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第1話『帝都』修正版


 目を覚ますと、そこは馬車の中だった。

 馬車といっても、領地を移動する時に使っている幌馬車や荷馬車ではなく、箱馬車の客室である。

 内装は長椅子が向かい合っているだけのシンプルな造りだが、荷物を積むスペースは十分ある。

 時折、突き上げるような衝撃が馬車を襲うが、それに慣れれば馬車の旅は意外に快適だった。

 何故、馬車に乗っているかと言えば、帝都にいるティリアから手紙が届いたからだ。

 流麗な筆致で書かれた文章はティリアの深い教養を窺わせる素晴らしい内容だったのだが、要約すると、『帝都で舞踏会をやるから早く来い! これは命令だ!』というものだった。

 クロノは慌てて荷物をまとめ、倉庫で埃を被っていた馬車を引っ張り出して、ハシェルを旅立ったのだった。

 途中、武装した盗賊に襲われたが、護衛を務める部下……フェイを隊長とする五人の騎兵と弓兵レイラ……は危なげなく立ち回り、死傷者を出すことなく盗賊を撃退した。

 いや、一人だけ死にそうな目にあった部下がいた。

 隊長を務めるフェイである。

 フェイは逃走する盗賊を一人で追い掛け、待ち伏せを食らったのである。

 最初から神威術を使っていれば結果は違っていたかも知れないが、フェイは盗賊に囲まれ、投石器で延々と石をぶつけられ、弱り切った所を馬から引きずり下ろされてしまったのである。

 ここでフェイの命運は尽きてもおかしくなかったのだが、四人の騎兵とレイラの活躍により無事に救出された。

 フェイが神威術を使って防御に徹していたお陰で、救出隊が駆けつけられたので、神の加護があったというべきかも知れない。


「クロノ様、起きて下さい」

「ん、もう着いたの?」


 レイラに声を掛けられ、クロノは体を起こした。


「よく眠れるわね、アン……っ!」


 突き上げるような衝撃が馬車を襲い、エレナは言い掛けていた嫌味を中断した。

 どうやら、舌を噛んでしまったらしい。


「よ、よく眠れるわね、アンタ」

「慣れじゃないかな」


 涙目で嫌味を言うエレナに、クロノは軽く答えた。

 クロノは窓から身を乗り出し、周囲の様子を確認した。

 周囲は見渡す限りの荒野、前方に帝都らしき灰色の塊が見える。


「……クロノ様、危ないであります」


 馬を馬車と並走させ、フェイは落ち込んだ様子でクロノに言った。

 どうやら、盗賊の一件で自信を失ってしまったらしい。


「私は……ダメな騎士であります」


 クロノはフェイの頭を撫でたが、彼女は払い除ける気力もないらしく、深々と溜息を吐いた。

 ふぅぅぅぅぅぅ、とフェイは長い溜息を吐いて、馬車の後方に下がっていった。

 クロノは馬車の中に戻り、座席に腰を下ろした。


「まだ、フェイ様は落ち込んでいるのですか?」

「もう少し立ち直るのに時間が掛かりそうだね」

「そんなに心配だったら、あんなに怒らなければ良かったじゃない」


 そう言って、エレナは非難がましい目でクロノを見つめた。


「いつもの失敗なら大目に見るんだけど、今回は死ぬ所だったからね」


 フェイは勢い余って失敗することが非常に多い。

 練兵場で組み手をすれば対戦相手をボコボコにしたり、街の警備に出掛ければ厳しく取り締まり過ぎたり、侯爵邸の夜間警備を任せれば……クロノが頑張りすぎたせいなのだが……寝所に踏み込んできたりするのである。


「気が付いてないかも知れないけど、アンタの怒り方って陰険よ」

「そんなことないでしょ、ねえ?」


 クロノが問い掛けると、レイラは注意して見なければ分からないくらい小さく頬を引き攣らせ、視線を逸らした。


「怒ってるんだったら激しく怒れば良いのに、こう、虫でも見るみたいな視線を向けながら、『どうして、一人で盗賊を追い掛けたの?』とか延々と聞き続けるのって、どうかと思うんだけど」

「締める所は締めておかないと、同じ失敗を繰り返されても困るし」

「アイツってさ、家を再興させたいんでしょ? だから、それで必要以上に気張ってるんじゃない?」

「よく知ってるね」

「それくらいの情報は入って来るのよ。」


 エレナは物憂げな表情を浮かべ、外の景色を眺めた。


「同情はするけどね」

「アンタって、割と酷いヤツよね」

「まあ、ね」


 右目の傷を撫で、クロノは苦笑した。


「な、何よ、いきなり笑い出して」

「思えば遠くに来たもんだと思ってね」


 クロノが口の端を吊り上げると、エレナは怯えたように座席の隅に身を寄せた。


「こ、こんな所でスる気じゃないわよね?」

「いや、そこまで非常識じゃないから」


 クロノが否定すると、エレナは安心したように胸を撫で下ろした。


「……エレナ、フェイを慰めてやってくれない?」

「どうして、そんなことをしなきゃならないのよ」


 エレナは不満そうに唇を尖らせた。


「舞踏会に一緒に行きたいって希望を叶えてあげたことと、ドレスを新調したことに対するお礼が済んでないから……体で支払ってくれるんなら、それはそれで構わないんだけどね」

「最高の笑顔で、ろくでもないことを言いやがるわね」


 エレナは思案するように腕を組み、


「……舞踏会が開かれるまで暇だから、話し相手くらいしてあげても良いわよ」

 仕方がないとでも言うように肩を竦めた。



 第四街区にあるクロフォード邸に向かう馬車の客室からクロノは新市街の街並みを眺めた。

 貴族や豪商が居を構える旧市街は計画的に造られたような整然とした街並みが広がっているのだが、比較的裕福な商工業者から貧民まで幅広い層が住む新市街はかなり雑然としている。

 新市街の建物は煉瓦造りの二階建てが多く、道は石畳で舗装こそされているものの、鋭角に交わっていたりするので、土地に合わせるように造られた建物や三角形の空き地が点在している。

 そんな新市街の中で異彩を放っているのがスラムと隣接する第十二街区だ。

 表通りは酒場や娼館が立ち並び、一定の秩序が保たれているが、裏通りは秩序のタガが緩んでいる。

 盗品市場、呪い薬店、殺し合いを見世物にした違法賭博場、銅貨数枚でドギツい変態行為に応じてくれる売春婦を揃えた売春宿……取り締まるべき兵士が客になってしまっているのだから始末に負えない。

 殺し合いを見世物にした賭博はルールを決めて、エンターテイメント化すれば儲かるんじゃないかな。

 そんなことをクロノが考えている間に、馬車はゆっくりとスピードを落とし、クロフォード邸の前で止まった。


「……ようやく着いた」


 クロノは溜息を吐き、自分で扉を開けて馬車を降りた。


「ここに来るのも久しぶりだね」


 クロノは高い塀で囲まれたクロフォード邸を見上げて呟いた。

 クロフォード邸は煉瓦造り四階建て、養父が必要以上に立派な厩舎を建てたせいで庭園はない。もっとも、門から玄関まで十メートル弱が前庭になっているので、クロノは全く気にしていないが。


「……父さんは着いてるかな? いてくれないと、今から宿を探す羽目になるんだけど」


 クロノが不安を口にすると、タイミングを見計らっていたように門が開き始めた。

 門の向こう側……クロフォード邸の前庭には初老の男性がエルフのメイドを従えて立っていた。

 男性……養父であるクロード・クロフォード男爵は今年で六十になる。

 身長はクロノよりも頭半分高く、筋肉質な体つきをしている。

 長年の苦労と加齢により髪は一本残らず、白くなっているが、しっかりと地面を踏み締める姿から弱々しさは全く感じられない。

 顔の輪郭は盾のように角張っていて、目付きは鼻や唇の印象を掻き消してしまうほど鋭い。

 凶悪とか、獰猛とか、そんな言葉がよく似合う顔立ちで、笑うと……まあ、頼もしい感じがする。

 エルフのメイド……マイラは多く見積もっても三十路に届かないくらいの外見だが、養父が傭兵として名が売れ始めた頃に買った奴隷で六十歳近い。

 絹糸のような金髪を結い上げ、どんな時でも冷静さを貫く姿はプロフェッショナルそのものだ。

 メイドの仕事だけではなく、経理、戦闘指揮、農作物の価格交渉までこなせるので、パーフェクトメイドだ。


「……クロノ、話は聞いた」


 養父は大股で歩み寄り、バシッ! とクロノの肩を叩いた。


「流石は俺の息子だ。お前は俺に似ず、死んだ妻にも似ず、全く秀でた所のない子だったが、ようやく才能を開花させたな。こちらの娘さんは……」


 養父は野太い笑みを浮かべ、


「分かっている、お前の愛人だな? ハーフエルフが一人に、人間が二人か……お前は女に興味がないとばかり思っていたが、流石は俺の息子だ。いつ死んでも良いようにガンガン子作りに励め! そうすればクロフォード男爵家は……いや、お前がエラキス侯爵になったから、いやいや、細かなことはどうでも良い! クロフォード家は安泰だ!」


 グハハハハッ! と養父は豪快に笑った。

 エレナは呆れたような視線を向け、レイラは不思議そうに首を傾げている。

 愛人の一人に数えられたフェイはそれどころではないのか、思い詰めたような顔をしている。


「部下を屋敷に泊めたいんだけど、良いかな?」

「分かり切ったことを聞くな」


 養父が視線を向けると、部下……レイラは小さく俯いた。


「早く荷物を運んで、長旅の疲れを癒して貰え。そこのハーフエルフの娘さんは……」

「わ、私は……少額でしたら、持ち合わせがあるので」

「クロノの部屋で良いか?」


 え? とレイラは驚いたように目を見開いた。


「いけません、旦那様」

「俺が許可してるんだから、良いだろ?」


 マイラは溜息を吐き、頭を振った。


「……坊ちゃまには三人も愛人がいるのですから、選ばれなかったお二方が不満を抱かれます」

「だったら、四人とも同じ部屋にしちまえば問題ねえだろ?」

「そのような器量を坊ちゃまに求めるのは間違いです」

「……ん、まあ、そうだな」


 マイラが言い切ると、養父は歯切れ悪そうに頷いた。


「部屋割りは任せたぜ」

「かしこまりました、旦那様」


 マイラは恭しく頷いた。



 エレナに宛がわれたのは三階の客室だった。護衛の騎兵にまで個室が宛がわれているので、エレナだけが特別扱いされている訳ではない。


「……殺風景な部屋」


 エレナはベッドに横たわり、素直な感想を口にした。

 家主の性格なのか、クロフォード家の歴史が浅いせいか、掃除はしっかりとされているものの、最低限の家具が備え付けられているだけで壺や絵画などの装飾品はない。


「そういえば、アイツって新貴族なのよね。似てない親子だけど、使用人の扱いが良いのは家風みたいなものなのかも」


 部下や使用人を大切にするのが当たり前という家風なら、クロノのような子どもが育つのも頷ける。

 もっとも、クロノは父親の教えを実感として理解するまでに至っていないようだが。

 その未熟さのお陰で舞踏会に参加できるのだから、感謝しなければならない。

 かなり特殊な交わり方をしているとはいえ、夜伽の回数をこなした分だけ、警戒心が緩んでしまうのは男の性なのだろう。


「フィリップ、あたしはアンタを許さない」


 奴隷商人の元……あの暗闇の中で、どれくらい彼の名前を呼んだだろう。

 フィリップが自分を陥れた一人だと気付きもせずに、彼が助けに来てくれると心の底から信じていたのだ。


「……フェイなんて無視しても良いんだけど」


 舞踏会は明後日……今更、親交を深めた所で何の意味もないと思うのだが、約束を破るのは不義理な気がした。

 長旅で疲れた体に鞭打ち、エレナはフェイに宛がわれた部屋に向かった。

 フェイの部屋は三階の中央、階段付近にある。

 エレナが扉をノックしても、反応はなかった。


「寝てる訳じゃないわよね」


 そっと扉を開け、エレナは部屋を覗き込んだ。


「……神様、神様、私はダメな騎士であります」


 すると、フェイが部屋の隅で膝を抱えていた。

 まあ、気持ちは分からなくもない。

 フェイにとって、剣の腕は最後の拠り所だったのだろう。


「……」


 ふらふらとベッドに歩み寄り、フェイは軍服を脱ぎ捨て……シンプルなデザインの下着も脱ぎ捨てた。

 鍛えているだけあって格好良いわね、とエレナはフェイの鍛え上げられた肉体を見つめた。

 フェイは鞄から取り出したネグリジェに身を包み、くんくんと二の腕の辺りで鼻をひくつかせた。


「夜伽に行くんなら、湯浴みしてからにしなさいよ」

「……っ!」


 エレナが突っ込むと、フェイは飛び退った。


「エレナ殿でありますか」


 フェイは驚いたように目を見開き、安心したように息を吐いた。


「ノックもなしに入ってくるとは感心しないであります」

「したけど、アンタが気付かなかったのよ」


 フェイは拗ねた子どものように唇を尖らせた。

 二十歳を超えてるはずなのにガキみたいなヤツね、とエレナはイスに腰を下ろした。


「で、アンタは何してるの?」

「……謝りに行こうとしていた所であります」

「その格好で?」

「こ、これは」


 エレナが指摘すると、フェイは恥ずかしそうに俯いた。


「あれだけの失敗やらかしたんだから、誠意は見せておかなきゃ不味いわよね」

「わ、分かって頂けて幸いであります」


 フェイは安堵したように胸を撫で下ろし、意気揚々と扉に向かった。


「『夜伽をするから許してくれ』なんて言っても、許してくれないだろうけど」

「……っ!」


 フェイは扉に手を伸ばしたまま、凍りついたように動きを止めた。


「ど、どうすれば許して頂けるでありますか?」

「普通に謝れば良いじゃない」

「く、クロノ様は許してくれなかったであります!」


 フェイはネグリジェが汚れるのも構わず、涙目でエレナの足に縋り付いた。


「だから、夜伽ね」


 エレナは腕を組み、何度も頷いた。

 エレナも復讐を手伝ってもらうために純潔を捧げようとしたのだが、自分のことは棚に上げておくべきだろう。


「夜伽ってのは、アンタが思ってるよりも大変なの」

「そ、そんなに大変なのでありますか?」

「少なくともアンタみたいな考えじゃ、務まらないわ」

「……私は騎士としても、女としても役に立てないダメ人間であります」


 そう言って、フェイは力なく頭を垂れた。


「父上、母上、フェイは……フェイはムリファイン家を立て直せそうに、ないで、あります。ふぐ、ふぐぅぅぅぅぅっ」

「ちょ、ちょっと、泣かないでよ」


 フェイが肩を震わせて泣き始めたので、エレナは慌てて声を掛けた。


「く、クロノ様にまで見捨てられたら、もう、お終いであり、お終いであります!」

「切羽詰まってるのね」


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣く姿は全く騎士らしくないし、二十歳を超えた女にも見えない。

 仕方なく、エレナはフェイを抱き締めてやった。


「もう、泣くんじゃないわよ。見捨てられたらって言うけど、クロノ様はアンタが思ってるほど簡単に部下を見捨てるような人じゃないの」

「ほ、本当でありますか?」


 フェイは顔を上げ、期待に瞳を輝かせた。

 こいつ、本当に子どもみたい。

 エレナはフェイの頭を撫で、安心させるように微笑んだ。


「ホントよ。あたしがここにいるのは……アンタを慰めて欲しいって頼まれたからよ」

「だったら……どうして、許して、くれないでありますか?」


 フェイに見つめられ、エレナは深々と溜息を吐いた。


「あのね、クロノ様はアンタが失敗したから怒ったんじゃなくて、アンタが手柄を立てるために盗賊を追い掛けて、仲間の命を危険に晒したから怒ったの。分かる?」


 フェイは小さく頷いた。


「く、クロノ様に謝ってくるであります!」

「ちょっと、着替えていきなさいよ!」


 フェイが部屋を飛び出し、エレナは慌てて後を追った。

 少し遅れてエレナがクロノの部屋にはいると、フェイはクロノを見つめていた。


「クロノ様、ようやく分かったであります」

「何が?」


 クロノが凍てついた視線を向けると、フェイは怖じ気づいたように身を竦ませた。


「……クロノ様が怒った理由であります。私はクロノ様が失敗したから怒ったのだとばかり思っていたであります」

「続けて」


 先を促され、フェイは続けた。


「今回は功名心に駆られて単独行動を取ってしまったのであります。せめて、連携を取るべきだったであります」


 それは言わなくて良いから! とエレナは心の中で叫んだ。


「まあ、そうだね」


 クロノは足を組み、


「いつもみたいな失敗だったら、別に構わないんだけど、人の命が掛かってるからね。次からは気をつけるように」

「はっ、気をつけるであります」


 フェイは背筋を伸ばして答えた。


「で、その格好は?」

「クロノ様に許して頂くために夜伽を務めようと思ったのであります! しかし、自分は浅はかだったであります!」


 フェイは胸の辺りで拳を握り締め、


「エレナ殿の元で研鑽を積み、出直してくるであります!」

「あ……そう」


 フェイは晴れやかな表情を浮かべていたが、クロノは残念そうだった。



 宛がわれた客室に荷物を置き、レイラはマイラと四階にある彼女の部屋で向かい合っていた。

 ベッド、机、クローゼットは客室と同じだが、彼女の部屋にはティーセットとティーパーティー用の小さなテーブルとイスが置かれていた。

 そのイスに浅く腰を掛け、レイラはマイラの話を聞いていた。

 マイラ……名もない奴隷だった彼女が傭兵クロード・クロフォードに買われたのは三十五年前のことらしい。

 クロード・クロフォードは爵位もないのに姓を名乗るような自己顕示欲の強い性格で、同時にマイラに魔術を仕込み、戦い方を教えたり、学を身に付けさせるなど後先考えない性格だったようである。

 というのも、奴隷に戦い方を教えれば、高確率で寝首を掻こうとするからである。

 だが、マイラはクロードが傭兵団を組織した時、味方の裏切りに合って戦場で孤立した時、ラマル五世の幕下に入った時、蛮族と戦った時、南辺境の領主となってからも、極めて献身的に支え続けてきた、らしい。


「やはり、旦那様に張って正解でした。旦那様が貴族に成り上がってからもお金のやりくりに苦労したものですが……今では南辺境も豊かな穀倉地帯となり、これからの人生は安泰です」


 マイラは三十五年の苦労話を終え、ティーカップを口に運んだ。


「坊ちゃまも順調に出世しているようですし……正直、笑いが止まりません」

「……はあ」


 うはははは! とマイラがメイドにあるまじき笑い声を上げたので、レイラは反応に困って曖昧に頷いた。

 こういう性格だと、人生が楽しいかも知れませんね、とレイラはハーブティーに口を付けた。


「あの、用事があったのでは?」

「若い方はせっかちでいけません」


 マイラは立ち上がり、机の引き出しから一冊の本……というよりも羊皮紙の束に近い……を取り出し、テーブルの上に置いた。


「読み書きはできますか?」

「はい、クロノ様に教えて頂いたので」

「……全く、親子揃って」


 マイラは小さく微笑んだ。


「そのことなのですが……クロノ様は別の異世界から来られたと聞いています。何故、クロード様はクロノ様を実の子のように仰っていたのですか?」

「坊ちゃまは口が軽いですね」


 ふぅぅぅ、とマイラは溜息を吐いた。


「クロード様と亡くなった奥様の間には子どもがおりません。もちろん、クロード様は奥様を深く愛しておりましたが、かなり寂しい想いをしていたようで、その頃の鬱憤を晴らしているようなものです」


 マイラは祈るように手を組んだ。


「けれど、クロノ様が来てから、旦那様はお人柄が柔らかくなったように思います。恐らく、旦那様は次の世代に託すという行為に意味を見出したのでしょう。まあ、私も旦那様のことは言えませんが」

「読んでも宜しいですか?」

「ええ、それは貴方に差し上げます。それと明日から……舞踏会が終わり、侯爵領に戻るまで貴方にメイドとしての基礎を叩き込みます」

「あの、私は兵士としてクロノ様にお仕えできれば」

「いけません!」


 ばん! とマイラはテーブルを叩いた。


「若者が向上心を持たずにどうするのですか! エルフは寿命の長さを活かし、使用人として家を盛り立て、次の世代にまで影響力を残すくらいの意気込みを持つべきです」

「はあ……では、明日からお願いいたします」


 レイラは本を抱え、マイラの部屋を後にした。



 応接室のソファーに座り、クロノは養父と向かい合う。

 養父は二つグラスにワインを注ぎ、一方をクロノに渡した。

 他の部屋がそうであるように応接室にも必要最低限の家具……ソファーとテーブルくらいしかない。

 普通の貴族であれば肖像画が飾られているものだが、クロノが知る限り、クロフォード家が所有している肖像画は一枚きりだ。


「『流石、俺の息子』はないんじゃないの?」

「お前を本当の息子のように思ってるから良いんだよ」


 変わってないなぁ、とクロノはワインを口に含んだ。


「苦労したみてえだな」

「大分、今は落ち着いたけどね」


 養父はワインを傾け、クロノの様子を伺うように目を細めた。


「俺と違って、お前は戦いに向いてねえからな」

「自覚してる」

「お前にアドバイスがあるとすれば、『笑え』ってことだな」


 そう言って、養父は野性味溢れる笑みを浮かべた。


「敵と対峙してクソを漏らしそうな時、敵を斬り殺した時、八方塞がりでどうにもならねえ時、部下が自分を逃がすために死地に赴く時、ボロボロになって部下が戻ってきた時に笑え」

「無茶を言うなぁ」

「最初の三つだけは実行しとけ」

「心に留めておくよ」


 クロノは養父と酒を酌み交わし……一日目の夜は更けていった。

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