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クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです  作者: サイトウアユム
第6部

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第13話『過去』修正



 帝国暦四三三年二月上旬――マズいと思った時には手遅れだった。

 ジーナは男に突き飛ばされて尻もちをついた。

 下腹部から這い上がる鈍痛に小さく呻く。

 男は驚いたような表情を浮かべていた。

 十二街区の暗がりで街娼に付き纏われ、酒の勢いもあって手を出した。

 珍しくもない話だ。

 むしろ、街娼を突き飛ばして驚いたような表情を浮かべる方が珍しい。

 ジーナは内心ほくそ笑んだ。

 金を使い果たして困っていた所にカモがやってきた。

 これで宿代を確保できる。


「……ああ、痛い」


 そう言って、下腹部を押さえる。

 痛いのは事実だが、半分は演技だ。

 痛がって見せれば金を出すと考えたのだ。

 ったく、普段は勝手に血が出るのに肝心な時に出やしない、と心の中で吐き捨てる。

 血が出れば金をせしめる確率が上がったのに残念でならない。


「……何をしているのですか?」


 ジーナが口を開こうとしたその時、凜とした声が響いた。

 声の主は女兵士……銀髪のエルフだ。

 ハーフエルフだろうか。

 黒い軍服に身を包み、鎧を着た獣人を従えている。

 最近、十二街区を警備するようになった兵士だ。

 折角のチャンスだってのにしゃしゃり出てくるんじゃないよ、とそんな台詞が喉元まで迫り上がる。

 十二街区の警備兵が入れ替わったのは一月下旬のことだ。

 何でも十三番目の近衛騎士団らしい。

 連中の評判は悪くない。

 賄賂を受け取らず、公平に犯罪者を捕まえるからだ。

 しかし、ジーナは嫌いだった。

 どんな些細な問題……口喧嘩であっても首を突っ込んでくるのだ。

 たかが口喧嘩で拘束され、細かな事情を聞かれる。

 それだけ稼ぎが少なくなるというのにお構いなしだ。

 十二街区には十二街区のルールがある。

 それなのに他所から来た連中が我が物顔で自分のルールを押し付ける。

 ジーナはそれが気に入らなかった。


「何をしているのですか?」

「……実は」


 銀髪のエルフが再び問い掛けると、男は明らかに安心した様子で事情を説明した。

 酒を飲んで歩いていたら声を掛けられ、あまりしつこいのでつい手が出てしまった。

 正直に話した方がダメージは少ないと考えたようだ。


「……そうですか」


 銀髪のエルフは難しそうに眉根を寄せた。

 詰め所に連行するべきか厳重注意で終わらせるべきか決めかねているのだろう。

 前者の場合、ジーナも連行される可能性が高い。

 そうなったら金を稼げなくなる。


「ケガなんざしてないよ! とっとと行っちまいな!」


 そう言うと、銀髪のエルフが二言三言声を掛けると、男は背中を丸めてその場から立ち去った。


「大丈夫ですか?」

「ああ、尻を打っただけだよ」


 銀髪のエルフが気遣うように手を差し伸べてきたが、ジーナは自力で立ち上がった。

 手を払い除けてやろうかとも思ったが、相手は警備兵だ。

 手を借りないことで不満を表明するしかない。

 それにしても気にくわない女だ。

 亜人のくせに髪には艶があり、清潔感のある格好をしている。

 香油か、香水を使っているのだろう。

 ラベンダーの香りまで漂ってくる。


「何を見ているんだいっ?」

「……もしかして、ジーナですか?」


 ジーナが声を荒らげて言うと、銀髪のエルフは自信なさそうに言った。

 不意にある人物を思い出したが、記憶にある人物と銀髪のエルフは一致しない。

 あの女は薄汚れた格好をしていたし、陰気な顔をしていた。


「……レイラかい?」

「そうです」


 銀髪のエルフ……いや、ハーフエルフのレイラは頷いた。

 久しぶりの再会を祝うような気分にはなれなかった。

 それどころか怒りが込み上げてくる。

 こっちは今日の宿代にも困るような有様なのにレイラはラベンダーの香りを漂わせているのだ。

 きっと、軍隊に入って馬鹿な貴族を誑し込んだのだろう。

 無愛想なレイラに誑し込まれるくらいだからオツムの程度は知れているが、そんな馬鹿が相手なら大して苦労しなかったはずだ。

 ますます気に入らない。

 綺麗な格好も、艶のある髪も、憐れむような視線も、何もかも気にいらなかった。

 どれほどの違いが同じスラムで育った自分達にあるというのか。

 違いがあるとすれば運だけだ。

 運が良かっただけのくせに憐れむような視線でジーナを見ている。

 いや、見下しているのだ。


「……ジーナ、これを」


 レイラはジーナの手首を掴むと二枚の銀貨を手に載せた。

 何のつもりだ? と問い質すまでもない。

 施しだ。

 銀貨二枚程度なら恵んでやれる。

 それだけの立場にあるのだと言いたいのだろう。

 この銀貨を叩き返せればどんなに気持ち良いだろう。

 だが、銀貨を叩き返したら宿を追い出される。

 そうなれば凍死する確率が上がる。

 強盗に襲われる確率も上がる。

 プライドよりも金を取るしかない。


「あ、ありがとう」

「……いえ」


 震える声で礼を言うと、レイラは小さく頭を振った。

 腸が煮えくりかえるとはこのことか。

 見下し、勝ち誇り、プライドまで踏み付けた。


「では、失礼します」


 レイラはジーナの横を通り過ぎた。

 唇を噛み締める。

 鉄臭い味が口に広がる。

 血の味ではない。

 敗北の味だった。



 二日後、ジーナは十二街区を歩いていた。

 太陽は大きく傾いている。

 普段は陽が沈んでしばらくしてから動き出す。

 暗がりならば多少は外見を誤魔化せるし、酔っ払って判断力を低下させている男に買って貰えるかも知れない。

 もっとも、後者はあまり期待できない。

 十二街区の酒場では女給が娼婦を兼ねているからだ。

 こんな時間に十二街区を歩いているのはレイラを探すためだった。

 貰った銀貨は手元にない。

 宿代を払った後、酒場に繰り出したせいだった。

 むしゃくしゃして酒に頼らざるを得なかったのだ。

 久しぶりに飲んだ酒は美味かった。

 気分が良かったので、意気投合した男に酒を奢ってやった。

 ただでやらせてやろうと思ったのだが、下腹部の痛みが酷くて断念せざるを得なかった。


「……施しのつもりならもっと寄越せってんだ」


 ジーナは小さく吐き捨て、口角を吊り上げた。

 レイラにとって銀貨二枚は大した出費ではない。

 余裕がなければ他人に施そうという発想は出てこないし、自分を犠牲にして他人に施しをするヤツなどいない。

 少なくともジーナはそう考える。

 しばらくしてレイラを見つけた。

 そこは四つの街区を隔てる十字路だった。

 大声で名前を呼ぼうとしたが、できなかった。

 レイラは男に付き従っていた。

 マントを羽織った男だ。

 顔立ちはあどけないが、大きな傷が右目を縦断するように走っている。

 思わず、唇を噛み締める。

 二人はくすぐったそうに笑っている。

 二人の関係が利害ではなく、愛情によるものだと分かってしまった。

 ジーナは踵を返して走り出した。

 鈍痛が下腹部から這い上がる。

 通行人が奇異の視線を向けてくる。

 だが、構わずに足を動かし続けた。

 細い路地に倒れ込み、荒い呼吸を繰り返した。

 畜生、畜生っ! と地面を叩く。

 どうして、自分がここまで落ちぶれてしまったのにレイラは幸せなのか。

 同じように底辺を這いずり、惨めさを味わってきたのにあまりにも不公平だ。

 ああ、そういうことか、とジーナは嗤った。

 レイラは自分がどんな風に生きてきたかを教えていないのだ。

 仮に教えていたとしても自分に都合が良いように事実を歪めているのだ。

 あの男がレイラの過去を知ったらどうなるだろう。

 考えるまでもない。

 レイラを捨てるに決まっている。


「……単に教えるだけじゃつまらないねぇ」


 あの男に秘密をばらしてやると脅したらどうだろうか。

 きっと、黙っていてくれと懇願するに違いない。

 搾り取るだけ搾り取って秘密をばらしてやる。

 滅茶苦茶にして自分が何なのか思い出させてやる。

 ジーナは天を仰ぎ、狂ったように笑った。



 レイラは湯浴みと食事を終え、クロノと共に屋敷を出た。

 目的地は十二街区の西にあるニコル組の拠点だ。

 尚書局から汚職に関わった役人を追放し、貧民救済の予算を確保するために違法賭博を合法化したとは言え、クロノにはやらなければならないことが多い。

 ピスケ伯爵に報告したり、警備兵長の会合に参加したり、顔見せに行ったりしている。

 クロノは適当な理由を作って顔見せに行っている。

 最初はそこまでする必要があるのかと疑問に思ったが、ピクス商会のニコラも同じようなことをしていたことを考えると、信頼関係を醸成するには頻繁に顔を合わせることが必要になるのだろう。

 クロノが忙しければ次席のレイラも忙しくなる。

 いや、自分でクロノに付き添うという仕事を増やしてしまったと言うべきか。

 十二街区に足を踏み入れ、しばらくすると視線を感じた。

 視線のみを動かして周囲を確認する。

 そして、建物の陰に隠れるジーナを見つけた。

 何を考えているのか、ジーナは笑みを浮かべていた。

 嫌な予感がする。

 いや、それは確信に近かった。


「どうかしたの?」

「……クロノ様、申し訳ありません。用事を思い出しました。すぐに追い掛けるので、先に行って頂けませんか?」


 クロノは軽く目を見開き、考え込むような素振りを見せた。

 不審がられることをしてしまっただろうか。

 心臓の鼓動が早まる。


「分かった。ニコル組には顔見せに行くだけだから長引きそうだったら先に戻ってね」

「かしこまりました」


 クロノは背を向けた。

 レイラは遠ざかっていく背中を見ながら胸を撫で下ろした。

 ジーナの方を見ると、こっちに来いと指で合図された。

 仕方がなく付いて行った先は路地裏だった。

 まだ昼なのに薄暗く、建物が左右から迫ってくるような感覚を覚える。

 それだけではなく、吐瀉物や排泄物、腐敗臭の入り混じった悪臭が漂っている。

 正直、長居をしたくない。

 ジーナは裏路地の中程まで進むとレイラに向き直った。


「……ジーナ、何の用ですか?」

「それくらい見当が付くだろう?」


 ジーナはいやらしい笑みを浮かべた。


「見当も付きません」

「ハッ、小賢しいね。じゃあ、言ってやるよ」


 ジーナは醜く顔を歪めた。

 もちろん、何を言われるかは分かっている。

 金をせびろうとしているのだ。

 だが、相手のペースに乗るつもりはなかった。


「銀貨を使い果たしちまってね。お優しいレイラ様に恵んで頂こうかと思ったのさ」

「……」


 レイラはジーナを睨み付けた。

 だが、胸にあるのは怒りや憎しみではなく、悲しみだった。

 どうして、自分達はこんな風になってしまったのだろう。

 何がジーナを歪めてしまったのだろう。

 いや、分かっている。

 ジーナの申し出を断った時に自分達の道は分かれ、過酷な経験がジーナを変えてしまった。


「お金を渡すことはできません」

「何を言ってるんだい! アンタは貴族の愛人だろう!」

「私はあの人からお金を受け取っていません」


 レイラはクロノの名を伏せた。

 調べれば分かってしまうだろうが、わざわざ教えてやる義理はない。


「じゃあ、そういうことにしてやるよ。けど、金はあるんだろ?」

「答えるつもりはありません。さようなら、ジーナ。もう二度と私の前に現れないで下さい」


 レイラは踵を返した。

 冷淡な対応だと思うが、筋の通らない金を渡せば延々と付き纏われてしまう。

 銀貨を渡すべきではなかった。


「ハハッ、これを見てもそんなことが言えるのかい?」

「……」


 足を止めて肩越しに背後を見る。

 すると、ジーナは薄汚れた布を取り出した。

 棒状の物を包んでいるようだ。

 布を解くと、泥に塗れたナイフが出てきた。

 全身が総毛立ち、ジーナに向き直る。


「見覚えがあるだろ?」

「……ま、まさか」


 心臓の鼓動が跳ね上がる。

 あるはずない。

 アレは母の遺体と共に埋めた。

 アレを見つめるためには……、


「墓を曝いたのですかっ?」


 レイラは声を荒らげた。

 視界がチカチカする。

 短剣を抜き放ち、ジーナの喉を切り裂かなかったのは奇跡に近い。


「アンタが殺したんだろ?」

「違う!」


 反射的に叫ぶ。


「知ってるんだよ? アンタの母親は客を取れなくなってた。腹が石のように硬くなってね。アンタは病気の母親を養ってやらなきゃいけなくなった」


 ジーナはナイフを弄びながら言った。


「怖い女だね。昔から冷淡な女だと思ってたけど、まさか、自分の負担を減らすために母親を殺しちまうとはね」

「違う違う違う!」


 レイラは耳を塞ぎ、必死に否定した。

 違う。

 本当に殺していない。

 確かに母は客を取れなくなっていた。

 負担が大きかったのは事実だ。


「そんなことを誰が信じるんだい!」

「違う!」


 違う、違うんです、とレイラは繰り返した。


「アンタを囲ってる貴族も信じてくれると良いね?」

「……あ、あの人は」


 信じてくれる。

 信じてくれるはずだ。

 でも、本当に信じてくれるだろうか。

 壊れる。幸せが壊れてしまう。

 そう意識した瞬間、レイラは嘔吐していた。

 胃がひっくり返りそうだ。

 レイラは涙で滲む視界でジーナを見つめた。


「……どうすれば良いか分かるだろ?」


 ジーナの声は優しかった。

 きっと、悪魔はこういう風に囁くのだろう。



「アハハッ、乾ぱ~い!」


 ジーナが木製のジョッキを高々と掲げると、対面の席に座る二人の男は遠慮がちにジョッキを掲げた。

 二人と出会ったのは数分前のことだ。

 名前も、素性も知らない。

 一人はこれと言った特徴のない中肉中背の男、もう一人は吃音持ちの巨漢だった。

 共通点はどちらも金に困ってそうな所だろうか。

 場末の酒場に相応しいと言えば相応しい人種だ。


「ありがとよ」

「お、おで、嬉しいだ」

「良いんだよ、あたしが寂しかっただけなんだから」


 ジーナは鷹揚に頷いて酒を呷った。

 大麦酒(ビール)を中程まで飲んでジョッキから口を離す。

 先日は小便を飲んだ方がマシだと思ったが、今日は違う。

 あまりの美味さに笑みが零れる。

 残る半分を飲み干し、さらに口角を吊り上げる。

 レイラの表情は最高だった。

 五枚しか銀貨を手に入れられなかったが、あの絶望に彩られた表情を思い出すだけでえも言われぬ快感が全身を駆け巡る。

 それにしても本当に殺していたとはねぇ、と目を細める。

 レイラの母親が病気で客を取れなくなったことは知っていたが、それ以外はカマをかけた。

 レイラが墓から掘り出してきたと勘違いしたナイフも適当に泥を塗っただけの代物だ。

 もし、ナイフが本物だったとしてもレイラが母親を殺した証拠にはならないのだからシラを切れば良かったのに自分から罪を認めてしまった。

 馬鹿な女だ。

 その馬鹿さ加減が愛おしく感じるほどだ。


「もう一杯、いや、三杯持ってきておくれ!」


 ジーナが叫ぶと、女給は木製のジョッキ三つと料理をテーブルに置いた。

 無愛想な女給だった。

 顔は雀斑だらけ、スタイルはあまり良くない。

 それなのに中肉中背の男は舐めるような視線を女給に向けていた。

 男は女給がテーブルから離れても未練がましく尻を見ている。

 思わず、舌打ちしそうになった。

 折角、こっちが酒を奢ってやっているのに感謝もせずに女に色目を使ってやがるのだ。

 面白くないことこの上ない。


「アンタ、溜まってるのかい?」

「……ああ」


 ジーナが身を乗り出して言うと、男はしばらく躊躇った後で頷いた。

 取り繕ったつもりだろうが、視線はジーナの胸に釘付けだった。

 その反応に少しだけ溜飲が下がる。


「あたしが抜いてやるよ」

「良いのか?」


 男は生唾を飲み込んだ。


「おでも、おでも」

「二番目に相手をしてやるよ。もちろん、金はいらないよ」


 巨漢はだらしなく相好を崩した。

 頭は弱そうだが、可愛いヤツだ。


「アンタは運が良いよ。これでも、昔は高級娼館で働いていたんだ。一回くらいは見たことがあるだろ? 大きな看板のある店さ」

「……ああ、そいつは良いな」


 男は居心地が悪そうにしていた。

 もう頭の中でジーナを抱いているのかも知れない。


「二階を借りるよ!」

「一番手前の部屋を使え」


 カウンターの内側にいた店主は指を二本立てた。

 二枚の銅貨を手渡すと、店主は燭台を差し出してきた。

 ジーナは店の壁から蝋燭を拝借して燭台に突き刺した。

 男と共に階段を登り、部屋の扉を開ける。

 部屋には布の敷かれたベッドと木箱があるだけだった。

 木箱に燭台を置くと、男は擦り寄ってきた。


「ちゃんと抜いてやるから焦るんじゃないよ」

「……ああ」


 男は荒い呼吸を繰り返しながらジーナから離れた。

 ジーナは男の情欲を煽るようにゆっくりと下着を脱いだ。

 その時、ドロリとした感触が太股に伝った。

 しばらくしてポタ、ポタという音が響いた。

 男が息を呑む音がはっきりと聞こえた。


「……アンタ、病気か?」

「ちょいとケガをしてるだけだよ」

「……帰る」

「血は苦手かい? じゃあ、口でしてやるよ」


 男は忌ま忌ましそうに舌打ちした。

 その態度に怒りが込み上げる。


「何様のつもりだい? さっきまでアンタはその気だったじゃないか!」

「ふざけるな! 病気持ちなんか抱けるかよ!」


 ジーナが怒鳴ると、男は苛立ったように怒鳴り返してきた。


「あたしは病気じゃない!」

「言ってろ!」


 男は踵を返すと荒々しい足取りで部屋を出て行った。


「ふざけるんじゃないよ、この野郎! 本当ならあたしはアンタ程度が抱ける女じゃないんだ!」


 ジーナは大声で叫び、その場に座り込んだ。

 涙が零れてきた。

 惨めだ。

 どうして、こんな惨めな目に遭わなければならないのか。

 きっと、自分の幸福は子どもと一緒に掻き出されてしまったのだ。


「ああっ、畜生っ!」


 不意にレイラのことを思い出して頭を掻き毟る。

 今頃、あいつは貴族の男に抱かれているに違いない。


「……お、おでの番」


 顔を上げると、巨漢が廊下からこちらを見つめていた。

 ははは、とジーナは力なく笑った。

 笑うしかなかった。

 ようやく自覚した。

 もう自分は二度と浮き上がれない。

 浮き上がるどころか沈む一方だろう。

 この体を買おうという男はもういないのだから。


「こんな体で良けりゃ抱かせてやるよ。とっととズボンを下ろしな」


 巨漢はズボンに手を掛けながら近づいてきた。


「……そうだ」


 名案が閃いた。

 どう足掻いても浮き上がれないのならレイラも沈めてやろう。

 最底辺まで沈めば昔のように仲良くなれるはずだ。


「そう言えばアンタの名前を聞いてなかったね」

「お、おで、デク」


 そうかい、とジーナは嗤った。



 ジーナは二、三日おきに金を無心してきた。

 二、三日というのはあくまで目安だ。

 金を渡した翌日に無心してくることもあった。

 生活を立て直せるだけの金を渡せば満足するかも知れない。

 そんなこと有り得ないと思いながらも淡い期待を抱いていた。

 だが、渡した銀貨の枚数が二十枚を超える頃にはジーナが決して満足しないと確信した。

 ジーナは生活を立て直すつもりがないようだった。

 服の汚れは目立たなくなったが、その代わりに酒の臭いを漂わせるようになった。

 渡した金は酒代に消えているのだろう。

 だが、生活を改めるように諭すことなどできるはずがない。

 ジーナの要求に応えている内に少しずつ感覚が鈍っていった。

 目に見えるものは鮮やかさを失い、音はくぐもって聞こえるようになった。

 何かを食べても砂を食んでいるように味気ない。

 思考も胡乱だった。

 どうして、こんなことになってしまったのか。

 どうすればこの状況から抜け出すことができるのか、と胡乱な思考で考える。

 それでも、表面上は何事もないように動けているようだった。

 スラムで襲われた時やエラキス侯爵に呼び出された時と一緒だ。

 心を切り離してしまえば殴られても、罵られても傷付かない。

 クロノに出会うまでそうやって生きてきたのだ。

 一人になった時に涙が零れることを除けば自己制御は完璧だった。


「……あ」


 レイラは財布の中身を確認し、小さく呟いた。

 財布の中には真鍮貨一枚すら入っていなかった。

 それで我に返ってしまった。

 クロノに言えば貸してくれるだろう。

 だが、そんなことをすれば何に使うのか聞き返されるに決まっている。


「……ああ、私は」


 レイラは喘いだ。

 金策をしようにも手は限られている。

 絶望感が押し寄せてくる。

 クロノの傍にいられなくなる。

 どうして、こんなことになってしまったのか。

 それは自分の過去をクロノに隠したせいだ。

 自分の過去に今の幸せを壊されてしまった。

 どうすればこの状況から抜け出せるのか。

 ああ、簡単だ。

 クロノに本当のことを打ち明ければ良いのだ。


「……クロノ様」


 レイラは我が身を掻き抱き、涙に濡れた声で呟いた。



 ジーナは一気に大麦酒を飲み干し、ジョッキをテーブルに叩き付けた。

 すると、対面に座っていたデクは怯えたように体を竦ませた。

 何もかも面白くなかった。

 あれほど絶望感に溢れた表情を見せてくれたのに今のレイラは人形のようだ。

 よくよく思い出してみれば昔からそういう所があった。

 抵抗しても無駄だと分かった途端、抵抗を止めるのだ。

 まるで人形だ。

 目の前にいるデクもそうだ。

 どいつも、こいつも気に入らない。

 この酒場も気に入らない。

 いつも悪臭が漂っているし、テーブルはベトベトする。

 酒も、料理も不味い。

 本当に不味い酒だ。

 水で薄めているのか、幾ら飲んでもちっとも酔いが回らない。

 女給も最悪だ。

 デカい胸しか取り柄がないくせに男からチヤホヤされているのだ。


「酒だよ! とっとと酒を持ってきな!」


 ジーナは叫んだが、女給は他の客と話していてこちらを見ようともしなかった。


「酒だって言ってるだろ!」

「何すんのよ!」


 ジョッキを投げつけると、女給は声を荒らげた。


「酒って言ってるだろ! こっちは客だよ!」

「私は仕事をしてるのよ! アンタばかりに構っていられないわ!」

「ハッ、男に色目を使ってるだけじゃないか!」

「うっさい!」


 女給は殴りかかってきたが、客の一人が押し留める。

 顔を真っ赤にして怒る姿を見て溜飲が下がる。


「病気持ちのくせに客面すんな!」

「あたしは病気じゃない!」

「病気じゃないなら何だってのよ! 腐った血だか、肉みたいな物を撒き散らして! 臭いのよ、アンタ達がベッドを使った後は! 掃除をさせられるこっちの身にもなれっての!」


 女給は捲し立てるように言った。

 客達がざわめく。

 そそくさと店から出て行く客までいた。


「あたしは娼館で働いてたんだ! お前とは格が違うんだよ!」

「今はただの浮浪者でしょうが!」

「このクソガキィィィっ!」

「止めろ!」


 ジーナが女給に飛び掛かろうとしたその時、店主の怒声が響き渡った。


「すまないが、店から出て行ってくれ」

「こっちは客だよ! これまで幾ら金を使ったと思ってるんだい!」


 店主は力なく首を振った。


「確かにアンタには稼がせて貰った。ヤバい客でも大人しくしてくれるなら、客として扱うのも吝かじゃない。けどな、揉め事を起こすんなら出て行ってくれ」

「ヤバい? あたしがヤバい客だって?」


 店主は力なく頭を振った。


「アンタの格好を見りゃ、ヤバいことして金を稼いでるって学のない俺だって分かる」

「これは知り合いから貰った金だよ!」

「知り合いから貰ったかどうかは関係ないんだ。俺がアンタに関わってたらヤバい目に遭うって判断した。それだけの話なんだ」


 ジーナは唇を噛み締めた。


「お代はいらないから帰ってくれ」

「……畜生、覚えてやがれ」


 ジーナは捨て台詞を吐いて、酒場から飛び出した。

 しばらく走ると吐き気が込み上げてきた。

 路地裏に駆け込んで吐瀉物をぶち撒ける。


「どうしてだい?」


 どうして、自分がこんな目に遭っているのか分からなかった。

 金があれば相手にしてくれると思ったのに邪魔者扱いだ。

 どうして、どうして、とジーナは呟き続けた。



 ポタ、ポタという音がする。

 ジーナが目を覚ますと、そこは安宿の一室だった。

 薄汚れたベッドと小さな桶があるだけの粗末な宿だ。

 体を起こして音のした方を見ると、上半身裸のデクが立っていた。

 デクは布に包まれた何かを手に持っていた。

 どうやら、音はそこから生じているようだった。


「アンタ、何を持ってきたんだい?」

「……おで、頑張った」


 デクは何かを突き出した。

 布が解け、球体が転がり落ちた。


「ヒィィィィッ!」


 ジーナは悲鳴を上げた。

 球体は人間……女給の頭だった。


「ち、畜生! どうして、こんな真似をしたんだい?」

「よ、喜んで欲しくて」

「ふざけんな、このクソ野郎!」


 ジーナはデクを怒鳴りつけた。


「能なしが余計なことしやがって! これじゃ、あたしまで犯人扱いされちまうじゃないか!」

「……お、おでは」

「出てけ! とっとと出てけ!」


 ジーナが喚き散らすと、デクは慌てふためいた様子で部屋から出て行った。

 女給が恨めしそうに見つめている。


「クソッ、クソッ! どうして、あたしがこんな目に遭うんだい!」


 シラを切ろうにもデクと出歩いている所を見られている。

 帝都にいたら捕まるのは時間の問題だ。


「こうなりゃ何処かに逃げるしかない! そうだ、金は!」


 ジーナは枕の下から財布を取り出した。

 逆さに振ると、銅貨が数枚出てきた。


「昨日貰ったばかりなのに……クソッ、デクの野郎! 何処まであたしの足を引っ張りゃ気が済むんだい!」


 いや、と頭を振った。

 もう一つ財布が残っている。

 レイラだ。

 これで最後だと言えばレイラは喜んで金を出すだろう。


「……そうだ。もう二度と会えないんだから最後にプレゼントをやらなくちゃね」


 クククッ、とジーナは喉を鳴らした。



 レイラは昼食を終えると屋敷を抜け出した。

 ジーナの姿を求めて十二街区を彷徨う。

 宿を把握しておくべきだったと思うが、あの時はそんなことを考える余裕がなかった。

 一時間ほど歩くと、運良くジーナを見つけた。

 もしかしたら、ジーナもレイラを探していたのかも知れない。

 ジーナはレイラに気付くと付いてこいと言うように手招きした。

 断るという選択肢はなかった。

 レイラはジーナの後を追う。

 第十二街区の細い路地を通り、大きい通りを横切り、帝都を囲む城壁に近づいていく。

 城壁の亀裂を通り抜ける。

 スラムの住人はこの亀裂を通って帝都に侵入する。

 金を稼いだり、食料や物資を買ったりするためだ。

 亀裂を抜けると、腐った泥の臭いが押し寄せてきた。

 少し離れた場所には家……今にも倒壊しそうな小屋が互いにもたれ掛かるように建ち並んでいる。

 住人は小屋の前で洗濯をしたり、体を洗ったりしていた。

 そのせいで地面は泥濘んでいて、歩くと足を取られそうになる。

 ジーナは構わずに歩を進めた。

 スラムの道は入り組み、行き止まりも多い。

 行き当たりばったりで小屋を建てているのだから当然と言えば当然だ。

 強姦や殺人は日常的に行われる一方で商売を行っている者がいたり、小屋を貸すことで利益を得ている者がいたりする。

 ジーナは足を止め、ゆっくりと振り返った。

 三方を小屋に囲まれたそこはレイラの所属していたチームが集まっていた場所だった。

 仕事に出ているのか、他のチームに潰されてしまったのか誰もいない。


「レイラ、早く金を出しな」

「……」


 レイラはゆっくりと財布を取り出した。

 ジーナは財布を奪い取ると、逆さに振った。

 だが、何回振っても金は出て来ない。


「金、金はどうしたんだい!」

「お金はもうありません」

「ふ、ふざけるな!」


 ジーナは顔を真っ赤に染め、レイラの胸倉を掴んだ。


「纏まった金が必要なんだよ! あの男から金を貰ってきな!」

「できません」

「何ができないんだ! 股を広げて、アンアン喘いで、ちょっと金に困ってるって言えば済む話じゃないか! その程度のことがどうしてできないんだい!」


 レイラが答えると、ジーナは激しく揺さぶってきた。


「この役立たずが!」


 レイラはジーナに突き飛ばされた。

 泥に足を取られて尻餅をつく。

 ジーナの爪先が鳩尾に突き刺さる。

 予想外の攻撃に激しく噎せ返り、さらに蹴られる。


「ふ、ふざけやがって! ふざけやがって! ハーフエルフ如きが! お前なんざ人間にも、エルフにもなれない半端者だろ! 母親の腹から運良く引きずり出されなかっただけのくせしやがって、あたしを見下してんじゃないよ!」


 気が済んだのか、ジーナは蹴るのを止めた。

 レイラはゆっくりと体を起こした。

 血が額から流れ落ちて目に入る。

 全身が熱い。

 口の中が鉄臭い。


「これっきりにしてやろうと思ったけど、アンタがそのつもりならこっちにだって考えがあるんだよ! 出てきな!」


 ジーナが叫ぶと、三人の男が小屋から出てきた。

 一目で何日も体を洗ってないと知れる格好をしている。


「感動の対面だ? 覚えてるだろ?」

「……っ!」


 レイラは息を呑んだ。

 奥歯がぶつかり合ってガチガチと鳴る。

 そんなはずない。

 そんなはずないと思う。


「数年ぶりにアンタの具合を確かめたいんだと」

「……っ!」


 レイラは地面を這って逃げたが、すぐに捕まった。


「ははっ! 捕まえた!」

「上を向かせろ! 顔をよく見たい!」


 男は力任せにレイラに上を向かせる。

 男を押し退けようと両腕を突き出すが、自分でも情けなくなるほど力が出なかった。

 涙が出てきた。

 軍に入って力を付けたはずだ。

 クロノに操を立てると決めた。

 他の男に犯されるくらいなら死を選ぶ。

 その覚悟だってあったはずだ。

 あの覚悟は何処に消えてしまったのだろう。


「……ノ様、クロノ様! クロノ様!」


 堪らずに叫ぶ。


「呼んだって誰も来やしねーよ!」

「ハハハッ! クロノって言うのかい? 終わったら詰め所に投げ込んでやるからね! クロノ様とやらに対する言い訳を考えておきな!」


 ジーナが狂ったように笑った。


「あのさ……なに、人の女に手を出してるの?」

「あ?」


 ゾッとするほど冷たい声が舞い降り、レイラを押さえていた男は体を起こした。

 影がレイラの上を通過し、男の胸に突き刺さる。

 ただの蹴り。

 だが、そこに込められた力はどれほどのものだったのか。

 胸を蹴られた男は宙を舞い、小屋の壁に頭から突っ込んだ。

 男を蹴ったのはクロノだった。

 漆黒の輝きが蛮族の戦化粧のように体を彩っている。

 残る二人は慌ててレイラ、いや、クロノから離れた。


「……どうして、ここに?」


 レイラは体を起こしてクロノを見上げた。

 しかし、クロノは前を見据えたまま答えない。


「そりゃあ、兄貴の目は節穴じゃないってことッス!」


 何処に隠れていたのか、ジョニーはレイラの肩に触れる。


「ま、追って来れたのは情報網のお陰ッスけど」

「……気付いてたのなら、どうして?」

「自分が出張ったらレイラさんを困らせることになるんじゃないかって兄貴の優しさっす!」

「ジョニー、黙ってろ」

「了解ッス!」


 クロノが唸るような低い声で言うと、ジョニーは胸を叩いた。

 もしかしたら、敬礼のつもりなのかも知れない。


「あ、相手は一人だよ!」


 二人の男はナイフを抜いた。


「……殺しておくか」


 クロノは面倒臭そうに言った。

 すると、クロノの影がゆっくりと上に伸びる。

 グネグネと伸びるそれは触手のようだ。


「や、やってられるか!」

「俺もだ!」


 一人がナイフを捨てると、もう一人もそれに倣った。

 二人はクロノの脇を擦り抜けて逃げようとしたが、無様に転倒した。

 クロノの影に足を取られたのだ。

 ふぅ、とクロノが深々と溜息を吐く。

 骨の折れる音が響く。

 恐らく、クロノの影が二人の骨を折ったのだろう。


「ひぃぃぃぃ!」

「く、クソッ!」


 影が二人の体に巻き付き、何かが軋むような音が響く。

 クロノが二人を潰して殺そうとしている。

 それも表情を変えずに。


「た、助けてくれ! 俺は強姦なんてしてねぇよ!」

「お、俺もだ! 口裏を合わせるように頼まれたんだよ! 嘘じゃねぇ!」

「だから?」


 クロノは溜息交じりに言った。

 二人の体が軋む音はどんどん強くなっていく。


「た、助けて下さい! 罪を償います!」

「ごめんなさい、ごめんなさい! お願いします! 命だけは助けて!」


 二人が必死に命乞いをしても、クロノは影を消そうとしない。

 命乞いが聞こえなくなった頃、影が消えた。


「助けちゃうんスか?」

「すぐに死んだ方がマシだったって言い出すよ」

「流石、兄貴ッス!」


 クロノは溜息を吐き、ジーナを見つめた。


「アンタ、レイラがどんな女か知ってるのかい?」

「……や、止めて下さい」


 レイラは哀願した。

 スラムにいた頃の話は知られたくない。

 どんな人生を歩んできたかは自分が一番よく知っている。

 虚像に過ぎなくてもクロノに綺麗な自分を見せたかった。


「止めて、止めて下さい、ジーナ!」

「そいつはね! 何度も強姦されてるんだよ! いや、襲われると、痛い目を見るのは損とばかりに抵抗を止めちまうのさ!」


 レイラは顔を覆った。


「……で?」


 思わず、クロノを見上げた。


「こ、こいつはどうだい? その女はこのナイフで実の母親を刺し殺したんだ!」

「だから?」


 ジーナは泥に塗れたナイフを突き出して叫んだが、クロノは興味なさそうにしている。


「母親を刺し殺したんだよ? 働けなくなった母親を足手纏いだから殺したんだ! 鬼みたいな女じゃないか?」

「鬼みたいな女かどうかは僕が決めることだし、僕は初対面の相手の言葉を鵜呑みにするほど馬鹿じゃないよ」


 クロノがうんざりしたように言うと、ジーナは陸に打ち上げられた魚のように口を開けたり閉じたりした。


「クロノ様!」

「ごめん、もう少し早く動くべきだった」


 クロノは跪くとレイラを優しく抱き締めた。

 涙が溢れる。

 どうして、クロノに捨てられると思ったのだろう。

 この人はこんなに自分のことを慮ってくれるのに。


「あーっ、クソクソクソッ! この茶番は何だい! アンタは都合の良い女が欲しかっただけだろ? 偶々、近くにあったから使ったんだろ!」

「兄貴、初対面なのに酷い言われようッスね」


 ジョニーが呆れたように言った。


「……ジーナ、さんだっけ? さっきからレイラを貶めようとしてるけど、レイラを貶めてもジーナさんはそのままだよ?」

「う、うるさいんだよ! 苦労知らずのクソガキがっ!」


 ジーナは叫ぶと泥に塗れたナイフをクロノに投げつけた。

 だが、ナイフは虚空で止まった。

 ジョニーが二本の指でナイフを摘まんだのだ。

 かつて、クロノに股間を一撃されて悶絶したとは思えない動きだった。


「ああ、これが母殺しのナイフッスね」


 ジョニーはナイフをしげしげと見つめた。


「このナイフは使われたことがないッスね」

「嘘を吐くんじゃないよ!」

「嘘ッスよ? でも、どうして、嘘って分かるんスか? 掘り出してきたナイフなら使われたか、使われてないかなんて分からないじゃないッスか? つか、墓を曝いてナイフが出てきただけなのに刺し殺したって分かるのも変ッス。首を締めて殺したかも知れないッスよ?」


 ジョニーが捲し立てるように言うと、ジーナは顔を真っ赤にして押し黙った。


「大人しく罪を認めた方が身のためッスよ?」

「クソッ!」


 ジーナは踵を返すと小屋の隙間に滑り込んだ。

 それがこの場所を集合場所にした理由だった。

 一見すると逃げ場がないが、隙間が幾つもあるのだ。

 さらにその先は道が入り組んでいて迷路のようになっている。


「兄貴、俺に任せて欲しいッス!」


 ジョニーはそう言うと屋根に飛び乗った。

 ナイフを空中で摘まんだこともそうだが、しばらく会わない内に随分と成長したようだ。


「クロノ様?」

「帰ろ」


 クロノはレイラを軽々と抱き上げた。


「一人で立てます!」

「僕がこうしたいんだよ。帰ったら傷の手当てもしないとね」


 レイラは小さく頷き、クロノに身を寄せた。



「クソッ、クソッ! どうして、こんな目に!」


 ジーナはスラムの入り組んだ道を走った。

 どうして、自分がこんな目に遭っているのか分からなかった。

 幸せになるために体を売った。

 生意気な新入りをいびり殺したこともあるし、ライバルを陥れたこともある。

 幸せになるために何でもやった。

 貴族に気に入られてようやく幸せになれると思った矢先、子どもを掻き出された。

 そんな真似しなくても金を支払ってくれれば堕胎に応じてやった。

 貴族の愛人としてそれなりに扱ってくれれば満足だった。

 何もかも失ってしまった。

 デクが女給を殺したせいで帝都にいられなくなった。

 捕まったらレイラを脅した罪だけではなく、女給を殺した罪まで被せられるかも知れない。

 クロノという男はそれくらいのことを平然とやるだろう。

 幾つ目かの路地を曲がったその時、人影が見えた。

 流行病にでも罹っているのか、頭から布を被っている。


「そこを退きな!」


 布を被った人物はフラリとジーナに近寄ってきた。

 そして、熱が下腹部に生じた。

 熱は痛みに変わり、ジーナは転倒した。

 布を被った人物はジーナを見下ろしている。

 子どものようだ。

 何処かで見たような顔だが、誰だか思い出せない。


「ぐ、ぎぃぃぃっ! ち、畜生っ! 何をするんだい!」

「……お母さんをイジめたな」


 その言葉で誰かを思い出した。

 スノウだ。

 レイラといつも一緒にいたハーフエルフの子どもだった。


「そ、そんなつもりじゃなかったんだよ!」

「……」


 ジーナが手を上げると、スノウはナイフを一閃させた。

 左手の指が三本地面に落ちた。


「誰か! 誰か!」


 地面を這って逃げようとしたが、今度は熱が背中に発生する。

 ナイフがグチャグチャと肉と内臓を掻き回している。


「死んじゃえ、バーカ!」

「ヒィィィィッ!」


 ジーナが悲鳴を上げた次の瞬間、小屋が爆発した。

 スノウは吹き飛ばされ、ゴロゴロと地面を転がった。


「……た、助ける」

「で、デク!」


 小屋を吹き飛ばしたのはデクだったようだ。

 救い主の登場に思わず笑みが零れる。

 デクはジーナを抱き上げると走り出した。



「あれだけ大見得を切って見失っちゃったッス」


 ジョニーは立ち止まると周囲を見回した。

 周囲には何もない。

 帝都のシルエットが見える程度だ。


「……ん、あれは人ッスかね?」


 大きな木の下に人影が見えたような気がした。

 ジョニーは腰の短剣に触れながら人影に近づいた。

 距離が近づくにつれて詳細が明らかになる。

 人影は男だった。

 ミノタウルスやリザードマンのように大きい。


「ちょっと物を尋ねたいんスけど?」

「お、おで、忙しい」

「見れば分かるッス」


 判断に迷うッスね、とジョニーは男を見つめた。

 男は女の死体を弄んでいる。

 多少は痛い目に遭わせなければと思っていたのだが、苦痛に歪んだ顔や血に塗れた体、あらぬ方向を向いている四肢を見ると、これほど悲惨な死に方をするほど罪を犯しただろうかと思えてくる。


「う~ん、まあ、殺人犯を放置するのも問題ッスかね?」


 帝国一の短剣使いになる男として戦わなければなるまい。



「……ここは?」


 レイラはぼんやりと天井を見上げた。

 ベッドに横たわっていることは分かるが、そこに至るまでの記憶が抜け落ちている。


「……クロノ様に抱き上げられて」


 体を起こすと、体のあちこちが痛んだ。

 締め付けられている感覚があるので、治療は済んでいるようだ。


「目が覚めた?」

「クロノ様!」


 横を見ると、クロノがベッドの傍らにあるイスに座っていた。


「私はどれくらい眠っていたのでしょうか?」

「丸一日、よっぽど疲れてたんだね。シロが代わってくれたからシフトのことは心配しなくて良いよ」


 クロノは立ち上がると、レイラの肩を優しく押した。

 すぐにでも通信指令室に行きたかったが、クロノの言葉に甘える。


「ジーナはどうなったのですか?」

「……殺されてたよ」


 クロノは溜息を吐くように言った。


「遺体は損傷が激しかったからもう埋葬して、犯人はジョニーが始末した」

「そうですか」


 今度はレイラが溜息を吐く番だった。

 自分達は何処で間違ってしまったのか。


「クロノ様、私の話を聞いて頂けませんか?」

「お母さんのこと?」


 レイラは頷き、ゆっくりと母親のことを話し始めた。

 母親が街娼であったこと。

 一番古い記憶は母親が春をひさいでいる姿だったこと。

 それでも、優しかったこと。

 自分のことも包み隠さずに話した。

 スラムでの生活やチームのこと。

 何をして、何をされたのかも。

 母親が体調を崩して客を取れなくなったことも。


「……私はそんな母を疎ましく思いました」


 レイラは唇を噛み締めた。

 病気の母親を支えるために人生を費やさなければならない。

 それが堪らなく恐ろしかった。


「ある日、家に帰ると、母はナイフを喉に突き立てて死んでいました」


 血で染まった小屋と母親のことを思い出す。

 首に刻まれた傷を見れば死を恐れていたことが分かる。

 にもかかわらず、ナイフを喉に突き立てた。


「……母は笑っていました」


 最期まで優しい母親のままだった。

 優しい母親のまま逝った。


「……私は酷い女です」


 視界が涙で滲んだ。

 ジーナの言う通り、鬼のような女だ。

 何処までも自分勝手な女だ。

 母親を殺した。

 罪を犯しながらその事実を隠して愛人の座に納まった。

 自分の幸せを求めた。


「……神官さんと前に話したんだけど」


 しばらくしてベッドが沈み込む。

 クロノがベッドに座ったのだろう。


「神官さん曰く、人間……ヒトの愛は関係性の中でしか成立しない不完全なものなんだってさ」


 クロノはレイラの額に手を載せた。


「けど、愛情の不完全さはそれだけじゃないと思う。もし、好きな人が死んだら、僕は後悔する。あれができなかった、これができなかった。どうして、生きている時にやれることをしてやれなかったんだろうって」


 ヒトの愛は関係性の中でしか成り立たず、ヒトはその不完全な愛を全うすることさえできない。


「僕はレイラがお母さんのことを愛してたから後悔してるんじゃないかと思う」

「でも、私は母を疎んでいて……」

「ずっと、疎んでいた訳じゃないよね? 自分を責める気持ちは分かるけど、レイラがお母さんを好きだったことまで否定しちゃ駄目だよ」


 クロノの言葉は不思議と胸に染み入った。

 もっとも、それで後悔の念が消えた訳ではないのだけれど。

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