クロの戦記ifその7「ファーナ・エンド」
帝国暦四三✕年八月中旬夜――白々とした光が通路を照らしている。
見習い女官スピカはおっかなびっくり通路を進む。
徒手ではない。
両手でパンとスープの載ったトレイを支えている。
だから、おっかなびっくり歩いている訳だが、理由はもう一つある。
それは――。
そこで、スピカは歩調を落とした。
扉が見えてきたのだ。
分厚い扉だ。
その傍らには白銀の鎧に身を包んだ獣人が控えている。
「見習い女官のスピカです。食事をお持ちしました」
「承知した」
立ち止まり、用件を告げる。
すると、獣人はこちらに背を向け、扉を開けた。
扉の向こうにあったのは階段――主塔内部に作られた螺旋階段だ。
「通れ」
「失礼します」
スピカは小さく会釈して扉を潜った。
螺旋階段を見上げる。
主塔内部は薄暗く、扉を開けたせいか風がゴウゴウと吹いている。
階段を上り、料理を届けなければならない。
だというのに足を踏み出せない。
恐怖が体を縛っていた。
そして、これこそがおっかなびっくり通路を歩いていた二つ目の理由だった
数年前、偽帝アルフォートは戦いに敗れて死に、その母――ファーナは捕らえられ、主塔に幽閉されたと言われている。
だが、スピカ達――女官の間ではある噂がまことしやかに囁かれている。
それはファーナが死んでいて、その霊は未だアルフィルク城内をさまよっているというものだ。
この話を聞いた時は馬鹿らしいと思った。
何処にでもある怪談話だとも。
しかし、自分が給仕係となり、食事を運んでいるとなれば話は別だ。
怖くて仕方がない。
足を踏み出せ、とスピカは自身に命じる。
だが、やはりというべきか足はぴくりとも動かなかった。
焦燥にも似た気持ちが湧き上がり――。
「大丈夫か?」
「――ッ!」
突然、背後から声を掛けられ、スピカは飛び上がった。
料理を落としそうになるが、何とか体勢を立て直す。
獣人がおずおずと声を掛けてくる。
「だ、大丈夫か?」
「は、はい、大丈夫ですとも!」
スピカは上擦った声で返事をして足を踏み出した。
ホッと息を吐く。
自分は足を踏み出せる。
そう確信したが故の溜息だった。
二歩目を踏み出す。
三歩、四歩と数を重ね、階段を上る、
上る、上る、上り続けて、扉が見えてきた所で足を止める。
いや、足が止まってしまった。
ファーナにまつわるもう一つの怪談を思い出したのだ。
それはファーナが幽閉された部屋の扉には給仕のための穴が設けられていて、給仕のために手を差し込むと引き千切られてしまうというものだ。
ぐッ、とスピカは呻く。
というのも怪談に語られているように扉の中央に給仕のための穴が設けられていたからだ。
あの扉の向こうでファーナは愚かな犠牲者――スピカを待ち構えているのではないか。
そんな妄想が脳裏を過るが――。
「行きますッ!」
スピカは意を決して足を踏み出した。
足早に階段を上り、距離を詰め、手首を掴まれないようにササッとトレイを入れ替える。
ホッと息を吐き、あることに気付く。
取り出したトレイに載っている料理が減っていないのだ。
怪談が事実であれば問題ない。
いや、霊がさまよっているとか、手を引き千切られるという部分は大問題だが、あくまで怪談は怪談。
体調不良で食事に手を付けていないのであればこっちの方が問題だ。
ごくり、と生唾を飲み込み、扉に設けられた穴を見る。
この穴からならば中の様子を窺うことができるはずだ。
スピカはわずかに身を屈め――。
「何をしているのですか?」
「――ッ!」
背後から声を掛けられ、飛び上がった。
トレイを落としそうになるが、今度も何とか体勢を立て直す。
ホッと息を吐き、振り返る。
すると、そこには女官服に身を包んだエルフが立っていた。
女官長のマイラだ。
呆れたと言わんばかりの表情で再び声を掛けてくる。
「何をしているのですか?」
「…………いえ、何でもありません」
マイラの問いかけにスピカはかなり間を置いて答えた。
もちろん、聞きたいことはある。
だが、黙っておくべきだと思ったのだ。
※
昼すぎ――クロードは切り立った崖から自身の領地を見下ろす。
一週間ほど前ならば麦の穂が風に揺れる光景を見ることができたのだが、生憎というべきか収穫を終えたばかりだ。
今見えるのは麦の切り株とその間に生えた雑草くらいなものだ。
だが、まあ、もの寂しさを感じさせる光景も悪くない。
わずかに口角を吊り上げたその時、気配を感じた。肩越しに背後を見る。
すると、そこに女が立っていた。
喪服を着て、ベールの付いた帽子を目深に被っている。
数年前の帝都決戦で家族を亡くし、頼りになる親族もいないので使用人として迎え入れたという設定になっている。
女は不機嫌ですと言わんばかりにおとがいを逸らし、こちらに歩み寄ってきた。
クロードの隣で立ち止まる。
だが、口を開こうとしない。
それで仕方がなく自分から話しかける。
「オルトのヤツか?」
「そうよ。仕事をサボってる誰かさんを探してたから私が迎えにきたの」
「そいつは申し訳ねぇな」
「本当よ」
女は腕を組み、ぷいっと顔を背けた。
ところで、とクロードは話しかける。
「いつまで喪服を着てるつもりなんだ? 気持ちは分からなくもねぇが、あれから何年も経ってるんだ。そろそろ脱いでもいいんじゃねぇか?」
「あのね」
クロードが問いかけると、女はこちらに向き直った。
帽子を荒々しく脱ぎ、キッと睨み付けてくる。
ちなみに女の正体は先々代皇帝アルフォートの母親ファーナだ。
「貴方が喪服を着てりゃ詮索されずに済むって言ったんじゃない。そうじゃなきゃ私だってこんな暑苦しい格好してないわ」
「そうだったか?」
「そうよ」
ファーナは何処かうんざりしたように応じる。
沈黙が舞い降りる。
若い頃なら耐えられなかっただろう。
今は楽しむ余裕がある。
「そういえば、まだ聞いてなかったわね。どうして、助けてくれたの?」
「そりゃ、お前が俺に惚れてるからだ」
「は?」
クロードが胸を張って言うと、ファーナは変な声を出した。
「ほら、葬式の時に抱き合っただろ?」
「ぶつかっただけでしょうに」
「あの時、俺はピンときたね。俺に惚れたなって」
「そんな思い込みで厄介事を背負い込むなんてどうかしてるわ」
「後先考えないのが俺のいい所だからな」
ファーナが呆れたように言い、クロードは口角を吊り上げた。
「あとは、まあ、なんだ、何も死ぬことはねぇと思ったんだよ」
「処分は幽閉って話だったけど?」
「本気で言ってるのか?」
「いいえ。多分、一年と経たない内に気の利いた誰かさんに殺されてたでしょうね」
「ま、そういうことだ。幸い、俺は我が儘を通せる立場にいたしな」
クロードは気の利いた誰かさんの顔を思い浮かべて苦笑した。




