第4話『崩御』修正版
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パラティウム邸は名門貴族の私邸が建ち並ぶ第一街区の一部を占有する形で建てられている。
パラティウム邸が建っていた場所に他の貴族が私邸を建てたという経緯を考えれば『占有しているように見える』が適切だろうか。
かつては人工の堀と堅牢な城壁を備えた城だったらしいが、現在のパラティウム邸は高い塀と四方に円塔を備えた自然石作りの城館である。
この辺りで広大な庭園と厩舎は珍しくないが、石像が前庭に飾られている屋敷はかなり珍しい。
剣を掲げる騎士の像はパラティウム家の開祖をモチーフにしたものだ。
彼はレオンハルトと同じ神威術の使い手であり、ある戦場で皇帝を守るために神威術の奥義『神威召喚』を使い、光になったと伝えられている。
『治癒』、『解毒』、『活性』、『祝聖刃』、『神衣』、『光盾』、『神器召喚』、『光壁』……複数の神威術を使いこなせるレオンハルトでも、どうすれば『神威召喚』に到達できるのか予測できない。
「……少し酔いすぎたか?」
「レオンハルト様!」
レオンハルトが酩酊感を楽しみながら前庭を歩いていると、訛りのある口調で名前を呼ぶ者がいた。
その人物はスカートをたくし上げて走り寄り、本人だけは迫力があると思っている表情でレオンハルトを睨み付けた。
「待っていてくれたのか、リーラ?」
「みんな、起きて待ってただよ。こんなに遅くなるなら、オラと爺やさんだけで待ってれば良かっただ」
レオンハルトが頭を撫でると、リーラは不満そうに下唇を突き出した。
「……子ども扱いしないでけろ。こう見えても、オラはレオンハルト様より一歳も年上だで」
「ああ、それはすまなかった」
レオンハルトは肩を竦め、リーラを見つめた。
リーラは醜女ではないが、舞踏会に参加していた貴族の令嬢に比べて格段に見劣りする容姿をしている。
八重歯が半ば欠けているため口を開いて笑うと、間が抜けて見えるし、適当に纏めたブラウンの髪が貧乏くさい。
ふっくらした体型……というのは控え目な表現で胸と尻は無駄に肉づきが良く、ウェストはややたるんでいる。
仕事はそれなりにこなせるが、訛りが酷く、教養がないため接客には不向きである。
自分で主張した通り、レオンハルトよりも年上の二十三歳だが、奉公人として引き取られた貧農の娘という出自を考えれば、彼女がレオンハルトに意見するなど許されない行為である。
だが、レオンハルトは私的な場に限り使用人に自由な発言を許していた。
レオンハルトとて耳触りの良い言葉を聞きたいが、多くの場合、価値のある情報は妙薬と同じように苦いものなのだ。
だから、こうして使用人の言葉に耳を慣らしておけば、部下の箴言に耳を傾けることも難しくない。
「舞踏会は楽しかっただか?」
「大麦酒を飲んだ記憶しかないな」
レオンハルトは舞踏会のことを思い出そうとしたが、酒を酌み交わしたことしか思い出せなかった。
「オラ、酒臭えの嫌いだ」
「では、離れて歩くとしよう」
レオンハルトが早足で歩き出すと、リーラは不満そうに下唇を突き出し、体当たりを仕掛けてきた。
レオンハルトは足を止めて体当たりを受け、恨めしそうに見上げるリーラを無視して前庭を進んだ。
幾ら酔っていても、レオンハルトはリーラの体当たりでよろけるような柔な鍛え方をしていない。
「……甘い」
「レオンハルト様はいけずだ」
リーラは拗ねたように唇を尖らせ、レオンハルトが着ている軍礼服の袖を握った。
「酒臭いのは苦手なのだろう?」
「だから、こうして離れてるだ」
女という生き物はよく分からんな、とレオンハルトはリーラを引き摺りながら再び歩き始めた。
「……添い寝はしてやっけど、今日は求めてくるでねえぞ」
「私から求めたことは一度もないが?」
「やっぱり、いけずだ」
事実を指摘すると、リーラは不愉快そうに鼻に皺を寄せた。
いつか、リーラとも酒を酌み交わしたいものだ、とレオンハルトは苦笑した。
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「う、口の中が鉄臭い」
養父と一戦を終えたクロノは口内に広がる鉄臭さに顔を顰めながら地面に腰を下ろした。
人の口に戸は立てられぬと言うが、噂はレイラからマイラに、マイラから養父に伝わったようだ。
養父は全く気にしていない様子だったのだが、剣術の訓練でクロノが背後に回り込んだ瞬間、俺の尻をホれると思うな! とクロノの頬に鉄拳をぶち込んだのだった。
「口の中を切ったのなら、ボクが癒してあげるさ」
「……父さんに殴られたのはリオのせいもあると思うんだけど」
「言い掛かりだよ。嫌がるボクを犯そうとしたのはクロノじゃないか」
リオはクロノに寄り添い、恥ずかしそうに頬を朱に染めて言った。
ちなみにリオが着ているのはドレスではなく、クロノの普段着である。
「君の部下は良い動きをしているね」
リオは養父とフェイの戦いを見ながら、感心したように呟いた。
クロノが視線を向けると、フェイは養父の攻撃を躱している最中だった。
今回、フェイは神威術を使わず、純粋な剣技と体術で養父に対抗していた。
フェイは怒濤のような攻撃を躱し、養父の懐に潜り込もうとする。
だが、養父はフェイが懐に潜り込もうとする気配を察するや、軽く木剣を振り回して牽制する。
軽く振り回しているように見えても、養父の恵まれた体格から繰り出される一撃は女の細腕をへし折るくらいの威力を秘めている。
何処まで養父が手加減をしようと考えているかにもよるが、自分の体で試そうとするヤツは滅多にいない。
「いつもなら突っ込んで行くんだけどね」
「……そろそろ、攻めるんじゃないかな?」
フェイが懐に潜り込もうとすると、養父は軽く木剣を振って牽制する。
だが、フェイは更に姿勢を低く、スピードを上げた。
姿が霞んだとしか言いようのないスピードだ。
「やるね」
短いながら、リオの言葉が全てを物語っていた。
フェイは神威術を使わないと養父に思いこませ、その裏を掻いたのだ。
闇を煙のように立ち上らせたフェイが養父の背後に回り込み、突きを放つ。
しかし、フェイの突きは空を切った。
養父が体を捻り、攻撃を躱したのだ。
フェイが悔しげな表情を浮かべた次の瞬間、養父は木剣の柄でフェイの額を打った。
「……むはっ!」
「そこそこに頭を使ってたんじゃねえか? 馬鹿の一つ覚えみたいに懐に潜り込もうとして、こっちの攻撃をパターン化させたのも悪くねえ。まあ、お前が神威術を使えると知らなければ引っ掛かってたかもな」
養父はフェイの頭を掴み、ぐりぐりと左右に揺らした。
多分、撫でているつもりなのだろう。
「じゃ、次はお前が相手をしてやれ」
「どうして、ボクなんだい?」
養父が投げた木剣を受け取り、リオは不思議そうに首を傾げた。
「俺の家を宿代わりにした分、働きやがれ」
「あまり、剣は得意じゃないのだけれど」
リオは大仰に肩を竦め、面倒臭そうにフェイと対峙した。
「よろしくお願いするであります!」
「……お手柔らかに頼むよ」
やる気満々でフェイは木剣を中段に構えたが、やる気のなさそうなリオはだらりと木剣の切っ先を地面に向けたままだ。
当然と言うべきか、先に仕掛けたのはフェイだった。
フェイは一気に間合いを詰めて突きを放つ。
リオは木剣を構えもせず、華麗な体捌き……風に揺れる柳か、風に舞う綿毛のように捉え所のない動きでフェイの脇を滑り抜け、全くやる気の感じられない仕草で木剣を振り下ろした。
やる気こそ感じられないが、リオの体捌きは一流、いや、一流以上のレベルに達している。
リオが振り下ろした木剣はゆっくりとフェイの肩口に近づき、カーン! という音と共に受け止められていた。
「手加減なら無用であります」
「……別に手加減していたつもりはないんだけど、ねッ!」
フェイとリオは鍔迫り合いしたまま、獰猛な笑みを浮かべた。
膠着状態は長く続かなかった。
フェイが力任せにリオを押し退けたのだ。
いや、リオがフェイに合わせて跳び退ったと言うべきか。
五メートルほど距離を取り、ふわりとリオは地面に舞い降りる。
緑色の光を放つ粒子がリオの体から立ち上る。
「神威術『神衣』さ」
ふわりとリオの体が舞い上がり、羽のように地面に舞い降りる。
どうやら、同じ神威術『神衣』でも『漆黒にして混沌を司る女神』と『翠にして流転を司る神』では効果が異なるようだ。
「……ビジュアル的に負けてる」
「ぐぬぬ、そんなことないであります! 神様、お願いするであります! 神威術『神衣』!」
クロノが突っ込みを入れると、フェイは対抗するように神威術『神衣』を使った。
闇が煙のように立ち上るフェイに対し、まるで蛍が飛び回っているようなリオ。
残念ながら、ビジュアル的にフェイの完敗だ。
「じゃ、イクよ?」
宣言と同時にリオの姿が掻き消える。
風が砂や小石を舞い上げる。
リオは地面スレスレを飛翔し、あっさりとフェイの背後に回り込むと、木剣を振り上げた。
クロノならば絶対に避けられない一撃をフェイは上体を軽く反らしただけで躱し、虫を踏み潰すように足を振り下ろした。
「はははっ! 初見で避けて、反撃までしてくるのかい?」
「……っ!」
リオが軽く地面に手を突いて飛び上がると、フェイは距離を取らせまいと突進する。
だが、フェイの攻撃は空を切るばかりだ。
宙を自由に舞うリオに対して、フェイが繰り出せる攻撃が限られているためだ。
基本的に剣術は自由に宙を飛び回る敵と戦うように出来ていないのだ。
まあ、普通はそう考えるし、そう考えてくれると思うものである。
「剣が届かないのなら!」
「おやおや、そっちにボクは……っ!」
リオが絶句する。
フェイがクロフォード邸の壁を駆け上がったからだ。
「届かせるだけであります!」
「これだから、単純馬鹿は!」
クロフォード邸の二階付近まで駆け上がり、フェイはリオに向かって跳ぶ。
「でも、残念♪」
リオは地面に触れることなく、木剣が届かない場所に避難する。
「刃に祝福を、『祝聖刃』! 伸びるであります!」
溢れ出した闇が木剣を覆い、更に木剣の四倍はあろうかという闇の刃を形成する。
「チィッ!」
「はっ!」
フェイは闇の刃をリオに叩きつける。
完全に油断しきっていたリオは地面に叩きつけられ、それでも、勢いを殺すことができずに地面を転がった。
「勝利であります!」
最近、負けてばかりだったせいか、フェイは誇らしげに胸を張った。
「フェイ、残心!」
「油断してはいけないでありますね!」
リオ同様、完全に油断していたフェイはクロノの言葉に慌てて木剣を構える。まあ、口元が緩んでいるので残心ができていないような気もするが。
「……やってくれるじゃないか」
リオはゆらりと立ち上がり、だらだら流れる鼻血を乱暴に袖で拭った。
「油断している方が悪いであります」
「そりゃあ、油断している方が悪いさ」
リオは木剣を投げ捨て、まるで弓を構えるように左腕をフェイに向け、弦を引き絞るように右腕を動かす。
次の瞬間、緑色の光が燃え上がるようにリオの左手から吹き出し、弓を、弦を、矢を形成する。
「……死んじゃいなよ!」
「クロフォード邸で殺人を起こされては困ります」
リオが狂気じみた笑みを浮かべると、マイラが冷淡な声で囁いた。
マイラはリオの背後に立ち、彼女の喉元にキッチンナイフを突き付ける。
「……無音暗殺術っ!」
「懐かしい響きですが、今の私はクロフォード家のメイドです。もちろん、リオ様がどうしても死にたいと仰るのであれば……二つ名の由来通り、音もなく殺しますが?」
「いや、止めておくよ」
リオは矢と弓を消し、大仰に肩を竦めた。
「それにしても、全く気配を感じなかったよ」
「故に無音殺人術です」
「あっちの娘は気づいたんだけど」
リオが視線を向けた方を見ると、箒を握り締めたレイラがこちらを睨んでいた。
「……彼女は後継者かい?」
「ええ、我がメイド道の後継者です」
マイラは誇らしげに胸を張った。
※
舞踏会が終わってから四日……舞踏会の後処理や帝都に滞在する有力貴族に対する挨拶回りが終了し、ようやくファーナは夜の仕事に復帰することになった。
まあ、要は愛人としてラマル五世に抱かれることなのだが。
適当な理由を付けて断りたいんだけど、とファーナは肩の凝りを解しつつ、ラマル五世の寝室に続く廊下を歩いていた。
何度か、城内の警備を担当する近衛騎士と擦れ違ったが、反応は杓子定規に敬礼をするか、侮蔑的な眼差しを向けてくるか、媚びるような視線を向けてくるかの三つに大別される。
「やあ、ファーナ殿」
「ケイロン伯爵、今日の警備は貴方が担当なの?」
振り返ると、リオ・ケイロン伯爵が爽やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
ケイロン伯爵が追いつくのを待ち、ファーナは廊下を歩き始めた。
「レオンハルト殿の第一騎士団も、エルナト伯爵の第二騎士団も直轄領の警備に戻っちゃったからね。今いるのはボクの第九騎士団とピスケ伯爵の第十二騎士団だけさ」
ケイロン伯爵が気障ったらしく髪を掻き上げると、どす黒い痣が露わになる。
「ケガをしてるじゃない!」
「恥ずかしい話だけど、剣術の試合で油断してしまってね」
「貴方がケガをするなんて、よほどの使い手ね」
「クロノの部下で……確か、フェイと呼ばれていたかな?」
フェイ? 何処かで聞いたような名前ね、フェイ、フェイ……、とファーナは歩きながら記憶を漁り、ようやく思い出すことができた。
「もしかして、フェイ・ムリファイン?」
「残念だけど、家名までは覚えていないよ。知り合いなのかい?」
「ええ、彼女の母親が宮廷で働いていたのよ。凄く娘さんのことを自慢していて……娘さんが軍学校を卒業して、第十二騎士団に配属されることが決まった矢先に亡くなってしまって」
近衛騎士に比べれば女官の給料は安いと言わざるを得ない。
一応、母娘が慎ましく暮らせる程度の額はあるのだが、騎士になるために必要な教養と武術を身に付けさせようと思ったら、女官の給料では足りないし、近衛騎士になるためには実力以上にコネが必要となる。
半ば没落していたムリファイン家から騎士を輩出するためには寿命を縮めるような苦労が必要だったに違いない。
「……ねえ、貴方の所はどうやって団員を選んでいるの?」
「ボクの所は基本的にコネだよ。あ、でも、軍学校の演習で面白そうなのがいれば声を掛けるかな? レオンハルト殿やエルナト伯爵は真面目に選んでるね。まあ、エルナト伯爵は他から引っ張ることもあるけどさ。ピスケ伯爵は……あまり仲が良くないから分からないけど、良い噂は聞かないね」
そう、とファーナは溜息を吐いた。
「溜息なんて吐かなくても、これからは真面目に選ぶようにするさ。かなり癖はあったけど、フェイは面白い人材だったからね」
寝室の扉が見えたその時、何かが倒れるような音が響いた。
「ファーナ殿はここに!」
一転して騎士の顔になったケイロン伯爵は寝室の扉を蹴破り、室内に踏み込んだ。
「……陛下!」
ケイロン伯爵の叫び声にファーナが言いつけを破って寝室に踏み込むと、ベッドの上で呆然としている若い女官と全裸で床に倒れるラマル五世の姿があった。
若い女官の服が破け、頬が腫れ上がっている点を鑑みるに、ラマル五世は全裸で彼女に襲い掛かり、突き飛ばされたと考えるのが妥当だろう。
問題は……ラマル五世が死んでいるようにしか見えないことだった。
「『翠にして流転を司る神』よ! 癒しと活性の奇蹟を!」
緑の光が体を包むと、ラマル五世は笛の音のような呼吸を再開した。
「陛下は?」
「残念だけど、神威術で無理に生かしているだけで手の施しようがないよ」
神威術の副作用によるものか、ケイロン伯爵は苦痛に顔を歪めて呟いた。
ラマル五世は焦点の合わない瞳でファーナを見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
ファーナはラマル五世の手を握り返した。
「……ふぁーな、よは、よわいおとこだった」
ラマル五世は辿々しく言葉を紡いだ。
「よは、むのうであるが、ゆえに、おとうとにそむかれ、よわさゆえに、おとうとをうしなった。だが、よは……おとうとを、あるふぉーとを、にくんでなどいなかったのだ」
ラマル五世は虚空に視線を彷徨わせた。
「……くろーど、あるこる、ふぁーな、てぃりあ、すまない、よは、くろうをかけてばかりだった」
ラマル五世は静かに息を吐いた。
「……よをいかしているのは、だれか?」
「リオ・ケイロンにございます」
「もう、よい。たいぎで、あった。よは、もうつかれた。ねむらせて、くれ」
「御意」
ゆっくりとラマル五世の体が弛緩していく。
「……あとのことは、あるこるに、まかせてある」
ラマル五世は眠るように目を閉じ、最期に声なき声で囁いた。
ふぁーな、すまなかった。
それがラマル五世の……最期の言葉だった。