第15話『南進』その3
※
南進三日目――野営地を出発して数時間が過ぎた頃、幌馬車のスピードが緩やかなものに変わった。
『……大将』(……ぶも)
「分かってるよ」
クロノは副官に視線を向け、小さく頷いた。
トラブルが起きたのならば御者が真っ先に声を掛けてくるはずだ。
それがないということは領境――ボウティーズ男爵の設置した関所が間近に迫っていることを意味している。
「……クロノ様」
「大丈夫だよ」
クロノは緊張するシオンを安心させようと微笑んだ。
困った時は笑っておけば何とかなるというのが養父の教えだ。
微笑んでみたものの、大丈夫という気がしなかった。
いきなり攻撃を仕掛けてくるような真似はしないと信じたいが――。
『大将、大丈夫ですぜ』(ぶも)
「ミノさん」
緊張していると分かったのか、副官はクロノを見つめ、親指を立てた。
何と言う男っぷりだろうか。
クロノがミノタウルスの雌ならば惚れている所だ。
やがて、幌馬車が完全に動きを止めた。
『準備はいいですかい?』(ぶも?)
「まだだよって言ったら待ってくれる?」
『一分くらいなら待ちますぜ』(ぶも)
「素直に待てないって言ってよ」
一分ではカップ麺も作れないし、覚悟を決めることもできない。
「僕みたいなタイプは時間があると駄目なのかもね」
『大将は時間がなければないで生き急ぐような真似をするんで何とも言えませんぜ』(ぶもぶも)
「率先垂範を信条としています」
『生き急ぎ、死に急ぎだけは止めて下せぇ』(ぶも)
副官が呆れたように言い、クロノは立ち上がった。
軽口を叩き合ったせいか、少しだけ気分が楽になった。
この戦いで生き残ったら戦場で使えるジョーク集みたいなものを作ろうかなと思う。
クロノが幌馬車から飛び降りると、副官が後に続く。
ズシンと地面が揺れる。
深呼吸を繰り返した後、幌馬車の陰から出る。
「……あれがケインの言ってた馬防柵か」
クロノは小さく呟いた。
幌馬車から百メートルほど離れた所に馬防柵が設置されていた。
街道の両サイドに設置された柵は高く、街道に設置されたものは極端に低い。
恐らく、街道に設置されているのは移動式なのだろう。
とは言え、かなり重量がありそうなので動かすには人数が必要になるはずだ。
『やる気満々てぇ感じには見えやせんね』(ぶも)
「そうだね」
関所にいる兵士の数は百人くらいだろうか。
歩兵、重装歩兵、弓兵はいるが、騎兵はいない。
防衛戦で騎兵がいても仕方がないので違和感がないと言えば違和感がない。
『大将、見えやすか?』(ぶも?)
「奥にある箱馬車だね」
馬防柵の向こうには箱馬車が止まっていた。
そこそこの商人なら箱馬車くらい持っているが、こんな所に乗り付ける理由がない。
ということは貴族か、それに準じる立場の者が来ているのだろう。
少なくともここでやり合うつもりはないように見える。
まあ、油断させておいてグサッという可能性も否定できないが。
『どうしやす?』(ぶも?)
「予定通りだよ」
クロノは天を仰ぎ、溜息を吐いた。
気合を入れるために両頬を叩き、関所に向かって歩き出す。
やや遅れて副官が付いてきた。
『いざって時のくそ度胸に感心しますぜ』(ぶも)
「別に度胸があるって訳じゃないんだけどね」
最初の攻撃を凌げれば『刻印術』で逃げられるし、向こうから攻撃を仕掛けてきたのならば皆殺しにしても言い訳が立つ。
「とにかく、最初の攻撃を凌げれば何とかなる」
『その時はあっしが盾になりやす。心配しないで下せぇ』(ぶも)
「気持ちだけ受け取っておくよ」
『全部受け取って貰いやす。何せ、大将が死んだら皇軍はともかく、第十三近衛騎士団にとっては敗北なんで』(ぶもぶも)
「ティリアは信用されてないんだね」
仮にクロノが死んでもティリアならば理想を成就してくれるはずだ。
むしろ、自分より上手くやるのではないだろうか。
『ティリア皇女のことは信用してますぜ。ただ、それはティリア皇女を信用してるんじゃなく、大将の……婚約者だから信用してるんでさ』(ぶもぶも)
「……婚約者か」
妻や正妻を自称されている時はそうでもなかったのだが、副官の口から婚約者と言われるとズシッとくる。
『もう諦めちまった方が良いですぜ』(ぶも)
「抵抗しているつもりはないんだよ」
マリッジブルーというヤツだろう。
『大将は何が不満なんで?』(ぶも?)
「ティリアにいくら貰ったの?」
『あっしはアリデッドとデネブとは違いやす』(ぶも)
「そうか、そうだよね」
副官がムッとしたように言い、クロノは自分の浅はかさを恥じた。
考えてみれば副官とは長い付き合いなのだ。
彼の忠誠を疑うなんて恥知らずにも程がある。
『妹が店を出す時にちょっと援助して貰うだけでさ』(ぶも)
「買収されてるじゃないか」
『所詮、口約束ですぜ。まあ、妹の料理にティリア皇女が舌鼓を打ったって話を広めても良いって許可は頂きやした』(ぶも)
「口約束なんでしょ?」
『いえ、こっちは代官所で念書を書きやした』(ぶも)
「しっかりしていらっしゃる」
『当たり前でさ。制度ってのは利用するためにあるんですぜ』(ぶも)
副官とは思えない台詞だ。
ここまでしっかりしているとなると、妹――アリアの料理に舌鼓を打ったという話を広める許可を取る方が本命だったのではないだろうか。
「将来はシルバニアの名物料理になるかもね」
『そいつは楽しみですぜ』(ぶも)
クロノの脳裏には数百年後にアリアの料理がTVで紹介されている光景が過ぎった。
こうして歴史は紡がれていくのかも知れない。
「待て! そこで止まれ!」
関所まで二十メートルを切った所で兵士が声を張り上げ、クロノ達は立ち止まった。
『我々はティリア皇女の麾下――皇軍の者である! 偽帝アルフォートを討伐するべく帝都に向かっている! 領地の通行を許可して頂きたい! もし、我々の邪魔をするのならば逆賊と見なすッ!』(ぶもぶもぶもぉぉぉ!)
副官が大声で口上を述べると、関所の兵士達がどよめいた。
ここでも皇族の権威は絶大だった。
皇軍と帝国軍に分かれて戦っている現状では大して意味がないような気がするが、彼らにとって皇族から逆賊とみなされることは衝撃的なことなのだろう。
関所の兵士達が再びどよめく。
「何だろ?」
『お偉いさんが来たんじゃありやせんか?』(ぶも)
副官の言葉を証明するように兵士達が左右に分かれ、二人の人物がこちらに近づいてきた。
一人は女だ。
髪を結い上げ、黒いドレスを身に纏った姿は貴族然としている。
目は吊り目がちで、ボディーラインはスマートを通り越して痩せぎすだ。
もう一人は男だ。
髪を短く切り揃え、軍服を身に纏っている。
引き締まった体付きから名ばかりの軍人ではないと分かる。
野性味を感じさせる容貌だが、飄々とした雰囲気を漂わせている。
少しケインに似ているだろうか。
「……わたくしは領主代行を務めるイザベラと申します。もう一人は義弟のアークです」
「私はティリア皇女より皇軍の指揮官に任命されたクロノ・クロフォードと申します。背後に控えているのは私の右腕ミノです」
あら、と女――イザベラは驚いたように目を見開いた。
貴族が亜人を右腕と評したことに驚いたのだろうか。
油断してくれるのならありがたい。
クロノの能力を低く見積もってくれればボロを出してくれるかも知れない。
「エラキス侯爵領とカド伯爵領の領主を務めていたと記憶しておりますが?」
「私の中ではクロフォードの方が価値を持っているのですよ」
油断してくれなかったことに落胆しながら説明する。
冗談に聞こえるように軽い口調で、だ。
「侯爵位よりも?」
「そう理解して頂ければ幸いです。もちろん、臨機応変に使い分ける程度に柔軟なつもりではありますが」
クロノが軽く肩を竦めると、イザベラは扇子で口元を隠し、クスクスと笑った。
「ところで、イザベラ様は?」
「領主の妻ということになります」
「なるほど、お子様は?」
「屋敷で大人しくしてますわ」
「……なるほど」
クロノは少し間を置いて頷いた。
権限を与えられているのでこのまま交渉しても良いのだが、正直に言えばティリアに丸投げしたい。
「クロノ殿は我が領地を通り抜けたいと?」
「我々だけではありません。後続の部隊に対しても同じ配慮を求めたいと考えています」
「配慮と仰いましたか?」
「ええ、配慮です」
「降伏しろと同義では?」
「さて、私は学者ではないもので」
実際には降伏でも認めなければ言い逃れはできる。
降伏しろと切り出さなかったのはそれこそボウティーズ男爵夫人に対する配慮だ。
「留守を預かる者として領民に被害が及ぶような決断はできません」
「皇軍はティリア皇女の理想に賛同した者の集まりです。無辜の民に危害を加えようとは考えておりません。もちろん、ボウティーズ男爵家に損害を与えようとも」
この戦いが終わったら分からないけどね、とクロノは心の中で付け加える。
もっとも、イザベラも、ボウティーズ男爵もそれくらいのことは想定しているだろう。
「こちらの条件を呑んで下さればティリア皇女に進言しても構いませんよ?」
「あら、もう勝ったつもりですの?」
イザベラはわずかに眉根を寄せて問い返してきた。
交渉材料のつもりだったのだが、不機嫌にさせてしまったようだ。
だからと言って、謝罪する訳にもいかない。
「もちろんですよ」
「――ッ!」
クロノが笑うと、イザベラは息を呑んだ。
半分はハッタリだ。
こちらの策が上手くいけば勝てるはずだが、上手くいく保証は何処にもない。
「……証書は頂けるのかしら?」
「ええ、もちろんです」
証書を書いても反故にしようと思えば反故にできるが、証拠を残すのは大事だ。
公正な第三者がいれば尚良い。
「分かりましたわ。領民を含めたボウティーズ男爵家の資産に手を出さないと約束して下されば領内の通行を認めましょう」
「薪を拾ったり、水を補給したりは?」
「我慢しろと言ったら我慢して下さいますの?」
「無理ですね」
「村に立ち入らない。立ち入ったとしても村人と交渉すると約束して下さるのなら」
「ええ、それなら受け入れられそうです」
「受け入れられそう?」
「まだ、交渉してませんからね」
「分かりました。では、箱馬車の中で話をしましょう」
「ここでできませんか?」
「ここで?」
イザベラは訝しげに眉根を寄せる。
「やはり、証人がいた方が良いと思うんですよ」
「ここにいるのはわたくしの兵ですわ」
「帝国の兵士ですよ」
クロノは訂正した。
彼らの給料は帝国から出ているのだから帝国の兵士だ。
「それとも、ボウティーズ男爵家が彼らに給料を支払っているとでも?」
「失礼しました。確かに彼らは帝国の兵ですわね」
「納得して頂けて嬉しいです」
クロノは小さく微笑んだ。
※
アークはイザベラに付き従い、男爵邸の執務室に向かう。
イザベラは執務室に入り、倒れ込むようにイスに腰を下ろした。
交渉は短時間で終わったので精神的な疲労によるものだろう。
いや、消耗と言うべきか。
自分とて部下の命が懸かった決断を迫られれば消耗する。
家と領地の命運が懸かっていれば尚更だ。
「……疲れたわ」
イザベラはイスの背もたれに寄り掛かり、溜息交じりに言った。
「上手く交渉を進められたと思いますが?」
「……そうね」
イザベラは少し間を置いて頷いた。
アークの所感に過ぎないが、彼女はよくやった。
降伏に近い形で領内の通行を許可したとは言え、ボウティーズ男爵家が戦後も面子を保てる程度に条件を呑ませたのだ。
彼我の兵力差を思えばもっと酷い条件でもおかしくなかったのだから良しとすべきだ。
いや、だからかも知れない。
相手は――クロノは圧倒的な武力を背景にしているとは思えないほど譲歩した。
イザベラはそれを弱腰と見たのだ。
そんな相手に主導権を握られた挙げ句、短時間で交渉を切り上げられてしまった。
やられたという気持ちになってもおかしくない。
「それで、どうしますか?」
「予定通りよ。騎兵で一当たりして籠城を決め込むわ」
「分かりました」
予想通りの答えだった。
クロノは勝てると言ったが、アークは勝算は薄いと考えていた。
ならばアルフォートを裏切る理由もない。
「……待ち伏せできれば良かったのだけれど」
「それは悪手です」
まあ、たった百騎の騎兵で一当たりすることが最善とも思えないが――。
「籠城で問題ないわよね?」
「ええ、もちろん。義姉上との交渉を見ていて気付いたのですが、クロノ殿は兵の損耗を恐れています。攻めてくることはまずないでしょう」
「そう、良かったわ」
アークが説明すると、イザベラはホッと息を吐いた。
「では、私は一当たりしてきます」
「ええ、一当たりしてすぐに戻ってらっしゃい」
「はい、義姉上」
アークは頷き、踵を返した。
「……アーク」
部屋を出ようとドアノブに手を伸ばしたその時、イザベラが声を掛けてきた。
「何でしょう?」
「本当に一当たりで済ませるのよね?」
「もちろんです。私はたった百騎の騎兵で七千の兵士に勝てると思うほど馬鹿ではありません」
では、と言ってアークは執務室を後にした。
慣れ親しんだ我が家を通り、厩舎へと向かう。
使用人達は道を空け、恭しく頭を垂れる。
見慣れた光景を虚しいと感じる。
溜息を吐きそうになったその時――。
「叔父上!」
甲高い声が廊下に響いた。
振り返ると、少年がこちらに駆けてくる所だった。
少年の名はトール――兄の子どもで、ボウティーズ男爵家の次期当主だ。
トールはアークの前で立ち止まり、呼吸を整える。
彼の呼吸が整うのを待ち、声を掛ける。
「どうしたんだい?」
「叔父上が戦いに行くと聞きました」
誰が言ったんだ、とアークは顔を顰めた。
使用人の口の軽さには毎度のことながらうんざりさせられる。
敵に情報が漏れているとは思わないが、急いだ方が良いかも知れない。
「本当ですか?」
「……本当だ」
アークはしばし逡巡した後に答えた。
「話がついているのにどうして?」
「これは難しい話なんだ」
高度な政治判断ということになるのか。
「僕には分かりません。約束は守るべきです」
「……そうだな」
アークは間を空けて答えた。
難しい話と言ってしまったが、実際には約束を守るか守らないかという話だ。
アークも、イザベラも約束を破ることを選んだ。
高度な政治判断だなんて、馬鹿らしいことを考えたものだ、と嗤う。
これはそんな大層なものではない。
損得の問題だ。
アルフォートに味方していた方が利益を得られると考えたから約束を破る。
それ以上でもそれ以下の話でもない。
「お前には俺達が馬鹿に見えてるんだろうな」
「そんな風に考えたことはありません」
「それでも、立ち止まれねぇんだよ」
アークはトールの頭を撫で、踵を返した。
厩舎では百人の部下――いずれも騎兵だ――が待っていた。
「隊長、お待ちしておりました」
「待たせて悪ぃな」
声を掛けてきた部下に謝罪する。
「何かあったのですか?」
「トールに約束は守らなきゃいけないって叱られちまってよ」
軽く肩を竦めると、部下達は一斉に笑った。
「どうされますか?」
「予定通りだよ。予定通り……敵に大損害を与えてやる」
アークは最初から一当たりで済ませるつもりなんてなかった。
「あれは準備できてるか?」
「ええ、かなり足下を見られましたけどね」
アークは部下が差し出してきたポーチを手に取った。
中を見ると、小さな宝石――マジックアイテムが入っていた。
投げつければ火の上位魔術――爆炎舞に匹敵する炎を解放するらしい。
「信用できるのか?」
「金を払っている内は」
金次第で裏切る商人から手に入れたマジックアイテムが役に立つのか、と不安が込み上げてくる。
イザベラに秘密で、しかも短期間で手に入れなければならなかったので、仕方がないと言えば仕方がない。
「でも、良いんですか?」
「今更、怖じ気づいたのか?」
「違いますよ」
部下はムッとしたように言い返してきた。
「安全策を取っても良いんじゃないかと思ったんです」
「もっともな意見だが、本物を手に入れるためには賭けねぇとな」
アークは小さく息を吐いた。
使用人にかしずかれることに虚しさを覚えるようになったのはいつだっただろうか。
自分が兄の予備と気付いた時か。
それとも、使用人が自分ではなく、貴族の権威にかしずいていると気付いた時か。
「本物が欲しいんだよ、俺は」
尊敬を勝ち取りたい。
この戦いはその一歩だ。
「お前達はどうだ?」
「同意見ですよ」
部下は小さく笑った。
※
アークの率いる騎兵隊は一丸となって街道を駆ける。
脱落者は未だに出ていない。
兄やイザベラならば馬を誉めるだろうが、アークは部下の技量を誉めてやりたかった。
こいつらと一緒なら本物を手に入れられる。
そんな確信めいた思いがある。
敵に損害を与え、部下と共に近衛騎士となる。
ゆくゆくは近衛騎士団長に――。
もちろん、それは敵に追いつき、大損害を与えられればの話だ。
「……まだ、追いつけないのか」
アークは視線を巡らせた。
だが、街道沿いに広がる森に阻まれて遠くまで見通すことができない。
もう近くに来ているはずだ、と自分に言い聞かせる。
「いた!」
幌馬車の姿を捉え、思わず叫んだ。
トラブルでも起きたのか、幌馬車は動きを止め、兵士がその周辺をうろついている。
アークはそっとポーチに触れた。
用意できたマジックアイテムは一つきりだ。
簡単に使う訳にはいかない。
「……これなら」
ティリア皇女の箱馬車まで近づき、投げることができるかも知れない。
そうすればこの戦争を終わらせた英雄になれる。
自分に向けられる尊敬の眼差し、賛辞の言葉を想像するだけで笑みが零れる。
「行くぜ! 野郎ど――もッ!」
突然、浮遊感に襲われる。
いや、馬から投げ出されたのだ。
アークは地面に叩き付けられ――。
「ぎゃぁぁぁぁッ!」
「隊長! 隊長ぉぉぉぉぉッ!」
「伏せろ! 伏せ――ぎゃッ!」
森から矢が降り注ぎ、部下達が次々と貫かれる。
手塩に掛けて育てた部下達だ。
一緒に本物を手に入れようと約束し、努力を重ねてきた。
あと少しだったのに――。
「に、逃げろ! 撤退だ!」
せめて、生き残っている部下だけでも救いたい。
その一心でアークは叫んだ。
部下達は馬首を巡らせて撤退を開始する。
「良いぞ、逃げてくれ!」
一人、また一人と殺されていくが、数人は生き残れそうだった。
「……誰だ?」
アークは部下達の逃げる方向に一人の男が立っていることに気付いた。
灰色の髪の男だ。
部下達は男の脇を通り抜けようとしたが、誰一人として通り抜けられなかった。
通り抜けるか、通り抜けないかのタイミングで首が落ちたのだ。
何が起きたのかは分からなかったが、部下が全滅したことだけは分かった。
「約束を守ってくれれば良かったんだけどね」
背後から憂鬱そうな声が響く。
振り返ると、クロノとミノが立っていた。
「……畜生、よくも部下を」
「文句を言いたいのはこっちだよ」
クロノは深々と溜息を吐いた。
もちろん、アークだって自分が間違っていると分かっている。
殺そうとしたのだから殺されても仕方がない。
それなのに恨み言を口にしてしまった。
「どうして、襲撃が……まさか、使用人が!」
「そうじゃないよ」
クロノは否定するように手を左右に振った。
「だったら、なんで?」
「最初から信じてなかったというのはあるんだけど」
クロノはアークの背後に視線を向けた。
「僕達、義勇軍が見張っていたんですよ。狼煙を上げるだけの簡単なお仕事です」
「まあ、そういうこと」
「……そ、そんなことで」
アークは力なく頭を垂れた。
もっと周囲を警戒しておくべきだった。
わずかな手間を惜しんだせいで手塩に掛けて育てた部下を失ってしまったのだ。
いや、とアークは小さく頭を振った。
部下は殺されてしまった。
自分もこのまま殺されるだろう。
だが、英雄になるチャンスは残されている。
アークはポーチに手を伸ばし――。
「マジックアイテムですね」
背後から呑気な声が響き、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
恐る恐る振り返ると、男がマジックアイテムを太陽に翳していた。
男が指先に力を込めた瞬間、マジックアイテムは砕け散った。
こんなことになるならトールの言う通りにすれば良かった、とアークは泣き崩れた。
※
イザベラは男爵邸の執務室でアークの帰還を待っていた。
軍事には詳しくないが、一当たりするだけならばもう戻っているはずだ。
「……遅いわね」
思わず呟いた次の瞬間、爆音が轟いた。
「な、何が起きたのッ?」
イザベラはイスから立ち上がり、窓に駆け寄った。
すると、兵士達が正門から雪崩れ込んでくる所だった。
ボウティーズ男爵領の兵士ではなく、皇軍の兵士だ。
すぐにアークが失敗したことを悟った。
だが――。
「どうして、うちの兵士は応戦しないのよ!」
そんな疑問を口にするが、当然のことながら答える者はいない。
「せめて、あの子だけでも逃がさなければ!」
脳裏を過ぎったのは可愛い一人息子――トールの姿だった。
慈悲を請いたいが、自分達は約束を破ったのだ。
命乞いも通じないだろう。
自分達を許せば、皇軍は刃向かっても許してくれるのだと喧伝することになるからだ。
「トール! トール!」
イザベラは愛しい我が子の名を叫びながら廊下に飛び出し、その場にへたり込んだ。
クロノが目の前に立っていたのだ。
背後にはミノと呼ばれていたミノタウルスが控えている。
この二人を押し退けることなど不可能だ。
それに階下からは荒々しい足音が響いている。
イザベラはクロノの足下に跪いた。
無駄だと分かっていても慈悲を請わずにはいられなかった。
「クロノ様、どうか息子だけは、息子の命だけは」
「…………残念です」
長い、長い沈黙の後でクロノは口を開いた。
「僕は本当にティリアに口添えしても良いと思ってたんです。だから――」
『大将、止めやしょう』(ぶも)
ミノはクロノの肩に触れ、力なく首を振った。
『何を言っても言い訳にしかなりやせん』(ぶも)
「そうだね」
クロノは深々と溜息を吐いた。
殺したくないとその表情が語っている。
だが、彼は自分達を殺さなければならないのだ。
「これから貴方達の処分について話し合います」
「……息子は苦しまない方法でお願いします」
「それだけは約束します」
クロノは神妙な面持ちで頷いた。




