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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第7部:クロの戦記

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第3話『千客万来』



 帝国暦四三三年五月――ベティルは意識を空想の世界に漂わせていた。

 その世界で小さな領地を統治している。

 領地は帝国から遠く離れた辺境に位置している。

 そこは戦略的な価値がない代わりに発展する余地の少ない土地だ。

 そんな土地だから重税は掛けられない。

 領民が一家離散したり、身売りしたりしないように苦心しなければならない。

 もちろん、贅沢はできない。

 ベティルは他の貴族から甲斐性なしと思われているが、妻はうだつの上がらない夫の服を幸せそうに繕う。

 子どもはいない。

 早く跡継ぎが欲しいと思いながら膝の上で猫を撫でたり、領民に優しく接したりする。

 小さいながらも完璧な世界なのに自分はしばしば野心を抱く。

 帝国を自分の思うがままに操りたいという野心だ。

 そのたびに思い直す。

 春の穏やかな日差しを浴びて、夏に小川で遊ぶ領民を見て、秋の寂しげな風に吹かれて、冬の雪景色を見て。

 この優しい世界を野心と引き替えにすることはできない。

 そう考えて微笑みを浮かべるのだ。


「……う……ベ……相……ベティル宰相」


 宰相という言葉に甘美な夢の世界から塩辛い現実の世界に引き戻された。

 ここは優しさに包まれた領地ではなく、アルフィルク城の会議室だ。

 会議室にはアルフォート皇帝と財務局長に就任したボウティーズ男爵、尚書局長に就任したブルクマイヤー伯爵の姿がある。

 彼らが帝国の中枢に潜り込めたのは実績を評価されてのことではない。

 まあ、パフォーマンスを実績と評するのならば話は別だが。

 アルフォートは二週間あまりで大勢の役人を追放し、空いた役職に自分の息の掛かった貴族を据えてしまった。

 その中にはクロノが治安回復のために追い出した汚職役人も含まれている。

 帝国の行政機関は汚職役人とその予備軍の巣窟に成り果ててしまった。

 今は辛うじて回っているがいずれ破綻するだろう。

 大規模な暴動が起きるか、内乱が起きるか分からないが、愉快な未来でないのは確かだ。


「ベティル宰相、宰相たる者がそのようなことでは困る」

「はっ、申し訳ございません」


 冷静さを装って謝罪したが、心は千々に乱れていた。

 自分が宰相に任ぜられるなど飛び切り質の悪い悪夢にしか思えなかった。

 自分がさほど有能でないことは分かっている。

 近衛騎士団長が精々の男だ。

 それにしたって凡庸の域をでないだろう。

 そんな男を宰相の地位に就ける。

 それだけでも正気を疑いたくなるのに宮内局長まで兼任させられている。

 もはや狂気の沙汰だ。

 アルフォートの気持ちを理解するより昆虫の気持ちを理解する方が遥かに容易いに違いない。


「陛下、宰相殿は慣れない仕事が続いて疲れておるのでしょう。部下に寛容な心で接するのも皇帝の務めではありませんかな」


 助け船を出してくれたのは近衛騎士団の統括役兼軍務局長に就任したラルフ・リブラ伯爵だ。

 彼はたっぷりと蓄えた髭をしごきながら好々爺然とした口調で言った。

 正直に言えば胡散臭い。

 助け船を出してくれたのも政治的な思惑があるのではないかと勘繰ってしまう。


「う、うむ、それもそうだな。ベティル宰相、これから気を付けるように」

「はっ、御心に感謝いたします」


 うむ、とアルフォート皇帝は得意げに小鼻をひくつかせながら頷いた。

 ベティルを責めたのも、許したのも皇帝風を吹かせたいからだろう。

 この二年ほどの付き合いでアルフォート皇帝の器を理解できたような気がする。

 要するに彼は自己顕示欲と承認欲求が強いのだ。

 元々の頭は悪くないのだろう。

 立ち居振る舞いからそれなりの教育を受けていると分かる。

 しかし、彼は選択を間違える。

 立派なことをしよう、凄いことをしようとする意識が強すぎて御立派な建前しか見えなくなってしまうのだ。


「では、会議を始めるとしよう。改善傾向にあった帝都の治安が再び乱れている。治安回復のために賭博場を合法化し、その収益を炊き出しや救貧院の予算に充てているが効果があるようには見えない」

「その通りかと存じます。効果がないのならば別の対策を立てるべきかと愚考します」

「然り、その予算を先の内乱で被害を被った地方貴族に振り分けるか、各局の予算に回すべきではないでしょうか」


 ボウティーズ男爵がアルフォート皇帝に追従し、さらにブルクマイヤー伯爵が続く。

 ベティルはその光景に目眩を覚えた。

 治安が悪化したのはまともな役人がいなくなったからだ。

 金さえ払えば量刑は思いのまま、そんな状況で誰が法を守るのか。

 さらに言えば二人の口調からは賭博場を自分の管轄に組み込んで甘い汁を吸いたいという思惑が透けて見えた。


「……恐れながら」

「発言を許す」


 ベティルが発言の許可を求めると、アルフォート皇帝は鷹揚に頷いた。


「賭博場の一件は私がエラキス侯爵に命じて行わせたことです。確かに治安は乱れていますが、一度臣民に差し伸べた手を引っ込めるような真似はするべきではありません」

「宰相殿はご自身が主導した事業に口出しして欲しくないと?」


 ブルクマイヤー伯爵が挑発的な口調で問い掛けてきた。


「ありていに言えばその通りです」

「なっ! 何たる暴言!」

「陛下の御前であるぞ!」


 ベティルが肯定すると、ブルクマイヤー伯爵とボウティーズ男爵は顔を真っ赤にして叫んだ。


「私はラマル五世陛下が崩御された折よりアルフォート陛下に忠誠を誓い、今は宰相の地位に任じられております。私の言は帝国を、ひいては陛下を思ってのこと。忠臣なればこそ諫言を申すこともございます」

「そなたの諫言、しかと受け止めたぞ」


 やはり、アルフォート皇帝は鷹揚に頷いた。

 本当に分かっているのかと不安になるが、ここは忠臣面をしておくべきだろう。


「賭博場に関してはベティル宰相に一任する。しかし、成果がなければ……」

「お待ち下され、陛下」


 ラルフ・リブラ伯爵がアルフォート皇帝の発言を遮る。

 本来ならば許されない行為だが、叱責はない。


「リブラ伯爵、何か?」

「現状維持と対策を平行してはならぬという法はありますまい」

「どのような対策を考えている?」


 そうですな、とラルフ・リブラ伯爵は髭をしごいた。


「たとえば臣民のために働く場を用意されては如何ですかな?」

「おお、それならば我が領地に最適な場所がございます!」


 ボウティーズ男爵はポンと手を打ち合わせた。

 最適な場所とは彼の領地……大理石の採掘場に違いない。

 彼が自分の領地にいた石切職人の一族を売った話は有名だ。


「ならばキンザで働かせても良いのではありませんか?」


 キンザは帝国有数の鉱山を抱える土地だ。


「うむ、良い考えだ。では、そのように取り計らえ」

「陛下、臣民の命が懸かった決断です。真剣に吟味されるようにお願い申し上げます」

「……うむ、分かっておる」


 ベティルが進言すると、批判されたと感じたのか、アルフォート皇帝は一瞬だけムッとした表情を浮かべた。

 分かっていないのか、とベティルは唇を噛み締めた。

 採掘は刑罰になるほど過酷だ。

 下手をすれば送り込んだ分だけ人が死ぬ。

 それだけではない。

 条件を詰めずに話を進めればその先に待つのは国主導で行われる奴隷売買だ。

 ベティルは空想の世界に意識を漂わせたかったが、それはできないようだ。



「ティリアはまだ準備できないのかな?」


 気持ちは分かるんだけど、とクロノは太股を支えに頬杖を突いた。

 今日はボンドとティナ立ち会いの下でサルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵と関税撤廃に関する契約を交わすことになっている。

 クロノの領地は三人の領地と接しているため本来ならばボンドとティナの立ち会いは必要ない。

 にもかかわらず二人に立ち会いを頼んだのは一堂に会することで仲間意識を植え付けるためだった。

 最終的には完全に商業制度を統一したいが、それはまだ先の話だ。

 まずは関税を撤廃しても物と金が淀みなく流れるようになれば懐が潤うと実感して貰わなければならない。

 そうなればクロノの話を聞いてくれるようになるだろうし、他の領主も興味を持ってくれるはずだ。


「それにしても遅いな。今日はシオンさんやナム・コルヌ女男爵とも会わなきゃならないのに」


 クロノは小さく溜息を吐いた。

 シオンはともかく、ナムが問題だ。

 と言うのも彼女が近衛騎士団長ではなく、商業組合の代表を名乗っていたからだ。

 嫌な予感がする。

 正直に言えば会いたくないが、門前払いするのは礼儀にもとるし、帝都で命を助けて貰った恩を仇で返したくない。


「……遅いな」


 暇潰しになるようなものはないかな? と視線を巡らせるが、誰も使っていない部屋にはそんなもの存在しない。


「待たせたな!」


 クロノは扉の方を見ると、ティリアが立っていた。

 いつもの軍服ではなく、ドレスを着ている。

 肌の白さを際立たせる黒を基調としたノースリーブドレスだ。

 足下を覆い隠すスカートはレースを幾重にも重ねて作られている。

 とても丁寧な造りだが、それだけでは地味という印象を拭えない。

 それを補っているのが刺繍だった。

 ドレスが黒を基調としているからか、銀糸を使った刺繍だった。

 華をモチーフとしたそれはただでさえ見事なティリアの肢体をさらに魅力的に見せている。

 もしかしたら、ボディーライン……体の凹凸を計算し尽くした上で刺繍を施しているのかも知れない。

 だとしたら、どれほどの労力を費やしているのだろう。

 素人のクロノに分かるのは想像を絶する労力ということだけだ。

 普段と違うのは服装だけではない。

 髪型もだ。

 いつもはポニーテイルにしているのだが、今日は丁寧に結い上げている。


「化粧をしてるんだ?」

「偶には、な」


 ティリアは照れ臭そうに答えた。

 派手さのないメイクだが、艶やかに感じられる。

 率直に言えば女らしい。

 偶にはこういうのも良いと思う。


「どうだ?」


 クロノが歩み寄ると、ティリアは恥ずかしそうに尋ねてきた。


「凄い気合だね」

「……」


 ティリアは無言だった。

 虫でも見るような目でクロノを見ている。


「一瞬、殴ろうかと思ったぞ?」

「お世辞を言った方が良かった?」

「ぐぬ、ぐぬぬ」


 クロノが問い返すと、ティリアは呻いた。


「よし、誉めろ」

「……そんなに悩まなくても良いのに」


 う~ん、とクロノは唸った。


「そんなに悩まなくて良いぞ?」

「そのドレス、似合ってるね」

「もっと悩め!」


 ティリアはあっさりと前言を翻した。


「ティリアのドレス姿って新鮮だな~」

「新鮮が誉め言葉か!」

「最近はマンネリ気味だったから」

「そうか?」


 ティリアは訝しげな表情を浮かべた。


「現状に満足はしているんだけど、新しい刺激が欲しいかな」

「それはマンネリじゃないだろ」

「最近は自制をしてくれるようにもなったけど、今にして思えば昔のノリも嫌いじゃなかったな」

「お前は本当に私のことを愛しているのか?」

「僕なりに愛してるよ」

「私の何処を愛してるんだ?」

「全部かな?」

「……全部か」


 ティリアは嬉しそうに言った。

 軍学校時代……話すようになる前は文武両道、才色兼備の完璧超人だと思っていた。

 話してみると、そうではないと分かった。

 一緒に過ごす時間が長くなるほどポンコツな所が目に付いた。

 しかし、自分を信頼してありのままの姿をさらけ出してくれていると考えれば悪い気はしない。

 愛しいとさえ思う。


「そうか、全部か」


 やはり、ティリアは嬉しそうだ。


「ティリア皇女、恐れながら」


 扉の陰からシッターが姿を現した。

 シッターは銀のトレイを持っている。

 その上には契約書が載っている。

 紙ではなく羊皮紙、文面はティリアの直筆だ。

 流石は皇族と言うべきか、クロノが逆立ちしても真似できない流麗な筆致だ。


「分かった。クロノ、行くぞ」

「はいはい」

「返事は一度にしろ」


 そう言って、踵を返す。

 クロノはティリアに先導されて会議室に向かう。

 会議室の扉の前には獣人の兵士が立っている。

 二人の兵士は敬礼すると扉を開けた。

 会議室には五台の長机と演台が二人が六角形を描くように配置されていた。

 ボンド・前ハマル子爵、ティナ・シェラタン子爵、メサルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵は出歩くような真似をせず、席に着いていた。

 ティリアが会議室に入ると、ほぅという声が聞こえてきた。

 誰が漏らしたものか分からないが、出だしは好調のようだ。

 ティリアは演台に立ち、クロノとシッターはその後ろに立つ。

 これは関税撤廃に関する契約の立役者がティリアであるというアピールだ。

 と言うのもメサルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵はクロノの領地がティリアのお陰で発展したと思い込んでいるからだ。

 契約を結ぶにあたり、シッターを派遣して内容の説明と状況確認をさせているので、確実性の高い情報だ。

 話が早く進みすぎた所が不安と言えば不安なんだよね、とそんな風に思う。

 正しくトントン拍子、今までの停滞が嘘のように話が進んだ。


「皆の者、ご苦労」


 そんな言葉遣いで良いのかなと思ったが、五人の表情に変化はない。

 気にしていないと言うよりも当然のことのように受け容れているようだ。


「帝都を離れてから二年余り……私は数々の改革に挑んできた。特に経済同盟の構築は私が最も力を注いできた案件と言っても良いだろう」


 おおっ、とメサルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵の口から声が漏れる。

 どうやら、ティリアの話を信じ込んでいるようだ。

 釈然としないものを感じるが、それで上手くいくのなら誤解したままでいて貰った方が良いかなと思う。


「これまでの道のりは険しいものだった。港の建築、自由都市国家群や神聖アルゴ王国とのパイプ造り……どれも並々ならぬ努力が必要だった」


 ティリアは俯くと肩を震わせた。

 メサルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵は涙で目を潤ませている。

 三人ともティリアの苦労を想像しているのだろう。


「すまない、取り乱してしまった」


 ティリアは指で目元を拭った。


「……今日という日を迎えることができて嬉しく思う。これもボンド氏とシェラタン子爵のお陰だ」

「いえ、ティリア皇女のお力です。それにお陰と言うのであれば私など足下にも及ばない方がいらっしゃいます」

「はい、クロノ様に比べれば私達の力など……」


 ボンドは困ったような笑みを浮かべ、ティナは力なく首を横に振って謙遜した。


「うむ、夫が支えてくれなければ心が折れていたかも知れん。礼を言うぞ、クロノ」


 ティリアは振り返ると小さく頭を下げた。

 控え目な感謝だが、口の端には邪悪な笑みが浮かんでいた。

 メサルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵は信じられないという表情を浮かべている。

 彼らの常識では成り上がり者の新貴族が皇族を妻に迎えることなんて有り得ないのだろう。


「三人はクロノのことをよく知らなかったな。クロノは先の内乱で殺戮者スローターと恐れられたクロード・クロフォードの息子だが、私の母……アストレアの護衛騎士エルア・フロンドの息子でもある」


 おおっ、と三人が声を上げる。


「なるほど、道理で気品のある顔立ちだと」

「まさか、護衛騎士殿の息子とは」

「それならば神聖アルゴ王国の侵攻を防げたことも頷ける」


 見事な手の平返しだった。

 養父の話によればエルア・フロンドも下級貴族のはずだが、護衛騎士は別格のようだ。


「うむ、クロノのことを理解してくれて嬉しいぞ。話が横道に逸れてしまったが、本題に入るとしよう」


 ティリアが目配せすると、シッターが歩み出た。


「こちらで契約書を四枚用意した。一枚はこちらに残す控えだな。文面は一言一句相違ないが、念のために全員に確認して貰う。ああ、私の署名はすでにしてあるぞ」


 シッターが契約書を差し出すと、ボンドは受け取り、文面を目で追う。


「……確認しました。家名に懸けて四枚の契約書が同一内容であると保証します」


 シッターはボンドから契約書を受け取り、ティナに差し出した。

 ティナはブツブツと内容を読み上げる。


「読みました。ティナ・シェラタンの名に懸けて保証します」


 シッターはティナから契約書を受け取ると、サルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵に契約書を見せていく。

 三人とも満足げに頷いている所を見ると、納得しているらしい。

 シッターは契約書を受け取り、今度は一枚ずつ渡した。


「……署名を」


 ティリアが促すと、三人は契約書に署名した。


「控えは連名としておこう、シッター」


 シッターは控えの契約書に三人の署名を貰うとティリアの手元に持ってきた。

 ティリアは署名を確認し、契約書を演台に置いた。


「これで関税の撤廃と露店制度の導入に関する契約が結ばれた。ただ、紙には関税を掛けさせて貰う」


 ティリアは憂いを帯びた表情を浮かべた。


「申し訳ないが、紙の製造は困窮する民を救うために始めた事業だ。こればかりはおいそれと譲ることはできん」


 民草のためになんと慈悲深い、と誰かが呟いた。


「しかし、経済同盟の中枢がそれではマズいとも思っている。いずれ……今はそうとしか言えないが、撤廃したいと考えている」


 流石に驚いたのか、五人は驚いたような表情を浮かべた。

 当然のことながら、この件は事前に話し合っている。

 経済同盟の構築を主導したとは言え、一人だけ特権を持っていれば不和を招く。

 要地を押さえているのだから対等な関係など有り得ないが、まやかしだとしても公平感は大事なのだ。


「契約はこれで済んだが、我々の輝かしい未来について語り合えれば幸いだ」


 ティリアは自信に満ちた声で言った。



 壁の花……パーティーで会話の輪から外れている者を表現する言葉だ。

 元々は舞踏会で誰にも誘われず、壁際に立っている女性に対して使った言葉らしい。

 要はボッチだ。

 クロノはボッチ、いや、壁の花に成り果てていた。

 ボンドとティナが挨拶に来てくれたが、二言三言言葉を交わすとティリアの下に向かった。

 やっぱり、お姫様なんだな、とクロノは離れた場所からティリア達を見つめた。

 まるで軍学校時代のように人々に囲まれている。

 不快感が込み上げてくるのは独占欲からだ。

 子どもじゃあるまいし、と自嘲していると、シッターが歩み寄ってきた。


「……クロノ様、扉を」


 扉の方を見ると、わずかに隙間が空いていた。

 恐らく、シオンが待っていると報告に来たのだろう。


「シッターさん、任せて良いですか?」

「かしこまりました」


 クロノはこっそりと会議室から出た。

 廊下で待っていたのはアリッサだった。

 彼女は恭しく一礼する。


「旦那様、申し訳ございません」

「いや、助かったよ」


 軍服の第一ボタンを外しながら言うと、アリッサは困ったような表情を浮かべた。


「シオンさんは?」

「応接室でお待ち頂いております」

「どれくらい?」

「いらっしゃってからそれほど時間は経過しておりません」


 アリッサは申し訳なさそうに言った。

 恐らく、シオンを応接室に案内してすぐに応接室に来たのだろう。


「……お邪魔になるかとも考えたのですが」

「さっきも言った通り、助かったよ。人見知りする質だからこういうのは苦手でさ」

「まあ、ご冗談を」


 何が楽しいのか、アリッサはクスリと忍び笑いを漏らした。

 嘘じゃないんだけど、と説明すべきか迷う。


「先導させて頂きます」

「よろしく」


 クロノはアリッサに先導されて応接室に向かう。

 一度も振り返っていないのだが、距離は一定に保たれている。

 アリッサは応接室が見えてきた所で歩調を緩め、残り十メートルという所で口を開いた。


「旦那様、恐れながら……」

「分かった」


 クロノが立ち止まると、アリッサは歩調を速めた。

 応接室の扉を開け、丁寧にお辞儀をしている。

 今しばらくお待ち下さいみたいなことを言っているのだろう。

 クロノが歩を進めると、アリッサは道を空けた。


「すみません。遅くなりました」

「い、いえ! 私が早く来すぎただけですから!」


 クロノが謝罪の言葉を口にしながら応接室に入ると、シオンはソファーから立ち上がり、両手を左右に振った。


「……失礼いたします」


 アリッサが恭しく一礼すると扉を閉め、クロノはシオンの対面にあるソファーに腰を下ろした。


「……どうぞ」

「あ、はい、失礼します」


 どうぞの意味が分からなかったのか、シオンはキョトンとした表情を浮かべ、それから慌てふためいたように座った。


「……」

「……」


 クロノとシオンは無言で見つめ合った。


「えっと、報告書を」

「は、はい、こちらになります」


 クロノはシオンから報告書を受け取って目を通した。

 報告書には救貧院の入院者数と仕事の斡旋件数について書かれている。

 入院者数は横這い、仕事の斡旋件数は微増している。

 後者に関しては誤差なのか検証が必要だろう。


「何か変わったことは?」

「シャウラさんが挨拶に来てくれました」


 シオンは祈るように手を組んで言った。


「へ~、シャウラが」

「礼儀正しい良い子ですよ」


 良い子なのは分かっているが、配属されたばかりだし、まだまだ子どもだ。

 正直に言えばそこまで気遣いができるとは思っていなかった。


「今度、一緒に開拓村に行くことになりました。なので……」


 シオンは口籠もった。

 馬車を貸して欲しいということか。


「馬車を貸すのは問題ないんだけど、大丈夫かな?」

「何がですか?」

「シャウラ達は売られたようなものだからね」


 ディノ……いや、ディノ達はと言うべきか……はクロノに貢献していると示すために十人の子どもを差し出したのだ。

 もちろん、彼らにだって言い分はあるだろう。

 クロノもそれが分かっていたから子どもの面倒を見ることを強要しなかった。

 しかし、それはこちらの言い分に過ぎない。


「シャウラさんは恨んでいないと思いますよ?」

「そうかな?」


 それはそれで俄には信じられない話だ。


「一旦、気持ちに区切りを付ける意味でも顔を合わせた方が良いと思います」

「そんなものかな?」

「そういうものです」


 気まずい思いをするだけのような気がするのだが、シオンの意見は違うようだ。


「それに、シャウラさんが決めたことですから」

「本人の意思を尊重する、ね」


 クロノは小さく溜息を吐いた。

 過保護と言われるかも知れないが、傷付かずに済むのならそれに越したことはないと思う。

 仕方がないか、と口を開いた。


「視察には僕も付いていって良いかな?」

「それは構いませんが、どうしてですか?」


 クロノが尋ねると、シオンは問い返してきた。


「何かあった時にフォローしようと思って」

「……」


 シオンはそんなに心配しなくてもと言いたげな表情を浮かべている。


「他に変わったことは?」

「……そうですね」


 シオンは思案するように手で口を覆った。



 小一時間ほどシオンと雑談していると、扉を叩く音が響いた。

 しばらくすると、扉が静かに開いた。

 扉を開けたのはアリッサだったが、背後には眼帯を着けたメイドが控えている。


「旦那様、次の予定が……」

「分かった。申し訳ないんだけど、続きは視察の時に……」

「いえ、私の方こそ長居をして申し訳ありません」


 シオンは寂しげな表情を浮かべた。

 本当に申し訳ないことをしたと思う。

 これなら日を改めた方が良かったかも知れない。

 雑談と言っても無駄な会話ではない。

 自分以外の者が領地をどのように見ているか知る絶好の機会なのだ。

 それに彼女は良くも悪くも思い詰めやすい質だ。

 フォローが必要か判断するためには実際に会うのが一番だ。

 シオンが軽く頭を下げ、ソファーから立ち上がった。


「失礼しました」

「次は視察の時にね」


 はい、とシオンは再び頭を下げて応接室から出ると、扉が静かに閉じた。

 眼帯を着けたメイドが閉じる寸前に話しかけていたので、彼女が玄関まで見送るのだろう。

 クロノは深い溜息を吐き、ソファーに寄り掛かった。

 しばらくすると、再び扉を叩く音が響いた。

 扉が静かに開く。扉を開けたのはアリッサである。


「……旦那様、宜しいでしょうか?」

「大丈夫だよ」


 クロノは居住まいを正した。

 アリッサが扉を開けると、神官服姿の女性……ナム・コルヌ女男爵が入ってきた。

 童女のような笑みが印象的だが、凍てついた光を宿す瞳からマイラと神官さんに通じるものを感じてしまう。

 クロノの勘が危険だと訴えている。

 まあ、残念ながら危険だと分かってもそれに対応する能力がないのだが。


「その節はお世話になりました」

「礼には及びません。近衛騎士団長として、『蒼にして生命を司る女神』に仕える神官として当然のことをしただけですから」


 ナム・コルヌ女男爵は胸に手を当てて答えた。


「立ち話も何ですからどうぞ座って下さい。もちろん、対面のソファーにって意味ですよ」

「まあ、面白いことを仰るんですね」


 ナム・コルヌ女男爵はクスクスと笑い、対面のソファーに腰を下ろした。


「アリッサ、香茶を持ってきてくれないかな?」

「かしこまりました」


 アリッサは恭しく一礼すると扉を閉めた。

 これなら襲われることはないはず、とクロノはソファーに腰を下ろした。


「ナム・コル……」

「ナム、と呼んで下さい」


 ナム・コルヌ女男爵……ナムは微笑みながら言った。


「ナムど……」

「ナム、です」


 またしても言葉を遮り、微笑みながら言う。

 男なら文句の一つも言ってやる所だが、女性ではあまり強く言えない。


「ナムさんは……どのような用件で?」

「呼び捨てて下さって構いませんのに」


 今度は言葉を遮られなかったが、拗ねたような口調で言った。


「……どのような用件で?」

「近衛騎士団の団長同士、友好を深めようかと思いまして」


 クロノがゆっくりと尋ねると、ナムは白々しい台詞を吐いた。

 イラッとさせられる態度だ。


「商業組合の代表を名乗っていたのは?」

「まあ! 申し訳ありません。私用だったので、商業組合の方に言伝を頼んだのですけれど、何か手違いがあったみたいです」


 ますますわざとらしい。

 怒らせたいのか、別の意図があるのか、どちらにしても受けに回れば主導権を握られっぱなしになる。


「お互いのために回りくどい話は止めません?」


 あら、とナムは意外そうに目を見開いた。


「若い子はせっかちですね」


 軽口を返そうと思ったが、年齢に触れるのはタブーだろう。

 若くてもその程度の分別はあるのだ。


「噂ほど女好きじゃないのですね」

「面識が殆どないのに親密になりたいってアピールされたら誰だって警戒しますよ」

「でしたら、認識を改めないといけませんね」


 ナムは困ったように眉根を寄せた。


「それで、どうして商業連合の代表を名乗っているんですか?」

「私が商業連合の代表だからです」


 ナムはしれっと言った。

 カイ皇帝直轄領は『蒼にして生命を司る女神』に対する信仰の篤い土地だと聞くが、それだけとは思えない。


「近衛騎士団長が?」

「『蒼にして生命を司る女神』の神官が、と言うべきです。商業連合の皆さんにとって神官のもたらす情報は大事ですから」


 私を代表に祭り上げてしまう程度に、とナムは微笑んだ。


「本当ですか?」

「クロノ様は……私も名前で呼んで構いませんね。ええ、クロノ様はどのようにお考えですか?」

「立場を利用したと思っています」


 ナムは『蒼にして生命を司る女神』の神威術士だ。

 天候そのものは予測できないにしても海が荒れるかは分かるに違いない。

 それを利用すれば代表の地位に就くのは難しくないように思える。

 利に聡い商人が独占しようとしなかったのは彼女が誰のものにもならないと分かっていたからだろう。

 実際、彼女は公平な代表だったに違いない。

 だから、騙され、依存し、盲信するようになってしまった。


「まあまあ、人聞きの悪い。私だって最初からこんな風ではなかったんですよ?」

「と言うと?」

「誰だって小娘のままではいられません」


 ナムはクスクスと笑った。


「貴方の目的は?」

「娘との平穏な生活です。できれば有力な貴族に嫁がせたかったのですが、今は潮目を読むのがとても難しいものですから」


 仕方がなく代表の仕事をしていると言うことか。


「商業組合の代表としては?」

「神聖アルゴ王国との交易に噛ませて頂きたいと思いまして」

「……なるほど」


 予想通りの申し出だ。


「お金を払って貰えるのなら港と土地を利用して構いません。けど、僕にできるのはここまでですよ?」

「それは何故?」

「他の商会にも便宜を図っていないからです」


 交易できる状況は作ったが、それ以上のことはしていない。


「ただ、これだと僕にメリットがないんですよね」

「港と土地の使用料は十分なメリットでは?」

「こっちも色々と苦労してるんですよ? それを後から来て、お金になるから一枚噛ませろなんて少し虫が良すぎるんじゃないですか?」


 ナムは困ったように眉根を寄せた。

 十中八九演技だ。

 商売相手が自分の意のままに動いてくれると考えているのなら商業連合の代表は辞めた方が良い。


「駆け引きは好きじゃないので、出せるものは全部出して下さい。あ、娘さんはいらないですから」

「大事な娘を差し出せる訳がないでしょう」


 ナムは低く押し殺したような声音で言った。

 笑顔が剥がれ落ち、鬼のような形相が露わになっている。


「失礼しました」


 ナムはすぐに笑顔を取り戻した。


「職人なんてどうでしょう?」

「手放して良いんですか?」

「……こちらの誠意だと思って頂ければ」

「そうですか」


 ありがたい申し出だ。

 今まで技術開発には力を注いできたが、職人の数を増やす方向には力を注いでこなかった。

 いや、力がなかったと言うべきかも知れない。

 ボウティーズ男爵は例外としても職人を手放す領主は滅多にいない。

 腕の良い職人ともなれば尚更だ。

 クロノには腕の良い職人を招いたり、引き抜いたりする力がなかった。

 多数の職人を招き入れることができればさらに領地を発展させられるが、あまりに旨い話なので、警戒心が湧き上がる。


「でも、腕の良い職人さんが今まで培った全てを捨ててまで僕の領地に来てくれますかね?」

「大丈夫です」


 ナムの口調はしっかりとしている。

 少なくともそれなりの人数を集められる自信があるようだ。

 逆に言えばカイ伯爵領の職人には今までのキャリアを捨ててでも新天地に行きたい理由があるということだ。


「じゃあ、前向きに話し合うってことでどうですか?」

「構いませんよ」


 ナムは柔らかな笑みを浮かべた。


「個人的には即決したいんですけど、できるだけ多くの職人さんに来て貰うために条件……来てくれたら一年間税金を取らないとか、借地代を無料にするとか考えなきゃならないので」

「大勢の人々の未来が懸かった話ですからね。話し合う中で私に対する誤解も解けると信じています」


 クロノが手を差し出すと、ナムは優しく握り返してきた。



「あ~、しんど」


 クロノはぐったりとソファーに寄り掛かった。

 あれからナムはすぐに退室したが、立て続けに人と会うのは疲れる。


「経済同盟の方はティリアに任せようかな?」


 正直、誰とも会いたくない気分だ。

 このままゴロゴロしていたい。

 そんなことを考えていると、控え目に扉を叩く音が響いた。


「どうぞ~」

「……失礼致します」


 扉を開けたのはアリッサである。


「香茶を下さい」


 アリッサはクスリと笑い、ティーセットを載せたワゴンを押して入室した。

 カップに香茶を注ぎ、跪いてテーブルの上に置く。


「旦那様、お疲れ様です」

「ありがとう」


 クロノはカップを手に取り、香茶を口に含んだ。

 すると、程良い辛味と酸味が口内に広がった。


「生姜とレモンを足した感じ?」

「他にもブレンドされています」


 ふ~ん、とクロノは香茶を半分ほど飲み、カップをテーブルに置いた。


「……お疲れの所、大変申し訳ないのですが」

「また誰か来たの?」

「申し訳ございません」


 クロノが問い掛けると、アリッサは申し訳なさそうに頷いた。


「ああ、ごめん。ちょっと険のある言い方だった」

「いえ、もし、宜しければ日を改めて頂くようにお伝えしますが?」

「いや、会うよ」


 クロノは体を起こした。

 わざわざ報告に来たということは判断を仰がなければならなかったということである。


「で、誰が来たの?」

「ナイアと名乗っています」


 知らない名前だな、とクロノは首を傾げた。


「他には?」

「ナイトレンジャーと言えば分かると」

「あ~、あの時の旅芸人か」


 会わなくても良いんじゃないかな~という気持ちがムクムクと湧き上がる。

 正直、あの一座に対する好感度はマイナスなのだ。

 ナイトレンジャーをパクり、短剣で襲い掛かってきた件だけでも許しがたいが、それ以上にゲスな性格のサポートキャラにクロノと名付けたことを許せそうにない。


「旦那様?」

「いや、会うよ。会うって言っちゃたし」


 クロノがぐったりとソファーに寄り掛かると、アリッサは部屋を出て行った。



 分かり易すぎと言うのがナイアこと悪の女幹部と再会した感想だった。

 化粧は濃く、ドレスの露出度は高い。

 女の武器を使ってでもチャンスをモノにしてやるという悲壮な決意がヒシヒシと伝わってくる。


「エラキス侯爵様、わたくしのような卑賤な者を覚えて下さり光栄ですわ」

「まあ、座って……僕の隣じゃなく」


 大声で突っ込むべきだったのか、ナイアはクロノの隣に座るとグイグイと胸を押し付けてきた。


「で、何の用?」

「実は……一座のパトロンになって頂きたくて、そのお願いに参りましたの。今までのパトロンは、その、姿を隠されてしまいまして」

「そりゃ、そうだろうね」


 一座のパトロンは軍務局か、それに類する部署の人間……アルコル宰相の部下だ。

 元より脱法的な仕事をしていたのだ。

 上司が失脚すれば工作員など放り出してトンズラするだろう。


「まあ! エラキス侯爵の慧眼には感服致しますわ!」

「右目はバッテンだけどね」


 サポートキャラの右目は×だった。


「そんな意地悪なことを仰らないで下さいまし! 非礼があったのならば許して頂けるまで謝罪しますわ!」


 どういうキャラ設定なんだろ? とクロノは天井を見上げた。


「生活、厳しいの?」

「芸事で生計を立てるのは大変ですのよ。このままでは皆で身を売ることになってしまいますわ」


 ふ~ん、とクロノは相槌を打った。

 この分だと宿に泊まったりせず、馬車で寝泊まりをしてそうだ。


「あ、僕の領地は街娼行為禁止なんで」

「も、もちろん、ただでとは言いませんわ!」

「体を好きにして良いとか間に合っ……」

「貴族、娼婦、騎士までお好きなシチュエーションで……」

「やっぱり、間に合ってるかな~」


 どうして、自分なのかと思う。

 まあ、イグニスは帝国の工作員を雇わないだろうし、名門貴族のレオンハルトやリオは会うことすら困難だ。

 消去法でクロノしか残らなかったというのが本当の所だろう。

 あるいは与しやすいと思われたか。


「何か、こう、僕の……と言うか、僕の領地に貢献してくれないと雇うのは難しいんだよね、実際」

「領主様なのでしょう?」

領主様、ね。どうせやるなら娯楽の提供以上の価値が欲しいんだよ」


 クロノはソファーの肘掛けに寄り掛かり、小さく息を吐いた。

 ナイアは忙しなく目を動かしている。

 ここで実利を示さなければチャンスを失ってしまう。

 そんな気持ちが伝わってくるようだった。


「今、僕が考えているのは領民の教育かな? 劇を通して真面目に働こうとか、親を大切にしようとかを教育するの」

「脚本がないけど、それならできるわ……じゃなくて、それならできますわ」


 ナイアは身を乗り出してきた。


「まあ、ナイトレンジャーはこういう使い方をするのが正しいんだろうねぇ」


 クロノはしみじみと呟いた。



「疲れたぁぁぁぁっ!」


 クロノは盛大に溜息を吐き、食堂のテーブルに突っ伏した。

 時刻は夕飯時。

 ナイア一座のために宿を手配したり、参考文献として絵本を貸したりしていたらこの時間である。


「だらしがないぞ」

「だって、疲れたんだもの」


 顔を上げて抗議するが、ティリアは対面の席で優雅にカップを傾けている。

 ずっと話していたはずなのに疲労の色はない。

 ちなみに今はいつもの軍服姿だ。

 もう少しドレス姿でいて欲しかったが、安心すると言えば安心する。


「でも、まあ、これで一段落だね」

「うむ、肩の荷が下りた気分だ」


 ティリアは鷹揚に頷いた。


「ところで、騎兵隊の拡充はどうなっているんだ?」

「いきなりどうしたの?」

「今年は寒いからな」


 ティリアはカップをテーブルに置くと腕を組んだ。


「だから?」

「大理石の価格が高騰したように作物の価格が高騰するかも、いや、高騰するぞ。私には分かる」


 まるで相場師のような台詞だが、一笑に伏すことはできない。


「アルコル宰相が失脚したからね」

「その通りだ」


 ティリアは我が意を得たりと言わんばかりに頷いた。

 養父は作物の価格を安定させるためにアルコル宰相と相談して売る時期を決めていたらしい。


「見えるぞ、私には見える。作物を引き渡せと居丈高に命令する役人と毅然と拒否する義父の姿が……本当にありそうだな」

「父さんなら絶対にへそを曲げるね」


 街道を封鎖されてもアレオス山地の岩塩があれば塩不足に怯えることはない。


「どうか、父さんが短気を起こしませんように」

「ああ、全くだ」


 クロノとティリアは手を組んで神に祈った。


「話は戻るんだけど、作物の価格高騰と騎兵隊の拡充にどんな関係があるの?」

「作物の価格が上昇し始めたら換金するのを控えるように伝令を出そうと思ってな」

「ちゃんと話を聞いてくれるかな?」

「大切なのは伝えたという事実だ」


 話を聞いてくれればそれで良し、聞かずに痛い目に遭えば助けて恩に着せるつもりなのだろう。


「今から備えた方が良いかな?」

「もう少し様子を見てからで十分だ」


 確かに作物を買い集めて不作にならなかったら無駄になってしまう。


「シオンさんとできるだけ話をするようにするよ」

「うむ、それが良い」


 ティリアは鷹揚に頷いた。


「仕事の話はそこまでにしな! 飯の時間だよ!」


 威勢の良い声が食堂に響き渡る。

 ふと隣を見ると、エリルがいつの間にか席に着いていた。


「最近、クロノの近くに座ることが多いな?」

「……気のせい」


 エリルはいつもと変わらない口調でティリアに答える。

 やや微妙な空気が流れる。

 メイド達はそれに気付いていないかのようにテーブルに料理を並べていく。

 今日のメニューはパン、野菜スープ、白身魚の塩焼き、サラダである。


「いただきます」


 エリルは白身魚の塩焼きに手を伸ばした。

 ナイフとフォークで切り分け、大きく口を開けて頬張った。


「……薄味」

「クロノ様は疲れてるみたいだからね。健康のために薄味にしたんだよ。濃いめの味付けが良かったかい?」

「……薄味でも女将の料理は美味しい」

「嬉しいことを言ってくれるねぇ」


 エリルが幸せそうな表情を浮かべて言うと、女将は照れ臭そうに鼻を擦った。


「……食べる?」

「有り得ん!」


 エリルがクロノに白身魚を差し出すと、ティリアは驚愕に目を見開いた。


「……とても失礼」

「食い意地の張っているお前が他人に食事を分けているんだ。まさか……」


 ティリアがギロリとクロノを睨み付ける。


「……ティリア皇女が考えているようなことはない」

「そうか?」


 ティリアは訝しげな表情を浮かべた。


「……クロノ様のことを信じていないからそういう台詞が出てくる。仮にも妻を自認するのならば夫を信じるべき」

「む、そ、そうだな」


 妻と言われたことが嬉しいのか、ティリアは相好を崩した。

 エラキス侯爵ではなく、クロノと呼んだことには気付けなかったようだ。

 相変わらず、エリルはムスッとした表情を浮かべているが、クロノには嗤っているように見えた。


「エリルが食べなよ」

「……」


 エリルは無言で頷くと美味しそうに白身魚の塩焼きを頬張った。



「……お風呂に入ったら速攻で寝ちゃいそう」


 順番待ちしている間に寝ちゃうかも、とクロノは欠伸を噛み殺しながら自分の部屋に向かう。

 部屋の扉を開けると、眼鏡の女性……ネージュの副官が片膝を突いて待っていた。


「エラキス侯爵、お待ちしておりました」

「Why?」

「は?」


 思わず呟くと、ネージュの副官は不思議そうに首を傾げた。

 可愛らしい仕草だが、彼女がネージュの部下……暗殺者である可能性が高いことを考えると油断はできない。


「どうして、ここに?」

「折り入ってお願いがあって参りました。実は……」


 彼女は自分達が置かれている状況……アルフォートが人事を刷新し、尚書局に潜り込んでいた同胞が更迭されたことを淡々と語った。


「……帝都はダメかも知れないね」

「私もそう思います」


 素人をトップと中間管理職に据えるなんて悪夢としか言いようがない。


「で、お願いってのは?」

「私達の同胞を受け入れて頂きたく。全員とは申しません。若い世代の一部で構いませんので……」

「若い世代?」

「ネージュ様が『死の腕』を壊滅させた後に生まれた世代です。当然、私も若い世代に含まれます」


 どうやら、ネージュの副官は見た目通りの年齢だったらしい。


「受け入れろって言うけど、何ができるの?」

「ある程度、教育が必要になるかと思いますが、事務処理や徴税のお役に立てるかと」

「暗殺者なのに?」

「……私は暗殺者としての訓練を受けていますが、殆どの者は訓練を受けておりません。訓練を受けている者にしても実戦経験のある者は皆無に等しく」


思わず問い掛けると、ネージュの副官は間を置いて答えた。


「古い世代は?」

「……彼らは帝国でそれなりの地位を築いていますので」


 確かにそれなりの役職に就いている者、あるいは就いていた者が突然いなくなるのは問題だろう。


「まあ、十人くらいなら受け入れられるよ」

「ありがとうございます」


 ネージュの副官は膝を突いたまま頭を垂れた。


「仮になんだけど、何人かを教師に割り振っても大丈夫かな?」

「性格、能力共に問題ないかと思います」

「良かった」


 クロノは胸を撫で下ろした。

 そろそろ、一期生が卒業を迎える。

 二期生の対応はもちろん、学校制度を広めるためには教員が不可欠だ。


「状況が落ち着いてもいきなりいなくなったりしないよね?」

「ええ、もちろんです」


 ネージュの副官は小さく頷いた。


「……では」


 そう言って、立ち上がる。

 窓から飛び出すのか、一瞬にして姿を消すのか、期待して見ていたのだが、彼女はこともあろうにクロノの脇を擦り抜けようとしたではないか。


「クロノ・チョップ!」

「ひぁっ!」


 避けるかと思いきや、手刀は脳天に直撃した。


「何をなさるのですか?」

「暗殺者なら避けようよ」

「……くっ」


 彼女は悔しそうに呻いた。


「何故、叩いたのですか?」

「どんな風にいなくなるのか期待してたから、ついチョップを」


 彼女は呆れ果てたかのような溜息を吐いた。


「分かりました」


 溜息を吐いた次の瞬間、空気が膨れ上がった。

 衝撃が右腕に走り、刻印が一瞬だけ浮かび上がる。

 右腕を見つめ、顔を上げると、そこには誰もいなかった。


「……千客万来って言えば良いのかな」


 この後も来客の予定はありますが、とクロノは笑った。

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