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第1話『クロノ』


 クロノは轍を目で追う。

 足下から伸びる轍はクロノから離れるにつれて輪郭を失っていく。

 草が徐々に密度を増し、いつの間にか轍を半ば覆うようになる。

 視線を上げると、そこには暗く、静かな原生林が広がっている。

 ケフェウス帝国と神聖アルゴ王国の国境に広がる原生林はくらき森と呼ばれている。

 昏き森は幾つもの高山を擁する天険の地であり、狼や羆など獰猛な野生動物が数多く棲息している。

 神代の魔物が潜んでいるとさえ言い伝えられているのだが、轍が残る程度に馬車の往来があるようだ。

 商人が森を迂回する手間と通行税を惜しんだ結果だろう。

 クロノがいるエラキス侯爵領は税が高い。

 他の領地を経由すると、そのたびに通行税を取られるので、商人の手元にはわずかな利益しか残らない。

 命より金を取る神経は理解できないが、利益を得るためには相応のリスクを負わなければならないという発想は理解できる。

 だから、神聖アルゴ王国が昏き森を越えるリスクを負って、ケフェウス帝国に攻め込もうとしているのも理解できるのだ。

 だが、その意図までは分からない。

 ケフェウス帝国と神聖アルゴ王国は何度も国境付近で小競り合いを繰り返してきた。

 とても友好的とは言えない関係にあるのだが、何故、このタイミングで神聖アルゴ王国は大規模な軍事行動に出たのか。

 自問しても答えは出ない。

 結局、分かっているのはケフェウス帝国軍が後手に回ったこと、早急に敵を追い返さなければならないこと、同僚と上司が逃げ出してしまったことだけだ。


「……っ!」


 何かが森の奥で動いたような気がして、クロノは反射的に剣の柄を握り締めたが、部下である七百の亜人は何の反応も示さなかった。

 この場に森の専門家であるエルフはいないが、部下の過半数を占める獣人は鋭敏な嗅覚と聴覚を誇る。

 自分の感覚よりも部下を信じるべきだよね、とクロノは柄から手を離した。

 反射的に剣に手を伸ばしてしまったが、クロノは剣術が苦手だ。

 剣術だけでなく、馬術も苦手だ。

 そのため普段は徒歩で移動しているのだが、上司と同僚に見捨てられるとは思わなかった。

 時間を稼げば援軍が来る、と上司であるエラキス侯爵は言い残したが、斥候の報告によれば神聖アルゴ王国軍の数は一万、こちらは千である。

 兵力差は十倍……どう考えても詰んでいる。

 今やクロノと部下の命は風前の灯火である。

 それが分かっているのか、部下の士気は目に見えて低い。

 部下の多くは獣人……獣の頭を人間の胴体に乗せたような姿をしているので、今一つ表情が分かりにくいのだが。

 せめて、クロノが優秀な指揮官だったら士気も高まっただろう。

 少なくとも希望は抱けたはずである。

 残念ながら、クロノは軍学校を卒業したばかりで実戦経験がない上、軍学校の歴史に名を残すほどの劣等生だった。

 卒業できたのも担当教諭があちこちに頭を下げまくってくれたお陰なのだ。

 一応、クロノも努力した。

 昨夜は豪華な食事と酒を振る舞い、戦意高揚を図ってみたのだが、人生最期の食事とか、末期の酒とか、悲観的な受け止められ方をされてしまったようだ。


『大将、大丈夫ですかい?』(ぶも~、も~)

「ごめん、ウンコ漏らしそう」


 心配そうに問い掛ける副官にクロノは本音を漏らした。


『……大将』(も~)


 副官は黒くて円らな瞳でクロノを見つめ、悲しげに鳴いた。

 副官はミノタウルスと呼ばれる牛の頭を持つ獣人だ。

身長は二メートルを超え、その体は鋼のような筋肉に覆われている。


「いや、僕も余裕は見せたいんだけどさ」


 元々、気が弱いのだ。

 口喧嘩でさえ嫌いなのに、戦闘指揮なんて正気の沙汰じゃない。

 まるで胃が鉛に変わってしまったように重い。

 胃が蠕動するわずかな刺激で、括約筋がフリーになりそうだ。


『どうして、そんなんで軍人になったんで?』(ぶも~?)

「貴族は軍学校に行くもんだ、って聞かされたから」


 プラプラと副官の鼻先で鈍色の鼻輪が揺れる。

 鼻輪は通訳の魔術が施されたマジックアイテムである。このお陰で声帯の構造が人間と異なる獣人と意思の疎通が可能になっている。

『今からでも逃げた方が良いんじゃないですかね? こんな戦いで、しかも、亜人種に肩入れしたって、大将の得にならんでしょう?』(ぶも、ごふごふ)


「……そうなんだけど、ね」


 実際、彼の言う通りなのだ。

 亜人はミノタウルスのような獣人、エルフやドワーフを含めた人間っぽいけれど、人間じゃない生き物を指す言葉であり、人間未満と言う意味の蔑称でもある。

 亜人が人間の天敵で、神に喩えられたのも今は昔、人間は時代が下るにつれて勢力を拡大し、これまでの鬱憤を晴らすように亜人を被支配階層として社会に組み込んでしまったのである。

 ケフェウス帝国では兵役を一定期間務めれば、亜人にも市民権が交付されるが、障害を負うようなケガをすれば軍を退役せざるをえないし、市民権を得ても亜人が割の良い仕事に就くのは難しい。

 それでも、ケフェウス帝国の対応は近隣諸国に比べてマシな方で、神聖アルゴ王国は亜人の根絶を国是に掲げている。

 亜人の副官から見れば貴族である以外に何一つ取り柄がなくてもクロノは十分な勝ち組なのだろう。


「部下を残して逃げる訳にも、と考えてたら本格的に逃げそびれちゃって」

『……大将、本気で言ってるんですかい?』


 クロノが苦笑しながら言うと、ミノタウルスの副官は呆れたように言った。


「もちろん、本気だよ。まさか、自分が上司と同僚に見捨てられるとは夢にも思わなかったけど」

『……』


 今度こそ、副官は言葉を失ったようだった。


「それに犬死にするつもりも、させるつもりもないから」

『にわか作りの柵で、敵を止められるとは思いませんがね』(ぶもぶも)


 そう言って、副官は立ち並ぶ柵を睨んだ。

 柵は森の境から少し離れた位置に設置してある。

 高さと横幅は三メートルほど、木材の太さはクロノの太股くらいだ。

 柵は等間隔に設置され、その間には人が通り抜けられる隙間がある。


『これなら、ゲリラ戦でも仕掛けた方がマシなんじゃないですかね?』

「それも考えたんだけど、それだけじゃ、追い返せないでしょ」


 そう言って、クロノは森を睨んだ。

 もう少し時間があればゲリラ戦を仕掛けられたのだが、後手に回りすぎた。

 行軍のために縦列になっている今がチャンスなのだ。

 アルゴ王国軍が昏き森を抜ければ、たった千人では太刀打ちできない。


「……追い返さないと」


 略奪と殺戮が行われる、とクロノは言葉を呑み込んだ。

 食糧と戦利品を確保するために略奪、相手が亜人根絶を掲げる以上、亜人の殺戮も行われるだろう。


「これだから、宗教国家ってのは」


 クロノは小さく吐き捨てた。



 城砦都市ハシェル……初代エラキス侯爵に仕えた従者の名を冠するこの街は昏き森から馬で半日足らずの距離にあり、都市として発展した現在も軍事拠点としての機能を有しているとされる。

 ハシェルの中心にある侯爵邸、その最上階に位置する執務室でティリアはエラキス侯爵の報告を待っていたのだが、


「なんだと! 貴様、それで逃げ帰って来たのか!」


 ティリアが机を殴りつけると、エラキス侯爵は怯えたように体を震わせた。


「で、ですが、これで時間は稼げるはずです」

「「「そうですとも!」」」


 でっぷりと肥え太ったエラキス侯爵が脂汗を浮かべて弁解すると、ここぞとばかりに彼の部下も追従した。

 仕方がなかった。

 情報に齟齬があった。

 千匹の亜人で足止めできるのなら、安いものだと。

 これだから現場を知らない小娘は、と口にこそしないが、ティリアを非難するような視線まで向けてくるような始末だ。

 確かにティリアは現場……戦場を知らない。

 今、こうして父親ほど年の離れたエラキス侯爵を怒鳴りつけられるのもティリアがケフェウス帝国の第一皇女で、第一皇位継承権を持つからに過ぎない。

 ティリアはエラキス侯爵達の態度に怒りを通り越して目眩すら覚えた。

 三十年前、ケフェウス帝国は動乱期にあった。

 皇位継承権を巡る内戦、それに乗じた都市国家の独立と蛮族の侵入。

 安寧を貪った貴族は相次ぐ異常事態に対応できず、幾つかの傭兵団の力を借りてようやく事態を収束させたのだ。

 この時、帝国は『血筋だけが取り柄の無能な指揮官の下では勝てる戦も勝てず、いたずらに戦禍を広げてしまう』という教訓を得たはずだった。

 だからこそ、準貴族以上を入学対象にした軍学校を帝都に設立したのだ。

 貴重な犠牲を払って得た教訓よりも『喉元過ぎれば熱さを忘れる』という格言の方が勝るらしい。

 なお、傭兵団は動乱を収束させた功績により、帝国南端に領地を与えられ、現在は新貴族と呼ばれている。


「その『安い』にはクロノも含まれているのではあるまいな?」

「……我々は戻るよう説得したのですが、クロノ殿は部下を見捨てるようなマネはできないと」


 ティリアは奥歯が軋むほど強く歯を食い縛り、荒れ狂う激情を押し止めた。

 エラキス侯爵はクロノは部下の一人、新貴族であるクロフォード男爵の息子でしかないだろうが、ティリアにとっては特別な人物だ。


「何日だ?」

「は?」

「周辺の領地から何日で援軍が来る? それとも、救援すら求めていないのかっ!」

「すぐに」


 侯爵と取り巻きは逃げるように部屋を飛び出した。


「クロノの馬鹿め、馬鹿め、大馬鹿め!」


 ティリアは母譲りの金髪を掻き毟った。

 ティリアとクロノは軍学校の同期だった。

 同期と言っても、ティリアとクロノに接点はなかった。

 皇族と新貴族、優等生と劣等生、あまりにも立場が違いすぎたのだ。

 ティリアがクロノを意識するようになった切っ掛けは軍事演習での敗北だった。

 軍旗を巡る攻防戦でティリアは次々と敵を撃破し、捕虜にした。

 終了間際、クロノは自棄になったとしか思えない総攻撃を仕掛けてきた。

 ティリアは全軍を突撃させ、そして、数人の兵士にあっさりと軍旗を倒された。

 平たく言えば、陽動に引っ掛かったのだ。

 今でこそ、ティリアは自分の浅はかさを恥じるようになったが、当時は納得できずに何度もクロノに八つ当たり気味の論戦を挑んだ。

 話してみると、クロノは面白い男だった。物事に関して独自の視点を持ち、貴族に生まれた特権意識よりも貴族としての義務を果たすことにプレッシャーを感じる、珍しいタイプの貴族だった。

 気安すぎるのが難点だが、新貴族……成り上がり者の息子だと思えば、それも気にならなかった。


「お前にとっては、亜人ですら守るべき対象なのか?」


 目を細め、ティリアは小さく呟いた。


 森の奥から板金鎧プレートメイルで武装した五騎の重装騎兵が姿を現した瞬間、クロノは逃げ出さなかったことを心の底から後悔した。

 クロノは自分の弱さを自覚している。

 剣術は素人に毛が生えた程度、魔術は一つしか身に付けられなかった。

 頭の回転は鈍くないが、鋭くもない。

 勇気もない。

 勇気を振り絞っても、意地を張り続けられずに後悔する。

 エラキス侯爵が亜人を盾にして時間を稼ぐと言った時、クロノは悪くないアイディアだと思った。

 戦うのは怖い。

 自分の弱さを理解しているのだ。

 弱い自分が戦えば死んでしまうと簡単に分かる。

 追従の笑みを浮かべて頷くだけで良かった。

 たった、それだけのことができずに逃げる機会を失った。

 括約筋に力を込め、クロノは柵の外に出た。

 戦場の華である重装騎兵の脅威は機動性と突進力にある。

 隊列を組んでの突撃は大型の亜人を吹き飛ばすほどの威力を誇る。


「……我が名はクロノ! クロフォード男爵の第一子である! 名のある騎士とお見受けする! 雑兵に首を取られるは末代までの恥、一騎打ちを所望する!」


 腰から剣を抜き、クロノが大声で叫ぶと、騎兵が一騎歩み出た。

 リーダー格らしく、五騎の中でも豪華な鎧を纏っている。

 槍を構え、騎兵がスピードを上げながら突っ込んでくる。

 そして、最高速度に達した瞬間、騎士の姿が掻き消えた。

 わずかな間を置き、グシャリと騎士が後頭部から地面に落ちた。

 首の高さに張られた縄に突っ込んで落馬したのだ。


「「「「……っ!」」」」


 卑劣な罠で同僚を失い、残る四騎が突進する。

 彼らは縄を潜り抜け、


「今だ!」


 クロノの合図と共に飛び出した木の杭に刺し貫かれた。

 騎兵の機動性と突進力は脅威だが、一直線に突き進んでくると分かっていれば、これほど与しやすい相手もいない。

 ふぅ、とクロノは冷や汗を拭い、副官の隣に戻った。


『……貴族の誇りってヤツはないんですかい?』

「それで勝てるんなら、是非、誇り高く戦いたいね。ああ、死体はそのままで」


 込み上げる吐き気を飲み下し、クロノは視線を巡らせた。

 非難がましい視線はあるが、その瞳には光が戻っていた。



 敵の本隊が現れたのは騎兵を殺してから、しばらく経ってからだった。

 先に動いたのはアルゴ王国軍だ。

 五人の騎兵が罠に掛かっているのを見て、警戒したのだろう。

 真紅の房を付けた指揮官は歩兵を先行させた。

 弓兵が柵越しに矢を放つが、敵の指揮官は想定の範囲内だと言わんばかりに歩兵を前進させ、白兵戦が始まった。

 渦巻く、怒号、舞い上がる土煙、そして、噎せ返るような血の匂い。


『押し返せ!』(ぶもー!)


 おおっ! と部下が副官の命令に応じる。

 柵に取り付いた歩兵をドワーフが槍で突き、柵の隙間を抜けようとした敵の歩兵をミノタウルスが巨大な鎚で叩き潰す。

 これが亜人同士の戦いならば別の展開になっていたはずだが、アルゴ王国軍の兵士は全て人間……最低限の訓練を受けただけの、正に雑兵だ。

 取り敢えず、今の所は上手くいっている。

 昏き森の噂も手伝ってか、敵は柵を迂回せずに突っ込んできた。

 加えて、敵の歩兵が密集しているから矢と魔法の援護もない。


「柵を迂回しろ! 背後から攻撃せよ!」


 敵の指揮官が苛立ったように叫ぶが、アルゴ王国の兵士は互いに顔を見合わせるばかりだ。


「柵を迂回せよ!」

「……っ!」


 幾人かが意を決して森に飛び込む。

 腰まである深い藪を掻き分けるように進み……突然、姿が消えた。


「ぎぃ、ひぃいぃぃぃぃぃ!」


 次の瞬間、身の毛もよだつような絶叫が戦場に響いた。

 藪が激しく揺れ動き、血がしぶく。

 やがて、静かになった森から人間の頭が飛び出した。


「な、何かいるぞ!」

「逃げろ!」


 パニックに陥った兵士は戻ろうとしたが、藪の中に引き摺り込まれた。

 再び、絶叫が響き渡る。


「伏兵だ! 落ち着け!」


 タネが割れてもパニックは収められないよ、とクロノは口の端を吊り上げた。

 パニックは伝播する。

 アルゴ王国の兵士の手から武器が落ち、兵士が逆流しかけたその時、


「真紅にして破壊を司る神よ!」


 ゴ、ヴァァッ! とアルゴ王国の兵士達の真上で炎が爆発的に膨れ上がる。

 炎は一瞬で掻き消えたが、パニックに陥った兵士を押し止めるにはそれで十分だ。

 神威術……火、水、土、風、闇、光を司る神の力を顕現させる術だ。

 信仰する神の力しか使えない、過度の使用により廃人になる可能性があるなどデメリットも存在するが、術者が理屈を理解していなくても……例えば、医学に精通していなくても傷を癒せるなどの……メリットも存在する。


「落ち着け、兵力はこちらが圧倒している」


 白紙になった頭に、指揮官の命令が上書きされる。


「押し切れ!」


 おおおおっ! とアルゴ王国の兵士が一斉に吠えた。

 クロノは小さく舌打ちをした。

 敵の指揮官はクロノの小細工に付き合わないと宣言したのだ。

 冷静さを取り戻したアルゴ王国軍は強かった。

 いや、兵士のレベルは高くないし、冷静になったくらいで強くなる訳ではない。

 こちらが相手の土俵……消耗戦に引き摺り込まれたのだ。

 柵に歩兵が取り付き、亜人が槍で突く。

 柵の間を抜けようとした歩兵を、ミノタウルスやリザードマンが鎚で叩き潰す。

 この繰り返しだ。

 少しずつ、少しずつ、疲労が蓄積し、こちらの負傷兵が増えていく。

 突き出した槍を躱され、逆に突き返される。

 体勢を崩した隙を突かれ、敵がミノタウルスとリザードマンの脇を擦り抜ける。

 控えていた獣人が襲い掛かるが、その獣人も負傷兵の一人だ。

 そして、無数の槍を受け、リザードマンの一人が倒れた。


『大将!』

「分かった! 早く穴を塞いで!」


 副官がリザードマンの穴を埋めるが、アルゴ王国軍の兵士が一人、柵を越えていた。

 狙いはクロノだ。


『大将ッ!』

「……ッ!」


 副官の叫びにクロノは剣を抜こうとしたが、それよりも敵が剣を振り下ろす方が早かった。

 強烈な衝撃が脳を揺らし、吐き気が込み上げる。

 頭蓋骨は骨の中でもかなりの強度を誇る。

 魔術か、神威術を併用しない限り、頭から股間まで一刀両断なんて不可能だ。

 それでも、雑兵の剣は視界の半分……クロノの右目を奪っていた。

 奥歯を噛み締め、クロノは絶叫を呑み込んだ。

 名ばかりとは言え、ここで指揮官が悲鳴を上げたら、押し切られる。


「……天枢神楽てんすうかぐらっ!」


 起動詞の詠唱により、脳の無意識層に刷り込まれた魔術式が解凍、漆黒の球体がクロノの頭上に生まれる。

 魔術は生物が生まれながらに備える力……魔力に法則と属性を与え、物理現象に変換する技術だ。

 薬物を用いて術式を脳の無意識層に刷り込むことで習得できるが、効果的に運用するためには習熟が必要となる。

 また、自分の意思で威力を調節できず、習得できる魔術の属性と使用回数は個人の才能に依存する。

 クロノが右手を振り下ろすと、漆黒の球体は雑兵の頭を包み込んだ。


「……領域指定、強制転移!」


 クロノの操作に応じ、漆黒の球体は雑兵の頭ごと消滅した。

 音も、光もなく、漆黒の球体が雑兵の頭を別の空間に転移させたのだ。

 まだ、心臓は動いているのだろう。

 血が噴水のように首の断面から噴き出し、クロノの顔を赤く染める。

 森の彼方で火柱が上がったのは、雑兵の死体が傾いだその時だった。


「なっ!」

「天枢神楽っ!」


 クロノは天枢神楽を起動、漆黒の球体を動きを止めた敵指揮官に放った。

 漆黒の球体はクロノの部下と敵兵の間を擦り抜け、指揮官の右腕を包み込み、


「領域指定、強制転移!」


 雑兵を殺した時と同じように領域指定した箇所を消滅させた。

 右腕の断面から血が噴き出し、指揮官が馬から転げ落ちる。

 だが、その瞳は消滅した腕ではなく、なおも断続的に上がる火柱を見つめていた。

 ……わずかな逡巡の後、


「真紅にして破壊を司る神よ!」


 指揮官は腕の断面を焼き潰して血を止め、


「転進! 殿下をお守りするのだ!」


 それが切っ掛けになった。

 逃げる理由を与えられた兵士は脆い。

 加えて、ここにはアルゴ王国の兵士が命を賭けて戦う理由がない。

 一転してアルゴ王国軍は総崩れとなった。



『大将、大丈夫ですかい?』(ぶも~)

「右目が使い物にならなくなった以外は」


 クロノは木箱に腰を下ろし、苛立ちのあまり髪を掻き毟った。

 鎮痛効果のある薬草で痛みを誤魔化しているが、右目を失った衝撃は大きい。


「随分、死んだね。それに負傷兵も多い」


 クロノは吐き気と痛みを堪えるために奥歯を噛み締めた。

 死者は百名以上、それ以外は全て負傷者だ。

 全員で生き延びられるとは考えていなかったが、想定と現実は違う。

 自分の命令で百を超える亜人が死に、自分も人を殺めた。

 クロノが考えた作戦はシンプルだ。

 七百人で敵を足止めし、残る三百人……魔術に長けたエルフが敵の本陣を襲撃する。

 クロノは賭けに勝った。

 だが、それでも、と言う想いを捨てきれなかった。

 もっと、早く火柱が上がっていれば、誰も死ななかったかも知れない。

 エルフが上手くやっていれば、誰も死なせずに済んだのに。

 そうだ、エルフ達がグズだったからだ。

 僕は悪くない。

 僕は悪くないんだ!

 いつしか、仮定は自己弁護と結びつき、事実になろうとしていた。


『大将、別働隊が戻ってきやしたぜ』

「……っ!」


 副官の声に顔を上げ、クロノは言葉を……自己弁護の言葉を失った。

 三百人いたエルフは五十人も残っていなかったのだ。

 全身が血塗れで、多くの傷を負っていた。


「も、申し訳ありません」

「……あ」


 倒れ込むようにエルフの女性がクロノの足下に跪いた。

 年齢は二十歳くらいだろうか。

 眼光は鋭く、猫科の肉食獣を彷彿とさせるスマートなボディーラインの持ち主だ。

 激戦を物語るように短い銀色の髪は乱れ、褐色の肌は血と泥に塗れていた。


「敵、本陣の圧力が凄まじく……申し訳ありません」

「……あ、ああ」


 そうだ。

 初めから、決死隊のつもりで送り出したのだ。

 誰が?

 僕だ。

 僕が作戦を立て、彼女達を死地に送り込んだ。

 クロノは夢遊病者のような足取りで褐色のエルフに歩み寄り、そこで跪いた。

 責められるべきは僕だ。

 それなのに、なんて、恥知らずなマネを。


「……すまない」

「え?」


 彼女の血塗れの手を掴み、クロノは震える声で呟いた。

 すまない、と繰り返し、クロノは涙を流した。



 ティリアが援軍を率いて駆けつけたのは翌日の夕刻だった。

 先陣を切り、白銀の鎧を煌めかせるその姿はまさに救いの女神だ。

 ティリアは馬から降りるなり、負傷兵の搬送と陣地の構築を命じた。

 味方の兵士が慌ただしく動き始め、そこでクロノは安堵の息を吐いた。

 アルゴ王国軍を追い払ったものの、クロノを含めた全員が疲弊しきっていた。

 下手をすれば盗賊に襲われただけでも壊滅していただろう。


「……って、感じかな」

「なるほど」


 クロノが報告を終えると、ティリアは憮然とした様子で頬杖を突いた。

 天幕の中にいるのはクロノとティリアだけだ。

 不用心だと思うが、それだけ信用してくれているのだろう。


「災難、だったな」


 言葉を選んでいるのか、ゆっくりとティリアは言った。

 軽く目を閉じ、クロノは死んだ部下を想う。

 死んだ部下を悼み、逃げ出したエラキス侯爵に怒り、自身の不甲斐なさを憎む。


「……まあ、ね」


 クロノは様々な感情を心の奥に沈め、短く返した。


「今回の件、どう考える?」

「アルゴ王国内における後継者争いって所じゃないかな」


 クロノは溜息混じりに答えた。

 殿下、とあの指揮官は口にしていた。

 アルゴ王国の国王は高齢だ。

 王位継承者は既に決まっているが、納得していない王族とその取り巻きは多いはずだ。

 だから、アルゴ王国の第一王子は納得していない連中を黙らせるために実績を作ろうとした。

 実際、戦争で勝つのは非常に分かり易い実績だ。

 もちろん、勝てればの話だが。


「しばらく、アルゴ王国が攻めてくることはないだろうね。一万の兵を率いて敗北した戦下手の王子の求心力は確実に低下するはず。足の引っ張り合いで国力が衰えてくれれば万々歳だ」

「……ほぅ」


 ティリアは感心したように息を吐いた。


「だが、備えはしておかないとな」

「そりゃね」


 ティリアは羊皮紙にペンを走らせ、最後にサインを書き足した。


「これで良いのか?」

「ああ、ありがとう」


 クロノはティリアから羊皮紙を受け取り、笑みを浮かべた。


「わざわざ、そんなものを用意しなくても」

「こういうのは大事だよ」


 やや憮然とした表情で言うティリアに、クロノは肩を竦めて言った。

 亜人の負傷兵を人間と区別せずに治療しろ、と羊皮紙に記載されている。

 もちろん、ティリアの署名入りだ。

 虎の威を借るようで情けないが、こうでもしなければ安心できない。


「じゃあ、行くよ」


 天幕の外に出て、ぼんやりとクロノは空を眺めた。


「……もう三年も経つのか」


 クロノ……黒野久光は天を仰ぎながら、深々と溜息を吐いた。

 三年前、不意に浮遊感に包まれ、気が付いたら異世界……畑の真ん中で尻餅を突いていた。

 偶然、老貴族……クロフォード男爵を助け、彼に跡取りがいなかったので、養子として迎えられた。


「……チートなし、あるのは領主の息子の地位と、役に立つかも分からない知識だけ」


 貴族ってのはチートかな、とクロノは幸運に感謝した。

 老男爵に出会わなければ、奴隷として売られていたかも知れないし、山賊に殺されていたかも知れない。

 養子として迎えられ、言葉を学べたのは最大級の幸運と言っても良いだろう。


「それでも、出来ることはあるかな」


 空を見上げ、クロノは小さく呟いた。

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