦術会議は十分と掛からずに終わった。
生き残った大隊長と副官はレオンハルト、ピスケ伯爵、セシリーと他一組、生き残った兵士が負傷者を含めて五千弱となれば撤退するしかない。
「……納得できません」
「エラキス侯爵、誰かが殿を務めなければ全員が死ぬのだ」
クロノが言うと、ピスケ伯爵は諭すように答えた。
まるで去年の再現だった。
戦術会議によって導き出された結論は生き残った亜人千五百……そこにはクロノの部下も含まれる……で敵を足止めするというものだったのだから。
「それは分かります。けど、どうして亜人なんですか?」
「決まったことだ」
ピスケ伯爵はクロノから視線を逸らして逃げるように自分の天幕があった場所に戻っていった。
「女将!」
「はいはい、ここにいるよ。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりだったのにとんでもないことになっちまったね」
「お金は幾らでも出すから、今すぐに固パンを焼いて! 大至急!」
「そりゃ、構わないけど」
目を丸くする女将を残し、クロノは部下の所に向かった。
『……大将、あっしらが殿ですかい?』(ぶもぶも)
「他の亜人も千人ばかりね。みんな、天幕は畳まなくても良い! 今すぐに武器と防具を拾い集めるよ!」
「あ、貴方は何を考えてますの! 死者の持ち物を奪うなんて、本当に貴族としての、いえ、人間としてのプライドを持ち合わせていませんの?」
クロノはセシリーを無視して部下と一緒に武器と防具を拾い集めた。
一時間、もう少しくらい経っただろうか。
クロノが部下と共に隘路に戻ると、生き残った兵士は撤退の準備を終えていた。
ピスケ伯爵が、レオンハルトが、セシリーが、大勢の兵士がクロノを見つめていた。
死にたくない。
まだ、やりたいことが沢山あるんだ。
農業改革は中途半端だし、紙の工房も稼働したばっかりだ。
新しい兵舎も見てない。
これから、これからなのに。
レイラやエレナ、女将、リオとだってヤり足りないんだよ。
ああ、見栄を張らずにフェイにも手を出しておけば良かった。
そんな泣き言の数々をクロノは飲み込んだ。
「女将、エラキス侯爵領に戻ったら腰が抜けるまでしてみない?」
「ば、馬鹿なことを言ってるんじゃないよ! そんなことをしたら、あたしが死んじまうよ!」
アハハッとクロノは笑いながら女将から離れた。
「残るのかい?」
「うん。だから、女将は手紙をエラキス侯爵領に届けて」
女将の胸の谷間に挟まれた手紙を指さし、クロノは部下に向き直った。
「だったら、固パンの代金はツケにしておいてやるよ。だから、絶対に生きて戻ってくるんだよ!」
「当然!」
これから向かうのは死地だ。
帰れる保証なんてない。
足が震える。
それでも、歯を食い縛って足を踏み出した。
「みんな、生きて帰ろう」
部下達を見つめ、クロノは歯を剥き出して笑った。




