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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第6部

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第14話『The Return of the Living Dead』修正版



 帝国暦四三三年二月下旬――帝都の北にある墓地は昼なお暗く、陰鬱な雰囲気が漂っていた。

 ロナルドは墓石の代わりに置かれた木の杭や大きな石の間を擦り抜け、盗人が隠れていないか枯れ草を槍で押し退けて確認する。

 どうして、俺がこんなことをしなきゃならねーんだ、とロナルドは心の中で毒づき、小さく溜息を吐いた。

 心の中で毒づいたものの、墓地の見回りが警備兵の仕事であることは分かっている。

 見回りをサボれば墓を暴かれ、金目の物を持ち去られてしまう。

 それだけならまだしも死体を盗んでいくヤツまでいるから堪らない。

 分かっているのだが、こんな寒い日に一人で墓地を見回っていると、自分ばかりが損しているような気分になる。

 ロナルドは立ち止まり、墓地を見渡した。

 この墓地に埋葬されているのは貧民や犯罪者だ。

 もう少し金のあるヤツは南側の陽当たりの良い墓地に、もっと金があれば神殿の墓地に埋葬される。

 貧乏人は生きている時だけではなく、死んでからも苦労するのだから酷い話だ。

 ついでに言えば皮肉な話でもある。

 警備兵は街の住人から嫌われている。

 そんな嫌われ者の警備兵が自分を嫌っていた連中の墓を守っている。

 これが皮肉でなければ何だと言うのか。

 死人に感謝しろと言うつもりはないが、生きている連中には警備兵が頑張っていることを理解して欲しい。


「何だ、ありゃ?」


 ロナルドは目を細めた。

 墓地の奥にある杭が動いている。

 多分、生きたまま埋められた者が這い出そうとしているのだろう。

 杭に駆け寄ると、地面が動いていた。

 生唾を呑み込み、槍を握る手に力を込める。

 とんでもなく悪いことが起きている。

 そんな不安が湧き上がる。

 突然、杭が倒れ、ロナルドは体を強張らせた。

 土を押し退けて這い出してきたのはミノタウルスやリザードマンに匹敵する体躯の持ち主だった。


「……お、おい」


 声を掛けたが、男は四つん這いになったまま動こうとしない。


「じ、じぃな、じぃな」

「お、おい、大丈夫か?」


 ロナルドが恐る恐る近づくと、男は身動ぎした。

 パキンという音が響き、何かが頬にぶつかって地面に落ちた。

 反射的に地面を見ると、指が落ちていた。

 凍った死体は手荒に扱うと折れる。

 そんな知識が脳裏を過ぎる。


「……ゆ、ゆびぃ、おでの、ゆびぃ」


 男は落ちた指を手に取り、元の位置に戻そうとする。

 だが、指は何度押し付けてもくっつかない。

 当たり前だ。

 押し付けたくらいでくっつくのなら医者はいらないし、神威術だって必要ない。

 男が顔を上げる。

 瞳が白く濁っている。

 いや、瞳が白く濁っているのは構わない。

 問題は喉だ。

 喉に大きな穴が空いている。


「じ、じぃぃな、じぃぃぃな」

「待て! お前は混乱しているんだ! 医者を呼んでくるから動くな!」


 ロナルドは男を手で制しながら後退った。

 医者を呼ぶつもりなどない。

 家に帰るつもりだ。

 家に帰ったら浴びるほど酒を飲んで朝まで寝る。

 それでもどうしようもなかったら神殿に行く。

 今だ! と踵を返して全力で地面を蹴った。


「じぃぃぃな、じぃぃぃな、じぃぃぃな!」

「神様! おうちに帰らせて下さい!」


 十メートルも進まない内に足が縺れた。

 無様に転倒し、立ち上がろうとして再び転倒した。

 恐る恐る視線を下ろすと、右足の太股から先がなくなっていた。

 近くに足が転がっている。

 訳が分からない。


「ひぃぃぃっ!」


 血が噴き出し、激痛が思考を千々に引き裂く。

 悲鳴を上げながらも的確に行動した。

 ベルトを外して傷の根元を縛ったのだ。


「……じぃぃぃな、じぃぃぃな!」


 男が恐怖を煽るようにゆっくりと近づいてくる。


「ひ、ひぃぃぃっ!」


 ロナルドは地面を這って逃げようとした。

 だが、逃げられない。

 男がロナルドの足首を掴んでいた。

 男はロナルドを振り上げると地面に叩き付けた。

 骨の砕ける音が内側から響く。

 目の前が真っ赤だ。

 鉄の臭いと味しか感じられない。


「じぃぃぃぃな!」


 男はロナルドを再び地面に叩き付けた。

 何度も地面に叩き付けられ、骨が砕け、内臓が押し潰される。

 これだけの怪力なら、と墓標代わりの杭と石を思い出す。

 杭か、石を投げるだけで足を吹き飛ばせるだろう。

 神様、どうか早く死なせて下さい、とロナルドは祈った。

 まあ、祈りが呪いに変わるまで時間は掛からなかったが……。



 クロノは執務室のイスに座り、ゆっくりと報告書を捲る。

 紙には犯罪件数とその内訳が書かれている。

 犯罪件数は急激に減少した後に横這い、内訳は窃盗が最も高く、傷害が次に高い。

 十二街区の住人は犯罪を行うまでの心理的なハードルが低い傾向にある。

 恐らく、これは警備兵が犯罪者や犯罪組織に買収され、犯罪を見逃してきたせいだろう。

 住人の考え方を変える。

 どれほどの労力を費やさなければならないのか考えただけで気分が滅入る。


「……闘技場が早くオープンしてくれれば良いんだけど」


 クロノは背もたれに寄り掛かり、深々と溜息を吐いた。

 現在、闘技場は裕福な貴族や商人を招待して問題点を洗い出している最中だ。

 個人的にはもう十分なんじゃないかと思うのだが、ニコルは万全を期したいようだ。


「ここが踏ん張り所かな?」


 先の見えない状況は士気を低下させるが、今の状況も危ういと言えば危うい。

 なまじ終わりが見えているだけに緊張感を保つのが難しい。

 ここでミスを犯せばこれまで積み重ねてきたことが無に帰してしまう。

 緊張感を保つアイディアがあれば良いんだけど、と腕を組んだその時、扉を叩く音が響いた。


「……どうぞ」


 扉を開けて部屋に入ってきたのはシロだった。

 今日は非番のはずだが、何かあったのだろうか。

 シロは机から少し離れた場所で立ち止まり、クロノに敬礼した。


「何かあったの?」

『……伝言、預かった。第五街区で会合』(がう、がう)

「他に何か言ってた?」


 シロは首を左右に振った。

 嫌な予感がした。

 と言うのも警備兵長達はクロノに対してあまり好意的ではない。

 わざわざ呼び出すということは猫の手も借りたいような状況に違いない。


「まあ、ここで考えていても仕方がないか」


 クロノは立ち上がり、マントを羽織る。

 シロを見ると、やや俯き加減で力なく尻尾を垂らしていた。

 いつもなら護衛として付いて行くと言い出すのだが、他にも言いたいことがあるのだろう。


「シロ、何か気になることがあるの?」


 クロノが尋ねると、シロは小さく唸った。


「何か気になることがあるなら遠慮なく言ってよ。ここでミスって住人の信用を失いたくないからさ」

『……スノウ』(……ぐるる)


 シロは再び小さく唸った。

 スノウの名を口にしたということは秩序を維持するために仲間を売るような真似をして良いのか悩んでいるのだろう。


「シロ、命令だ。気になっていることを言え」

『スノウ、血の臭い、する』(きゅ~ん)


 シロはしばらく黙った末に口を開いた。


「なかなか反応に困りますな」

『意味、違う』(が~う)


 突っ込まれた。


「いつから?」

『レイラ、倒れた日』(ぐるる)


 それで刺し傷があったのか、とクロノは頷いた。

 ジョニー曰く、ジーナは刃物で刺された後に内臓を掻き回されたらしい。


「……迂闊だったな」


 お母さんと慕うレイラがジーナに脅されていると知れば、苛烈な行動に出ても不思議ではない。

 表沙汰にしたくなくてシロとハイイロ以外に事情を伝えず、養父の力を借りたのだが、裏目に出てしまった。 

 どうするか考えていると、シロが懇願するような目で見つめてきた。


「悪いようにはしないから安心してよ。元はと言えば僕が蒔いた種だし、きちんと収穫するよ」


 シロは安心したように息を吐いた。

 レイラを助けるために動いていたが、事情を知らない部下はクロノが何もしなかったと思うだろう。

 それなのにトラブルを解決しようとしたスノウを処罰したら、信用を失ってしまう。

 落とし所としてはクロノが自分の対応の不手際を認めた上でスノウに軽い罰……たとえば一週間程度の謹慎を課すといった所か。

 クロノは引き出しからシフト表を取り出して溜息を吐いた。


「スノウは日勤か。会合から戻ってから対応するよ」

『俺、部下、抑える』(がう)


 頼むよ、とクロノはシロの肩を叩いた。



 クロノが第五街区の詰め所……臨時の会議室に入ると、第五街区から第十一街区の警備兵長はすでに席に着いていた。

 第一から第四街区の警備責任者の姿はない。

 これは管轄が旧市街と新市街で分けられているからだ。

 空いている席に着くと、第七街区の警備兵長……ファルノスは全員の反応を確認するように視線を巡らせた。

 最年長だからか、彼は進行役を務めることが多い。


「……皆、集まったな。緊急の会合を開いたのは第五街区の警備兵が何者かに殺害されたからだ」


 ファルノスが溜息を吐くように言うと、クロノと第五街区の警備兵長以外は驚いたように息を呑んだ。

 第五街区の警備兵長は顔を青ざめさせている。

 気持ちは分かる。

 部下を失うのは辛いものだ。


「……遺体は」

「待ってくれ、俺が言う」


 第五街区の警備兵長は祈りを捧げるように手を組んだ。

 犯人に対する怒りからか、指先が白くなるほど力を込めている。


「死んだ警備兵……ロナルドの遺体は北の墓地で見つかった。全身の骨を砕かれ、右足を太股の辺りで吹き飛ばされていた」


 そこが限界だったのだろう。


「クソッ、どうして、こんな、こんな死に方をしなきゃならなかったんだ」


 第五街区の警備兵長は顔を覆った。


「……北の墓地か」


 クロノは小さく呟いた。

 北の墓地にはジーナを殺した男……デクを埋葬した。

 デクはジーナだけではなく、酒場の女給を殺害し、首を引き千切っている。

 何となく無関係ではないような気がする。


「エラキス侯爵、何か気になることでも?」

「先日、娼婦を殺害した犯人を北の墓地に埋葬したんです」


 クロノはファルノスに答えた。


「貴様、死人が生き返ってロナルドを殺したとでも言うのか? ふざけるな! こっちは部下を殺されているんだぞ! もっと真剣に考えろ!」


 第五街区の警備兵長はクロノを怒鳴りつけた。


「真面目に考えてます」

「死体が生き返ると考えることがふざけているって言うんだ!」


 クロノが反論すると、第五街区の警備兵長はさらに声を荒らげた。

 この世界には神が実在しているのだから死人が生き返っても不思議ではないような気がする。

 死んだふりをしていた可能性だって否定できない。


「申し訳ありません」

「……いや、こっちこそ済まなかった。部下が殺されて苛々してたんだ」


 クロノが謝罪すると思っていなかったのか、第五街区の警備兵長は弱り切った声音で言った。


「墓荒らしに遭遇して殺されたと考えるべきだろう」


 ファルノスが静かに言うと、警備兵隊長達は困惑に近い表情を浮かべた。

 たかが墓荒らしに全身の骨を砕くことができるのか。

 何故、それだけの力を持っているのに墓荒らしなんて罪を犯すのか疑問に思っているのだろう。


「犯人は必ず捕らえ、極刑に処さねばならない。大変だと思うが、自分達の身を守るためだ。犯人の捜索に全力を尽くして欲しい」


 警備兵長達が静かに頷き、クロノも遅れて頷いた。

 治安維持の最前線に立つ警備兵は敵が多い。

 自分や同僚、家族の身を守るためには警備兵とその関係者に危害を加えたら報復されると認識させる必要がある。


「では、解散!」


 ファルノスが宣言をすると、警備兵長達は無言で部屋を出ていった。

 部屋に残っているのはクロノとファルノスだけだ。


「……かなり意外でした」

「何がですか?」


 ファルノスはクロノに視線を向けた。


「エラキス侯爵はこういうことに興味がないと思っていました」

「普通に話してくれて良いですよ」


 丁寧な言葉遣いは警備兵長としての発言ではないというアピールだろうか。


「正直、エラキス侯爵はこういうことに興味を持っていないと思っていたよ。まあ、死人が生き返ったと真顔で発言するのはどうかと思うが」

「……」

「非難している訳ではないんだ。蛮ぞ……ああ、今はルー族か。連中のことを知る身としてはエラキス侯爵の懸念はよく分かる」


 クロノは軽く目を見開いた。

 刻印を起動させていれば動けなくなるような傷を負っても動ける。

 ファルノスがそれを知っていると思わなかったのだ。


「ファルノスさんはどう考えているんですか?」

「死体が生き返るなんて馬鹿げていると思っているよ。まあ、ルー族が千切れかけた腕で掴み掛かってきた時や内臓を撒き散らしながら襲い掛かってきた時も馬鹿げていると感じたけれどね」


 ファルノスはシニカルな笑みを浮かべた。


「そう考えているのなら皆を説得してくれても良かったんじゃないですか?」

「馬鹿げているってことは有り得ないってことだよ。有り得ないことを前提に犯人を捜してもすぐに行き詰まってしまう」


 それに、とファルノスは言葉を句切った。


「仲間が殺された時には怒りをぶつけられる相手が必要なんだ。想像しやすい敵と言い換えても良い。そうでなきゃモチベーションを維持できない。たとえば、たとえば……」

「……」


 そんな無理に考えなくてもと思ったが、口にはしない。


「エラキス侯爵は逆立ちした全裸の男達が輪になって踊っていると通報があったらどうする?」

「薬でもキメてんのか? と暴言を吐きます」

「そ、そういう対応もありだと思うよ」

「……?」


 何故か、目が泳いでいた。

 もしかしたら、追っ払うとか、小銭を恵んでやるとか、そんな答えを期待していたのかも知れない。


「エラキス侯爵の意見は現実的とは言えない。とは言え、そういうアプローチも必要じゃないかと考えている」

「つまり、死人が生き返った前提で犯人捜しを進めても良いと?」


 ファルノスは口元を隠すように手を組んだ。


「適材適所だよ。ニコル組のように表立って動く犯罪組織はそれほど多くないんだ。我々の方が表立って動かない犯罪組織や犯罪者の捜査に慣れている」

「分かりました。では、第十三近衛騎士団は死人が生き返った前提で捜査を進めます」

「申し訳ないね」

「いえ、こちらこそ」


 クロノは頭を下げ、詰め所を後にした。



 詰め所を出たクロノはクロフォード邸に向かった。

 クロフォード邸の前ではジョニーが箒を手に掃除をしていた。


「兄貴、何か用ッスか?」

「ジョニーが殺した大男の件で聞き込みに来たんだよ」


 気配を察知したのか、ジョニーは驚いた素振りを見せなかった。

 ネージュに短剣を投げつけたり、短剣一つでデクを殺したりと信じられない成長速度だ。


「チッ、この才能マンめ。僕と同じ側だと思ってたのに酷い裏切りだ」

「いきなり舌打ちなんてあんまりッス」


 その割に大してショックを受けていないようだ。


「それで大男の件なんだけど」

「了解ッス。でも、ここで話すのはマズいんで、中で話したいッス」


 屋敷に入り、食堂に移動する。

 どうやら、養父とマイラは留守のようだ。

 そろそろ、南辺境に帰る時期だから挨拶回りでもしているのかも知れない。

 クロノがテーブルに着くと、ジョニーは対面に座った。


「何かあったんスか?」

「もう知ってると思うけど……」

「ああ、警備兵が墓地で殺された件ッスね」


 話が早いのは助かるが、どうやって情報収集を行っているのだろう。

 非合法な手段でないことを祈るばかりだ。


「僕は大男が生き返ったんじゃないかと思ってるんだけど」

「死体がなくなっているからって、発想が飛躍しすぎじゃないッスか?」


 真顔で返された。

 何に腹が立つかと言えば、ファンタジー世界の住人に現実を説かれることほど腹が立つことはない。


「……大男と戦ってる時に気付いたことはない?」

「う~ん、なかなか殺し難かったッスね。羆より手強かったッス」

「羆と戦ったことがあるの?」


 思わず聞き返すと、ジョニーは照れ臭そうに頭を掻いた。


「戦おうと思って戦った訳じゃないッスよ。ナイフを渡されてアレオス山地に放り込まれたッス。聞くも涙、語るも涙ッス」


 その時のことを思い出しているのか、ジョニーは顔を伏せた。


「ああ、暗いッス。暗いッス。目が、ヤツが暗がりから見ているッス! 誰か、誰か助けて欲しいッス! ヤツが来るッス! 朝は、朝はまだッスか! 崖ッス! 崖からワンチャンダイブッス! 枝に掴まれぇぇぇっ! ひぃぃぃぃぃぃっ! 枝が折れたッス! 兄貴、助けてぇぇぇぇっ!」


 ジョニーは頭を掻き毟った直後、スイッチが切り替わったかのように締まりのない笑みを浮かべた。


「教官殿、童貞を捨てさせてくれるなんて嬉しいッス」

「……この野郎」


 やはりと言うべきなのだろうか、ジョニーは何かに怯えているかのような表情を浮かべた。


「な、な、何ッスか? 殺せってどういうことッスか? 童貞を捨てるって、こういう意味ッスか? 盗賊だから大丈夫? 大丈夫じゃないッス! 手を、手を放して……ひぃぃぃぃぃぃっ、あばばばばっ!」


 突然、ガクッと頭を垂れた。


「大丈夫デス。食物連鎖ノ頂点ニ立テレバ、アレオス山地ハ楽シイ所デス。ルー族ノ皆サン、トテモ親切デス。童貞ヲ捨テラレテ幸セデス」

「ジョニー、しっかりしろ!」


 クロノが肩を揺すると、ジョニーは意識を取り戻した。

 どうやら、強くなるまでに壮絶な経験をしたらしい。


「また、発作を起こしたみたいッス」

「発作?」


 それはフラッシュバックではないだろうか。

 だが、それを指摘するのは憚られた。

 と言うか、パンドラの箱を開けたくなかった。


「ヒトは何かの犠牲なしに何かを得ることはできないんだろうか?」

「哲学的ッスね」


 お前のことだよ! と出掛かった言葉を呑み込む。


「話を戻すんだけど、どう殺し難かったの?」

「図体の割にスピードがあって、かなり出血していたのに平気で動いてたッス。仕方がないから首を刺したんスけど、しばらく動いてたッス」


 う~ん、とクロノは呻いた。

 デクの首には傷……殆ど貫通していたので、穴と呼ぶべきかも知れない……があった。

 脊椎を破壊しても動けるのならば墓から這い出して警備兵を殺せそうな気がする。


「素性は分かった?」

「名前と霊廟の建設に携わってたことくらいしか分からないッス」

「新貴族の情報網にも引っ掛からないのか」


 木の股から生まれた訳じゃあるまいし、帝都に来た経緯くらいは分かりそうなものだ。

 嫌な予感がした。



 幽霊屋敷に戻ると、シロがパタパタと尻尾を振りながら出迎えてくれた。

 雰囲気から察するに部下を上手く抑えられたようだ。


『クロノ様、俺、待ってた』(がう)

「……ごめん。事情が変わった」


 クロノは事情を説明した。

 話が進むに連れ、シロの尻尾は力を失っていく。

 最後の方はショボ~ンと垂れ下がっていた。


『死人、甦らない』(がう)

「……そうですか」


 シロにまで否定されると、自分が間違っていたのではないかと不安になる。

 もしかしたら、ファルノスはクロノの体面を慮ってくれただけだったのかも知れない。

 やる気のある馬鹿だと思われていた可能性も否定できない。


「さて、どうしようか?」

『すぐ動く』(がう)


 シロは当然と言わんばかりの態度で言った。


「まあ、そうなんだけどね。問題はどう動くかなんだよね」

『臭い、追う』(がう)


 思わず苦笑する。

 何人体制で捜査に臨むのか、シフトをどう変更すべきか考えていたのだが、難しく考えすぎたらしい。

 死者が甦ったと仮定して動こうというのに普通の捜査をしたら部下が混乱する。


「よし、それで行こう。幸い、スノウが日勤から戻ってくるまで間がある。その間に進められるだけ捜査を進めよう」

『分かった。部下の件、ハイイロに引き継ぐ』(がうがう)

「僕もレイラに殺人の件を伝えておくよ」


 クロノは通信用マジック・アイテムをポーチから取り出した。

 状況に振り回されている感じがするが、今まで完全に戦闘をコントロールできたことなどなかった。


「……無事に済めば良いんだけど」


 無事に戦闘を切り抜けられた経験が殆どないことを思い出して溜息を吐いた。



「……共同墓地か」


 クロノは小さく呟き、周囲を見回した。

 帝都の北にある共同墓地は薄暗く、凍てついていた。

 それは立地によるものではなく、地面を覆う枯れ草や朽ちかけた墓標の醸し出す雰囲気のせいだ。

 死者は忘れられることで二度目の死を迎える。

 誰が最初に言ったのか分からないが、打ち捨てられたような光景を目の当たりにすると的を射ていると思う。


「寂れた墓地で起きた殺人事件か。ホッケーマスクの殺人鬼が出てこなきゃいいけど」

『……ほっけーますく?』(が~う?)


 陥没した地面……デクを埋めた場所だ……の近くで這いつくばっていたシロは振り向き、不思議そうに首を傾げた。


「いや、こっちのこと。仕事を続けて」

『分かった』(がう)


 クロノが言うと、シロは仕事に戻った。

 スプラッター映画だと浮かれた若者が犠牲になる。

 エッチなことをしているカップル、アメフト、もしくはバスケットボールをやっている者は高確率で殺人鬼の餌食になる。

 スポーツ推薦が決まっていたり、父親から車を借りていたりするとアウトだ。

 事件が解決するまで我慢するぞ、と拳を握り締める。

 自分でも下らないことを考えていると思うが、少しでも負傷する可能性を減らせるのならば何にでも縋りたい。

 そんなことを考えていたら、シロがビクッと震えた。

 クロノも釣られてビクッとした。


「どうかした?」

『……臭い』(……がう)


 シロは地面を這って進むと、地面が黒ずんでいた。

 恐らく、ここでロナルドが殺されたのだろう。

 シロはクロノを見上げた。


『クロノ様、間違っていなかった』(がう)

「ほら、僕の言った通りじゃん! 何が死者は甦らないだよ! しっかり生き返ってるじゃん!」

『……俺、酷いこと、言った』(……きゅ~ん)

「し、シロが謝る必要はないんだよ」


 シロが潤んだ瞳で言ったので、慌ててフォローに入る。


「シロのお陰で仮説が証明された訳だし、回り道をせずに済んだことを喜ぶべきではないでしょうか?」

『俺、頑張る』(がう)


 シロは大きく頷くと再び地面を這って進み始めた。


「……これは思っていたより早く決着するのでは?」


 クロノはシロを追いながら呟く。

 密室殺人が起きたらお手上げだった。

 犯人はこの中にいる! と宣言した後、容疑者を一人一人拷も……もとい、尋問することになっていただろう。

 シロは動きを止めると顔を上げた。

 そこには城壁が聳え立っている。

 どうやら、甦ったデクは城壁を登ったようだ。


「登ったの?」


 念のために尋ねると、シロは神妙な面持ちで頷いた。

 ジョニーは殺し難かったと言っていたが、どう考えても殺し難いレベルを超えている。



 スノウは仲間と共に十二街区を巡回していた。

 腐敗臭の漂う路地を見つめ、小さく溜息を吐く。

 一日でも早くエラキス侯爵領に帰りたかった。

 スラムにも、十二街区にも良い思い出がない。

 いや、嫌な思い出が多すぎる。

 たとえば透明な球体があったとする。

 それを古釘や石ころと袋に入れて振ったら、傷だらけになってしまう。

 スラムと十二街区は袋で、住民は古釘や石ころだ。

 傷だらけにされたくなければ古釘や石ころを排除するしかない。

 突然、視界が翳る。

 顔を上げると、大男……ジーナを助けた男が落ちてきた。

 着地と同時に地面が揺れる。

 下から突き上げられるような衝撃に戸惑う。

 周囲にある建物は高くても三階建てだ。

 そこから落下したくらいで地面が激しく揺れるはずがない。

 あまりにも不自然だ。

 いや、不自然というのなら大男自体が不自然だった。

 喉に穴が空き、全身に亀裂が走っているのに平然と動いている。


「炎弾乱舞!」


 スノウは大男と距離を取り、魔術を放った。

 考えても答えは出ないのだ。

 だったら、余計なことを考えずに目の前の出来事に集中した方が良い。

 無数の炎は一直線に突き進み、大男の手前で弾けた。

 まるで見えない壁に阻まれたかのようだ。

 攻撃したせいだろう。

 大男がスノウに向かって足を踏み出した。

 五人の歩兵がすかさず割って入る。

 槍を構えているので、大男を警戒すべきだと考えたようだ。

 仲間の対応が頼もしい。

 大男の体が沈み込む。

 次の瞬間、解き放たれた矢のように加速していた。

 歩兵は槍を構え直す。

 単に突き出したのではなく、石突きを地面に接触させ、つっかえ棒のように槍を固定している。

 大男はスピードを緩めずに槍に突っ込んだ。

 五本の槍が同時にへし折れ、歩兵が吹き飛ばされた。

 矢が背中に突き刺さり、大男は動きを止めた。

 もちろん、ここで手を休めるような弓兵はいない。

 矢が次々と突き刺さり、大男は針鼠のようになっていた。

 そして、何十本目かの矢が弾かれた。

 まるで見えない壁に阻まれたかのように矢が真上に跳ね上がったのだ。

 大男の体が再び沈み込む。

 スノウは殆ど勘で地面を蹴った。

 一度は躱したものの、両腕を広げて追い縋ってきた。


「じ、じぃな! じぃぃな! じぃぃぃな!」

「ボクはジーナじゃない! ジーナはお前が殺しちゃったんじゃないか! 旋舞! 炎弾乱舞!」


 旋風が大男を取り囲むように屹立、さらに炎を取り込む。

 現れたのは炎の渦……アリデッドとデネブが試行錯誤の末に生み出した合成魔術『火焔旋風』だ。

 爆炎舞のような上級魔術には及ばないが、中級の枠を超えた威力を有する。

 次の瞬間、スノウは目を見開いた。

 『火焔旋風』が凍りついたのだ。

 炎が凍りつくなど有り得ない。

 『火焔旋風』が砕け、氷の破片がスノウに降り注ぐ。

 反射的に両腕を交差させ、すぐに自分の失策を悟る。

 大男が間近に迫っていた。

 大男が腕を一閃させる。

 それだけでスノウは吹き飛ばされた。

 攻撃を受けた瞬間、骨の砕ける音が聞こえたような気がした。

 壁に叩き付けられ、地面に落下する。

 激しく咳き込み、血を吐き出す。

 大男がゆっくりと近づいてくる。


「……そう、言えば」


 ジーナって、どんな死に方をしたんだっけ? とスノウは大男を見上げた。



 クロノは民家の屋根に飛び移り、刻印を休眠状態に移行させる。

 次の瞬間、体が急激に重くなった。


「し、シロ、下りて」

『……分かった』(……がう)


 シロはクロノの背中から下りると鼻先を上に向けた。

 こうやって、空気中に漂うデクの臭いを察知しているのだ。

 獣人の嗅覚は人海戦術より頼りになる。

 もっとも、シロは屋根を踏み抜かずに着地する術を持っていないので、クロノが背負って移動しているのだが。

 突然、シロが真横を見る。

 視線の先では炎が渦を巻いていた。


「火災旋風?」


 そんなはずないか、とクロノは頭を振った。

 火災旋風は大規模な火災が起きた時に発生する自然現象だ。

 大規模な火災が起きているようには見えないので、誰かが魔術を使ったと考えるべきだろう。


「何が起きてるんだ?」


 思わず呟く。

 炎が一瞬で氷に変わり、砕け散ったのだ。

 即座に刻印を起動、シロを担いで屋根から屋根に飛び移る。


『クロノ様、下!』(がう!)

「分かってる!」


 屋根から飛び下りる。

 着地と同時にシロを下ろし、視線を巡らせる。

 そこには部下とデクの姿があった。

 どうやら、部下は巡回中にデクと遭遇してしまったようだ。

 デクはスノウの首を掴み、高々と掲げていた。

 クロノがスノウを助けようと駆け出した直後、異変が起きた。

 デクの足が自重に耐えきれなくなったかのように崩れたのだ。

 異変はさらに続いた。

 両腕が肩から抜け落ち、強烈な悪臭を放つ液体が腕や足の断面から流れ出した。

 液状化は急速に進み、後には骨と皮だけが残った。


「……一体、何が?」


 クロノは歩調を緩め、液体を踏まないようにスノウに歩み寄った。

 スノウは呆然としている。


「スノウ?」

「えっと、クロノ様?」


 呼びかけると、スノウは不思議そうに目を瞬かせた。

 状況を理解していないような反応に違和感を覚える。


「大丈夫?」

「どうして、こんな所にいるんだろう? ボクはスラムで……あれ? エラキス侯爵領だっけ? あれ? そっか、ボクは兵士になったんだっけ」


 何をされたのか、スノウはかなり混乱しているようだ。

 ジーナの件は日を改めた方が良いだろう。


「一度、屋敷に戻ろう」

「屋敷?」


 スノウの瞳が忙しく動く。

 何かに怯えているように見える。

 デクと遭遇して深刻なトラウマでも掘り起こされたのだろうか。


「大丈夫だから」

「え? ボクは大丈夫だよ?」


 マズい、話が噛み合っていない。

 クロノは敵意がないと示すために両腕を広げながらスノウに近づいた。

 突然、火花が散り、クロノを包む『場』とスノウを包む何かが一瞬だけ姿を現した。

 吐き気が込み上げる。

 『場』は術者の意志で物理法則を歪められる領域だ。

 理屈的に言えば干渉し合うこともあるだろうし、反発することもあるだろう。

 だったら、この吐き気は何なのだろうか。

 スノウは俯き、荒い呼吸を繰り返している。

 グラリと揺らぐ。

 抱き留めようとした次の瞬間、ナイフが眼前を通り過ぎた。

 スノウがナイフを振り上げたのだ。

 避けられたのは偶然の賜物だ。

 もう一度やれと言われても避ける自信はない。


「痛っ!」


 顎を拭うと、血が手の甲を濡らした。

 どうやら、ナイフを避けきることはできなかったようだ。


『クロノ様!』(がう!)

「シロ、動くな!」


 息を吐き、スノウを見つめる。

 スノウを包んでいるのが『場』なのか分からないが、警戒されているのは間違いない。


「スノウ、落ち着いて。僕は君を傷付けたりなんかしない」

「嘘だ! そんなことを言って、ボクに酷いことをするんだ!」


 スノウの姿が消え、パチッという音が真横から聞こえた。

 勘を頼りに跳び退る。

 自分の勘など信じたくもないのだが、今はそれ以外に頼れる物がない。

 間一髪で真横から飛び掛かってきたスノウを躱す。

 叩き落とせるけど、とクロノは躊躇い、機会を失った。

 だが、スノウは機会を逃すような真似をしない。


「炎弾乱舞、炎弾乱舞、炎弾乱舞……っ!」


 立て続けに魔術を放ち、炎で道を埋め尽くす。

 可燃物がなければ魔術の炎はすぐに消えてしまうが、隙を作るには十分だ。

 スノウはクロノが怯んだ隙に地面を蹴った。

 何らかの術を使っているのだろう。

 近くにあった建物の屋根まで軽々と跳躍する。


「スノウ!」

「疾風舞!」


 クロノはスノウを追って地面を蹴り、真上から吹き下ろす突風によってバランスを崩した。


「炎弾乱舞!」


 炎が降り注ぐ。

 クロノは『場』を強化して攻撃を防いだが、炎が晴れた時、そこにスノウの姿はなかった。



 クロノは黄昏に染まる街を歩く。

 シロには非番の部下を率いてスノウを保護するように命じてある。


「謎の術で生き返った殺人鬼と交戦し、無力化に成功したが、部下の一人が術の影響を受けて錯乱してしまった」


 右手で口元を隠しながらボソボソと呟く。

 スノウが誰かを傷付けてしまった時、この言い訳で納得する者がいるだろうか。

 いっそのこと、ネージュにお願いして事件を揉み消す方向で動いた方が良いかも知れない。

 クロノは詰め所に入り、階段を登る。

 通信指令室の扉を開けると、視線が集中する。

 立ち上がろうとした通信担当を手で制し、レイラに歩み寄る。


「レイラ、スノウは見つかった?」

「いえ、捜索中です」

「分かった。指揮はレイラに任せる」


 どうして、スノウを見つけられないんだろう? と疑問に思いながらイスに腰を下ろした。

 シロが空気中に漂う臭いを頼りにデクを追跡したことを考えると、獣人の追跡を振り切るのは不可能なように思える。

 スノウが獣人の嗅覚を撹乱する方法を知っている可能性はあるが、そんな簡単に撹乱できるのであればあちらの世界で軍用犬や警察犬、麻薬探知犬が誕生することはなかっただろう。


「どうして、見つけられないんだろう?」

「それは彼女が自分の世界に閉じ籠もっているからです」


 自問しただけなのだが、誰かがそれに答える。

 声のした方を見ると、そこには灰色の髪の青年……ネージュ・ヒアデスとヴェルナが立っていた。


「クロノ様、誤解しないでくれよ。あたしはノックすべきだって言ったんだぜ?」

「清々しいほどの裏切りっぷりですね」

「あたしはお前の仲間じゃねーよ」


 ヴェルナは吐き捨てるように言った。


「……いつの間に」


 レイラはネージュとヴェルナを見つめる。

 どうやら、気配を感じなかったらしく、驚いたように目を見開いている。


「何か知っているんですか?」

「実はぶっ!」


 実はぶっ、ではない。

 扉が勢いよく開き、吹っ飛ばされたのだ。

 ビタンという痛々しい音が響いた。


「兄貴のピンチには呼ばれてなくても即参上ッス!」

「……ジョニー」


 この人は本当に凄腕の暗殺者なんだろうか? とクロノは床に倒れ伏すネージュを見下ろした。


「あ、あれ? おかしいですね?」


 ネージュは体を起こすと手の平を見つめた。


「ボケたかな?」

「お前は何歳なんだよ」


 ヴェルナはうんざりしたような口調で言った。

 五十歳を超えているという言葉を信じるのならば加齢による衰えが生じても不思議ではない。

 養父がそうであるようにネージュの全盛期もまた過ぎているのかも知れない。


「で、何か知っているんですか?」

「実は……デクと呼ばれている殺人犯とスノウさんは『死の腕』で訓練を受けていたんです」


 まあ、僕の『死の腕』じゃないんですが、とネージュは言い訳がましく付け加えた。


「どうして、そんなことを知っているんですか?」

「競合しそうな相手は早めに潰しておこうかと思いまして」


 デクとスノウが所属していた『死の腕』を潰したと言うことか。


「反対意見が多かったので、何も知らない構成員はしばらく監視した上で生かすことに決めたんですが、ご覧の有様です」


 ネージュは小さく溜息を吐いた。


「何も知らない?」

「薬物を用いた洗脳はお勧めできないんですけどね。記憶がなくなるだけならまだしも、判断力まで失ったら駒として使えない」


 クロノが問い掛けると、ネージュは軽く肩を竦めた。


「デクが生き返ったのは?」

「魔力を操作して自分の意志が優先される領域を発生させる術のお陰です。まあ、刻印のサポートなしに『場』を発生させるとでも言えば……何ですか? その苦虫を噛み潰したような顔は?」

「いや、だって、そんな便利な術が出てくると、命懸けで刻印術を身に付けた僕の立場がないと言うか」

「いやいや、そんな便利じゃねーよ! あたしだってうっかり命を懸けちまったし!」


 肩を落とすと、ヴェルナが抗議の声を上げた。


「正気を失いかねない激痛に曝されたことは?」

「い、いや、それはねーけど」


 クロノは深々と溜息を吐いた。


「エラキス侯爵の気持ちはさておき、この技術は自分のためだけの世界を創る術な訳でして……」

「あん? あたしはそんな大層な術を教わったのか?」


 今度はネージュが苦虫を噛み潰したような顔をした。


「何だよ、その顔は? あたしは東方から伝わった人間を超えるための技術としか聞かされてねーぞ? つか、名前すら教えて貰ってねーし」

「うっかり過ぎだと思う」

「何も教えてくれなかったんだから、仕方がねーじゃん!」


 クロノが突っ込むと、ヴェルナは声を荒らげた。

 騙したヤツが一番悪いに決まっているのだが、もう少し用心するべきだと思う。


「……クロノ様」

「ごめん、レイラ」


 クロノは居住まいを正し、ネージュを見つめた。


「つまり、デクはその術のお陰で生き返ったと?」

「ええ、そう解釈してくれて構いません。そして、死んだのはスノウさんが領域を消したからです」


 『場』の上位互換ってことか、とクロノは神聖アルゴ王国で串刺しにされたことを思い出しながら腹を撫でた。

 致命傷を負っても死なない。

 そんな無茶を実現できる技術ならば体臭を消したり、拡散したりしないようにすることも容易いだろう。


「スノウに近づいた時、火花が散ったんですけど?」

「それはエラキス侯爵を警戒していたんですよ。誰だって自分の家に素性の分からない相手を通したりしないでしょう?」

「……スノウはクロノ様と良好な関係を築いていたはずですが?」


 レイラは躊躇いがちに言った。


「記憶が戻ったんでしょう。訓練と言っても都合の良い手駒を作る作業ですからね。そんな記憶を思い出したら、他人を信じられなくなるに決まっています」

「……」


 レイラはネージュを見つめた。

 何も言わなかったのは自分がスノウを置いて軍に入隊した負い目からだろうか。


「どうします?」

「スノウを保護します」


 クロノが即答すると、ネージュは意外そうに目を見開いた。


「敵だと思われているかも知れませんよ?」

「大切な部下ですから」


 見ず知らずの相手であれば安全策を採るのだが、相手が部下ならば限界まで……場合によっては限界を踏み越える必要がある。


「そうですか。宜しければ協力しますよ?」

「……宜しくお願いします」


 クロノは軽く頭を下げた。



 スノウはゴミの中で目を覚ました。

 思考は熱に浮かされているかのように胡乱だ。

 夢と現実の区別が付かない。

 幸せな夢を見ていた。

 お母さんと一緒に働く夢だ。

 夢なのだから当然と言えば当然なのだけど、夢に出てきた人達は優しかった。

 そんなことは有り得ないのに、とゴミを押し退け、地面から這い出す。

 街には隠れる場所が沢山ある。

 建物の間にある細い隙間、廃屋、路地裏のゴミ捨て場、厩舎、側溝……今回のように地面に穴を掘り、ゴミを被せるだけで十分な避難場所になる。

 長時間は潜んでいられないが、素人や警備兵を諦めさせるのに十分な時間を稼げる。

 ただし、犯罪組織は話が別だ。

 連中は面子に拘る。

 面子を潰すような真似をすると執拗に追い掛けてくる。

 そんな時は早い段階で殴られるに限る。

 早くても遅くても殴られることに変わりはないのだが、回数や力加減は異なる。

 もっとも、そういう傾向があるだけで相手の虫の居所が悪ければ酷い目に遭うし、打ち所が悪ければ死ぬ。

 そういう世界で生きているのだ。

 お母さんは一人で軍隊に行ってしまった。

 見捨てられた。

 文句を言うのは筋違いだと分かっている。

 誰だって自分が可愛いし、他人に手を差し伸べたら共倒れになる。

 けれど、暴力を振るわれた時やお腹が空いている時、店の手伝いをしたのに約束のお金を貰えなかった時、嫌なことをしてお金を稼いだ時は文句の一つも言いたくなる。


「……月だ」


 満月を見上げて呟く。

 穴に潜んでいる間に夜になってしまったらしい。

 口を押さえて咳き込む。

 手を離すと、手の平が真っ赤に染まっていた。

 慌てて制服で血を拭う。

 全身が熱い。

 心臓がバクバクと鳴っている。


「……怖い」


 血を吐くなんて大事おおごとだ。

 いつの間にこんな怪我をしたのだろう。

 病院に行かなければ死んでしまうかも知れない。

 怪我をしたからには敵がいるはずだ。

 敵を殺してからでなければ安心して病院に行けない。

 そんなことを考えて嗤う。

 やはり、夢と現実の区別が付かなくなっている。

 スラムの住人が病院に行けるはずがない。

 誰を殺せば良いんだろう? と鉄臭い息を吐き、ある人物の存在に思い当たる。

 名前は何だったか。

 容貌も曖昧にしか覚えていない。

 まあ、片っ端から殺していけば問題ないだろう。


「なるほど、掘った穴に隠れてたんスね。道理で手間取るはずッス」

「お前はあたしの後に付いてきただけじゃねーか」


 声のした方を見ると、男と女が近づいてきた。


「誰?」

「久しぶりに会ったからってあんまりッス!」


 男が叫ぶ。

 言われてみれば見覚えがあるような気もするが、忘れているのだから、その程度の付き合いだったということだろう。


「炎弾乱舞!」

「いきなりッスか!」


 魔術を放つが、男はサイドステップを繰り返しながら近づいてきた。

 気が付いた時には間合いを詰められていた。


「歯を食い縛るッス!」


 男が拳を振り下ろす。

 スノウは地面を軽く蹴る。

 宙を舞い、城壁を蹴って、対面にある建物の屋根に着地する。


「逃げられちまったじゃねーか!」

「あんなに高く跳べるなんて想定外ッス!」


 女が宙を舞う。

 どうやら、この女も自分と同じ技術を身に付けているようだ。

 使い慣れていないらしく浮遊に近い。

 当然のことながら相手を待ってやる義理はない。


「炎弾乱舞!」

「弐式魔弾!」


 声が重なる。

 女の魔術……無数に放たれた真紅の礫が炎を迎え撃つ。

 接触した瞬間、炎が爆発的に膨れ上がる。

 魔弾と呼ばれる下級魔術だ。

 魔力の礫を放つ魔術だが、派生術式が多い。

 もっとも、射程が短く、副次効果もないため好んで身に付ける者は少ないが。


「あたしの魔術はどうよ!」


 女は屋根に着地すると誇らしげに胸を張った。

 スノウは心の中で魔弾に対する評価を改める。

 逆に女の評価は下がる。

 ここで魔弾を使うべきではなかった。

 最後の最後まで使わなければ致命的な隙を作り出せたかも知れないのだから。


「逃げるな!」


 スノウが背を向けて走り出すと、案の定、女は追ってきた。

 何も正面から戦う必要はない。

 走り回ってバテた所を仕留めれば良いのだ。


「弐式魔弾!」


 女が魔術を放つが、真紅の礫は虚しく空を切る。

 走りながら撃っているのだ。

 正確な狙撃は望めない。

 場数を踏んでいる相手ならば魔術を牽制に使い、自分の望む場所にスノウを誘導することも可能だろう。

 だが、女からはそんな意思を感じられない。

 正直、行き当たりばったりで行動しているように見える。

 倒れ込むようにして屋根の縁を蹴る。

 体がグンッと加速する。


「炎弾乱舞!」


 スノウは隣の建物に飛び移り、振り向き様に魔術を放った。

 女は宙に浮いている。

 攻撃されると考えていなかったのか、弧を描くような軌道だった。


「に、弐式魔弾!」


 女が慌てて魔術を放つが、判断ミスと言わざるを得ない。

 炎が爆発的に膨れ上がり、女の視界を塞ぐ。

 バテた所を仕留めようと思っていたが、折角、隙を作れたのだ。

 攻めない手はない。


「風刃らん……!」

「させないッスよ!」


 魔術を放つ寸前で男が真横から飛び出してきた。

 どうやって、ここまで距離を詰めたのか。

 今の状態ならば異物の接近に気付かないはずがないのに。

 スノウはまともに男の蹴りを受けて吹っ飛んだ。

 複数の気配を察知して目を細める。

 すると、人影が屋根伝いに近づいてきていた。

 この二人は囮だったのだろうか。

 いや、そんなことを考えている場合ではない。

 包囲される前に逃げるべきだ。

 屋根を蹴った次の瞬間、気配を感じた。

 見上げると、女の姿があった。


「歯を食い縛れ!」


 スノウは歯を食い縛り、拒絶の意思を込めて魔力を強化した。


「肆式魔弾!」

「……っ!」


 衝撃が炸裂、そのまま地面に叩き付けられた。

 激しく咳き込みながら体を起こすと、そこは袋小路だった。



 閃光が頭上で瞬き、スノウが地面に叩き付けられる。

 咳き込みながら体を起こし、視線を巡らせるが、三方は建物によって塞がれている。


「……壁を」


 隣にいたレイラが合図をすると、部下が細い路地から飛び出して板で道を塞ぐ。

 バリケードの完成だ。

 ヴェルナとジョニーを作戦に参加させるのは不安だったが、二人とも首尾よくスノウを追い込んでくれた。


「……上手く追い込めたね」


 クロノは作戦を立てた時のことを思い出して苦笑した。

 作戦はスムーズに決まったのだが、役割を決めるのに時間が掛かった。

 いや、レイラ、シロ、ハイイロを説得するのに時間が掛かったと言うべきか。

 レイラ、シロ、ハイイロは追い込み役にネージュを推したが、クロノはヴェルナとジョニーを推した。

 各方面への根回しや追い込み役のバックアップに人員を借りておきながら何を今更と自分でも思うのだが、ネージュを信用できなかったのだ。

 自分達に被害が及ぶとなればスノウを簡単に切り捨てる。

 そんな疑念を払拭できなかった。

 ネージュの価値観を否定することはできないし、非難することもできない。

 クロノだって自分と他人の部下のどちらかを選ばなければならない局面になれば自分の部下を優先するからだ。

 信用できない相手を作戦の中核に据えることはできない。

 逆にヴェルナとジョニーならば想定外の事態が起きてもギリギリまで粘ってくれると考えたのだ。


「やはり、私が説得した方が……」

「そこは話し合った通りだよ」


 クロノは刻印を起動させた。

 漆黒の輝跡が全身を彩る。

 刻印術があれば多少はスノウの攻撃に耐えられる。


「レイラの出番は僕が動けなくなってからだよ」

「……はい」


 レイラは静かに頷いた。

 試されていると感じているのかも知れない。

 そんなつもりはなかったが、自分の役割を全うできないのであれば文官として働いて貰った方が良いのではないかとも思う。

 クロノは剣帯を外し、そっと地面に置いた。

 場数を踏んでも死に対する恐怖は抑えがたい。

 それでも、初陣の頃に比べれば格段に進歩している。

 あの頃は剣を抜くことさえままならなかったのだから。

 そんなことを考えながらスノウに近づいていく。

 スノウはその場に跪き、威嚇するようにナイフを抜いた。


「近づくな!」

「君を保護しに来たんだ。その証拠に武器は置いてきた」


 クロノは両腕を広げ、武器を持っていないことをアピールした。


「保護なんて嘘だ! そんなことを言って、ボクに酷いことをするんだ!」

「酷いな」


 クロノは小さく息を吐いた。

 スノウがどんな酷いことをされたのか想像するだけで胸が痛んだ。


「お願いだから、僕を信じて」

「嫌だ! 知ってるぞ! 分かってるんだ!」


 スノウは声を荒らげ、ナイフを振り回した。

 しばらくナイフを振り回し、疲れたのか、両腕を力なく垂らした。

 火花がパチパチと散るが、夕方の接触に比べて抵抗は少ないようだ。


「……どうせ、ボクを捨てるんだ」


 スノウは泣きそうな声で言うと頭を垂れた。


「見捨てないよ」

「どうして?」

「……それは」


 問い返され、言葉に詰まった。

 大切な部下だから。

 嘘ではない。

 嘘ではないが……。

 バチッ! という大きな音が聞こえた。


「やっぱり、信じられない!」


 スノウがナイフを突き出し、クロノは咄嗟に体を捻る。

 ナイフを奪い取ろうと手を伸ばして弾かれる。

 爆竹が手の中で爆発したかのような衝撃だ。

 手が痺れる。

 外傷はないので、痺れは一時的なものだろう。

 一方的に弾かれるとか、とクロノは心の中で毒づく。


「止めるんだ!」

「うるさい! ボクのことは放っておいてよ!」


 ドンッ! という音が足下から響く。

 気が付くと、スノウはクロノの脇腹にナイフを突き立てていた。

 刺されたと理解した瞬間、脇腹に熱が生じた。

 熱は激痛に代わり、脳を直撃する。

 スノウがナイフをこじる。


「弐式魔弾!」


 真紅の礫が降り注ぎ、スノウは慌てて跳び退った。

 クロノは『場』で真紅の礫を防いだが、刺されたせいか、目の前がチカチカする。


「兄貴、大丈夫ッスか! 大丈夫そうに見えないッスね!」


 クロノはジョニーの一人漫才を聞きながら気絶した。



 銀光が閃き、金属のぶつかり合う音が響く。

 真紅の光が炸裂し、怒号が飛び交う。

 激痛が脇腹から這い上がり、クロノはスノウの説得に失敗したことを思い出した。

 どうして、言葉に詰まってしまったのだろう。

 スノウは大切な部下だ。

 いや、大切じゃない部下なんて一人もいない。

 まだ、間に合うかな? とクロノは体を起こした。


「……僕に任せてくれれば刺されずに済んだのに」

「クソッ、地獄に落ちた後だったか」

「それはあんまりな台詞です」


 クロノが吐き捨てると、ネージュは引き攣った笑みを浮かべた。


「レイラは?」

「上手くやってますよ」


 出血のせいか、目が霞む。

 目を細めると、レイラは鋭い眼差しで戦闘……ヴェルナ、ジョニー、スノウしか戦っていないが……を見つめていた。

 わずかに視線を上げると、ネージュの部下が屋根の縁に立っていた。

 どうやら、レイラは逃げ道を塞ぎ、スノウを消耗させるつもりのようだ。


「無茶苦茶キツいッス! 立体って何スか!」

「愚痴ってる暇があるなら攻撃を続けろよ! あたし一人じゃ押し切られるぞ!」


 ジョニーが泣き言を言い、ヴェルナが悲鳴じみた声を上げる。

 スノウは二人を翻弄している。

 三方を塞ぐ建物を利用して立体的に動いている。

 敏捷性が劣っているからか、ヴェルナは同じ戦法を取れないでいるようだ。

 リオに協力して貰えば良かったかな、とクロノは痛みを堪えて立ち上がる。

 気配を察知したのか、レイラは振り返り、驚いたように目を見開く。


「クロノ様、すぐに医者が来ます。だから、動かないで下さい」


 休んでいて下さいではない。

 そんなに深いのだろうか、とクロノは体を見下ろし、慌てて視線を逸らした。

 見ない方が良い。

 見たら動けなくなりそうだ。


「まだ、本心を伝えてなくてね」


 クロノは鉄臭い息を吐き、スノウを見つめた。


「ジョニー、ヴェルナ、下がれ!」

「分かったッス!」

「合わせろよ! タイミングが合わなくて刺されるなんて嫌だぜ!」


 ジョニーとヴェルナは同時にスノウから離れた。

 それにしても、ジョニーはどういう理屈でスノウに対抗していたのだろう。


「スノウ、もう止めるんだ」

「う、うるさい! 敵は殺す! 殺さなきゃ、ボクが酷い目に遭うんだ!」


 クロノは先程と同じように両腕を広げてスノウに歩み寄る。


「僕は敵じゃない! スノウに酷いこともしない!」

「嘘だ! 殺さなきゃ、殺さないと、全部なくなっちゃうんだ!」


 ああ、とクロノは声を漏らした。

 きっと、スノウにとって世界はそういうものなのだろう。


「だから、殺す! 殺すんだ!」


 突然、スノウの姿が消える。


「兄貴! 首ッス!」


 ジョニーの声を聞いて首を傾ける。

 肩が灼熱し、血が噴き出す。

 振り返ってもそこにスノウの姿はない。

 視線を巡らせ、壁に張り付いたスノウを発見する。

 スノウが壁を蹴る。

 もう片方の肩が灼熱する。

 微かな音を頼りにスノウを追うが、姿を捕らえることができない。


「兄貴、すぐに助けるッス!」

「来るな、ジョニー!」


 叫んだものの、ジョニーを見る余裕はない。


「死んじゃえ! 死んじゃえ!」

「……っ!」


 スノウらしきものが通り過ぎるたびに血が噴き出す。

 まるで檻に閉じ込められたみたいだ。

 視界がチカチカする。

 全身が熱い。


「死んじゃえ!」

「兄貴! 正面ッス!」


 刻印を起動し、『場』を最大まで強化する。

 激しい火花が散り、スノウが姿を現す。

 肩を掴むと、スノウは潤んだ瞳でクロノを見上げた。


「は、放せ!」

「魔弾!」


 スノウがナイフを振り上げた次の瞬間、真紅の礫が刃を半ばからへし折った。

 ヴェルナが魔術を放ったのだ。


「放せ、放せ、放してよ!」


 スノウが泣き喚く。

 だが、抵抗の意志を捨てていないらしく、火花がパチパチと散っている。


「……僕は」


 不意に足から力が抜け、クロノはスノウに寄り掛かるようにその場に跪いた。


「僕は嫌だ」

「え?」


 スノウは驚いたように目を見開いた。


「スノウに人を殺して欲しくないんだ」

「……っ!」


 クロノは指揮官で、スノウは兵士だ。

 自分でも矛盾していると思う。


「だ、だって、ボクは……」

「それでも、嫌なんだ」


 スノウみたいな子に人を殺して欲しくない。

 他人を傷つけるのが当然みたいな価値観に染まって欲しくない。

 矛盾している上、偽善的だ。

 けれど、本当の気持ちだ。

 スノウの頭を撫で、地面に倒れた。


「クロノ様?」


 見上げると、スノウが今にも泣き出しそうな顔をしていた。



 目を覚ますと、そこは屋敷の寝室だった。

 体が怠く、頭がボーッとする。

 視線のみを動かして周囲の様子を確認する。

 ベッドの傍らに女が座っていた。

 垂れ目がちで何処か眠そうな感じがする。

 顔立ちは童顔気味なのだが、飾り気のないローブに包まれた肢体は肉惑的だった。


「あらあら、目が覚めたのですね?」


 女は胸の前で手を合わせると口元を綻ばせた。


「貴方は?」

「申し遅れました。第十近衛騎士団の団長を務めるナム・コルヌと申します」


 失礼します、と女……ナム・コルヌは身を乗り出した。

 胸が揺れる。

 胸を見ていることに気付いているのかいないのか、柔らかな笑みを浮かべたままクロノの額に触れる。


「少し熱があるようですね。神威術で熱を下げて差し上げたいのですが……」


 ナムは申し訳なさそうに眉根を寄せた。


「傷を治してくれただけで十分です。あまりお願いしすぎると、神様も面白くないでしょうし」

「面白いことを仰るんですね」


 ナムはイスに座り、クスクスと笑った。

 ただし、目は笑っていない。

 値踏みするような目でクロノを見ている。


「もう大丈夫だと思いますが、あまり無理をなさらないで下さい」


 ナムはゆっくりと立ち上がった。

 やや前傾になって立ち上がったせいでまたしても胸が揺れた。

 何か企んでいるのではないか。

 そう感じてしまうのはクロノの心が汚れているからだろう。


「明日も参りますが、何かあれば呼んで下さい」


 そう言って、ナムは寝室から出て行った。


「……寝るか」


 目を閉じたその時、キィという音が聞こえた。

 ナムが戻ってきたのかと思い、目を開ける。

 すると、スノウが扉の隙間からクロノを見つめていた。


「クロノ様、寝てた?」

「スノウは大丈夫なの?」


 うん! とスノウは元気に頷き、寝室に入ってきた。

 保護した後の対応を決めていなかったとは言え、拘束しないのは問題があるのではないだろうか。

 そんな疑問が一瞬だけ脳裏を掠める。

 スノウはベッドの傍らに立ち、申し訳なさそうに俯いた。


「クロノ様、ごめんなさい」

「謝罪の言葉で済ませられないのが指揮官の辛い所だね」


 クロノは苦笑した。


「痛い?」

「と言うよりも怠い」


 ナムは熱を下げられるようなことを言っていたが、神威術に頼り切って寿命を縮めたくない。

 スノウはベッドに上がるとクロノに跨がった。


「どうして、跨がるんですか?」

「クロノ様って、時々、丁寧な言葉遣いになるよね」


 スノウは不思議そうに首を傾げた。


「すみません。かなり疲れてるんで勘弁して貰えませんか?」


 チェッ、とスノウは可愛らしく舌打ちしてクロノから下りた。


「いつなら良いの?」

「しばらくご遠慮願います」


 スノウは不満そうに唇を尖らせた。


「まあ、良いや。抜け駆けしたくないし」


 スーとエリルの姿が脳裏を掠めたが、クロノは何も言わなかった。


「じゃあね、クロノ様」

「お休みなさい」


 スノウが寝室から出て行くのを見届けてから目を閉じる。

 エラキス侯爵領に戻ったら凄いことになりそうだが、考えないことにした。

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