第14話『理由』
※
帝国暦四三三年十二月中旬――明け方まで降り続いた雨のせいか、アレオス山地は霧に覆われていた。
クロードは山を見上げて目を細めたが、いくら目を細めても霧を見通すことはできなかった。
「……凍えちゃいねぇだろうな」
クロードはぶるりと身を震わせ、苦笑した。
昔は蛮族――ルー族の襲撃を警戒していたが、今は心配をしているのだ。
苦笑の一つも漏れるというものだ。
苦笑を浮かべながら泥濘と化した地面を歩き、丸太の前で立ち止まる。
胴ほどの太さがある丸太だ。
表面には無数の傷が刻まれている。
隣を見ると、そこにも丸太があった。
その隣、さらにその隣――無数の丸太が等間隔に地面に打ち込まれている。
クロードがいるのは練兵場だ。
ここで一万の兵士――南辺境駐屯軍五千、南辺境出身者含む退役軍人五千――が訓練に励んでいる。
その中には第二近衛騎士団団長タウル・エルナト伯爵の息子ガウルもいる。
反乱軍、いや、皇軍として偽帝アルフォートを討つために。
「……デカい話になりやがったな」
クロードは顎を撫でさすった。
十月の時点では帝国と戦おうとは思っていなかった。
麦を寄越せと言う馬鹿どもに不満の意思を示し、相手が譲歩の姿勢を見せれば応じるつもりだった。
だが、帝都にいるオルトから息子――クロノに謀反の疑いがかけられたという連絡を受けたことで状況が変わった。
相手は罪をでっち上げ、他人の財を掠め取ることを良しとする人間なのだ。
譲歩すれば譲歩した分だけ踏み込んでくる。
ならば戦うしかない。
その決断を後押ししたのはジラント男爵の息子ドラゴンを始めとする南辺境出身の軍人とその部下だ。
さらにクロノがティリア皇女を擁立して反旗を翻したことで状況は劇的に変化した。
「十中八九、あのオッパイの差し金だろうが……」
クロノに帝国と敵対する度胸があるとは思えない。
あのオッパイ――ティリア皇女が煽動したと考える方が自然だ。
「俺達には渡りに船だったな」
ティリア皇女から送られてきた書簡のお陰で駐屯軍を取り込めた。
軍費を削られて空きっ腹を抱えていてもプライドというものがある。
差し出された食事を受け取るためには大義名分が必要だった。
あとは戦後の利益か。
「……旦那様」
「何だ?」
呼びかけられて振り返ると、メイド服姿のマイラが立っていた。
丁寧に折り畳まれたマントを抱いている。
黒いマントだ。
現役時代――傭兵だった頃はこの色を好んでいた。
どうして、黒なのか。
そんな質問をされた時は格好良さげな台詞を吐いたものだ。
まあ、実際は夜陰に紛れるのに都合が良いからだ。
暗がりでマントを被り、何度も敵の追撃を躱したものだ。
「マントを」
「いらねぇよ」
「……旦那様」
マントを突き返すと、マイラは深々と溜息を吐いた。
「年寄りの冷や水という言葉をご存じですか?」
「……知ってるけどよ」
クロードはマイラを見つめた。
彼女が着ているのはメイド服――ふりふりの、可愛い、メイド服だ。
それを自分と大して歳の変わらない女が着ているのだ。
自分のことを棚に上げて何を言っているんだと思わなくもない。
「では、その鎧と大剣は?」
「決まってるだろ。倉庫から引っ張り出してきたんだよ」
クロードは自分の姿を見下ろした。
着られなくなっていたらと心配していたのだが、ちょっと腹がキツいくらいだ。
「けど、少し違和感があるな」
「……旦那様」
マイラは再び溜息を吐いた。
「何だよ?」
「私達が戦える時期はとうに終わったのです」
諭すような口調だった。
「俺は終わったなんて思ってねぇよ」
「……旦那様」
クロードが反論すると、マイラは眉根を寄せた。
「お言葉ですが、私達が戦える時期はとうに過ぎ去ったのです。戦場に立てば無駄に命を散らすだけです」
「……そうかもな」
クロードは少し間を置いてから答えた。
マイラの言葉は事実だ。
現役時代は殺される自分を想像できなかったが、今は殺される自分を想像できる。
「ネージュに会ったのは一月だったか?」
「生きた心地がしませんでした」
「あの野郎、今の俺じゃ勝てねぇとほざきやがった」
「事実です」
「だろうな。俺もそう思うぜ」
「は?」
クロードが同意すると、マイラは鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべた。
「おいおい、あんなバケモノと戦って勝てる訳ねぇだろ。全盛期なら勝てたとか言ってやがったが、無理に決まってる」
「は、はあ」
マイラは困ったように眉根を寄せた。
「大体、戦う時期が過ぎたなんてのは俺が一番分かってるんだよ」
クロードは大剣の柄にそっと触れた。
いつ、それに気が付いたのだろう。
息子――クロノが『死の試練』で死にかけた時か。
女房――エルアが死んだ時か。
南辺境の開拓が終わった時か。
「多分、反乱を起こそうとして考え直した時だな。あの頃には戦士としての俺は終わっちまってたんだ」
あの時、反乱を起こしていれば戦士として再起できたかも知れない。
だが、そんなことよりも自分を慕ってくれる領民の方が大事だった。
今にして思えばその前から前兆はあったように思う。
恐らく、それは――。
「俺の強さは何も持っていないからこそのものだったんだろうよ」
持たざる者の強さ。
だから、大事なものができた時に失われてしまったのだ。
「では、何故?」
「そりゃ、今が戦わなきゃいけねぇ時だからだ。大体、戦いってのは力があるからするもんじゃねぇだろ?」
初めて武器を取った時、敵に勝てると確信していただろうか。
いや、そんな訳がない。
ビビっていた。
心底、ビビっていた。
それでも、武器を取ったのは戦わなければ奪われると学んでいたからだ。
「昔はムカつくからぶん殴ると仰ってましたが――」
「今だって変わってねぇよ。従いたくねぇのに従えって言ってきやがるんだ。これ以上は拳で語るしかねぇ」
「帝国と敵対するには底が浅すぎるのではないかと」
「馬鹿や――」
「私は女ですが?」
「馬鹿女や馬鹿アマだとニュアンスが違っちまわねぇか?」
馬鹿野郎よりも罵倒っぽい感じがする。
「では、馬鹿野郎で」
「馬鹿野郎。もち――」
「先程より口調が弱々しく感じられましたが?」
「話が進まねぇよ」
クロードは深い溜息を吐いた。
「ったく、昔はもっと扱いやすかったのによ」
「昔は奴隷でしたので」
「オルトのヤツは昔と変わらねぇぞ」
「続きをどうぞ」
歳を取って面倒臭くなりやがったなぁ、とクロードは再び溜息を吐いた。
「まあ、ムカつくからぶん殴るってだけでもねぇよ」
「平民会と貴族会でしたか?」
「ああ、俺達の利益になる」
「もっと力があれば良かったのですが」
「力があったとしても時間がねぇ」
そもそも、クロード達が帝国を手に入れることはできないのだ。
少しずつ領土を奪うにも時間が足りない。
「いえ、私はまだまだ生きられますので」
「俺が保たねぇって言ってるんだよ。それに、このゴタゴタは俺達――クロノの代で終わらせるべきもんだ」
「そうですか」
何処まで本心か分からないが、マイラは残念そうに溜息を吐いた。
「あとは個人的な理由だな」
「エルア様の件ですか?」
「いや、個人的な理由だ」
エルアは自分が子どもを望めない体であることに苦しみ、そのことを詫びながら死んでいった。
エルアと一緒に過ごした日々は幸せだった。
だが、彼女の最期を思い出すと、後悔の念が湧き上がってくる。
どうして、エルアのことをもっと気遣ってやれなかったのか。
どうして、自分はあんなに無神経でいられたのか。
どうして、あの女は――。
「旦那様?」
「何でもねぇよ」
マイラの声で現実に引き戻され、軽く頭を振る。
「やはり、エルア様の件ですか」
「個人的な理由って言ってるだろ」
きっと、エルアは復讐を望まない。
だから、これは個人的な理由だ。
「分かりました。旦那様は個人的な理由で戦うと」
「優先順位が高ぇってだけだ」
流石に個人的な理由だけで帝国と戦おうとは思わない。
だが、大義名分のためだけに戦おうとも思わない。
「けど、まあ、そんなもんだろ。皆、自分の利益や野心のためにティリア皇女の理想に乗っかってるんだ」
「ジョニーは違うようですが?」
「アイツはな」
兄貴のために頑張るッス! ガンホー! ガンホーッ! とやる気満々だ。
ガンホーとは何か。
マジックアイテムを使っても翻訳できなかったので、掛け声のようなものだろう。
「どうして、アイツはあんなにクロノを慕ってるんだ?」
「修業の成果ではないかと」
「修業って、アレオス山地に放置しただけじゃねぇか」
「そこで仕えるべき主と定めたのでは?」
「そうか?」
「それ以外に考えられません」
マイラは力強く言い切った。
そんな宗教的体験をしたようには思えないが、それを口にしても否定されるのがオチなので黙っておく。
「ジョニーは別として、ガウルのヤツだって個人的な理由で戦ってる」
「本人は皇軍に参加するのは貴族としての義務と仰っていましたが? あとはクロノ様と約束したとも」
「信じちゃいねぇだろ?」
「信じたフリくらいはするべきかと」
クロードが問い返すと、マイラはあっさりと同意した。
クロノとガウルの繋がりは薄い。
頻繁に遣り取りをしている訳でもない。
出産祝いを送ってきたが、逆に言えばその程度の繋がりしかない。
「事情は分かりましたが……」
「命の遣り取りをするつもりはねぇよ。ちょっと話したいだけだ」
その後は成り行きに任せるけどな、とクロードは笑った。
※
「帰還した兵士は一万弱か。存外、戻ってくるものだな」
ラルフは読み終えた報告書を机の上に置き、イスの背もたれに寄り掛かった。
ルーカスが敗北してから二週間――反乱軍に対抗すべく軍の再編制を行っている。
当然、軍務局長であるラルフの負担は相当なものになっている。
激務と言っても差し支えないが、押し寄せてくる疲労感を心地良く感じる。
「針金で作った障害物、馬防柵、新式の弓、クロスボウ、夜襲、兵站破壊、第五近衛騎士団の参戦……そして、毒」
帰還した兵士の証言を元に作られた報告書の内容――その中でも印象深かった単語を口にしてみる。
よくもまあ、と反乱軍が使った戦術の数々に感心させられる。
ただ、どれも目新しいものではない。
騎兵を無力化し、歩兵の突撃を押し留めた針金で作った障害物。
これとて古い文献に似たようなものが記されている。
反乱軍の力を見誤ったという思いがある。
だが、――。
「勝てる戦いだったというのにルーカスの馬鹿め」
ラルフは小さく吐き捨てた。
戦死者の数だけ見れば帝国軍の大敗だが、不利だったのは反乱軍の方だ。
反乱軍もそう考えていたからこそ、帝国軍の継戦能力を奪おうとしたのだ。
つまり、最初から犠牲を恐れずに戦っていれば勝てたのだ。
勝てなくとも痛撃を与えることはできた。
いや、と小さく頭を振る。
ルーカスは第八近衛騎士団という無能集団を抱えていた。
軍は一枚岩でなければならない。
そこに無能や反抗的な者が交じっていれば必勝の策も、正しい采配も意味を失う。
「……そうだ。あれは私の責任ではない」
三十余年前――内乱期の屈辱が鮮やかに甦る。
リブラ家は皇帝に仕える騎士の家系だった。
父も、祖父も、曾祖父も皇帝のために勇敢に戦ったと聞かされている。
皇帝に下賜された品やリブラ家の名が文献に残されていないことから活躍はしていなかったと思われる。
要するに何処にでもあるような騎士の家系だったのだ。
鳶が鷹を生む。
平凡な親から優れた子どもが生まれることのたとえだが、リブラ家は凡庸な歴史の果てにラルフを生みだした。
両親、祖父母は一族が存在していたのはラルフを生むためだったと言い、ラルフ自身もそのように考えていた。
幼い頃から周囲の人間が馬鹿にしか見えなかった。
実際、六歳になる頃にはラルフにチェスで勝てる者はいなくなった。
十歳になる頃には家にある本を読み尽くし、神童と呼ばれた。
先々代皇帝がその噂を聞きつけ、ラルフを茶会に招くほどだった。
十五歳で初陣を迎えた時にはすでに参謀として扱われていた。
ラルフはその肩書きに恥じない働きをした。
地方領主の反乱、神聖アルゴ王国との戦い――不利な戦いもあったが、その全てを勝利に導いた。
先々代皇帝の下でラルフは我が世の春を謳歌していた。
望めば家格の高い貴族の娘を娶ることもできたが、ラルフは独身を貫いた。
女に興味がなかったこともあるが、余計な雑事に煩わされたくなかった。
歴史に名を刻む。
それだけがラルフの望みだった。
順調にいけば歴史に名を残せていたはずだが、それはならなかった。
あの内乱が全てを台無しにした。
「くっ、無能どもめ」
今思い出しても腸が煮えくり返る。
ラルフはラマル五世によって軍師――軍の最高責任者に抜擢されたが、指揮すべき軍は烏合の衆だった。
当時は領主が軍を率いていたが、装備も、練度もまちまちだったのだ。
そして――。
「お前達が命令通りに動けば内乱などすぐに終わったというのに」
領主はラルフの命令に従わなかった。
彼らを動かすためには根回しが欠かせず、根回ししたとしても命令に逆らうことがままあったのだ。
さらに彼らは犠牲を嫌った。
少々の犠牲を覚悟すれば多大な戦果を得られる戦況で自分の命を、部下の命を惜しむのである。
これでは勝利など覚束ない。
いや、軍を維持することさえ難しかった。
糧秣の手配など先々代皇帝の時代ならば容易にできていたことが、できなくなっていたからだ。
ラルフは段々と軽んじられるようになり、その代わりにクロードとアルコルが重用されるようになった。
内乱が終わり、第七近衛騎士団団長となったが、これは事実上の左遷だ。
少なくともラルフはそう考えていた。
自分は何処の馬の骨とも分からぬ傭兵や木っ端役人よりも役に立たないと言われたも同然だった。
軍を去ることも考えたが、しがみつくことを選んだ。
チャンスが欲しかったのだ。
やり直す――自分の優秀さを示すチャンスが欲しかった。
帝国がどうなっても良い。
歴史に名を刻まぬまま死にたくなかった。
三十余年が過ぎ、ようやくチャンスが巡ってきた。
「いや、物は考えようだ」
初戦の敗北は痛かったが、無能を切り捨てられたのだ。
必要な犠牲と割り切るべきだろう。
ルーカスは負けたが、チャンスは残っている。
むしろ、追い詰められた状況で勝利してこそ名声が高まるというものだ。
「……西の平原で反乱軍を迎え撃つ」
決戦と呼ぶに相応しいものになるだろう。
だが、気がかりなこともある。
皇帝の名で諸侯に呼びかけているが、兵士の集まりが悪いのだ。
物資――糧秣の手配も遅れている。
「……仕方があるまい」
ラルフはゆっくりと立ち上がった。
小細工には頼りたくなかったが、時には信条を曲げる必要がある。
好きな言葉ではないが、今は臨機応変に対応すべき時だ。
「ケイロン伯爵……最後に役に立って貰おう」
あの男の息子を殺してしまう可能性があるが、それでも、一応は勝利したことになるだろう。
※
「やはり、ここは手狭だな」
ティリアが練兵場で訓練に励む兵士達を見ながら呟く。
その数はおよそ五千人。
装備の質はまちまちだが、それを責めるのは酷だろう。
彼らはハマル子爵領、シェラタン子爵領、トレイス男爵領、メサルティム男爵領、ボサイン男爵領を守っていた兵士達だ。
当然、領主がどれくらい部隊運営に関わったかで装備の質が変わってくる。
現在、彼らは通信用マジックアイテムや十字弓、鉄の茨で守られた野戦陣地を用いた戦い方を学んでいる最中だ。
従来の戦い方とは異なるため戸惑っているように見えるが、この戦い方を学んで貰わなければ帝国には勝てないのだ。
「クロノ?」
ティリアが心配そうに声を掛けてきた。
「既視感」
「既視感じゃない。また、私の話を聞いていなかったんだな」
ティリアは小さな溜息を吐いた。
「何て言ったの?」
「やはり、ここは手狭だなと言ったんだ」
「これでも、か、か、か拡張したんだよ」
「何故、どもる?」
「ちょっとドキドキしない?」
「誰の、何を拡張したのか気になるな。とても気になる」
ティリアはポキポキと指を鳴らした。
「まあ、良い。この件については後でゆっくり話そう」
「嫌な予感がするよ」
「鋭いな」
ティリアの口調は優しげだったが、それが恐怖心を煽る。
「この件は後でゆっくり話すとして……」
「二度も言った」
「大事なことだから二度言ったんだ」
ティリアは腕を組み、ニヤリと笑った。
多分、肉食獣が笑ったらこんな感じになるだろう。
「とにかく、これで戦えるな」
「もう少し作戦を煮詰めなきゃ駄目だけどね」
当初の作戦はカド伯爵領から南進し、カイ皇帝直轄領の港を占領した後、帝都近郊の草原地帯に野戦陣地を構築して帝国軍を迎え撃つというものだった。
だが、トレイス男爵、メサルティム男爵、ボサイン男爵、ブラッドの参陣によって作戦内容を修正した。
変更点は二つある。
一つは南進する際は正規兵を主とすること、もう一つは騎兵による後方撹乱だ。
基本的には事前に通告を出し、無防守を宣言させた上で領地を通り抜けるという形になるが、戦闘になれば義勇兵は足手纏いになる。
ならばカイ皇帝直轄領の港を占拠した後、海路で義勇兵を移動させた方が良いということになったのだ。
後方撹乱の目的は流通の遮断だ。
「あとは幌馬車と超長距離通信用マジックアイテムだな」
「職人達が喜んでるよ」
幌馬車は兵士の輸送手段、超長距離通信用マジックアイテムは限られた戦力を効率的に扱う手段だ。
超長距離通信用マジックアイテムの設置には人手が必要なので、職人以外の雇用も増えている。
戦争特需って言うのかな、とクロノは頭を掻いた。
「……エリルはゾンビになったけど」
「南進までに人間に戻してやれ」
「分かってるよ。それにしても……」
「どうしたんだ?」
「二つ返事で超長距離通信用マジックアイテムの設置を認めてくれるとは思わなかったんだよ」
超長距離通信用マジックアイテムを設置すれば限られた戦力を効率よく扱えるようになると説明した所、五人の領主はあっさりと設置を認めた。
「設置費用は折半って条件を呑んでくれるとは思わなかったよ」
「トレイス男爵のことがあったからだろう」
ティリアはその場にしゃがみ、落ちていた木の枝で図を描く。
「こんな感じだったか?」
「まあ、そんな感じだね」
クロノは背後から通信網の完成予想図を覗き込んだ。
「私達の領地を経由するのがミソだな」
「うん、まあ、そうですね」
ティリアは木の枝を置き、立ち上がった。
「何か言いたいことでもあるのか?」
「マリッジブルーなんだよね」
「私の何が不満なんだ」
怒鳴られるかと思ったが、ティリアは真顔で言った。
「それは――」
「確かに、私には少し暴力的な部分がある」
「自覚してたんだ」
「少し我が儘な所があるし、独占欲も強めだ」
だが! とティリアは目を見開いた。
「愛人と別れろとは言っていない!」
「それはスタートラインだと思う」
「もし、私が愛人と別れろと言ったらどうなるんだ?」
「……」
「分かっている。そんなことは言わない」
どうやら、微笑みから意図を察してくれたようだ。
「どうして、お前のような男に惚れてしまったのだろう」
ティリアは深々と溜息を吐いた。
「ちなみに周辺諸侯並びに父さんには結婚すると思われています」
「思われてるじゃない。結婚をするんだ」
「結婚か~」
クロノは天を仰いだ。
「まだまだ先かな~って思ってたんだけど、いつの間にか結婚が既定路線になるともにゃもにゃするね」
「何を今更、お前が私に手を出した時点で既定路線だ」
「……」
「分かっている。私がお前に襲い掛かったんだ」
クロノが無言で見つめると、ティリアは前言を翻した。
素直でよろしい。
「結婚の話はさておき、糧秣はどうなっている?」
「報告書は読んでるでしょ?」
「お前の口から聞きたいんだ」
クロノが問い返すと、ティリアはムッとしたような口調で言った。
「どういう風の吹き回し?」
「嫌な予感がする」
「ちょっと待って」
「もう二度と会えないような予感が――」
「ちょっと待ってって言ったでしょ!」
ティリアの言葉を遮る。
「どうしたんだ?」
「そのジョークは笑えないから」
「予感はジョークにしてもお前との時間を大切にしたいのは本心だぞ」
「ますます笑えないよ」
つまり、それはクロノが死ぬことを想定しているということだ。
結婚の話を切り出したり、嫌な予感がすると言ったり、よくもまあ、フラグを立てまくってくれるものである。
これで妊娠したとか言われたら本当に死んでしまうかも知れない。
「大体、お前が死ぬとは限らんだろ?」
「ティリアが死んだらそこで試合終了だよ。やっぱり、考え直すつもりはないの?」
「お前のアイディアだぞ?」
「そうなんだけどね」
「私が同行するのは決定事項だ」
「頑固なんだから」
クロノは溜息を吐いた。
「私にはマンチャウゼンとアロンソ……騎士達が付いているから大丈夫だ」
「目立つだろうね」
「それも狙いの内だ。私がいると印象づけなければ」
「そうだね」
クロノは頷くしかなかった。
ふと養父から届いた書簡のことを思い出した。
「そう言えば書簡のことなんだけど、本当にあの条件を呑むの?」
「呑む」
ティリアの答えは簡潔だったが、顔色は良くない。
顔面蒼白よりマシという程度だ。
「どっちでも協力するって書いてあったじゃない」
「戦後のことを考えるとな」
猶予期間はあるものの、帝国は議員制を導入するのだ。
条件を呑まなかったせいで議員制導入後に協力を得られなくなる可能性はある。
「まあ、それに自分の蒔いた種だ」
「ドライだね」
「そうかも知れないな」
ティリアは腕を組み、難しそうに眉根を寄せた。
「傷付いた?」
「いや、そういう訳じゃない。ところで、母親というものは子どもを愛すと思うか?」
「人によるんじゃない?」
「……そうか」
ティリアは小さく頷いた。
親になった人間は子どもを愛すべき――いや、愛して欲しいと思う。
これは願望だ。
誰もが子どもを愛せる訳ではないだろう。
「そうか。やはり、そういうことなのだろうな」
「一人で納得しないでよ。これから家族になるんだからさ」
「家族?」
「家族だよ。大所帯になると思うけど……」
「何だか、頭痛がしてきたぞ」
ティリアは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「まあ、頭痛に苦しむのは戦争が終わってからでも良いんじゃないかな?」
「問題を先送りにしているだけのような気もするが……」
ティリアは背筋を伸ばし、練兵場を見つめた。
風が吹き、金髪が揺れた。
 




