クロの戦記ifその3「エレナ・エンド」
帝国暦四三四年二月末――クロノが船室でうとうとしていると、トントンという音が響いた。
最初は何の音か分からなかった。
だが、すぐに扉を叩く音だと気付く。
ベッドから飛び起き、扉に向かう。
扉を開けると、ケインが立っていた。
「悪ぃ、起こしちまったみてぇだな」
「ちょっとうとうとしてただけだから。ところで、何の用?」
「シルバニアにそろそろ着きそうだったからよ。起こしに来たんだ」
「もう着くんだ」
「まあ、海路だからな。陸路じゃこうはいかねぇと思うぜ?」
「そうだね」
ケインが頭を掻きながら言い、クロノは頷いた。
内乱が終わって二週間余りが経つ。
新政権を樹立することはできたが、帝国の治安は麻の如く乱れている。
そんな状況で領地に戻るのは自分でもどうかと思うが、一度領地に戻っておきたかったのだ。
ガクンと船が揺れる。
着いたようだ。
クロノがマントを手に取ると、ケインが道を譲るように脇に退いた。
マントを羽織り、歩き出す。
階段を登って甲板に出ると、船は桟橋に着けられていた。
岸壁に視線を向けると、大勢の人々が立っていた。
最前列に見知った顔を見つけ、目を見開く。
これは――。
「行かねーのか?」
「行くよ。行くけど……」
ケインの問いかけられ、クロノは口籠もった。
いや、別の可能性もある。
クロノが板を通って桟橋に下りると、ケインが後に続く。
意を決して足を踏み出す。
桟橋を半ばほどまで進んだ所でエレナが足を踏み出した。
もう半分進んだ所で立ち止まる。
もちろん、エレナもだ。
「お帰りなさい。もう帰って来ないかと思ったわ」
「考えすぎだよ。ところで――」
クロノは言葉を句切り、咳払いをした。
「太った?」
「違うわ」
ふん、とエレナは鼻を鳴らした。
沈黙が舞い降りる。
気まずい沈黙だ。
少なくともクロノにとっては。
風が吹き、エレナが口を開いた。
「孕んだの」
「一回しかしてないんだけど……」
「一晩の間違いでしょ?」
「たった一晩でスナイプ決めるなんて驚異の命中率だよ」
「言葉の意味はよく分からないけど、とにかく失礼なことを言ってるのは分かったわ」
クロノが溜息交じりに言うと、エレナはムッとしたように返してきた。
「それで、責任は取ってくれるのよね?」
「はい、取ります」
「よかった。でも、あたしはもう奴隷じゃないし、じっくりと、腰を据えて、グラフィアス家を取り戻してくれればいいわ」
「はい」
どうやってグラフィアス家を取り返せばいいのか考えていると、くくっという音が響いた。
いや、音ではない。
ケインの笑い声だ。
肩越しに視線を向ける。
すると、ケインは笑うのを止めて足を踏み出した。
クロノの隣に立って肩を叩く。
「よかったじゃねーか。子どもが――所帯を持てるってのは幸せなことだぜ」
「他人事だと思って」
「ま、他人事だからな」
ケインが軽く肩を竦めた次の瞬間、港に立っていた人々が左右に割れた。
その先にいたのはエレインとシアナだ。
エレインはゆったりとした衣装を身に着けている。
ゆっくりとこちらに近づいてくる。
クロノとエレナが道を譲ると、エレインはケインに歩み寄って立ち止まった。
「よ、よう、久しぶり」
「そうね。便りの一つも寄越さないから死んだのかと思ったわ」
「格好つけて出て行った手前、覚悟はしてたんだが……」
ケインは口籠もり、チラチラとエレインの腹部に視線を向ける。
「太ったか?」
「分かって聞いてる?」
「いや、俺の子だよな」
「ええ、たった一回だったけど驚異の命中率ね」
ほ~ん、とクロノは声を上げた。
上には上がいるものだ。
「そうか、俺の子か」
「一応、報告をしておこうと思って」
そうか、とケインは相槌を打った。
「まさか、俺が親になるなんてな」
「私もそうよ。まさか、子どもを授かることができるなんて思わなかったわ」
そう言って、エレインは優しくお腹を撫でた。
その表情は微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。
「私は生むつもり。貴方は?」
「あ、うん、まあ、父親をさせてもらえるんならさせてもらいてーなって思ってる」
「回りくどい言い方ね」
「『私は生むつもり』って言ってる女に何て言やいいんだよ」
「責任を取るって言えばいいじゃない」
「そりゃ俺も責任は取りてーけど、能力を上回ることを要求されても応えられねーし」
ケインは気まずそうに頭を掻いた。
「とりあえず、俺がどう責任を取るかについて話し合わねーか?」
「私達の間違いでしょ?」
「まあ、そうだな」
ケインが軽く肩を竦めて歩き出すと、エレインも歩き出した。
彼の腕に自身のそれを絡める。
「あたし達も行きましょ?」
「責任云々の話し合いをするために?」
「それはまた今度でいいわ」
ふん、とエレナはクロノの手を掴んで歩き出した。しばらくして――。
「お帰りなさい」
「うん、ただいま」
エレナがぽつりと呟き、クロノは小さく微笑んだ。




