第11話『意志』【後編】修正版
※
コポリと液体が食道を逆流する感覚でルーカス・レサトは飛び起きた。
嘔吐こそ免れたものの、鼻の奥が痺れるように痛んだ。
激しく噎せ返り、シーツに液体を吐き出す。
ヌルヌルとした液体の正体は胃液か、それとも別の液体か。
恐らく、夕食を食べ過ぎたせいだろう。
夕食を食べ過ぎるといつもこうなる。
まあ、夕食を食べ過ぎない日など年に数えるほどだが。
プピーと鼻を鳴らしつつ、ベッドに横たわった。
高い金を払っただけあり、ベッドは音もなく肥え太った体を受け止めてくれた。
視線を巡らせると、金に飽かせて集めた調度品が目に入る。
すぐに興味を失い、天井を見上げる。
ルーカスがいるのは兵舎にある寝室だ。
兵舎と言っても実際には私邸のようなものだが。
「どうかされましたか?」
豊満な肉体の女が眠そうに目を擦りながら体を起こす。
その拍子に胸が揺れる。
彼女は所謂、愛人というヤツだ。
出会いはそう大したものではない。
金に困っている女がいて、金を出して囲った男がいた。
それだけの話だ。
顔の造作はそれなりに整っているが正直に言えばどうでも良い。
誰でも良かったのだ。
だが、娼婦では駄目だ。
金で身を委ねることに罪悪感を抱いている女でなければいけない。
そういう意味で女は都合が良かった。
彼女は平民には滅多にいない『純白にして秩序を司る神』の信者だ。
要するにお堅い女ということだ。
幼い頃から刷り込まれた価値観に反する行為を行う。
女が徐々に悪徳に染まっていく姿を観察するのは楽しかったが――。
「何でもない」
「……そうですか」
女は再びベッドに横たわり、安らかな寝息を立て始めた。
「……くッ」
心臓がズキリと痛み、呻く。
医者には痩せろと言われた。
長年の不摂生で心臓が弱っているとも。
余計なお世話だ。
自分は好きでこの生活を送っているのだ。
肥え太った体も、侮蔑の視線を向けられる在り方も自身の望みだった。
「……ふぅ」
痛みが治まり、小さく息を吐く。
自分は長くないだろう。
そんな予感がある。
「……こんなものか」
独りごちる。
ルーカスは今まで悪を為してきた。
家族の下には二十年以上帰っていない。
帰らないことを選んだ。
そんな自分が長年の不摂生――言うなれば病で死ぬ。
何と言うことだろう。
何と言うことか。
この結末に落胆に近い思いを抱く。
裏切られたとさえ思う。
だが、そんなものなのだろうという思いもある。
まあ、この気持ちを抱いて逝くのも悪くない。
望まぬ結果であり、望んでいたことでもある。
「……疲れた」
その時、遠くから鐘の音が聞こえてきた。
ルーカスはベッドから飛び降り、バルコニーに飛び出した。
鐘が五月蠅いほど鳴り響き、敵の襲来を告げている。
心臓の鼓動が跳ね上がり、肌が粟立った。
「おおッ!」
バルコニーから身を乗り出し、思わず声を上げる。
遥か彼方に火が見えた。
その数は千に迫るのではないだろうか。
それが隊列を組み、ゆっくりと近づいてくるのだ。
ルーカスは口角を吊り上げ、はたと気付く。
アルフォート皇帝の治世は乱れているが、誰かが治世を正すために立ち上がったという話は聞いていない。
可能性があるとすればティリア皇女か、南辺境の新貴族達だが、行動を起こせば噂くらいは耳に入るものだ。
つまり、あれは賊軍なのだ。
「チッ、紛らわしい真似を」
戦うべきか、とルーカスは自問した。
第八近衛騎士団は弱兵揃いだ。
あれだけ見事な隊列を組める賊軍に勝てるとは思えない。
「一体、何が起きたの――ッ!」
女はシーツを巻き付けてバルコニーに出て、息を呑んだ。
その時、爆音が轟いた。
「キャッ!」
「頭を下げろ!」
ルーカスは女を庇い、その場にしゃがみ込んだ。
再び爆音が轟き、赤い光が一瞬だけ寝室を浮かび上がらせる。
やや遅れてバラバラと小石が振ってきた。
魔法か、神威術か、あるいはマジックアイテムか。
いずれにしても賊軍の装備はそれなりに整っているらしい。
ルーカスは立ち上がった。
「私は逃げる!」
「私はどうすれば?」
「来い!」
ルーカスは女の手を掴み、ベッドに歩み寄った。
その下から古びた木の箱を引っ張り出す。
「それは――ッ!」
蓋を開けて中身を見せると、女は息を呑んだ。
当然と言えば当然の反応だ。
箱の中には金貨と銀貨、宝石まで入っていたのだから。
ルーカスにとっては端金だが、女にとっては想像もしたことのない大金に違いない。
「この箱を持って、カイ皇帝直轄領に逃げろ。そして、この手紙を第十近衛騎士団のナム・コルヌに渡せ」
ナムならばこの女を悪いようには扱わないだろう。
少なくとも今付き合いのある貴族の中では最も信用できる。
「ルーカス様は?」
「私は帝都に戻らねばならん」
そう言って、笑う。
鉱山都市という力を失った自分をどのように扱うのか。
責任を追及されるのは間違いない。
「私がいなくなってもすぐに部屋を出るな」
「ルーカス様、あり――」
「礼など言うな」
ルーカスは女の言葉を遮った。
こんな時でなければ殴りつけていただろう。
「私はお前を置き去りにして逃げるのだ」
「……」
ルーカスは女を残して寝室を出た。
すると、部下が駆け寄ってきた。
「ルーカス様、敵襲です!」
「分かっている」
爆音が断続的に鳴り響き、窓がビリビリと揺れているのだ。
「すぐに部下を集めろ」
「戦うのですか?」
「逃げるに決まっている」
部下は明らかにホッとした表情を見せた。
その反応に深い満足感を抱き、わずかながら落胆を覚える。
まあ、こういう男だと知って部下に迎えたのだ。
予想通りの行動を取ったからと落胆するのは我が儘というものだろう。
「さあ、逃げるぞ」
ルーカスは期待に打ち震えながら歩き出した。
※
爆音が轟き、炎が立ち上る。
「よしよし、予定通りだな」
ニコルは馬上から炎に照らされるキンザを確認し、舌で唇を湿らせる。
やってやったという思いはあるが、やっちまったという思いもある。
盗みでも、殺しでも初めての試みとはこういうものだ。
何でも最初の一回が難しい。
「野郎どもしっかり進め! 敵はビビってるぞッ!」
「おーッ!」
馬首を巡らせて鼓舞すると、部下達は声を張り上げた。
本当にビビってんのか? と内心首を傾げる。
改めて部下を見る。
総勢は百人ほどだ。
半分は帝都時代から付き従っている者、もう半分は道中で拾った者だ。
帝都から逃げてきた者が多かった。
「べーべーべー」
「もーもーもー」
部下はそんなことを言いながら牛を進ませている。
牛が引いているのは巨大な格子だ。
ただの格子ではなく、木が交差する場所に木の棒が設置されている。
その先端では松明が燃えている。
松明の数は千に迫る。
こうして近づけば敵は襲撃を受けたと思って退散する――らしい。
このアイディアを聞いた時は凄いと思った。
だが、実際にやってみると、こんなのに騙されるヤツがいるのかという思いを抱いてしまう。
多分、部下も同じ思いを抱いているはずだ。
だが、立ち止まる訳にはいかない。
もうやってしまったのだ。
このままの流れに沿って突き進むしかない。
「これで死んだら赤っ恥だぜ」
「まあ、大丈夫ですよ」
ニコルは絶望的な気分になったが、いつの間にか隣に立っていたネージュはぶん殴ってやりたくなるほど楽観的だ。
「根拠は何だ?」
「第八近衛騎士団は弱兵揃いですからね」
「おいおい、俺達はそれ以下なんだぜ」
規模は百人程度、組織だった戦闘経験は皆無だ。
資金も潤沢とは言い難い。
だからこそ、キンザを襲撃して資金と物資を手に入れようとしているのだ。
「真っ当な指揮官なら偵察ってヤツをするんじゃねーか?」
「ルーカスさんは拗れてますからねぇ」
「拗れてる?」
ニコルは深々と溜息を吐いた。
ますます絶望的な気分になる。
だが、と思い直す。
ネージュが拗れていると言うくらいだから相当なものだろう。
「俺の知っているルーカス・レサトなら死に物狂いで守るんじゃねーか?」
「どんな人だと考えているんですか?」
「……守銭奴だな」
少しだけ考えて答える。
接点はないが、耳にした噂を総合すると守銭奴ということになる。
「お前は違うと思っているのか?」
「僕は彼が善人だと思っていますよ」
「善人ねぇ」
ニコルは思わず顔を顰め、キンザの街を見つめた。
街では断続的に爆発が起きている。
「それにしても、あんなにバカバカ爆発させて大丈夫なのか?」
「人通りのない所で爆発させているから大丈夫ですよ」
「頼りにしてるぜ」
「おや?」
ネージュは軽く目を見開いた。
「俺はただの反乱軍で終わるつもりはねぇ。このまま組織を大きくするにせよ、あとで何処かと合流するにせよ、風評ってヤツは大事だ」
「世直しってヤツですか」
「言い方なんざどうでも良い。分かっているのは世の中に受け容れられなきゃならねーってことだ」
「なるほどなるほど」
ネージュは何度も頷いた。
「どういった心境の変化ですか?」
「帝都を出る前から心境は変化してねーよ」
ネージュはニコニコと微笑んでいる。
「エラキス侯爵に言われたことが気になっててよ。あいつは俺と対等に話せるなんて出世したもんだって言ってたが、俺はそう思っちゃいねぇ」
言われた時は呆気に取られ、合法的に闘技場で金を稼げるようになってからは満更でもない気分だった。
だが、本当に対等なのだろうかという思いがあった。
「一角の存在になりてぇ」
「あ、出てきましたよ」
「……この野郎」
ニコルは唇をひん曲げ、キンザを見つめた。
物見櫓の近くにある建物の陰から騎兵が次々と姿を現した。
ゴクリ、と喉を鳴らす。
連中が攻めてきたら自分達は一環の終わりだ。
だからこそ、ニコルは胸を張った。
ボスがびびったら、部下はもっとびびる。
「べーべーべー」
「もーもーもー」
部下が牛を前に進ませる。
やはり、緊張しているのだろう。
声がやや固い。
ニコルは手綱を握る手から力を緩めた。
騎兵が反対方向に走り出したのだ。
こちらを油断させるための罠かと思ったが、一目散に逃げているという感じがする。
反撃を意図している連中はもう少し含みを持たせるものだ。
「本当に、逃げやがった」
「だから、言ったでしょ」
ネージュは当然のように言ったが、ニコルには目の前の光景が信じられなかった。
呆れたと言い換えても良い。
だが、呆れてばかりはいられない。
「見ろ! 俺達の勝利だッ!」
「おーッ!」
ニコルは馬首を巡らせ、拳を突き上げると、部下達は雄叫びを上げた。
※
帝国暦四三三年十月下旬――レオンハルトは謁見の間に続く通路を歩いていた。
一人のせいか、自分の足音が殊更大きく聞こえる。
小さく溜息を吐く。
任務は失敗し、多数の死傷者を出した。
重傷者はもちろん、軽傷だった部下もしばらくは静養が必要だ。
リオは――無理だろう。
そんな気がする。
気絶している時は目を覚ましたらクロノを殺しに行くと思っていた。
だが、それは間違いだった。
話しかけても答えない。
深く何かを考えているようにも見えたが、実際の所は分からない。
ただ、生きた屍のようだと思った。
任務に失敗し、部下を失ったばかりか、二人の友人を失った。
いや、と頭を振る。
自分のために二人を切り捨てたのだ。
それを失ったと表現するのはあまりに身勝手だ。
レオンハルトは通路を歩きながら視線を巡らせる。
前回登城した時より荒れたように思う。
調度品にも、床にも埃が薄く降り積もっている。
荒れているのは城内だけではない。
庭園も荒れている。
今は秋だからまだ良いが、来年の夏には見る影もなく荒れ果ててしまうだろう。
それは私も同じか、と自分を見下ろした。
近衛騎士の証である白い制服は見るも無惨に汚れている。
敗軍の将に相応しい格好だ。
プピーという音が聞こえた。
謁見の間――その前に出ると、ルーカス・レサト伯爵が立っていた。
「ルーカス殿、どうかされたのですか?」
「キンザが賊軍に襲われてな。ここには弁明に来たと言う訳だ」
ルーカスは肥え太った体を揺らしながら笑った。
おや、とレオンハルトは軽く目を見開いた。
第八近衛騎士団は弱兵揃いだ。
賊軍に敗北しても不思議ではない。
だが、敗軍の将にしてはルーカスは落ち着いていた。
責任を問われないように根回しを済ませているのかと思ったが、違うような気がした。
「開くぞ」
扉が耳障りな音を立てて開いた。
その先には分厚い絨毯が敷かれていた。
色がくすんで見えるような気がするのは気のせいではないだろう。
レオンハルトはルーカスと肩を並べ、歩き始めた。
玉座にはアルフォートが座り、その手前には彼の取り巻きが立ち並んでいる。
レオンハルトは片膝を突くと、やや遅れてルーカスが続いた。
「レオンハルト殿、報告を」
口を開いたのはベティル宰相ではなく、ラルフ・リブラ軍務局長だった。
「ハッ、我々は――」
「良い。結論を言え」
アルフォートは苛立ったようにレオンハルトの言葉を遮った。
「護送中、襲撃を受け、エラキス侯爵を奪取されました」
「それはエラキス侯爵の部下に襲われたと言うことか?」
「仰る通りです」
「やはり、余は正しかった!」
アルフォートは拳を握り締め、立ち上がった。
「聞いたかッ? エラキス侯爵は帝国の財を掠め取ったばかりか、申し開きの機会を与えた余に逆らったのだ! 逆賊は討たねばならん! 余はここにエラキス侯爵の討伐を宣言する!」
アルフォートは高らかに叫び、玉座に腰を下ろした。
「レオンハルト、ご苦労であった」
「ハッ」
だが、とアルフォートは続けた。
「予想外の襲撃があったとは言え、任務に失敗したのは事実。その責を問わねばならん」
「ハッ」
やはり、余は正しかったと言うのであれば襲撃を予想して然るべきだ。
そう思うが、口にはしない。
「第一近衛騎士団団長の任を解く!」
アルフォートの取り巻きがどよめくが、幾人かは笑みを浮かべている。
近衛騎士団団長の権限など大したことはないのだが、彼らはそう思っていないようだ。
まあ、欲しいと言うのであればくれてやっても良い。
「恐れながら」
「なんだ、ベティル宰相」
アルフォートは煩わしそうにベティルに視線を向けた。
「陛下、此度の件は拘束を急ぐあまり、わずかな手勢で向かわせた我々にも落ち度があるのではないでしょうか」
「ふむ、一理ある」
ベティルの進言を受け、アルフォートは思案するように腕を組んだ。
「分かった。此度の失敗は余達にも一因があると言えなくもない。よって、無期限の謹慎を申しつける。良いな?」
「ハッ、寛大な処置に感謝致します」
レオンハルトは頭を垂れた。
「ところで、ケイロン伯爵はどうした?」
「ケイロン伯爵は敵の攻撃を受け、負傷しました」
「……ケイロン伯爵も無期限の謹慎としよう。しかし、エラキス侯爵が叛旗を翻したとなると、ハマル子爵も怪しいな」
後半は独り言のつもりだったのかも知れないが、その声は必要以上に大きく響いた。
無視することにしたのか、ラルフ・リブラ軍務局長は口を開いた。
「次、ルーカス殿」
「ハッ」
プピーという音が響き、取り巻きの貴族が失笑した。
「まずは結論から……賊軍が鉱山都市キンザに押し寄せ、私は兵力の損耗を避けるために戦略的撤退を決意しました」
「それだけか?」
「それだけです」
アルフォートが困惑したように尋ねるが、ルーカスの返答は素っ気なかった。
「申し開きはないのか?」
「ございません」
わずかに顔を上げると、アルフォートの脚が小刻みに震えていた。
怒りに打ち震えているのだろうか。
「……恐れながら」
「なんだッ!」
アルフォートは激昂したようにラルフ・リブラ軍務局長を怒鳴りつけた。
「ルーカス殿は内乱期より帝国を支えた忠臣。彼に名誉を回復させる機会を与えては如何ですかな?」
「……ぐッ」
アルフォートは呻いた。
「ど、どうするつもりだ?」
「陛下さえ宜しければエラキス侯爵討伐の任を与えようかと」
「…………任せる」
長い沈黙の後で提案を了承する。
隣を見ると、ルーカスは唇を噛み締めていた。
寛大すぎる処置だが、彼は納得していないようだ。
彼の真意は分からないが、処罰されることを望んでいるように思えた。
「陛下との謁見は以上で終了とする」
ラルフ・リブラ軍務局長が謁見の間に響き渡った。
数日後、レオンハルトはブラッド・ハマルが部下を引き連れて出奔したことを知る。




