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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第7部:クロの戦記

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第5話『海』修正



 帝国暦四三三年六月――アランは岩陰に身を隠し、股間を握り締めていた。視界は土煙に覆われ、衝撃が断続的に伝わってくる。

 一秒でも早く逃げ出したいが、事故が起きた時は物陰に身を隠すべきだ。それをこの一カ月で学んだ。

 もちろん、絶対に身を守れるという保証はない。物陰に身を隠していても砕け散った岩に当たれば終わりだ。

 重傷を免れてもケガが悪化すれば終わりだ。動けなくなった時点で朽ちかけた小屋に押し込められる。

 そして、死ぬ。ここには医者どころか、包帯さえないのだ。そんな状況では助かる者も助からない。

 学のないアランにだってそんなことは分かる。

「……クソッ」

 こんな所に来るんじゃなかった、と心の中で続ける。アランは帝都でゴミを拾って生計を立てていた。

 市場を這い回って食べ物を、街を歩き回って錆びた釘などを拾う。それだけでは生活できないので、ドブを浚うこともある。

 貴族の住んでいる地区のドブ浚いは運が良ければゴミ拾いとは比較にならない稼ぎを得られるが、競争は激しい。

 ライバルと鉢合わせすれば喧嘩になるし、下手をすれば殺し合いになる。まあ、それはゴミ拾いも同じだ。

 どちらもキツく、汚い仕事だ。尊敬も得られない。ゴミを漁ればゴミ虫、ドブを浚えばイトミミズと揶揄される。

 若い男の場合、半端者のレッテルまで貼られてしまう。犯罪組織に所属したりする者の方が格上と見なされるのだ。

 誰かに尊敬されたい。半端者と呼ばれたくない。霊廟建設に参加したのはそんな思いからだった。

 結果から言えば甘い考えだった。収入はゴミ拾いより安定していたが、危険度は比べものにならないほど高かった。

 そこで事故で死んだり、不具になったりする者を何人も見た。それでも、霊廟が完成した時には誇らしい気分になったものだ。

 しかし、そんな気分は長続きしなかった。霊廟建設で得た給料はあっと言う間になくなり、ゴミ拾い……半端者に戻った。

 いや、戻ったというのは正確ではない。アランを待っていたのは以前よりも過酷な日々だった。

 霊廟の建設が終わり、街は大量の失業者で溢れかえっていた。アランは争いに負け、さらに最下層に追いやられた。

 ボウティーズ男爵領で石切り職人を募集していると聞いたのはそんな時だった。給料は決して高くないが、衣食住を保証し、未経験者でも応募可能な点に心を惹かれた。

 帝都にいても先が知れている。最底辺から抜け出すチャンスだと思い、その話に飛びついた。

 そこから先はトントン拍子に進んだ。翌日には幌馬車に乗って帝都を発ち、十日後にはボウティーズ男爵領に到着した。

 夕陽に染まる山を見ながら最底辺から抜け出そうと固く誓った。もっとも、その誓いは宿舎という名の廃屋を見た瞬間に失われてしまったが。

 石切場では今日のような事故が頻繁に起きていた。原因は明白だ。ここには本物の職人がいないのだ。

 素人が乏しい知識を持ち寄り、試行錯誤しながら石を切り出す。成功することもあるが、失敗することもある。

 失敗するたびに死者が出て、それを繰り返す内に知識の伝承が途絶える。そうなったら一からやり直しだ。

 そんなことを何度繰り返したか分からない。

「クソ、クソッ、どうしてこんなことに……っ!」

 我が身の不幸を嘆いたその時、誰かが近づいてきていることに気付いた。この時、アランが抱いたのは仲間が生きていたことに対する安堵ではなく、自分の命が脅かされる恐怖だった。

 その誰かは岩陰を見つけたら隠れようとするだろう。二人でスペースを分け合えば岩の破片に当たる確率が上がる。

 ふと脳裏を過ぎるのは岩陰を共有したせいで死んだ二人のことだ。二人とも酷く苦しんで死んだ。

 あんな死に方は御免だ。きっと、近づいてきている誰かもそう思っている。岩陰にアランがいると知れば押し退けようとするに違いないのだ。

 こっちに来るなよ、とアランは岩の破片を握り締めた。来るなと祈っているにもかかわらず、その誰かは近づいてくる。

「来るな!」

「誰かいるのか?」

 アランが叫ぶと、そいつはこちらに近づいてきた。

「こっちに来るなって言ってるだろうが!」

 アランは岩の破片を投げた。岩の破片は一直線に進み、その誰か……帝都から一緒にやってきた男の額に当たった。

 突然の衝撃に面食らったのだろう。男が一瞬だけ動きを止め、死神はその隙を見逃さなかった。

 飛んできた岩の破片が頭に突き刺さり、男は糸が切れたように倒れた。血が溢れ出し、地面を染めていく。

「……お、俺は」

 悪くない、と頭を掻き毟った。警告したのだ。それなのに男は近づいてきた。岩の破片を投げられても仕方がないではないか。

「……あ、クソッ、名前は」

 こいつの名前は何だっただろうか、と頭を掻き毟る。

「ジョンだ、確かジョンだった」

 幌馬車に乗った時、声を掛けてきたのがジョンだった。仕事場が別になったので、ボウティーズ男爵領に着いてからは一度も話していない。

 ジョンは岩の破片がぶつかった時、呆気に取られたような表情を浮かべていた。もしかしたら、彼はアランを押し退けようとは考えていなかったのかも知れない。

「ひ、ヒ……ッ!」

 悲鳴を上げようとした次の瞬間、視界が大きく揺れ、アランは倒れた。そして、何が自分の身に起きたのか理解する間もなく意識が途切れた。



 シオンは救貧院の執務室にあるソファーに座って香茶を愉しんでいた。仕事が一段落した時に飲む香茶は格別だ。

 自分ではそう思っているのだが、グラネットに貧乏臭いと言われてしまった。ババ臭いと言われた時もショックだったが、貧乏臭いと言われた時もショックだった。

 流石に言い返したが、更に言い返されて言葉に詰まった。ティーセットは貰い物で、香茶は自分でブレンドした物だ。

 貧乏臭いと言えば貧乏臭いかも知れない。

「……別に良いじゃないですか」

 小さくボヤいたその時、扉を叩く音が響いた。

「どうぞ!」

「ただいま~」

「ただいまですぅ!」

 シオンが大声で言うと、グラネットとプラムが入ってきた。二人は自分のカップを取り、ソファーに腰を下ろした。

「農村を回るのはしんどいわ」

「グラネットさん、それを言っちゃおしまいですぅ」

 プラムはカップに香茶を注ぎながら突っ込んだ。『黄土にして豊穣を司る母神』に仕える神官の仕事は農業に関する知識や技術を伝えて終わりではない。

 こちらの意図する形で知識と技術が定着したのを確認して初めて仕事を全うしたことになるのだ。

「どうでしたか?」

「今年は天候が悪いから去年ほどじゃないわね」

「でも、でも、寒さに強い麦だから最小限の被害で済むと思うですぅ」

「そうですね、私も同意見です」

 シオンは両手でカップを支えながら頷いた。

「他に何かありませんか?」

「……そう言えば」

「何ですか?」

 突然、グラネットは立ち上がり、深々と頭を下げた。

「グラネットさん! 正気を失ったですかっ?」

「違うわよ!」

 グラネットはプラムを睨み付けて怒鳴った。

「シオン様、昇進おめでとうございます!」

「ああ、グラネットさんが頭を下げた理由が分かったですぅ」

 プラムは軽蔑を含んだ眼差しをグラネットに向けた。

「あの、どうして知っているのですか?」

 シオンはチラチラと机に視線を向けた。神殿本部から送られてきた書簡には昇進を臭わせることが書かれていたが、到着したばかりだ。

「私はあちこちに友達がいるのよ」

 はぁ、とシオンは曖昧に頷いた。

「私を神官長に推薦してくれると嬉しいわ」

「……昇進すると決まった訳ではないのですが」

「昇進は確実よ。ビートの品種改良に成功し、新しい農法を確立、新しい農具……千歯扱きと唐箕まで手に入れたんだもの」

 唐箕は手に入れていない。こういう道具を見たと報告しただけだ。とは言え、原理としては単純な代物なので、神殿は複製に成功するだろう。

「寄付金は高額、クロノ様は経済同盟の盟主になったわ。もう神殿的にはシオン様を昇進させるしかないわ」

 はぁ、とシオンは再び曖昧に頷いた。

「嬉しくないの?」

「……あの、断ろうかと」

「ダメよ!」

 グラネットはバンッとテーブルを叩いた。

「折角、巡ってきたチャンスじゃない!」

「でも、私の力では……」

 自分の力で昇進のチャンスを掴んだのならまだしも全てクロノの力だ。それで昇進しても居心地の悪い思いをするだけではないか。

「シオン様の力よ」

 グラネットはシオンを見つめて言った。いつになく真剣な態度だった。その瞳を見ていると、自分の力なのかも知れないという気になる。

「シオン様、グラネットさんの言葉を鵜呑みにしちゃダメですぅ。グラネットさんはシオン様の後釜を狙っているだけですぅ」

 グラネットはプラムの言葉に表情を強張らせた。

「も、もちろん、それだけじゃないわよ。シオン様は出世すべきだと思うのよ」

「どうしてです?」

「……結婚できそうにないし」

 グラネットがボソリと呟き、シオンは鈍器で頭をぶん殴られたような衝撃を覚えた。プラムに憐れむような視線を向けられて更なる衝撃を覚える。

「あ、あの、もう結婚できないと決まった訳では……」

「クロノ様とは何処まで?」

 心臓の鼓動が跳ね上がる。グラネットはあのこと……シオンがベッドで何をしているのか知っているのだろうか。

 いや、そんなはずはない。再び神威術を使えるようになってからシオンの感覚は鋭敏になっている。

 扉越しでもグラネットの気配を察知するなど造作もない。だが、もしかしたら残り香のようなものから何をしているのか理解したのかも知れない。

「どうして、クロノ様限定なんですか?」

「シオン様にはクロノ様以外に親しい男性なんていないじゃない」

 冷静を装いながら尋ねると、グラネットは当然のように言い放った。秘密がバレていないと分かり、内心胸を撫で下ろす。

「それで、クロノ様とは何処まで?」

「……何処までと言われても」

 何処にも辿り着いていない。明日、シルバニアへ視察に行く約束をしているが、シャウラとエルザも一緒だ。

「結婚は諦めて、出世を選んだ方が良いわ」

「どうして、そんなことを言うんですか?」

「だって、あのクロノ様と何の進展がないんだもの」

「……っ!」

 シオンは言葉に詰まった。クロノのことはさておき、一生独身は辛い。それに自分が『神殿』で出世できるとはどうしても思えないのだ。

 と言うか、出世できるような才覚があるのならば露店でビートを売ったりしていない。

「どうすれば良いんでしょう?」

「恋愛は待ってるだけじゃダメなのよ」

 グラネットは酸いも甘いもかみ分けた大人の女のような態度で言った。

「自分からアプローチしないと、アプローチ」

「……アプローチ」

 シオンは鸚鵡返しに呟いた。

「恋愛は受け身じゃダメなのよ。今のシオン様は草食じゅ……むしろ、草ね、草」

「……草」

 草ならば草食獣に食べて貰えそうなものだが、草は草でも毒草なのだろうか。

「あ、でも、アプローチをしたことが……」

「どうやって?」

「運命を信じ……」

「痛っ、痛たたた」

 グラネットはシオンの言葉を遮り、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

「そんなにダメですか?」

「ダメだったでしょ?」

「……はい」

 グラネットに問い返されて頷く。確かにあの時のクロノはドン引きしていた。

「でも、どうしたら?」

「簡単よ。相手の目を見て、胸の前で手を組んで、愛してます。貴方の女にして下さいって言えば一発よ」

「……一発」

 まあ、そういうアプローチの仕方はしなかった。

「あとはさりげなく触れたり、チラチラ見たりするのが効果的ね」

「私にできるでしょうか?」

「当たって砕けろよ!」

 砕けてはいけないような気がするが、黙ってグラネットの話を聞くことにした。



 クロノが執務室で仕事をしていると、扉を叩く音が響いた。少し雑な感じのするノックだった。

 しばらくするとシッターが扉を開けて入ってきた。髪は頭皮に張り付き、服はヨレヨレになっている。

 カイ皇帝直轄領の商業連合に交易の許可を出すにあたり、クロノはシッターと数人の部下を事前交渉のために派遣した。

 立場を考えればこちらから出向く必要はなかった。だが、カイ皇帝直轄領の空気を把握しておきたかったのだ。

「出張お疲れ様。折角、来てくれたのに申し訳ないけど、今日はゆっくり休んでも良かったんだよ?」

「お心遣いに感謝します、はい。ですが、できるだけ早く報告をと思いまして」

 シッターはハンカチで汗を拭いながら歩み寄り、紙の束を机の上に置いた。

 紙の束は二冊ある。一冊は紙質から報告書だと分かるが、もう一冊は分からない。手に取り、パラパラとページを捲る。

「……職人の名簿か」

「その通りです、はい」

 名簿には名前と家族構成、何の職人なのか、何を得意としているのか、今までどんな仕事をしてきたのかが記されている。

「これは向こうが?」

「招致に応じた職人は借地代と二年分の税を免除すると伝えた所、翌日にこれだけの人数が希望していると……」

「ってことはナム・コルヌ女男爵の思い付きじゃなかったってことだね」

 まあ、当たり前と言えば当たり前だ。存在しないカードを交渉の材料にするのは単なる詐欺である。

 詐欺師ならばそれで構わないが、ナム・コルヌ女男爵は商業連合の代表を名乗っていたのだ。

「……百人はいそうだ」

「はい、その通りです」

 クロノは苦笑した。当てずっぽうで言ったのだが、当たっていたらしい。

「な~んか、裏がありそうで怖いんだよね」

「仰る通りでございます」

 やっぱり、とクロノは顔を顰めた。職人は……職人に限った話ではないが……領地を維持・発展させる上で欠かせない存在だ。

 それを手放そうとしているのだ。裏がない方がおかしい。

「もちろん、職人にとってクロノ様の提示した条件が魅力的だったことも要因の一つではないかと、はい」

「そんなに魅力的かな?」

 それなりの条件だとは思うが、実績のある職人が飛びつくとは思えない。

「実は……カイ皇帝直轄領では不満が渦巻いているようでして」

「不満?」

「はい、腕が未熟でも工房を継げたり、腕は十分でも独立できなかったりと不満が燻っておりまして、はい。商業連合が領地を支配していることに対する不満もチラホラと」

 なるほど、とクロノは頷いた。

「体よく面倒ごとを押し付けられたような気がする」

「では?」

「いや、職人は受け入れるよ。こっちにもメリットがあるしね」

 クロノはイスの背もたれに寄り掛かった。

「でも、良いように扱われたようで癪だな。何か良いアイディアはない?」

「そう仰ると思いまして保証金についても話をして参りました」

「保証金?」

「はい、商業組合に職人一人当たり金貨十枚の保証金を出して頂きます」

「それで納得した?」

「名簿の内容に誤りがなければ二年後にお返しすると伝えた所、渋々という感じではありましたが、頷いて頂けました、はい。もちろん、職人の方々が自身で保証金を用意していないか確認するとも伝えてあります。どうでしょう?」

「うん、良いアイディアだと思うよ」

 シッターの機転のお陰で少しだけ溜飲が下がった。

「ところで、出張費は足りた?」

「十分な金額を頂いておりましたので、情報収集が捗りました」

「それは良かった」

 クロノは胸を撫で下ろした。出張費の中には酒代なども含まれる。養父によれば酒場や娼館に行けば街の情報はすぐに集まるらしい。

 エレナは『どうして、酒代や女を買う金まで出さなきゃならないのよ!』と怒ったが、報告書の提出を条件に納得させた。

「あ、戻ってきたばかりで悪いんだけど」

「何なりとお申し付け下さい、はい」

「事務方を増員することになったんだ」

 ほぅ、とシッターは驚いたように目を見開いた。

「人数は十人、二人は教員に回そうかと思ってる」

「承りました。納税までには戦力になるようにしたいと思います、はい。顔合わせは明日でよろしいのですか?」

「新人の纏め役はもういるよ」

 クロノがパチンと指を鳴らすと、執務室の扉が開いた。扉を開けたのはネージュの副官である。

「……お呼びでしょうか?」

「やり直し」

 ネージュの副官はうんざりしたように顔を顰めて扉を閉じた。再び指を鳴らすと、シュタッという音と共にネージュの副官が片膝を突いた状態で忽然と姿を現した。

「こ、これはっ?」

「ニン、ジャーーーーッ!」

「ニンジャッ!」

 クロノが叫ぶと、シッターは釣られたように叫んだ。

「彼女は東方由来の魔術を習得した者……即ち、忍者です」

「は~、忍者ですか。それでお名前は?」

「忍者は闇に生きて……」

「クリンゲ・ヘルツです。それと、私は陽の当たる場所で生きて、家族に看取られながら死んでいくつもりです」

 ネージュの副官……クリンゲはクロノの口上を遮って言った。

「そうですか」

 はい、とクリンゲは静かに頷いた。

「経歴はさておき、彼女には移動劇団の監督、まあ、今は台本の作成をお願いしてるんだよ。進捗はどう?」

「猟奇的なシーンをマイルドな表現に直しています。特にカチカチ山……狸がお婆さんを撲殺し、婆汁にするシーンは全面カットです」

「えっ?」

「狸がお婆さんを撲殺し、婆汁にするシーンは全面カットと申し上げました」

 クリンゲは眼鏡を押し上げながら言った。

「あのシーンは原作通りだよ!」

「原作通りでも却下です」

 クロノは叫んだが、クリンゲは取り合ってくれなかった。

「原作に対するリスペクトが足りないよ!」

「子どもが真似をしたらどうするのですか?」

「老人を殺害してスープの具にするとか、どんな子どもだよ!」

「子どもとは得てしてそういうものです」

「性悪説、キターーッ!」

「クロノ様は子どもというものを分かっていらっしゃらない。子どもというものは教育次第で天使にも、悪魔にもなるのです」

「笑って言うことじゃないよ!」

 クロノは酷薄な笑みを浮かべるクリンゲに突っ込んだ。

「……と言う訳で猟奇的なシーンは修正します。万が一、真似をされて責任問題にされるのは嫌なので」

「いやはや、忍者とは大したものですな」

 シッターは感心したように言った。

「理解して頂けたでしょうか?」

「もう好きにして下さい」

 クロノはうんざりした気分で言った。

「……では」

「あ、ちょっと待った」

 部屋から出て行こうとしたクリンゲを呼び止める。

「何でしょう?」

「実はプレゼントを用意しています」

 クリンゲは驚いたように目を見開いた。

「……忍者ならこれということで」

「今は六月ですよ」

 クロノが引き出しから黒いマフラーを取り出すと、クリンゲは訝しげに眉根を寄せた。

「忍者と言ったらマフラーでしょ?」

「……私は忍者では」

「ニンジャーッ!」

「ニンジャーッ!」

 クリンゲはモゴモゴと口を動かしていたが、クロノが叫ぶと応じるように叫んだ。

「……ま、まあ、頂ける物は頂いておきますが」

 クリンゲは恥ずかしそうに顔を赤らめながらマフラーを手に取り、首に巻き付けた。

「実は……ミニスカ忍び装束も用意してあります」

「……」

 クロノが引き出しに手を伸ばすと、クリンゲはシュッという音と共に姿を消した。

「逃げたか。まあ、そういう訳なので、彼女達の面倒を見てやって」

「ですが、どのようにコンタクトを取れば良いのか」

「多分、部屋の外で待ってるよ」

「は、はあ……」

 シッターは溜息を吐くように頷いた。



 侯爵邸の庭園には二つの音が響いている。カーン、カーンという槌打つ音、カンカンという釘を打つ音だ。

 工房を覗くと、ドワーフ達が忙しそうに働いていた。十字弓と鉄の茨を量産するために頑張っているのだ。

「クロノ様、何か用ですかな?」

「明日、シルバニアに行くから十字弓がどれくらいできているか確認に来たんだよ」

「完成品は三十台ですな」

「……三十台か」

 量産を決めてから一ヶ月半……鉄の茨に人手が取られていることを考えれば妥当な数だろう。

「……もう少しスピードが上げられれば良いんだろうけど」

「職人の数が限られてますからな」

 ゴルディはしみじみと呟いた。

「取り敢えず、明日は十台持って行くよ」

「分かりましたぞ」

「じゃ、よろしく」

 ゴルディの肩を叩き、厩舎に向かう。そこでは黒い軍服姿のセシリーが偉そうに腕を組んで厩舎の増築を見守っていた。

「……シルバは?」

 辺りを見回すと、シルバはセシリーからかなり離れた場所で図面を睨んでいた。と言うか、セシリーを刺激しないように身を隠しているようにも見える。

「どうしたの?」

「……俺はあの女が苦手なんだ。できれば関わりたくない」

 クロノが声を掛けると、シルバは囁くような声音で言った。

「そんなに警戒しなくても大丈夫じゃない?」

「俺は建築家だぞ。その前は蹄鉄工、さらにその前は石工だ。喧嘩をしたことはあるが、ガチの戦闘はしたことがない」

「知ってるよ」

「だったら、分かるだろ? あの女がトチ狂って暴れたら、俺には抵抗する術がない」

「その気持ちをフェイに分けて欲しいな~」

 戦闘能力の差だろう。フェイは意趣返しする気満々だ。挑発したがる彼女を止めるのはそれなりに大変なのだ。

「一応、それとなく声を掛けてくるよ」

「すまないな」

 クロノが近づくと、セシリーはビクッと体を震わせた。そのまま逃げ出すかと思ったのだが、唇を噛み締めてその場に踏み止まった。

「……セシリー」

「ハマル家と取引できるというのに駄馬を二十頭注文するなんて馬鹿にしていますわ」

 セシリーは腕を組み、プイッと顔を背けた。

「駄馬って言うか、普通の馬ね」

「騎兵隊を拡充するのならば名馬を注文すべきではなくて?」

「名馬一頭より二十頭の普通の馬だよ」

 普通の馬だって安くない。それに騎兵隊を拡充しなければならないのだから質よりも数を優先すべきだ。

「あのさ、セシ……」

「教育方針なら心配なさらないで。メイド長に倣って誉めて伸ばすようにしますわ」

 セシリーはクロノの言葉を遮り、捲し立てるように言った。

「誉めて伸ばす?」

「その顔は何ですの? わたくしだってそれくらいのことできますわ!」

 クロノが顔を顰めると、怒ったのか、セシリーは真っ赤になって言った。

「まあ、教育ほ……」

「そう言えば新しいメイドはどうですの?」

「……」

 クロノが無言で見つめると、セシリーはキョロキョロと視線を彷徨わせた。

「その露骨な……」

「お黙りなさい! 貴方がわたくしを辱めようとしていることくらい分かっていますわ!ええ! 話題を逸らしても時間稼ぎにしかなりませんわ! 猫が鼠をいたぶるような真似はせずに辱めれば宜しいのではなくて!」

 セシリーは顔を真っ赤にして叫ぶと唇を噛み締めた。

「今日は辱めようなんて思ってないんだけど?」

「嘘ですわ!」

 断言された。どうやら、クロノは全く信用されていないようだ。まあ、今までのことを考えれば仕方がないが。

 セシリーはチラチラとクロノに視線を向けてきた。

「……じゃあ、何の用ですの?」

「作業の邪魔だから何処かに行って貰おうと思って」

「邪魔? わたくしの何処が邪魔ですの?」

「存在?」

「存在!」

 クロノが首を傾げながら言うと、セシリーは驚いたように目を見開いた。

「セシリーに見られてると作業に集中できないんだってさ」

「くっ、分かりましたわ」

 セシリーは悔しそうに言って踵を返した。



 翌日、クロノが箱を抱えて庭園に出ると、三人……シオン、シャウラ、エルザは幌馬車の前で待っていた。

「クロノ様、おはようございます」

「「おはようございます!」」

 シオンが会釈すると、シャウラとエルザはクロノに敬礼した。やや崩れた敬礼だが、態度は真面目そのものだ。

「クロノ様、十字弓はすでに積み終えてますぞ」

 ゴルディが幌馬車の陰から姿を現す。

「お疲れ様」

「十字弓は専用の箱に入れておりますぞ」

 クロノが声を掛けると、ゴルディは幌馬車から大きな箱を取り出して蓋を開ける。そして、こちらに見えるように箱を傾けた。

 緩衝材としてか、箱の中には乾燥させた藁が敷き詰められていた。

「ありがとう」

「いえいえ、これも私の仕事ですぞ」

 ゴルディは蓋を閉じて箱を幌馬車に戻した。

「じゃあ、行こうか?」

「え?」

 クロノが声を掛けると、エルザが問い返してきた。エルザさん、とシャウラが二の腕をバシバシと叩く。

「何か気になることでも?」

「この馬車で、ですか?」

「そうだよ」

「……箱馬車は?」

 エルザは上目遣いにクロノを見つめた。どうやら、箱馬車に乗りたいらしい。それが分かっていれば箱馬車を用意したのだが。

「申し訳ないけど、今日は幌馬車で我慢してね」

「いえ、そう言う訳では……」

 箱馬車に乗りたかったんじゃないのかな? とクロノは首を傾げた。エルザはチラチラと視線を向け、意を決したように口を開いた。

「き、貴族の方は立派な馬車に乗るものではないのですか?」

「僕はこの馬車に愛着があるんだよ」

 クロノが幌を叩くと、エルザは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「じゃ、行こうか」

 よいしょ、と幌馬車に乗り、空いているスペースに腰を下ろす。次に乗りこんだのはシオンだ。

 シオンは迷うことなくクロノの隣に座った。

「……あの?」

「ど、どうかしましたか?」

 声を掛けると、上擦った声で答える。やけに目がギラギラしている点が非常に気になったが、詮索はしない。

 いつぞやのように運命を信じるかと聞かれても困るのだ。



 幌馬車はゆっくりとスピードを落とし、代官所の前で止まった。

「やっぱり、体が痛いな~」

 クロノは幌馬車から下りると体を伸ばした。チラリと車輪に視線を向ける。足回りを強化しているものの、自動車に比べると乗り心地が悪い。

「……タイヤを作れれば良いんだけど、ゴムの木がないと」

 ゴルディがゴムの開発を行っているが、開発は遅々として進んでいない。植物油に土を混ぜたり、他の植物を混ぜてみたり、鉱石を混ぜたり、混ぜた物を加熱したりとそんなことを繰り返している。

 ジャガイモもないし、新大陸を探さないとダメなのかな、と小さく息を吐く。外洋を航海するために必要なものを考えただけで心が折れそうになる。

 よくもまあ、先人……元の世界のだが……は手探りで様々な技術を開発できたものだと感心してしまう。

 そんなことを考えていると、シフが二人の男を引き連れて近づいてきた。一人は髭面の男、もう一人は赤毛の青年だ。

「……待っていた」

「あ、待ってたんだ」

「武器を下賜されるんだ。待っているべきだろう」

 苦笑しながら幌馬車から十字弓の入った箱を取り出した。

「……これがドワーフの不思議技術によって開発された十字弓です」

 蓋を開けるために跪こうとしたら、シフが箱を下から支えた。

「クロノ様を跪かせるのは体面が悪い」

「ありがとう」

 蓋をスライドさせて十字弓を取り出すと、シフは軽く目を見開いた。

「先端の輪に足を掛けて弦を引くと自動的にロックされます。あとは狙って引き金を引くだけです」

「……矢はこれか?」

 シフが箱からボウガンの矢を取り出した拍子に紙の束が地面に落ちた。髭面の男はクロノが身を屈めるより早く紙の束を拾い上げた。

「……どうぞ」

「ありがとうございます」

 クロノは髭面の男から紙の束を受け取り、パラパラと捲った。

「説明書だね」

 紙の束……説明書を箱に戻す。まあ、説明書と言っても使い方とメンテナンス方法が簡単に書かれているだけだ。

「これは我々が保管しても?」

「十台持ってきたけど、どう思う?」

 クロノが問い返すと、シフは思案するように黙り込んだ。

「十台ならば問題ないと思うが、それ以上になると住人感情に悪影響を与えるだろう。我々はそれを望んでいない」

「十一台目以降は代官所の預かりで良い?」

「ああ、それで構わない」

 おい、とシフが声を掛けると、髭面の男と他一名が幌馬車から十字弓の入った箱を降ろし始めた。

「……カリス殿とリュカ殿の様子は?」

「二人とも元気だよ。カリスは花壇で花の栽培を始めたし、リュカは……」

 クロノはポケットから財布を取り出した。

「これはリュカ殿が?」

「うん、刺繍って言うか、裁縫が趣味みたいでさ。財布を作って貰ったんだよ。今はカーテンに挑戦中」

 もっと小さな物でも良いのに、と小さく付け加える。すると、シフの口元がわずかに綻んだ。

 それは自分の策が思い通りに進んだ時に浮かべる暗い笑みではない。ホッとして思わず漏れてしまったそんな笑みである。

 カリスはともかく、リュカはちょっと棘のある性格なので、心配していたのかも知れない。

 まあ、そんな人物に妾になれと命令するのはどうかと思うが。

「伝統工芸として売り出せないかな?」

 シフは箱を髭面の男に渡すと思案するように腕を組んだ。

「不可能ではないが、いくつか問題がある。我々には機織り職人がいない。当然のことだが、販路もない」

 今度はクロノが考える番だった。服飾職人は部下にいるが、機織り職人はいない。布を購入しなければならないが、そうすると割高になってしまう。販路に関しては『シナー貿易組合』と行商人組合が使えると思うのだが。

「『シナー貿易組合』とコラボすれば良いんじゃない?」

「こらぼ?」

 シフは訝しげに眉根を寄せた。

「……言葉の意味はよく分からないが、力を合わせるという意味なら可能だ。だが、その場合はクロノ様の利益がないのではないか?」

「詳細は省くけど、『シナー貿易組合』が儲かれば僕の懐も潤うようになってるんだよ」

 問題があるとすればエレインと交渉して諸部族連合の利益を確保しなければならない点である。

「……そうか」

「まあ、考えておいてよ」

 ああ、とシフが頷いたその時、代官所の扉が開いた。出てきたのはケインだ。

「よう、お早いお着きだな」

「予定通りだよ」

「そうか?」

 ケインはトボけるように頭を掻いた。

「この後はどうするつもりだ?」

「開拓村に行く予定だけど、何か用?」

 クロノが尋ねると、ケインはバツが悪そうな表情を浮かべた。

「エレインが会いたいんだとよ」

「僕も話したいことがあったんだ」

 クロノが幌馬車を見ると、シオンが身を乗り出した。

「悪いんだけど、先に行ってて……あ~、長引くかも知れないから」

「分かりました。視察は私に任せて下さい」

 シオンは軽く自分の胸を叩いた。

「シャウラ、ごめんね」

「お、お気になさらないで下さい!」

 シャウラは背筋を伸ばし、上擦った声で言った。

「シオンさん、あとは……とその前に」

 クロノは幌馬車から箱を取り出した。重量的に十字弓と取り違えたなんてベタなミスは犯していない。

「それは何ですか?」

「未来かな?」

 シオンはキョトンとした顔をした。

「開拓村に行って下さい!」

 クロノが声を張り上げると、幌馬車はゆっくりと動き始めた。



 クロノがケインに先導されて代官所の応接室に入ると、エレインはソファーに座っていた。事務員のような服装を着て、背筋を伸ばす姿は清楚な魅力に溢れている。

 しかし、油断してはならない。清楚に見えてもしっかりと毒を含んでいるのだ。

「久しぶりね」

「まあ、帝都に行ってたからね」

 クロノはテーブルに箱を置き、ソファーに座った。

「俺は仕事に戻って良いか?」

「ここにいて下さい!」

「お、おう」

 クロノが声を張り上げると、ケインは扉を閉めて近くの壁に寄り掛かった。

「で、何の用?」

「単刀直入に言うわ。超長距離通信用マジックアイテムを使わせて欲しいのよ」

 意外な申し出だとは思わなかった。むしろ、今まで切り出してこなかったことの方が不思議に思える。

「どうして?」

「便利そうだからに決まってるじゃない。うちは大手と違って人材が育ってないから何かあると指示を求められるの。そのたびに馬をパカラパカラ走らせなきゃならないのよ。嫌になるわ」

 エレインはうんざりしたように言った。本心かは別として組織の成長スピードに人材の育成が追いついていないのは事実だろう。

「超長距離通信用マジックアイテムを使うのは良いんだけど、お願いを聞いて……どうして、そんな嫌そうな顔をするの?」

「……嫌だからよ」

 エレインは心の底から嫌そうに顔を顰めた。

「そんなに無茶なお願いはしていないつもりだけど?」

「確かに儲けさせて貰ってるけど、すぐに他の商会が追従してくるじゃない。もう少し甘い汁を吸わせて欲しいわ」

 そう言って、エレインは髪を掻き上げた。

「それで、お願いごとって何なの?」

「使用料を支払って欲しいんだよね。一カ月金貨ひゃ……」

「金貨百枚は無理よ。精々、金貨十枚ね」

 言い切る前に値下げ交渉をされてしまった。それにしてもいきなり十分の一に値切るのはあんまりだ。

 しかし、こちらもお願いしたいことがあるのだ。これからも友好的な関係を続けるために譲歩は必要だろう。

「……分かったよ」

「素直に応じてくれて嬉しいわ」

「おいおい、大丈夫なのか?」

 エレインが嬉しそうに微笑むと、ケインが割って入った。

「大丈夫って何が?」

「超長距離通信用マジックアイテムは端末の前にいないと使えねーだろ? 片方がいない時はどうするんだ?」

 ああ、とクロノはケインの言わんとしていることを理解した。受信側が端末の前にいない時はどうするのか。

 兵士や使用人に呼びに行かせることもできるが、クロノとしては余計な仕事を増やしたくない。

「常に待機していれば良いのよ」

「執務室でか?」

「端末専用の部屋を作れば良いでしょ」

 ケインが尋ねると、エレインは何を簡単なことをと言わんばかりの口調で言った。

「でも、それだと他の人に聞かれない?」

「他の商会にも貸すつもりなの?」

「そりゃ、エレインさんだけ優遇できないでしょ?」

 ぐ、とエレインは呻いた。

「端末専用の部屋ってのは良いアイディアだな」

「でも、他の人に聞かれるよ?」

「待機用の部屋も用意すりゃ良いだろ。商会名を名乗ったら兵士か、使用人が待機しているヤツを呼びに行けば良い」

 なるほど、とクロノは頷いた。その方法ならばタイムリーに通信ができる。まあ、その代わりに待機係を用意しなければならないが。

「なりすましとか出ないかな?」

「符丁を決めておけば大丈夫だろ」

 ああ、と感嘆の声を漏らす。流石、ケインだ。符丁……合い言葉を決めておけば悪用される確率はグッと減る。

「……超長距離通信用マジックアイテムについてはそんな感じで運用するとして」

「綺麗な財布ね」

 クロノがポケットから財布を取り出すと、エレインは小さく呟いた。

「これはうちのメイドのリュカが作ったものなんだけど」

「ああ、諸部族連合の子ね」

「お前は何処から情報を仕入れてるんだ?」

「色々よ、色々」

 ケインが突っ込んだが、エレインははぐらかした。

「それで、これがどうしたの?」

「『シナー貿易組合』で売って貰えないかなと思って。もちろん、諸部族連合に利益が還元される形で、彼らの取り分が最低でも五割になるように!」

「そんなに念を押さなくても阿漕な真似はしないわよ」

 エレインはムッとしたように言ったが、クロノはそんな彼女の言葉を信じるほどお人好しではない。

「ケイン、契約の時には立ち会いをお願い」

「その辺はシフも心得てるさ」

 ケインは軽く肩を竦めた。

「お願いは二つだけ?」

「あと一つあるよ」

「……チッ」

 エレインは忌ま忌ましそうに舌打ちをした。何処まで演技なのか分からないが、美人にそういうことをされると地味に傷付く。

「……これも販売できたらと思うんだよね」

 クロノは箱をテーブルの中央に寄せて蓋を開けた。

「……何よ、これ」

「未来だよ」

 エレインは虫でも見るような目でクロノを見た。彼女のような才女にさえ箱の中身は理解できないらしい。

 残念だ。とても残念だ。虫でも見るような目で見られたことがではない。未来を理解して貰えないことが残念でならない。

「未来?」

 興味が湧いたのか、ケインは壁から離れて箱を覗き込んだ。そして、これ以上ないくらい深々と溜息を吐いた。

「……未来って、下着かよ」

「あら、貴方にはこれが下着に見えるの?」

 エレインは挑発的な口調で言うと箱を漁った。

「紐に、レース……何も隠せないわよ。もう一度だけ聞くけれど、本当にこれが下着に見えるの?」

「俺に絡むんじゃねーよ」

 そうね、とエレインはソファーの背もたれに寄り掛かった。

「これを売れと言うの、私に? それとも、使って欲しいの?」

「……売れないかな~と思って」

 エレインもこれ以上ないくらい深々と溜息を吐いた。

「どうやって、売るのよ?」

「それは……ちょっとマンネリ気味のご夫婦に新たな刺激をとか、こんなはしたない格好を見せるのは貴方だけ的に!」

「しなを作らないで、気持ち悪い!」

「ケインも男なら分かるよね!」

「俺に振るんじゃねーよ!」

 クロノが身を乗り出して叫ぶと、ケインは悲鳴じみた声を上げた。

「いや、分かるはず! こう、服を脱いだら、エッチな下着で……羞恥心で顔を真っ赤にされたらたぎるよね!」

「だから、俺に振るんじゃねーよ!」

 ケインはまたしても悲鳴じみた声を上げた。

「滾らない?」

「気持ちは分からなくもねーけど、頼むから口にしないでくれ」

 ケインは気まずそうに顔を背けた。

「……気持ちは分からなくもないのね」

「おや、二人はいつの……」

 甘酸っぱい雰囲気を察知して前を見ると、エレインは神妙な面持ちで下着を見ていた。彼女が浮かべているのは冷徹な商売人の顔である。

 どうやら、クロノの甘酸っぱい気配を察知するセンサーは壊れているようだ。

「下着は貰っても良いのよね?」

「どうぞ、どうぞ」

 クロノは蓋を閉め、箱をエレインに差し出した。

「お前の所は高級娼館なんだろ?」

「そうだけど、新しいアイディアは積極的に取り入れるわよ。クロノ様、他に面白いアイディアはないかしら?」

 そう言って、エレインは身を乗り出した。



 エレインと話を終えて外に出ると、陽が大きく傾いていた。

「……疲れた」

「そりゃ、あれだけ話せばな」

 クロノがボヤくと、ケインは呆れ果てたかのような口調で言った。

「とても参考になったわ」

 エレインはクロノとケインの間を擦り抜け、クルリと反転、優雅に一礼した。まるで踊っているかのような見事な動作だ。

「役に立てて嬉しいよ」

 請われるままにマニアックな知識を披露してしまったが、一定数の顧客が確保できることを願っている。

 それができなければクロノはこの世界で一人きりのマニアックな男になってしまう。少なくともケインとエレインからはそう思われる。

「今度、お店に来てくれたらサービスするわ」

「気持ちだけありがたく」

 下手にサービスを受けたら弱みを握られそうだ。

「そう? 気が変わったら言ってね」

 エレインはヒラヒラと手を振りながら去って行った。

「視察に行っていた連中が戻ってきたみたいだぜ」

 ガラガラという音が響き、幌馬車が代官所の前で止まった。

「これから海に行きたいんだけど、間に合うと思う?」

「海水浴をした所は無理だな」

「じゃ、港だね」

 ケインとそんな話をしていると、シオン達が幌馬車から降りてきた。何かあったのか、三人とも元気がない。

「三人ともお帰り。何かあった?」

「……何かあったという訳ではないんですけど」

 シオンは蚊の鳴くような声で言った。恐らく、シャウラはディノと再会して気まずい思いをしたのだろう。

 感動の再会になんてなるはずがない。それでも、シャウラは何らかの繋がりが欲しかったのだ。

「……海を見に行こう」

「え?」

「海だよ、海。最初からその予定だったでしょ?」

「あ、あの、でも……」

 クロノはシオンとシャウラの手を掴んで歩き出した。



 太陽がゆっくりと水平線に沈んでいく。波がキラキラと輝き、太陽まで伸びる道を形作っている。

「……これが海」

「は~、凄いもんね」

 シャウラは呆然と、エルザは感心したように言った。クロノはシャウラの手を放し、ワシワシと頭を撫でた。

「……あ」

「故郷との繋がりが断たれるのは辛いもんだけどさ」

 クロノは元の世界を思い出しながら言葉を紡いだ。とは言え、シャウラの心を救ってやれる、傷を癒やしてやれる言葉なんてない。

「僕は自分の領地がシャウラの……皆の故郷になれるように努力するよ」

「……クロノ様の領地が私の故郷」

 シャウラが小さく呟き、クロノは背中を軽く押した。それほど力を込めていなかったのだが、蹈鞴たたらを踏んだ。

「海を見て来なよ。ただし、あまり遠くに行かないこと」

「はい!」

 シャウラは元気良く返事をし、エルザの手を引いて走り出した。

「あの、クロノ様、その、手を」

「あ、ごめん」

 クロノが手を放すと、シオンは夕陽を見つめた。

「……私はダメですね。クロノ様が心配していた通りになってしまいました」

「気持ちに区切りは付けられたみたいだよ」

 シオンが期待していたような結末は得られなかったが、開拓村が自分の故郷に成り得ないと分かったのだ。それだけでも収穫ではないだろうか。

「……クロノ様のお陰です」

 シオンは胸の前で手を組んだ。

「私はクロノ様に助けられてばかりです」

「ばかりってことはないと思うよ」

 救貧院の運営や農業の指導で助けられている。どちらかが一方的に利益を得るような関係は長続きしない。

「いつも助けてくれて、そんな関係ではいけないと思っているんですけど……」

 シオンはモジモジしている。

「……いつの頃からか、クロノ様のことばかり考えるようになって」

「……」

 これは告白か、とクロノは表情筋に力を込めた。こんな状況で相好を崩したら色々と台無しだ。

「あ、でも、助けてくれるからだけではなくて、その……」

 シオンは恥ずかしそうに俯き、ローブを握り締めた。

 沈黙が舞い降りる。

 聞こえるのは潮騒とカモメの鳴き声だけだ。

 どれくらい黙っていたのか。

 シオンはクロノの方を向き、意を決したように口を開いた。

「しゅきでふ! 愛してましゅ! 私をクロノしゃまのおんにゃにしてくだしゃい!」

 クロノはかみかみの告白に思わず噴きだした。



 その夜――クロノはシオンと愛し合った。調子に乗って高圧的な態度を取ったり、責めてしまったりしたのだが、彼女は驚くほど従順だった。

 変ではないですか、おかしくないですか、としきりに聞いてくるのが印象的だった。

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