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第2話『ハーフエルフのレイラ』修正版


 アルゴ王国軍を追い払ってから、一週間が過ぎようとしていた。

 ティリアとエラキス侯爵が国境付近で厳戒態勢を敷いているためか、再侵攻の兆候はないらしい。

 残る懸念は部下の治療のことだけだが、これもティリアに書いてもらった命令書のお陰で全員が人間と同じように医師の治療を受けられた。

 あまりにも人数が多かったので、病院と周辺の宿を占有する形になってしまったが、これは仕方がない。


「やっぱり、何も見えないや」


 病院の薄汚れた天井を見上げ、クロノは暗澹たる気分で呟いた。

 医師によれば高位の神威術ならば治せるらしいのだが、国内にいる高位術士が限られている以上、失明を宣告されたと同義だ。


「……感染症に罹らなかっただけマシか」


 クロノが受けた治療は傷を水で丹念に洗って縫合した程度だが、ヨーロッパでは近世まで消毒のために沸騰した油を傷に注ぎ、血止めのために焼けた鉄の棒を傷に押し当てていたらしいので、それに比べればまともな治療方法だ。

 クロノはベッドから抜け出し、素早く黒を基調とした軍服に着替えた。

 病室から抜け出した途端、クロノは副官のミノタウルス……ミノさんにぶつかった。


『また、見舞いですかい?』(ぶもぶも?)

「他にすることもないしね」


 ぶふぅ~、と副官は呆れたように大きな鼻息を吐いた。


『……お供しやす』(ぶも~)

「ああ、ありがとう」


 何故か、副官は照れ臭そうに頭を掻いた。

 副官を伴い、階段を降りる。

 病院はしっかりとした石造りの建物だ。

 一階は百近いベッドが並ぶホールで、二階は個室となっている。

 別棟では食事を作ったり、洗濯をしたり、医師や薬師が寝泊まりしている。

 アレで領民のことを考えているんだな、とクロノはエラキス侯爵に関する評価を改めようとしたが、この病院に限らず、ハシェルの街が発展したのは初代から三代目までの功績らしい。

 四代目以降は代が下るにつれて評価も下がり、特に当代……七代エラキス侯爵の評判は悪い。

 贅沢品を買い漁ったり、税を上げたり、救貧院への寄付を止めたり、やりたい放題らしい。

 封建制度の悪い部分が表出してしまっているような感じだが、そんな男でもクロノより格上なのだ。

 階段を降りるにつれ、雑音めいた声が鮮明さを増していく。

 クロノがホールに足を踏み入れた瞬間、ピタリと会話が止んだ。

 嫌われているんだろうか? と最初は凹んだものだったが、今はかなり慣れた。

 まあ、これが貴族に対する普通の態度なのだろう。

 ぶっちゃけ、副官がクロノに対して砕けた態度を取りすぎているのである。


「調子はどう?」

「はひぃ! ちょ、調子は……悪いであります!」


 クロノが声を掛けると、ドワーフ(ロリ娘)が露骨に顔を引き攣らせて答える。


「そう……何かあったら、遠慮なく言うようにね」

「は、はひ!」


 クロノが隣のベッドに移動すると、ロリ・ドワーフの安堵の溜息が聞こえた。

 ホールにいた部下に声を掛けて回ったのだが、万事が万事、この調子だ。

 獣人も尻尾を丸め、何処となく怯えた様子だった。

 その後、別棟に移動して、医者に声を掛けても同じような反応が返ってきた。



 ハシェルは周囲を城塞に囲まれた直径一キロメートルほどの街だ。

 元々、軍事拠点として築かれた経緯もあり、非常に入り組んだ構造をしている。

 街の中心はエラキス侯爵邸、その周辺を病院、商工業区、居住区が取り囲んでいる。

 最も賑わっているのが商工業区……ケフェウス帝国に支店を持つ商会が店を構え、ただでさえ狭い道を埋め尽くすように露店が並んでいる。


『まだ、続けるんですかい?』(ぶも~?)

「宿にいる部下とも顔を合わせないと」


 部下のいる宿を梯子していると、副官がうんざりしたような声音で言った。


『もしかして、大将は鈍感なんですかい?』

「いや、僕にも部下に気を使わせていることくらい分かるよ」

『それが分かっていて』


 ぶも~、と副官は大袈裟に肩を落とした。


「……次で最後か」


 最後に残ったのは銀髪のエルフ……レイラだ。


『レイラが苦手なんですかい?』

「そういう訳じゃないんだけど、嫌われてるんじゃないかなと思って」


 レイラはクロノが反応に困るくらいクールなのだ。

 彼女に責任を押しつけようとしたことも手伝い、顔を合わせにくい。

 贈り物なんて、どうだろうか? 

 周囲を見渡すと、花売りの少女が目に止まった。

 人間の少女で、年齢は十歳くらいだろうか。

 髪はブラウン、肌は病的に白い。

 美人ではないが、不思議と愛嬌のある顔立ちだ。

 ただ、今は疲労の色が濃い。

 少女の貧しさを示すようにワンピースは薄汚れ、袖や裾の部分が解れている。

 現代日本の子どもを知る身としては胸が痛い。


「やあ、花を売ってくれないかな?」

「……っ!」


 クロノが気さくに声を掛けると、少女は部下と同じように顔を引き攣らせた。


「ど、銅貨一枚、です」

「ありがとう」


 花束と引き換えに銅貨を一枚渡すと、少女は呆気に取られたような表情を浮かべた。

 うん? とクロノは首を傾げながら、彼女に背を向けた。

 しばらく歩くと、レイラが宿泊している宿に着いた。

 正しくは、一階が酒場兼食堂で、二階が宿だ。

 もう少しマシな部屋を手配しようとしたのだが、あまりレイラが乗り気でなさそうだったので、ここになった。


『あっしはここで待ってやすから』(ぶも~)

「ああ、よろしく」


 酒場兼食堂に入ると、まばらにいた客達の視線がクロノに集中するが、すぐに彼らは視線を背けた。

 あまり貴族と関わりたくないのだろう。


「男爵様、今日も?」

「見舞いだ。ああ、時に女将」


 家督を継いでいないので男爵ではないのだが、あえて訂正せず、クロノはカウンターに肘を突いた。

 ズザーッ! と凄まじい勢いで両隣の客が離れたのが印象的だった。

 女将さんは三十代。

 子どもはおらず、夫とも五年前に死に別れたらしい。

 女手一つで店を切り盛りするのに相当な苦労しているはずだが、そんなことを感じさせない優しげな目をしている。

 体つきは肉感的で、成熟した大人の色香を感じさせる。

 ほっそりとしたうなじと後れ毛が高ポイントだ。


「部下の様子は、どうだろう?」

「食事も残さずに食べていますから、心配は要らないと思いますよ」

「そうか」


 クロノは金貨を一枚取り出し、女将に握らせた。


「こ、これは?」

「これでレイラに栄養のあるものを食べさせて欲しい。いや、もちろん、女将が粗末なものを食べさせていると勘繰っている訳ではないのだが……よろしく頼む」

「ええ、そりゃ、まあ」


 女将は嬉しさ半分、怯え半分といった風情で金貨を受け取った。

 兵士の給料が一ヶ月で金貨二枚だから、女将にとっては予想外の収入だろう。

 ちなみに貨幣の交換比率は銅貨十枚で銀貨一枚、銀貨二十枚で金貨一枚くらいだ。

 さらに銅貨よりも下に真鍮の貨幣があり、銅貨一枚に対して真鍮貨十枚の交換比率だ。

 軋む木製の階段を上り、クロノは薄暗い廊下を進む。

 レイラの部屋は二階の端だ。

 礼儀としてドアをノックし、クロノは扉を開けた。

 そのまま、クロノはフリーズした。

 まず、視界に飛び込んできたのは褐色の肌だった。

 縫ったばかりの傷が痛々しいが、褐色の肌は身震いするほど艶やかだ。

 レイラが新しい傷を避けるように濡れた布で体を拭う。


「……クロノ様?」


 こちらに気付いたらしく、レイラは両腕で胸を隠した。


「……っ!」


 クロノが生唾を呑み込むと、レイラは恐怖に耐えるように唇を噛み締めた。

 すぐに怯えられていると気付き、クロノは部屋を飛び出した。

 何度も廊下の壁に体を打ち付け、


「ぎゃひぃぃぃぃぃっ!」


 階段を転がり落ちた。


「男爵様! 御怪我はございませんか?」

「大丈夫、大丈夫」


 走り寄る女将を手で制し、クロノは怪我がないことを確認しながら立ち上がった。

 受け身は取れなかったが、大きな怪我はないようだ。

 三年近く鍛えた体はクロノが思っている以上に丈夫らしい。


「……痛っ」

「だ、男爵様」

「ああ、心配ない。悪いけれど、肩を貸してくれないか?」


 顔面蒼白の女将は震えながら、クロノの体を支える。


「もう一度、上に行きたいから」

「はい」


 どっちが体を支えているのか、分からないくらい女将は震えていた。

 ともあれ、女将の力を借り、再びレイラの部屋に辿り着いた。

 クロノはドアをノックし、レイラの返事を待つ。

 部屋に入ると、レイラは黙ってクロノを見つめていた。

 いや、睨んでいるのだろうか。

 事故とは言え、裸を見てしまったのだから、当然の反応だ。


「女将、少し離れてくれないか」

「はい」


 クロノは女将に花束を手渡し、レイラを見つめた。


「……レイラ」

「……」


 レイラは答えない。

 クロノはレイラに早足で歩み寄り、汚れた床に両膝を突き、頭を擦り付けた。


 土下座である。


「な、な、何をなさっているのですか!」

「これは土下座といい、僕が生まれた国で最上級の謝罪を示す姿勢だ」


 クロノは慌てふためくレイラに淡々と説明した。


「裸を見て、申し訳ありませんでした!」

「「えっ!」」


 クロノが頭を地面に擦り付けると、レイラと女将が一緒になって声を上げた。


「や、止めて下さい」

「君が許してくれるまで、僕は土下座を止めない!」


 クロノは遠慮がちに腕を引くレイラに抗い、土下座を続けた。


「わ、分かりました! 分かりましたから、許しますから、ドゲザをお止め下さい!」

「……」


 レイラの悲鳴じみた懇願にクロノは無言で立ち上がった。


「女将、花束を」

「はい」


 クロノは女将から花束を受け取り、レイラに差し出した。


「こ、これは?」

「見舞いの花束だ。て、手ぶらで来るのも気まずかったので、途中で買ったのだが……もっと、ちゃんとした物の方が良かっただろうか?」


 花束を受け取り、レイラは涙を堪えるように唇を噛み締めた。

 十秒か、二十秒か、とうとう堪えきれずに涙が金色の瞳からこぼれ落ちた。


「……わ、私のような、ハーフエルフに、何故?」

「ハーフエルフ?」


 言われてみれば、レイラの耳は他のエルフよりも短い気がする。

 説明するまでもなく、ハーフエルフはエルフと人間のハーフだ。

 ハーフエルフはファンタジー小説で人間とエルフの両方から差別されたり、迫害を受けたりすることが多い。

 その理由はエルフが純血主義だったり、ハーフエルフはエルフが辱められた末に生まれた子どもと認識されているからだ。

 だが、ケフェウス帝国の場合、エルフは被支配階級に属し、エルフもそれを事実として受け止めている。

 直接聞けば、ファンタジー小説と似たような答えが返ってくるだろうが、実際は自分達よりも格下の存在が欲しいといった所ではないだろうか。

 惨めな境遇にある人間は自分よりも惨めな境遇にある人間の存在に安堵する。

 クロノ自身も覚えのある感覚だ。


「ご存じ、なかったのですか?」

「ああ」


 クロノが答えると、レイラは寂しそうな笑みを浮かべた。

 ああ、きっと、この人は私をエルフだと思って優しくしてくれたんだ。

 どうせ、ハーフエルフの私なんて。

 そんな感情が伝わってくるような笑みだ。


「私は……いや、僕はレイラがとても勇敢な女性だと思ってるよ。君がハーフエルフだと知っても、この気持ちは変わらないし、君のような部下を持てたことを誇りに思う」

「……っ!」


 レイラは見えない棒で殴られたように蹌踉めき、顔を覆って泣き出した。


「……クロノ様」

「レイラ、また、見舞いに来るから」


 女将に促され、クロノはレイラの部屋を後にした。

 押し殺したようなレイラの嗚咽が安普請の扉越しに聞こえ、すぐにでもクロノは引き返したかった。


「いけませんよ、男爵様」

「……分かった」


 女将に手を引かれ、クロノは仕方なく一階に戻った。

 客達の視線が集中するが、それも一瞬の出来事だ。


「男爵様、よろしければ食事でもいかがですか? なん「ああ、頂こう」」


 え? と女将の顔が盛大に引き攣った。


「いやですよ、貧乏人をからかっちゃ」

「からかっていないが?」


 シーンと痛々しい沈黙が辺りを支配する。


「はい、しょ、承知いたしました! ほら、あんたら、男爵様が食事をするんだから、そこを退きな!」

「いや、彼らが先に座っていたのだから、カウンターの隅にでも」


 他の客を蹴り出さんばかりの女将を横目に、クロノはカウンター端の席に座った。


「や、野菜の塩スープと、パンにございます」

「うむ」


 間を置かずに煮崩れた野菜のスープとすっかり固くなったパンがカウンターに置かれる。

 クロノは木製のスプーンで野菜スープを一啜り。


「どうですか?」

「うむ、塩味だな」


 クロノは固くなったパンをスープに浸し、少し柔らかくなったそれを頬張る。

 胡椒が欲しいところだが、香辛料の類は貴重品だ。

 がつがつと具を掻き込み、


「むっ!」

「ど、どうかなさいましたか!」


 クロノは口元を乱暴に拭い、


「すまないが……副官を外で待たせているのだが、部下の分も頂けないだろうか?」

「え? あ~、一昨日、床を踏み抜きそうになった! 少々、お待ち下さい」


 女将はスープを大鍋から小振りの鍋に移し替え、カウンターの外に出る。


「私が持って行こう」

「男爵様が?」

「うむ、私が持って行くのが筋というものだろう」


 有無を言わさず、クロノは女将から鍋を奪い取り、店の外で待つ副官の元に。


「待たせてごめん。今、食事をしているから、君も食事をして待ってて」

『大将!』(ぶも~!)


 目を剥く副官に鍋を押しつけ、クロノはカウンター席で食事を再開した。

 料理を全て平らげ、クロノは満腹感に酔いしれた。


「女将、幾らだろう?」

「いえいえ、男爵様からお金を頂くわけには」

「そう……いや、こういうことに身分は関係ない」


 ラッキー♪ と思ったが、クロノは自分を律し、銀貨を一枚差し出した。


「はぁ、男爵様は変わっていらっしゃるんですね」

「ん、自分では至って普通のつもりだが?」


 これは少し嘘かな、とクロノは思う。

 クロノの価値観は自由、平等、人権などケフェウス帝国に存在しない概念を前提に形作られている。

 だから、この世界の常識から外れた行動を取ることが多く、変人と呼ばれることも珍しくない。

 今更、女将に言われなくても、クロノもそれくらい分かっているのだ。


「……女将。また、来る」

「は、はい、お待ちしています」


 クロノが店を出ると、副官は空の鍋を手に立っていた。


「返してくるよ」

『そこまで大将にやらせるわけにゃいきやせん。女将、鍋はここに置いておくぜ!』


 副官は扉を開け、その近くに鍋を置いた。


『さあ、ずらかりやしょう』



『やっぱり、大将は変わりもんすね~』

「うん、女将にも言われたよ。でも、いきなり、どうしたの?」


 副官がそう切り出したのは病院までの道のりを半分消化した頃だった。

『いえね、感心したんで。あっしは大将が嘘を吐いていると思ったんでさ。だって、そうでしょ。あっしら亜人は金貨一枚で命を切り売りする捨て駒でさぁ。そんなあっしらのために皇女に掛け合って、傷の様子を見舞ってくれて……ようやく、あっしは大将を信じようと思ったんで』

 副官はまくし立てるように言い、ぽつりと呟いた。


「そんなに感謝されることじゃ……あれ?」

『どうしたんで?』

「あのさ、今……金貨一枚って言った?」

『ええ、それが何か?』


 エラキス侯爵領の兵士は侯爵の私兵ではなく、歴としたケフェウス帝国の兵士だ。

 給料は帝国から支給されていて、月給は人間でも、亜人でも金貨二枚のはずだ。

 ということは……、


「確かめたいことがあるから、僕に付いて来て」

『へい』


 クロノは駆け足で街の中心部、エラキス侯爵邸に向かった。

 門番に咎められることなく、クロノと副官はエラキス侯爵邸の門を通り抜けた。

 エラキス侯爵邸は自然石で造られた城と四つの塔から成り立っている。

 中央の城はイギリスのカントリーハウスに近い四階建ての建物だ。

 ここに経理を担当している部署がある。

 クロノは扉を開け、経理担当官の元へ突き進む。


「おお、誰かと思えば」

「……」


 クロノは腰を浮かせた経理担当官を無言でぶん殴った。

 机の上に置かれた書類が崩れ、経理担当官はイスから無様に転倒する。


「な、なにを?」

「……」


 更に、クロノは経理担当者の鳩尾を無言で蹴り上げ、吐瀉物を撒き散らす彼を無言で見下ろした。

 胃の中身を全てぶち撒けた経理担当官は明らかに怯えた様子でクロノを見上げた。


「……出せ」

「な、なんのことやら」

「おい、この手が見えるか?」


 クロノは震える手を経理担当者に示し、


「何故、この手が震えているのか分からないのかっ? 私は怒っているんだ! この手が震えるほど怒り狂っているんだ! お前の鶏ガラのように痩せた首を絞めたくて、それを自制するのに必死なんだ! だから、出せ! この反逆者が!」


 散乱する書類を蹴りながら喚くと、経理担当者は悲鳴を上げ、机の引き出しから紙の束を取り出した。

 ぶるぶると震える手で差し出された紙の束を受け取り、クロノは内容を流し読みした。


「だから、私は怒っていると言っただろう!」


 クロノは経理担当者の股間を蹴り上げた。


「いいか? お前の鳥頭にも分かるように言ってやる。もう一冊の帳簿を出せ!」


 血の混じった小便を垂れ流しながら、経理担当者は鍵の掛かった引き出しから紙の束を取り出した。


「わた、私は侯爵の命令で」

「公金の横領は死刑だ」


 短く呟き、クロノは経理担当者から紙の束を奪い、先ほどの紙の束と見比べる。

 紙の束は帳簿……二重帳簿というやつだ。

 どうやら、本当に公金の横領をしていたらしい。


「こいつを拘束して」

『へい……って、大将? 一体、何がどうなってるんで?』

「要するに、エラキス侯爵は君達の給料を誤魔化してたってことだよ」


 副官に腕を捻り上げられ、経理担当者は死刑を待つ罪人のように項垂れた。


「騒がしいと思ったら、何をしているんだ?」

「やあ、ティリア。アルゴ王国の方は良いの?」

「質問を質問で返すな」


 クロノが問いかけると、ティリアは豊かな胸を強調するように腕を組んだ。


「神聖アルゴ王国の方は問題ない。複数の情報筋によれば、先日の一件で第一王位継承者が重傷を負い、今は王位継承権の問題で派閥争いの真っ最中だそうだ。クロノの予想通りになったな。で、お前は?」

「僕は横領の証拠を掴んだ所だよ」


 クロノから帳簿を受け取り、ティリアはざっと流し読みする。


「お手柄だな、クロノ」

「褒美は後で良いから、すぐにでも対処して欲しいな」

「ああ、もちろんだ」


 にやりとティリアは笑い、部屋から出て行った。



 ティリアの行動は早かった。

 まるで最初から横領に気付いていたかのような手際の良さでエラキス侯爵とその家族、横領に関わっていた部下、使用人を拘束し、帝都に送ったのだ。

 おまけに後任を決めるまでティリアの家臣団に代理統治させる徹底ぶりだ。

 クロノとしてはエラキス侯爵の後任がまともな人物であることを祈るばかりである。



 翌日、


「……ふぅ」


 薄汚れた病院の天井を見上げ、クロノは暗澹たる気分で溜息を吐いた。


「……起きて、部下の様子を見に行かないと」


 ベッドから下り、クロノは素早く軍服に着替えた。


『おはようございやす、大将』

「ああ、おはよう」


 病室から出て、クロノは副官と挨拶を交わした。


『大将、報告したいことがあるんですが?』

「何かあったの?」

『あ~、その、非常に言いにくいことなんすけどね』


 クロノが聞き返すと、副官は珍しく言い淀んだ。


『ついさっき、レイラが軍を辞めると言い出したんでさ』

「へ? どういうこと?」


 言葉の意味が分からず、クロノは声を裏返らせた。


『何でも……私はクロノ様の誇りになれるような女じゃないとか。意味が分かりやすか?』


 副官の言葉に、クロノは頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。

 昨日のレイラに告げた言葉はクロノの本心だった。

 あれが本心でなかったら、クロノの人生に本物と呼べるものは何一つないだろう。


「あ、あれか? え~っと……とにかく、引き留めるぞ!」

『もう、あいつは市民権を取得してやすから「そんなこと、構うもんか!」』


 クロノが悲鳴じみた声を上げると、副官は気圧されたように上体を反らした。


『そう言うと思いやして、下で拘束しておりやす』

「ぐっじょぶ!」


 クロノは親指を立て、階段を転がり落ちるようにレイラの元に走った。

 大勢の亜人に囲まれ、レイラはホールの中央に佇んでいた。

 着古した服と鞄一つ、それだけがレイラの財産だった。


「……レイラ」

「クロノ様」


 クロノが名前を呼ぶと、レイラは驚いたように目を見開いた。


「どうして、いきなり、軍を辞めるなんて」

「市民権を得るために軍に所属していたから、です。市民権さえ手に入れれば、ここにいる意味はありません」


 レイラは能面のような無表情で、音の羅列のような台詞を口にした。


「だったら、どうして……私は誇りになれるような女じゃないって」

「誰から、それを」


 副官から聞いたと気づいたのだろう。

 レイラは階段の近くに佇む副官を睨み付けた。


「理由を教えて欲しいんだ。そうじゃないと、納得できない」

「そのままの意味です。私は……帝都のスラムで生まれました。売春婦だったエルフの母親と、客の間に生まれた子どもです。軍に入隊するまで、何度も、乱暴されて……ここに配属されてから、エラキス侯爵に。そんな私が、薄汚いハーフエルフの私が、貴方の誇りになれるわけがないじゃありませんか」


 レイラは悲しげに微笑んだ。

 あまりにも過酷な……その過酷さすら、日本で生まれ育ち、この世界の貴族に養子として迎えられたクロノは想像することしかできないが……人生でレイラは様々なものを諦めてきたのだろう。

 ハーフエルフだから、娼婦の娘だから、何度も乱暴されてしまったから、とレイラは苦しいことがあるたびに自分を納得させてきたに違いない。

 だから、今度もレイラは諦めようとしたのだ。クロノが彼女の過去を知り、不幸な結末を迎える前に。

 クロノは何も言えなかった。何か言わなきゃいけない、そうしなければ、レイラを引き留めることなんてできないと分かっているのに。

 クロノの思考は空転したまま、レイラはゆっくりと歩き出した。

 そして、


「……さよなら、クロノ様」

「……っ!」


 クロノは反射的にレイラの手首を掴んでいた。


「離して下さい、離して!」


 レイラが叫んでも、クロノは手を離さなかった。


「貴方が言ってくれた言葉は嬉しかった。けれど、貴方といると、惨めな気分になるんです。生まれも、育ちも違いすぎる。そんな貴方に私の何が分かるというんですか! 何の根拠もなく、優しくされても辛いだけなんです!」

「……だ」


 レイラに一方的に捲し立てられ、クロノは小さく呟いた。


「え?」

「……世界人権宣言だ」


 クロノは半ばパニックに陥りながら、中学校で教わった内容を必死に思い起こした。


「えっと、全ての人間は生まれながらに自由で……尊厳と権利について平等である、だったかな?」

「セカイジンケンセンゲンなんて、聞いたことがありません」


 レイラが困惑したように呟き、クロノは今度こそパニックに陥った。


「信じてくれないかも知れないけど、僕は別の世界から来たんだ」

「嘘を吐かれるんですか?」

「そうじゃない! 僕は本当に別の世界から来たんだ! 元の世界じゃ、貴族とか、平民とか……そういうのがなくて、僕は相手が誰であっても差別しちゃいけないとか、殴っちゃいけないとか、そういう風に教えられて育ったんだ。だから、だから……」


 クロノは必死に言葉を紡いだが、同時に途方もない無力感を覚えた。

 別の世界から来たとか、荒唐無稽すぎる。

 こんな目に遭っていなければ、自分でも信じられない。

 馬鹿にされている、と思われても仕方がない。


「どうして、私のために……そんな嘘まで吐いて」

「まあ、異世界から来たなんて信じてくれなくても良いんだけど、君を引き留めようとする気持ちに嘘はない。それだけは信じて欲しいんだ」


 レイラは涙で潤んだ瞳でクロノを見つめていた。


「私は……にいても良いのでしょうか?」

「ここにいてよ」


 クロノは静かに頷いた。


「私はハーフエルフで、娼婦の娘で、何度も乱暴されたのに……それでも」

「それでもだよ。君がハーフエルフなのも、娼婦の娘として生まれたのも、君の責任じゃないし、そんなことで君の価値や人生が決まってたまるもんか。乱暴されたのだって、君は被害者であって……あ~、ごめん、うまく言えない」


 涙がレイラの頬を伝う。


「……クロノ様。少し、ほんの少しだけ気持ちを整理する時間を下さい。一晩、じっくり考えて、それからクロノ様の気持ちに答えたいんです」


 頬を紅潮させるレイラの姿に釈然としないものを感じながら、クロノは部下を引き留められたことに安堵の息を吐いた。



 その夜、エラキス侯爵邸の自室……クロノはベッドに横たわり、無為に時間を過ごしていた。


「……一晩、考えてか。さっきは安心しちゃったけど、軍に残ってくれるって決まったわけじゃないんだよね。でも、レイラが考えて答えを出したんなら、尊重しないと」


 クロノが独り言を呟いていると、ドアがノックされた。

 こんな時間に誰だろう? と首を傾げながら扉を開けると、レイラが俯き加減で立っていた。


「……あ、あのクロノ様」

「どうしたの、こんな時間に?」


 クロノが問い掛けると、レイラは何かに怯えるように肩を窄めた。


「もしかして、忍び込んだの?」

「……はい」


 カツーン、カツーンと足音が響いた。

 残念ながらティリアの家臣はクロノほど無分別ではない。

 侯爵邸に兵士であるレイラが忍び込んだと分かれば拘束した上で、尋問くらいはするはずだ。


「入って」

「は、はい!」


 レイラが部屋に入り、クロノは後ろ手に扉を閉めた。


「一晩、じっくり考えるって言ったのに」

「は、はい……あれから、私なりに考えたんです」


 レイラは意を決したようにクロノの胸に飛び込んだ。


「わ、私も! 私もクロノ様を愛して、愛しているのだと思います!」

「え?」


 クロノは反射的に聞き返していた。

 何だ?

 どんな流れで、こんな展開に?


「こんな時間に、ご迷惑でしたか?」

「い、いや、全然」


 どうすれば誤解が解けるんだろう? とクロノはレイラから離れ、ベッドに腰を下ろした。


「あの、クロノ様?」

「ああ、うん、適当に座って……っ!」


 もっと、拗れた! とクロノはベッドに座ったレイラを見つめた。

 レイラが不安そうにクロノを見つめている。

 なんて、卑怯な娘!

 そんな今にも泣きそうな顔で、しかも、子犬みたいに耳を垂れさせて!

 どれくらいベッドに座っていただろう。

 ふと肩が触れ合い、クロノは視線を動かした。

 そこに、潤んだ金色の瞳があった。

 金色の瞳に魅入られたように、クロノは動けなかった。


「あの、クロノ様……愛人の一人で構いませんから、貴方の傍にいさせて下さい。私の愛は……貴方だけのものです」

「……っ!」


 それがトドメだった。

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