第15話『南進』その1
第14話で騎兵の役割を敵地浸透戦術としていましたが、後方撹乱に修正しました。
※
帝国暦四三三年十二月下旬――レオンハルトは屋敷で香茶を愉しんでいた。
生姜の匂いが鼻腔を刺激する。
体を冷やさないようにという配慮だが、屋敷の中は薄手の長袖で過ごせる程度に温かい。
配慮が必要か甚だ疑問だ。
「……来たか」
ドタドタという音が近づいてくる。
こんな品のない歩き方をする者はこの屋敷に一人しかいない。
「大の男が働きもしねぇで香茶ばっかり飲んで! あんま怠けてると目ん玉潰れちまうだよ!」
リーラの声が響き、レオンハルトは肩を竦めた。
彼女はドタドタという足音を響かせながら隣に立った。
「一応、これも仕事なのだがね」
「仕事ってのは汗水垂らしてするもんだ」
レオンハルトは軽く肩を竦めた。
貧農出身のリーラにとって仕事とは汗を流して働くことらしい。
「香茶だって、ただじゃねぇんだぞ」
「それは分かっているとも」
「い~や、分かってねぇだ」
リーラは腰に手を当て、大袈裟に首を振った。
「今、帝都がどんな状態か分かってるだか?」
「治安が回復したと耳にしたが?」
「何ヶ月前の話をしてるだ。そりゃあ、ちったぁ治安が良くなったこともあっただ。けど、今は元通り……いや、前よりももっと悪くなっただ」
「どういう風にかね?」
「野良仕事してる訳でもねぇのに汚い格好をした連中があちこちほっつき歩いてるし、店は品揃えが悪くなったし、役人が偉ぶってるだ」
浮浪者が増え、流通が滞り、役人の質が低下したと言うことか。
「スラムを浄化したと聞いたのだが?」
「浄化? あれは単なる人殺しだ。それ以上でもそれ以下でもねぇだ。いや、言葉を飾って罪悪感を誤魔化そうとするだけ質が悪ぃだ」
リーラは捲し立てるように言った。
確かに彼女の言う通りだ。
人殺しは人殺しだし、裏切りは裏切りだ。
誤魔化すべきではない。
「スラムはなくなったと聞いたが?」
「イナゴと同じで追っ払っても戻ってくるに決まってるでねぇか。知恵が付く分、イナゴより質が悪ぃだ」
「……なるほど」
レオンハルトは背もたれに寄り掛かった。
「もう田舎さ、帰りてぇだ」
「残念だが、しばらくは帰れんよ」
「レオンハルト様が帰ってくれりゃ帰れるだ。まったく、暇を貰ったんだからさっさと帰っちまえば良いのに」
リーラは不満そうに頬を膨らませる。
「そんなに田舎が恋しいのかね?」
「恋しいに決まってるだ」
「そうかね」
「そうだ」
リーラは鼻息も荒く頷いたが、レオンハルトには理解できない。
故郷を恋しいという気持ちは分かる。
分かるのだが――。
「恋しがるほど良い思い出があったとは思えんがね」
「そりゃあ、オラのうちは生活が苦しかっただ」
ふむ、とレオンハルトは頷く。
税の代わりに娘を差し出すほど困窮していたのだ。
それを苦しかったで済ませる感性を理解できない。
「けど、苦しかっただけでもねぇだよ」
「……ほぅ」
小さく声を上げる。
それだけだ。
正直、どんな反応をすれば良いのか分からない。
「たとえば……たとえば、何があっただかな?」
「それで、用件は何かね?」
長引きそうなので、話を打ち切る。
どんな思い出があるのか興味はあるが、リーラに付き合っていたら日が暮れてしまう。
「ああ、そうだっただ! 御館様から書簡が届いただよ」
リーラが無造作に書簡を差し出す。
他の使用人に警戒心がないのではないかと言われることもあるが、下手に知恵の回る者よりも信用できる。
レオンハルトは書簡を掴むが、リーラは手を放そうとしない。
ニコニコと笑っている。
「ありがとう」
「礼なんて良いだよ」
リーラは照れ臭そうに笑う。
礼を強要されたような気がするが、この程度で満足してくれるのだから可愛いものだ。
レオンハルトは紐を解き、書簡を広げた。
そこに書かれた文章を目で追い、小さく溜息を吐く。
「なんて、書いてあっただか?」
「リーラと同じことを言われてね」
「流石、領主様だ。やっぱ、大の男が昼間からダラダラしているのは間違ってるだ」
リーラは腕を組み、満足そうに頷いた。
そう単純でもないがね、とレオンハルトは心の中で返す。
これは謹慎を言い渡された直後に送った書簡に対する返信だ。
「私の部屋から筆記用具を持ってきてくれないかね?」
「分かっただ」
そう言って、リーラはドタドタという足音を響かせて歩き始めた。
品のない歩き方だが、嫌いではない。
「……まったく」
レオンハルトは頬杖を突いた。
書簡の内容を思い出し、小さく溜息を吐く。
お前は自分の心配をしろ。
それがアルフォートと距離を置くべきだという忠告に対する答えだった。
当主と嫡男は一族の利益を第一に考えなければならない。
それが父の教えだ。
馬鹿な真似はしないと信じたいが、不安を拭い去ることはできない。
彼は自分の教えを徹底しきれていない。
基本的には一族の利益を優先しているが、しばしば情に流され、欲に目が眩む。
その結果、父はパラティウム公爵家に微々たる損害を与えてきた。
恐らく、本人は――使用人でさえも損害と考えていないに違いない。
だから、学ばない。
同じ過ちを繰り返す。
「……さて、彼ならば」
地方貴族が帝国を牛耳っていると知り、義憤に駆られている頃か。
それとも、子飼いの部下に指示を出している頃合いか。
ティリア皇女が挙兵したと知り、身の振り方を考えている可能性もゼロではない。
「趨勢が明らかになるまで動かずにいてくれるとありがたいのだがね」
ティリア皇女とアルフォート――どちらが勝つのか見極め、身の振り方を決める。
そんなことを考え、自分のゲスさに自嘲する。
こんな男が『聖騎士』などと呼ばれるのだから世の中は皮肉で満ちている。
真の『聖騎士』ならば友のために戦っただろうに。
「……言葉を飾っても裏切りは裏切りか」
呟きを掻き消すようにドタドタという音が響く。
「レオンハルト様、持ってきただよ」
「ありがとう」
リーラは欠けた歯を剥き出して笑い、テーブルに筆記用具――羽ペンとインク壺を置いた。
さて、とレオンハルトは羽ペンを手に取り――。
「レオンハルト様」
「何だね?」
リーラに名前を呼ばれて手を止める。
「御館様にあんまり酷いことを書いちゃ駄目だぁよ?」
「どうしてかね?」
「オラのうちには弟がいるんだけんど……」
「……ふむ」
羽ペンをテーブルに置く。
「下の弟に注意されると、上の弟は不機嫌になるだ」
「見当違いのことでも言われたのかね?」
「うんにゃ、オラにゃ真っ当な注意をしたように見えただ」
「それならば、何故?」
「筋の通ったことでも弟に言われると腹が立つもんだ」
「理不尽だね、それは」
「世の中はそういうもんだ」
リーラはしたり顔で言い、黙り込んだ。
何か言いたそうにこちらを見ている。
「まだ、分からねぇだか?」
「私はそこまで馬鹿じゃないよ。リーラは私に父上に対する諫言を止めろと言いたいのだろう?」
「今一つ分かってねぇだな」
リーラは深々と溜息を吐いた。
「言葉を選べって言ってるだよ」
「私も言葉を選んで欲しいと思っているのだがね?」
「揚げ足取りは止めてけろ」
偽らざる気持ちなのだが、リーラはムッとしたように眉根を寄せた。
「それに、オラ達は家族みてぇなもんだから遠慮はしなくても良いだ」
「随分、歪んだ家族もあったものだね」
ついつい皮肉が漏れてしまう。
「まあ、そこはどうでも良いだ」
「どうでも良いのかね?」
「大切なのは今だ」
「いやはや、女という生き物は」
本当に逞しい。
いや、リーラが特別なのだろうか。
どちらにせよ、驚嘆すべき図太さには違いあるまい。
「レオンハルト様には周りの人間が馬鹿に見えるかも知れねぇけど、人間には感情ってもんがあるだ」
「つまり、言葉を飾れと?」
「そういうことだ」
えへん、とリーラは胸を張った。
「何故だろうね。先程、正反対の意見を聞いたような覚えがあるのだが?」
「時と場合によるだよ。レオンハルト様は一周回って馬鹿なんだな」
「まったく、耳が痛い」
レオンハルトは肩を竦めたが、もっともな意見だと感じていた。
今まで婉曲的に諫言するというアプローチをしてこなかった。
「さて、どんな文面にするべきか」
レオンハルトは脚を組み、文案を練り始めた。
※
クロノは足下を確かめながら号令台の階段を登る。
ドワーフの職人が作った号令台だ。
品質は折り紙付きだ。
ミノタウルスやリザードマンの体重さえ難なく支えるに違いない。
にもかかわらず、薄い板の上を歩いているように頼りなく感じた。
緊張のせいだ。
階段の途中で顔を上げると、人々の姿が視界に飛び込んできた。
見渡す限り、人、人、人だ。
自分の部下だけならばここまで緊張しなかっただろう。
だが、ここ――出陣式の会場にいるのは自分の部下だけではない。
老騎士、義勇兵、諸部族連合の傭兵、近衛騎士、五つの領地から集まった正規兵、兵站を担う行商人、炊事洗濯などをこなす女達――その数はおよそ一万四千人。
見物人を含めれば人物は倍以上に膨れ上がるだろう。
それだけの人々がクロノの一挙手一投足に注目しているのだ。
緊張して当然だ。
頭の中が真っ白になりかけるが、深呼吸を繰り返して冷静さを取り戻す。
完全に頭の中が真っ白にならなかった理由は分からない。
幾度も修羅場を乗り越えたお陰か。
それとも、人の上に立つ経験を積んだからか。
あるいはみっともない姿を見せたくないという見栄か。
皆はよく普通に話せるな、とクロノは苦笑する。
ブラッド、ティナ、トレイス男爵、メサルティム男爵、ボサイン男爵は普通に話していたように思う。
いや、とクロノはトレイス男爵のことを思い出して笑みを深めた。
何と言うか、彼はやり過ぎた。
汗を掻き、唾を飛ばし、身振り手振りを交えてアルフォートの非道を訴え、ティリアのことを称賛した。
怪しげな宗教か、路上販売のサクラのようだった。
トレイス男爵に比べればまともに見えるか、とクロノは階段を登り、号令台の中央に立つ。
そこにあるのはマイクとマイクスタンドだ。
マイクはエリルが、マイクスタンドはドワーフの職人が作ったものだ。
クロノはポケットから原稿を取り出し、折り畳んでいたそれを開こうとした。
その時、風が吹いた。
砂埃が舞うほど強烈な風だ。
原稿が風に攫われていく。
クロノが顔を上げると、笑いを堪えているのか、見物人までもが笑いを堪えるように震えていた。
「参ったな。風に飛ばされちゃったよ」
堪えきれなくなった一部の将兵が噴き出した。
さらに――。
「風に飛ばされちゃったとか超ウケるし!」
「流石、クロノ様! 期待を裏切らない男!」
アリデッドとデネブの声が聞こえた。
覚えてろ、と心の中で復讐を誓う。
「まあ、僕が言いたいことは他の人が言ってくれたし、大したことを言うつもりもなかったし。皆も早く話を切り上げて欲しいと思ってるでしょ?」
クロノが肩を竦めると、将兵達はどっと笑った。
嘘である。
この日のために他の領主に負けない演説を考えていた。
「僕が言いたいことはそう多くないんだ。まず、略奪や強姦は認めない。略奪の必要がないように商会と行商人組合が協力してくれてるし、強姦しないように……まあ、何と言うか、娼婦の方々に協力して貰ってる」
将兵がどっとと笑う。
もっとも、何割かは派手な衣装に身を包んだ女達を見ているが。
「次に当たり前なんだけど、命を大事にしようってことだ。どんな状況でも生きることを諦めないで欲しい」
クロノは親征のことを思い出しながら言葉を紡いだ。
親征で大勢の部下を失った。
強い意思があれば生き延びられるとは思わない。
どんなに強い意思があっても、どんなに気高い理想があっても死ぬ時は死ぬ。
一方で、強い意思が命を繋ぐこともあると思う。
「戦場は無慈悲だ。諦めなければ生き延びられるなんて嘘は吐けない。でも、諦めたらそこで終わってしまうこともある」
クロノは首飾りを握り締めた。
最初に思い出したのは親征――帝国に帰還するべく街道を進んでいた時のことだ。
傷が悪化して死ぬ者も多かったが、気力が萎えて死んでしまう者も多かった。
次に死の試練を思い出す。
あの激痛の中で正気を保っていられたのは強い意思があったからではないだろうか。
「だから、最期まで諦めないで欲しい」
クロノは将兵達を見つめた。
この戦いで――クロノ達が掲げた理想のために大勢が死ぬだろう。
できれば、と思う。
もっと時間を掛けて、犠牲を出すことなく理想を成就したかった。
理想を道具にしたくなかった。
だが、今更だ。
もう引き返すことはできないのだ。
多くの将兵がこの戦いで死ぬだろう。
犠牲が避けられないのならばそれに見合うだけのものを築かなければならない。
「……僕が言いたいのはこれだけだ。皆、生きて帰ろう」
クロノは踵を返し、号令台から下りた。
号令台を下りた所にティリアが立っていた。
いつもと同じ白い軍服を身に纏っている。
「見事な演説だったぞ」
「アドリブの割に?」
「まあ、な」
ティリアは苦笑じみた笑みを浮かべる。
「もう少し場を温めておきたかったんだけどね」
「いや、あれで十分だ」
「あとは任せたよ」
「もちろんだ」
ハイタッチを決めたい所だったが、そのまま擦れ違う。
ティリアは号令台の前で立ち止まり、ゆっくりと階段を上がった。
号令台の中央で立ち止まり――。
「諸君! 機は熟したッ!」
声を張り上げた。
ザッという音が響く。
ティリアの言葉を聞き、将兵達が一斉に姿勢を正したのだ。
「同盟の結束は固く、我が軍の練度は高い! 未来を憂う臣民の協力によって物資の不足を心配する必要もない!」
おおッ、と将兵達がどよめく。
兵士はともかく、百人隊長クラスには情報が伝わっているはずだが、ティリアの口から聞くと異なる意味を持つようだ。
「南辺境の新貴族は我々の理想に共鳴し、進軍ルートにある領地を治める貴族達はボウティーズ男爵を除き、協力を約束してくれた! 我々を阻む者は偽帝アルフォートと私腹を肥やす悪漢どもだけだ!」
流石だな、とクロノはティリアを見つめた。
ティリアの言葉には嘘――本当ではないことが含まれている。
進軍ルートにある領地を治める貴族達は協力を約束していない。
強いて言えば中立――行軍の邪魔をしないと約束しただけだ。
それも非公式に。
もし、皇軍が敗走するようなことになれば約束を反故にする可能性が高い。
「今こそ偽帝を廃し、我々の理想を叶える時だッ!」
オーッ! と将兵達が雄叫びを上げた。
大気が震え、体が熱くなる。
冷静さを保たなければならないと分かっていても衝動に身を委ねたくなる。
そんな気持ちに冷や水を浴びせたのは他ならぬティリアだった。
「だが! だがしかしッ!」
場が一転して静まり返る。
「我々は正しい戦いを行わなければならない。略奪、殺人、強姦など……蛮行を行ってはならない。もし、蛮行を行えば、理想は汚れ、我々は略奪者として歴史に名を刻むことになるだろう」
ティリアは静かに語り掛けた。
「このことを一兵卒、いや、この戦いに関わる全員が理解しなければならない。蛮行を行う者が出ないと信じたいが、万が一にでも蛮行を行えば厳罰に処す。もちろん、そうならぬように最大限の努力をしている。まあ、どんな努力をしているかはクロノの話を思い出して欲しい」
ティリアが恥ずかしそうに俯くと、将兵達はどっと笑った。
笑いが鎮まった頃、ティリアは顔を上げた。
「さあ、戦いを始めよう」
※
『二百番、二百番の幌馬車は何処だ?』(がうがう?)
「おい! 一人足りねーぞ!」
「生きて、生きて帰ってきて!」
「だ、誰だ! 俺の足を踏みやがったのは!」
「あ、うんうん、あたしは三百番だから。だから、遊びに来てね。サービスするから」
『百五番、百五番』(ぶもぶも)
『……』(シュ~)
「ちょっと! 客引きしてないでさっさと来なさい!」
シルバニアの近くに設けた馬車乗り場は人々でごった返していた。
南進に参加するのは七千人弱。
幌馬車の数は七百台近い。
混乱を予想して予想演習を行い、その時は上手くいったのだが――。
「やっぱり、乗り場を分散させれば良かったかな」
「そうだな」
クロノがぼやくと、ティリアが頷いた。
「……迷ったの?」
「迷う訳がないだろう」
ティリアはムッとしたように眉根を寄せ、親指で背後を指し示した。
かなり離れた場所に四頭引きの箱馬車が留まっていた。
この日のために用意した箱馬車はキャンピングカーも真っ青の性能を誇る。
その周囲には老騎士達がいた。
供回りとして選ばれた者とそうでない者が別れの挨拶をしているのだ。
「それにしてもお爺ちゃん達……傾いてるよね」
「黙っててやれ。彼らには最後の晴れ舞台かも知れないんだ」
流石に板金鎧を着ている者はいないが、ど派手な帽子を被ったり、陣羽織のようなものを羽織ったりしている。
「マンチャウゼン、アロンソ、儂らの分もティリア皇女を守ってくれ!」
「もちろんじゃ!」
「お主らこそ元気でな。カイ皇帝直轄領での再会を楽しみにしておるぞ!」
そう言って、三人は抱き合った。
盛り上がっているのが三人だけかと言えば違う。
「死に急ぐなよ。ティリア皇女を守るんだぞ」
「分かっている。だが、もしもの時は……」
「ああ、あの世で会おう」
こんな風に老騎士達が涙と鼻水で顔をグシャグシャにし、おいおいと泣きじゃくる光景があちこちで展開されている。
そんな老騎士達を避けながら白い制服を着た男――ブラッドが近づいてきた。
何故か、セシリーも一緒だ。
「クロノ殿!」
「ブラッド殿!」
「義兄さんと呼んでくれても良いんだよ」
ブラッドは優しげな笑みを浮かべた。
その笑みに背筋が凍り付く。
「妹から話は聞いているよ」
「そ、それは……」
クロノが視線を向けると、セシリーは顔を背けた。
どうするんだ? とティリアが肘で小突いてきた。
いざ出陣というタイミングで何てことだ。
ここは土下座をするしか、とクロノはジリジリと後退った。
「上手くやっているみたいで安心したよ」
「え?」
思わずブラッドを見つめる。
だが、彼は裏表のなさそうな笑みを浮かべている。
「セシリー?」
「わたくしは貴方がどれだけ破廉恥な行いをしたのか正直に言いましたわ! だと言うのに、だと言うのに……くぅぅぅぅッ!」
セシリーは下唇を噛み締めた。
「このタイミングで言うのはどうかと思う」
「今言わずしていつ言えば良いんですの?」
「せめて、戦いが終わるまで待ってよ」
同盟にヒビを入れるような真似をするなんてとんでもない女だ。
この戦いが終わったらお仕置きだ。
「仲が良いな」
「お前にはそう見えるのか?」
「ああ、父と母を見ているようだ。まあ、残念ながら父にはクロノ殿ほどの才能はなかったが……」
ティリアは信じられないものを見たと言わんばかりの表情を浮かべた。
「才能、才能か……うん、まあ、良いんじゃないか」
「ティリア皇女!」
セシリーが悲鳴じみた声を上げた。
「では、私達は先に行きます。次は帝都で……」
「ご武運を」
「しっかり頼むぞ」
ブラッドが敬礼し、クロノとティリアは返礼した。
第五近衛騎士団の役割は諸侯の懐柔と後方撹乱――流通に負荷を掛けることだ。
帝国軍の後背を突ければと思うが、これは欲張りすぎだろう。
「さあ、行くぞ」
「お兄様! お兄様は勘違いしてますわ!」
ブラッドはセシリーを引き摺っていった。
お兄様! という声はしばらくして聞こえなくなった。
やや遅れて――。
「セシリー! セシリー!」
ヴェルナがやって来た。
「クロノ様、セシリーを見なかったか?」
「あっちに連れて行かれたよ」
「今生の別れかも知れねーのに冷たいヤツだな」
チッ、とヴェルナは可愛らしく舌打ちした。
「まだ間に合うかもよ?」
「ああ、ちょっくら行ってくるぜ」
「また、遅れるな」
ヴェルナが人混みに姿を消し、ティリアがボソリと呟いた。
「クロノ様!」
「おっと!」
クロノはスノウを受け止めた。
「迷ったの?」
「違うよ! 挨拶に来たんだよ!」
スノウは顔を上げ、不満そうに頬を膨らませた。
「いつでも会えるじゃない」
「ボクとクロノ様の馬車がどれくらい離れてると思ってるの?」
「そうだね」
クロノが乗る馬車は先頭、スノウが乗る馬車は……確か百番台だったはずだ。
「それにボクだって子どもじゃないんだし、クロノ様と会えなくなるのは分かるよ」
「もう一回言って」
「ボクだって子どもじゃないんだし」
「おお~」
クロノが感動に身を震わせていると、ティリアが肩を掴んだ。
「戦いが終わったら入院しろ」
「なんで?」
「お前は病気かも知れない」
「そんなことないよ」
「なら強制入院だな」
「じゃあ、ボク達が看病してあげる」
「ボク達?」
何かを察したのか、ティリアは目を細めた。
「スノウ、抜ケ駆ケ、ダメ」
「……同じ馬車なのだから三人で行動すべき」
大きなリュックを背負ったスーとリザードマンがスノウに歩み寄る。
「エリルは?」
『……背中に』(しゅ~)
リザードマンが背中を向けると、エリルが背負子のような物に乗っていた。
「また太るよ?」
「……問題ない。適正体重は維持している」
淡々とした口調だったが、ちょっと目が泳いでいる。
また少し太ったのかも知れない。
「どうして、背負子に?」
「……減量に成功したが、私の機動力は高くない。よって、リザードマンのドラゴにそれを補って貰っている」
エリルは得意げに小鼻を膨らませた。
「大丈夫?」
『……問題ない』(しゅ~)
リザードマン――ドラゴはチロチロと舌を出し入れさせながら言った。
「……彼は無口だけど、私達はしっかりとコミュニケーションが取れている」
「そう? だったら良いんだけど」
リザードマンが無口なのを良いことに好き勝手しているのではないかと心配になる。
『……大丈夫。エリル、守る』(しゅ~)
「頼んだよ」
ドラゴはしっかりと頷き、歩き出した。
スノウとスーが続く。
「クロノ様、またね!」
「マタ」
「……」
三人が手を振り、クロノも手を振る。
「お前も――」
「クロノ様!」
「……ハーフエルフ」
レイラに言葉を遮られ、ティリアは顔を顰めた。
「もう行くの?」
「はい、私は――」
「あたしらも先遣隊みたいな!」
「久しぶりに弓騎兵に復帰だし!」
アリデッドとデネブが左右からクロノに抱きついてきた。
なかなかの衝撃だ。
「……」
「……ふっ」
レイラが微かに眉根を寄せ、ティリアは良い気味だと言わんばかりに笑みを浮かべた。
「ケインは?」
「ちょっと離れた所で準備してるみたいな!」
「格好付けて出てきたからバツが悪いって言ってたし!」
「まあ、そうだろうね」
覚悟を決めてシルバニアを出たのに戻ってきてしまったのである。
流石にバツが悪かろう。
「フェイは?」
「もう馬に乗ってるし」
「チャンスであります、チャンスであります、チャンスでありますって、超怖い」
「チャンスって」
個人的には先遣隊が活躍するような事態になって欲しくない。
クロノが視線を向けると、レイラは任せて下さいと言うように頷いた。
「……クロノ様。では、また」
「気を付けてね」
「はい!」
レイラは力強く頷き、踵を返した。
「クロノ様、あたしらには?」
「熱い口付けを所望みたいな!」
「この戦いが終わったら覚えてやがれ」
「こ、これは愛の告白みたいな!」
「違うし! これは説教の予告だし!」
アリデッドは曲解したが、デネブは正しく理解しているようだ。
「大丈夫だし! クロノ様は戦いが終わった後で説教するような真似はしないし!」
「そうかも! クロノ様は優しい人だし!」
「そうか?」
「し、し、信じてるし!」
「し、信じることが大事だし!」
ティリアが首を傾げると、アリデッドとデネブは狼狽した様子で言った。
たった一言で信じられなくなるとは――。
「二人ともさっさと行け」
「無慈悲な一言だし!」
「もしかして、助け船みたいな?」
「泥船かも知れないぞ?」
「無体!」
「しかし、ここは逃げるべき!」
ティリアがニヤリと笑い、アリデッドとデネブは逃げ出した。
「アリデッド! デネブ!」
「逃げ出したばかりなのに立ち止まってしまうあたしら!」
「でも、そんな自分が気に入ってたり!」
クロノが声を掛けると、アリデッドとデネブは立ち止まった。
そんな二人に微笑みかける。
「二人とも気を付けてね」
「ほ、微笑みに不安を覚えるし!」
「最期まで諦めないし!」
そう言って、アリデッドとデネブは走り出した。
「さて、僕も行こうかな」
「そう言えば侯爵邸の連中は来ないんだな」
「皆とは挨拶を済ませたから」
むふ、とクロノは笑った。
実に情熱的な挨拶だった。
「私と話しているのに他の女の――」
「クロノ様、こんな所にいたんだねぇ」
「……ぐぬ」
女将がクロノに歩み寄り、ティリアは顔を歪めた。
ちなみに女将もコックとして参加する。
「何かトラブル?」
「そんなんじゃないよ。まあ、何だ、行軍に参加するって言ってもあたしはコックだからね。自由に会える訳じゃないから挨拶に来たんだよ」
「ちょくちょく会えると思うけどな~」
「だと良いけどね」
そう言って、女将は苦笑した。
「……帝国と一戦か。世間知らずの坊ちゃんが成長したもんだねぇ」
「僕の成長には女将も一枚噛んでいる訳だけど」
「そういうことを言うんじゃないよ。ティリア皇女が怖い目で見てるじゃないか」
隣を見ると、ティリアは笑っていた。
だが、目は笑っていない。
「そういうことであたしは自分の馬車に行くよ」
「大丈夫だと思うけど、気を付けてね」
「クロノ様ほど危険じゃないよ」
女将はヒラヒラと手を振り、その場から立ち去った。
「そうだな。お前ほど危険じゃないな」
「今、ヒシヒシと身の危険を感じてるよ」
「素晴らしい危険察知能力だな。まあ、察知できても対応できるとは限らんが」
「殺害予告!」
「安心しろ、子どもが生まれるまでは生かしてやる」
ティリアはニヤリと笑い、唐突に真剣な表情になる。
「クロノ、気を付けるんだぞ」
「そっちもね」
どちらからともなく笑い、自分の馬車に向かう。
「……やっぱり、乗り場を分けるべきだったな」
クロノは横目で将兵達を見ながら自分の馬車に向かう。
シロとハイイロはアリスンを始めとする子ども達と、タイガは虎の獣人と別れを惜しんでいた。
『大将、こっちですぜ!』(ぶも!)
「分かった!」
副官が幌馬車から叫び、クロノは歩調を早めた。
『迷ったんですかい?』(ぶも?)
「色々あってね」
クロノは副官の手を借りて幌馬車に乗る。
「ミノさんは家族と別れを済ませた?」
『感動的とは言いづらい別れになりやしたがね』(ぶも)
副官が歯を剥き出して笑い、クロノは奥に進んだ。
「お疲れ様です」
「疲れるのはこれからじゃ。あ~、嫌じゃ、嫌じゃ。戦なんぞするもんじゃないわい」
座席に座ったままシオンは頭を下げ、神官さんは頭を振った。
ちなみに神官さんの足下には酒の空き瓶が転がっている。
クロノは小さく溜息を吐いた。
神官さんが切り札の一つかと思うと、不安が込み上げてくる。




