第18話『決戦・裏』その9
※
早朝――ジョニーは先を尖らせた木の棒で地面を掘る。
こつこつ掘り進めた甲斐があり、穴は太股ほどの深さになった。
そのことに深い満足感を覚える。
昔は地道な作業が嫌いだった。
だが、今は悪い気分ではない。
満足感のせいだろうか。
こういう作業に向いているのではないかという気さえしてくる。
考えてみればジョニーの家は祖父母の代から開拓と農業に携わってきた。
その血が流れているのだ。
地道な作業に向いていたとしても不思議ではない。
そんなことを考えて苦笑する。
昔の自分ならこんな風に考えられなかった。
きっと、反発心を抱いたに違いない。
皮肉な話だ、と思う。
戻れない所にまで来て、昔嫌っていたものを受け入れられるようになったのだから。
エクロン男爵領の自警団員として働いていた頃が懐かしい。
今の自分はあの頃とは別ものだ。
だが、後悔はしていない。
いや、納得はしているというべきだろうか。
自分で今の有様を選んだのだから。
何も選べない人生に比べればいくらかマシだろう。
ジョニーは木の棒を握る手に力を込めた。
その時、ぐぅ~という音が響いた。
腹の虫が鳴いているのだ。
無理もない。
昨夜の食事は粗末だったし、今日は起きてから何も食べてない。
朝食を食べていないせいか頭がボーッとする。
だが、ジョニーは手を動かす。
周囲の兵士もそうしているのだ。
手を休めたら怪しまれる。
時々、忘れてしまうが、自分は帝国軍の兵士ではないのだ。
地面を掘る、掘る、掘り続けて――再び腹の虫がぐぅ~と鳴いた。
手を休め、手の平でお腹を叩く。
「大人しくしてるッスよ。お前のご主人様だって空腹に耐えてるんスから」
お前のご主人様とはジョニーのことだ。
自分の胃に自分も耐えているからお前も耐えろと要求する。
自分でも馬鹿なことをしていると思う。
恐らく、師匠は虫でも見るような視線を向けてくるだろう。
正直、そういう目で見られるのは辛い。
それほど打たれ強い方ではないのだ。
だが、師匠にそんな目で見られるとしても止める訳にはいかない。
これは重要な――テンションを上げるための儀式だ。
テンションは大事だ。
テンションが高いと悲観的な状況でも動ける。
だが、低いとそれほど悲観的な状況でなくても動けなくなってしまう。
意識的に上げていくことが大事だ。
特に――。
「痛ぇ、痛ぇよ」
「くそッ、火傷が引き攣って脚が……」
「頑張れ。帝都に戻ったら医者に診てもらえるぞ」
「本当かよ。霊廟建設で怪我した連中みたいに放り出されるんじゃないのか」
ジョニーの目の前を負傷者が通り過ぎる。
火傷を負った者がいる。
腕や脚のない者がいる。
まるで幽鬼の群れのようだと思う。
やはり、テンションを意識的に上げることは大事だ。
特にこういう――気分が落ち込みやすい状況にある時は。
ふとあることに気付く。
負傷者達がある人物の前で頭を下げているのだ。
白い軍服を着た男だ。
第四近衛騎士団の団長ロイ・アクベンスだ。
この距離なら殺せるか。
そっと短剣に手を伸ばし――。
「おい、何をサボってんだよ」
「――ッ!」
ジョンが視界を遮るように座り込んだ。
「お、驚かさないで欲しいッス!」
「お前がサボってるのが悪ぃんだろ」
「そ、それはそうッスけど」
ジョンがムッとしたように言い、ジョニーは口籠もった。
「で、何を見てたんだ?」
「何も見てないッス」
「嘘吐け。視線がロイ殿に向いてたぞ」
「だったら聞かないで欲しいッス」
「まあ、気持ちは分かるぜ。腹一杯食ってそうな顔をしてやがるもんな」
チッ、とジョンは不愉快そうに舌打ちをした。
どうやら自分に都合よく考えてくれたようだ。
殺そうとしていたと思われるのはマズい。
この流れに乗るべきだ。
「腹一杯食えて羨ましいッスね」
「貴族様だからな。きっと、肉入りのスープを食ってやがるんだぜ」
「……」
ジョニーは黙り込んでしまった。
肉入りのスープなんて羨ましいッスね、と返すべきだったのだろう。
だが、言葉は出てこなかった。
その代わりに、もやもやした感情が湧き上がってきた。
「何か、惨めな気分ッスね」
ジョニーは震える声で呟いた。
肉入りのスープは羨ましがるようなものではない。
実家でも、クロフォード男爵邸でもそれなりの頻度で食べていた。
帝都にある安くて美味い店も知っている。
アレオス山地でさえ肉を食うことはできた。
にもかかわらず、肉入りのスープを羨ましいと感じている。
それも心から。
「……辛いッス」
ジョニーは俯き、ぽつりと呟いた。
途端、揺り返しがきた。
無理にテンションを上げていた分、強烈だった。
涙で視界が滲む。
どうして、こんな――木の棒で地面を掘るなんて刑罰みたいなことをしているのか。
しかも、空きっ腹でだ。
辛い。辛すぎる。
家に帰りたい。
「なに、泣いてるんだよ」
「腹が減ったんス」
「仕方がねーな」
ジョンはぼりぼりと頭を掻き、懐から棒状のものを取り出した。
両端を掴んで折ると、片方を差し出してきた。
ジョニーは無言で受け取り、しげしげと棒を見つめた。
「木の棒を噛んで飢えを凌げってことッスか。まるで飢饉ッス」
「馬鹿、携帯食だ」
「これが食べ物なんスか?」
「ああ、小麦粉と塩を水で練って焼いたもんだ」
「ありがたく頂くッス」
ジョニーは囓り付こうとしたが、できなかった。
ジョンに手首を掴まれたのか。
「何スか? もしかして、金ッスか?」
「違ぇよ。こいつは硬いんだよ。獣人はともかく、人間じゃ歯が折れちまう」
「食い物なんスか?」
ジョニーは携帯食を見つめた。
「だから、小さく折って口の中に入れて柔らかくして食うんだよ」
「夕食で食べたパンみたいッス」
「あっちの方がまだ食い物だ」
ジョンは顔を顰めた。
そんなものを渡すのはどうかと思う。
始末に困って渡そうとしているのではないかという気もする。
だが、こんなものでも食べ物は食べ物だ。
小麦から作られているのだから体調を崩すこともないだろう。
「まだ少し大きいッスね」
ジョニーは両端を掴んで折ろうとしたが、短すぎるせいかなかなか折れない。
仕方がなく短剣を抜き、切れ込みを入れて二つに折る。
二つを見比べ、少し小さい方を頬張る。
「美味いか?」
「芳ばしい感じッス」
パンに似た臭いはあるが、美味いかと言われるとよく分からない。
「まあ、口の中に入れときゃ唾液で柔らかくなって食えるようになる」
「今度は喉が渇きそうッス」
「そこまで面倒は見れねぇよ」
ジョンは笑い、しげしげと穴を見つめた。
「それにしてもよく掘ったな」
「そうッスか? 皆、こんなもんじゃないんスか?」
ジョニーは視線を巡らせた。
周囲では帝国軍の兵士が棒で地面を掘っている。
実際の深さは分からないが、同じくらい掘っているように見える。
ちなみに泣きそうな顔をしている者は一人もいない。
やはり、本職の兵士は違う。
空腹のあまり泣きそうになった自分が恥ずかしい。
「木の棒だけでよくここまで掘ったもんだ。感心するぜ」
「いや、皆と大して変わらないッスよ」
「いやいや、マジでお前が一番深く掘ってるって」
「いや~、そこまで言われると照れるッス」
ジョニーは頭を掻いた。
謙遜してみたものの、誉められて悪い気はしない。
本当に自分が一番深く掘っているのではないかという気がしてくる。
だが、嫌な予感がした。
口の中に苦いものが広がり、自然と顰めっ面になってしまう。
「なんて顔をしてるんだよ」
「嫌な予感がするッス」
「おいおい、馬鹿なことを言うなよ」
「何もないんスね?」
「ああ、いい知らせがあるだけ――って、顔を顰めるな」
「そういうことを言われていい知らせだった例がないッス」
師匠はいいこととか、楽しいとか言ってとんでもないことをやらせるのだ。
特に印象に残っているのは童貞を捨てさせてやると言われた時のことだ。
うきうきして付いて行ったら目隠しをされた盗賊が一列に並んでいた。
ひどい体験だった。
散々痛い目に遭ったのに、どうして師匠を信じてしまったのだろう。
決まっている。自分が底抜けの間抜けだったからだ。
今だって間抜けには違いない。
だが、昔と違って疑うことを覚えた。
底ができたのだ。
以前よりまともになったと思っている。
「どんな人生を送ってるんだよ、農家のくせに」
「今は農家じゃないッス」
ジョニーはムッとして言い返した。
「そんな顔をするなって」
「こういう顔なんス。それで、いい知らせって何スか?」
「なんだ、興味があるんじゃねーか」
「興味がないとは言ってないッスよ。ただ、嫌な予感がするだけッス」
「じゃ、その予感は外れだな。聞いて喜べ。穴を掘る道具が――って、またかよ」
「顔を顰めたくもなるッスよ」
ジョニーは木の棒を握る手に力を込めた。
「用意できるんなら最初から用意して欲しかったッス。そうすればこんな刑罰みたいな真似をしなくて済んだッス」
「俺も同じ気持ちだけどよ」
ジョンは渋い顔をした。
何とも歯切れが悪い。
やはり嫌な予感がする。
正直に言えば理由を聞きたくないが――。
「まだ何かあるんスか?」
「昨日、話しただろ? 帝都で物資を徴発してるって」
「ああ、そんなことも話してたッスね。それがどうかしたんスか?」
「穴掘る道具まで徴発するんだぜ?」
「それがどうかしたんスか?」
「それがって、お前な」
ジョニーが再び問い掛けると、ジョンは深々と溜息を吐いた。
とんちんかんなことを口にした時の師匠の反応に似ている。
「俺、変なことを言っちゃったッスか?」
「徴発しなきゃ穴を掘る道具を用意できないって考えたら悲観的になるだろ、普通」
「言われてみればそうッスね」
「他人事みたいな顔をしやがって」
「ひ、他人事じゃないッス! 当事者ッス!」
「ああ、いや、すまねぇ、言葉の綾だ。でも、そうだよな。お前くらいの年齢ならそこまで考えねーよな。若いヤツと話すと年齢を実感するぜ」
ジョンは溜息交じりに言った。
他人事みたいなと言われた時はドキッとしたが、どうやら納得してくれたようだ。
いけない。もう少し気を付けなければ。
しかし、どう気を付ければいいのか。
考えても答えは出ない。
「……いよいよ本格的な戦いが始まるな」
「休戦は今日の夕方までッスからね」
「ったく、身内同士で殺し合うなんて嫌になるぜ」
「そうッスね」
ジョンがうんざりしたように言い、ジョニーは頷いた。
もっとも、身内同士という意識はない。
帝国人であるという意識より南辺境の人間であるという意識の方が強いのだ。
もちろん、そのように教育された訳ではない。
歴史的経緯を考えれば不思議なほど両親や祖父母は帝国への不満を口にしなかった。
だが、歴史的な背景や中央から冷遇されていることを知ってしまったらもう駄目だ。
敵対心のようなものが芽生えてしまう。
一時期に比べるとその感情は和らいでいるが、なくなった訳ではない。
「もっと上手くやれなかったんスかね」
「できなかったからこの有様なんだろ」
ジョニーが呟くと、ジョンは吐き捨てるように言った。
※
夜――ティリアはイスの背もたれに寄り掛かり、深々と溜息を吐いた。
そっとカップがテーブルの上に置かれる。
刺激臭が鼻腔を刺激する。
マイラ特製香茶の臭いだ。
ゆっくりと視線を動かす。
すると、マイラが隣に立っていた。
いつの間にやって来たのだろう。
疑問が湧き上がるが、考えるだけ無駄か。
「どうぞ、奥様」
「ありがとう」
ティリアは礼を言い、カップを手に取った。
両手で支え、ほぅと息を吐く。
「作戦会議、お疲れ様でした」
「労ってもらうようなことじゃない。作戦も前回の焼き直しだしな」
ティリアはカップを口元に運んだ。
臭いがキツく、目が痛くなる。
少しだけ躊躇してカップに口を付けて香茶を飲む。
香茶が食道を通り、胃に到達する。
効果はすぐに表れた。
じわじわと体の内側から熱が広がっていく。
初めて出された時はびっくりしたものだが、慣れてみると悪くない。
まあ、口を付けるまでに勇気がいるが。
静かにカップを置き、テーブルの上にある通信用マジックアイテムを見つめる。
何かあればロバートから報告がある。
「前にも聞いたかも知れんが――」
「何でしょう?」
「危険な草は使っていないな?」
「何故、そのようなことを?」
マイラは不思議そうに首を傾げた。
その仕草が妙に芝居がかって見えて不安になる。
「癖になる味わいだからな。念のためだ」
「差し障りのある草は使っておりません」
「そうか。だが、草という言葉を聞くと微妙に不安になるな」
「別の言葉をということでしたら葉っぱでは如何でしょう?」
「もっと不安になるな」
会話が途切れる。
ティリアは小さく溜息を吐き、肘掛けを支えに頬杖を突いた。
「疲れたな」
ぼそっと呟いてしまい、慌てて口元を押さえる。
気が緩んでいるのだろうか。
「奥様、私の前ではどうか楽になさって下さい」
「被捕食者が捕食者の前でリラックスしたら死ぬぞ」
「申し訳ございません。奥様の仰ることは寓意が広すぎて卑賤の身では分かりかねます」
「そういう所だぞ」
ふん、とティリアは鼻を鳴らし、目を瞬かせた。
「今日は早めに休まれた方がよろしいのでは?」
「まだ陽が暮れたばかりだ」
「陽が暮れたということは夜でございます。休まれても問題ないかと。それに、最近は油の値が高騰しております」
マイラはわずかに俯き、目元を押さえた。
ティリアは視線を巡らせた。
白々とした光が周囲を照らしている。
照明用マジックアイテムの光だ。
油は使っていない。
「ひょっとして泣いている演技か?」
「よよ、そうでございます。ちなみに『よよ』とは泣き声を表す言葉にございます」
「もしかして、馬鹿にしているのか?」
「いえ、そのような意図は決して」
「なら、なんのために?」
「からかっただけですが、何か?」
「最悪だな、お前は!」
ティリアは声を荒らげた。
「開拓黎明期の困窮ぶりを表現してみました」
ぐッ、とティリアは呻いた。
苦しい生活をしていたと言われると弱い。
反論の言葉が思い浮かばない。
だから、マイラは引き合いに出しているのだろうが。
「それで、どうされますか?」
「もう少しだけ起きている」
「昨夜もそう仰って夜更かしをされましたね」
「作戦を立てなければならなかったからな」
昨夜は帝都で物資の徴発が行われているという報告を聞き、襲撃計画を練った。
前回と同じ方法では対応されると考え、何とか新しいアイディアを捻り出そうとした。
だが、新しいアイディアは閃かず、前回と同じ作戦になった。
街道に石をばらまいて足止めし、煙で視界を遮って戦う。
今からでもいいアイディアが思い浮かべばいいのだが――。
「奥様、アイディアは時間を掛ければ思い浮かぶというものではございません」
「それは分かっているんだがな」
「分かっていらっしゃるのならばいいのですが」
マイラは溜息交じりに言った。
彼女が心配している通り、ティリアは分かっていない。
新しいアイディアが思い浮かぶ可能性に固執している。
「神ならざる身です。我々はあるものを活用し、最も勝率の高い策を採るしかありません」
「神ならざる身だからこそだ」
ティリアはぽつりと呟いた。
「ないものねだりをしても仕方がないと分かっている。だが、本当に最善を尽くしているのかと不安なんだ。努力する余地を残して失敗したら部下に顔向けできん」
「業ですね」
「ああ、そうだな」
ティリアは頷き、ふと口元を緩めた。
まったく、嫌になる。
警戒していたつもりだったのに心情を吐露しているのだから。
よほど疲れているのか。
それとも、これがベテランメイドの技か。
「そういえば帝都の様子はどうだ?」
「物資の徴発を行っている有様ですので」
「愚問だったな」
物資の調達もできない有様なのだ。
少し考えれば好ましい状況ではないと分かったはずだ。
マイラの忠告を受け入れて早めに休むべきか。
その時――。
『こちら、ロバート。緊急報告です』
「なんだ?」
通信用マジックアイテムから声が響き、ティリアは居住まいを正した。
『ボウティーズ男爵が殺されました』
「なんだと?」
『ボウティーズ男爵が殺されました』
思わず問い返すと、ロバートは先程と同じ口調で答えた。
「確かなのか?」
『はい、複数のルートで確認しました。負傷兵に撲殺されたとのことです』
「そうか」
ティリアが視線を向けると、マイラは首を横に振った。
彼女の差し金だと思ったのだが、そうではないらしい。
一体、何が起きたのか。
『調べますか?』
「……ああ、調べさせてくれ」
ティリアは間を置いて答えた。
簡単に調べられるとは思っていないし、単なる偶然という可能性もある。
だが、何もせずに足下を掬われるようなことだけは避けたい。
『明日の夜に調査結果を報告します』
「ああ、頼むぞ」
『承知いたしました。それでは、通信を終了いたします』
ティリアは頬杖を突き、襲撃計画について考える。
ボウティーズ男爵が殺されたのに補給が行われるだろうか。
そんなことを考え、小さく頭を振る。
補給が行われるか考えても仕方がない。
考えるべきは補給が行われた時にどうするかだ。
よし、とティリアは体を起こした。
「ケイン、ガウル、聞いているか?」
『聞いてるぜ』
『はッ、聞いております』
通信用マジックアイテムに呼びかけると、すぐに返事があった。
任意の人物同士で話ができるようにできていないのだから当然か。
先程の会話は端末を持つ全員が聞いているのだ。
「補給隊の襲撃について方針を変更する」
『作戦自体に変更はないという理解でよろしいでしょうか?』
「そうだ」
ガウルの問い掛けに答える。
『どんな風に変更するんだ?』
「さらに慎重に、だ」
『それでは、襲撃の意味が薄れるのではありませんか?』
ケインの質問に答えると、ガウルが疑問を口にした。
「優先順位を間違えるな。我々の目的は偽帝アルフォートから皇位を奪い返すことだ」
『承知いたしました』
ガウルは素直に頷いた。
「他に質問はないな」
『『……』』
問い掛けるが、二人は無言だ。
「ならば臨時の作戦会議は終了だ。二人ともよく休め」
『了解』
『承知いたしました』
二人の声が響き、マイラがそっと通信用マジックアイテムに厚手の布を掛けた。
「それでは、声が聞こえなくなってしまうぞ?」
「私は聞こえますので、奥様はどうぞお休みになって下さい」
「だが――」
「お休みになって下さい」
「分かった。また体調を崩しては元も子もないからな」
「ご理解頂けて幸いです」
どうせ朝まで眠れないだろうと思ったが、ティリアはベッドに入るなり寝入ってしまった。
※
「お兄様! 大変ですわッ!」
セシリーは兄の天幕に飛び込んだ。
帝国と自由都市国家群を結ぶ南北街道からやや離れた場所に設営された天幕だ。
正直に言えば宿に泊まりたいが、帝国からすればセシリー達は謀反人だ。
友好的に見える領主でも信じる訳にはいかないのだ。
兄はテーブルに向かい、何かを書いているようだった。
「お兄様!」
「どうしたんだい、セシリー?」
再び声を張り上げると、ようやく兄はこちらを見た。
前々から少しズレた所があったが、行動を共にしてその思いは強まった。
馬術の腕前は尊敬しているのだが――。
「監視役から報告がありましたの。帝都方面から早馬が駆けてきたそうですわ」
「どっちに向かったんだい?」
「北と仰っていましたわ」
「なるほど、ラルフ殿はパラティウム公爵に助けを求めるつもりのようだね」
「――ッ! ならば追わなければッ!」
「待つんだ」
セシリーは息を呑み、踵を返した。すると、兄が声を掛けてきた。
「何故ですのッ?」
「報告だけで終わらせるほど私の部下は盆暗ではないからだよ」
セシリーが向き直って叫ぶと、兄は溜息を吐くように言った。
頬が熱くなる。
自分が盆暗と言われたような気がしたのだ。
深呼吸を繰り返し、気分を落ち着かせる。
「では、早馬を捕らえられますのね?」
「それは無理だろうね」
「お兄様ッ!」
セシリーが叫んでも兄は何処吹く風だ。
「カド伯爵領を出てから大分経っている。私の淑女はお疲れモードだよ。それは部下やお前の愛しい人も変わらないと思う。対して向こうは元気そのものだ」
「じゃあ、どうしますの!」
「さて、どうしようか?」
「お兄様ッ!」
セシリーは叫び、その場で地団駄を踏んだ。
こんな時にどうして落ち着き払っていられるのか理解できない。
皇軍が負ければ自分達もおしまいだというのに。
「パラティウム公爵は援軍を出すと思うかい?」
「助けを求められれば援軍を出すと思いますわ」
「今まで中立を保ってきたのに?」
「それは……」
セシリーは口籠もった。
パラティウム公爵は新貴族の風下に立つのが嫌でこちらの要請に応じなかった。
だが、アルフォートとも距離を置いていた。
「普通に考えてパラティウム公爵が援軍を出す可能性は低いと思うんだ」
「わたくし達にとっては僥倖ではなくて?」
「いや、私達にとっては不幸だよ。彼が動いてくれないと、レオンハルト殿が帝都を動かない。いやいや、レオンハルト殿の行動が読めなくなるというべきかな」
「そうですわね」
セシリーは頷いた。
ティリア皇女率いる別働隊が偽帝アルフォートを討つにはレオンハルトが邪魔だ。
中立を保ってくれるのがベストだが、そう信じて破滅したら目も当てられない。
「では、どうしますの?」
「ラルフ殿がパラティウム公爵に助けを求めたのは私達にとっては僥倖だった」
そう言って、兄は居住まいを正した。
「今からパラティウム公爵に書簡を書こうと思う。協力してくれないかな?」
「何に協力してくれればいいんですの?」
「パラティウム公爵に送る書簡の文面を考えてくれればいいんだよ。内容は、ティリア皇女に協力すれば名誉ある待遇を約束するという感じがいいかな」
「分かりましたわ。ところで、パラティウム公爵が援軍を出した時はどうしますの?」
「周辺諸侯に時間稼ぎをしてもらうよ。なに、戦ってもらおうって訳じゃない。荷物をチェックしてもらうだけでかなり時間を稼げるはずだよ」
セシリーは感心しながら文面を考え始めた。




