クロの戦記ifその6「神官さん・エンド」
帝国暦四五四年二月上旬夕方――。
突き上げるような衝撃で神官さんは目を覚ました。
視線を巡らせると、そこは箱馬車の中だった。
対面の席にはここ二十年ばかり世話係を務めているエルフの女性――エルザの姿があった。
「エルザ――」
「お酒は駄目です!」
「即答か!」
エルザがぴしゃりと言い、神官さんは声を荒らげた。
「ちゅうか、いくらワシでもこのタイミングで酒なんぞ飲まんわい」
「信じません!」
「また即答か!」
エルザがやはりぴしゃりと言い、神官さんは再び声を荒らげた。
小さく溜息を吐く。
「どうして、信じてくれんのじゃ? これでも、ワシはケフェウス帝国と神聖アルゴ王国――二つの漆黒神殿を束ねる大神官なんじゃぞ?」
「私は二十年ほど神官さんの世話係を務めておりますが……」
エルザはそこで言葉を句切った。
眼鏡を掛けていれば指でフレームを押し上げていたことだろう。
「務めておりますが? 何じゃ?」
「その二十年で神官さんを信じてはいけないと学びました」
「辛辣!」
神官さんは思わず叫んだ。
「ちゅうか、ワシを信じておらんのにどうして二十年も世話係をしておるんじゃ?」
「……」
理由を尋ねるが、エルザは無言だ。
無言で腕を組み、首を傾げている。
「気の迷いですね。クロノ様にお声掛けを頂いた時――」
「聞きとうない、聞きとうない」
「神官さんを守れるのは自分しかいないと思ってしまったんです」
「聞きとうないって言っとるじゃろ!」
「一生の不覚でした。かと言ってエルフの私に再就職など望むべくもなく……」
「お主、ひょっとしてワシのこと嫌いなんか?」
「聞きたいですか?」
「聞きとうないです」
エルザに問い返され、思わず丁寧な言葉遣いで答える。
またそんなこと言って、本当はワシのこと好きなんじゃろ? という思いはある。
だが、だがしかし、万が一にも嫌いと言われたらそのダメージは計り知れない。
一生涯――不老不死なので、永遠に引き摺ることになる。
そんなのはご免だ。
「それで、クロノの屋敷はまだなんか?」
「……もうすぐそこですよ」
エルザがやや間を置いて答えた直後、箱馬車が大きく揺れた。
横目で窓の外を見ると、門を通り過ぎる所だった。
しばらくして箱馬車が動きを止める。
「お主も行くか?」
「やめておきます」
「そうか」
神官さんは小さく頷き、箱馬車を降りた。
箱馬車の外には手入れの行き届いた庭園が広がっていた。
古いが、これまた手入れの行き届いた館に歩み寄り、玄関の扉を叩く。
間を置かず扉が開く。
扉を開けたのはメイド服に身を包んだレイラだった。
「クロノ様ですね?」
「うむ……」
「どうぞ、こちらへ」
レイラに先導され、神官さんはクロノの部屋に向かう。
階段を上り、廊下を通り、ある扉の前で立ち止まる。
「どうぞ」
「うむ……」
レイラが手の平で扉を指し示し、神官さんは扉を開けた。
風が頬を撫でる。
顔を上げると、窓が開け放たれていた。
この時期の風は体に悪かろうに。
そんなことを考えながらベッドに歩み寄り、イスに腰を下ろす。
当然というべきか、クロノはベッドに横たわっていた。
「神官さん……」
「何じゃ、起きとったんか」
「ええ、まあ……」
クロノが体を起こそうとして激しく咳き込む。
「起きんでええ、起きんでええ」
「すみませんね」
神官さんはイスから立ち上がり、クロノをベッドに横たわらせた。
「神官さんは変わりませんね」
「……お主もな」
神官さんはやや間を置いて言った。
もちろん、嘘だ。
クロノは見る影もなく衰えてしまっている。
恐らく、一週間と保つまい。
要するに半死人だ。
だが、どうしてだろう。
死を待つだけのはずなのにクロノは過去のどんな時よりも猛々しく、威厳に満ちている。
神人である自分が気圧されてしまいそうなほどに。
「わざわざ神官さんが来たということは……」
「まあ、そういうことじゃな」
神官さんはイスに座り直し、脚を組んだ。
さらに太股を支えに頬杖を突く。
「……ワシと一緒に生きてみんか?」
「やめておきます」
「やはり、フラれたか」
神官さんは小さく微笑み、立ち上がった。
「もう帰るんですか?」
「うむ、長居をするとお主の意思を無視してしまいそうなのでな」
扉に向かって歩き出す。
「神官さん?」
「何じゃ?」
名前を呼ばれ、振り返る。
「また……」
「うむ、また」
神官さんは鷹揚に頷き、踵を返した。
※
帝国暦九五九年五月上旬昼――。
「――という訳でクロノのヤツはワシと一緒に生きたいと言ったんじゃが、ワシはヤツの美しい生き方を汚したくなくて突き放したんじゃ。かーッ、モテるって辛いの!」
神官さんはコーヒーカップを片手にバシバシと太股を叩いた。
ちなみに神官さんがいるのはシルバニア市にあるカフェテラスだ。
イグニスとアクアが同席している。
「まあ! そんなことが――」
「アクア、本気にするな」
イグニスはアクアの言葉を遮り、コーヒーカップを口に運んだ。
ミルクも砂糖も入れていないのに顔色一つ変えない。
実にクールだ。
「何じゃ? ワシの思い出話に文句があるのか?」
「どうせ、フラれたんだろ? 見栄を張るな」
「辛辣! 生まれ変わっても辛辣ッ!」
「……」
神官さんは思わず声を張り上げるが、イグニスは無言だ。
無言でコーヒーカップをテーブルに置く。
「生まれ変わりという言葉を使うな。俺まで電波を受信していると思われる」
「ますます辛辣……」
神官さんはコーヒーカップを口に運んだ。
ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーだ。
思わず口元が綻んでしまう。
「子どもか」
「コーヒーくらい好きに飲ませてくれんかの」
神官さんはコーヒーカップを置き、ふふっと笑った。
あれから五百年余り、シルバニアに、いや、この国にかつての面影はない。
それでも、愛しいと思うのはクロノの存在を感じ取れるからだろう。




