クロの戦記another8「青い鳥」
帝国暦四三✕年五月上旬昼すぎ――ハシェルの広場は活気に包まれていた。
店主が声を張り上げ、芳ばしい匂いが漂い、通行人が興味深そうに商品を眺める。
そんな中をクロノはこそこそと移動する。
何故、こそこそしているのか。
お忍びで視察をしているからではない。
仕事をサボって広場に来ているからだ。
もちろん、クロノにも言い分はある。
だが、それを口にしても『いいご身分だな』と言われるに違いない。
なんてひどい。
脳内ティリアの言葉に打ちのめされていると、鮮やかな色彩が視界に飛び込んできた。
花屋の前に出たのだ。
といっても扱っているのは切り花ではなく鉢植えだが――。
あ……、とクロノは小さく声を上げ、ある鉢植えの前で跪いた。
小さな花がいくつも咲いている。
クロノは花に手を伸ばし――。
「旦那様?」
「――ッ!」
背後から声を掛けられて慌てて引っ込めた。
肩越しに背後を見ると、アリスンがきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「申し訳ございません。驚かせてしまいましたか?」
「……いや、全然」
クロノはやや間を置いて答えた。
ぶっちゃけ驚いたが、本当のことを言えばアリスンをしょんぼりさせてしまう。
ここは嘘を吐くのがベストだ。
「アリスンはどうして広場に?」
「はい、私塾の帰りに旦那様を見かけたのでつい……」
クロノが問いかけると、アリスンはもじもじしながら答えた。
やはりもじもじと口を開く。
「旦那様、お隣よろしいでしょうか?」
「どうぞどうぞ」
「失礼します」
アリスンが隣にしゃがみ、クロノは正面に向き直った。
「旦那様はどの花をご覧になっていたんですか?」
「この赤い花を……」
「ああ、カーネーションですね」
クロノが鉢植えを指差すと、アリスンは花の名前を口にした。
「カーネーションでいいんだ」
「はい……」
「僕もカーネーションかなと思ったんだけど、あまり詳しくないから」
アリスンが小さく頷き、クロノは頭を掻いた。
「どうして、カーネーションを見ていたんですか?」
「どうしてって……」
アリスンに問いかけられ、クロノは口籠もった。
「何とはなしに感じていたんだけど……。もしかして、帝こ、もとい、この辺りには母親にカーネーションを贈る習慣がない?」
「初めて聞きました。あの、その、私が勉強不足なだけだと思いますが……」
「そうなんだ」
アリスンがごにょごにょと言い、クロノは相槌を打った。
内心首を傾げる。
母の日って最近の風習なのだろうかと考えて思い直す。
ここは異世界だ。
母の日がなくて当然なのだ。
「南辺境にはカーネーションを贈る習慣があるんですか?」
「…………うん」
アリスンの問いかけにクロノはかなり間を置いて答えた。
もちろん、南辺境にそんな習慣はない。
だが、否定すれば何処の習慣なのかという話になってしまう。
まあ、肯定しても自分の首を絞めることには変わりなさそうだが――。
そんなことを考えていると、視界が翳った。
顔を上げると、店主がこちらを見下ろしていた。
目が合い、店主がにっこりと笑う。
「一鉢銅貨二枚になりますが、如何なさいますか?」
「……二鉢ください」
クロノは人差し指と中指を立てて答えた。
※
クロノはアリスンと一緒に商業区の洗練された街並みを進む。
いや、アリスン達というべきか。
肩越しに背後を見る。
すると、そこには鉢植えを抱えて歩くシロとハイイロの姿があった。
あの後、二人と出くわし、二人は鉢植えを運ぶと申し出てくれたのだ。
「二人ともごめんね」
「俺達、偶然、出くわした」
「クロノ様、助ける、当然」
クロノが声を掛けると、二人は鼻息も荒く答えた。
シロは偶然と言ったが、クロノはアリスンを陰ながら護衛していたと睨んでいる。
もちろん、口にはしないが――。
正面に向き直ると、カーンという音が聞こえた。
槌を打つ音。侯爵邸が近いのだ。
程なく侯爵邸を取り囲む高い塀が見えてきた。
正門を潜り抜け、あることに気付く。
花壇の近くにアリッサがいたのだ。
水やりをしているのか、こちらに背を向けている。
アリッサのもとに向かう。
あと数メートルという所でアリッサがこちらに向き直る。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「ただいま」
「お母さん、ただいま!」
「まあ……」
アリスンが元気よく言うと、アリッサはくすくすと笑った。
クロノ達の背後――恐らく、シロとハイイロが抱える鉢植えを見て軽く目を見開く。
「それは?」
「カーネーションです。露店で買ってきました」
「ねえ、知ってる?」
アリッサの問いかけに答えると、アリスンが駆け寄った。
遠慮がちに抱きつく。
「南辺境には母親にカーネーションを贈る習慣があるんだって」
「ああ……」
アリッサが合点がいったとばかりに声を上げる。
えへへ、とクロノは笑う。
愛想笑いだ。
嘘がばれるのではないかと気が気でない。
「赤と白――二種類のカーネーションを買ったのにも理由が?」
「うん、赤いカーネーションはアリッサに」
「ありがとうございます」
「白いカーネーションは天国の母に」
「――ッ!」
クロノの言葉にアリッサは息を呑んだ。深々と頭を垂れる。
「申し訳ございません」
「いや、気にしないで」
アリッサが神妙な面持ちで頭を垂れ、クロノは小さく頭を振って答えた。
う~ん、と空を見上げる。
「種だけでも南辺境に送りたいんだけど、水やりとかお願いできる?」
「はい、承知いたしました」
「シロ、ハイイロ、花壇の近くに鉢植えを置いて」
「「了解」」
クロノが指示を出すと、シロとハイイロは花壇に歩み寄った。
アリッサが半身になり、地面を指差す。
「ここに置いて下さい。あとは私がお世話をしますから」
「「了解」」
シロとハイイロはが鉢植えを地面に置き、クロノはそっと視線を逸らした。
何故なら花壇にカーネーションが咲いていたからだ。




