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第9.75話【フェイ・ムリファイン】


 帝都アルフィルクは旧市街と呼ばれる四つの街区と新市街と呼ばれる八つの街区、計十二の街区から成り立つ街である。

 もし、それなりに学のある者が遙か上空から帝都アルフィルクを見下ろしたら、旧市街と新市街が二つの同心円を描き、その中心に皇帝の居城アルフィルク城が存在していることに気付くはずだ。

 ケフェウス帝国の中枢であるアルフィルク城には皇族、宮廷貴族、女官、近衛騎士、数え切れないほど多くの人々が集まっている。

 近衛騎士団に所属する見習い騎士フェイ・ムリファインもその一人だ。もっとも、彼女の仕事は馬の世話係なのだが。

 配属された当初は手際の悪さに先輩騎士に打擲されてばかりいたが、四年が過ぎた今は滅多に……訓練中に落馬しただの、虫の居所が悪いだの、目付きが気に入らないだの、そんな理由でしか殴られなくなった。


「……お前さん、よくも真面目に仕事をするね」

「これが自分の仕事であります」


 蹄鉄工のドワーフが呆れたように言い、フェイはカゴに馬糞を集めながら答えた。

 蹄鉄工のドワーフ……シルバとは四年前に配属されて以来の仲である。


「あんたの後輩は馬糞の掃除もせずに騎乗訓練をしているのに馬鹿らしくならないのかい?」

「シルバさんこそ同じ仕事を続けているであります」


 フェイが指摘すると、シルバは歪んだ蹄鉄の入った箱を地面に置き、呆れたように溜息を吐いた。


「そりゃ、俺がドワーフだからさ。仕事を選ぶ余地のない俺と違って、あんたは人間の娘さんで、爵位持ちじゃないか」

「宮廷貴族の爵位に価値があるとは思えないであります」


 ムリファイン家は領地を持たない宮廷貴族であり、近衛騎士として皇帝に仕えてきたのだが、十年前にフェイの父親が病没してからは収入も途絶え、没落したような状態にある。


「おまけに器量好しだ。こんな所で馬糞の掃除なんてしなくても、それなりの幸せを掴めると思うんだがね」

「そうでありますか?」


 フェイは首を傾げ、水桶を覗き込んだ。

 少年のように短く刈り揃えたダークブラウンの髪、太い眉、醜くも美しくもない顔立ちは誉め言葉と無縁のように感じられる。


「俺は……こんな所で終わりたくないね。毎日毎日、いけ好かない貴族のために蹄鉄を作るなんて真っ平だ。俺には夢がある。俺は建物を造りたい! 歴史に名を残す建物を築きたいんだ!」

「つまり、シルバさんは石工になりたいのでありますか?」

「違う! 建築家だっ!」


 シルバは身を乗り出して叫んだ。


「しかし、蹄鉄工から建築家に転身するのは難しいのではありませんか?」

「そうなんだよなぁ。全く、帝国のヤツらはドワーフが鍛冶仕事しかできないと思ってやがる」


 ぼやくようにシルバは言ったが、本人の希望と配属先が一致しないことなんて珍しくもない。


「市民権は交付されてるんだが、雇ってくれそうな建築家がいないんだよな」

「前の職場に戻れないのでありますか?」

「石工に戻ってもなぁ」


 そうでありますか、とフェイは神妙に頷いた。

 どうやら、シルバは石工として働いていたらしい。


「兄貴と違って、命の危険がないだけマシか」

「お兄さんがいるでありますか?」

「ゴルディって名前で、エラキス侯爵領で槍働きをしてるはずだ。死んでなけりゃ良いんだが」


 シルバは肩を落とし、力なく呟いた。

 四ヶ月前、エラキス侯爵領で行われた戦闘で三百五十人以上の亜人が戦死したのは有名な話だった。

 これが同等の兵力であれば無能の誹りを免れなかっただろうが、たった千人で一万の敵を撃退したのだから、大手柄とさえいえる。

 事実、指揮官を務めた青年貴族は功績を認められ、エラキス侯爵領の新領主となっている。

 もっとも、色々と黒い噂が彼にはつきまとっているので、それもシルバの不安を掻き立てる要因になっているのだろう。

 曰く、戦功を得るために独断専行に走った。

 曰く、三百人のエルフを捨て駒として扱った。

 曰く、エラキス侯爵に横領の罪を着せて毒殺した。

 曰く、毎晩のように亜人をベッドに連れ込んでいる。

 曰く、第一皇女を肉欲の虜としている。

 などなど話半分に聞いても貴族の風上にも置けない大悪党であり、シルバが心配するのも当然だ。


「で、お前さんの夢は?」

「武勲を立て、ムリファイン家を再興することであります。可能ならば、騎士団長であるレオンハルト様と轡を並べてみたいであります」


 近衛騎士団長であるレオンハルトは広大な領地を保有するパラティウム公爵家の嫡子であり、武勇に秀で、皇帝の信頼も厚く、神威術すら使いこなす、騎士道の体現者というべき人物である。


「はあ、実現しなさそうな夢だな」

「そんなことないであります! 努力をすれば、努力していれば必ず、叶うはずであります!」

「そんなこと言っても……まだ、お前さんは馬も割り当てられていないし、近衛騎士の鎧だって支給されていないじゃないか」


 フェイが力説すると、シルバは呆れたように言った。


「私はレオンハルト様と同じように神威術が使えるであります!」

「なんだって!」

「神様、私の剣を祝福して欲しいであります!」


 フェイが剣を抜きはなって叫ぶと、どろりと粘性の高いマグマのような『闇』が柄から溢れ、刃を覆った。


「神威術『祝聖刃』であり「待てや、ゴラァ!」」

 フェイが言い切るよりも早く、シルバが鬼のような形相で叫んだ。


「祝福どころか、呪われてそうじゃねーか!」

「神様に祝福をお願いしたのですから、祝福で良いのであります! いつかは私も聖騎士として「うぉ~い!」」


 またしてもシルバが納得できないと言うように叫び声を上げた。


「何でありますか?」

「色、色、色っ! 黒くて、禍々しい感じじゃねーかよ! 何か、こう、暗黒街道驀進中みたいな感じで、暗黒騎士一直線じゃねーか! 騎士のくせに『漆黒にして混沌を司る女神』を信仰してるのか!」


 フェイは剣を鞘に収めた。


「お祈りをして『漆黒にして混沌を司る女神』様が応えてくれたので、宗旨替えをしたのであります」

「……いや、まあ、邪神じゃないんだけど、聖騎士っぽい色じゃないよな」


 『漆黒にして混沌を司る女神』は亜人や娼婦の守護者であったり、やたらと懐が広い神様なのだ。


「また、こんな所で油を売ってますの?」


 頭に衝撃を受け、フェイは意識を手放しそうになった。

 ギリッと歯を食い縛り、何とか意識を保つ。

 頭から血を流しながら振り向くと、鐙から片足を外した女騎士が馬上からフェイとシルバを見下ろしていた。

 女騎士の名はセシリー・ハマル……エラキス侯爵領の東に位置するハマル子爵家の令嬢だ。

 細くて柔らかそうな金髪をフェイと同じように短く刈り揃えている。目付きは鋭いと言うよりも侮蔑的で、フェイのような身分の低い貴族やシルバのような亜人に対する時はそれを隠そうともしない。

 今は鎧に隠されているが、その下にある肢体は鍛え上げられながらも女性的な丸みを失っていない。むしろ、鍛え上げることで女性的な魅力が際立っているようにフェイには感じられた。


「いきなり、蹴るなんて何を考えてやがるんだ!」

「……人間未満の声は聞こえませんわ」


 すらりと剣を抜き、セシリーはシルバの視線の高さで切っ先を揺らした。


「き、斬るつもりか?」

「虫が五月蠅いので追い払おうと思っただけですわ。これは独り言なのですけれど、わたくしは虫にも価値があると思ってますのよ?」

「止めて欲しいであります」


 割って入ると、セシリーは切っ先をフェイに向けた。


「……虫の次は馬糞女ですの?」

「私は馬糞女ではありません」

「あら、皆様から馬糞女と呼ばれているから馬糞女だと思っていましたわ」


 セシリーは切っ先をフェイの瞳に向け、興味を失ったように剣を鞘に収めた。


「そういえば……団長から馬糞女を部屋に呼ぶようにと伝言を預かっていましたの。早く団長の部屋に行った方が宜しいのではなくて?」

「分かったであります」


 馬と鎧を支給してくれるのかもしれないであります、とフェイは胸を高鳴らせながら頷いた。



 初代皇帝が十二人の騎士を従えていたという伝承に倣い、近衛騎士団は十二の騎士団から構成されている。

 フェイは第十二騎士団に割り当てられた執務室で団長であるピスケ伯爵と向かい合っていた。


「馬糞の臭いがしないかね?」

「……」


 くんくんと鼻を鳴らし、ピスケ伯爵は嫌らしく口元を歪めた。


「まあ、君が馬糞臭かろうと構わんよ。あ~、フェイ君、フェイ・ムリファイン君……君が第十二騎士団に配属されてから何年だね?」

「はっ、四年であります」

「道理で馬糞の臭いが染みついている訳だ」


 言って、ピスケ伯爵は鼻を摘んだ。


「……非常に言いにくいことがあるんだが」


 ピスケ伯爵は立ち上がり、フェイの不安を煽るように室内を歩き回った。


「急な配置転換の話があってだね。君もエラキス侯爵領で戦闘や公金の横領事件があったことは知っているね?」

「はっ、知っているであります」

「ああ、それは話が早くて助かるよ」


 ピスケ伯爵は我が意を得たりと言うように何度も頷いた。


「戦死者が出た分、早急に人員を補ってやらなければならなくてね。近衛騎士団の役割じゃないんだが……第十二騎士団からも人を出さなければならなくなったんだ。つまり、君だ」


 ピスケ伯爵は回り込み、ゆっくりとフェイの肩を撫でた。


「誤解しないで欲しいんだが、騎士を出せと命令された訳じゃない。だから、君がそれなりに誠意を見せてくれるのなら、こちらも応じる準備があるんだが?」

「……」


 近衛騎士団にいたければヤラせろ! と言うことでありますね、とフェイは天井を見上げた。

 十年前に父は死に、母もフェイが軍学校を卒業すると同時に他界した。死んだ父母のためにもムリファイン家を再興しなければならないが、ピスケ伯爵に身を委ねても現状維持が精々だろう。

 今のエラキス侯爵は悪党のようだが、人材が不足しているのならフェイを騎士として迎えてくれる可能性は高い。仮にベッドに連れ込まれたとしても、交渉の余地はありそうな気がする。

 上手くいけば一足飛びにムリファイン家再興であります! とフェイは拳を固く握り締めた。


「軍令に従うであります!」

「……馬糞女が生意気な」


 ピスケ伯爵は忌々しそうに吐き捨て、興味を失ったようにフェイから離れた。


「どうすれば宜しいでありますか?」

「明日、エラキス侯爵領行きの馬車が城から出る。今日中に荷物を纏めて出て行け、馬糞女!」


 ヒステリックな叫びを背に受け、フェイは執務室を後にした。



 翌日、四百人近い亜人がアルフィルク城の中庭に集まっていた。

 種族は数が多い順からエルフ、リザードマンやミノタウルスの大型亜人、獣人、ドワーフと続き、人間はフェイだけのようだった。


「お前さんもエラキス侯爵領に行くのか?」

「その通りであります」


 大きな荷物を背負ったシルバは安心したように息を吐いた。


「その荷物は何でありますか?」

「石工をやってた頃から、描きためた設計図だ。設計図を盗み見たり、石を運びながら細部まで観察して描き上げた俺の宝物だ。お陰で給料は羊皮紙に化けちまったけどな。お前さんは鞄一つきりかい?」

「そうであります」


 不思議そうに首を傾げるシルバに、フェイは軽く鞄を持ち上げて答えた。

 財産と呼べる物は数枚の服と下着、腰から提げた剣くらいだ。


「よく決心したな、今のエラキス侯爵は黒い噂が絶えない人物なのに」

「むしろ、ムリファイン家を再興させるために好都合であります。運が良ければ一回でムリファイン家が再興するであります」

「……女って、凄いなぁ」


 フェイが胸を張って言うと、シルバは感心したように呟いた。


「ただ、一つだけ心配があるであります」


 服の襟を摘み、フェイは臭いを嗅いだ。


「……馬糞の臭いが染みついていないか心配であります」

「お前さんも女だったんだなぁ。おっと、馬車に乗り込み始めたみたいだな。お前さんはエルフの馬車に紛れ込みな。また、エラキス侯爵領で会おう」


 シルバは元気づけるようにフェイの二の腕を叩き、ドワーフの列に向かって走った。

 フェイはシルバのアドバイスに従い、エルフの列に並んだ。

 二時間が経過し、ようやくフェイの順番が回ってきた。

 馬車に乗ろうとすると、監督役の兵士は不思議そうに首を傾げた。


「どうして、ここに人間がいるんだ?」

「第十二騎士団所属、フェイ・ムリファインであります。昨日、ピスケ団長からエラキス侯爵領に赴任するよう、軍令を受けたであります」


 別にいいか、と兵士は馬車に乗るよう促した。

 馬車は粗末な幌馬車で、両サイドから座席代わりに板が迫り出していた。


「ここは埋まってるよ」

「ここも」

「こっちも」


 フェイが座ろうとすると、エルフやハーフエルフは意地の悪そうな笑みを浮かべて言った。


「ボクの隣なら空いてるよ?」


 フェイが途方に暮れていると、一人のハーフエルフが手招きした。

 こちらを見つめる瞳は夏の空のような蒼、荒野の土のような髪は短く、白い肌は陶器のように滑らかだ。

 年齢は多く見積もっても十五歳くらいだろうか。

 薄汚れた服に包まれた体躯は性別が分からないほど細くて薄いのだが、よくよく注意深く観察すると、淡雪のような脂肪が薄い胸板に乗っているのが分かる。


「ありがとうであります。私はフェイ・ムリファインと申します」

「ボクはスノウだよ」


 フェイは板に腰を掛け、スノウと握手を交わした。


「分からないかも知れないけど、これでも、女の子だから」

「何故、自分のことを『ボク』と?」


 う~ん、とスノウは考え込むように唸った。


「ボクはスラムに住んでたんだけど、すご~く治安が悪いんだよ」


 スラムは歓楽街である十二街区にへばりつくように存在している。

 スノウは『すご~く治安が悪い』で済ませているが、殺人や強姦が日常的に行われている地域なので控え目な表現といえる。

 警備の兵士が見回っているが、大抵の兵士は深入りしないし、それ以外の兵士も賄賂を渡せば見て見ぬふりを決め込んでしまう。


「だから、小さい頃から男の子の格好をして、男の子みたいな喋り方をしてたんだ。男でも構わないって襲い掛かってくる変態もいるから、まるっきり安全って訳でもないんだけどね」

「それは……大変でありますね」

「大変だったし、袋叩きにされたこともあるけど、ボクは守れたから」


 命を守れたのか、純潔を守れたのか、どちらかの意味なのだろうが、それを問い質すような度胸をフェイは持ち合わせていなかった。


「よし、出発だ」


 兵士が人数を確認し、馬車が動き始めた。


「どれくらいで着くのかな?」

「二週間もあれば到着するであります」

「じゃあ、沢山お話ができるね」



 それから二週間、フェイはスノウと沢山の話をした。

 二人でいると、酷い旅路……湯浴みはなし、食事は一日一回、寝る時は薄汚れた毛布を渡されるだけ……でも不思議と楽しめた。


「時々、スノウ殿は楽しそうであります」

「実はね。お母さんがエラキス侯爵領にいるんだ。本当のお母さんじゃなくて、スラムにいた時に、ハーフエルフ同士で集まって、身を守るチームを作ってたんだけど、そこで、お母さんみたいに優しくしてくれたって意味だよ。お母さんはレイラっていって、金色の目をしてるんだ。お母さんはスラムにいた時に色々と嫌な目にあったんだけど、今は大丈夫かな? ボク達の上司になるエラキス侯爵って、毎晩毎晩、亜人をベッドに連れ込んでるんでしょ? お母さんは美人だから、必ず呼ばれてると思うんだ……ボ、ボクも呼ばれちゃうのかな?」


 こんな風にフェイが話すと、スノウが十倍くらい返す感じだ。


「スノウ殿が呼ばれた時は代わるであります」

「え、ホントに? で、でも、だ、ダメだよ。フェイはスませてないんでしょ? 初めての時はホントに好きな人とスるのが一番良いと思うんだよ、ボクは。あ、でも、この格好を見て、呼び出されることなんてないよね?」


 二週間も湯浴みをしていなかったので、スノウの髪は脂で汚れ、体からも悪臭が漂っている。

 スノウに限らず、フェイも、馬車に乗っているエルフやハーフエルフも似たような汚れ具合だ。


「誰か、来たぞ!」


 御者を務める兵士が叫び、フェイは剣の柄を握り締めた。


「む~、黒い鎧を着た兵士が五人かな?」


 道の彼方にある芥子粒のような点を睨み、スノウは曖昧に言った。


「盗賊の可能性は?」

「えっと、同じ鎧を着てるし、身なりもキレイだから、大丈夫だと思う」


 柄を握り締めたまま、フェイは片膝を突いた。


「盗賊じゃないと思うよ?」

「備えあれば憂いなしであります」


 芥子粒のような影は徐々に大きくなり、フェイの目にも騎兵の姿が確認できるまでに成長する。

 五騎の騎兵はフェイの乗った馬車の脇を通り抜け、最後尾の馬車を確認すると、ゆっくりと戻ってきた。


「よお、俺は騎兵隊長のケインだ」

「はっ、お疲れ様です」


 答えたのはフェイではなく、御者を務めていた兵士だ。


「この辺りにゃ、もう盗賊はいねーけど……これも仕事だ、ハシェルまで先導するぜ」


 騎兵隊長ケインが言った通り、ハシェルまでは拍子抜けするほど安楽だった。

 帝都から遠く離れているにも関わらず、エラキス侯爵領は治安が良いようだ。

 しばらくすると、城塞が見えた。


「人数の確認もしなきゃならねーから、街の中央にある侯爵邸まで行くぞ。そこで兵士を下ろして、侯爵邸を回る感じで馬車を外に出せ」


 四つの塔に囲まれた侯爵邸に入ると、馬車がスピードを落とした。


「行くであります」

「うん!」


 フェイとスノウは荷物を片手に馬車から飛び降りた。


「貴族の館には見えないでありますね」

「そうなの?」


 馬車の邪魔にならないように端に寄り、フェイは侯爵邸を見回した。

 侯爵邸を囲む四つの塔……その一つでドワーフ達が鎚を振るい、その隣で筋肉質な男達が煉瓦を積み上げていた。

 反対側で人間が何やら一列になって作業をしている。

 木の皮を剥いだり、木の皮を鍋で煮たり、じゃぶじゃぶと水槽で木の枠を濯いでいる。


「あれは紙であります」

「紙?」


 すのこに貼り付けられた紙を見て、ようやくフェイは何を作っているかを理解した。


「紙って羊の皮から作るんじゃないの?」

「自由都市国家群で作られる紙は違うであります。しかし、紙の製造方法は秘匿されているはず……どうやら、ここの領主は油断ならない相手のようであります」


 自由都市国家群のスパイの可能性もあるであります、とフェイは心の中で付け足した。

 ともすれば、第一皇女を肉欲の虜にしたという噂も信憑性が増す。

 自由都市国家群は商業ギルドのギルドマスターが合議によって治めているのだが、その中に娼婦ギルドが存在しているのである。


「うおぉぉぉぉ、兄貴ぃ!」

「会いたかったですぞ、シルバ!」


 やたらと野太い声を聞いて振り向くと、シルバと見知らぬドワーフが涙を流しながら抱き合っていた。

 最後の馬車が通り過ぎ、侯爵邸の中庭は亜人で埋まっていた。


「兵舎に案内するぞ! 看板を持ったヤツに付いていけ!」

「ボクは行くから! また、後でね!」


 ぞろぞろと亜人達が侯爵邸の敷地から出て行き、フェイだけがその場に取り残された。


「あ~、人間も混じってたのか」

「第十二近衛騎士団に所属しておりましたフェイ・ムリファインであります」

「参ったな」


 馬から降り、騎兵隊長ケインは頭を掻いた。


「厩舎は侯爵邸にあるんだが、兵舎の方は街の外縁部にあってな。今の所……男しかいねーんだよ」

「私は構わないであります」

「俺が構うんだ、俺が。部下のことを信頼してるが、絶対に間違いが起きないと考えちゃいねーんだよ」


 ケインは水晶球を取り出し、


「クロノ様、お願いしたいことがあるんですが?」

『聞こえてるよ』


 水晶球に話し掛けると、くぐもった声が返ってきた。


「補充兵の中に人間の……フェイ・ムリファインっていう貴族の娘が一人いて、騎兵の兵舎じゃ引き取れねーんで、侯爵邸に間借りさせちゃくれませんかね?」

『部屋を用意させるから、一階で待たせて置いて』

「へ~い」


 ケインは水晶球をしまい、フェイを見つめた。


「聞いての通り、誰かが迎えに来るまで一階で待ってろ」

「はっ、了解であります」

「それから明日の予定を伝えておく。疲れてるんなら明日は体を休めろ、疲れてねーんなら、亜人と合同訓練があるから参加しろ」

「はっ、何処に集まれば宜しいでありますか?」

「侯爵邸の裏にある厩舎だ」

「了解であります」


 ケインに一礼し、フェイは侯爵邸に足を踏み入れた。

 直立不動で待っていると、廊下の角からメイドが姿を現した。

 年齢は二十代後半といった所だろう。

 何年もメイドとして働いているのか、ブラウンの髪を結い上げ、エプロンドレスを着こなす様は堂に入ったものだった。


「フェイ・ムリファイン様ですね?」

「そうであります」

「私は侯爵邸のメイド頭でアリッサと申します。以後、お見知りおきを」


 アリッサは丁寧に一礼した。


「宜しければ、お持ちいたしますが?」

「結構であります」

「失礼いたしました。御部屋に案内しますので、どうぞこちらへ」


 アリッサに先導され、フェイはエラキス侯爵邸の廊下を進んだ。


「こちらがフェイ様の部屋になります」

「……」


 案内されたのは二階の突き当たりにある部屋だった。

 最低限の家具しかない殺風景な部屋だが、フェイが帝都で住んでいた兵舎よりも広い。


「湯浴みをなさいますか?」

「お願いするであります」

「かしこまりました。衣類の洗濯も承りますが?」

「それもお願いするであります」


 最初から荷物を渡しておけば良かったであります、とフェイはアリッサに鞄を渡した。


「では、浴室に案内いたします」


 剣帯を解いたフェイはアリッサに案内され、浴室に。


「脱いだ衣類はカゴにお願いいたします。代わりの衣類はこちらに用意させて頂きますので、湯浴み終えましたら、御部屋にお戻り下さい」


 慇懃に一礼し、アリッサは浴室から出て行った。


「至れり尽くせりで申し訳ないであります」


 フェイは服を脱ぎ、カゴに入れ……汚れた下着を見られないように服の下に隠した。

 浴室に入り、ぬるま湯を頭から被った。

 水に濡れて汗と垢が不快な臭いを放つ。


「……石鹸でありますか?」


 使用人に使わせるなんて贅沢であります、とフェイは煉瓦のような石鹸を手に取った。

 ラベンダーの匂いが鼻腔を刺激する。


「香料を練り込んでいるとは贅沢極まりないであります」


 フェイは浴室にあった布と石鹸を使い、乱暴に体を擦った。

 石鹸の効果か、みるみる垢が落ちていく。

 こんな贅沢を味わってしまったら、元の生活に戻れなくなってしまう。


「……だから、これっきりであります」


 フェイは丹念に体を洗い直し、砂の一粒まで洗い落とそうと丁寧に髪を洗った。

 夢心地で浴室から出ると、新しいカゴに綺麗な下着とネグリジェが置かれていた。


「これっきりであります、これっきりであります」


 亜人用の宿舎で苦労しているスノウやシルバを思うと罪悪感ばかりが募るが、フェイは泣きそうになりながら、かつてない厚待遇を甘受した。

 自分の部屋に戻り、フェイはベッドを祭壇代わりに祈りを捧げた。


「神様、神様……友人が苦労している時に私は贅沢を甘受してしまったであります。見捨てないで欲しいであります」


 その後、フェイは肉の入ったスープと柔らかなパンを食べ、再び『漆黒にして混沌を司る女神』に懺悔した。



 翌日、フェイは侯爵邸の裏手にある厩舎に来ていた。

 今いる馬は十頭、馬房の汚れ具合を鑑みるに、あと二十頭はいそうだ。


「……馬と鎧を支給してくれると、ありがたいのでありますが」


 贅沢すぎるでありますか、とフェイは力なく頭を垂れた。

 父が生きていれば、領地を持つ貴族であれば、と恨み言が脳裏を過ぎり、フェイは頭を振った。


「馬房を掃除して、少しでも覚えを良くしてもらうであります」


 気を取り直して、フェイは厩舎の隅に放置されていた掃除用具を手に取った。

 馬のいない馬房から馬糞や尿で汚れたオガクズ、馬の食べ残しを回収し、放置されていた荷車に積む。


「おい、姉ちゃん!」

「何でありますか?」


 振り向くと、三人の子どもがフェイを見つめていた。


「馬房の掃除は俺らの仕事だぞ」

「そ、それは済まなかったであります」


 フェイが掃除用具を差し出すと、リーダー格と思しき少年は奪うように受け取った。


「ちゃんと説明を聞いてたのかよ。大人は工房で仕事をするか、街で灰を回収するか、木を集めるか……」

「街の外で木の栽培だよ、お兄ちゃん」

「わ、分かってるよ!」


 妹らしき幼女に指摘され、少年は顔を真っ赤にして言った。


「来たばかりで申し訳なかったであります」

「掃除をするんだから、退いてくれよ」


 少年に追いやられ、フェイは馬房の外に出た。


「貴方達は何処に住んでいるでありますか?」

「救貧院に決まってるじゃないか。変なことを聞く、姉ちゃんだな」


 少年は手を休め、不思議そうに首を傾げて言った。


「救貧院で働かされているでありますか?」

「違うよ、手伝わせてもらってるんだ」


 フェイは言葉の意味が分からず、ぽかんと口を開けた。


「クロノ様は俺達を働かせたくないみたいだけど、それだと街のヤツらがうるさいんだ」

「クロノ様はね、勉強しろって言うんだよ」

「……い、院長のシオン様が勉強を教えてくれる」


 少年の妹と残る少年が馬房を掃除しながら補足した。


「救貧院の生活は辛いでありますか?」

「全然、道端で暮らしてた時に比べれば天国だよ」

「シオン様も優しいし、他の人達も優しいの」

「いつか、俺は騎士になるんだ」

「そ、それは難しいのではありませんか?」


 目を輝かせるリーダー格の少年に、フェイは無粋と承知しつつも言った。

 孤児が騎士になるのは不可能だ。


「姉ちゃんは本当に分かってないなぁ。騎兵隊長のケイン様は傭兵だったんだし、ドワーフだって工房を建ててもらってるんだぜ。これって、身分に関係なく取り立ててくれるってことじゃん」

「悪い、待たせた!」


 少年が胸を張って言ったその時、ケインが息を切らせて走り込んできた。


「「「ケイン様!」」」

「よぉ、ガキ共! 今日も掃除を頼むぜ!」


 ケインはワイルドな笑みを浮かべて言った。


「お前の扱いをクロノ様と話し合っててな」

「そうでありますか」


 騎士として扱って欲しいであります、とフェイはケインを見つめた。


「馬は……こいつで良いか?」

「……っ!」


 ケインは無精ヒゲをさすり、馬房にいた黒毛馬を指差した。


「こ、この馬を頂いて宜しいでありますか?」

「大切にしてやってくれ」


 フェイは熱に浮かされたように黒毛馬に近づき、恐る恐る首筋に触れた。

 ケインとリーダー格の少年が話し込んでいるようだったが、それも気にならない。


「よ~し、次は鎧だな」

「鎧まで!」

「念のため言っておくが、オーダーメイドのプレートメイルなんて期待するなよ?」


 ケインに先導され、フェイは侯爵邸を進む。

 やって来たのは侯爵邸を囲む塔の一つ……ドワーフの工房だった。


「お前さんも今日から仕事か?」

「シルバさんこそ……」


 シルバが蹄鉄を打っているのを見て、フェイは言葉を呑み込んだ。

 馬を頂いたなどと言えないであります。


「……お前さんにゃ言いにくいんだが、建築家として雇って貰えることになったんだ」

「ほ、本当でありますか!」

「ああっ! あ、いや、最初は石工として城塞や兵舎の修繕やら改築をして、問題がなければ……って、気の長い話なんだが」


 遠慮しているのか、シルバは申し訳なさそうに頭を掻いた。


「私も馬を頂いたであります」

「良かったじゃないか!」


 フェイとシルバは手を取り合い、互いの幸運を喜び合った。


「複雑そうだな、おい」


 ケインは戸惑うように頬を掻き、木箱に鎧一式を置いた。


「こ、これが私の!」

「ベルト式だから、ある程度まで調整できるようになってる」


 フェイが見つめると、ケインは大仰に肩を竦めた。


「着ても良いぞ」

「はっ!」


 フェイは喜びに震える手で脚甲、手甲、鎧を身に付けた。

 自分一人では着られないプレートメイルと違い、この鎧は一人で着られるように造られているようだった。


「実際は鎖帷子を着るんだがな……って、聞いてないか」

「……う、嬉しいであります」


 フェイは両腕で自分の体を抱き締め、感動に身を打ち振るわせた。


「鎧を脱いだら、合同訓練だ!」

「はっ!」



 ケインに案内され、木の杭が突き立っただけの演習場に行くと、亜人が木の棒や素手で殴り合っていた。


『遅刻ですぜ?』

「こいつの扱いをクロノ様と話しててな」

「フェイ・ムリファインであります!」


 ミノタウルスに見つめられ、フェイは肩幅に足を開いて言った。


『……貴族ですかい?』

「ああ、クロノ様は他のヤツと同じように扱えって言ってたけどな」

「すぐに参加するであります」

『それは構いやせんが……何処に行くんで?』


 落ちていた木剣を拾い、フェイは暇そうに立っていたミノタウルスに走り寄った。


「暇なら剣の相手をして欲しいであります」

『人間は人間同士で戦え』


 死んじまうぞ、とミノタウルスは丸太のような棒を掲げていった。

 どうやら、彼はケインと話していたミノタウルスよりも気性が荒いようだ。


「大丈夫であります」

『死んでも文句を言うなよ』


 ミノタウルスは鼻息も荒く、丸太を構えた。

 距離を取り、フェイはミノタウルスと対峙した。

 先に動いたのはミノタウルスだった。

 一見して鈍重な動きだが、体の大きさはそれを補ってあまりある。

 強く地面を踏み締め、ミノタウルスは丸太を横に振るった。

 丸太が濁った風切り音を上げながらフェイに迫る。

 致命傷を負いかねない凶悪な威力を秘めた一撃だが、フェイは丸太を掻い潜り、突きを放った。

 木剣の先端が鳩尾に食い込むが、ミノタウルスは痛みなど感じていないかのように丸太を振り下ろす。

 丸太が突き刺さり、わずかに地面が揺れる。

 信じられない破壊力であります、とフェイはミノタウルスの脇を擦り抜け、木剣を叩きつける。

 ぺちんと情けない音が響くが、これでも、相手が人間なら悶絶するほどの力を込めているのだ。

 大きく体を捻り、ミノタウルスが掬い上げるような一撃を放つが、フェイは走り抜けることで躱した。

 ぺちんと再び情けない音が響き、ミノタウルスは狂ったように丸太を振り回した。

 まるで竜巻のような攻撃を躱しながら、フェイは笑みを浮かべていた。

 当たれば死ぬ……そんな状況でもフェイは嬉しくて堪らなかった。

 少なくとも、このミノタウルスはフェイを対等な相手だと見てくれている。

 本気を出すであります! とフェイはスピードを一気に引き上げた。

 ぺちぺちぺちとフェイは木剣でミノタウルスを叩きつけ、


『ま、参った!』


 丸太を地面に置き、ミノタウルスは両手を挙げて降参の意を示した。


「つーか、人間か?」

『よく、こんな強い娘を手放しやしたね』

「次の相手は誰でありますか?」


 フェイは周囲を見渡し、目が合った相手に次々と対戦を申し込んだ。


「む、折れてしまったであります」


 折れた木剣を片手に周囲を見渡すと、素手の青年と目が合った。

 年齢は十七、八といった所だろうか。

 右の額から頬に掛けて大きな傷痕が走っている。


「暇なら手合わせをお願いするであります」

「構わないけど、お手柔らかにね」


 幸先の良いスタートであります、とフェイは青年と距離を取った。

 青年の構えがあまりにも隙だらけだったので、フェイは先攻を譲ることにした。

 青年の突きを躱し、蹴りを避け……これだけ実力を見せれば、噂がクロノ様の所にも届くかも知れないであります。戦いで役に立てればそれで良し、ベッドに連れ込まれても構わないのであります、とフェイは地面に横たわった青年の首を締め上げた。


「おー、凄いな」

『容赦がありやせんね』

「きちんと手加減をしているであります。こうして頑張っていれば、いつかはクロノ様の目にも止まると信じているであります」

「いや、もう十分すぎるほど認めてると思うぜ?」

「本当でありますか?」


 ケインは満面の笑みを浮かべ、地面を指差した。


「……お前に首を絞められながら」

「こ、この方が、く、クロノ様でありますか?」


 フェイは青年……クロノから手を離し、両膝を突いた。

 絶望のあまり視界が狭まる。


「く、クロノ様! 大丈夫ですか?」


 褐色のハーフエルフがクロノに駆け寄り、忌々しそうにフェイを睨み付けた。

 二日目にして居場所を失ってしまったであります。


「だ、グボ、グボ!」

「お母さん、次はボクと組み手しよ!」


 スノウが褐色のハーフエルフに抱きつくと、クロノは顔を上げた。


「お、お母さん?」

「ち、違います、クロノ様!」


 首を絞められたダメージから回復しきっていないのか、クロノは立ち上がり、すぐに膝を突いた。

 クロノの瞳が忙しなく褐色のハーフエルフとスノウの間を行ったり来たりする。


『凄い展開になってきやしたぜ?』

「ド修羅場だな」

「クロノ様、違います! まだ、私は子どもを生んでいません!」


 ふら~とクロノは立ち上がり、


「……僕が、君のパパです」

「えっ?」


 クロノが乾いた笑みを浮かべると、スノウは驚いたように目を見開いた。


「複雑な事情があって、君達を帝都のスラムに置いて行かざるを得なかったんだ。これからは親子水入らずで、幸せに暮らそう」

「本当かよ?」

『嘘に決まってやす』


 はははっ、と何処か虚ろな声で笑い、クロノは褐色のハーフエルフとスノウを抱き寄せた。


「あ、あの、クロノ様……本当に私の子どもじゃないんです」

「え?」


 ようやく正気に戻ったのか、クロノはスノウを見下ろした。


「あの、勘違いさせてごめんなさい。あのレイラお母さんは……お母さんって呼んでるだけで本当のお母さんじゃないんです」

「あ、そうなの?」


 クロノは照れたように笑い、演習場から去っていった。


「……あ」

「謝り損ねたな」

「し、失敗したであります」


 もうダメであります、とフェイは力なく頭を垂れた。


「まあ、そう落ち込むな」


 ケインに肩を叩かれ、フェイは顔を上げた。



 食事と湯浴みを終え、フェイは三階にあるクロノの寝室を目指す。

 ケインの言葉が脳裏に甦る。


 ……クロノ様は優しい方だ、誠意を見せれば許してくれるさ。


 つまり、抱かれろという意味でありますね! とフェイは力強く拳を握り締めた。

 他にも言ってたような気がするが、大事なのは誠意だ。


「馬糞女と呼ばれたくないであります」

「……誰よ、アンタ」


 フェイが扉の前に立つと、不機嫌そうな声が投げかけられた。

 声の主は背の低い少女だった。


「フェイ・ムリファインであります」

「名前なんて聞いてないわ。アンタ、何しに来たの?」


 少女は腕を組み、不機嫌そうな目付きでフェイを見上げた。


「抱かれにきたのであります!」

「はぁ?」

「では、失礼するであります」


 扉を開こうとすると、少女がフェイの手首を掴んだ。


「何をするでありますか?」

「あのね、今日はあたしの番なの。一週間も待って、ようやく巡ってきた枕を取りに行って良い日なの」


 言葉の意味が分からず、フェイは首を傾げた。


「枕を取りに来たなら、早く用事を済ませて帰るであります」

「そういう意味じゃないわよ、そういう意味じゃ!」


 少女が叫ぶと、寝室の扉がゆっくりと開いた。


「君達、元気だね」

「クロノ様、聞いて」


 フェイはクロノと少女の隣を擦り抜け、ベッドに寝転んだ。


「ちょ、な、何してんのよ!」

「クロノ様を待っているであります」


 クロノは気まずそうに頬を掻き、イスに腰を下ろした。


「……こ、このアマ」


 少女は悔しそうにフェイを睨み、ベッドに座った。


「何しに来たの?」

「昼間の非礼を詫びるために抱かれに来たのであります」

「本当の目的は?」


 にっこりとクロノは微笑んだ。

 ベッドから降り、フェイは床に両膝を突いた。


「馬と鎧を返したくないであります!」

「えっと、それだけ?」


 嘘は吐かない方が無難でありますね、とフェイはクロノを見上げた。


「騎士として武勲を立てるか、クロノ様の正妻の座に納まって、ムリファイン家を再興したいのであります!」

「……僕の周りにいる女性は逞しいなぁ」


 頬杖を突き、クロノは呆れたように溜息を吐いた。


「ダメでありますか? 正妻が無理なら愛人で構わないであります。その代わり、資金的な援助をお願いしたいであります!」

「だ、ダメに決まってるじゃない! つーか、アンタ、どれだけの価値が自分にあると思ってんのよ!」


 立ち上がり、少女はフェイを指差した。


「私は処女であります!」

「ば、バカじゃないの! 処女の奴隷なんてエラキス侯爵領には掃いて捨てるほど集まってくるわよ!」

「エレナ、君も似たようなことを言ってたような記憶があるんだけど?」


 エレナと呼ばれた少女が睨み付けると、クロノは乾いた笑い声を上げた。


「許して頂けないでありますか?」

「あれは組み手だったんだから、怒る方が筋違いじゃないかな」

「ほ、本当でありますか!」


 フェイは床を這い、クロノの手を握り締めた。

 上目遣いで見上げると、クロノは気まずそうにフェイから視線を逸らした。

 すぐにデキるように下着は付けてこなかったのだ。


「明日になっても、馬と鎧を返せと言わないでありますね?」

「言わないよ」


 フェイはクロノの左目を覗き込んだ。


「信じて宜しいでありますか?」

「アンタ、もの凄く疑り深いわね」


 フェイは偉そうに腰に手を当てるエレナを睨んだ。


「ようやく掴んだチャンスなのであります」

「そんなに疑うんなら、一筆書いてやれば?」

「まあ、それで気が済むんなら」


 エレナが呆れたように言うと、クロノは紙に文字を書き始めた。


「はい」

「感謝するであります」


 フェイはクロノから紙を受け取った紙を抱き締めた。

 『馬と鎧を返せと言いません』とそれだけの内容だったが、フェイにはそれで十分だった。



 翌日、フェイは誰よりも早く厩舎に行き、自分の馬にブラシを掛けた。

 四年間、繰り返した作業なのに自分の馬だと思えば苦にならない。

 それどころか、にやにやと口元が緩んでしまう。


「やあ、朝から頑張ってるね」

「く、クロノ様、おはようであります」


 手を休め、フェイはクロノを見つめた。

 ま、まさか、約束を破るつもりでありますか?


「君の元上司から手紙が届いて……まあ、補充兵が来た時に受け取ってたんだけど」

「な、何が書かれているでありますか?」


 がくがくと足が震えた。

 昨夜は一筆書いてもらうだけで十分だと思っていたけれど、ピスケ伯爵がフェイの不利になるようなことを書いていたら反故にされてしまう可能性がある。


「君のお父さんが不名誉な行いをしたとか、君のお母さんが汚らわしい行為をしていたとか、君の勤務態度がとか……ドワーフまで誘惑する、けしからん娘とか」

「ち、父は病気で、母は無理して働いて……私は、四年間、ずっと……真面目に働いていたであります」


 フェイは体を支えるのがやっとだった。

 愛人になるのを断っただけで、ここまで、ここまでするでありますか? 

 父と母の名誉を汚し、チャンスまで台無しにするなんてあんまりであります!


「まあ、ゴミだよね」

「え?」


 クロノが溜息を混じりに言い、フェイは顔を上げた。


「こんな手紙を信じ込むほどバカじゃないよ、僕は」

「では、何故?」

「こういうことをする人だから、他にも嫌がらせをしてくると思ってね。僕の所で止められないこともあるかも知れないし、直接、君に嫌がらせをするかも知れないし、念のために伝えておこうと思って」

「……クロノ様は、人が悪いであります」


 フェイは胸を撫で下ろした。

 神様、感謝するであります、とフェイは心の中で祈りを捧げた。

 クロノが白銀の鎧を身に纏った騎士と斬り結ぶ光景が脳裏を過ぎったが、フェイは頭を振って否定した。

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