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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第7部:クロの戦記

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第4話『花と刺繍』リュカ編 修正版



 リュカは針と糸を使い、布の上に花を生み出す。

 モチーフに選んだ花はベテル山脈の何処にでも咲いているありふれたものだ。

 その植物は沢山の小さな花を咲かせる。

 その花弁が雪のように小さいので、雪草と呼ばれている。

 ベテル山脈に住む者にとって馴染み深い植物だが、リュカはあまり好きではない。

 それなのにどうして刺繍のモチーフにしているかと言えば沢山の色糸を使うと嫌な顔をされるからだ。

 フー族にとって刺繍は特別な意味を持つ。

 それは母から娘に受け継がれる一族の歴史そのものであり、子どもが健やかに成長して欲しい、想い人が無事に帰ってきて欲しいという祈りでもある。

 いや、祈りだったと言うべきか。

 現在のリュカにとって刺繍は逃避の手段であり、反抗の手段だった。


「……ふぅ」


 小さく溜息を吐き、天井を見上げた。

 そこにあるのは木枠と山羊の毛皮で作られた天井ではない。

 まあ、当たり前のことである。

 ここはベテル山脈にある自分の家ではなく、船の中なのだから。

 護衛を務める青年の言葉を借りれば船室となるが、檻と呼んだ方が『らしい』のではないかと思う。


「……畜生」


 天井を睨み、唇を噛み締める。

 檻から逃げ出そうにも力がない。

 たとえ首尾良く逃げ出せたとしても生きていく力がない。

 そんな小賢しい計算が先に立ってしまう。

 本当に嫌なら命を懸けて抗うべきなのに自分は顔を知らない男の妾になることを受け入れてしまった。

 石女うまずめは女ではないという侮蔑的な言葉を投げかけられたにもかかわらず。


「……畜生」


 リュカが再び呟いたその時、扉を叩く音が響いた。

 舌打ちをしつつ扉を開けると、そこには赤毛の青年が立っていた。

 ムー族出身の青年だ。

 名前は覚えていない。


「何の用?」

「船がシルバニアに着いたので、呼びに来ました。下船の準備をお願いします」

「ああ、ちょっと待って」


 リュカは扉を閉め、裁縫道具をポーチに収めた。

 一応、鏡を見ておく。

 鏡には不機嫌そうな表情の女が映っている。


「準備ができたわ」

「随分、早いですね」

「着の身着のままで追い出されたんだから早くて当たり前でしょ!」

「も、申し訳ありません」


 リュカが声を荒らげると、青年は慌てふためいた様子で頭を下げた。


「謝らなくて良いから、とっとと船を下りましょ」

「では、こちらに」


 青年は隣室の前に移動すると扉を叩いた。


「返事がないわよ?」

「カリス様は船酔いが酷いようでしたから」


 ふ~ん、とリュカは相槌を打った。

 船酔いという言葉は初めて聞くが、馬車に酔うようなものだろう。

 どちらも分からない感覚だが、船酔いがずっと続いているのだとしたら心身共に疲弊しているはずだ。

 青年が再び扉を叩くと、


「もう少しだけ待って下さい」


 か細い声が返ってきた。

 どんな女だったかしら? と記憶を漁ったが、どうしても顔を思い出せない。

 まあ、港で顔を合わせたきりなので、仕方がないと言えば仕方がない。

 青年が再び扉を叩くと、扉が開いた。

 開けたのはフードを目深に被った女だ。

 一瞬だけ目が合う。

 一目で彼女が憔悴しきっていると分かった。

 フードから覗く髪は絡み合い、目元はクマで彩られている。

 今にも吐きそうな最悪の顔をしている。


「お待たせしました。何の用でしょうか?」

「船がシルバニアに到着したので、呼びに来ました」


 青年が言うと、女……カリスは腰紐に手を伸ばした。

 そこには小さな革袋が吊されている。

 リュカが裁縫道具しか持ち出せなかったように彼女も革袋しか持ち出せなかったようだ。


「どうぞ、こちらに」


 青年が歩き出すと、彼女は黙って付いてきた。

 ただし、その足取りは歩いていることが不思議なほど危うい。

 階段を登り、甲板に出る。

 すると、風が吹き寄せてきた。

 磯の臭いを孕んだ風だ。

 その腐敗臭じみた臭いに顔を顰める。


「……っ!」


 カリスは船の手摺りに駆け寄ると身を乗り出した。

 名状しがたい声が響き、ビシャビシャという音が聞こえた。

 どうやら、嘔吐しているようだ。

 青年が駆け寄る気配はない。

 仕方がなく、カリスに歩み寄る。

 彼女はしばらく鳩尾の辺りを押さえて嘔吐えずいていたが、それが終わると力尽きたようにその場に座り込んだ。

 リュカはハンカチを差し出し、自分の迂闊さを呪った。

 差し出したハンカチには思い入れがあったからだ。

 しかし、一度差し出したものを引っ込めるのは気分的に嫌だ。

 仕方がないわよね、とハンカチを手放す決意を固める。

 こちらが覚悟を決めてハンカチを差し出しているのにカリスは力なく座り込んだままだ。


「……早く取りなさいよ」


 イラッとして声を掛けると、カリスはこちらを見上げた。

 怯えにも似た光を瞳に宿している。

 失礼な女だと思うが、その一方で仕方がないと思う自分もいる。

 何しろ、二十七年も自分と付き合っているのだ。

 愛想に欠けていることにも気付いているし、他人からキツい性格だと思われる容貌をしていることにも気付いている。

 カリスは小動物を連想させるオドオドした仕草でハンカチに手を伸ばし、触れるか触れないかの所で動きを止めた。


「……あ、あの、あまりに見事な刺繍なので」

「大したもんじゃないわ。使わないなら海に捨てるけど?」


 刺繍を誉められたのは久しぶりだ。

 小躍りしたくなるほど嬉しいが、口から出てきたのは憎まれ口だ。


「ありがとうございます」


 カリスはハンカチを受け取り、そっと口元を拭った。


「洗って、お返しします」

「いらないわ。新しいのを縫うから」


 どうして、あたしは素直になれないんだろう? と後悔しながら顔を背ける。


「……大丈夫ですか?」


 青年がようやく声を掛けた。

 仮にも護衛なのだから……いや、女の傭兵を手配しなかったシフのミスだ。


「すみません」

「いえ……では、付いてきて下さい」


 カリスが申し訳なさそうに言うと、青年は背を向けて歩き出した。

 ギシギシと軋む板を渡って桟橋に移る。

 その拍子に桟橋が揺れた。

 どうやら、ここの桟橋は海に浮かんでいるようだ。

 見れば岸壁は丸太を隙間なく打ち込んで作られている。

 自由都市国家群の港は石や煉瓦で造られていたのだが、一口に港と言っても色々なタイプがあるらしい。

 好奇心を刺激されながら桟橋を渡ると、二人の男が立っていた。

 一人は頬に魔除けの刺青を彫った男……シフだ。

 傭兵ギルドの前身を作り、自分の部族ばかりか他の部族まで救った英雄の曾孫にして現ギルドマスター、諸部族連合の代表を務める傑物。

 今回、移住を成功させた手腕を考えれば血筋だけが取り柄の馬鹿ではないと分かる。

 まあ、リュカにとっては憎いあん畜生に他ならないが。

 もう一人は見知らぬ男だ。

 黒い服を着て、軽薄そうな笑みを浮かべている。

 こいつがあたし達を妾にしたいって言ったのかしら? と内心首を傾げる。

 青年はそそくさとシフに歩み寄ると口を開いた。


「シフ様、お二人をお連れしました」

「ご苦労だったな。長旅で疲れただろう。今日はゆっくりと休め」

「はい! ありがとうございます!」


 何が嬉しいのか、青年は興奮した面持ちで返事をし、勢いよく頭を下げた。

 シフは立ち去ろうとする青年の肩を軽く叩いた。

 青年は振り返り、嬉しそうに笑った。

 傭兵の流儀は今一つ分からないが、あれで誉めたことになっているのだろう。

 そう考えると、青年が嬉しそうにしている理由に説明がつく。

 まあ、説明がつかなくても部族を超えて慕われていると分かる。


「カリス殿、リュカ殿、こちらの都合で呼び立てて申し訳ない」


 シフが軽く頭を下げる。

 もう少し深く頭を下げても良いのではないかと思うが、ひとまず溜飲は下がった。

 さて、何を言ってやろう。


「いえ、こんな私が部族のために役立てるのならこれに勝る喜びはありません」

「……」


 カリスはリュカが文句を言うよりも早く口を開いた。

 彼女も自分と同じような扱いを受けているはずなのに、どうして文句を言わないのだろう。

 あまりのバツの悪さに顔を背けることしかできなかった。


「あの、そちらの方は?」


 カリスが尋ねると、シフは目配せをした。

 すると、男……ケインは気負った様子もなく歩み出た。


「俺はケイン、カド伯爵領の代官を務めてる。今日は……」


 男……ケインは上着に手を突っ込み、二枚の封筒を取り出した。


「俺が渡そう」

「ああ、頼む」


 シフは封筒を受け取り、こちらに差し出してきた。

 封筒には名前が書かれている。

 名前は把握していたが、顔は把握していなかったということか。

 封を開けると、中から紙が出てきた。

 何やら小難しい文章が並んでいるが、許可証の類のようだ。


「これは?」

「そいつは在留許可証だ」


 リュカは文章を読むのを止め、カリスを見つめた。

 こっちはとっくに封を開けているのに彼女は開けていない。


「開けても宜しいでしょうか?」

「ああ、構わねーよ」


 一言断っておくべきだったかしら? とリュカは今更のように後悔の念を抱く。


「小難しい文章が並んでいるが、要は領民に準じた扱いを約束するって書いてある。これを持ってりゃ他の領地でもそれなりの扱いを受けられるはずだ」

「……それなり、はず」


 カリスは心細そうに紙を見つめている。

 ただでさえ不安なのにそんな風に説明されて安心できる訳がない。


「ふざけないでよ」

「……リュカ殿」


 リュカがケインを睨み付けて言うと、シフは非難するような視線を向けてきた。

 全身がカッとなる。

 自分は間違えていないし、今後のためにも言うべきことは言わなければならない。

 唯々諾々と従う女だと、便利に扱われるのは真っ平御免だ。


「これは俺の言い方が悪かった」


 意外にもと言うべきか、ケインはあっさりと自分の非を認めた。

 悪いヤツではないのかも知れないと思い直す。


「クロノ様も、俺もアンタらが他の領地で不当な扱いを受けたら全力で守る」

「口では何とでも言えるわ」


 リュカは言質を引き出せたことに満足感を覚えたが、引き出せるものは引き出しておきたかった。


「署名欄を見てくれりゃ口だけじゃないって分かるさ」


 改めて許可証を見ると、確かに三人分の署名があった。


「三人の領主が身分を保障してるんだ。まともな領主なら三人の領主に喧嘩を売るような真似をしないさ。メサルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵には根回しをしている最中だが、次の許可証は六人の連名になる。安心したか?」

「だったら、初めからそう言えば良いじゃない」


 リュカは印象を下方修正する。

 まあ、自分に対する印象も悪くなっているはずだが、お陰で分かったこともある。

 それはケインの上役が五人の領主に諸部族連合……異民族の身分を認めさせるだけの力を持っているということだ。

 もっとも、そんなデキる男の妾になり、諸部族連合に利益誘導しなければならないと考えると暗澹たる気持ちになるが。


「大丈夫だって言い切れるもんじゃねーからな。ま、まじないよりは頼りになるぜ」


 嫌なヤツ、とリュカは顔を背けた。


「二人には傭兵ギルドで休んで貰い、明日の朝にクロノ様の下へ向かって貰う」


 思わずシフを見る。

 自分はともかく、カリスには休息が必要だ。

 指摘するべきか迷っていると、ケインが口を開いた。


「大丈夫か?」

「傭兵ギルドに不埒者はいない」


 シフの的外れな答えが面白かったのか、ケインは苦笑した。

 夜這いについて思い巡らすことができるのに、どうしてカリスの体調を慮れないのだろう。


「それに開拓村には女もいる」

「そっちじゃねーよ。二週間の船旅で疲れてるみたいだぜ?」

「……ふむ」


 ケインが指摘すると、シフはこちらに視線を向けてきた。

 カリスの体調不良に気付いたようだが、予定を変更……約束を破っても良いのか迷っているようだ。


「クロノ様は一日や二日到着が遅れたくらいで騒いだりしねーよ」

「頼めるか?」

「ああ、話すだけだから大した手間じゃない」


 ケインは二つ返事で請け負った。

 やっぱり、悪いヤツじゃないのかしら? とリュカは内心首を傾げた。


「すまんな」

「俺が怒られたくねーだけだ。それと、何のために呼ばれたか説明しておいてくれよ」

「説明は受けているはずだが?」


 ケインが指差して言うと、シフはとぼけるように言った。

 説明を受けているかと言われれば受けていない。


「俺の経験上、クロノ様の所にいる女は最初から勘違いしているか、途中で勘違いするかのどっちかだ。だから、どういう経緯でこんなことになったのか……裏の意味がないことまで説明するんだよ」

「分かった」


 シフは溜息交じりに言った。



 シフとケインに先導されて街……シルバニアを歩く。

 第一印象は雑然、そうでなければ混沌だろうか。

 港周辺は自身の財を誇示するかのような建物が多かった。

 ただし、統一感を欠いているので、洗練された街並みとは言い難い。

 そこを少し離れると、空気がガラリと変わる。

 通りに面した店の前では店主らしき人物が声を張り上げ、客も負けじと声を張り上げる。

 店先に並んでいる品物の豊かさは故郷と比べものにならない。

 野菜、魚、肉、服、装飾品と物珍しさからキョロキョロしてしまう。

 もっとも、隣にいるカリスは歩くだけで精一杯という有様だが。

 だからなのか、二足歩行の牛や蜥蜴、耳の先端が尖った人間の存在に気付いていないようだ。

 リュカは初めて見るが、牛はミノタウルス、トカゲはリザードマン、耳の尖った人間はエルフという種族で、総称して亜人と呼ばれる。

 しばらく歩くと、人気がなくなる。

 アルコールの臭いが鼻腔を刺激する。

 どうやら、ここには酒を提供する店が集まっているようだ。

 さらに進むと、人気が完全になくなり、巨大な建物が姿を現した。

 庭園が練兵場になっているので、ここが傭兵ギルドのようだ。

 なるほど、とリュカはシフと建物を見比べて頷いた。

 服にせよ、建物にせよ、物には所有者の性格が表れる。

 その点、傭兵ギルドは分かり易い。

 一言で言えば愛想がない。

 周囲との調和など関係ないと言わんばかりの外観だ。


「……ここが傭兵ギルドの拠点だ」

「随分、静かですね」


 カリスがそんなことを口にする。

 確かにこれだけ大きな建物なのに人の気配が感じられない。


「村で生活する者が多くてな。今ここに住んでいるのは独り者だけだ」


 シフは苦笑いを浮かべた。

 もっと杓子定規な対応をすると思っていたのだが、部下には随分と優しい。

 突然、扉が開き、恰幅の良い中年女が出てきた。


「彼女はサーラ。普段はギルドで雑用をこなしているんだが……」

「まあまあまあ、遠路はるばるようこそお出で下さいました。お二方の世話係を務めさせて頂くサーラにございます」


 女……サーラはシフが説明を終えるより早く距離を詰め、捲し立てるように言った。

 自分のテンポで生きているおばちゃんには傭兵ギルドのギルドマスターも形無しのようだ。


「……頼めるか?」

「ええ、もちろんですよ。どうぞ、こちらに」


 サーラに先導されて建物に入ると、そこには横長のソファーが幾つも並んでいた。

 ホールというヤツだろうか。

 ホールの先は長い廊下になっていて、その両サイドには扉が等間隔に並んでいる。


「ギルドに用のある方はこちらのソファーでお待ちになり、奥の部屋に移動されます」

「ああ、それで」


 何に納得したのか分からないが、カリスがサーラの言葉に頷く。


「お二人の部屋は二階になります」

「……体を洗いたいんだけど」

「ええ、湯浴みと着替えの準備は済んでますよ」


 リュカがポツリと呟くと、サーラは笑みを浮かべて言った。

 カリスの体調を考えれば部屋に直行すべきなのだろうが、旅の垢を落としておきたい。


「湯浴みができるんですか?」

「……ええ」


 カリスが尋ねると、サーラは何処か誇らしげに答えた。

 アンタは部屋で寝てなさいよ、と言いたかったが、湯浴みの魅力は体調不良に勝るらしい。

 まあ、気持ちは分かる。

 ベテル山脈は耕作に適した土地が少ない。

 これは植物が育ちにくいということだ。

 木を燃料にしたらあっと言う間にハゲ山になってしまう。

 呪具を使う手もあるが、いかんせんあれは耐久性が低い。

 そんな訳で湯浴みはめでたい日にしかできない贅沢だったのだ。


「では、浴室に案内いたします」


 サーラに先導されて浴室に向かう。

 浴室は廊下の突き当たりにある階段を登ったすぐ目の前にあった。

 扉を開けると、そこは脱衣所になっていた。

 大きな棚が壁に据え付けられ、籠が二つずつ納められている。

 その中に着替えの納められた籠が二つあった。


「大丈夫なの?」

「何がでしょう?」


 リュカが尋ねると、サーラは問い返してきた。


「……覗きとか」


 傭兵ギルドに不埒物はいないと言っていたが、警戒するに越したことはない。

 危機管理はとても大事だ。


「お二人が湯浴みを終えるまで見張っておりますので、ご安心下さい」

「だったら、良いんだけど」

「では、ごゆっくり」


 サーラは一礼して脱衣所の扉を閉めた。



 リュカ達は風呂から上がり、用意されていた服に着替えた。

 本音を言えばもう少し風呂に入っていたかったのだが、カリスが限界に達してしまった。

 元々、カリスは二週間の船旅で疲労の極みにあった。

 そんな彼女を支えていたのは精神力に他ならない。

 それが風呂に入ったことで途切れた。

 風呂に入りながら眠りそうになるくらいだから相当なものである。


「上がったわよ!」

「では、お部屋に案内します」


 更衣室で声を張り上げると、サーラは扉を開けて歩き出した。

 カリスは幽鬼のような足取りで後を追う。


「大丈夫?」

「……頑張れ、頑張れ」


 堪らず声を掛けると、頓珍漢な答えが返ってきた。

 まるで酔っ払いだ。

 それなのに妙に艶っぽい。

 ぶっ倒れるのではないかと気が気でなかったが、カリスは何とか長い廊下を端まで歩ききった。


「こちらがお二人のお部屋になります」


 そう言って、サーラは扉を開けた。

 世話役ならもう少しカリスのことを気に掛けてやって欲しいと思うが、高望みが過ぎるだろうか。


「随分、広い部屋ね」


 リュカは正直な感想を口にした。

 大部屋として使っていたのか、二人分の家具しかないからか、かなり広く見える。

 壁際にはベッドと化粧台が置かれ、中央にはイスとテーブルが置かれている。

 まるで鏡に映したように対称的な家具の配置だ。


「夕食の時間になったら参りますので、それまでおくつろぎ下さい。食事について希望があったら仰って下さい」

「特に希望は……」

「久しぶりに肉が食べたいわ」


 リュカはカリスの言葉を遮って自分の希望を口にした。


「承りました」

「お願いね」


 サーラは気分を害した様子もなく扉を閉めると部屋を出て行った。


「……あの」

「アンタだって肉が食べたいでしょ?」


 再びカリスの言葉を遮る。

 すると、彼女は黙り込んでしまった。

 やはり、かなり押しの弱い性格らしい。

 それに気付きながら言葉を遮る自分に嫌悪感を覚えるが、彼女に付き合っていたら食べたい物が食べられない。

 これで最後かも知れないのだ。

 それなら好物をお腹一杯食べておきたい。

 中央にあるテーブルに着き、ポーチから裁縫道具を取り出した。

 カリスは何か言いたそうにこちらを見ている。

 彼女の態度や故郷のことを考えるとイラッとする。


「……ムカつくのよね」

「すみません」


 リュカが呟くと、カリスは謝罪した。

 それが彼女の処世術だと薄々気付いていたが、加速度的に苛立ちが募る。


「アンタじゃないわ。あたしがムカついているのは自分の部族と諸部族連合よ。勝手に結婚を決められて、勝手に離縁されて、好き勝手に陰口を叩いて、挙げ句の果てに何処の馬の骨とも分からないヤツの妾になれなんてふざけてるわ」


 刺繍を中断し、不平不満を捲し立てる。


「……石女は女じゃないって言ったくせに」


 リュカは唇を噛み締めた。

 ああ、それだ。

 女ではないと言ったくせに自分を妾として差し出したことにムカついているのだ。


「アンタはムカつかないの?」

「……分かりません」

「へぇ、良い子ちゃんね。部族のためなら妾にでもなるっての?」


 リュカはすぐに後悔した。

 他人の言葉に従うことが彼女の処世術だとしても怒っていない訳がない、苦しんでいない訳がない、悔しくない訳がない。

 しかし、そんな想像は他ならぬカリスの言葉によって否定された。


「そういうことではなくて……多分、そんな気力が残っていないんだと思います」


 ああ、とカリスは小さく喘ぎ、めまぐるしく表情を変えた。

 最初は意外そうな、次に納得したような、最後に疲れ果てているかのような表情を浮かべた。


「ごめん。あたしが悪かったわ」

「いえ、良いんです」

「酷い顔よ」


 リュカが指摘すると、カリスは自分の顔に触れた。

 船に乗っていた時は今にも吐きそうな最悪の表情、今は力尽きて死んでしまいそうな表情をしている。

 まあ、そんな表情をさせたのは自分なのだが。


「少し休んだ方が良いわ」

「そうします」


 カリスはベッドに潜り込んだ。

 しばらくして啜り泣きが聞こえてきた。

 リュカは罪悪感を覚えながら刺繍を再開した。



 カリスが目を覚ましたのは夜の帳が降りた頃だった。

 彼女が眠っている間、リュカは一人で刺繍をしていた。


「もう少し寝てても良いわよ」

「いえ、大丈夫です」


 カリスは目元を拭い、ベッドから下りた。


「寝言を言ってましたか?」

「静かなもんだったわよ」


 リュカは嘘を吐いた。

 疲れていたのだろう。

 カリスはベッドに潜り込むと気を失うように寝入った。

 しかし、しばらくするとうなされ始めた。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と謝罪の言葉を口にした。

 聞いているだけで苦しくなるような寝言だった。

 気を遣ってやらなきゃダメね、とそんなことを考えていると、扉を叩く音が響いた。

 カリスがしっかりとした足取りで扉に歩み寄って扉を開ける。

 すると、そこにはシフとサーラの姿があった。


「随分、顔色が良くなったな」

「ありがとうございます」


 カリスが頭を下げると、シフは微苦笑を浮かべた。


「食事の前に事情を説明しておきたい。席に着いてくれるか?」

「……はい」


 カリスがリュカの対面の席に着き、シフがテーブルに歩み寄る。

 そして、深々と頭を垂れた。


「まず、こちらの都合で呼び立てたこと、次に心ない言葉を浴びせかけてしまったことを族長に代わって謝罪したい。本当にすまなかった」

「……いえ」


 動揺しているのか、カリスの声は震えていた。

 まあ、いきなり諸部族連合の代表に頭を下げられれば動揺もするだろう。

 しかし、動揺してばかりはいられない。

 あの男……ケインは港で何のために呼ばれたか説明しておけと言っていた。

 つまり、それは自分達に伝えられていない事実があるということではないか。

 動揺して肝心な所を聞き忘れる訳にはいかない。

 何しろ、自分達が妾になるのは見ず知らずの男だ。

 話を聞き忘れて不興を買うことは避けたい。


「代官が説明しておけって言ってたけど?」

「ああ、今から説明する」


 リュカが指摘すると、シフは顔を上げ、思案するように口元を覆った。

 こちらを動揺させて誤魔化すつもりだったのではないかと勘繰りたくなる。


「……我々がいるカド伯爵領とその東にあるエラキス侯爵領を治めているのはクロノという男だ」


 クロノ、と口の中で名前を転がす。


「その男が妾を寄越せって言ったのね?」

「クロノ様は何も言っていない」


 一瞬、意味が分からなかった。


「彼の妻が屋敷で働くメイド……要するに使用人に欠員があるから推薦するようにと言ったんだ」

「……使用人として働かせるなら誰でも良いじゃない」


 呆然としながら何とか言葉を紡ぐ。


「彼の妻は前皇帝の娘だ。現在は何の権限も持ち合わせていないが、我々の誠意を示す必要があった」


 怒りがフツフツと込み上げてくる。

 自分達は妾、いや、女としてではなく、労働力として求められたのだ。


「アンタの娘……クアントだっけ? そいつを送り込めば良いじゃない」

「あれは勘当した」

「は?」

「あれは勘当した。今は代官所で世話になっている」


 意味を理解できずに問い返すと、シフは淡々と言った。


「私達は、その、メイドとして働けば良いのですか?」

「いや、妾になる努力をしてくれ」


 カリスが怖ず怖ずと尋ねる。

 すると、シフは前言を覆すような発言をした。

 正直、理解できない。


「クロノ様は女好きだ。恐らく、アプローチをすればかなりの高確率で手を出してくるだろう」

「そうならないように説明しろって言ってたんじゃないの?」

「勘違いしないように説明しろと言われただけだ」


 どうやら、シフはケインの言葉を素直に聞き入れるつもりがないようだ。

 それにしても内輪の席とは言え、領主に対して酷いことを言う。


「あの、妾になったら何を要求すれば良いのでしょうか?」

「特に要求することはない」

「どういうことよ?」

「そのままの意味だ」


 やはり、訳が分からない。

 要求することがないのならば妾になれるようにアプローチしろと命令しなくても良いのではないだろうか。


「クロノ様は公私混同を嫌う。愛人になることができても権力を振るったり、金銭を得ることはないだろう」

「じゃあ、意味なんてないじゃない」


 仮に妾……まあ、愛人でも良いが……になれたとしても相手が公私混同を嫌っているのでは何もできない。


「部族の者が身内になればあの男は容易に我々を切れなくなる。それだけで十分だ」


 シフは静かに言った。


「……現在、我々は領民と同等の権利を保障され、切り拓いた土地を自分の物にすることができる。この待遇を失う訳にはいかん」


 ふと小さい頃に聞いた寓話を思い出した。

 精霊から恩寵を受けた男がより多くを欲して何もかも失ってしまう話だ。


「いつ、私達は、その、クロノ様の下に?」

「明後日だ」


 妥当な判断ね、とリュカはカリスの顔を盗み見る。

 明日は流石に厳しいが、明後日ならば大丈夫だろう。


「一度、村を見に行きたいのですが?」

「明日、案内させよう」

「ありがとうございます」


 シフが許可すると、カリスは軽く頭を下げた。


「他に質問や要望はないか?」

「……」

「……」


 アプローチの仕方を教えて欲しかったが、聞いても無駄だろう。


「では、食事を楽しんでくれ」

「はいはい、お待たせしました」


 シフが出て行くと、サーラが木製のワゴンを押して部屋に入ってきた。

 そして、手際よく料理……大きなパン、クリームシチュー、肉の香草焼き、サラダをテーブルの上に並べていく。

 カリスは驚いたように目を見開いていたが、リュカはシルバニアの店が沢山の食材を取り扱っていることを知っていたので、驚きは少ない。


「冷めない内に召し上がれ」


 リュカとカリスは手を組み、精霊に感謝の祈りを捧げた。

 最初にスプーンでクリームシチューを掬う。

 大きな肉の塊が出てきたので、軽く目を見開く。

 口に入れると、それほど力を入れていないのに崩れる。

 スプーンをフォークに持ち替え、今度はサラダを食べる。

 耕作地に適した土地のないベテル山脈では野菜は非常に高価だ。

 サラダを食べ、今度こそ大きく目を見開く。


「……凄いシャキシャキしてる」


 リュカが呟くと、カリスがこちらを見た。

 クリームシチューに未練たっぷりな様子でサラダを口にし、驚いたように目を見開いた。

 次にパンに手を伸ばし、二つに割る。

 やや硬めの皮の下から現れたのは雪のように白い中身だ。

 これほど白いパンは祝い事の席でもなければお目にかかれない。

 ああ、あたしって安い女だわ、と自分を卑下しながらパンを頬張る。

 パンを半分ほど食べ、再びクリームシチューに手を伸ばす。

 煮込む時間が足りなかったのか、野菜は少しだけ固い。

 しかし、その点を差し引いてもクリームシチュー、いや、料理は絶品だった。


「傭兵ってのは贅沢ね」


 リュカはスプーンを置いて呟く。

 命の危険があるのにもかかわらず、傭兵を志す者が絶えないはずである。


「これくらい贅沢の内に入りませんよ」

「は?」

「ここではちょっとお金を出せばこれくらい食べられるんですよ」


 思わず聞き返すと、サーラは当然のように言い放った。

 まあ、よくよく考えてみればベテル山脈とシルバニアでは地理的条件が違うのだから、食材の価格が同じはずがない。


「今年はお金を出さずに済むかも知れませんねぇ」

「開拓は順調なのですか?」

「ええ、そりゃあ、もう! 頑張れば頑張るだけ楽になるってんで、うちの旦那も非番の日に森を切り拓いてますよ!」


 サーラは豪快に笑った。

 どうやら、旦那さんは尻に敷かれているようだ。


「クロノ様はどんな方なのですか?」

「直接会ったことはありませんが、女好きって話はよく聞きますねぇ」


 カリスが尋ねると、サーラは眉根を寄せながら答えた。

 異民族に領民と同等の権利を保障してくれる相手にこの言いようである。

 とは言え、興味があるので、突っ込まずに耳をそばだてる。


「何でも嫁さんが三人いて、愛人も両手の指じゃ数え切れないくらいいるんだとか」

「最低じゃない」


 思わず吐き捨てる。


「街の連中は『英雄色を好む』って笑ってますよ。あたしらだって、気にしちゃいませんからね」

「それはどうなの?」

「街の連中も、あたしらも現実主義なんですよ。ま、あたしは旦那が愛人をこさえたらぶん殴ってやりますけどね。領主様は誰に迷惑を掛けている訳でもなし、善政を敷いてくれてるんだから文句なんざ言いませんよ」

「そりゃ、そうなんだろうけど」


 理解できない感覚である。

 上に立つ者は下々の規範になるべきではないかと思うが、族長や長老会、シフのことを考えると言葉が出てこない。

 族長と長老会は言うに及ばず、シフも清廉潔白な人物とは言い難い。

 そういう意味では善政を敷いているのだから人格まで期待をしてはいけないような気もする。

 あたしの感覚がおかしいのかしら? とリュカは首を傾げた。



 リュカは食事を終えるとイスの背もたれに寄り掛かった。

 あまりに美味しかったので、ついつい食べ過ぎてしまった。

 ポーチから裁縫道具を取り出し、刺繍を始める。

 サーラは空になった皿を重ねてワゴンに載せていく。


「お粗末様でした」

「いえ、美味しかったです」

「うちの旦那もそれくらい言ってくれりゃ良いんですけどねぇ」


 サーラは腰に手を当て、小さく溜息を吐いた。

 こちらをチラチラと見ている。


「……美味しかったわ」

「はは、催促したみたいで悪いですね」


 リュカが刺繍をする手を休めて言うと、サーラは笑いながら答えた。

 催促したみたいではなく、催促していたのだが、それを言っても仕方がない。


「それじゃ、ゆっくり休んで下さい」


 そう言って、サーラはワゴンを押して部屋から出て行った。


「美味しかったですね」

「そうね」


 刺繍を再開すると、カリスが声を掛けてきた。


「刺繍が好きなんですか?」

「ええ、好きよ。刺繍をしていれば余計なことに関わらなくて済むもの」


 カリスは傷付いたような表情を浮かべた。

 その表情を見て、もう少し言葉を選ぶべきだったと後悔する。


「で、でも、良かったですね。良い人そうで」

「何処がよ」


 思わず突っ込みを入れる。

 領民からすれば良い領主だし、目的を考えれば都合の良い相手である。

 しかし、大勢の女を囲っている人間が良い人とは思えない。

 シフもシフだ。

 妾になれるようにアプローチしろと言いながら何の策もないときている。

 と言うか、男を籠絡できるような手管があれば行き遅れていない。

 そんな自分に何を期待しているのか小一時間ほど問い詰めてやりたい。

 それに族長も族長だ。

 相手がメイド……労働力を求めていると分かっているのなら長老会にきちんと説明すれば良かったのだ。

 心の中で不平不満を並べ立てていると、屈辱と怒りが鮮やかに甦った。

 連中はあれだけのことをしておきながら部族の役に立つことを強いる。

 全てが腹立たしくて仕方がない。

 当然、その中には自分が屈辱を味わう原因を作った男……クロノも含まれる。


「女として求められていると思ったら家畜扱いじゃない。ベテル山脈から来させたくせに使用人って何よ、使用人って……痛っ!」


 人差し指に痛みが走る。

 針で指を刺してしまったのだ。

 視線を落とすと、血が珠のように滲み出る。

 人差し指を口に含むと、血の味が口に広がった。

 本当に、何もかも嫌になって裁縫道具を放り出す。

 リュカはベッドに潜り込み、カリスに背を向けた。

 惨めさが怒りを押し退け、襲い掛かってきた。


「……皆、嫌いよ。どうして、子どもが産めなかったくらいでこんな目に遭わなきゃならないのよ」


 求められる役割をこなせなかった。

 もちろん、部族の一員である以上、期待される役目を果たすべきだと思う。

 しかし、それができない者はどうすれば良いのか。



 翌朝、リュカは白々と夜が明けてきた頃に目を覚ました。

 異郷に来たからと言って、故郷にいた頃の習慣は抜けないようだ。

 ベッドから抜け出し、化粧台を覗き込む。

 大きな鏡には赤く腫れた目蓋の自分が映っている。


「……酷い顔」


 ポツリと呟き、髪を掻き上げる。

 髪が指に絡み付く。

 イラッとして力任せに引っ張ると髪がプツプツと抜けた。


「……顔を洗わなきゃ」

「おや、おはようございます」


 廊下に出るとサーラと出くわした。

 顔を洗うための水を持ってきてくれたらしくワゴンには陶製の水差しと木製のタライが載せられていた。


「随分、早いのね」

「そりゃ、世話係ですからねぇ」


 リュカが眠っていたらどうするつもりだったのだろう。

 そんな疑問が脳裏を過ぎるが、深く考えても無駄だ。


「水差しとタライを運ぶんで失礼しますよ」


 サーラは化粧台の上に水差しとタライと置くとすぐに戻ってきた。

 カリスは人が隣にいるのに目を覚ます気配さえない。


「意外に図太いわね」

「それだけ疲れてるんですよ」


 サーラは苦笑いを浮かべて言った。


「朝食は何が食べたいですか?」

「卵が食べたいわ」


 ベテル山脈では養鶏を営んでいる者が少ないので、鶏卵は貴重品だが、ここではそれほど高価ではないはずだ。


「ベーコンエッグで良いですかね?」

「ええ、任せるわ」


 予想通りと言うべきか、鶏卵はサーラの裁量で購入できる程度の金額らしい。


「でも、こんな時間に店は開いてるの?」

「シルバニアの商人は商魂逞しいですからね」


 逞しすぎでしょ、とリュカは心の中で突っ込んだ。

 もしかしたら、独自の入手ルートがあるのかも知れない。


「じゃ、失礼しますよ」


 サーラはワゴンを押してその場を立ち去った。

 リュカは欠伸を噛み殺しながら化粧台の前に座る。

 ご丁寧にタライの横にはタオルが置いてあった。

 タライに水を注いで顔を洗い、タオルで水を拭う。


「髪の毛がボサボサだわ」


 これだけ家具を揃えているのなら、と引き出しを開ける。

 すると、精緻な細工の施された櫛があった。


「一応、気を遣ってくれてるのかしら?」


 着ている服と下着、家具、食器、水差し……傭兵ギルドにある物をベテル山脈で揃えようとしたら確実に破産する。

 リュカは溜息を吐き、櫛を手に取った。



 リュカが席に着いて刺繍をしていると、カリスが小さく呻いた。

 夜はすでに明け、陽光がカーテンの隙間から差し込んでいる。

 しばらくすると、カリスはゆっくりと体を起こした。

 シルバニアにいることを忘れているのか、ボーッとしている。

 さらに時間が経ち、カリスはこちらに視線を向けてきた。


「よく眠ってたわね」

「すみません」


 カリスは謝るとベッドから下りて化粧台に向かった。

 イスに座り、タライに水を注いで顔を洗う。

 髪に触れたまま動きを止める。

 多分、櫛が欲しいと考えているのだろう。


「櫛なら引き出しに入ってるわよ」

「ありがとうございます」


 カリスは引き出しから櫛を取り出すと嬉しそうに梳き始めた。

 やはり、自分達は女なのだと思う。

 カリスが櫛を引き出しにしまうと同時に扉を叩く音が響いた。


「……どうぞ」

「おはようございます。今日も良い天気ですよ」


 リュカが刺繍を中断して扉を開けると、サーラがワゴンを押して部屋に入ってきた。


「シチューは昨日の残りですけどね。味がしっかりと染みて美味しいですよ」


 サーラはそんなことを言いながら料理を並べていく。

 バターたっぷりのトーストとクリームシチュー、サラダ、ベーコンエッグだ。

 リュカは精霊に祈りを捧げ、ベーコンエッグに手を伸ばした。

 フォークを黄身に刺すと、トロトロの中身が溢れ出す。

 それは半熟でも食べられるほど新鮮ということだ。

 ベテル山脈ではこうはいかない。

 切り分けて頬張ると、濃厚な味が広がる。

 次はバターたっぷりのトーストだ。

 手で二つに裂き、片方を口に運ぶ。

 口に入れると程良い塩気と甘味が広がる。

 リュカが舌鼓を打っていると、サーラが口を開いた。


「野菜は朝一で買いに行ったんですよ」

「……凄いですね。帝国は何処でも同じなんでしょうか?」

「あたしは開拓村とシルバニアを往復するくらいなんで、他所のことは分かりませんよ」


 サーラは少しだけ申し訳なさそうに言った。

 在留許可証があっても移動できる距離は限られているようだ。

 行商人や傭兵でもなければ村を離れる機会などそうそうないので、当然だ。


「行商人はクロノ様の屋敷がある街は毎日がお祭り騒ぎって行ってましたけどね」

「……毎日がお祭り騒ぎ」


 カリスは不安そうに呟いた。

 シルバニアだってリュカの常識に照らし合わせれば十分お祭り騒ぎだ。

 彼女も見ているはずなのだが、どうも記憶から抜け落ちているらしい。


「話半分に聞いておいた方が良いですよ」

「そうですね」


 やはり、カリスは不安そうに言った。


「そう言えばシフ様は?」

「あたしが開拓村を案内するので、安心して下さい」


 香茶が欲しいんだけど、割って入っちゃマズいかしら? とリュカは二人を見つめながら少しだけ迷う。


「……飲み物が欲しいんだけど?」

「はいはい、準備してありますよ」


 サーラは香茶をカップに注ぐと、何処か懐かしい匂いが漂う。


「何処かで嗅いだような匂いね?」

「生姜でしょうか?」


 ああ、とリュカは頷いた。


「ええ、開拓や農作業の指導をしてくれる神官様に作り方を教わったんですよ。最初の頃に比べりゃマシになっていると思います」

「信仰はどうしたのよ?」


 帝国では六柱の神々を信仰していると聞いたことがある。

 どのような信仰なのか分からないが、借りを作るのはマズいような気がする。


「精霊様を信仰してるんで安心して下さい」

「それではメリットがないのではないでしょうか?」


 サーラは胸を張って言ったが、これにはカリスも疑問を抱いたようだ。

 手を差し伸べるからには何らかの思惑があるはずだ。


「クロノ様が寄付してるお陰ですよ」

「……なるほど」


 カリスは頷いたが、リュカはそこまで簡単に信用できない。

 一線を引き、慎重に付き合うべきではないかと思う。


「さあ、冷める前にどうぞ」


 サーラはテーブルにカップを置いた。

 リュカはカリスが香茶を口に含むのを確認してカップを手に取る。

 香茶を飲むと、ピリッとした感覚が舌先を刺激した。


「……悪くないわね」


 熱が胃からジワジワと広がっていくような感覚だ。

 もしかしたら、体を温めるための飲み物なのかも知れない。


「神官様に言わせると、今年は寒いらしいですよ」


 やはり、それで作り方を教えてくれたようだ。

 もっとも、この程度の寒さで音を上げていたらベテル山脈で生きていけない。


「軟弱ねぇ」


 正直な感想を漏らしただけなのだが、サーラは苦笑いを浮かべた。



 リュカ達は食事を終えると荷車で開拓村に向かった。

 サーラは御者、リュカとカリスは積み荷である。

 シルバニアを離れてしばらくすると、カリスが口を開いた。


「良い天気ですね」

「……そうね」


 リュカは刺繍をしながら相槌を打った。

 刺繍をしていると余計なことに関わらなくて済むと言ったのに声を掛けてくるのだから意外に図太い性格かも知れない。

 突然、突き上げるような衝撃に襲われる。

 ふと顔を上げると、ミノタウルスがこちらに近づいていた。


「おや、ハッさん。街に用でもあるのかい?」

『買い物に行くように頼まれちまったんだよ』(ぶも~)


 サーラが馬車を止めて声を掛けると、隻眼のミノタウルス……ハッさんはボヤくように言った。

 人間の使う言葉と鳴き声が同時に聞こえたが、これは意思を通わせる呪具を使っているからだ。


『後ろの娘さんは新しい村人か?』(ぶも?)


 ハッさんが見下ろすと、カリスは小刻みに体を震わせた。

 言葉が通じるのだから怯える必要はないと思うのだが、恐怖を抑えきれないようだ。


「ああ、この二人はクロノ様にメイドとしてお仕えするんだよ」

『出稼ぎってヤツか?』(ぶも?)


 出稼ぎならまだマシよ、とリュカは心の中で吐き捨てた。


「あたしらは余所者だからね。気を遣って下さったのさ」

『俺達は仲間のつもりだぞ?』(ぶも?)


 ハッさんはブフーッと鼻から息を吐いた。

 どうやら、サーラを含めた開拓村の連中は亜人とそれなりの関係を築いているようだ。

 カリスはと言えば俯いてプルプルと震えている。

 この調子でメイドとして働けるのか心配と言えば心配である。


「はは、それはあたしらだってそうさ。きっと、クロノ様はあたしらが余所者じゃないって知らしめようとしているんだよ」

『……そう言うことか』(……ぶも)


 そういう狙いもあるわよね、とリュカはハッさんと同時に頷いた。

 当然、人質という側面もあるだろうが。


『もう少し話したい所だが……』(ぶも)

「話し合いはいつでもできるよ」


 サーラは荷馬車を動かし始めた。

 しばらくすると、カリスは顔を上げ、ハッさんの背中を見つめた。

 そして、彼の背中が見えなくなった所で盛大に溜息を吐いた。


「ビックリさせてしまいましたかね?」

「あの方は?」

「開拓村の住人ですよ。あたしらの前に来て、港を造ったそうですよ」


 なるほど、とリュカは刺繍をしながら頷いた。


「開拓村にはエルフもいますよ」

「……エルフ」


 カリスは神妙そうな面持ちで呟いた。


「大丈夫なんですか?」

「最初はビックリしましたけどね。付き合ってみれば気の良い連中ですよ」


 リュカが刺繍を再開してしばらくすると、サーラが口を開いた。


「ああ、村が見えて来ましたよ」

「あれが?」


 カリスの声が聞こえたが、リュカは黙々と刺繍を続ける。


「リュカさん、リュカさん!」


 カリスに腕をバシバシと叩かれ、現実に引き戻される。

 余計なことに関わらないようにしたいのだが、現実カリスはこちらの都合を考えてくれない。


「刺繍をしてるんだから叩かないでよ」

「そんなことよりも見て下さい!」


 リュカは裁縫道具をポーチにしまい、カリスが指差す方向を見つめた。


「……っ!」


 思わず息を呑む。

 呆気に取られたと言えば良いのだろうか。

 開拓村などと言っていたが、とんでもない。

 眼前に広がるのは街だ。

 木造の家屋が軒を連ねている。

 ミノタウルスやエルフもいるが、誰もそのことを気にしていないようだ。


「良い村でしょう?」

「……はい」


 カリスは頷いたが、リュカは何も言えなかった。

 子どもが駆け回り、女が井戸の周りで談笑する。

 それは自分には手に入れられなかった幸せだ。

 どうして、こんな連中のためにあたしが犠牲にならなきゃならないのよ、とリュカは唇を噛み締めた。



 リュカの怒りはサーラの料理を食べても、風呂に入っても治まらなかった。

 どうして、自分が犠牲にならなければならないのか。

 あの連中が、故郷の連中が自分のために何をしてくれたと言うのか。

 同情でも、憐れみでも良いから優しい言葉を掛けて欲しかった。

 優しい言葉を掛けてくれていたのなら妾になれという命令に従えたはずだ。

 それだけで良かったのに誰も優しい言葉を掛けてくれなかった。

 刺繍をすれば怒りを紛らわせると思ったが、無理だった。

 怒りは自分の内から生じているのだ。


「何かあったんですか?」

「……別に」


 刺繍をしながらカリスに答える。

 彼女は開拓村の畑を見てから少しだけ気力を取り戻したようだった。

 それが怒りを誘う。

 この女は自己陶酔しているのだ。

 自分が妾になれば開拓村が守られると思い込んでいる。

 どうして、そんな幸せな発想が出てくるのか。

 どうして、同じような境遇なのに自分は他人を恨むことしかできないのか。

 この女みたいに自己陶酔できれば、自分が犠牲になることを喜びと共に受け入れられればどれほど幸せだろう。


「良い村でしたね」

「……そうね」


 リュカの脳裏を過ぎるのは幸せそうな子どもや女……家族の姿だ。

 自分はこれから労働力として消費される。

 自分の人生を権力者の妾として過ごさなければならない。

 自分の利益は何一つない。

 部族に損害を与えないための道具だ。


「わ、私はもう寝ますから」


 カリスは逃げるようにベッドに潜り込んだ。


「……畜生。どうして、あんなヤツらのために」


 リュカは小さく呟き、唇を噛み締めた。



 翌日、リュカとカリスが朝食を終えて外に出ると、箱馬車が傭兵ギルドの前に留まっていた。

 ベテル山脈から港に向かう途中で箱馬車に乗る機会があったが、それよりも遥かに立派な代物だ。

 隣を見ると、カリスが阿呆のように口を開けていた。

 口を閉じるように言うべきか迷っていると、シフとケインが箱馬車の陰から姿を現した。


「よう、二人とも。体調は良いみたいだな」

「あの、この馬車は?」

「こいつはクロノ様が出してくれたもんだ。折角、ベテル山脈から来てくれたんだから礼儀を尽くしておきたいんだと」


 ケインは軽く肩を竦め、カリスの問い掛けに答えた。


「生活に必要なものを侯爵邸に送っておいた」

「ありがとうございます」


 餞別を贈るのは当然だと思うのだが、カリスは礼を言った。


「……それと、扉を開けようとしているのが御者のデュランだ」


 ケインが親指で指し示すと、箱馬車の扉を開けようとしていた男が動きを止めた。

 腰から提げた剣と立ち居振る舞いから察するに戦士のようだ。


「剣をぶら提げてるが、これは念のためだ。何せ、盗賊が最後に現れたのは三年前だからな」

「……はい」


 ケインは気楽な口調で言ったが、カリスは不安そうだ。


「……挨拶挨拶」

「あ、あ~、お、私が御者を務めるデュランです。普段は事務として侯爵邸で働いています。どうぞ、宜しく」


 デュランはケインに促され、こちらを向いて頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」

「……よろしく」


 カリスが頭を下げたので、リュカもそれに続く。


「じゃあ、出発しますが、忘れ物はないですか?」

「はい、ありません」

「ないわ」


 デュランが扉を開けると、箱馬車の内部が露わになる。

 向かい合うように据え付けられた革張りのイスを見て、その丁寧な仕事ぶりに内心舌を巻く。

 縫製を見ただけでイスを作った職人がどれだけ手間を掛けたのか伝わってくる。

 これがクロノの意向を受けて作られた物だとしたら大したものだ。


「……どうぞ」


 カリスが後の座席の窓際に座ったので、リュカは前の席の扉側に座った。


「閉めますよ」


 デュランは扉を閉めるとすぐに御者席に向かった。

 箱馬車は少しだけ間を置いて動き出した。

 荷馬車とは雲泥の差、心地良い乗り心地だ。

 これなら刺繍ができるわ、とリュカはポーチから裁縫道具を取り出した。

 ふと顔を上げると、カリスが子どものように無邪気な表情で外を見ていた。

 シルバニアに来た時は精根尽き果てていたので、珍しいのだろう。

 カリスはひとしきりはしゃぐと眠ってしまった。


「よく寝る子ね」


 リュカは刺繍をしながら呟いた。



 箱馬車での移動は順調そのものだった。

 他の馬車と擦れ違った時にはドキッとしたが、すぐに慣れた。

 すぐに慣れるほど馬車の往来があるということはこの辺り……クロノの領地は治安が良いのだろう。

 もう少しで完成だけど、とリュカは手を休めた。

 完成したらしばらく刺繍ができなくなる。

 いや、二度とできなくなる可能性もある。

 故郷から持ち出した糸は残り少ないし、新たに入手できるか分からない。

 お金を貰えるのか聞いておけば良かったわ。

 おねだりして買ってくれるような相手でもないだろうし、と舌打ちする。


「……それにしてもよく寝るわね」


 顔を上げると、カリスは窓に寄り掛かって眠っていた。

 不意に箱馬車のスピードが緩やかなものに変わる。

 徐々にスピードが落ちていく。

 窓から外を見ると、獣頭人身の異形……人狼と呼ばれる種族だ……がこちらを見つめていた。

 槍を手に持ち、鎧を着ている。

 一流の傭兵に匹敵する、あるいはそれ以上の装備だ。

 取り敢えず、手を振ってみると、人狼は手を振ってくれた。


「……悪いヤツじゃなさそうね」


 箱馬車が止まり、衝撃が伝わってくる。

 カリスはそれで目を覚ました。

 そして、人狼と目が合った瞬間、バッと窓から離れた。

 まあ、いきなり人狼の顔が目の前にあれば驚きもするだろう。


「怯えなくても大丈夫よ」

「え?」

「寝ぼけてるの?」

「あ、そうですね」


 さらに問い返すと、カリスは胸を撫で下ろした。

 窓の外で人狼が合図を送ると、箱馬車は再び動き出した。

 リュカは刺繍を再開したが、しばらくして顔を上げた。

 カーン、カーンという音が微かに聞こえたのだ。


「どうかしたんですか?」

「音が聞こえたのよ」

「音?」


 カリスは目を閉じた。


「……すぐそこみたいですね」


 すぐそこって言うか、もう見えてるけどね、とリュカは視線を傾けた。

 すると、城とそれを取り囲む四つの塔が見えた。

 箱馬車は門を通り、城の敷地に進入する。

 スピードが少しずつ落ちていき、城の前で完全に止まった。

 デュランが扉を開けると、カリスが体を竦ませる。

 そんなに怯えなくても良いじゃない、とリュカは裁縫道具をポーチにしまった。


「驚かせてしまいましたか?」

「い、いえ!」


 カリスは両手を左右に振りながら上擦った声で答えた。


「どうぞ、お降りになって下さい」

「……」

「は、はい」


 リュカは無言で、カリスは上擦った声で答えて箱馬車から降りた。


「クロノ、様は?」

「すぐに来ますよ」


 デュランが答えた直後、城の扉が開いた。

 出てきたのは女だ。

 黒いワンピースの上に純白のエプロンを身に着けている。

 女は扉を押さえ、恭しく頭を下げた。

 すると、隻眼の青年が悠然と姿を現した。

 恐らく、彼がクロノだろう。

 女好きという評価が間違いではないかと思うほど優しげな顔立ちだ。


「じゃあ、私はこれで」


 デュランは一礼すると用は済んだとばかりに箱馬車で何処かに行ってしまった。

 その間に青年はこちらに近づいてきている。

 女はと言えば扉を閉め、青年に付き従っている。


「初めまして、僕がエラキス侯爵領とカド伯爵領の領主……クロノです」


 クロノは足を止め、柔らかな声音で言った。

 碌でもないヤツだと思ったけど、とリュカはしげしげと彼を見つめた。

 まあ、仮にも領主なのだから外面を取り繕えても不思議ではない。


「失礼ですが、年齢は?」

「二十一歳です」


 ギョッとしてカリスを見る。

 あまりにぶしつけな質問ではないかと思ったのだが、クロノははにかむような笑みを浮かべて答えた。

 カリスは二十一歳と聞いて安堵したかのように小さく息を吐いた。


「ご両親は?」

「父は南辺境……アレオス山地と言って分かるかな? まあ、とにかく、その麓で領主をやっていて、母は病気で……」


 クロノが言葉を濁すと、カリスは憐れみにも似た表情を浮かべた。

 気持ちは分からないでもないが、彼が外面を取り繕っているのだとしたらまんまと騙されたことになる。

 どうするべきか悩んでいると、女がわざとらしく咳払いをした。


「……私はメイド長を務めるアリッサと申します。本日からしばらくの間、カリスさんとリュカさんを教育するように仰せつかっております」

「あ、私がカリスです」

「存じております」


 カリスが手を上げると、アリッサは柔らかな笑みを浮かべた。


「教育は明日からとなります」

「アリッサ、よろしくね」

「はい、旦那様」


 クロノが声を掛けると、アリッサは嬉しそうに口元を綻ばせた。

 その艶を帯びた表情は二人が単なる主従ではないことを窺わせる。


「お部屋に案内します。どうぞ、こちらへ」


 アリッサに先導されて城に入る。

 ホールの先にある階段を登り、長い廊下を歩いていると、カリスが口を開いた。


「凄いお城ですね」

「城ではなく、城館です」

「城館?」

「はい、居住性を優先しているので、城としての機能はありません。と言っても、これは受け売りなのですが」


 アリッサは穏やかな口調でカリスの質問に答えた。わざわざ受け売りと断っているのは謙遜だろう。

 お陰でこちらも無知を嗤われたと感じにくい。


「こちらがお二人の部屋になります」


 アリッサは廊下の中程で立ち止まり、扉を開けた。

 事前に示し合わせた訳ではないだろうが、家具の配置は傭兵ギルドのそれとそっくりだった。

 壁際にはベッドと化粧台、窓際にはタンス、中央にはテーブルとイスがあり、その上には二つの木箱が置いてあった。

 この木箱がシフからの贈り物のようだ。


「あの木箱は?」

「シフ様から送られてきたものです」

「何が入っているのでしょうか?」

「さあ、そこまでは」


 アリッサはカリスの質問に答えると微苦笑を浮かべた。


「教育は明日からとなります。食堂は……食事の際に案内するとして、取り急ぎ、トイレや体を清める場所を案内します」

「あ、あの!」


 カリスが踵を返そうとしたアリッサと呼び止める。


「どうかしましたか?」

「クロノ様はどのような方なのですか?」


 よほどマズい質問だったのか、アリッサの頬が一瞬だけ引き攣った。


「クロノ様は……時折、悪ふざけをされることもありますが、基本的には真面目で優しい方です」

「良かった」


 カリスは胸を撫で下ろしたが、リュカは安心できなかった。



 食堂は静寂に包まれていた。

 と言っても耳を澄ませば槌を打つ音、小鳥の囀り、掛け声らしきものが聞こえる。

 それらがリュカに干渉することはなく、リュカもそれらに干渉することはない。

 心地良い静寂に包まれながら刺繍を行う。

 メイドとして働き始めてから数日が過ぎた。

 小さな失敗はあったが、新人であることを考えれば及第点ではないかと思う。

 人間関係も概ね上手くいっている。

 兵隊上がりだからか、同僚はこちらの過去を詮索したり、余計な干渉をしたりしない。

 それはアリッサも同じで適度な距離を保ってくれる。

 今食堂を包んでいるのと同じ心地良い無関心さだった。

 ただ、気になっていることが二つある。

 一つはカリスだ。

 彼女がメイドとして不適格ということではない。

 その逆だ。

 どうも彼女はメイドとして馴染みすぎているように思う。

 シフの命令を忘れているのではないかと勘繰りたくなる。

 それに何か言いたそうな目でこちらを見ていることが多い。

 多分、もう少し同僚と打ち解ける努力をした方がとか考えているのだろう。

 余計なお世話である。

 心配しなくても同僚とは仲良く……クロノの情報を手に入れるためだが……している。

 もう一つはクロノのことだ。

 妾になれるようにアプローチしろと言われたが、接触する機会がないのだ。

 どうやって接触すれば良いのか考えていると、カタッという音が響いた。

 顔を上げると、テーブルの反対側にクロノが立っていた。


「やあ、一人?」

「そ、そうです」

「座って良い?」

「ど、どうぞ、好きになさって下さい」


 ありがと、とクロノはイスに座った。


「何か用ですか?」

「特に用はないんだけど、君が一人でいることが多いって聞いてね。雇い主として声を掛けておこうと思って」

「……どうも」


 どうやら、自分の行動はクロノに筒抜けだったようだ。


「それって刺繍?」

「そうです」

「凄いね」

「ありがとうございます」


 そんな大したものかしら? とリュカは内心首を傾げた。


「僕には真似できないよ」

「刺繍ができるんですか?」

「学校で習ったきりだから今はもうできないかも」


 そう言って、クロノは恥ずかしそうに笑った。

 これが演技なら大したものだ。


「リュカは刺繍が好きなの?」

「……嫌いじゃないです」


 正直に答えてどうするのよ、と心の中で自分に突っ込む。

 と言うか、普通は刺繍をしていたら好きだと考えるはずなのに変な質問をするものだ。


「刺繍がどうかしたんですか?」

「ああ、実は……」


 クロノはポケットから財布を取り出した。

 かなり年季の入った財布だ。

 あれだけ豪華な箱馬車を所有しているのにどうして買い換えないのだろう。


「財布がボロボロだから作って貰おうと思って」

「できません」


 即答し、すぐに自分の失態を悟る。

 こういう時は申し訳なさそうに言った方が角が立たないのだ。

 しかし、クロノは平然としている。


「できないの?」

「……いえ、布と色糸がなくて」


 不興を買わなかったことに安堵しながらできない理由を伝える。

 あの木箱には鏡と櫛、着替え、当面の生活費が入っていたが、布と色糸は入っていなかった。

 当面の生活費……金貨十枚を切り崩せば好きなだけ買えるのだが、いざという時のために取っておきたい。


「ああ、なるほどね。もちろん、材料費は僕が出すよ」

「あ、ありがとうございます」


 リュカはクロノをしげしげと見る。

 悪い人ではないと思うのだが、どうも胡散臭い。

 警戒すべきと本能が訴えている。


「どうかしたの?」

「いえ、別に」

「噂と違うから警戒されてるのかな?」

「……っ!」


 リュカが息を呑むと、クロノは笑った。

 何と言うか、してやったりという感じの笑みだ。


「で、僕のことは何て?」

「……女好き」


 酷いな~、とクロノは苦笑した。

 もっとも、同僚は女好きの他に優しい、勇気があるみたいなことを言っていた。

 他にゾッとするほど冷たい目をすることがあるとも言っていたが。


「けど、リュカも聞いてた話と違うね」


 ぐっ、とリュカは呻いた。

 迂闊だった。

 どうして、相手もこちらの情報を集めていると考えなかったのか。


「苛々してて、可愛げがないって聞いてたんだけど?」

「誰がそんなことを言ったのよっ?」

「いや、誰も言ってないよ」


 頭に上った血が一瞬で引いた。

 カマを掛けられたのだ。

 それを理解した瞬間、クロノがとんでもなく嫌なヤツに思えてきた。


「そっちが素?」

「……そうよ」


 リュカはムッとして言い返した。


「アンタこそ、そっちが素なの?」

「う~ん、どうだろ?」


 クロノは腕を組み、首を傾げた。


「で、どうして僕のことを色々と聞き回ってたの?」

「アンタの妾になれって命令されたのよ」


 リュカは自棄になって本当のことを打ち明けた。


「あ、やっぱり」

「予想してたんならわざわざ聞かなくても良いでしょ、ったく嫌なヤツね」

「一応、本人の口から聞いておこうと思ってさ」


 自分でも無礼な……激昂されてもおかしくない暴言を吐いていると思うのだが、クロノは平然としている。


「シフは何て言ってた?」

「今の待遇を失いたくないって言ってたわ」

「こんなことをしなくても待遇を変えるつもりはないんだけどな~」


 クロノはボヤくように言った。

 良いヤツかも知れないと思ったが、もう自分の中では嫌なヤツと決定している。

 簡単に評価を改めるべきではない。


「ふ~ん、それって本心?」

「本心だよ。隊商の護衛に害獣駆除と諸部族連合の力は欠かせないからね」


 嘘を言っているようには見えないが、隠し事をしているような気がする。

 聞かれなかったから、と嘯きそうな雰囲気がある。


「あたしに隠してることがあるんじゃないの?」

「まあ、そりゃね」

「……」


 睨み付けてもクロノは平然としている。


「やっぱり、最後まで味方でいてくれる人達を無下には扱えないよね」

「やっぱり? 最後まで? ……っ!」


 思わず息を呑んだ。

 こいつは諸部族連合を戦力にするつもりなのだ。

 それも使い潰すつもりでいる。


「……アンタ」

「念のために言っておくけど、僕は女子どもに至るまで最後まで味方でいて欲しいとは思ってないよ?」


 ぐ、とリュカは呻いた。

 クロノはそうかも知れないが、シフは移住計画のために開拓村の住民を使い潰す覚悟を決めているはずだ。

 そのことに気付いた途端、猛烈に恥ずかしくなった。

 自分だけが損をしていると思っていた。

 しかし、違った。

 自分と同じように、いや、それ以上のリスクを背負っていたのだ。

 それなのにリュカは自分のことだけを考えて恨み辛みばかりを口にしていた。


「……アンタ、マジで最悪ね」

「そこまで酷くはないと思うけどな~」


 クロノはボヤくように言った。


「むしろ、凄く優遇していると思う」

「……」


 リュカは咄嗟に言い返せなかった。

 最後まで味方でいるとはクロノとシフの間で交わされた口約束に過ぎない。

 それを信じて千人以上の異民族を受け入れ、領民と同等の権利を認め、他の領地で不利益を被らないように周辺の領主に話をつけている。

 これまで諸部族連合が自由都市国家群のギルドマスター達から受けた扱いを考えれば厚遇しているとさえ言える。

 ふとクロノは鏡のような存在なのではないかと思った。

 こちらが礼を尽くせばそれに応じた対応をしてくれる。

 逆にこちらが不利益をもたらすような言動を取ればそれに応じた、あるいはもっと苛烈な報復をする。

 きっと、シフはクロノがそういう男だと分かっていたから最後まで味方でいると約束したのだろう。

 そして、その目論見は見事に成功した。

 あれ? とリュカは内心首を傾げた。

 シフはクロノが公私混同を嫌うと言っていたが、そういう性格なら愛人に何を対価として差し出しているのか疑問に思ったのだ。


「……質問があるんだけど?」

「どんな?」

「もし、仮によ? あたしが妾になったら何をしてくれるの?」

「後腐れなくやらせてくれるならともかく、紐付きはちょっとね」

「今、ビックリするほどゲスな台詞を吐いたわね」


 リュカは吐き捨てた。


「あまり良くないけど、追及はしないわ。だから、質問に答えて」

「僕の権力を笠に着て好き勝手やられるのは困るね」


 当然と言えば当然だ。

 三人の妻、十人以上の愛人が好き勝手に振る舞ったら収拾がつかなくなる。


「それ以外よ、それ以外」

「基本的に子どもが産まれたら認知します。相手が平民の場合、子どもに領地を受け継がせることはできませんが、養育費及び妊娠中の生活費については受け持ちます。また、体調を崩したり、ケガをしたりして働けなくなった時も同様です。子育てに専念したい時はご相談下さい」

「結構、手厚いのね」

「愛する女性と子どもには幸せになって欲しいからね」


 皮肉だったのだが、クロノは得意げだ。


「けど、そんな約束をしているなら、あたし達が妾になんてならなくて良いじゃない」

「妾になろうという人間が随分な態度でしたな」

「うっさいわね! ちょっと自棄になってたのよ!」


 リュカはクロノを怒鳴りつけ、深々と溜息を吐いた。


「もう妾になるつもりはない?」

「紐付きは嫌だって言ったじゃない」

「僕の権力を自分のものだと勘違いされるのが嫌なんだよ」


 リュカが問い返すと、クロノはしれっと言った。

 外面を取り繕うのが上手いだけではなく、面の皮も厚いようだ。


「口説くならカリスにしなさいよ」

「あたしは性格が悪いし、付き合うならカリスみたいな子にした方が良いみたいな?」

「……誰の真似よ」


 しなを作り、裏声で言うクロノにイラッとした。


「僕の愛人にはエレナという娘がいます」

「それが?」

「ちょっとキツい性格だけど、そこが可愛いと思ってます」

「可愛いと思ってますって顔じゃないわよ」


 クロノは笑っているが、邪悪さが滲み出ている。


「年齢もお気になさらず」

「それで口説いてるつもりなら大失敗よ」


 リュカは裁縫道具をポーチにしまうと立ち上がった。


「もう行くの?」

「ええ、これ以上話してると殴っちゃいそうだから」


 荒々しい足取りで食堂の出入口に向かう。


「リュカ!」

「何よ!」

「財布の件は?」

「布と色糸を持ってきなさい! 話はそれからよ!」


 リュカは怒鳴りつけて食堂を出た。

 心の中で知っている限りの言葉を使ってクロノを罵倒する。


「あれ、リュカさん?」


 廊下の角を曲がると、カリスと出くわした。


「何か良いことがあったんですか?」

「は?」

「い、いえ、嬉しそうにしていたので……」

「そんな訳ないでしょ」


 リュカは冷たく言い放ち、自分の部屋に向かった。

 ちなみに糸と布が部屋に届けられたのは翌日、あたしって安い女! と安宿のベッドで身悶えするのはしばらく後のことである。

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