幕間:アストレア
帝国暦四三四年八月上旬ユスティア城――アストレアは窓の外を見つめた。
庭園の木は青々とした葉を茂らせている。
夏だからだろうか。
記憶にあるそれよりも葉が多いように感じられる。
あくまでそのように感じられるだけだ。
錯覚の可能性もゼロではない。
記憶を漁り、あることに気付く。
最近、庭師を見ない。
以前はかなりの頻度でやって来たものだが、何かあったのだろうか。
誰かに聞くべきかと考え、すぐに思い直す。
わざわざ聞くことではないし、知ってどうにかする訳でもない。
そもそも、庭園に興味がない。
いや、庭園だけではない。
あらゆることに興味がない。
もう自分は役割を果たしたのだ。
そんなことを考えていると、トントンという音が響いた。
扉を叩く音だ。
無視して窓の外を眺めていると、ガチャという音が響いた。
扉が開く音だ。
入室の許可は出していない。
にもかかわらず入室するなど有り得ない。
ほんの少しだけイラッとして扉の方を見る。
すると、男が立っていた。
髪の白い、筋骨隆々とした男だ。
酒瓶とグラスを二つ持っている。
はて、誰だっただろうか。
内心首を傾げていると、男が口を開いた。
「おいおい、俺の顔を忘れちまったのか?」
「……ああ」
やや間を置いてアストレアは声を上げた。
思い出した。クロード・クロフォードだ。
内乱の時に何度も顔を合わせた。
髪の毛こそ白くなっているが、ふてぶてしい態度は昔と変わらない。
クロードはアストレアに歩み寄り、ベッドの近くにあったイスに腰を下ろした。
座っていいとは言っていない。
イラッとする。
「失礼するぜ」
そう言って、サイドテーブルに片方のグラスを置き、手酌で酒を飲み始めた。
何故、酒を飲んでいるのか問い質したかったが、ぐっと堪える。
この男のペースに乗せられたくない。
そう言えば――。
「エルアは元気かしら?」
「エルアは死んだ。もう八年も前のことになる」
「ああ、そう、残念ね」
クロードが陰鬱そうに言い、アストレアは小さく頷いた。
「随分、あっさりと言いやがるな。仮にもお前の護衛騎士だったんだぜ」
「ええ、だから、残念と言ったのよ。私は彼女の死を悼んでいるわ」
もちろん、残念だとは思っていない。
護衛騎士を務めていた頃ならばいざ知らず、エルアはクロードのもとに嫁いだのだ。
もう関係ない人間だ。
「エルアが死んだことはアルコル経由で伝えたんだけどな」
「八年も前のことなんて覚えてないわ」
「薄情な女だな。この分だとラマルが死んだことも忘れてるんじゃねぇか?」
「そんな訳ないでしょう」
ほ~ん、とクロードは小馬鹿にするように声を上げた。
ラマル五世が死んだことは知っている。
葬儀には関わらなかったが、アルコルやファーナが上手くやっただろう。
「じゃ、内乱が起きたことは知っているか?」
「内乱?」
「ああ、お前の娘と腹違いの弟がやりあったんだよ」
アストレアが鸚鵡返しに呟くと、クロードは呆れたように言った。
「何が原因だったの?」
「おいおい、本気で言ってるのかよ。まあ、いい。教えてやる。ラマルのヤツが死んで、お前の娘は皇位を奪われてエラキス侯爵領に放逐されたんだよ」
「何ですって!?」
「へぇ、お前にも母親の情ってヤツがあったんだな」
「あの子は皇位を継がせるために産んだのよ!? それなのに皇位を継げなかったんじゃ産んだ意味がないじゃない!」
「……」
アストレアは声を荒らげたが、クロードは無言だ。
無言で顔を顰めている。
何故、顔を顰めているのだろう。
物心付いた頃から次の皇帝を産むことを期待されていた。
娘が皇位を継げなかったと知って驚くのは当然ではないか。
「まあ、安心しろ。お前の娘は皇位を継いださ。もう少ししたら禅譲するみてぇだが」
「皇位を継げたのならいいわ」
「次の皇帝が誰か気にならねぇのか?」
「どうでもいいわ」
本当のことだ。
アストレアは次の皇帝を産む役割を果たした。
娘が皇位に就いたのならばあとはどうでもいい。
「ちなみに次の皇帝は俺とエルアの息子だ」
「あら、そうなの。おめでとう」
「だから、ここで酒を飲んでるって訳だ」
クロードはグラスを呷り、サイドテーブルに手を伸ばした。
グラスを手に取り、こちらに差し出す。
一緒に酒を飲みたいということだろうか。
真っ平ご免だ。
だが、一緒に酒を飲まなければ居座るに違いない。
仕方がない。
一口だけ飲んでさっさと帰ってもらおう。
アストレアがグラスを手に取ると、クロードは酒を注いだ。
「帝国の未来に」
「乾杯」
アストレアはグラスを口元に運んだ。
口に含むが、味を感じなかった。
違和感を覚えながら飲み下し――。
「かはッ!」
アストレアは強烈な痛みに襲われ、グラスを取り落とした。
痛い。喉が焼ける。
脂汗を流しながら激しく噎せ返る。
クロードを睨み付ける。
「毒を――」
「俺はよ、お前がエルアの死を悼んでくれりゃ許すつもりだったんだぜ」
そう言って、クロードは立ち上がった。
不意に彼がエルフを飼っていたことを思い出す。
名前は覚えていない。
だが、そのエルフが無音暗殺術なる二つ名を持っていたことは思い出せた。
「何故、毒を……」
「本当に分からねぇのか?」
「分からない、わ」
アストレアは息も絶え絶えに応えた。
吐息が異臭を放っている。
針で刺されているかのように目が痛む。
とても目を開けていられない。
「エルアを嫁に寄越しただろ?」
「ええ、貴方のもとに嫁ぐように命令したわ。それがどうかしたの?」
「エルアが子どもを産めないって知っててやったのか?」
「だから、それがどうしたのよ!?」
アストレアは声を荒らげた。
確かにエルアが子どもを産めない体だと知っていた。
独身を貫くつもりだったこともだ。
それを――。
「結婚させてやったのよ!? 感謝されこそすれ、毒を盛られる覚えはないわッ!」
「ああ、なんだ、お前はそういうヤツか」
クロードはくだらないものでも見るような視線を向けてきた。
「話が通じそうにねぇから俺も勝手に話すけどよ。エルアは最期に泣いてたんだよ。貴方の子どもを産めなくてごめんなさいって」
「そんなの私に関係ないわ」
「ああ、お前の中じゃ関係ねぇんだろうな。けどよ、俺にゃ関係あるんだよ。てめぇは俺の女を泣かせた。死ぬ理由としちゃ十分だろ?」
「ふざけないで!」
アストレアは叫んだ。
エルアを泣かせた?
死ぬ理由に十分?
馬鹿なことを言うな。
そんな理由で殺されてたまるか。
自分は皇后なのだ。
それなのに、どうして傭兵如きに殺されなければいけないのか。
理不尽だ。
ふざけている。
認められる訳がない。
「解毒剤を寄越しなさい!」
「解毒剤?」
「とぼけないで! 貴方もお酒を飲んだんだから持ってるんでしょ!?」
「ああ、持ってるぜ」
クロードはポケットから小さな小瓶を取り出した。
「寄越しなさい!」
「おっと」
アストレアは手を伸ばしたが、クロードは後退って躱した。
さらに手を伸ばし、ベッドから転がり落ちる。
強かに床に叩き付けられて呻く。
あまりの痛みに涙が滲む。
どうして、自分がこんな目に遭わなければいけないのか。
クロードはそんなアストレアを見下ろし、小瓶の蓋を開けて呷った。
ああ! とアストレアは叫んだ。
なくなる。
なくなってしまう。
解毒剤がなくなってしまう。
不意にクロードが動きを止める。
小瓶を口から離し、アストレアの目の前で揺らす。
水音が響く。
よかった。
解毒剤はまだ残っている。
「早くそれを――」
「そらよ!」
クロードは小瓶の蓋を閉めて外に放った。
ああ! とアストレアは再び声を上げた。
なんて男だろう。
毒を盛ったばかりか、解毒剤を捨てるなんて。
早く拾いに行かなければ。
ああ、でも、クロードがいる。
この男をどうにかしなければ拾いに行けない。
絶望だ。
アストレアは力なく項垂れた。
直後、ガチャンという音が響いた。
音のした方を見ると、鞘に収められた短剣が落ちていた。
何のつもりだろう。
顔を上げると、クロードがこちらを見下ろしていた。
「この毒は即効性じゃねぇ」
「この短剣は何?」
「どちらかと言うと長く苦しませるためのもんだ」
「この短剣は何かと聞いているのよッ!」
アストレアが叫ぶと、クロードはうんざりしたように溜息を吐いた。
「自害しろ。そうすりゃ、長く苦しまずに済む」
「……」
アストレアは無言で短剣に手を伸ばした。
短剣を手に取り、鞘から引き抜く。
刃が露わになる。
鏡のようにアストレアを映し出している。
「なんなら介錯してやっても――」
「お前が死ねぇぇぇッ!」
アストレアは立ち上がり、体当たりするように短剣をクロードに突き立てた。
クロードの顔が苦痛に歪む。
まだ生きてる。
短剣を引き抜き――。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇぇッ!」
何度も、何度も突き立てる。
クロードの体がぐらりと傾き、アストレアは短剣を投げ捨てた。
そのまま部屋から飛び出す。
助けを求めて視線を巡らせる。
だが、廊下には誰もいなかった。
胃が、食道が熱い。
毒が回っているのだ。
早く解毒剤を取りに行かなければ。
アストレアは駆け出した。
生まれて初めての全力疾走に体が悲鳴を上げる。
足がもつれ、その場に座り込みそうになる。
しかし、必死で足を動かす。
庭園に行き、解毒剤を飲まなければ死んでしまう。
それにしても廊下が長い。
誰だ、こんなに長い廊下を作ったのは。
だが、あと少しだ。
あと少しで曲がり角だ。
そこを曲がれば階段がある。
廊下の角を曲がる。
すると、メイドと擦れ違った。
丁度よかった。
庭園に行き、小瓶を探しなさい。
そう命令しようと、歩調を緩め、肩越しに背後を見る。
その時、怪異が起きた。
天地が逆転したのだ。
何故? と思ったが、それ以上に気になったことがあった。
「貴方――」
何処かで会ったことない? と問いかけるよりも速く生々しい音が響いた。
そして、アストレアの意識は闇に呑まれた。
※
クロードがアストレアの寝室で跪いていると、扉が開いた。
扉を開けたのはメイド――マイラだ。
マイラはクロードに歩み寄り――。
「いつまでそうしているつもりですか?」
「おいおい、俺は刺されたんだぜ。もっと優しくしてくれてもいいだろ?」
ふぅ、とマイラは溜息を吐き、短剣を拾い上げた。
切っ先を手の平に当てて押し込む。
だが、血は一滴も流れない。
マイラは同じ動作を繰り返すが、結果は同じだ。
当然か。あの短剣は刀身が中に引っ込むようにできているのだから。
「さっさと立って下さい」
「分かったよ」
もっと労れよ、と内心ぼやきながら立ち上がる。
そういえば――。
「アストレアはどうなった?」
「階段を踏み外して首の骨を……」
マイラはクロードから顔を背けながら言った。
「痛ましい事故でした。奥様の心中を思うと胸が張り裂けそうです」
「いや、お前が殺したんだろ」
「証拠もないのにそんなことを仰らないで下さい」
「階段を踏み外して、どうやって首の骨を折るんだよ」
「そういうこともあるのではないかと」
「ねぇよ」
クロードはぼりぼりと頭を掻いた。
「ところで、復讐を遂げられた気分は如何ですか?」
「お前が殺した後で――」
「痛ましい事故と申し上げたはずですが?」
「はいはい、分かったよ。あれは事故だよ」
「ご理解頂けて恐縮です。もし、ご理解頂けなければ小一時間ほどアストレア様がどのようにして亡くなられたのか説明しなければならなくなる所でした」
クロードがうんざりした気分で言うと、マイラは満足そうに頷いた。
まったく、いい性格をしている。
もちろん、口にはしない。
私をこんな風にしたのは旦那様ですが? と言うに決まっているからだ。
「死んだ後で言うのもなんだが、死ななくてもよかったんじゃねぇかって思ってるよ」
「旦那様がお望みでしたら蘇生処置を行いますが?」
「別に生きてて欲しいとも思ってねぇよ」
「それはようございました。アストレア様はかなり派手に階段を踏み外されたので、蘇生処置を頼まれたら拒否権を発動する所でした」
「碌でもねぇな」
「悪党の末路などこんなものではないかと」
お前のことだよ、と突っ込みそうになる。
だが、何とか堪える。
「ったく、素直に謝りゃ許してやったのによ」
「なるほど、謝罪を要求したのに拒否されたということですか。それでは階段を踏み外して首の骨を折るのも仕方がないのではないかと」
「そう……」
そうだな、と言いかけて口を噤む。
そういえば謝罪を要求しただろうか。
「旦那様、謝罪を要求されなかったのですか?」
「忘れたかも知れねぇ」
「……旦那様」
「いや、でも、アストレアは嫌な女だったぜ。こっちの話は聞かねぇし、挙げ句の果てに結婚させてやったとか逆ギレするしよ。階段を踏み外しても仕方がねぇよ、あれは」
マイラに責めるような目で見られて慌てて言い訳をする。
「まあ、そういうことにしておきましょう。ところで、特製香茶は役に立ちましたか?」
「ああ、毒と勘違いしてくれたぜ」
「それはようございました。失敗作のレシピも取っておくものですね」
「でもよ、本当に大丈夫なのか?」
「と仰いますと?」
「本当に毒じゃねぇんだよな? さっきから汗が止まらねぇんだが……」
「もちろんです。まあ、トイレに行った時、大変なことになると思いますが」
「おい!」
「冗談です、冗談」
思わず声を荒らげる。
すると、マイラはくすくすと笑った。
何処まで本気で、何処まで冗談なのか全く分からない。
だが、アストレアを殺した。
人の命を奪った。
尻の痛みくらい我慢しようという気になる。
「じゃあ、帰るか」
「証拠を回収してからです」
「分かったよ」
クロードは深々と溜息を吐いた。
 




