第20話『風』
帝国暦四五四年二月上旬夕方クロフォード男爵領――。
クロノは風の音で目を覚ました。
体を起こし、手で口元を覆って軽く咳き込む。
しばらくして咳が止んだ。
手の平を見ると、少量の血が手の平に付いていた。
驚きはない。何回も、それこそ数え切れないほど繰り返せば慣れてしまう。
切っ掛けは二十年前――レオンハルトとの戦いだったように思う。
最初は軽く咳き込む程度だった。
症状は徐々に重くなり、それに伴って体力も低下した。
療養に専念しなかったのも悪かったのだろう。
でも、とクロノは天井を見上げた。
あれから色々あったのだ。
自由都市国家群の資金援助を受けた貴族があちこちで反乱を起こした。
部下は頑張ってくれたが、クロノが出向かなければならないことも多々あったのだ。
もちろん、戦ってばかりだった訳ではない。
大型帆船を作り、外洋に乗り出した。
実際に乗り出したのは部下だが、新大陸を発見して遂にジャガイモを手にしたのだ。
クロノは小躍りして喜んだが、部下の反応は今一つだった。
栽培を奨励した時も文句を言われた。
自身と他人の評価が一致しないことにへこむこともあったが、とにかく頑張った。
皇位も問題なく子どもに譲れたし、やれることはやったという思いがある。
その時、トントンという音が響いた。
扉を叩く音だ。
「どうぞ」
声を張り上げたつもりだったが、喘鳴交じりの弱々しいものになってしまった。
静かに扉が開く。扉を開けたのはメイド服に身を包んだレイラだ。
エルフの血を引いているせいだろう。
彼女は出会った時と変わらない。
少し色っぽくなっただろうか。
「失礼いたします」
レイラは静かにベッドに歩み寄るとクロノの手首に触れた。
手の平を上に向けると、困ったように眉根を寄せた。
ハンカチを取り出してそっと血を拭う。
「クロノ様、お加減は如何ですか?」
「調子はいいよ」
「そうですか」
レイラは少しだけ安心したように微笑んだ。
嘘ではない。いつもに比べれば調子がいい。
「窓を開けてくれないかな? 外の空気を吸いたいんだ」
「承知しました」
レイラは小さく頷き、窓に向かった。
「レイラ?」
「何でしょう?」
声を掛けると、レイラは振り返った。
「笑ってくれないかな?」
「こう、ですか?」
そう言って、レイラは微笑んだ。思わずハッとさせられる美しい微笑みだった。
よかった、と胸を撫で下ろす。
「今、幸せ?」
「はい、とても幸せです」
「ありがとう」
はい、とレイラは静かに頷き、クロノに背を向けて歩き出した。
窓の前で立ち止まり、窓を開ける。
風が吹き込んできた。
冷たく、凍てついた風だ。
だが、それが心地よくてクロノは目を細めた。
「もういいのかい?」
懐かしい声が耳朶を打った。
軽く目を見開く。
そういうことか、と笑う。
最期にレイラの――最高の笑顔を見ることができた。
「……うん、もういいよ。僕は満足だ」
静かに目を閉じる。
そして――。
※
クロノ・クロフォード=ケフェウス、帝国暦四五四年二月上旬没




