死に戻り悪役令嬢ですが、今回だけ世界が優しすぎる
「お嬢様、お目覚めのお時間ですよ」
柔らかい声に、私——マリエッタ・フォン・ローゼンクロイツは、寝台の上で跳ね起きた。即座に枕の下に手を差し込む。隠しておいたはずの、護身用のナイフ。指が、空を切った。
「あら、ナイフでしたら、厨房にお返ししておきましたわ」
侍女のアンナが、にこにこ笑いながらカーテンを開けた。朝の光が部屋いっぱいに溢れる。
「お休み中にお怪我をされてはいけませんから。ね?」
「……」
「お嬢様?」
おかしい。
おかしい、おかしい、おかしい。
ナイフを取り上げられた——のに、私の首はまだ胴体についている。
「ま、マリエッタお嬢様? お顔が真っ青ですわよ。もう一度お休みになりますか?」
「……いえ」
ぐっと拳を握りしめて、深呼吸をした。落ち着け、私。落ち着くのよ、マリエッタ・フォン・ローゼンクロイツ。
なにせ私は、十七回目の人生を生きている悪役令嬢なのだから。
*
最初の人生は、十六歳の春、婚約破棄からの修道院送り、そして毒殺で終わった。
二回目は、馬車の事故で顔を潰された。
三回目は、自宅の階段から落ちた。誰かに、押された。
四回目から十回目までは、毒、毒、毒、刃物、毒、絞殺、毒。
十一回目、ようやく婚約破棄を回避できたと喜んだ結婚式の当日、祭壇の前で刺された。
十二回目、隣国に逃亡したら、その隣国でも謀殺された。
十三回目、修道女になったら教会ごと火事に巻き込まれた。
十四回目、平民に身をやつしたら、その日のうちに強盗に襲われた。
十五回目、男装して旅の楽団に紛れ込んだら、毒キノコを食べさせられた。
十六回目、もう全部諦めて、自分から毒を飲んだ。
——そして今、十七回目。
もはや何をしてもこの世界は私を殺すのだと、十六回目の最後で完全に理解した。だから今回はもう、抗うのをやめようと思っていた。優雅に紅茶を飲んで、優雅に断罪されて、優雅に死のうと。
なのに。
「お嬢様、本日のお茶はどちらになさいます? いつものダージリンに、新しく届いたウバ、それからお嬢様のお好きな薔薇のお茶も」
アンナが嬉しそうにワゴンを押してくる。
「……アンナ」
「はい」
「毒は、どれに入っているの?」
「えっ」
アンナの動きが、止まった。手のひらにトレイを乗せたまま、ぱちくりと瞬きを繰り返している。
「……毒、ですか?」
「ええ。毒よ。飲むと死ぬやつ」
「ま、まあ、お嬢様ったら……寝起きでなんという物騒なご冗談を」
「冗談ではないのだけれど」
「あらあら、悪い夢でも見られたのね。今日はお薔薇のお茶にいたしましょうね、心が落ち着きますから」
アンナは困り顔で笑って、ポットにお湯を注いだ。注ぎ口から立ち上る湯気を、私はじっと観察した。色は普通。匂いも普通。傍目には、毒の入る隙はない。
——いや。
目に見える毒なら、私はもうとっくに気づいている。これだけ繰り返してきたのだ。一口含んで舌の上で転がせば、わかる。
覚悟を決めて、唇に運んだ。
……薔薇の香り。
……蜂蜜の甘さ。
……苦味、なし。
「いかがですか、お嬢様」
「…………普通に、おいしい」
「まあ、よかった」
アンナが心底ほっとした顔をして、私の髪にブラシを通し始めた。
優しい手つきだった。母が生きていた頃のような——いや、こんな例えは適切ではない。あの母も、最後は私を殴って死んだのだった。八回目の人生で。
でも、アンナの手は、本当に、優しかった。
*
朝食の席で、父が言った。
「マリエッタ。今朝は顔色がいいな」
「……お父様」
私は、フォークを止めた。
知らない、この父を。
最初の人生での父は、私が断罪された日、ハンカチで顔を覆って泣いていた。あれは哀れみの涙ではなく、世間体への嘆きの涙だった。三回目で知った。
二回目以降の父も似たようなもので、私個人にはまるで興味がなく、ローゼンクロイツの家名にしか目がいっていなかった。
なのに、目の前の父は——、
「マリエッタ。最近、何か悩み事はないか」
「えっ」
「庭で、ぼんやり座っているのを何度か見かけた。父に話せることがあれば、いつでも聞くから」
——誰、これ。
「お父様」
「うん?」
「わたくしは、お父様に、何か悪いことをいたしましたか」
「は?」
「それとも、お父様がわたくしに、何か後ろめたいことを?」
「……マリエッタ。お前、本当に大丈夫か?」
父は、本気で心配そうな顔をしていた。
わからない。
わからない。
なぜ。
目の前のオムレツが、急にぼやけて見えた。あ、これは、涙だ。十七回目にして初めて、朝食の席で泣くという醜態。
「お、お父様、わたくし、少し胸が苦しゅうございます」
「医者を呼ぼう」
「いえ、結構です。少し、お庭で風に当たってきます」
「アンナをつけよう」
「ひとりで大丈夫です」
「ひとりは駄目だ。アンナ、頼んだぞ」
父が私の意見を最後まで聞かない。これは——いつもの父、ではある。
でも、その目の中にある感情が、いつもと違った。家名でも体面でもなく、ただ、娘を案じている目だった。
ますます、おかしい。
*
学園に着くなり、私はまず校門の柱の陰で立ち止まった。
今日は——あの日だ。
最初の人生では、王太子オクタヴィアン殿下から、衆人環視の中で婚約破棄を言い渡された日。聖女ソフィアへの嫌がらせを理由に、それは見事な公開処刑だった。
二回目以降も、形は違えど、必ずこの日にろくでもないことが起きる。
毒の入った焼き菓子を渡された日。階段の上から手紙を読み上げられた日。中庭で婚約者の不実を目撃させられた日。
覚悟は、できている。今日はもう、笑顔で全部受け入れる予定だった。
優雅に。死ぬまで、優雅に。
「マリエッタ嬢」
背後から声をかけられて、私はびくっと肩を跳ね上げた。
振り返ると、そこに——王太子オクタヴィアン・グランディアが立っていた。
金の髪、青い目、私を十六回殺してきた男(直接ではないものもあるが、関与は確実だ)。
覚悟を決めて、私はゆっくりと膝を折った。
「殿下にご挨拶申し上げます。本日も麗しいお姿、何よりにございます」
「……あ、ああ。うん。おはよう」
あれ。
声が、どこか変だ。
顔を上げると、オクタヴィアンが視線を泳がせていた。耳が、赤い。
……耳が、赤い?
「あの、マリエッタ嬢」
「はい、殿下」
「今日の、その、髪型」
「は」
「……いつもより、可愛らしいと思う」
「は???」
声が出た。淑女らしくない声が出た。
オクタヴィアンが、ますます赤くなって、ぱっと顔を逸らす。
「いや、その、変な意味ではない。ただ、その、似合っていると、思っただけだ」
「……は」
「邪魔をしてすまない。では」
お辞儀もそこそこに、王太子は早足で去っていった。背中が、ちょっと小走りだった。
……何、今の。
校門前の生垣に隠れて、私はしばらく息を整えた。
ありえない。
あの男は、私を蛇蝎のごとく嫌っているはずだ。第三回目の人生で、彼が学園の友人に「あの女は触れるのも汚らわしい」と言っているのを、私はこの耳で聞いた。
なのに、髪型が、可愛い?
可愛い???
頭を抱えていると、生垣の向こうから、少女の声がした。
「マリエッタ様! いらっしゃったのですね、お探ししました」
……来た。
覚悟を決めて、私は顔を上げた。
目の前にいるのは、聖女ソフィア。銀の髪、紫の瞳、私を十六回殺してきた女(直接手を下したのは、十一回目の祭壇刺殺くらいだが、教唆は確実だ)。
「ソフィア様。ご機嫌うるわしゅう」
「あの、これ! よろしければ、お受け取りくださいませんか」
差し出されたのは、小さな包みだった。
……おお。
毒入り焼き菓子、第十二案件。
覚悟を決めて、私は受け取った。
「ありがとうございます、ソフィア様。早速、いただいてもよろしくて?」
「えっ、今ですか?」
「ええ」
包みを開ける。中には、丸い白いクッキーが三枚、行儀よく並んでいた。
ふん、と鼻先に近づける。普通の、バターと砂糖の匂い。
覚悟を、決めた。
もう、いいや。
十七回も死んでいるのだ。十八回目を堂々と迎えてやろうじゃないか。
ぱくり、と一口。
……うん。
おいしい。
……あれ。
おいしい???
「ど、どうですか、マリエッタ様」
「……普通に、おいしいですわね」
「よかったぁ……!」
ソフィアが、心の底から安堵した顔で、両手を胸の前で握りしめた。
「実は、初めて自分で焼いてみたんです。マリエッタ様、いつも凛としていらして素敵だなって思っていて、でも、なかなかお話しする機会がなくて。いつかご一緒にお茶でもいかがですかって、お渡ししたくて」
「……」
「お忙しいでしょうから、ご無理にとは申しませんけれど」
頬を染めて、ソフィアはもじもじと両手の指を絡ませた。
……。
……。
……これは、罠ね。
ええ、罠よ。
罠に違いないわ。
だって、そうじゃないと辻褄が合わないもの。
「ソフィア様」
「は、はい」
「正直におっしゃってくださいませ。わたくしを殺したいのでしょう?」
「……えっ」
「お気持ちはわかります。わたくしも、何か殿下にお気を引くような真似をしたかもしれませんし。ですから、はっきりとおっしゃってくださいませ。今日はお毒見の侍女もおりませんし、わたくしひとりで死ねば、貴女の罪も最小限で——」
「マリエッタ様!?」
ソフィアの紫の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「な、なんで、なんでそんなこと、おっしゃるのですかぁ……っ」
「えっ」
「わ、わたくし、ただ、お友達になりたかっただけで……っ、お、お菓子も、お毒なんて、入れる訳が……うっ、ううっ」
「あ、あの、ソフィア様」
「ご迷惑、だったのですね……っ、すみません、わたくし、平民育ちで、貴族の方の作法も、よく知らなくて……っ」
……あ、これは。
……これは、まずい。
悪役令嬢が、聖女を泣かせるという、十七人生で何度も繰り返してきた失態の、まさかの自爆バージョン。
「ち、違うのです、ソフィア様。違うのです。わたくし、その、ちょっと、寝不足で。頭がおかしくて。今のは全部、忘れてくださいませ」
「ぐすっ、本当に、ですか……?」
「本当ですとも。お菓子、とてもおいしゅうございました。あと二枚、いただきますわ。ね?」
慌ててクッキーを口に詰め込む。本当においしい。本当に、毒なんて入っていない。
ソフィアが、涙を拭いながら、おそるおそる微笑んだ。
「……マリエッタ様、本当に、お友達に、なってくださいますか」
「……ええ。喜んで」
声が、勝手に答えていた。
*
その日の放課後、私は学園の中庭の噴水のへりに腰掛けて、ぼんやり水面を眺めていた。
わからない。
何も、わからない。
侍女が、優しい。
父が、優しい。
婚約者が、優しい。
聖女が、優しい。
誰も、私を殺そうとしない。
考えうる罠は、全部考えた。
優しくして油断させてから一気に断罪する罠? ありそう。
毒の効きを良くするために体力を回復させる罠? ありそう。
ソフィアが裏で誰かと組んでいる罠? ありそう。
オクタヴィアン殿下の発作的な気の迷い? ありそう。
でも——、
でも、と、頭の片隅で、別の声がする。
もしかしたら、本当に。
もしかしたら、本当に、ただ、優しいだけかもしれない。
「マリエッタ嬢」
声に、また肩が跳ねた。
顔を上げる。オクタヴィアン殿下が、噴水の前に立っていた。今度は、耳は赤くない。代わりに、すごく真剣な顔をしている。
……来た。
来たわ。これが、本命の罠よ。
覚悟を決めて、私は立ち上がった。
「殿下、ご用件は」
「単刀直入に、聞きたい」
「はい」
「君は、最近、何かに悩んでいるのか」
「は」
「君はずっと、何かに怯えている。誰かを警戒している。その、私には、その理由がよくわからない」
「……」
「君は、聡明で、芯が強くて、——その、可愛らしくて、本当は、ずっと誰かに頼りたいのに、頼り方を知らない人なのだと思う。違うか」
「……は」
声が、出ない。
「私は、君の婚約者だ。君が困っているなら、力になりたい。誰に脅されているなら、私が排除する。何が嫌なら、私が変えさせる。だから、——」
オクタヴィアン殿下が、片膝をついた。
噴水の前で、私の手を取って。
「マリエッタ。私は、君が、好きだ」
……。
……。
……ぐにゃり、と、世界が歪んだ。
膝から力が抜けて、私は噴水のへりに座り込んだ。視界が滲む。鼻の奥が、痛い。
「も、もう、いやです……」
「マリエッタ嬢?」
「もう、わたくしを、殺さないでください……」
「は」
「十七回もです。十七回も殺されたのです。もう、優しくしないでください、お願いです、お願いですから、いっそ、はっきり、断罪してくださいませ。修道院でも、毒杯でも、断頭台でも、なんでも構いませんから、こんな、こんな、優しいの、はじめてで、わたくし、わたくし、どうしていいか、わからな……っ」
ぼろぼろ、と涙が止まらなかった。
オクタヴィアン殿下は、何か言いたげに口を開けて、閉じて、また開けて、また閉じて、最終的に、片膝をついたまま、おろおろと私の頬に手を伸ばした。
「あ、あの、マリエッタ嬢、その、十七回というのは——」
「人生、十七回目です」
「は」
「皆様にとっては、初めての人生でしょうけれど、わたくしには、十七回目です。これまで毎回、どこかで誰かに殺されてきたのです。今回もそうなると思っていたから、覚悟していたのに、なのに、皆さんが、皆さんが、優しすぎて、わ、わたくし、どう、すれば」
「なるほど」
「えっ」
「……なるほど」
オクタヴィアン殿下は、もう一度繰り返してから、ゆっくりと頷いた。
信じてくれた、わけではないだろう。たぶん、頭のおかしい令嬢の世迷いごとを、とりあえず受け止めてくれただけだ。
でも、その目の中に、嘲りはなかった。
「マリエッタ嬢」
「はい」
「事情は、よくわからないが、ひとつだけ、約束する」
「はい」
「君が十八回目を迎えることは、ない。少なくとも、私の目の届く範囲では、絶対に」
……。
堰を切ったように、涙が溢れた。
オクタヴィアン殿下が、おろおろと、ハンカチを差し出してくれる。手つきが下手で、半分くらい私の鼻に押し当てる形になった。
……ふふ。
泣いている最中なのに、なぜか、笑いが漏れた。
*
その夜、寝台の中で、私はようやく気づいた。
考えてみれば。
最初の人生で婚約破棄された日、私はオクタヴィアン殿下に向かって「殿下のような無能と婚約していたのは時間の無駄でしたわ」と言い放っていた。
二回目で馬車事故に遭った日、私は御者に三度も鞭打ちを命じていた。
三回目で階段から押された日、私はその直前、屋敷の侍女頭を理由もなく解雇していた。
毒、毒、毒の連続だった頃、私は紅茶の温度が気に入らないと言っては、毎日のように侍女を叱責していた。
十一回目、結婚式当日に刺された時、私は花婿の胸ポケットに前夜から「処分しておけ」と書いた手紙を忍ばせていた。誰宛て、とも書かずに。
……。
……もしかして。
もしかして、なのだけれど。
わたくしが、これまで、ちょっと、性格が、悪かっただけ、では?
そして今回——
今回は、十六回目で完全に諦めて、もう抗うのをやめて、優雅に紅茶を飲んで優雅に死のうと、誰にも何も求めず、ただ穏やかに過ごそうとしていた。
侍女に毒を疑う以外、誰も叱責しなかった。
誰にも嫌味を言わなかった。
誰にも命令しなかった。
ただ、静かに、生きていた。
……。
……気づくの、十七回目か。
枕に顔を埋めて、私はくぐもった声でうめいた。
窓の外、月が、信じられないくらい綺麗な丸い形をしていた。
明日の朝、アンナに、「ありがとう」と言ってみよう、と思った。
たぶん、人生で初めて。
たぶん、それから、ようやく、十七回目が、本当に始まる。
お読みいただきありがとうございました!




