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第7話『軍規』修正版


 帝国暦四百三十一年一月、ノウジ帝国直轄領に招集された騎兵千、歩兵七千四百、弓兵二千九百、輜重兵二百からなる軍団はラマル五世の庶子アルフォートと共に神聖アルゴ王国に侵攻を開始した。

 軍務局と近衛騎士団によって立案された『侵攻計画』は、昏き森の東端を抜け、神聖アルゴ王国と自由都市国家群を結ぶ東西街道に到達後、別働隊として第二近衛騎士団と一個大隊が挟撃を防ぐために街道を封鎖、本隊として第一、第十二近衛騎士団、七個大隊がマルカブの街を攻略するというものである。

 別働隊の兵数は騎兵百五十、歩兵千三百、弓兵六百、本隊は騎兵八百五十、歩兵六千百、弓兵二千三百、輜重兵二百となる。

 もっとも、一部の貴族は使用人を連れ、自分で糧秣を準備しているので実際の数はもう少し多くなるのだが。

 帝国軍は『侵攻計画』に従い、夜が白むと同時に前線基地を出立、その日の昼過ぎに昏き森の東端に達した。



 昏き森は幾つもの高山を擁する広大な原生林だが、人の手が全く入っていない訳ではない。

 最も森の層が厚いエラキス侯爵領でも馬車が通った跡があり、神聖アルゴ王国の侵攻を許している。

 昏き森の東端は森の層が最も薄い部分であり、そのために何度も神聖アルゴ王国の侵攻ルートとして利用されてきた経緯がある。

 帝国軍が侵攻ルートとして選んだ場所は草も少なく、荷車が通れる程度の幅もあったのだが……、


『クロノ様、車輪が引っ掛かっちまったでよ!』


 荷車の車輪が木の根に引っ掛かり、ホルスが情けない悲鳴を上げた。

 ホルスは自力で木の根を乗り越えようとしたが、荷車は揺れるばかりで木の根を乗り越えられなかった。

 作戦の立案者は侵攻ルートが輜重を運ぶのに適しているかまでは考えていなかったんだろう、とクロノはにらんでいた。

 そこまで考えていたのなら、荷車の車輪が何度も木の根に引っ掛かったり、地面の窪みに嵌るはずがないからだ。


「護衛の人達、お願いします!」

『へい』(ぶもぶも)

『行くでよ!』(ぶも~っ!)


 粗末な皮鎧を着たミノタウルスがホルスの掛け声に合わせて荷車を後ろから押すと、荷車は無事に木の根を乗り越えた。


「護衛の人達は森を抜けるまで荷車の後ろについて! デネブ、アリデッド、レオの部隊は周囲を警戒!」

「「は~い!」」

『はっ』(がうっ!)


 お気軽な口調ながらデネブとアリデッドは部下に的確な指示を出し、荷車から距離を取らせて周囲を警戒させた。

 サインでも決めていたのか、軍人然とした口調のレオは目配せとジェスチャーだけで部下を動かした。


『大将、思っていたよりも手間取りやすね。他の大隊から手を借りられなかったら、身動きできなくなってる所でしたぜ』(ぶもぶも)


 クロノが指示を出し終えると、副官はポールアクスを担ぎ直しながら呟いた。

 当初、クロノは荷車十台に対して弓兵十、歩兵五を護衛として割り振ったのだが、不安に感じて他の大隊から二百人ばかり大型亜人を借り受けたのだ。


『それにしても……どうやって、他の部隊から引き抜いたんで?』(ぶもぶも?)

「一人頭金貨一枚出して借りた」


 隠す必要もないので、クロノはあっさりとタネを明かした。


『……大将、そんなに金を持ってきたんで?』(ぶも~?)

「万が一に備えてね」


 水を確保できたら、葡萄酒と大麦酒ビールを優先して支給してあげよう、とクロノは引き抜いた亜人を見ながら密かに決めた。


『大将は馬に乗らないんですかい?』(も~?)

「馬に乗るのは得意じゃないんだよ」


 馬がいない訳でもないし、乗れない訳でもないんだけどね、とクロノは言い訳がましく付け足した。

 騎兵は戦場の華であり、隊長は数少ない例外を除けば板金鎧プレートメイルに身を包み、馬に乗っている。

 その数少ない例外がエルナト伯爵と彼の副官であり、クロノと副官であるミノさんである。


「軍学校を卒業すると、普通は士爵位をもらえるんだけどさ」

『大将はもらえなかったんで?』(ぶも?)

「教官から嫌われていたことと、座学と実技の総合成績が最下位だったこと、演習でティリアに勝っちゃったこと、どれが原因だったと思う?」

『それだけ揃ってりゃ、士爵位なんてもらえませんぜ』(ぶも~)

「僕もそう思う」


 卒業も危ぶまれるくらい見事に落ち零れてしまったので、文句を言える立場じゃないのだが、割り切れるほど達観していないのも事実である。


「士爵位がないと馬に乗っちゃいけないなんて法はないけど、無理して落馬するのは情けないし、うっかり一騎打ちに応じて死んだら目も当てられないしね」

『落馬するくらいなら泥に塗れた方がマシかも知れやせんね』(ぶもぶも)


 副官が指摘した通り、クロノのブーツとズボンは泥で汚れている。

 まあ、部下達も似たようなものなので気にするほどじゃないと思うのだが。


『その格好なら貴族様にゃ見えないんで、敵兵が見過ごするかも知れやせん』(ぶもぶも)

「だと良いんだけど」


 クロノは副官の冗談に苦笑いを浮かべた。

 クロノは身に付けているのは部下と同じゴルディの工房で作られた胸部甲冑と鎖帷子だ。

 武器は長剣と短剣が一振りずつ、腰のポーチには医薬品と固パンが三十本、飴玉が二十個ばかり詰め込んである。

 飴玉くらいで士気は上がらないだろうと思っていたのだが、意外にも部下達は大喜びだった。

 子どもか! とも突っ込みを入れそうになったが、砂糖の相場は一キロで金貨一枚、兵士の給料が一ヶ月で金貨二枚であることを踏まえると、ちょっと買うのを躊躇ってしまう額だ。

 ビートの栽培を進め、砂糖の製造を侯爵領の主産業にするつもりなのだが、あちらの世界のように子どもの小遣いで飴玉が買えるようになるまで長い時間が掛かりそうだ。

 うっかり死なないように気をつけよう、とクロノは長剣の柄に手を伸ばした。



 結局、昏き森を抜けたのはその日の夕方だった。森を抜けてすぐに池を見つけられたのは幸運だったが、そこから先……野営陣地の位置取りにえらく時間が掛かった。

 話し合いから殴り合いに発展しそうな所でエルナト伯爵が仲裁に入り、近衛騎士がアルフォートの天幕の三方を守り、その周辺を八人の大隊長は守るという形で野営陣地の位置取りが決定した。

 最初から最後まで話し合いに参加させてもらえなかったクロノは適当な場所に野営陣地を設営することにした。

 もっとも、クロノがしたのは野営陣地の設営を副官に、輜重の警備をデネブとアリデッド、レオの三人に丸投げするくらいだったが。

 普段から訓練でもしていたのか、クロノの部下は手際が良かった。

 一時間も経たない内に天幕とテントを組み上げ、クロノが指示を出すよりも早く女将の手伝いを始めるほどである。


「……今日の夕飯は何かな?」

「食事はもう少し待って欲しいのだが」


 岩に座って調理が終わるのを待っていると、レオンハルトに声を掛けられた。


「何か用事でも?」

「斥候がエルフの集落を見つけたものでね」


 うん、とクロノは頷いた。


「水場の情報を手に入れるためにも接触を図ろうと思うのだが、私はクロノ殿のように亜人と友好的な関係を築く自信がなくてね」

「了解。少し留守にするからミノさんは留守番! デネブ、アリデッド、リザドは僕の護衛をよろしく!」

『分かりやした!』(ぶもー!)

「ご飯を楽しみにしてたのに!」

「人使いが荒~い!」

『……』


 文句を言いながらもデネブとアリデッドの動きは素早く、鈍重そうに見えるくせにリザドの動きは怖いくらい早い。


「この先にエルフの集落があったので」

「「まさか、襲撃?」」

「情報を提供してもらうんだよ」


 デネブとアリデッドが怯えるように体を震わせたので、クロノは力なく答えた。


「兵隊って略奪したり、女を襲ったりするじゃん」

「目を血走らせて、色々と喚きながらさ」

「……帝国の臣民になるかも知れない人達から反感を買ってどうすんのさ」

「「おおっ!」」

『……』

「ふむ、クロノ殿は先を見据えているのだな」


 敵は少ない方が良いくらいのニュアンスで言ったのだが、デネブとアリデッド、リザドは感心したように手を叩き、レオンハルトも感心したように呟いた。


「クロノ殿、よろしく頼む」

「努力します」


 クロノはレオンハルトに敬礼し、デネブ、アリデッド、リザドもそれに倣った。

 レオンハルトに見送られ、野営地陣地を出たクロノは十分と経たない内に照明を用意しなかったことを後悔した。


「……照明を用意しておけば良かった」

「んなことしたら、敵に見つかっちゃうかもじゃん」

「そうそう、あたしら三人でクロノ様を守りきる自信なんてないし」


 デネブとアリデッドに手を引かれ、クロノはへっぴり腰で夜道を歩いていた。

 月が出ているのならばともかく星明かりを頼りに道を歩けるほどクロノの夜目は優れていない。


「……亜人は凄いなぁ」


 エルフとドワーフでさえ視力、聴力は人間のそれを遙かに上回っている。


「人間の方が凄い……って言うか、人間の方が怖いし」

「僕は手を引いてもらえないと歩けないような有様なんだけど」

「集団になった時の怖さみたいな?」

「実を言うと、あたしらはこの辺の出身なんだよね」


 クロノは何も言えなかったが、彼女達が人間を怖いと言った理由も、兵隊に偏見を持っている理由も想像できた。


「今のあたしらみたいに訓練されたエルフは強いけど、エルフって、弱っちくてさ。耐えてれば命だけは守れるみたいに思ってたんだけど」

「み~んな、殺されるか、売り払われるかして……あたしらは汚いことをしながら帝都に辿り着いて、軍に入ったんだ」


 デネブとアリデッドはクロノの手を強く握り締めた。


「クロノ様は『セカイジンケンセンゲン』ってヤツがある世界から来たんでしょ?」

「あのさ、期待して……ん、着いたみたい」


 デネブとアリデッドは歩みを止め、クロノは二人が台詞を言い切る前に集落に辿り着いたことに安堵した。

 クロノ様が『セカイジンケンセンゲン』をしてくれるのを期待して良い? と尋ねられたら、クロノは即答できなかっただろう。

 亜人の地位を向上させるために様々な方策を取ることなら約束できる。

 今までもそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。

 今のエラキス侯爵領の体制を息子の世代、孫の世代にまで受け継がせることも約束できる。

 けれど、クロノは自分自身が『セカイジンケンセンゲン』をする覚悟が定まっていなかった。

 それはケフェウス帝国の国家体制を否定することに等しく、それによって生まれる敵と戦うだけの力もなかった。

 いや、単に怖いのだ。自分が死ぬのも、自分が掲げる理想のために部下が死んでしまうのも怖い。


「クロノ様、着いたよ」

「う~ん、明かりがないね」


 デネブとアリデッドから手を離し、クロノは目を細めた。

 集落とレオンハルトは言っていたが、傾いた掘っ立て小屋が十軒ばかり立っているだけである。

 クロノはポーチから複雑な文様が刻まれた金の指輪……通訳の魔術が付与されたマジック・アイテム……を取り出して中指に填めた。


「クロノ様、神聖アルゴ王国は言葉が通じるし」

「先に言ってよ」


 クロノは率先して集落に足を踏み入れ、


「え~、お騒がせしています! 私はケフェウス帝国軍の大隊長を務めるクロノと申しますが、この集落の代表者と話がしたくて参りました! 皆さんに危害を加えるつもりはありません!」


 大声で語りかけると、数人のエルフが掘っ立て小屋から顔を出した。

 だが、クロノと目が合った瞬間、すぐに隠れてしまう。


「クロノ様、もう少し攻撃的な感じで話した方が良いんじゃない?」

「怖がらせちゃマズいでしょ。私はケフェウス帝国軍の大隊長を務めるクロノと申しますが、この集落の代表者と話がしたくて参りました! 皆さんに危害を加えるつもりはありません!」


 集落の代表者が小屋から出てきたのはクロノの声が掠れた頃だった。

 集落の代表者は隻眼のエルフ……二十歳くらいの男だった。

 ボロボロの衣服に包まれた体は栄養失調気味に細く、剥き出しの腕には刃物によるものと思われる古傷、胸元には火傷の跡、左耳は半ばから途切れている。

 そのような状態にありながら、残された左目に宿る光は強い。

 いや、この男がデネブとアリデッドのような経験をしているのならば、軍人であるクロノに憎悪の視線を向けて当然だろう。


「……帝国の兵隊が何の用だ?」

「この近くを行軍することになってね。もちろん、僕は君達に危害を加えるつもりはないし、僕の部下にも危害を加えるように命令させるつもりはない。他の兵士にも徹底させるつもりでいるけど……どんな時でも馬鹿をするヤツはいるから、隠れていて欲しいとお願いしたい」


 ギリッと男は歯を食い縛り、悔しそうに俯いた。


「分かった。どうせ、俺達が兵隊と戦えるはずもない」

「もう一つはマルカブの街までの情報。水場がある場所を教えて欲しいんだけど?」

「……神聖アルゴ王国は湿地が多い。どれくらい兵隊がいるか知りたくもないが、水に困ることだけはないはずだ」


 軍務局の調査は間違っていなかったか、とクロノは頷いた。

 男の言葉が嘘である可能性は否定できないが、野営陣地の近くにあった池から水を輸送する分には大した労力は掛からないはずだ。


「ありがとう」

「分かったら、さっさと消えてくれ」

「まあ、お礼はしておかないとね」


 クロノが金の指輪を放り投げると、男は片手でそれを掴んだ。


「何のつもりだ?」

「お礼だよ、お礼。別に由緒正しいって訳じゃないけど、それは通訳の魔術が付与された金の指輪で……相場は分からないけど、そこそこの金額になると思う。換金して冬を越す資金にするも良し、神聖アルゴ王国から逃げる資金にするも良し。もし、神聖アルゴ王国から逃げるのなら、エラキス侯爵領に来てくれれば、色々と便宜を図るよ」


 男は金の指輪とクロノを交互に見つめた。


「……奴隷として酷使するつもりか?」

「エラキス侯爵領の領民として迎えると言ってるつもりだよ」


 言いたいことを言って、クロノは男に背を向けた。

 来た時と同じようにデネブとアリデッドに手を引いてもらう。


「あの人、エラキス侯爵領に来るかな?」

「すぐには難しいんじゃないかな」


 帰り道、そう問い掛けられ、クロノは素直な感想を口にした。


「でも、ここにいたらジリ貧じゃん」

「折角、逃げるチャンスが転がってるのに」

「人間を信用してないみたいだし、集落の代表者として無責任なマネはできないでしょ」


 デネブとアリデッドがそう言えるのはエラキス侯爵領の実態を知っているからで、彼にしてみれば一世一代の大博打に違いない。

 野営地に戻ると、レオンハルトが出迎えてくれた。

 どうやら、彼は食事も取らずに待っていてくれたらしい。

 クロノが敬礼すると、レオンハルトは爽やかな笑みを浮かべて返礼した。


「水辺の情報は湿地が多いってことで軍務局と一致していたよ」

「なるほど、それで友好的な関係は築けたのかね?」

「少なくとも敵対はしなかったかな。けど、こっちが馬鹿なマネをする可能性は否定できないから忠告してきた」


 ふむ、とレオンハルトは考え込むように顎に手を宛てた。


「無益な争いは私も望む所ではないのでね。帝国軍として恥じぬ行動を取るように周知しておこう」

「うん、よろしく」


 レオンハルトと別れ、自分の野営陣地に戻ったクロノはデネブとアリデッド、リザドと別れ、自分の天幕に入った。

 鎧を脱ぎ、木箱を組み合わせたベッドに横になる。


「……葡萄酒と大麦酒ビールと渡しておかないと」


 今日できることは今日の内に済ませておくべきだ、とクロノは外に出た。


「ミノさ~ん!」

『大将、どうしたんで?』


 副官は見回りをしていたらしく幾人かの獣人と共にクロノに歩み寄った。


「昼間の、手伝ってくれた兵士にお礼をしに行こうと思うんだけど」

『それならあっしが済ませておきやした。葡萄酒と大麦酒ビール、干し肉も少しばかり』(ぶもぶも)

「気が利くね、ミノさん」

『大将ならそうすると思っただけでさ』(ぶも~)


 副官は照れ臭そうに頭を掻いた。

 お礼として提供した酒と干し肉の数を聞き、クロノは再び天幕に戻ってベッドに横たわった。


「食事を持ってきてあげましたよん♪」

「女将、ありがとう」


 机に移動するのも面倒だったので、クロノはベッドに座り、女将から木製のトレイを受け取った。

 トレイの上にあったのは大きめのパンが一つと豆スープ、干し肉が数切れ……部下と同じ食事である。


「あたしゃ、大隊長ってのは自分だけ美味い飯を食べるもんだと思ってたけどね」

「僕の分だけ作るのは手間でしょ?」

「聞き分けの良い旦那に雇われてることを感謝すべきなのかね、あたしゃ」


 クロノは豆スープを胃に流し込み、パンを平らげる。


「自慢は……無理か」

「クロノ様があたしと同い年なら自慢の一つもしてやれるんだけどね。十も歳が離れてるんだ。世間知らずの貴族の坊ちゃんを誑し込んだって、悪女扱いされちまうよ」

「悪女ね」


 随分と可愛らしい悪女もいたもんだ、とクロノは干し肉を噛んだ。

 食事を終え、クロノはベッドに寝転んだ。



 ジョゼフは他の兵士がそうであるように貧困から逃れるために軍に入った。

 そこそこ治安の悪い地域で育ったため、腕っ節はそれなりのものだと自負していたし、所属する大隊の中でもそれなりに腕の立つ方だった。

 ジョゼフは他の兵士がそうであるように給料の殆どを酒、博打、娼婦を買うのに費やしていた。

 ついでに他の兵士がそうであるように戦争に駆り出されたことに憤りを感じてもいたし、会ったばかりの近衛騎士に頭ごなしに命令されることに反発心を抱いてもいた。

 この先にエルフの集落があると聞いた時、真っ先にエルフの売春婦を思い出し、次に盗賊の討伐を思い出した。

 ジョゼフはエルフに危害を加えてはならないと大隊長から命令されていたにも関わらず、野営地を抜け出した。

 エルフのガキが森にいるのを見つけた時、ジョゼフは信じてもいない神に感謝し、エルフのガキの首根っこを掴んで木に叩きつけた。


「小汚ないもん晒してんじゃねぇよ」

「子ども相手にさかってるし」


 首筋に凍てついた感触、すぐにジョゼフはナイフを首筋に突き付けられていると理解した。

 実戦経験のない新兵ならば小便を漏らしている所だが、ジョゼフは歴戦の兵だった。

 実際は二回しか盗賊の討伐を経験していないのだが、ジョゼフは自分がトラブルを乗り越えられる類の人間だと信じていた。


「……そうかよっ!」


 ジョゼフはナイフが離れた一瞬を見逃さず、振り向き様に拳を振るった。

 だが、ジョゼフの拳は空を切り、お返しとばかりに冷たい感触が鼻先を通過した。

 熱い、血が傷から溢れ、ジョゼフは顔を押さえて悲鳴を上げた。


「女みたいにぴーぴー泣いてるんじゃないよ」

「ホント、あそこが小さいだけあって肝っ玉も小さいったら」


 畜生、どうして、こんなことを、とジョゼフは泣き喚きながら、鏡で映したようにそっくりな二人のエルフを睨んだ。


「エルフのくせに、おぼ、覚えてやがれ!」

焔舞ほむらまい!」


 鮮やかな深紅の炎が視界を埋め、ジョゼフは小便を垂れ流しながら逃げ出した。

 エルフが、エルフが、許されると思っていやがるのか!

 ジョゼフは野営地に逃げ込み、大隊長に泣きついた。



 翌朝、クロノの眠りは副官の絶叫によって破られた。


『大将! 大変なんで!』(ぶもぶも!)

「……何があったの!」

『とにかく来て下せえ!』(ぶも!)


 えらい剣幕の副官に着いていくと、後ろ手に縛られたデネブとアリデッドが野営地の中央……アルフォートの天幕の近くに座らされていた。


「何があったの?」

「少しまずいことになった」


 クロノが問い掛けると、レオンハルトは不快そうに眉根を寄せて言った。


「そこのエルフが俺の部下の顔を切り刻んだんだ」

「……」


 声のした方を見ると、三十路くらいの大隊長が顔に包帯を巻いた兵士と立っていた。

 一方的だ、とクロノが口を開き掛けたその時、天幕から少年……アルフォートが怯えたように忙しく目を動かしながら出てきた。

 年齢は十代半ばか、それより幼く見える。

 アルフォートは三年前のクロノよりも体を鍛えているようだったが、挙動を見る限り、精神的なレベルは同程度だろう。


「アルフォート様、お座り下さい」

「あ、ありがとう、ピスケ伯爵」


 アルフォートはピスケ伯爵が用意したイスに浅く座り、デネブとアリデッドを見下ろした。


「ぴ、ピスケ伯爵?」

「このエルフどもは野営地の見回りをしていたジョゼフに襲い掛かり、顔を切り刻んだのです。ここは厳罰を以て対処すべきです」


 アルフォートが上目遣いに見つめると、ピスケ伯爵は細いカイゼル髭を撫でながら答えた。

 まるで最初から決まっていたように……いや、最初から決まっていたのだ。

 恐らく、違反者を罰することで引き締めを狙っているのだろう。

 つまり、これは筋書きと結末が用意された茶番なのだ。

 そうと分かれば、逆転の目はある。

 分の悪い賭には違いないけれど。


「……お、お待ち下さい! アルフォート様!」


 恐怖を押し殺しながら、クロノはデネブとアリデッドを庇うように転がり出た。

 両膝を突き、アルフォートを見上げる。


「この二人は、デネブとアリデッドは僕の大切な部下です」

「ふん、成り上がり者はエルフがお気に入りと言う訳か」


 ピスケ伯爵が嘲るように言ったが、クロノは彼の言葉に感謝した。

 少なくとも彼はクロノの発言を容認している。


「あ、亜人が人間を」

「確かに彼女達はエルフですが、きちんと市民権を取得しています。それなのに彼女達の言い分も聞かずに厳罰を下すなんて、帝国の精神を踏みにじる行為です」


 クロノが捲し立てると、アルフォートは縋るようにピスケ伯爵に視線を向けた。

 ピスケ伯爵はレオンハルトとアルコル伯爵、いつの間にか集まっていた兵士達に視線を向けて気まずそうに咳払いをした。

 いける、とクロノは拳を強く握り締めた。

 ピスケ伯爵は……フェイに対する粘着質な行為を思えば、褒められたような人格ではないが、他人の言い分を聞く程度に分別があるようだ。


「発言を許可しよう」


 デネブとアリデッドは顔を見合わせ、躊躇いがちに言葉を紡いだ。


「……あたしらはそいつがエルフの子どもを犯そうとしていたから止めただけだし」

「エルフに危害を加えちゃいけないって言ってたし」


 ピスケ伯爵は顔を顰め、伺いを立てるようにアルフォートを見た。


「おいおい、ふざけるんじゃねえよ!」


 顔を刻まれた男が暴力的な叫びを上げ、クロノは歯軋りした。

 クロノは理詰めで攻めれば、デネブとアリデッドを助けられるとばかり考えていた。

 だが、顔を刻まれた男は発言を封じられた訳ではないのだ。

 そして、三年前のクロノと同じ程度の精神しか持ち合わせていないアルフォートはあっさりと暴力に屈しかねない。


「俺は見回りをしていただけなのに、エルフどもが俺の顔を切り刻んだんだ! 人間の奴隷に過ぎない亜人が人間を傷つけて良いはずがねえ! そんなことをしたら、秩序が保てなくなる! そうだろ!」


 そうだ、そうだ、と男の呼びかけに仲間と思しき連中が同意する。

 血走った目で睨まれ、アルフォートが一瞬だけ硬直する。


「……え、エルフを厳罰に処します。ピスケ伯爵!」

「御意」


 アルフォートがプレッシャーから逃れるように命令すると、ピスケ伯爵はすらりと剣を抜き放った。

 一瞬、頭が真っ白になった。

 何か、何かないか、とクロノは丘に打ち上げられた魚のように口を開けたり、閉じたりした。


「……総司令の命令に逆らう気なのかね、エラキス侯爵?」

「……っ!」


 ピスケ伯爵に刃を突き付けられ、クロノはそこで自分がデネブとアリデッドを庇うように立っていることに気づいた。


「退けば不問にしよう」


 がくがくと膝が震え、クロノは今にも脱糞しそうだった。

 な、なんで?

 部下だからだろ?

 クソ、死にたくない、死にたくないのに!


「……ぼ、僕は」


 僕は何だ?

 僕は、僕は?


「……僕は帝国を愛している」


 あれ? とクロノは思った。

 ピスケ伯爵も、レオンハルトも……多分、ここにいる誰もがクロノの真意を理解できなかったに違いない。

 当たり前だ。クロノだって自分の言葉の意味を理解していないのだから。

 クロノは如何に帝国を愛しているのかを、如何にラマル五世に深い感謝の念を抱いているのかを切々と語った。

 それはピスケ伯爵が呆気に取られるほどの礼賛ぶりで、首を括りたくなるような嘘だった。


「……僕は帝国を愛している。だから、だから、右目を、三百五十人の部下を犠牲にして神聖アルゴ王国の侵略を食い止めた」


 嘘八百を並べ立てている内にクロノは自分の言葉が真実であるかのように錯覚していた。

 完全にパニックに陥っていた、泣きながら笑うという離れ業さえやってのけられそうなほどに。


「この中に僕ほど、いや、僕達ほど帝国のために貢献した者はいないはずだ! そこの男はどうか! 虚言を弄し、罪を愛国者たる僕の部下に押しつけ、次期皇帝であるアルフォート殿に暴言を吐く! これが僕の愛した帝国だと言うのなら……さあ、デネブとアリデッドを殺す前に僕を殺せ!」


 クロノは上着を脱ぎ捨て、自分からピスケ伯爵に歩み寄った。

 ずぶと切っ先が突き刺さり、血が流れる。

 ピスケ伯爵は困惑するように周囲を見渡し、剣を引いた。


「おいおい、そりゃねえだ……っ!」


 銀光が閃き、顔を刻まれた男の喉に剣が突き刺さる。

 ピスケ伯爵が剣を投擲したのだ。

 ピスケ伯爵は仰向けに倒れて痙攣する男から剣を引き抜き、アルフォートに跪いた。


「アルフォート様、貴方に暴言を吐いた愚か者を始末しました」

「……ご、ご苦労」


 ピスケ伯爵が頭を垂れると、アルフォートは引き攣った笑みを浮かべた。



 クロノはデネブとアリデッドを伴って天幕に戻るなり腰を抜かした。


「こ、殺されるかと思った」

「「えっと、クロノ様?」」


 睨み付けると、殴られると思ったのか、デネブとアリデッドは体を強張らせた。

 そんな二人をクロノは抱き寄せた。


 ああ、生きてる。


 二人の体温を感じながら、クロノは安堵の息を吐いた。


「あの、クロノ様……これから行軍しなきゃならないし」

「で、でも、少しくらいなら」

「何を勘違いしてるのさ」


 クロノが軽く突き飛ばすと、二人は尻餅を突いた。


「「あんまりだし!」」


 クロノは胡座を掻き、今度は溜息を吐いた。


「二人とも無茶をしないでよ」

「「けど、放っておけなかったし」」

「そうなんだけどさ。今回みたいなことにならないように報告、連絡、相談はきちんとすること」

「「は~い」」


 デネブとアリデッドは間延びした返事をした。

 実際、報告を受けていればレオンハルトと相談して手を打てたはずなのだ。


「でも、今回の件で亜人の立ち位置も、軍団の危うさも理解できたよ」


 総司令官であるアルフォートは軍を率いるのに力不足だ。

 加えて、士気も、規範も低い一般兵。

 恐怖で縛らなければ寄せ集めの軍はあっという間に瓦解するだろう。


「「えへへ、クロノ様」」


 デネブとアリデッドは子どものように笑い、クロノに擦り寄った。


「これから行軍だよ?」

「ちょっと、甘えたい気分なだけだし」

「そうそう、人間に庇ってもらったの初めてだし」


 尖った耳を撫でると、デネブとアリデッドは心地よさそうに目を細めた。


「「あたしらがクロノ様を守って上げるから」」


 デネブとアリデッドはクロノの耳元で囁いた。

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