第10話『再会』
※
帝国暦四三三年一月下旬……クロノは箱馬車から降り、感嘆の息を漏らした。
そこは帝都の第一街区……旧貴族の中でも家格の高い者達が屋敷を構える一等地だ。
名門貴族に相応しい豪邸が建ち並び、石畳で舗装された道にはゴミ一つ落ちていない。
道路には照明用マジック・アイテムを用いた街灯まで設置されている。
照明用のマジック・アイテムはマジック・アイテムの中では安い部類だが、一つの街区を賄うだけの数を揃えるとなれば話は別だ。
どれほどの費用が掛かっているのか見当も付かない。
まさか、第一街区に宿泊施設を用意してくれるなんて、とクロノは目の前にある屋敷を見つめた。
帝都に来たら泊まる場所がありませんでした、なんてことにならないようにピスケ伯爵に宿泊施設の手配を依頼しておいたのだ。
もちろん、便宜を図って貰うために贈り物を送るのを忘れなかった。
とは言え、目の前にある屋敷は周囲の豪邸に比べるとかなり見劣りする。
長い間、誰も住んでいなかったのだろう。
かつて、屋敷の住人や訪問者の目を愉しませたはずの広い庭園は荒れ果て、四季の変化を間近で感じるために設けられたはずの東屋は蔦で覆われている。
季節のせいか、荒廃した印象をより強く受ける。
荒れ果てた庭園の奥にある三階建ての屋敷もかつては周囲の豪邸に同等か、それ以上の威容を誇っていたのだろう。
だが、今は漆喰があちこち剥がれ、見るも無惨な有様だ。
かなり老朽化が進んでいると考えて良いだろう。
それでも、クロノはピスケ伯爵を恨んだりしなかった。
むしろ、あの程度の贈り物でよくぞここまでやってくれたと称賛したい気分だった。
それにしても場違い感が半端ないな~、とクロノは箱馬車の後ろに連なる幌馬車を見つめた。
十人乗りの幌馬車が全部で十二台ある。
幌馬車も箱馬車と同じように足回りを改良してある。
他にも簡単に幌をできるように工夫がなされている。
このお陰で部下の疲労は軽減されているはずである。
今回帝都に連れてきた部下はレイラ、シロ、ハイイロを含めて百二十三名だ。
帝都で暮らしていたということでスノウも連れてきた。
この百二十三名を三つのグループに分け、四勤二休二交替……日勤、もしくは夜勤で四日働き、二日休んだ後に日勤だった者は夜勤に、夜勤だった者は日勤に変更となる。
あとはこれを繰り返す……のシフトで警備を行うつもりだ。
錆びた門の前には二人の兵士が立っていた。
中年と青年の二人組だ。
黒い軍服を着ている点を鑑みるに帝都の警備兵のようだ。
クロノが突っ立っていると、二人の兵士は目配せをした。
そして、青年が意を決したように口を開いた。
「……失礼ですが、エラキス侯爵でしょうか?」
「あ、はい、そうです」
青年は驚いたように目を見開いた。
「失礼しました。ピスケ伯爵からクロノ様が到着されたら鍵を渡すように命令を受けております」
「あ、どうも」
クロノは軽く頭を下げながら青年から鍵の束を受け取った。
本人確認しなくても良いのか疑問に思ったが、クロノが着ているのは第十三近衛騎士団専用の軍服だ。
大勢の部下まで引き連れている。
特徴もあるからかな? とクロノは右目の傷を撫でた。
そんなことを考えていると、二人の兵士はクロノに敬礼して去って行った。
どうやら、二人が命じられたのは鍵の受け渡しだけのようだ。
クロノが肩越しに背後を見ると、レイラが馬車から降りてくる所だった。
レイラはクロノの隣で立ち止まった。
「……クロノ様、この後のご予定は?」
「ん~、軍務局で着任の手続きをして、その後で新兵訓練所にヴェルナやシャウラの様子を見に行って、最後に父さんに挨拶かな?」
そう言って、クロノはレイラを見つめた。
本当は付いて来て欲しいが、少し休息を取らせるべきかも知れない。
二日前からだろうか。
話しかけても上の空だったり、普段ならばやらないような小さなミスをしたりと調子を崩しているように見える。
もしかしたら、過去のトラウマが不調の原因なのかも知れない。
以前、帝都を訪れた時は何もなかったが、今回の任務は治安回復だ。
任務の性質上、昔の知り合いと顔を合わせることもあるだろう。
そうなればレイラは否応なく過去と向き合うことになる。
志願してくれたとは言え、もっと深く考えるべきだった。
「クロノ様、私は大丈夫です」
レイラはクロノの胸中を察したように言った。
こういう時、長い付き合いは厄介だ。
心を見透かされる。
「……分かった。でも、何かあったら必ず言って欲しいんだ。これは上司としてじゃなくて、僕個人からのお願い」
「分かりました」
レイラは静かに頷いた。
「僕とレイラは城に行く! シロ、ハイイロ、荷物を屋敷に運び込んで!」
クロノが叫ぶと、シロとハイイロは幌馬車から飛び降りた。
※
クロノとレイラは箱馬車に乗り、アルフィルク城に向かった。
帝都の中央に位置するアルフィルク城は高い城壁と深い堀に囲まれている。
箱馬車が止まると、レイラはクロノより早く馬車から降りた。
クロノの手を煩わせないようにという配慮だろう。
そこまで気を遣わなくて良いのに、とクロノは箱馬車から降りた。
箱馬車が止まっているのは跳ね橋の前だ。
跳ね橋の両端には二人の騎士が槍を片手に立っていた。
騎士と言っても、板金鎧は着ていない。
代わりにその身を包むのは近衛騎士の証である白い軍服だ。
城の警備は第九近衛騎士団が担当していると聞いたことがある。
恐らく、二人の騎士は第九近衛騎士団に所属しているのだろう。
「第十三近衛騎士団のクロノです。着任の手続きに来ました」
「「はっ! クロノ様、お疲れ様です」」
二人の騎士は背筋を伸ばすとクロノに敬礼した。
教本に載せたくなるくらい見事な敬礼だ。
リオは敬礼の練習をさせたりしないだろうから、きっと、リオの副官が敬礼の練習をさせたのだろう。
「……クロノ様」
騎士の一人が一瞬だけレイラに視線を向ける。
亜人が城に入るのは認められていないと言いたいのだろう。
「彼女は僕の補佐で士爵位を持つ歴とした貴族です」
「「……」」
二人の騎士は無言で顔を見合わせた。
クロノが知る限り、亜人は城に入ってはならないという規則はない。
慣習、もしくは暗黙の了解と言うべき決まり事だ。
二人がどんな対応をするのか見守っていると、不意に視界が翳った。
「何をしているんだ、貴様ら」
重圧感のある声が背後から響く。
振り返ると、そこにはエルナト伯爵の息子……ガウルが立っていた。
相変わらず、体が大きい。
だが、その身を包むのは白い制服ではなく、黒い制服だ。
クロノは戸惑った。
ガウルが少年を伴っていることも理由の一つだが、雰囲気が柔らかくなっていたからだ。
ガウルはレイラと門番を交互に見つめ、状況を理解したと言わんばかりに軽く溜息を吐いた。
「第十三近衛騎士団の団長が団員と共に登城しただけだ。通しても問題ないだろう」
「「はっ!」」
二人の騎士はガウルに敬礼した。
どうやら、ガウルの発言は二人の騎士にとって渡りに船だったようだ。
「行くぞ」
クロノは肩で風を切って歩くガウルを慌てて追った。
跳ね橋を渡ると、それは箱馬車が辛うじて通れる程度の通路だ。
ふと見上げると、天井に細長い隙間があった。
壁にも小さな穴が沢山ある。
「……ここは守りの要だ。当然、あちこちに仕掛けがある」
「なるほど」
ガウルは独り言のように言った。
有事の際は上から格子や煮えた油が落ちてきたり、横から槍が飛び出してきたりするのだろう。
城門を抜けた先は城だ。
無計画に増改築したのか、あるいは敵が攻め込んできた時に戦力を分散させるためか、城壁の内側は複雑な造りをしている。
にもかかわらず、ガウルは迷うことなく進んでいく。
「ところで、僕が何処に行きたいか分かってる?」
「ピスケ伯爵の所だろう。その後は軍務局で着任の手続きと言った所か」
「よく迷わないね」
「誰かのお陰で何度も足を運んでいるからな」
ふ~ん、とクロノは適当に相槌を打った。
もちろん、演技だ。
何を言っても責められるような気がしたのだ。
「決闘だ!」
そんな物騒な言葉が聞こえたのは庭園を貫くように造られた通路を歩いている時だった。
決闘? と声のした方を見ると、白い軍服を着た男と赤毛の男が睨み合っていた。
赤毛の男も白い軍服を着ているのだが、近衛騎士らしくなかった。
髪を逆立て、軍服を着崩している。
目付きは悪く、獰猛な笑みを浮かべているが、かなり整った顔立ちだ。
ともすれば着崩した軍服がファッションに見えてしまうほどだ。
もう一人は……まあ、何と言うか、特徴らしい特徴がない。
それでも、クロノより背が高く、ガッシリした体付きをしている。
「ああ、二人とも決闘なんて止めて!」
痴話喧嘩か、とクロノは二人の間でオロオロする女官を見ながら結論づけた。
チッ、とガウルは不快そうに舌打ちした。
「知り合い?」
「赤毛の方は、な。あの男はロイ・アクベンス伯爵……第四近衛騎士団の団長だ」
ガウルは吐き捨てるように言った。
「何かあったの?」
「登城するたびに決闘している姿を見せられれば舌打ちの一つや二つしたくなる」
「僕はてっきりボロ負けしたことがあるとばかり」
「ボロ負けはしていない! 次は勝つ!」
クロノが軽口を叩くと、ガウルはムキになって言った。
そんな会話をしている間に決闘は始まっていた。
「……危なっかしい戦い方」
クロノは赤毛の男……ロイの戦い方を見ながら呟いた。
ロイは剣さえ抜いていない。
その上、相手の攻撃をギリギリで躱すのだ。
見切って躱していると言うより自分の命を危険に晒すことを愉しんでいるような戦い方だ。
だが、攻撃を躱している内にロイの動きがより速く、より洗練されたものに変わる。
同時に表情も変わる。
「飽きたのかな?」
「分かるか?」
「そりゃ、まあ、顔を見れば」
ロイの顔は先程まで愉悦に彩られていたが、今は落胆に近い色を帯びている。
ロイは擦れ違い様、剣を振り上げる。
斬ったのは薄皮一枚と言った所か。
まだまだ戦えそうな……養父ならば戦いを強要してくるレベルのケガだ。
だが、
「あぐ、がぁぁぁぁぁっ!」
斬られた男は大袈裟に叫んで剣を落とした。
そして、手を切り落とされたかのように手首を握り締めた。
「……ああ」
「す、すまない。君の苦しみをヤツにも味わわせてやろうと思ったのに」
「いいのよ、愛してるわ」
女官は男を抱き締めた。ロイはボリボリと頭を掻いていた。
「……この茶番は何?」
「俺に聞くな」
クロノはまるで重傷を負ったかのように女官に支えられながら立ち去る男を白けた気分で見送った。
「……軽い火遊びのつもりが男にバレて大炎上ってヤツだ」
いつの間に近づいたのか、ロイは柱に寄り掛かり、ご丁寧に解説してくれた。
「……それが分かっているのなら」
「アルみてぇなことを抜かすなよ。つーか、誘ってきたのはあっちだぜ? まあ、こっちはこっちで愉しんだけどよ」
ククク、とロイは喉を鳴らした。
ガウルは顔を真っ赤にしている。
今にも殴りかかりそうだ。
「誘われたからって、彼氏がいる相手に手を出すのはどうかと思うな」
「……っ!」
クロノが言うと、ガウルがギョッとした顔をして振り向いた。
「クロノ、上を見ろ」
「良いけど?」
クロノはガウルに言われた通り、上を見たが、そこには天井しかない。
「そのまま、唾を吐け」
「嫌だよ」
クロノはガウルを見つめて言った。
「お前は心の中に棚を持っているんだな? 何で造られているんだ?」
「意味が分からないけど、うちの工房で造った鋼鉄製の棚?」
クロノは首を傾げながらガウルに答えた。
「おまけに面の皮まで厚いときたか」
「失礼な。僕は……」
クロノが言い返そうと口を開いたその時、男がこちらに向かって歩いてきた。
メガネを掛けた偉丈夫である。
髪はやや長く、何処となく知的な印象を受ける。
先程、ロイに負けた男を引き連れている。
「よう、アル! 何か用か?」
「アルと呼ぶな。私の名はアルヘナだ」
メガネの男……アルヘナは不快感を隠そうともせずに言った。
「貴様、私の部下と決闘したそうだな?」
「あ~、嫌だ嫌だ。負けただけならまだしも上司に泣きつくかね」
ロイは大仰に肩を竦め、首を左右に振った。
「貴様が原因だと聞いている」
「俺の言い分は聞かねーのか?」
「また、貴様が部下の婚約者に手を出したのだろう。それでも、近衛騎士か? 恥を知れ、恥を」
「あの時は合意の上だったんだよ、合意の上」
「屁理屈を! 我々、近衛騎士……旧貴族は皆の模範とならなければならない」
「ハッ、決闘に負けて上司に泣きつくのが模範かよ」
アルヘナは険のある態度で持論を展開したが、ロイは吐き捨てるように言った。
「今回の件は貴様が他人の婚約者に手を出したせいで起きたことだろう。そういうことをするなと言っているんだ」
「あ? だったら、女にも説教しろよ。婚約者以外の男に股を開くなってな」
くくく、とロイは喉を鳴らした。
それでも、アルヘナは秩序を守り、自分達が理想を体現しなければならないと自説を語り……突然、ロイが吹っ飛んだ。
アルヘナがロイを殴りつけたのだ。
「規律を守れと言っているだろう! このクソがっ!」
「良いね。こっちの方が好きだぜ、俺は!」
二人はそのまま殴り合いを始めた。
クロノは状況についていけず、周囲を見回した。
規律を守れと言った方が殴りかかり、罵倒しているのだ。
アンタ、舌の根も乾かない内に何やってんの! と突っ込みたい。
「……行くぞ」
「止めなくて良いの?」
「時間の無駄だ」
クロノは背後から聞こえる打撃音と哄笑に薄気味悪さを感じながらガウルの後を追った。
※
前に来た時はこんなに人がいたかな? とクロノは周囲に視線を巡らせながらガウルの後を追う。
「……そんなにキョロキョロするな」
「背中にも目がついてるの?」
「気配で分かる」
今一つ納得できないが、小さい頃から武術の鍛錬を積んでいると人間でも気配に敏感になるのかも知れない。
「どうして、こんなに人がいるの?」
「アルフォート殿下に挨拶をしに来ているらしい」
「あの二人も?」
「ロイとアルヘナは配置転換だ」
「アルヘナ? ああ、あのメガネの人ね。あの人も近衛騎士団長なの?」
「第三近衛騎士団の団長だ」
うげっ、とクロノは顔を顰めた。
ロイ・アクベンスが第四近衛騎士団の団長であることも信じられないが、いきなりブチ切れる人間が第三近衛騎士団の団長であることも信じられない。
「……あれでも近衛騎士に相応しい実力の持ち主だ。指揮官としての能力も小勢や小細工抜きの戦闘ならば父上に匹敵する」
「それは誉め言葉じゃないよ」
ガウルは無言で歩調を速めた。
ガウルの父親……エルナト伯爵の二つ名『鉄壁』は堅実な用兵と神聖アルゴ王国の侵攻を防いできた功績に由来する。
まあ、実戦経験豊富な第二近衛騎と互角に戦える部下がいて、統率できるだけでも凄いことなのかも知れないが。
「……もしかして、メガネの人にも負けた?」
「何故、分かる?」
ガウルは押し殺したような声音で言った。
「そりゃ、まあ、微妙な誉め方をしてたし」
ガウルの気持ちは何となく理解できる。
ロイに対する嫌悪感を隠そうとしなかったのは自分の戦いを貶められたように感じているからだろう。
アルヘナを誉めていたのは自分はダメ人間に負けたのではなく、近衛騎士団長に相応しい実力を持つ相手に負けたという心理からだろう。
「次は勝つ」
「負けないじゃない所がらしいと言うか、相変わらず、尖ってるな~」
クロノが感想を口にすると、ガウルは更に歩調を落とした。
何とか横に躱したが、危うくぶつかる所だった。
「……お前に言うべきか迷ったが」
ガウルはそこで言葉を句切った。
「……子どもができた。相手はララだ」
「え? あ、おめでとう」
「……」
ガウルは無言で歩き続け、十歩ほど歩いた所で口を開いた。
「それだけか?」
「い、いや、もちろん、言葉だけじゃないですよ。お子様が生まれた時には手紙と出産祝いを贈りますよ」
クロノは服の上から財布に触れた。
それなりの金額が入っているが、ご祝儀の相場が今一つ分からない。
常識的に考えて金貨をそのまま差し出すのはないだろう。
「男の子なら……剣、そう、うちの工房で造った剣と前ハマル子爵とお付き合いがあるので、馬も贈らせて頂きます。お、女の子なら、ど、ドレスを」
「ああ、いや、言葉だけで十分だ」
そう言って、ガウルは照れ臭そうに笑った。
「ここがピスケ伯爵の部屋だ」
「案内して貰って悪いね」
いや、とガウルは首を振った。
「エラキス侯爵……貴様とは色々あったが、これからは貴様を友と思うことにする」
「え? 僕達は友達じゃなかったの?」
「貴さ……クロノ、俺達は友と呼べるほど仲が良かったか?」
ガウルは溜息交じりに言った。
まあ、言われてみれば友達と呼べるほどの仲ではなかったような気がする。
「クロノ、困ったことがあれば俺に言え」
「困ったことが起きないように祈ってよ」
「そうだな。まずはそっちからだな」
ガウルは少年と共にその場から立ち去った。
※
随分、痩せたな~、とクロノはピスケ伯爵の顔を見て、そんな感想を抱いた。
ピスケ伯爵の頬は痩け、目は血走っている。
整えている余裕がないのか、髪はボサボサだ。
部屋はピスケ伯爵の心境を映し出しているかのように散らかっている。
「エラキス侯爵、よく来てくれた!」
「はあ、どうも」
クロノは軽くお辞儀をしながら、ピスケ伯爵の前に立った。
レイラが扉の近くに控えているのだが、ピスケ伯爵は気付いていないようだ。
「今回は……治安回復が任務と聞いていますが?」
「その通りだ。帝都の治安は悪化する一方だ。そこでエラキス侯爵には第十二街区を担当して貰いたい!」
はあ、とクロノはピスケ伯爵に気圧されながら答えた。
どうして、第十二街区を担当しなければならないのか聞きたいが、下手な質問をしたら怒らせてしまいそうだ。
まあ、一番治安が悪いとか、そんな理由なのだろうが。
「それで仕事はいつから?」
「明日からでも!」
ピスケ伯爵は身を乗り出し……イスに座り直すと力なく首を左右に振った。
自分が無茶振りをしていると気付いたのだろう。
こんな時、ピスケ伯爵に対する印象が揺らぐ。
彼はフェイを厩舎係に追いやり、嫌がらせのような書簡を送ってきた。
その一方、親征でクロノとの約束を守り、部下が治療を受けられるように手配してくれた。
そのお陰で多くの部下が助かった。
「……私としては明日からでも任務に就いて欲しいのだが」
「……」
ピスケ伯爵は低い声で言った。
クロノは押し黙った。
帝都の状況把握、引き継ぎ、疲労している部下のために最低でも一日は猶予が欲しい。
多少、無茶をすれば明日からでも可能か。
深々と溜息を吐く。
「分かりました。豪華な屋敷を用意してくれたことですし」
「む、ああ、大したことではない」
ピスケ伯爵は目を泳がせながら言った。
訳ありの物件なのかな? とクロノは内心首を傾げた。
「それと、私の領地から来ている訓練兵についてですが……」
「その件は軍務局の知り合いに話を通してある」
クロノは多少の後ろめたさを感じながら胸を撫で下ろした。
兵士の配属先を決めるのは軍務局の仕事だ。
一応、大隊長は誰々を部下に欲しいと要請する権限を持っているが、決定権は軍務局にある。
そこで根回しが必要になる。
「ありがとうございます。では、私は軍務局で着任の手続きをして参ります。その後は訓練所にいる訓練兵を慰問したいのですが?」
「では、私の方から話を通しておこう」
「ありがとうございます」
クロノが頭を垂れたその時、
「おや、ボクに挨拶はないのかい?」
茶化すような声音がクロノの耳朶を打った。
声のした方を見ると、悪戯っぽく微笑んだリオが扉の近くに佇んでいた。
ピスケ伯爵も、レイラも驚いていないので、リオは普通に扉を開けて入ってきたようだ。
「リオ、久しぶり」
「久しぶりに会った恋人に熱い抱擁をしてくれないのかい?」
「え?」
クロノは慌てて視線を巡らせた。
レイラはいつも通り微表情、ピスケ伯爵は他所でやれと言わんばかりに渋い顔をしている。
「冗談さ。さて、軍務局に着任の手続きをしに行くんだったね。僭越ながら、ボクが案内するよ」
「任せるよ」
近衛騎士団長が案内役を務めるのはどうかな? と思ったが、リオの厚意に甘えることにした。
※
クロノとレイラはリオに案内され、軍務局……正確には城内にある軍務局に割り当てられたエリアに向かう。
城門からピスケ伯爵の部屋までは大勢の貴族がいたが、先に進むにつれて人気がなくなっていく。
幸いにも、と言うべきかも知れない。
クロノとリオは恋人のように腕を組んで歩いているのだ。
腕を組むのはやめよう、と言うべきか少し悩む。
リオは周囲から男として認知されているのだ。
もちろん、クロノはクロノなりにリオを愛しているが、他人の言うことなんて知ったことか! と開き直れる境地に達していない。
肩越しに後ろを見ると、レイラはいつもの微表情でクロノとリオを見つめている。
いたたまれない気持ちになって前を向く。
「クロノ、何か聞きたいことはあるかい? 宮廷内のことなら何でも答えられるよ」
「ピスケ伯爵が帝都の治安は悪化する一方って言ってたけど、どういうこと?」
ふぅ、とリオは小さく溜息を吐いた。
「アルデミラン宮殿に霊廟を建てた件は知っているかい?」
「ん、あ~、そう言えば誰かから聞いたことがあるような、ないような?」
「そういうのは知らないって言うのさ」
リオは溜息交じりに言った。
「アルフォート皇太子は旧貴族と新貴族の融和を目的にラマル五世皇帝陛下と六柱神を奉る霊廟を建設することにしたんだよ」
「なんで? どうして、旧貴族と新貴族を仲良くさせるのに……霊廟?」
発想が突飛すぎて意味不明だ。
「融和の象徴にしたかったらしいよ?」
「象徴って、融和する前にそんな物を造られても」
旧貴族と新貴族の融和は難しい。
少なくとも旧貴族が帝国の要職を独占している間は無理だ。
とは言え、既得権益を守ろうとする旧貴族の心情も分からなくはない。
せめて、南辺境に駐留する大隊の指揮官を新貴族にしてくれれば関係の改善を見込めるのだが。
「そうだね。問題は霊廟建設に従事していた連中でね。霊廟は完成したものの、連中は次の仕事に就けず、犯罪に走ったり、犯罪組織に身を寄せたりで帝都の治安は一気に悪化したという訳さ。まあ、建設中から色々あったみたいだけどね」
「炊き出しでもすれば良いんじゃない?」
「困ったことにお金がないらしくてね」
リオはガックリと頭を垂れた。
「は? 霊廟を建てたくらいで?」
「霊廟に使う大理石の価格が高騰していたらしいね。何でも、ボウティーズ男爵領で採掘される大理石の量が激減したとか」
もしかして、僕のせい? と冷たい汗がクロノの背を伝う。
ボウティーズ男爵領と言えば副官の故郷だ。
クロノは港を造るために副官の一族を移住させた。
あの時はへりくだりながら熟練の職人をあっさり手放すボウティーズ男爵の浅はかさを内心小馬鹿にしていたが、まさか、帝国の財政が傾くほどの事態に発展しようとは夢にも思ってみなかった。
「ああ、いや、それにしても、霊廟をつくったくらいで財政が傾くはずが……」
ない、とクロノは言い切れなかった。
不意に歴史の授業を思い出したからだ。
確か、あれは奈良にある大仏の話だった。
詳細は忘れてしまったが、奈良にある大仏の総工費は現代の金額に換算して四千六百億円強。
その費用を捻出するために財政基盤がズタズタになったらしい。
その時は四千六百億円くらいで国の財政が傾くなんて信じられないと思ったが、今にしてみれば大仏を造った時代と現代では国の経済規模が違うのだ。
クロノが想像していたよりも帝国の経済規模は遥かに小さかったのだろう。
税収の五割近くを軍費に割いているという話を聞いた時点で気付くべきだった。
だが、
「アルコル宰相は何の手も打ってなかったの?」
「ふ~ん、クロノはアルコル宰相のことを買っているんだね」
「茶化さないでよ」
クロノは苛立ちを覚えたが、すぐに冷静さを取り戻す。
「アルコル宰相は手を打っていたさ。いざという時のために税収の一部を蓄えていたんだよ。十年以上に渡ってね」
「今がその時じゃないの?」
「もちろん、あれば使っていただろうね」
リオは皮肉げな笑みを浮かべた。
「……もしかして、使っちゃったの?」
「霊廟を建てるために、ね」
馬鹿じゃないの? という言葉をぐっと堪える。
「リオ?」
「大丈夫、僕らの会話はレイラ以外に聞こえないようにしているよ」
リオの言葉を証明するように緑の光がクロノ達を取り囲んでいた。
目を凝らさなければ見えないほど微かな光だ。
「アルコル宰相は何も言わなかったの?」
「忠告はしたみたいだけどね。世の中にはお馬鹿さんが多いと言うことさ」
「どういう意味?」
クロノは言葉の意味を理解できずに聞き返した。
「陛下が生きていた頃ほど絶大な権力を振るえる訳じゃないと言う意味さ」
「そんな簡単に権力ってなくなるものなの?」
「宮廷貴族に対しては依然として大きな影響力を持っているよ。けれど、誰かさんがお馬鹿さん達を招き入れてしまったからね。まあ、お馬鹿さんでも数が集まれば大きな力になると言うことさ」
なるほど、アルフォートが招き入れていたのか、とクロノはようやく城内に人が増えた理由を理解した。
「近衛騎士団の配置転換も?」
「まあ、そうだね。第二、第八近衛騎士団以外は帝都とその周辺に異動になっているよ」
「マズくない、それ?」
クロノの記憶が確かならば近衛騎士団は帝国の要所に配置されていたはずだ。
「だから、ピスケ伯爵が調整と尻拭いに奔走しているのさ」
「それは気の毒に……って、こんな状況じゃ治安回復なんてできないよ!」
炊き出しも抜本的な解決策にならないが、犯罪者を取り締まるだけでは対症療法にしかならない。
「まあ、適当にやれば良いさ」
「功績を立てたくて来たんだけどな~」
「そう思い通りにはいかないさ。ところで、宿は決まっているのかい?」
「第一街区に屋敷を用意して貰ったから大丈夫だよ」
宮廷内のことなら何でも答えられるって言ってたのに、とクロノは苦笑した。
「第一街区の屋敷?」
「かなり古そうな屋敷があるでしょ?」
え゛? とリオの表情が強張った。
「何かあるの?」
「昔、あの屋敷は皇弟派の貴族が住んでいてね。その貴族は惨たらしく殺されたらしいんだ。以来、殺された貴族の亡霊が出るとか」
「ピスケ伯爵の反応はそういうことか! あんまりだ! 金返せ!」
「あくまで噂さ、う、わ、さ」
自分から話を振ったくせに、とクロノはリオを睨んだが、リオは悪びれた様子がない。
「さて、軍務局に着いたよ」
そう言って、リオはクロノから離れた。
このまま回れ右して帰れないかな? とクロノは深々と溜息を吐いた。
※
荷馬車は城壁に沿って進む。
クロノは御者席の隅に座りながら城壁を見上げた。
この世界に来てから六年が過ぎようとしているが、巨大な建造物を見るたびに重機を使わずによく造れたものだと感心してしまう。
とは言え、感心してばかりはいられない。
クロノは城壁から隣で手綱を手繰るレイラに視線を移した。
「クロノ様、訓練兵の慰問は今日でなければいけないのでしょうか?」
「ピスケ伯爵に根回しをお願いしちゃったし、今日を逃したらずるずると先延ばしにしちゃいそうで」
正直、申し訳ないと思う。
自分が無理をすればレイラに負担を掛けてしまう。
それが分かっていながらレイラのことを優先してやれない。
「その、ごめん」
「いえ、私が望んでしていることですから」
レイラの口元がわずかに綻ぶ。クロノはますます申し訳ない気分になって俯いた。
「クロノ様、新兵訓練所が見えてきました」
「……うちの練兵場より少し豪華な感じ?」
クロノは目を凝らして新兵訓練所を見つめた。
城壁の中にある軍学校は高い塀に囲まれていたが、新兵訓練所にはそれがない。
簡素な横長の平屋とその隣に二階建ての建物がある。
かなり離れた場所に土が盛られているのは弓の訓練をするためだろう。
当然のことながら、そこでは訓練兵が幾つかのグループに別れて訓練を行っていた。
人間と獣人は組み手、ドワーフは槍の型稽古、エルフは……きっと、ハーフエルフもいるはずだ……は弓の訓練を行っている。
さらに……、
「わざと負けて目立ちたいか! 痛いフリをして同情されたいか! 」
「そのヘッピリ腰は何だ! 爺の方がお前らよりも気合いの入った腰使いをしてるぞ!」
「満足に命中させられないのか! 貴様らが矢を外すたびに味方が一人死ぬぞ!」
などと三人の訓練教官が訓練兵に罵声を浴びせている。
三人とも叩き上げの軍人然とした面構えだ。
仲間と一緒に罵倒されるのとマンツーマンで罵倒されるのではどっちがマシなんだろう? とクロノはマイラの特訓を思い出しながら自問する。
「レイラの時もこんな感じだった?」
「はい、訓練教官は良くも、悪くも平等です」
「訓練兵は皆、等しく価値がないって?」
レイラは驚いたように目を見開き、小さく頷いた。
荷馬車を止めると、訓練教官の一人がこちらを見た。
訓練教官は大きく息を吸い、
「訓練中止! エラキス侯爵に対し、三列横隊で並べ!」
大声で叫んだ。
「グズグズするな! 走れ走れ走れ!」
「もたもたしてると、ケツを蹴っ飛ばすぞ!」
あっと言う間に三列横隊が完成した。
ただ、並ぶまでのスピードは大したものだが、列がやや乱れている。
「第十三近衛騎士団! クロノ団長に敬礼!」
訓練兵達が訓練教官の号令に合わせてクロノに敬礼する。
やや崩れた敬礼だ。
軍学校では並び方や敬礼の仕方をうんざりするほど叩き込まれるが、新兵訓練所では重要視していないようだ。
新兵訓練所では半年で兵士としての心構えと最低限必要なスキルを叩き込まなければならないのだ。
並び方や敬礼の優先順位が低くなるのは自然な流れだ。
訓練兵達はクロノに敬礼したまま動かない。
「……クロノ様の言葉を待っているのではないでしょうか?」
「うぇっ、聞いてないよ」
クロノはレイラに耳打ちされ、渋々立ち上がった。
そして、荷馬車の上から訓練兵達を見つめる。
子どもと評しても良いような訓練兵もいれば、やや年嵩の訓練兵もいる。
その中には見知った顔もある。
シャウラ……ディノと共にエラキス侯爵領にやってきたエルフの孤児だ。
できるならば一人一人に声を掛けたいが、なかなか難しそうだ。
「出迎えご苦労、楽にして良し」
クロノが命令すると、訓練兵達はようやく敬礼をやめた。
必死で頭を働かせ、シャウラ達に対するメッセージを考える。
「……君達は限られた選択肢の中から兵士になることを選んだ。理由は一人一人異なるだろう。しかし、我々の目的は帝国を守るために戦うことだ。そのために戦う限り、我々は同志である」
クロノは言葉を句切った。
「私は君達と共に戦える日を待ち望んでいる。そして、君達が兵士に志願した理由以外のために戦えるようになって欲しいと心から願っている、以上だ」
「第十三近衛騎士団! クロノ団長に敬礼!」
今度こそ、訓練兵達は一糸乱れぬ動きでクロノに敬礼した。
※
第一街区にある屋敷への帰り道……、
「そう言えばヴェルナがいなかったね」
「……はい」
クロノが訓練兵達のことを思い出しながら言うと、御者席のレイラは考え込むように沈黙し、しばらくしてから小さく頷いた。
「えっと、ヴェルナのこと覚えてるよね? リオが帝都から連れてきた、セシリーと組んでメイドの仕事をすることの多かったあの娘だよ? 去年の八月下旬頃に兵士になるためにメイドを辞めたヴェルナだよ?」
「もちろん、覚えています」
レイラの声は平坦なものだったが、わずかに困惑の色を帯びていた。
何故、ヴェルナについて説明されるのか分からない。
そんな気持ちが伝わってくるようだ。
「まあ、逃げるとは思えないから、何か事情があったんだろうね」
「兄貴!」
クロノが呟いたその時、誰かが荷馬車に駆け寄ってきた。
レイラは手綱を引いて荷馬車を止める。
「……ジョニー」
「いや~、久しぶりッスね」
ジョニーは荷馬車の傍らに立つとハンカチで汗を拭った。
相変わらず、髪を逆立てているが、着ているのは執事然とした服である。
その服装で腰から短剣を提げているのはどうかと思うが……。
クロノはジョニーを見つめ、ある変化に気付く。
体が記憶にあるそれよりも一回り大きくなっていたのだ。
よほどマイラにしごかれたのだろう。
「どうして、帝都にいるの?」
「それは俺がクロフォード家の使用人だからッス」
ジョニーは誇らしげに答えた。
「それにしても、僕が帝都にいるってよく分かったね」
「新貴族の情報網を使えば簡単ッス」
「新貴族の、情報網?」
「兄貴、知らないんスか?」
ジョニーは意外そうに問い返してきた。
「知らない」
「実はッスね。と言っても、そんなに詳しい訳じゃないんスけど、帝都には協力者が大勢いるらしいんスよ。ああ、兄貴の実家だけじゃなくて全員で協力してるらしいッス」
あ~、とクロノは呻いた。
べらべらと重要なことを口にするジョニーもジョニーだが、何年も前から諜報活動を行っている養父も養父だ。
きっと、発案者はマイラか、オルトだろう。
「何か困ったことがあったら言って欲しいッス」
「その時は宜しく」
クロノはジョニーと握手を交わした。
※
クロノとレイラが屋敷に戻り、荒れ果てた庭園に荷馬車を止めた。
近くにいた黒豹の獣人に後を任せ、屋敷に入る。
玄関の先はエントランスホールになっていて、その奥はホールだ。
さらにその奥には階段がある。
階段は突き当たりで左右に分かれている。
何年も放置されていただけあり、埃っぽく、かび臭い。
しばらくすると、シロが階段を駆け下りてきた。
『クロノ様、俺、掃除して待ってた』(がうがう)
「お疲れ様、シロ」
クロノが礼を言うと、シロは尻尾を千切れんばかりに振っていた。
「ところで、僕が留守の間に何かなかった?」
『何もなかった』(が~う)
シロはそう言いながらクロノの背後を見つめていた。
視線がゆっくりと横にスライドしていく。
クロノは慌てて振り向いたが、いるのはレイラだけだ。
そして、レイラは斜め後ろに立ったままだ。
クロノが向き直ると、シロは正面を見ていた。
「シロ、何を見ていた」
『俺、見てない』(きゅ~ん)
「言え、言うんだ」
『俺、見てない、見なかった』(きゅ~ん)
クロノは問い詰めたが、シロはとうとう口を割らなかった。




